今日、蔵王山に噴火警報が公表された。
去年の御岳噴火こともあるので、気をつけてほしい。
http://www.jma.go.jp/jp/volcano/forecast_02_20150413133028.html
レベル3(入山規制) 3月31日の御嶽山以来の警報である。
火口から1.2kmの範囲は警戒してほしい。
それはともかくとして、近いうちに嫁さんの父親の23回忌がある。嫁さんは、あたふたと準備をしている。香典袋を探したり、あまり使ったことのない喪服や革靴を探したりしている。なにしろ北軽井沢の田舎に住んでいるものだから、普段から革靴など履いたたことがない。どこに片付けたか分からなくて探し回っている。ふだんはゴム長靴か登山靴以外はいたことがないからだ。ちなみに、嫁さんの実家は曹洞宗である。群馬は曹洞宗がやたらと多い。
私の祖母が死んだ時は、真言宗であった。佐渡島にある小比叡と言うお寺のお坊さんが葬式を行った。小比叡というのは、比叡山のミニバージョンという意味らしいが、比叡山は天台宗だったはずだ。なぜ小比叡なのに真言宗なのか謎である。
まぁそんな事はどうでもいいとして、祖母が死んだときに初めて真言宗の葬式を体験したわけだが、目が点になるような葬式だった。何人もの僧侶がやってきて、声明(しょうみょう)という歌を聞かされた。お経を謡曲のように歌うのであるが、さながら日本版ウィーン中年合唱団のような感じである。その上、葬式に来ていた人たちみんなで何やら怪しい踊りを踊っていたのにも目が点になったものである。その後、お坊さんが、いろいろな呪いみたいなことを、事あるごとにやっていた。いかにも密教という感じであった。
それから比べると曹洞宗のお葬式は、かなり簡素である。密教のような怪しさもないし、お経も素人の耳で聞き取れるようにハキハキと上げている。そして僧侶の話がうまいし面白い。おまけに、 1人1人に色々な言葉をかける。例えて言うならば真言宗がカトリックだとすると、曹洞宗はプロテスタントのような雰囲気がある。
長い前置きはこのくらいにして、香典について話したい。事の起こりは嫁さんが、香典にいくら包むかという疑問から、インターネットで調べたことから始まる。そして、香典についての豆知識を得た。そして私に語りかけた。
「お供え物は、お供えした後にお墓から持ち帰らなければいけないの知っていた?」
「カラスが食べちゃうからね」
「それもあるけれど、仏様は香りしか食べられないらしいよ。だから香典も『香り』と言う文字を使うんだって。仏様には香りを食べてもらって、お供えは、お墓から持ち帰るのが礼儀なんだって」
嫁さんはインターネットの豆知識を披露した。
なので私もお返しに自分の知ってる話を披露した。
私の豆知識は、ネットではなく本から得たものである。
「昔はね、お墓にお供え物を置いて帰ったんだよ。そのまま持ち帰らなかった。これは群馬県の話なんだけれどね」
「どうして?」
「お墓のあたりには、食うや食わずの子供たちや、子供を背負って放浪している女の人たちが、こっそり隠れていたんだ。そしてお供え物をいただいて命をつないでいたらしい。だから明治大正の頃は、お供え物を持ち帰らなかった」
「お供えをとった人に仏罰は?」
「ないない。喜捨だから。仏様には香りを差し上げたのでそれでおしまい。残ったお供え物は、貧しい人に持っていってもらうことによって、善を積み重ねることができるので、これはこれでいい。群馬県の昔の農家には、そういう風習があった。昔は福祉施設がなかったから、このように貧しい人にお布施をしたわけさ」
「うーん」
「場合によっては、お墓でお祈りしてる時に、我慢が出来なくて、お墓の後ろから手が出てきて、お供え物とっていく人もいたらしいけれど、それも黙認していた」
「・・・」
「でもそういう人たちは、人様から物乞いをしたくない。いわゆる少しばかりのプライドのある人たちなんだよね。顔を隠してこっそりお供え物をもらうわけだから。もっと困っていた人たちは、直接、 1軒1軒家を回って物乞いをした」
「・・・」
「そういう場合は、どの家でも必ずなにがしかのお布施をした。恥を忍んで家を回るのはよほどのことだと察したわけだ。つまり、当時の日本人は、よほどのことがない限り、そういうことをしなかった。よほどの事だったから喜んで布施をした。むしろ布施行として喜んでやった。あと、お布施は、すぐに食べられるものをあげた。お金をあげても、昔の事だから、コンビニで食料を買うこともできない。店なんかなかったからね。かといって、お米をあげても、生で食べるわけにもいかない。だから、握り飯とか、お菓子をあげたりした」
「・・・」
「これが平成時代なると、生活保護を受けられずに餓死する人がニュースになったりしているのに、ベンツに乗って生活保護を不正にもらっている人たちもいる。お供え物もカラスが食べ散らかすから持ち帰らなければならなくなった。」
つづく。
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そういうものって、土着的なものなんですか?
フランスにいた時、イスラム圏の人を嫌うフランスの人が、
「イスラム圏の人はモスクを建てることを求めるけど(嫌がられる理由の一つでありながら、信仰の問題なので一応その人も認めている)、日本人が神社を建てろって言ってるようなものだよね、日本人は誰もそれを求めないけど。(=だから彼らは主張ばかりしている、とも、日本人も建ててもいいのにというニュアンス)」と言ってました。
でも、フランスに神社建てられても、神さまいなさそうだよねーと日本人同士話していて、日本の神社って土着的なものだったんだな、と気づいたことがあったので、ちょっと気になりました。
そもそも、神社とお寺の違いなので基本的に話がずれていたらすみません。
そもそも、信仰とそういう宗派が私の中では別もののように捉えているので、どのようにつながっているのかもそういえばよく分かっていないなと気づきました。
真言宗と曹洞宗に関して言えば、むしろ逆ですね。真言宗は、空海が生きていた頃に東洋のスタンダードだった密教が元になっています。密教というのは、秘密の教えという意味ではなくて、悟りを開く方法は、人間の言葉では教えられないくらい難しいという意味です。曹洞宗に至っては、創設者の道元は、宗派でさえ無いと言い切っています。
土着的なものといえば、むしろ神社の方では無いでしょうか? たいていの神社は古墳の上にありますから、あれはお墓の1種ですね。死者の祟りを防ぐためにお参りをする場所が、神社となっています。だからフランスには神社がないのですよ。もしフランスに、大量の日本人がいて、その中に祟りをもたらしそうな人がいたら、神社ができるかもしれませんね。
ところで、日本では人が死ぬと、魂は山に行くと言われています。つまり古墳の中にいるわけでは無いわけです。もちろん神社の中にも魂つまり神様はいません。神様はどっかにいるわけです。そして私たちとは縁が切れているわけなんですが、その神様を呼び出したいときは、神社のようなものをつくって、両手を叩くわけです。するとどこからか、神様が降りてくる。神社に神様がいるわけではないんですね。あれは神様が降りやすくするためのものであるわけです。だから、別に神社はなくてもいいんですよ。地域によっては、大きな岩にしめ縄を張って、そこに神様が降りてくると言う地域もあります。そういう場合は、神社の形をしていませんね。
しかし、仏教が入ってくるとともに、日本人は神社のことをもう一回考え直します。仏教というのは圧倒的存在だったので、そーゆー偉い仏様が、日本に遅れて登場する訳がないと考えました。そんだけ偉いなら、世界に同時に現れるはずだと。インドだけ先に現れて差別する訳がないと。ではどうして、インドに先に現れたのだろうかと考えたわけです。そして日本人は、こういう結論を出したんですね。
仏様は世界同時に現れている。しかしそれを仏様だと気がつけない国は、ある国では神様として認識する。ある国ではゴッドだと認識する。ある国では
☆☆だと認識する。つまり当時の文化水準によって、認識の仕方が違ってくるわけで、それが神社やキリスト教やイスラム教や仏教という形に変わって現れる。けれど元々は1つなんだと考えました。これを本地垂迹説と言います。
こういう考えが日本人の常識に成ってくるわけです。だからキリスト教が伝来したときに、日本人は宣教師を「そんなに偉い神様なら、何でお前のところだけ先にやってきたんだ。世界同時に現れなければおかしいだろう? 」とからかっています。それをザビエルがローマに報告して、日本人は、ただ者ではないと驚いています。
でも、言われてみればそうですよね。岩や古墳や大木のしめ縄、見たことがありました。柏手は神様を呼び出すためということも知ってました。それなのに、よくわかっていませんでした。
本地垂迹説、まさに私が思っている考え方で、やっぱり私は日本人だなぁと思ったし、日本の人には既にもっている、根ざしている考え方だと思います(自分がそういう考え方を持っていることに気づいていない人も多いように思いますが)。ちゃんと説として書いてあったんですね。
でも、仏教が来たとき、キリスト教が来たとき、日本人がそういう考え方を既に持っていたとは、そんなやりとりがあったとは、全くの初耳でした。
八百万の考え方が基本的にあったから、他が来た時もとりあえず受け入れたのだと思っていましたが、本地垂迹説という考え方がすでにあったと言われれば、スッキリと理解できます。
仏教に色々な宗派があることは未だになんでだろうと思います(一応調べて経緯は知りましたが、同じものを目指しているのになんで違うやり方になるのか納得できない)。あまりに色々あるので、インド・中国から来た仏教が土着的なものではないだろうと分かりそうなものなのに、地域によって何か違いがあったからなのかなと、ふと思ってしまいました。
でも、聞いてみて、よかったです。スッキリしたことが沢山…!
ありがとうございます。
そうでしたか。宗教を相対的に見られる人間にしか、こういう発想は出てきません。最近は、キリスト教徒の1部からも、本地垂迹説を認めるような発言が出てきています。
>仏教に色々な宗派があることは未だになんでだろうと思います
これは簡単です。もともと仏教は、たくさんの宗派ができるようなシステムの宗教なのですよ。
この逆がキリスト教やイスラム教やユダヤ教で、宗派があること自体が絶対にありえない。この3つは契約の宗教で、契約に違反してはいけない。そして契約に対する解釈が複数あってはならない。解釈はたったの1つというのが、一神教の考え方です。だから、いちばん人を殺す宗教が一神教と言われています。
特にキリスト教は、世界でいちばん人を殺す宗教かもしれません。なぜならば、キリスト教でいちばん重要な事は、細かい契約を守ることよりも、信じるということが重視されているからです。ユダヤ教でもイスラム教でも、彼らの聖典には、一応殺してはいけないと書いてあるわけです。ところがキリスト教は、信じるということが重要になっています。あまり細かいルールで縛られてないんですよね。信じればオッケーみたらところがあって、そのために大勢の人々が死んでたりします。
これに対して仏教には、契約なんてものはありません。悟りを開くのが目的ですから、そのための方法は自由です。だから方法の数だけお経があります。
例えて言うと富士山に登るという目的の場合は、どこから登っても良い。登る方法も自由です。馬で登ってもいいし、ヘリコプターで登ってもいいし、歩いて登ってもいい。その方法の違いから、たくさんの宗派ができます。だから仏教は、いくらでも宗派が生まれるし、方法の違いで喧嘩しても意味がないですから。
あと、仏教の本質的な考えの中に「方便」というものがあります。
嘘も方便の方便です。
これは、 3歳児に難しい言葉を使って仏教を教えることができないので、簡単な言葉で仏教を教えるといった感じです。簡単な言葉を使うわけですから、正確な知識を与えるわけではありません。厳密に言うと、間違いもあったりするけれど、それを3歳児に押し付けてもわからないわけです。だから赤ちゃん言葉で教えたりする。これが方便です。
逆に言うと、どんなに頭の良い人間も、お釈迦様にしてみたら3歳児みたいなものかもしれない。人によっては1歳児レベルの人間もいるかもしれない。だから、 3歳児には3歳児の教え方がある。 1歳児には1歳児の教え方がある。人間の発達段階によって、教え方を変えるというのが方便です。だから、お経に色々な種類があるのはこのためです。
この考え方を、もう少し発達させると、本遅垂迹説に到着します。
一応、クリスチャンの立場から反論させていただきます。
確かに、キリスト教は信じる、ということは基本です。
イエス・キリストの十字架の死により、私たちは神様との関係を回復し、イエスの復活により永遠の命(イエスの再臨の裁きで、救われて、天の国で生きられる)ということを信じることが大前提です。
だからといって、人を殺していいなんて、教えてません。
十戒(モーセで有名なもの)は、ユダヤ教はもちろん、キリスト教でも重視しています。
その中に、「殺してはいけない」と、はっきり、神様から告げられています。
キリスト教では、本当に、イエスさまに救われた者は、十戒に書かれているようなことは、守ることが自然にできるはずだよ、と、教えています。
歴史上、十字軍を始め、キリスト教勢力を名乗る者たちが、武力をもって、戦争を引き起こしています。
まぁ、近いところでいえば、湾岸戦争(もう結構遠いか…)とかもそうだけど。
それはですね、結局のところ、福音(イエスの十字架の死と復活により起こる救いのお知らせ)から離れたところで起こったことなのです。
たとえば、イスラム教徒を語るISILの連中がテロに走っているのを一緒です。
教えから離れている異端なこと、罪なのです。
人間は、イエス・キリストに救われながらも、自己中心的な魂(これを「肉」とか「自我」とも「欲」言います)がもたげてきます。
そこで、キリストの教えに踏みとどまれるか、サタンの誘惑(実際は、自分の「欲」の暴走)に載って、罪を犯すかという選択が迫られますが、まぁ、あらまほしきクリスチャンの在り方としては、「キリストならば、どうするだろう」と踏みとどまって選択する訳です。
ただ、権力や利益に影響され、目がくらみ、欲に満ちた自分自身に戻って、福音から離れてしまう者が、いる訳です。
だから、基本的に、クリスチャンは、世俗的な権威からは、距離をたもとうとしますし、政治などには関わらない。でも、社会秩序は守る、という姿勢をとりなさい、と、されています。
そして、自分のやらかしたことを、神の前に悔い改めるならば、神に赦され、やり直せる、ということもありますが、その辺を考え違いしている者が、クリスチャンでありながら、世の中の秩序を乱すのでしょう。
神様の権威を傘にきて、自分の要求や欲求を通そうするところも、十戒で戒められています。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と。
これは、神様の権威を手前勝手に乱用するな、ということです。
十字軍やら、パパ・ブッシュ時代の湾岸戦争なんて、まさに、コレです。
そのような乱用をしないように、クリスチャンだと名乗るからには、互いに肝に銘じるべきだとは思います。
見当違いな反論だったら、スルーしてくださいm(__)m
聖書には、いみじくも、こう書かれています。
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子を呼ばれる」
人を殺す、という行為は、関係性のもっとも最悪な破綻の状態です。
神と人、人と人の平和をこそ願う教えで、もっとも忌避される行為です。
よって、人を殺していい、と言い出す辺りで、それは、クリスチャンではなく、偽の教えで、導く者たちということになります。
>例えて言うと富士山に登るという目的の場合は…
そうなんですけど、日本という狭い範囲での、さらに仏教というある程度の考え方という同じ土壌がありながら、こんなに沢山あるっていうことが単純に不思議というか…
世界中にいろんな言語があることが、同じ人間が生きる上で言葉が必要になったから出てきたという条件は同じはずなのに、こんなにも色々あることが不思議なのと同じような感覚です。
きっと、考え方はあっても、信仰そのものが私にはないから、宗教を遠くから眺めて捉えることはできても、信仰していたら到達しようと思う、そのための“手段“には、私はあまり興味がもてないのかもしれません。
遠くから眺めて不思議だなーと思っているだけというか…。そんな気がしてきました 笑
でも、突っ込んで調べたり考えたりしたら、方便、のように面白い発見も沢山あるのでしょうね。
たしかに欧米で「キリスト教徒」や「キリスト教国」の名のもとに行なわれてきた悲惨な争いは、聖書の教えに全く逆行したもので、彼らが聖書の教えに生きていたなら、あのようなことは、決して起きなかったでしょうね。特に三十年戦争でドイツの人口が三分の一になったとか、1800万から700万に減ったとかいわれていますから、これが本当ならカンボジアでのポルポト派の虐殺以上の被害です。(カンボジアでの虐殺は人口の2割から3割)
しかし、そのおかげでヨーロッパ人は学習して、宗教で争うのはやめようということになりましたね。そして、この反省から良心の自由や、基本的人権や、法治主義といった遺産を手に入れています。大勢の老婆(大半がユダヤ人)を殺した魔女狩りなんかも、そこからの反省で推定無罪の近代的な裁判制度が確立しています。だからどんな罪人でも、反対尋問権はあるし、違法な手続きによる証拠は認められていません。つまり、そういう歴史があったからこそ、近代的な文明の遺産が手に入っています。善悪は別にして、これらの遺産はキリスト教がなかったら、人類は手にしてなかったかもしれません。
逆にアメリカなんかは、ヨーロッパ人に比べて、この辺の歴史を重視してないためか、 3,000万人いたと言われているアメリカ先住民の大半を消滅させています。また、世界中でバカなことばかりしています。結果としてアルカイダやISILなんかを育てていますから。マッカーサーなんかも靖国神社をつぶしてドックレース場を作ろうとしています。それを止めさせたのは、イエズス会の神父さんたちです。ヨーロッパ人たちが、必死になって止めたんです。宗教戦争を体験しているヨーロッパ人は、そんな事したらとんでもないことになると知っているから、マッカーサーに怒ったわけです。しかし、アメリカ人には、その辺あたりの理解があまりなかったようです。
また、マッカーサーや占領軍が無茶苦茶なことをしすると、日本YMCAの元名誉主事R.L.ダーギンが積極的に日本を擁護しました。ダーギンは、日本ユースホステル協会を作った横山祐吉の師匠でもありますが、長いこと日本に住んでいたために日本の立場をよく理解していました。なので戦前の日本を誤解しているアメリカ人に対して、粘り強い説得をして、GHQから日本を守ってくれています。彼も、日本史とヨーロッパ史(宗教戦争)をよく理解している1人でした。
まるさん
一神教と仏教は、号令と訓令の違いみたいなもんです。
一神教は、号令の宗教です。
号令というのは、いわゆる「右向け右」みたいなものです。
訓令というのは、「富士山に登りなさい」みたいなものです。
号令だと、言われた通りに動けばいいだけですが、訓令だと、まず富士山がどこにあるのか調べるところから始まって、そこに行く方法を自分で考えて、そのための準備を自分でして、一生懸命動かなければならない。しかもそれぞれ出発点は全部違う。それを1人1人が、別々に考えるわけですから、富士山に登る方法は、登ろうとする人の数だけできてしまう可能性がある。つまり、そもそも仏教というのは、たくさんに細分化される可能性のある宗教なんですね。ある意味、不親切な宗教というか、めんどくさいところがある宗教なんです。だって右向け右の方が頭使わなくていいし楽ですから。そう意味で、世界中の僧侶の苦労は大変でしょうね。
ちなみに私もほぼ無宗教です。ただし、困ったときだけ神頼みしますから、無神論者というわけではありません。正月に神社に行くし、クリスマスイブには教会にも行くし、旅先ではモスクの見学にも行きます。でも特定の宗教団体に入る気は無いですから、やっぱり無宗教かな?
関係ないですけれど、この辺の感覚は一般的なイギリス人なんかも、日本人とあまり変わりませんね。その逆がアメリカ人で信心ぶかい人が多いですね。
横レスです。
仏教にしろ、実は、キリスト教にしろ、宗派というものは別れています。
それがなぜなのかという意味では、仏教の場合、阿弥陀如来を本尊にするか、大日如来を本尊にするか、薬師寺如来を本尊にするか、というところにも起因しますが、特に、どの仏教のお経を重視するか、で決まるそうですよ。
また、仏教の戒律を厳しく守るか、または、僧職にあっても、妻帯が許されるかどうかとか、そういうムードの差もあると聞いてます。
たとえば、盲目の中国僧・鑑真が開いた奈良の唐招提寺は、律宗と言いますが、この宗派は、戒律に厳しく、僧職にあるものは、妻帯もゆるされないとされていました(今は、どうなのかな?)。で、戒律を守り、修行する者が救われるという考え方だそうです。奈良時代は、その戒律が伝わってなかったので、鑑真を呼ぶことに熱心だったらしいですね。
一方、奈良時代より時代下って、平安末期に現れたのが、浄土宗で、修行を特別にしなくても、法然は念仏を唱えるだけで、極楽へ行ける、と説いています。いわゆる他力本願の仏教。
法然よりも、さらに進めたのが、親鸞の浄土真宗で、僧職にある者も妻帯していい、悪人こそ救われなければならない、念仏さえ唱えれば、誰でも救われる。
仏教の中でも、割りとキリスト教に近いラインなのが、この浄土真宗と言われています。
それから、臨済宗の栄西が伝えたことは、当時の宋王朝の流行りの仏教である、禅宗と呼ばれる一派です。
曹洞宗の道元は、座禅を組み、修行することで、悟りを求める。ものすごく、シンプルな生活を徹底して修行していくことを説いています。
曹洞宗って、どちらかと言えば、田舎にあるイメージなのは、つまり、彼らが悟りを開くのに、適した贅沢から離れられる土地でもあったのではないか、と、私は、愚考します。
そして、興味深いのは、法然しろ、栄西にしろ、彼らは、天台宗の総本山、延暦寺の学僧だったことがあります。
平安時代初期に、最澄が比叡山に延暦寺を開いて以来、仏教の経典から学ぶなら、ここ(天台宗は、経典から学ぶことを基本にしている宗派です)、と言われていたのですが、堕落が始まっていたんですね。
キリスト教の場合は、大きく分けて、カトリックとプロテスタントです。
ローマ法皇のカトリックの腐敗は、法皇と法皇が使わす司教が世俗権力と結び付きすぎたことから始まっており、それを嫌ったルターが、ラテン語の聖書しかないから、庶民がキリストの教えに触れるには、司教や神父を通してしかできないことをなげき、庶民も分かるドイツ語の聖書訳をし、聖書を中心として学ぶプロテスタント(ローマ法皇に反抗するもの)として立ち上がりました。
その後、ルターのあと、カルバンが現れ、プロテスタントもいろいろと枝分かれしていき、プロテスタントは、相当な数の宗派があります。
なぜ、そうなるのか?
父と子と聖霊なる三位一体の神を信じ、聖書を生活と教えの規範とすることを信じるけど、信仰に対するムードが違う、というところで、幅が出ています。
ちなみに、現代は、カトリックもプロテスタントも歩み寄りの姿勢があり、カトリックの神父とプロテスタントの牧師が共同で聖書を訳した、新共同訳というものがあります。
カトリックにも、今、神父だけでなく、信徒にも、聖書を読んでもらおうという動きがあるらしいです。
ま、つまり、大雑把にいえば、仏教にしろ、キリスト教にしろ、分派していくのは、信仰に対する姿勢の違い、または、前にあった勢力の腐敗・堕落を嫌い、分派するという運動が起こるのが原因だと思われます。
人は一人一人違うことを考えるものなんですね。
たぶんそのスタートラインに、なにが違うことを考えるきっかけになるんだろう、と思ってしまったんですね。私は。
私は、無宗教ですが、信仰と言われると曖昧です。
というか、信仰と考え方、とはどう違うのかが曖昧に感じてきました。
本地垂迹説の考え方を無意識でずっと持ってました。あちこちへ行って、キリスト教の人とも、イスラム教の人とも話をして、その無意識の考え方をくっきりと、私の考えとして認識するようになったんです(そもそも、そういう考え方を持っていたから、宗教の話もできたのでしょうね)。
でもこの考え方こそ、日本人というか、なんにも信じてないつもりだったのに、もう私に根ざしたものだってことに気がついたら、それは、信仰なのか?と思ったりして。信仰…?単なる考え方?国民性?
アメリカ人の信心深さは、アメリカいったことないですけど、想像できます。あまりに違う人たちの集まりなので、自分は○○であると何かに属して(もしくは私はこういう人、という確立感がないと)いないといられないんじゃないかなぁと。
フランスも、似たところがあると思いますよ。
ISILにパリが狙われた時も、なんとなく納得できました。
移民として受け入れられたものの、どこか排他的な中で育った、フランス人でもなく母国の人間でもありきれない人たちが、自分とは何かみたいなことを考えたとき、母国の信仰であるイスラム教というものを捻じ曲げて理解し、信じ込んだ結果がISILだと思います。