明治五年八月二日、日本初の教育法令が公布されました。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指しました。そして、尋常小学、女児小学、村落小学、貧人小学、小学私塾、幼稚小学、廃人学校について規定しました。
この中の幼稚小学が、現在で言うところの幼稚園に当ります。そして、女児小学、村落小学、夜学校、貧人小学、小学私塾ですが、これは尋常小学校以外の学校のことで、そういう学校の設置が認められ、何らかの事情で尋常小学校に帰れない子供たちはそれらの学校に通えば「就学」とみなされたのです。それらの学校に関する教則は、文部省は示していません。なので各県によって自由な設置ができ、それぞれ独自の教則ができています。
例えば群馬県では、松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となった明治十年に「群馬県学則」が制定され、女児小学、村落学校、工女余暇学校、変則夜学校の設置が規定され、「小学教則」「小学訓導心得」「小学授業法」などの諸規則が制定されています。そして保児教育所(子守学校)の必要性を文部省に訴えています。残念ながら保児教育所(子守学校)についての詳しい記録は残っていませんが、子守学校に類する小学校が群馬県にあったことは確かだと思われます。
以前、妻の実家の群馬県館林方面の歴史を多少調べたことがあるのですが、面白い記録が残っています。当時、尋常小学校に通っていた人たちの証言によると、先生が黒板に字を書くときは必ず窓側の半分のところでしか書かなかったとあります。なぜならば、窓の外には子守をして学校にいけないでいる子供たちが、何人も授業を受けていたからです。なので窓開けっ放しにして外にも聞こえるように教師たちは窓側に向かって大声で勉強を教えていました。子守の子供たちは、ノートと鉛筆の代わりに地面に棒で文字を書いて覚えたと言います。そういう記録が、いくつか残っています。
それらの子守たちは、陸州ッ子とよばれ、東北地方から飯米と交換で十歳くらいで子守として売られてきた人たちで、頭はヨモギのような髪で、垢だらけで、衣服も垢と赤ん坊の大小便で汚れ、悪臭には耐えられなかったと言います。なので、外で子守をしながら授業を聞き、文字を覚えるのですが、赤ん坊が泣くと授業の邪魔にならないように遠くまで走って行って、赤ちゃんをあやしたと言います。そういう子守たちに教師たちは、できる範囲で様々な便宜を与えたようです。
養蚕が盛んだった北関東(特に群馬)は、裕福だったのでしょう。東北から子守を受け入れて子守をさせながら学校にやったり、新潟から瞽女(ごぜ)といわれる盲人芸能集団や、角兵衛獅子などを盛んに受け入れて特に親切にして接待しています。そういう証言が歴史の本では無く、民衆レベルでたくさん残っていて、北国の貧しい人たちは群馬県にお世話になっていたようです。なんとも羨ましい群馬県の経済力ですが、それよりもっと群馬県が幸運だったのは、明治維新後に松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となったことかもしれません。
大河ドラマにもなった楫取素彦は、群馬県の県知事になってすぐに教育事業に重点的に取り組みました。そしてたった四年間で全国第一位の小学校の就学率を達成しています。明治十四年に幼稚園の類似施設(県師範学校内に幼稚遊戯場が付設)を設立しています。明治十六年には群馬県立幼稚園(全国でも五校)が正式に設置され、市町村部でも幼児教育施設が設置されました。つまり群馬県は、幼稚園先進国でした。どうりで群馬県には幼稚園が多いはずです。もちろん私の家内も幼稚園出身者です。
ちなみに群馬県の隣の、新潟県や長野県では圧倒的に保育園が多いです。軽井沢にしても、私の生まれた佐渡島にしても保育園だらけなのに、農家と観光業者の多い嬬恋村は、つい最近まで保育園はたったの一つしかありません。それに対して幼稚園は三つありました。どうしてなんだろう?と言う疑問がずっとあったのですが、こういう歴史的経緯があったことを思えば納得です。松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となったことが、群馬県が幼稚園だらけのであることと無関係ではないでしょう。
その結果かどうかはわかりませんが、文部省が公表した平成二十七年度の英語教育実施状況は、高校生で群馬県が一位。中学校では、群馬県は九位。二〇一六年の全国学力テストランキングだと群馬県は、中学生が十位。小学生は三十六位。小学校はともかく中学生以上は、学力は高いようです。これが保育所王国の新潟県だと、逆で小学校が九位で中学校が二十一位。
まあそんなことはどうでもいいとして、それにしても一つ不可解なことは、保育所が少ないことに群馬県民には、不便さを感じてなかったか? もっと保育所に対する需要がなかったのか?という疑問です。しかも昔の幼稚園は、たったの二年制でした。三年制になったのは最近の話です。そのうえ午前中で終わり。それだけでは不便ではなかったのか?と言う疑問が出てきます。その疑問に対する答えはまた後で述べるとして、今回は、保育所について述べてみたいと思います。
日本で最初に保育所が生まれたのは、新潟県です。だから新潟県では保育所王国です。私が生まれた頃の佐渡島では、幼稚園は島に一ヶ所しかなく、どこもかしこも保育所だらけでした。当然のことながら私も保育所出身者です。今は保育園と言う呼び名が通用しているみたいですが、昔は保育園なんて言う人は誰もいなくて、保育所でした。
保育士を目指している人たちが、最初に勉強することが日本最初の保育園のことだと思います。ネットや保育原論といった教科書には、明治二十三年、赤沢鍾美(あつとみ)・ナカ夫妻が新潟市東港町の新潟市静修学校に付設の保育施設を開設。これが日本最初の保育園とされています。その保育園は現在も赤沢保育園として新潟県に存在しているようです。
ところで、赤沢が経営していた静修学校とは何かというと、私立小学校だったようです。もともと赤沢は、小学校の教員だったのですが校長先生と教育についての意見が衝突したために退職しました。
その年、つまり明治二十三年の十月七日には、第二次小学校令が公布され、市町村に私立小学校がある場合には代用できることになっており、しかも徒弟学校と実業補習学校を小学校の種類とすることになり、生徒は私立学校も選択できることになりました。
そこで赤沢は、父親が開いていた修身学舎という家塾をひきついで、静修学校と改名し、昼は尋常小学科・中学科、夜はそれを卒業した文学専修科を設けて子供たちを指導しました。
赤沢の授業は町の評判も良く、多くの子供たちが集まりました。赤沢の方針により普通の小学校よりも一年早く卒業できたり、卒業して実用に役に立つことを集中して教えたことも魅力で、貧しい人たちが大勢押し寄せたようです。
ただし、子供たちのなかには子守をしながら登校してくるものも多いために、その扱いに困って、赤沢の妻仲子が、やむを得ず授業中に赤ちゃんを預かるようになりました。もちろん保育料を取っていません。赤ちゃんや幼児は、おやつはもちろん昼食の持ってこないようなケースが多かったようです。妻仲子は、そういう子供たちには食事まで作って食べさせ、傘のない国は傘を買って与え、夏の炎天下には帽子を買って与えたりしました。
そのため子供たちの親は泣いて喜び、その噂が大きく広まり、自分の子供も是非預かってほしいと頼む人が続々と現れて、それも断りきれず次々と預かってしまうようになりました。これが日本最初の保育園となるわけですが、最初は私立学校からスタートし、それが子守学校のような形になり、それが日本最初の保育園になったわけです。
ここで私の話をしたいと思います。
昭和三十六年生まれの私は、三歳九ヶ月くらいまで、子守に育てられています。両親共稼ぎで母親は小学校の教員で、佐渡島の僻地で仕事をしていました。道路は舗装されず、マイクロバスがやっと一台通れるくらいの漁村です。テレビもNHKしか写らない時代で、電話もダイヤル式ではなく呼び出し式です。もちろん幼稚園も保育園もありません。子守をたのむしかありません。そのうえ当時は、二ヶ月しか産休が認められていませんので、生後三ヶ月から私は、朝はやくから夕方おそくまで子守の人に預けられていました。
子守と言っても、さすがに子供たちではありません。
中高年の老婦人たちです。
当時は、腰が曲がって畑仕事ができなくなった老婆が子守となって活躍していました。
今でこそ腰の曲がった老人を見かけることがなくなりましたが、昔は、 五十歳後半くらいから腰が曲がって杖なしに歩くことのできない老人が多かったものです。各人がいろいろな杖を持っていて、玄関先に杖が置いてあると、
「○○の婆が、家に居るな?」
とわかったものです。
昭和三十年代は、どの家も鍵をかけることはなく、別の家に勝手に上がりこんで、こたつに入って家主を待っていることが普通にありました。だから、家に帰った時に、玄関先にある杖を見て「○○の婆だ」と存在がわかったものです。近所の人たちも「ははあ。○○の婆が、◆◆の家にいて家主を待ってるな。◆◆に教えてやるか」と、用事ついでに家主の人に知らせたものです。なにしろ携帯電話がない時代です。通信手段は、このようにのんびりした口コミだけです。
そういう時代ですから、車もなく、かといって商店街もない僻地なので、お互いに子守を頼んだり、洋服の仕立てを頼んだりしていました。洋服も衣料品店で買うのではなく、お金を払って近所の家に仕立てて作ってもらっていました。そもそも洋服屋がなかった。あるのは「よろずや」というコンビニみたいな店が二軒のみ。電気屋もなければ本屋も無い。道路だって最近出来たばかり。当時の登山ガイドに代表的なコースとして紹介されているくらいの場所なので何もかもが無い。今で言えば知床半島のような存在で秘境好きの登山客の名所のようなところでした。そういう僻地ですから、不便なことはお互い融通しあう。私はそういう漁村で複数の子守に三歳九ヶ月まで育てられていたのです。
腰の曲がって杖で歩く老婆ですから、二歳から三歳くらいの男の子の方が速く走れます。逃げようと思えば逃げられるのですが、そういう気持ちは全くなく、むしろ老婆の後を追いかけることの方が多かった。いわゆる後追いというやつですが、母親に対する後追いとは少しばかり違って、農作業や干芋造りなんかを、じーっと見つめては、時々手伝ったりしました。
子守といっても、四六時中子供の面倒をみているわけではなく、いろんな作業をしながら合間に世話をするのが子守のパターンです。子守学校の生徒も、子守しながら勉強をしていましたが、老人にだって子守の合間にできる仕事はあります。というか片手間に仕事をしていた方が、子守をしやすかったでしょう。私は、そういう環境で育ち、子守たちの片手間の作業をじーっと見て育っています。そして、作業を手伝いたがりました。
私が母親と下宿していたところは、農作業の合間に洋服の仕立てをしていました。当時は、電気アイロンなどはなく、鉄のアイロンを炭に熱して、指で温度調節しながらアイロンがけをしていました。私はじーっと、それを観察した上で自分でやってみようと思い、自分の顔にアイロンをあてて大火傷したことがあります。とにかく、周りを観察して、それをやってみようと思うのが、子守に育てられた子供の特徴だと思います。
この経験が、息子が生まれたときに生きてきました。
私は、息子が0歳の時から、ベッドメイクや部屋掃除などに連れて行ってます。そして、常に一緒に作業しています。部屋掃除をするわけですから、部屋は埃まみれになるので、嫁さんは非常に嫌な顔をしましたが、そんなことお構いなしです。ハイハイしている息子に布団をかぶせては、いたずらしました。私も小さい頃に、子守のおばさんや、子守のおばあちゃんと似たようなことをしてきていますから、これが私にとっては非常識ではないのです。
しかしうちの嫁さんには、そういう経験がありませんから、このやり方にずいぶん戸惑ったようです。私は買い物にも必ず息子を連れて行き、買い物カートを押させてついてこさせます。雪かきや庭の手入れも側に置いておきます。私が花壇をいじると、息子も真似していじります。その結果、花壇が破壊されますが、叱りはしません。私の小さい頃の体験があるので、生あたたかく見守っています。最近は、皿を洗ったり、料理を創りたがっていますが、少しずつ手伝ってもらっています。
ところで私には三歳以前の記憶が残っています。普通の子供なら三歳前で記憶は残りません。脳科学では、そういう定説になっています。けれど私は例外らしく、三歳以前のことを良く覚えています。逆に四歳以降の記憶があまりありません。四歳以降は、母親や子守の人から離れて、父親・祖母と佐渡島の都会(?)らしきところで暮らすことになったからです。つまり弟が生まれて、母親は弟と佐渡島の僻地に向かい、私は父親に預けられることになったわけです。
父親は厳格なために些細なことで物置に閉じ込められ、箸の持ち方一つで良く殴られました。優しい子守に囲まれた生活とは真逆な生活です。祖母も酷く口うるさい人でしたから、三歳までの子守時代とは全く違う環境になり、毎日不安なまま暮らしていました。子守時代とは天地ほど違う環境です。
三歳九ヶ月まで私は子守たちにかわいがられました。僻地なのに、店が何も無いのに、昭和三十年代に、いったいどこから手配したのか、どういうわけかクリスマスケーキがでてきたりしました。当時としては貴重なホールケーキに対して、私は恐る恐る「どれ食べて良いの?」と聞いたものです。私の母親は、そこまで甘やかしません。
子守たちと分かれてからも、子守の老婆たちは、遠くから私を訪ねてやってきました。何度も遊びにきては、帰り際に泣いてお別れしました。別れ際には必ず
「お父さんの言うことを聞いて、お利口にするんだよ」
と泣きながら言われました。子守されていた時には、絶対に言わなかった台詞を言うのです。そして何度も何度も遊びに来ては、時々、僻地に遊びに連れ帰ったりしました。それほどかわいがられました。そういうかわいがれっぱなしの環境から、厳格な父親と口うるさい祖母の元に預けられ、環境が一変したわけです。
環境が一変すると、私は放置子ぽくなります。近所の老婆のところに勝手に遊びに行くようになります。知らず知らず以前の環境を求めてのことだったかもしれません。ご近所の人も、さぞかし驚いたかもしれません。当時の私にしてみたら、統一一貫性の本能が混乱しないための生存本能が働いたためにとった行動なんでしょう。幼児には、強い統一一貫性の本能があります。一貫した何かを求める本能があって、これが混乱すると、パニックになるのです。
ただし、佐渡島の都会(?)には、佐渡の僻地と違ってちょっと違うところがありました。保育園がありました。私は、生まれて初めて保育園の年少組に行かされました。
保育園に行って驚いたことは、子供の数です。今まで、これほど多くの同年代の子供の数を見たことが無かったので衝撃をうけました。しかし、それでも保育園に違和感なくなじめたのは、家庭にいるよりも安心感があったからです。私はこの時の体験をもとに、自分の息子を幼稚園を大好きにさせています。その方法は、以前このブログにも「子供を幼稚園好きにさせるコツ」として書いてあります。詳しくは、下記のサイトをクリックして読んでみてください。
http://kaze3.seesaa.net/article/447054742.html
それはともかくとして、日本に制度として幼稚園・保育園・託児所ができる前は、いったい誰が幼児の面倒を見ていたかというと、『子守』なんですよね。私は保育園・幼稚園のない地域で、子守に面倒をみてもらっています。私の体験から言うと、子守は保母さんと似ています。別に何か教育されるわけでもなく、プログラムに沿って進行されるわけでもありません。日常生活と延長上に、子守をされる。農作業とか、洋裁の内職とか、家事の合間に見てもらってるわけです。
それを幼児なりに観察しつつ、幼児なりに自分もやってみたいという衝動にかられ、ミラーニューロン(ものまね細胞)によって脳内に蓄積されていきます。親と違って子守には強く怒られたりしませんから、積極的にミラーニューロン(ものまね細胞)を働かせて、子守たちの生活習慣が幼児に遺伝していきます。そして作業を手伝ったりします。干芋を並べたり、仏壇に一緒にお供えしたりします。子守と一緒に生活をしていくと、一緒に共同作業をしたがるようになります。
逆に厳格だった父親には、多くのダメ出しを食らっていますので、怒られるたびに進化適応によって拒絶反応が出てきます。例えばいたずら書きをして強く怒られれば、書くことに拒絶反応が起きて、お絵描きや、字を書くことに対しても、なんとなく拒絶する心理状態になります。どんな生物にもそのような反応があるのは、そういう反応がなければ、あっという間に天敵に殺されてしまうからです。親が子供に必要以上に強く怒れば、子供は自らの生命保存のために学習して、拒絶の心理が働きます。
幼児が階段を上がろうとして、それが危険な場合は、必要以上に強く怒ってしまうと、それがトラウマとなって高所恐怖症になったり、登山を嫌うようになりますから、その後の影響は甚大です。そのせいか武家社会では、子供に対して強く叱らない躾をしていたと言われています。もちろん武士ですから躾に厳しかったことは確かですが、強くは怒らない。むしろ子供に対してもっぱら暴力的に躾たのは農民階級の方だったといわれています。農民は臆病でも問題ないし、むしろその方が、自己保存のために良い場合もあるでしょう。
まあ、そんなことはどうでもいいとして、これだけ環境が変わって、子供ながらに戸惑うと統一一貫性の本能が混乱します。これは脳に非常に悪い影響を与えることがわかっています。しかし、そこで悪い影響に対する歯止めになったのが、保育園だったかもしれません。長時間にわたって、緩い環境で保育されているので、環境の変化を和らげるクッションのような役割があったような気がします。
現在では、どうなっているか分かりませんが、昔の保育園では、あまり教育的なことはしてなくて、ただ預かって遊ばせていることが多く、のんびりしていました。運動会・遠足といった行事も無く、それが私にとっては良かったのかもしれません。そのせいかその保育園でおきたことは記憶に残っています。記憶の法則として、嫌なことは忘れる傾向があるのに対し、楽しいことは忘れません。これは私だけではありませんでした。
一年後、私は引っ越して、別の保育園に入り、最初の保育園の友達と別れます。それから十二年後に、小学校の合併で彼らと再会するわけですが、お互いに年少組の頃のことを覚えていました。これは今にしてみれば、すごいことかもしれません。
というのも幼稚園出身の家内に
「幼稚園時代のことを覚えてる?」
と聞いても全く覚えてないからです。
ちなみに家内は幼稚園(二年制)です。幼稚園だから授業もあったでしょう。そのうえ午前中で帰宅ですから友達との縁も薄かったかもしれません。ただし、家内の家庭環境が良かったようで、近所に親戚がいっぱいして、従姉妹どうしでよく遊んだらしく、その思い出話は、よく聞かされます。家内にとって楽しいのは、幼稚園では無く家族と、大勢の親戚たちだったようです。このへんの背景の違いから、子育てに関する考えの違いがでてきている。嫁さんは、できるだけ息子を幼稚園のプログラムに沿わせようとするし、私は、そういうことよりも親子で登山したり、親子で宿の仕事をすることにこだわってしまう。このへんの違いがおもしろいところです。
つづく。
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内容はマネージャーの書かれる保育園、幼稚園の中間くらいの感じでしょうか。多少勉強らしきこともやった気がしますが、ほとんど遊んでいたと思います。初期は3歳児以上だけの保育だったことも幼稚園に近かったかも。
まわりが農村から東京のベッドタウンへと変化していくにつれて、お迎えバスのある今様の幼稚園が周りにでき、逆にこの保育園が共働きの家の小さな子を預かるように変わってきたという経緯があるようです。創立から60年をこえて続いています。
そして別の保育園に転向したんですが、そこは幼稚園と保育園の中間みたいなところだったのかもしれません。そこでは授業みたいなものもあったようで、少なくとも私は自分の名前を漢字で書けるようになってから卒園していますから。ただし、その保育園も0歳児から受け付けていましたから、幼稚園と言うわけではなかったですね。