長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢57−1
TEL 0267−45−8695 (教育委員会文化振興係)
開館時間 9時 〜 17時 (7〜9月は9時 〜 18時)
休館日
木曜日 ※7月15日 〜 9月15日は無休
(11月4日から翌年3月31まで休館)
軽井沢の歴史は、明治19年に宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーと帝国大学文科講師ディクソンの2人が、旅行の途中に軽井沢を訪れ、景観に心をひかれ、7月上旬に家族をともなって再び訪れたことから始まります。そしてショーとディクソンは、軽井沢の夏のすばらしさについて語り、十数名の友人を誘いって、翌20年にも避暑に来ました。そしてショーは、21年つるや主人佐藤仲右衛門の斡旋で民家を移転改造し、大塚山に別荘を作りました。ディクソンは佐藤万平宅地内に別荘を建てましました。これが軽井沢における避暑別荘のはじめです。
当時軽井沢は、かなり寂れていて空家も多く、外国人には不動産を手に入れやすい状態でした。土地は一坪わずか3銭から高くても12銭ぐらいで、経済的に恵まれていなかった宣教師でも、容易に別荘を持つことができました。当時、蕎麦1杯が2銭くらいなので、蕎麦2杯で2坪の土地が買えたことになります。おまけに夏休み中の2ヵ月を過ごすためのものでしたから、建物も山小屋に近い簡素なつくりでよかったのですね。
ちなみにアレキサンダー・クロフト・ショーは、軽井沢の恩人でもありますが、実は日本の恩人でもあります。彼は、イギリス公使館付の技師としても勤務しており、条約改正の実施に当たっては、日本のために数々の弁護を行っています。
話はかりますが、ショーとディクソンが、軽井沢に初めて来た時に泊まった宿屋が亀屋と言う旅籠屋です。その旅籠屋に万平という養子がおりました。彼は、キリスト教を学び布教活動をしていましたが、26歳の時に旅館を継いで一部を改築して外国人客のための貸間にしました。これが軽井沢の発展の始まりです。
佐藤万平は、さびれた宿場町の復興を、外国人客で盛り返そうとし、外国人好みの土地に万平ホテルを建設したのですが、それだけではあきたらず、同業他社のホテルの建設まで手を貸しています。それが重要文化財の旧三笠ホテルです。
◆重要文化財旧三笠ホテル
長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢1339−342
TEL 0267−42−7072 (旧三笠ホテル)
開館時間 9時〜17時 (入館は16時30分まで)
休館日 年末年始
入館料 大人400円 子供200円(6ヶ所共通券600円)
軽井沢町のホームページによれば、『設計・施工が日本人の手による明治後期の純西洋式の木造ホテル。明治・大正時代を築いた著名人が訪れた面影を今に伝えています。昭和55年5月、国の重要文化財に指定』とありますが、なんとも萎える説明の仕方ですね。これでは、観光客も見学に行こうという気が起きないではないですか。
実はこのホテルは、日本史の舞台裏で大活躍するホテルでもあります。太平洋戦争の時に、東京がアメリカ軍の無差別爆撃によって、丸焼にされてしまったとき、世界中の大使館や公使館が、軽井沢に引っ越しをしてきたんですね。そうなると日本の外務省も仕事ができなくなるわけです。だから、外務省の出張所が軽井沢にできたんですが、その出張所に、この重要文化財の三笠ホテルが使われたわけです。
昭和18年9月には、万平ホテルにソ連とトルコの大使館をはじめフィリピン、スペイン、ポルトガルの公使館が疎開。万平ホテルの近くにドイツ大使館、アフガニスタン大使館が置かれています。特に空襲が激しくなると、40カ国を超える外交官たちが軽井沢に集まっています。そこで、終戦のための和平交渉を行うべく、近衛文麿、鳩山一郎などが動いていました。もちろん外務省も三笠ホテルで色々と動いています。三笠ホテルと言うのは、そういう由緒あるホテルなんですね。
そして終戦後になると、米軍が軽井沢の万平ホテルを襲撃して、ナチスの残党31人を逮捕しています。また日本中に住んでいたドイツ人が、占領軍に逮捕されて、軽井沢に輸送されてきて収容されるわけです。意外に思われるかもしれませんが、米軍は、日本人に対してよりもナチスに厳しかったわけです。旧軽井沢の北側の地域は、そんなドイツ人でいっぱいになったと言われています。また米軍は、ゴルフ場や、万平ホテル、三笠ホテルを取り上げて、アメリカ兵が使い始めました。南軽井沢のアウトレットのよこにある大きな道路は、臨時の飛行場にされてしまいました。
もう一つ言うと、米軍は金を地元に落としませんでした。食料は別のところから運び込んできたようです。そのくせに次から次へと無茶苦茶なことを軽井沢町に要求したようです。例えばドブさらいを行いとか、道路をきれいにしろとか、浅間山をよこせとか、ずいぶんと無茶苦茶な要求をしたようです。しかし、それによって軽井沢町も近代化したところもありました。
さらに米軍は、三笠ホテルにプールまで作りました。もともと三笠ホテルには、プールはなかったのですが、というか軽井沢のような寒いところでプールに入ろうという発想が、アメリカ人の発想なんですね。アメリカ軍は、プールを作っちゃったんです。ヨーロッパ人は、そこまで傲慢では無いと思います。けれど、そしてこれが置き土産となって、終戦後の三笠ホテルにプールができたわけです。
話が脱線しますが、そのプールで用心棒をしていたのが、群馬県ユースホステル協会を設立した故河野功さんです。米軍が帰った後、三笠ホテルには日本人のお金持ちが宿泊するようになって、プールで休むご婦人も増えたわけですが、その中の若い女性を狙って、不良どもが集まってくるわけです。彼らをブロックするために雇われたのが故河野功さんだったりしました。まぁそんな事はどうでもいいんですがね。その時の話が、非常に面白かったんですが、これについてはまた別の機会にお話しします。
最後に観光案内らしく、三笠ホテルを創った人のことについて説明します。三笠ホテルを創ったのは、山本直良と言う人です。男はつらいよシリーズで有名な寅さんの主題歌を作曲をしたことで有名な山本直純(8時だョ!全員集合とか、一年生になったらなんかも作ってますね)のおじいちゃんです。
山本直純のおじいちゃんは三笠山の麓の湯沢一帯約25万坪を買収して、三笠ホテルを作りました。それはもう豪華な作りで、宿泊料も一等12円(当時旅館は1円〜2円)。お客さんを駅まで馬車で迎えに行ったと言います。
しかし、開業以来、閑古鳥が鳴いたと言われており、赤字に次ぐ赤字だったようですね。逆に言うと、そのために宿が痛むことも少なくて、明治38年に建築された割には、保存性も良かったために、重要文化財としての価値が高まったと思います。また、赤字つづきで改築など、万平ホテルみたいに、あまり手を入れてなかったのも重要文化財としての価値を高めたのかもしれません。
https://youtu.be/-kmoFjGacng
これはうちの宿にも言えることで、北軽井沢ブルーベリーYGHは、前のオーナーがお客さんを集客しなかったために、中古であるにもかかわらず、ほとんど新築のままの状態で買うことができたんです。これは私にとっても、かなりラッキーな事でした。まぁそんな事はどうでもいいですよね。
つづく。
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本当に、三笠ホテルの観光案内の説明は残念ですねえ。
なるほど、在日外国人にとって、馴染み深い避暑地でもある軽井沢が、疎開先になるのも納得ですね。
外務省の出先機関が三笠ホテルだったこと、もっと、出してもいいのにー。
それを知ってたら、私、見学に行ったなあ。
ダンナが興味もってくれるか分かりませんが、次回の北軽井沢行きの際は、観に行ってみたいですね。
軽井沢に戦前ドイツ人が多かったのは、気候風土が似ていてゲルマン人好みだったのと教会関係(薔薇十字団)だったのでは・・
進之助さん
軽井沢もボランティアガイドの制度をつくるか、有料ガイドの整備をした方がいいですね。いまの状態だと、宝のもちぐされですよ。あと米軍がナチスの残党を逮捕した時、外国人の多い軽井沢を気に入ったようです。けれど外国の住民たちは、必ずしも米兵を気に入ってなかったようです。