実は、私の息子はこども園に通っています。こども園というのは、幼稚園と保育園が合体したような施設です。私は、息子を保育園に入れようと思っていました。幼稚園に入れる気はさらさらなかったのです。理由は、私が保育園出身者ですから、幼稚園のデメリットをよく知っていたからです。
私の生まれ故郷の佐渡島では、幼稚園はほぼなくて、島中どこを探しても保育園ばかりでした。当時、島全部で百カ所位の保育園があったと思いますが、幼稚園はそれに対してたった一つしかありませんでした。で、高校生ぐらいになって、幼稚園に通っていたと言う友人に聞いてみたら、
「ああ、これは駄目だな」
と思わざるをえなかったのです。当時(昭和39年)の佐渡島の幼稚園では、学校の授業みたいなことがメインで、子どもどうして遊ぶようなこともなく、授業を四時間ほど受けて、午前中に帰って家で食事をとっていたといいます。しかも、当時は二学年しかなくて、年少さんは受け入れられてなかったと聞いていました。
それを聞いて保育園出身の私は驚いたものです。なぜならば、保育園では、授業を受けた記憶も無く、遊んだことした覚えてないからです。ひょっとしたら授業みたいなものもあったのかもしれませんが、それはあまり思い出せない。せいぜい音楽を楽しんだ記憶があるくらいです。後は遊んでばかりです。もちろん遊ぶといっても同級生と遊びます。朝から晩まで遊びます。だから友達とは仲良くなります。仲良くなって、家に帰ってからも一緒に遊んだりしました。
そういえば、自宅に友達が遊びに来たこともありました。その時の私は三歳ですから、当然のことながら年少組のお友達で相手も三歳です。その三歳の子供たちが、親の付き添いもなしに遊びに来ていました。現在の常識から考えたら、信じがたいことですが、当時はそういうこともありました。当時(昭和39年)の佐渡島では、今と違って交通事故の心配も少なく、自動車そのものが珍しかったからかもしれません。
私は四歳の時に、つまり年中組になった時に、引っ越して別の保育園に転校しました。そこでも事情は同じで朝から晩まで遊んでいた記憶があります。そして、保育園が終わった後も近所の子供たちと一緒に遊んでいました。幼稚園出身の友人は、それを聞いて驚いていましたから、
「もし子供ができたとしても幼稚園だけには入れたくないな」
と思っていました。
なので、息子が二歳になった時に保育園に入れる気満々でした。もちろん幼稚園の入園届も出していません。ところが教育委員会から
「幼稚園の入園届が締め切りなんですけれど」
と、どうして幼稚園に入れないのか・・・と言わんばかりの催促の電話がかかってきました。おもしろいことに保育園からの入園の催促はありません。もちろん教育委員会には、「うちは保育園に入れるので幼稚園には入りません」と答えています。そして保育園の入園届を出したわけですが、ところが驚いたことに嬬恋村では幼稚園と保育園が合併して、こども園になっていたのです。
こども園のシステムは、午前中は幼稚園。午後から保育園となっています。つまり、保育園に入れたとしても強制的に幼稚園に入ってしまうわけです。保育園が始まるのは13時30分から16時30分までの間だけです。要するに、幼稚園に預かり保育プラスしただけのシステムなんですね。結局、うちの息子は、午前中は幼稚園に入ることになったわけです。
もちろん幼稚園ですから授業があります。何しろ教育委員会から勧誘の電話がかかってくるくらいですから、学校教育の延長みたいなシステムです。休ませれば、幼稚園教育の授業に遅れたりもします。ですから私が幼稚園を休ませて、息子を山に連れて行ったりアウトドアを体験させたりすると、担任の先生からクレームが来たりします。
さらにうちの息子は、 三月二十六日の誕生日であるために、年少組にいる一年間の間、息子は四歳になる事はありません。三歳のまま年少組を卒業するわけです。だから他のお子さんに比べて赤ちゃんみたいなところもあって、他の子供たちよりも幼いし、その上に成長もゆっくりでしたので、幼稚園の授業についていくのか大変だったようです。
何しろ息子は会話能力が低く、他のお子さんたちが友人と遊んでいるのを息子はニコニコ見ているだけです。明らかに他の子たちとコミュニケーションがとれていません。他の子たちが、一緒に遊んでいても、そばでニコニコ見ているか、他の子どもたちの真似をしているだけです。まだ、自分が確立して無く、自主的に何か行動できる段階ではなかったのです。だからこそ、平仮名・片仮名・漢字も簡単にマスターしたし、九九を暗記させるのもたやすかった。逆に自主性を重んじる幼稚園の授業についていくのが難しかった。
幼稚園では体格差もありました。
三歳児健診では、 三月生まれの子供さんだけが集まるために、 三月生まれとしては体格が一番大きかったのですが、幼稚園に入ると小さいほうになります。他の三月生まれのお子さんたちは別の幼稚園に通っていますから。三月二十六日生まれで、あと一歩で四月生まれになるわけですから、どうしても体が小さいです。四月生まれ、五月生まれ、六月生まれのお子さんと比較すると、別学年ではないか?というくらいに体格差があります。おまけに顔つきも違っています。赤ちゃんと子どもくらいに違う。
もちろん運動神経も他の子に比べれば発展途上です。上履きも履くのに苦労していたくらいですから、最初は一人で自分のことができませんでした。だからこそ担任の先生は、ハラハラしたんだと思います。私が、幼稚園を休ませて、百名山に連れて行ったりすると、クレームがくる。せっかく幼稚園でできるようになったことも、忘れてしまってできなくなってしまうからです。
ちなみに担任の先生は、熱心な方でした。一言で言うと聖職者と言う感じ。私が出会った教師の中でも、これくらい教育熱心な方はないというくらい。もちろん私が他の先生を知らないだけで、幼稚園の先生というのは、みんなこういう先生なのかもしれませんが、とにかく子供たちに対する一生懸命な姿とフォローは、完璧なくらいで文句のつけようがありません。しかも、幼すぎる息子に対処するノウハウももっていた。
「これは、私が体験した保育園とはだいぶ違うな」
と思った私は、保育園と幼稚園の歴史をちょっと調べてみました。
そして驚きました。
まず、幼稚園ですが、日本ではいつごろから幼稚園の構想は誕生したかと言うと明治五年とあります。日本における近代教育は、明治五年八月公布の「学制」により開始されていますから、教育システムを創った最初から文部省には「幼稚園構想」があったということになります。また小学校もできてないにもかかわらず、最初から文部省に幼稚園構想があった事は、注目して良いかもしれません。ではなぜ文部省に最初から幼稚園構想があったのか?という点を考えると、ヨーロッパの教育システムをそのまま直輸入したのではないか?と安易に考えていました。
しかし、よくよく調べてみると、どうもそうではないらしいのです。
確かに、1840年にドイツのフレーベルによって幼稚園が生まれていますが、1850年には政府によって禁止されています。幼稚園禁止令が廃止になったのは、1860年であり、明治維新の八年前のことです。もちろん明治五年頃でも大して普及していません。普及していないどころか、アンチ・フレーベルの学者たちも大勢いて、幼稚園に対する批判勢力も多かったようです。
アメリカにしても初めて幼稚園ができたのは1860年。イギリスでは1855年。もちろん産業革命の進んだイギリスでは、労働者のための保育園が次々とできていましたが、幼稚園が着々と普及しているとは、言える状況ではありませんでした。もちろん英米諸国にもアンチ・フレーベルの人たちも大勢いて、幼稚園に批判的な勢力があります。
にもかかわらず、明治維新直後の政府は、早々と幼稚園を日本の教育体系の中に導入しているわけですから、「これは何かあるな?」と思って、いろいろと当時の歴史を調べてみました。すると、意外な事実がわかりました。
明治五年に文部省が「学制」を公布する一年前。つまり明治四年に、当時の日本人をことごとく震撼させる本が中村正直より出版されます。『self help』です。これを中村正直が翻訳した『西国立志編(スマイルズ著・中村正直訳)』。つまり自助論です。
この本は、西洋の論語と言われたもので、その当時の知識階級がこぞって熱中して読んだ本でもあります。なぜならばこの本によって、ヨーロッパ人がどうして優れているかということを、初めて日本人は知りえたからです。
それまでは、西洋列強は、単に科学技術に優れているから、その武力で世界を征服できた。貿易で富を稼いだからその財力で世界を征服できた。・・・と思っていたわけです。しかし、そうではない。彼らは彼らの方法で品性を磨くことによって、強大なヨーロッパ諸国が出来上がった。それを具体的にまとめて本にしたのが『自助論(西国立志編)』。つまり、品性によって西欧諸国が強大になったということに気づかされたわけです。
だから、自助論を西洋の論語と称したわけです。
その結果、自助論に心底影響受けた人たちが、
幼稚園教育を推進することになります。
もちろん翻訳者である中村正直も、日本最初の幼稚園を設立します。
文章がずいぶん長くなりましたので、続きは後日書くとしましょう。
つづく。
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