無理もないです。
自分もそうしたいです。
けれど、それをやったらだれも出席する人がいなくなります。欠席したいけれど欠席できない状態が続きいました。なので午前中はウィンターフェスティバルの手伝いをし、午後から自分の宿の雪かきです。もちろん日が暮れるまであります。朝から晩までこの仕事をして、体はクタクタなのですが、おそらく今年が最後だと思うので、老骨に鞭を打って頑張ってきました。おかげで体重はどんどん減ってきました。
まぁそういうわけなので、最近はテレビを見る暇もありません。ようやく昨日、テレビを見るゆとりが出てきたので、 NHK大河ドラマの真田丸の2話と3話の録画を見ることができました。今日は、2話について少しばかり解説します。(明日は、3話を解説しますね)
2話は、真田信幸と幸村が、甲府の新府城から、群馬県吾妻郡にある岩櫃城に向かうのが主なストーリーなのですが、その時に野党に狙われたり、裏切り者の小山田一族に殺されかかったりします。それを、真田幸村の機転によって何とか切り抜けるのが、主な見せ場になっています。たとえば、兵糧狙いの農民には、着物をばらまいてその隙に逃げるとか、みすぼらしい農民の格好して、逃げるとかです。ドラマとして非常に面白かったですが、これはあくまでもドラマです。本当はちょっと違うことを述べておきたいと思います。
実際は、この時は兄の信幸の大活躍で一同は助かるんですよね。兄の信幸は、身長185センチの当時としては大男です。彼がつけていた鎧の大きさでわかるんですよね。もちろん巨大な鎧を身につけ、彼は甲州黒と言う名馬にまたがって、岩櫃城に向かうんです。このとき彼の年齢は17歳。馬にまたがって十文字槍をとって、堂々と街道行きます。
当然のことながら、甲斐の落ち武者狩りがやってきますが、 17歳の信幸の超人的な活躍によって次々と返り討ちにします。そのために、誰も近づけないわけです。そこで、埼玉県や群馬県あたりの忍者たち(おそらく北条氏の手のもの)が、彼らを暗殺しにくるわけですが、これも撃退します。もちろん幸村も活躍したと思いますが、ゲリラのように百姓の姿になって岩櫃城に向かったわけではなく、甲冑鎧をつけて馬にまたがり、堂々と帰還しているんですよ。
だからあれは、いわゆるフィクションです。
それはともかく闘いながら、岩櫃城に戻るわけですから予定通りに到着しません。行軍の日程が伸びてしまい食料がなくなってしまうわけです。それでもなんとか草津街道あたりに到着し、腹が減ってどうしようもなくなった頃に、吾妻郡の鎌原氏(嬬恋村)・湯本氏(草津町)が迎えにきて、腹を満たします。そして、嬬恋村の大笹の雁ヶ沢に到着。このあたりです。
http://kazeno.info/karuizawa/9-hoka/9-hoka-3-06.htm
関所跡のあるあたりです。
雁ヶ沢という地名は、雁がこの谷へ降りても、ふたたび飛び上がるのも難しいということでつけられた地名。目がくらむほどの断崖絶壁。信幸は誰かここから飛び降りるものはいないか?と冗談を言うのですが、赤沢嘉兵衛という者が「それがしが飛んでご覧にいれましょう」と飛び降りました。
真田兄弟は、呆然とします。
もちろん真田昌幸は烈火のごとく怒ります。
「せっかくの赤沢を無駄事にさせるとは何事だ。言語道断である」
真田昌幸は、家来を無駄に死なせた信幸に大激怒です。
そこに死んだと思ったら赤沢嘉兵衛がやってきました。そして
「あの程度の谷へ飛び下りたところで、死ぬような自分ではありません」
赤沢は茶目っ気たっぷりに答えました。
しかし、それに対する真田昌幸の回答はこのようなものです。
「稀には死なないこともあろう。しかしこのような無茶なものは俺の用にはたたぬ。無益に命を捨てようとしたのは不届き千万」
と勘気を申し付けました。後に赤沢嘉兵衛は徳川家康が上田城を攻めた折、神川合戦で首級二をぶらさげて昌幸の実検に現れ、勘気を説かれました。その後も数度の戦功をあらわし、一生のうちに二十五の首級を捕ったと伝えられています。
このエピソードから分かる事は、真田昌幸は、むやみに命を失うような無茶を嫌う人だったということです。命を大切にし、着実に物事を納めることを重視している姿が見えます。これがもし、豊臣秀吉だったらどうだったかと思うと、派手好きな秀吉だっただけに、赤沢に感動していたかもしれません。それだけに昌幸のキャラクターが浮き出てきますね。
また、このエピソードで、真田昌幸は息子達に独自の帝王学を教えています。家来に無茶をさせるなと怒っているわけです。つまり真田昌幸は、無茶ぶりの人ではなく、むしろ慎重で着実に物事を進めるタイプに見えます。いわゆる官僚タイプです。武田信玄のもとで行政官(奉行)や伝令を行っていた感じの人ですね。
17歳の真田信幸も赤沢嘉兵衛と同じように、無茶をするタイプだったのかもしれません。だから真田昌幸は息子の教育のためにも、無茶をした赤沢を公衆の面前で激怒してみせたのかもしれません。
のちに真田昌幸は徳川軍を2度も撃退しますが、無茶な博打のような戦で撃退したわけではありません。非常に慎重に行動した結果、徳川軍を撃退しています。その時に、真田信幸が調子に乗って作戦を台無しにしかかるケースもあったかもしれないんですが、その頃の信幸は、慎重なキャラクターに変化していました。昌幸の帝王学がうまく通じたようです。
つづく。
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