前置きはこのくらいにして本題に入る。
とんねるずなどが使う業界用語として逆さ読みがある。例えば、素人のことをトーシロと逆さに言ってみる。うまいをマイウと、逆さに言ってみる。これを逆さ読みという。これなどはテレビの業界用語だと思われているが、実はこのような逆さ読みは江戸時代から伝わる隠語であるのだ。たとえば、売れなくなった役者や歌手が地方巡業することをドサ回りというけれど、これも逆さ読みである。
話は変わるが、私は新潟県は佐渡島に生まれた。佐渡島には能舞台が多い。大町桂月の句に 「鶯や 十戸の村の 能舞台」という佐渡を呼んだ句があるが、それほど能舞台の多いところである。文化芸能が盛んであったのだ。なので全国からいろいろな芸能人が佐渡にやってきた。なにしろ金が大量にとれるし、天領なので年貢は低い。だから金払いもいいから大勢の芸能人が荒稼ぎした。そこから荒稼ぎする場所として佐渡に行く事をドサ回りといった。佐渡を逆さに呼んだのである。いわゆる業界用語=隠語である。
ここで出雲阿国(いずもおくに)と言う歩き巫女がでてくる。出雲大社の寄付金を集めるために全国を放浪する女性芸能人である。いろんな地方に出張し、そこで出雲の御神楽を見せる。今で言えばオランダの飾窓のようなものである。御神楽で歩き巫女、いわゆる女性の姿を人々に披露する。そして夜は、金を積んだ男のもとに行き一夜を過ごすのである。そうやってお金をどんどん稼ぐのだが、ある程度お金が貯まってくると、もう売春のようなことをしなくてもよくなる。なにしろ金を持っているので、故郷に錦を飾りたいというか、文化の中心地で自分たちの芸を見せびらかしたいと思ったわけだ。そこで京都に現れて、豪華絢爛な衣装を着飾って、ものすごい派手な御神楽を見せるわけである。
それがどんな状態だったかと言うと、これが不思議なことに全く同じような映画が北軽井沢大舞台に作られていた。高峰秀子主演の「カルメン故郷に帰る」である。カルメンという踊り子が故郷の北軽井沢に錦を飾ろうと帰るのであるが、そこで芸術と称するストリップショーをやるわけだ。それを親族や校長先生などが恥じるわけだが、地元の人たちは大喜びで拍手喝采すると言う映画である。これと同じことが、京都で起きたのだ。出雲阿国と言う歩き巫女が、派手な衣装を着て京都でえげつない踊りをしたのである。
歌舞伎はここから生まれたのだ。
しかし、まもなく出雲阿国の女歌舞伎は幕府によって、風紀を乱すということで禁止されることになる。売春と芝居が表裏一体になっているので、当然といえば当然である。歌舞伎が男たちだけで演じられているのは、そういう背景があったからである。
さて歌舞伎であるが、江戸時代では芝居と言われていた。つまり大衆の娯楽であった。ところが、江戸時代は260年の長きにわたって続いていく。そして大衆の娯楽であった芝居も次第に古典となっていき、通が好む伝統芸能となっていく。年輪を刻むうちに技術と芸術が磨かれて行って、徐々に難解になっていくのだ。そして今の歌舞伎に至るわけだが、明治維新のあとに西洋の演劇に接することによって衝撃を受けた。あまりにも歌舞伎と違っていたからだ。
そこで、脱歌舞伎運動が始まる。坪内逍遥の文芸協会は、素人を役者にすることによって脱歌舞伎を目指した。 2代目左団次は、その逆で歌舞伎役者を素人にする方向で、脱歌舞伎を目指した。若月紫蘭の新劇研究所はどうかというと、どちらかというと坪内逍遥の文芸協会に近い。
ところがである。いろいろな人たちが脱歌舞伎を目指したのだが、まったくもって脱歌舞伎になってなかったのだ。たとえば坪内逍遥は、 9代目団十郎を理想とした演劇を目指していた。脱歌舞伎なのに、9代目団十郎をお手本にしてるわけだから脱歌舞伎もへったくれもない。
当然のことながら若月紫蘭も似たようなものである。彼の新劇研究所の講義などは、まず姿勢から入っていった。姿勢を正して、台本を高く腕に持ち、それを朗々と読み上げるのである。リアリティーもへったくれもない。腹に力を入れて、大声で台詞を言うのであるから、やはり歌舞伎の延長線上にあったようなものだ。それにずっと不満を抱いていた人がいた。天笠貞という小学校の教員である。後の横山祐吉の奥さんになる人であった。
つづく。
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若衆歌舞伎も、阿国らと一緒で、やはり、男色趣味のお客をとったそうです。まあ、その頃は、男色に偏見ない時代だったそうだから、余計に流行ったんでしょうね。で、若衆歌舞伎が禁止されてからも、いわゆる陰間茶屋といって、女形(歌舞伎の女役)見習い、または、女形になり損ねた若衆が体を売っていたようです。
そうですよね。
明治期の日本のインテリも、結局、芝居、であった歌舞伎が演劇のベースになるんですよね。
新劇の養成所でも、歌舞伎十八番の外郎(ういろう)売りの有名な台詞を台詞回しの練習教材に選んでるのも、逍遙の文芸協会以来の名残ではないかと愚考します。
そういえば、鈴木忠志さんという演出家は1980年代において、能の摺り足などの動きを身体訓練に取り入れていました。
紫蘭の稽古での台本の持ち方とか、台詞を言う姿勢なぞは、1980年代〜1990年代の小劇場などで、新劇を揶揄するパロディとして、真似されてた典型ですよね。
それにしても、早くから、それを妙だと感じていた、天笠さんは、なかなか進取の感覚の持ち主だったんですね。
>紫蘭の稽古での台本の持ち方とか、台詞を言う姿勢なぞは、1980年代〜1990年代の小劇場などで、新劇を揶揄するパロディとして、真似されてた典型ですよね。
これは初めて知りました。いや、どこかで見たことがあったのかもしれないが、当時は気づかなかったと思います。今ならわかります。なぜそのような読み方をしたのかも今ならわかります。しかし、当時はわからなかったでしょうね。どうしてわからなかったのか? そこをもう一度考えてみたら、思い当たるところがありました。映画をやっていたくせに私は歌舞伎を見たことがなかったのです。当然のことながら、新劇の本質がわからなかった。逆に言うと、西洋演劇の本質もわからなかったんですね。昭和時代の映画青年は、歌舞伎や新劇に目もくれず、一生懸命にエイゼンシュタインなどのソ連映画を見ていたのです。そして、麻疹にかかるようにモンタージュ理論に熱中したわけです。それらは、唯物論的で、歌舞伎とは真逆の方向だったので、どうしても古典芸能に興味が持てなかったのでしょう。しかしそのために、とても大切なことを当時は見落としていましたね。