御客さんがすくなくなってきたので、
やっと録画したものを見ることができました。
内容をみてびっくりです。有名どころのスポットは、総スルーだったからです。この放送のテーマは、〜軽井沢はなぜ日本一の避暑地になった!?〜でしたが、実は、このテーマにも、鋭く切り込んでいません。もし、このテーマにこだわるならアブト鉄道やメガネ橋は外せませんし、ショーハウスも亀屋(万平ホテル)も鶴屋も三笠ホテルも外せません。そもそも軽井沢の恩人雨宮敬次郎にふれてないのは何故なんでしょうか? 今の軽井沢は雨宮敬次郎がつくったと言っても言い過ぎで無いのに・・・・・。雨宮敬次郎がいなかったら軽井沢のカラマツ林はなかった。彼の事業で700万本の植樹を行ったわけですから。どうして市村記念館に行かなかったのかなあ?
実はタモリさんは、鉄道オタクなんですよね。だからタモリさんにアブトの道を歩いてもらって、信越線は、東海道線よりも速く開通している謎を解説して欲しかったなあ? そして、ショーハウスができた2年後の明治23年に、英国公使フレイザー夫妻が、旧軽井沢の英国公使館別荘に滞在し、夫人のメアリーが明治32年に『外交官の妻の日本滞在―故郷から故郷への手紙』を英国で出版していることにもふれてほしかったです。
ただ、一つだけ良かったのは、八田別荘を見られたことです。
これは、日本人が建てた別荘1号で、私もはじめて拝見しました。
非常に興味深かったです。
建て主は海軍大佐、八田裕二郎です。八田は、東伏見宮の随行員としてイギリス・フランスに旅行し、明治22年に帰国しましたが、健康を害していました。ヨーロッパのアルプスでの高原療養を見聞していた彼は、北海道、日光、箱根にと空気の清涼な土地を求めましたが、地形の広さ、湿度、交通上などの条件を満たしませんでした。そこで発見したのが軽井沢です。そして別荘を建て、軽井沢で健康をとりもどした彼は、日本赤十字病院長の橋本綱常やドイツ人医師ベルツとともに、夏の転地療養に高原の軽井沢へ別荘を建てることをすすめました。
また、八田裕二郎は学習院の学生をつるや旅館に宿泊させ、健康の増進をはかるとともに、多くの外国人と接して修養の機会とさせました。これらの学生の中には、徳川慶久のように後に別荘を建てた人が多かったといわれ、日本の上流社会に別荘建築が行われる契機となっていきました。こうして軽井沢宿のまわりに別荘が建てられ、明治39年113戸となり、それ以後年々20戸ほどの別荘が増加しています。もちろん大半が外国人所有です。
これらの別荘に住む外国人たちの衣食住でもっとも苦労したのは、食料の調達です。とくに冷蔵庫の発達していなかった当時としては、新鮮な肉と牛乳を確保するのがたいへんでした。ときには、仲間とともに生きた牛を飼って木につないで草を食べさせておき、必要な時に屠殺してみんなで分けたり、乳牛から直接乳をしぼって煮沸して飲んだと言われています。
新鮮な野菜を得るため開拓農家にキャベツを作ってもらったり、「さわや」という八百屋にジャムを作らせたりしました。飲料水は、小川の水をつかっていましたが、赤痢の発生によって、遠くの井戸から人を雇って運ばせました。その時に、雇われたのが「ブラタモリ」に登場していた靴屋の御主人(元旅籠屋さん)です。
そして水運びをしていた御主人に「靴屋になりなさい」とアドバイスしたのも外国人の宣教師さんたちです。彼らにとって軽井沢に靴屋が無いのが不便でしたし、今後も日本人も靴をはくだろうというのも彼らの親切心です。
そして今までの旅龍であった亀屋はMAMPE−HOTEL、旧本陣はKARUINAWA HOTELと看板をかかげ、江戸屋はビーフ・ポーク・マトン・チキンなどの牛肉店、その隣に、魚屋、レース屋、仕立屋、靴屋(ブラタモリにでていましたね)などが軒をつらねました。ほとんどが地元の人々の経営によるものであり、地元民の社会の変化に適応する動きが速かったことが伺えます。このへんが当時の日本人(今の日本人も?)の凄いところです。
ただし外国人の中でも、宣教師たちの生活は正しく質素で、キャベツを買うにも家族にとって必要だけの量を買いますので、大きいのは一個を買わないで半分にして求めました。日本人としては「おまけ」をすることは当然のサービスでしたが、「おまけをするならその分だけ値下げをするのが当然」といって、店主に抗議することもあったといいます。
宣教師の中には、時間を守ること、うそを言わぬこと、簡素な生活、楽しみを自然とスポーツに求めることなど、それまでの宿場時代の生活習慣とは大きく変わった西洋風の生活信条を説いてまわった者もいました。大きなお世話ですが、生活がかかっているので素直に従った日本人も多かったようです。おかげで今でも軽井沢には風俗店もパチンコ屋もありません。コンビニも23時閉店です。夜の軽井沢は開いている店がありません。
しかし、ある宣教師は、日曜日になりますと「今日は安息日ですから店を閉めて下さい」といって町の商店を一軒一軒廻って歩いたといいます。かなり余計なお世話ですが、宣教師に言われた当時の日本人も驚いたと思います。逆に言うと、当時の宣教師たちの布教の仕方が、よく分かって面白いですね。
さて、肝心なブラタモリですが、
「なぜ軽井沢が日本一の避暑地に発展したか?」
という点で、番組で見過ごされている点があります。
信越線の開通です。
昔は、信越線は横川あたりまでしか繋がってなかったんです。その頃は、横川あたりに別荘があったんです。安中。磯部・横川や霧積あたりが避暑地だったんですよ。しかし信越線が新軽井沢に達した頃、中山道の宿場でにぎわっていた軽井沢宿は急激に衰微し、しかも寒い土地で農業ができませんでしたので、まわりの木を切って生活していました。それで大きな木はなくなり、広々とした草原が放置されていました。土地や家が安く手に入るようになったわけです。
それに目をつけたのが、A・C・ショーとディクソンの2人です。2人の力によって外国人が別荘を建てるようになりました。しかも、宿場の人々が、江戸時代以来、お客の接待になれていたので、風習の違う外国人が来てもそれに合わせることが、比較的簡単にできたわけです。気むずかしい大名と、風習の違う外国人。客商売の立場からみたら、どっちも似たようなものですからね。
これ以上書くと、長くなるので、この話の続きは、またの機会にします。
タモリさん、わらっちゃおの真帆おねえさん、このブログ記事読んでよね!
つづく。
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あと、ブラタモリで一つだけ間違いがありました。南軽井沢は、昔は湖だったまでは正解ですが、その後、湿地帯になって明治まで続くんですよね。