2015年11月27日

ブラタモリ軽井沢について、少し私が解説をプラスします

 録画してあったブラタモリをようやく見ることができました。今回のは、なかなか良かったと思います。ただし、もう少し踏み込んだ解説が欲しかったような気もしますが、時間の制約があって、できなかったんでしょうね。今回は、碓井峠とアプト式鉄道の2つを紹介したわけですが、碓井峠に中山道と言うメインの街道を作った理由について述べていました。

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 碓井峠経由の中山道は、火砕流の上を経路にしているんです。火砕流というのは、気体と固体粒子からなる熱された土煙みたいなもので1000度もある高温の噴出物です。当然のことながら、冷えて固まってしまえば、地面はコンクリートのようになってしまいます。という事は、とても歩きやすいということなんですね。その火砕流でできあがった尾根を歩くルートを江戸時代に整備された中山道で採用されたわけです。それをブラタモリでは、わかりやすく解説していました。

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 ここまでは良いとして、これからは時間がなかったために、番組で解説できなかったところを、少し私が付け足しておこうと思います。

 実は、江戸時代以前においては、碓井峠経由のルートではなかったんですよね。今の国道18号線を通行する、入山峠がメインの道路だったんです。アプトの道と並行に走っている国道18号です。平安時代に整備された東山道は、この国道18号線、つまり入山峠をメインのドールにしていたんです。そうすれば高低差のほとんどない楽な道のりで関東から信州に入れたわけです。このほかにも、さらに傾斜が緩やかな和美峠のルートも古くからありました。この2つは、中山道とは別に物流のルートとしてよく使われました。群馬県ではなかなかコメが取れなかったので、信州から米を輸入したのですが、そのときに使われたのが入山峠と和美峠でした。

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 では、江戸幕府は、なぜ、傾斜の緩い和美峠や、標高差もなく平安時代の昔からあった最短ルートの入山峠を中山道のメインルートとして採用しなかったかというと、防衛庁の理由があったと思われます。関ヶ原のトラウマからわざわざ標高の高い碓井峠越えを選んだと思われます。

 和美峠も入山峠も谷の中をくねくねと曲がりながら通過するわけですが、これは常に崖崩れなどの災害のリスクを抱えてるわけです。当然のことながら、災害が起きたら関ヶ原の合戦のように、天下分け目の戦いに間に合わなくなる可能性があります。それ以前に、真田軍団のようなゲリラ部隊の攻撃を受けて、大軍が各個撃破される可能性も出てきます。なので、江戸幕府が作った中山道は、ほとんどが碓氷峠のような尾根歩きになっているわけです。

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 しかし、その他の裏街道は、谷を通っていたりします。和美峠も、入山峠も、田口峠も、ほとんどの峠が谷を使って最短ルートで移動しているわけです。民間人にとっては、その方が便利だったのでしょう。しかし、素早い軍隊の移動には不向きだったと思われます。そのために、大名行列でも問題ないルートに中山道を作ったわけです。ブラタモリでは、このへんに触れてなかったので、あえて付け加えてみました。


つづく。

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posted by マネージャー at 13:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 横川・妙義山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
Google mapを地形表示にして、なるほどと確認しました。さらに広域図にしていって、目を細めてみていると楽しいですね。碓氷峠付近が関東と信州間の街道になったのはさもありなんと思えてくるし、マクロにみると江戸から尾張までも高低差の少ない場所を選んで街道が通っているのがよくわかります。碓氷峠より和田峠あたりの方が大変そうです。でもなぜ佐久へ抜ける中山道が主に選ばれたのでしょうね。甲州街道ルートがメインになっても良さそうに思えますが。 笹子、小仏峠あたりが険しかったのかな。木曽路よりも伊那路の方がよさそうなのに何故かな、などなど。
Posted by Aki at 2015年11月28日 11:31
木曽路と伊那路については、実際に歩いてはいないので、専門外なんですが、地図をみるかぎり、幕府としては伊那路にするメリットは少ないように思います。中山道の最大のメリットは、行軍日程が計算できることなんですが、東海道は川止めの関係で計算できないんですよね。冬で無ければ中山道は計算できるのが前提ですから、伊那路だと不確定要素がでてくるのではないでしょうか? 甲州街道を中山道と繋げる案もあったと思いますが、なぜか繋げてないのは、甲州が天領であることも関係しているかもしれませんね。

ただ、こちらも歩いてないので、ただの推測です。実際に自分で歩いてみたら、自分なりに新しい発見があるかもしれません。早いはなしが、まだよく分かってないですw。

Posted by マネージャー at 2015年11月28日 22:29
 通りすがりのものです.甲州街道は水運を使うのが難しかったというのが私の考えです.中山道だと倉賀野宿まで運べばあとは利根川舟運で物資を江戸まで運べます.一方甲州街道だと富士川,相模川の水運を使っても,江戸に運ぶためには海の船に物資を載せ替える必要があり,二度手間になります.
 なぜ和田峠を通ったのかという問題の解決は難しいのですが,千曲川経由より距離が短いということぐらいです.標高差がかなりあるので通りたくはないのですが.
Posted by kumakuma at 2015年12月15日 19:27
なるほど、そういう考えもありますね。いずれにしても一度歩いてみたら何かつかめるかもしれません。いつか歩いてみようと思っています。
Posted by マネージャー at 2015年12月19日 22:56
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