2015年06月03日

映画ができるらしいので久しぶりに小串鉱山を語ってみる

小串鉱山ハイキング

小串鉱山のある毛無峠は、このあたりで最も気候が厳しいところだ。これは、嬬恋村に住んでないと分からない。長野県の人には、分かりようがないのだ。というのも、嬬恋村に住んでいると、最初に雪で真っ白になるのが、あのあたりなのである。それから毛無峠の横に破風岳という山があるが、風を破る山という意味だが、小串鉱山のある毛無峠は、風の通り道なのだ。厳冬期には、普通に風速二十メートルになる。そんな悪条件下に、嬬恋村における最大都市ができあがった。

それが小串鉱山。

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小串鉱山は、儲かったらしい。
村の男は、みんな出稼ぎに行った。
土地の古老の話では、田畑で稼ぐ十倍の賃金をもらえたらしい。
で、男たちが村に帰ってくると、酒ばっかり飲んで働かなくなった。
このへんからも、かかあ天下の土壌が生まれたとのこと。

 この鉱山には、朝鮮からも大量の出稼ぎがあったらしい。
 戦争中は人手不足だったから彼らは大儲けした。
 札束をリュック一杯になるほど稼いだ。
 なので彼らは北軽井沢あたりまで行って牛を買いに行った。
 その牛を、彼らは生で食べた。
 その光景によほどの衝撃を受けたと土地の古老は言っている。

 農家にとって牛は家族のようなものであり、生で食べる風習はなかったからだ。しかし、働き手を兵隊にとられて貧乏な日本人たちは、それを分けてもらったりした。

 当時、牛は高価な買い物だったので、いかに稼いだかわかるというものである。そして、その牛の骨が万座川や仁田川の川原に、戦後間もない頃に、牛たちの白骨が何十も野ざらしになっていた。その光景を干又の古老が話してくれたことがある。

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 また、ここには悲しい歴史がある。
 昭和12年11月11日午後3時半頃、鉱山北側の斜面が、
 幅約500メートル、長さ1キロにわたって崩落し
 建物35棟が埋没、15棟が焼失したのである。

 死者245名。

 しかも、女子供が大半だった。犠牲になった人の多くは、鉱山で働いていた人ではなく、家族の方だったようだ。そこには31名の児童も含まれていた。

 実は、その時の生き証人が嬬恋村で存命である。2時間かけて走って、嬬恋村役場に向かい救援隊をよんだそうである。普通に歩いたら8時間かかる距離なのに2時間。そして、嬬恋村の人たちが救援に到着したとき多くの人たちが黒こげに焼かれて身元の判別がつきにくかったと言う。そのためか鉱山が復旧するのに2年もかかっている。

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 そして小串鉱山は、人口2100名、従業社員数675名の大鉱山に発展。人口にものをいわせて嬬恋村に議員を多数おくりこんだ。嬬恋村の前村長も、小串鉱山関係者だった。さらに公民館・診療所・小中学校・幼稚園が完備。当時珍しいスーパーマーケットまであった。

 私の知人は、戦時中、小串鉱山に布団を売りに行って大儲けし、その金で結婚式場(館林の羽衣会館)をオープンしたというから鉱山町は、かなり景気が良かったらしい。ちなみに嫁さんは、その結婚式場(館林の羽衣会館)でバイトまでしている。

 ところが戦後、昭和46年7月に閉山。
 小串鉱山跡地は一面の荒野となっている。

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ちなみに私が、どうしてこんなに詳しいかというと、当時をよく知っている人たち数名から何回もヒアリングをしているからである。その人たちも亡くなっている人が多いので、歴史を風化させないために、今回は詳しく書いておいた。

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ところで今回のツアーで、小串鉱山の慰霊祭の準備をしている人たちと遭遇している。

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旧小串鉱山関係者たちが大勢やってきていた。
撮影隊もきており、映画も作られるらしい。
土井君がスタッフの皆さんと名刺交換している。
完成したら是非、みてみたいものである。

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つづく。

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posted by マネージャー at 06:54| Comment(6) | TrackBack(0) | 破風岳・小串鉱山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
南木佳士さんのお父さんも鉱山に行って働いていた様なことが作品中に書かれていますね。小串鉱山とは明示していませんが、そうではないかと読んでいます。
Posted by Aki at 2015年06月03日 22:05
たしかに南木佳士さん、書かれていますね。小串鉱山か、石津鉱山か、吾妻鉱山のどれかでしょうね。小串鉱山だと、あの位置に自宅があるのは不自然なのですが、順当にいくと吾妻鉱山なんですが、小串鉱山も、石津鉱山も、吾妻鉱山も、鉱山そのものに都会があってスーパーや学校があって完結しているので、どうして三原に自宅があるのか不明です。ひよっとして、3つを束ねる仕事だったのか? それとも輸送関係の仕事だったのか? ただ、昔は鉱山技師は、旧帝大卒のエリートが就職するくらいの産業だったらしいので、そういうお父さんだったのか?
Posted by マネージャー at 2015年06月04日 19:14
どこだったのでしょうね。
どの本だったか忘れてしましましたが、三原はお母さんの生家でお母さんは学校の先生をしていたと書かれていた記憶があります。お父さんは鉱山へは単身赴任のような形で行っており、時々帰ってくるということだったとか。
Posted by Aki at 2015年06月07日 06:42
あ、そうですか。お母さんの生家だったなら三原ですね。どうせお父さんは、転勤につぐ転勤でしょうから。しかし、最後には、お父さんが、三原で息をひきとったんですよね。思えば南木佳士さんも変わった人生をお持ちですね。
Posted by マネージャー at 2015年06月07日 18:48
ご紹介いただきましてありがとうございます。
ご覧になった方々は撮影隊ではなく、当時お住まいだった大嶋会長達だと思われます。
この時私たちは一足早く地蔵堂におりました。
映画も無事に209年4月に完成致しました。
http://www.studiomaririn.qcweb.jp/ogushi.html
よろしくお願い申し上げます。
Posted by 道下直樹 at 2019年07月22日 10:13
情報、ありがとうございます。これは凄いことなので、ここで紹介させていただきます。
 製作したのは【スタジオまりりん】
 http://www.studiomaririn.qcweb.jp/

 監督は、道下直樹

 映画は、「記憶 〜雲上のまち小串鉱山〜」
 http://www.studiomaririn.qcweb.jp/ogushi.html

 映画のホームページによれば、
「活況に湧いた山深い町も、災害、不況に襲われ、他の鉱山と供に閉山へと追い込まれた。時代の波にのまれたこのまちを再び緑へと回帰させて行く静かで力強い自然の力を余すところなく綴った映像美とそこに暮らした方々の息吹きを描く。大地滑り、毛無随道などの謎を、風景とインタビューでじっくりと解明してゆく。嬬恋村の山中にひっそりと存在する「小串鉱山」の“新感覚な風景とドキュメンタリーの遺構探訪映画”」
とあります。

 ホームページの製作年表をみると、2005月08月02日 第1回撮影を開始し、2018年04月21日までに第45回の撮影。13年に45回にわたる撮影。しかも監督は、その間に脳硬塞の入院。編集も1年かけてやっている。すごいとしか言いようがない。

私も映画を見なければ・・・・。

Posted by マネージャー at 2019年07月23日 10:46
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