沼田藩といえば、大河ドラマの真田丸にでてくる真田信幸が始祖に当たりますが、実はその沼田藩は、少々めんどくさいことになっているんですよね。1600年の関ヶ原の戦いで東軍についた真田信幸は、負けた父親(真田昌幸)の上田領も領土としてもらい、沼田と合わせ9万5千石の上田藩となります。しかし、1622年に、真田信幸は松代藩13万石へ加増移封となります。ただし、沼田領は引き続き真田領のままでした。ここまでは、問題ないんですが、この後に少々めんどくさいことになります。
真田信幸には、 2人の子供はいまして、
長男が真田信吉。
次男が真田信政なんです。
で、長男(信吉)には沼田藩3万石を継がせました。
で、次男(信政)には松代藩10万石を継がせました。
と、このように書くと何か差別があるように感じられますが、実は両者にはそんなに差はありません。沼田藩といっても、領地は吾妻郡と沼田地域の広大な面積を占めており、群馬県の3分の1ぐらいの広さを持っています。実質の石高は、9万石ぐらいだと言われています。
逆に言えば、9万石なのに3万石の表記であるから、その分の役目が少なくてすみますので、その方がお得なのです。しかも、領地が吾妻郡と沼田ですから、いわゆる海野氏の勢力範囲であり真田軍団の中心的な地域でありますから、どうせもらうなら沼田藩3万石の方が、圧倒的に美味しいのです。だからこそ、長男(信吉)には沼田藩3万石を継がせたのではないかと思います。
話わかりますが、真田信幸は、ものすごい長寿でした。 93歳まで生きていたというから、江戸時代にギネスブックがあれば、間違いなく世界1番の長寿だったと思います。その真田信幸は、松代藩の藩主でしたから、本家は自動的に松代藩ということになります。つまり次男の真田信政の方が、本家ということになりました。で、真田信幸が、 93歳で亡くなりますと、沼田藩と松代藩で本家争いをします。いわゆるお家騒動が始まるわけです。
ちなみに長男真田信吉の子供は、真田信直(信幸の孫)といいます。彼は、信幸の長男信吉の子であることを理由としてと幕府に訴え出て松代藩の本家相続の撤回を求めましたが、幕府の回答は、沼田領は松代藩から分離独立。信直を藩主として正式に沼田藩として独立します。怒った真田信直は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662年)に検地を行って、表高3万石に対して実高14万4000石の幕府に報告しました。その上、沼田城を修築して巨大で豪華な天守閣を立て、江戸藩邸も松代藩邸以上のものに改造したために、領民は重税を強いられ、あわよくば第二の島原の乱が起きそうな雰囲気にまでなってしまったといいます。
それが原因で沼田藩は、お取りつぶしというか改易となり、 信直は山形藩奥平家に、長男の信音は赤穂藩浅野家に、次男の武藤源三郎信秋(母は正室松姫)は郡上藩遠藤常春に、三男の栗本外記直堅・四男の辰之助は上田藩仙石家にお預けとなりました。
この後、沼田藩は、本田家、黒田家、土岐家と続いて幕末に至ります。ただし、吾妻郡に関しては、幕府領となって、幕末まで続きます。嬬恋村は沼田藩から逃れて幕府領のまま明治維新を迎えています。ここまでは、歴史の本などでよく書かれている歴史ですが、ここから先は、地元の老人たちから聞かされた話です。
嬬恋村は、なんだかんだと言って真田の親戚が多い地域なんですが、沼田藩に対しては、非常に恨みがあるようです。真田信直のやった政治は、本当に酷いもので、嬬恋村の農民たちは、その後何百年も恨めしく思っていたようでした。で、その悪代官の代表が鎌原氏でした。
もともと鎌原氏は、真田幸隆や真田昌幸の先陣として大活躍した嬬恋村の一族ですが、真田家が松代藩と沼田藩に分かれた時に沼田藩につき、沼田藩の悪政を手助けする側になりました。そのために鎌原氏は地元民に長年にわたって恨まれることになり、つい最近まで鎌原氏の墓がなかったくらいです。人々からどのような悪さをされるか分からなかったからです。鎌原氏は、年貢を払えない農民を水牢に入れるなどの拷問で苦しめました。怨嗟の声はちまたに広がりました。どうでも良いことですが、吾妻郡には水牢が多いんですよね。現在でも残っています。
ちなみに鎌原氏は、途中で真田家から養子を迎えています。真田幸隆の弟です。つまり、鎌原氏も真田一門なんですね。で、嬬恋村が幕府領となった後も、幕府の代官としてこの地(鎌原観音堂付近)に残ります。そして関所の役人か何かをしながら生きながらえるわけですが、今から200年前に天明の大噴火がおこり、鎌原村は壊滅するわけです。そして鎌原村を再建するときに、身分というものをほぼ廃止するわけです。これについてはまた別の機会に述べたいと思います。
さて沼田ですが、土岐氏が代わりに統治をするわけですが、元々いた地侍たちは、土岐氏に仕えます。その中に横山氏がいました。これが日本ユースホステル協会を作ったよ横山祐吉氏のご先祖になります。これについても別の機会に述べたいと思います。
つづく。
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上毛かるた 覚えてね 真田の悪政に直訴して処刑になった人です
でも幕府は 処刑中止を命じる使者を出したらしいが 間に合わなかったという。
真田家は皆優秀です 松代藩主には老中も出たし 現在の家督を継いでいる信之から14代目は大学教授ですし その中で沼田藩主5代目だけはバカ殿でしたかねえ
沼田に河岸段丘が形成される前
この沼田の地は何だったでしょうか?
>この沼田の地は何だったでしょうか?
お?
元、地理の先生から質問ですか?
そういえば、友人に元地学部のヤツがいて、
そいつは、気象庁に就職した後に退職し、
ヘリコプターの免許取って、
もうすぐ南極探検隊に入るやつがいますが、
彼もきっと、何度か沼田にいってるんでしょうね。
沼田の河岸段丘は、世界的に有名ですけれど、
世界中の地理の教科書に載っているんですかね?
それとも、地学の教科書なんですかね?
まぁそんな事はどうでもいいとして、沼田と上田は非常に似た形で土地ができていますよね。両方とも、火山によって地質が形成されて、それが川によって侵食されて、河岸段丘に成っていますけれど。沼田の場合は赤城山と言う、とてもゐ火山であったのに対して、上田の場合は浅間山と言う新しい火山が原因です。それだけに、上田城の方が沼田城に比べて難航不落のような感じがします。
> 天下の義人 茂佐衛門
>
> 上毛かるた 覚えてね 真田の悪政に直訴して処刑になった人です
>でも幕府は 処刑中止を命じる使者を出したらしいが 間に合わなかったという。
この人は、嬬恋村でも有名ですよ。というか、悪代官の方が有名ですね。いろんな悪代官がいたんですよ。そして水牢がたくさんあるんです。つま恋にも水牢の跡があったんですが、今はどういうわけかだれも語ることはありません。あまり観光地になりにくいんでしょうね。確か東吾妻長に1つだけ残っていたと思います。
形成理由は2つです 1つは火山活動による川のせき止め 武尊火山
赤城火山の活動により利根・片品川がせき止められ 沼田一帯は湖と化した それが徐々に下流に水が流れ出したり、おそらく大決壊なども起こって水がすべてなくなり その跡が沼田盆地となります
河岸段丘が形成されるのは 地質学で言う 新生代第四期洪積世で 約200万年前から いわゆる氷河時代です 氷河時代の“氷期”には気温低下して海面が下がる すると川も長く伸びて 上流部では浸食力が高まり 川が深くえぐります “間氷期”になると気温が上昇 海面も上昇して川も短くなり 浸食力も弱くなる
200万年の間に4度の氷期があったので 段丘も4段あれば納得ですね そして現在は 第四期沖積世 1万年以降の事ですが 今は間氷期です。この後 20万年後あたりにはまた氷期が来るかもね 今でも地球は氷河時代なのです 氷河時代は寒い氷期と暖かい間氷期を繰り返しています
この近辺で同じ例は 中之条・菅平・軽井沢がかつて湖でした。
ちなみに中禅寺湖が その沼田湖と考えてみると良い。 華厳の滝から下流に水が流れていますが 滝はどんどん浸食して湖に近づいています 放っておくと何万年後には中禅寺湖の大決壊が起きましょう すると水がなくなって盆地になります
そして水がなくなった状態の例が 尾瀬ヶ原です 尾瀬ヶ原には川がながれていますので 土地が湿原から乾燥化したらえぐり始めて 河岸段丘をつくっていくかもしれません