この違いはとても大きくて、先生に対しては、ある程度壁があるのに対し、子守の「おばちゃん」に対しては壁がありません。また、母親とも違っていて、親ほど厳しくもなく、かといって完璧に甘えられるというわけでもありません。強いて言えば、大人の遊び相手に近いかもしれません。
例えば掃除とか、後片付けとか、一緒に共同作業していても、仕事している気持ちはこれっぽっちもありません。三歳児にとっては、遊びの延長上でしかありません。服を着替えるのにしても、どこかに出かけるにしても、やはり遊びの延長です。そのうえ子守の人は、農作業や内職で何だかんだと目まぐるしいために、それをじっと観察する機会も恵まれていて、その観察が子供にとっては素晴らしい娯楽だったりします。もちろん最終的には手伝ったりするんですが、そのお手伝いも娯楽もいいところです。
そういう環境から、保育園に毎日通うようになってしまうと、保育園の遊びも大して面白いとは思わないんですよね。最初の頃は、 なんだか暇で一日中ぼーっとしていました。保育園での遊び方がわからなかったんです。積み木や、おもちゃで遊ぶやり方がわからなかったんです。
つまり、幼児は遊び方を教えてもらわないと遊べないわけです。おもちゃをポンと与えても、それで遊べるとは限らないんです。周りの人が、それを使って遊んでるのを見て、初めて遊び方がわかるわけです。
これって、子守が作業しているのを観察して、子供が真似するのとまるで同じなんです。つまり、子供にとっては、遊びと仕事と勉強の区別がないんです。これはライオンでも狼でも一緒で、彼らは遊びながら狩りの学習をしています。つまり遊びと勉強と仕事がイコールになっている。
私は仕事で超有名進学校の子供たちを連れて自然ガイドに出かけたりするのですが、偏差値七十位の彼らも、やはり遊びと勉強が一緒になっている。ガリ勉してるわけではなく純粋に勉強を楽しんでいる。遊びと勉強がイコールだったりする。そう考えると、幼稚園・保育園・子守の中で、どれが一番、遊びと勉強と仕事をしたかというと、圧倒的に子守時代です。私が子守にお世話になってる時、一番遊んでいたし仕事も勉強もしていた気がします。
それに気がついた時、あることを思い出しました。東京は池袋に存在した「児童の村小学校」のことです。
実は私は日本ユースホステル協会の歴史を調べていまして、初代会長であった下中弥三郎についてかなり調べたことがあります。下中弥三郎と言う人は、百科事典で有名な平凡社を創設した人で、もともと小学校の先生です。この下中弥三郎が、野口援太郎、為藤五郎、志垣寛という四人を集めて、教育制度の改革ではなく、教育方法の改革をしなければならないと考え、児童の村小学校という事業を始めました。
教育制度ではなく、教育方法の改革です。
で、どのような教育方法をとったかというと、児童を束縛しない教育方法です。まず池袋に児童の村小学校を作って、子供たちを集め、教科書もなければ時間割もない自由奔放な授業を始めました。結果から言うと、その学校は資金不足でつぶれてしまうわけですが、そこの卒業生の大半は、大学教授・研究者・企業家・有名人などになって後に大活躍することになります。
もちろん例外もいますが、その例外も大半が戦争や病気で亡くなった人たちです。つまり戦争や病気で死ななかった人たちは、残らず知識人として活躍するという驚異的な成果を残しています。そのために、萩の松下村塾や、北軽井沢の法政大学村と並んで、教育の三大聖地とまで呼ぶ人もいるくらいに有名になっています。
では、児童の村小学校が、どのような授業を行ってていたかというと、これが非常にユニークで、学校の隣にある広い野原で遊ばせるだけ。それも半年くらいずっと授業無しで野口援太郎校長が遊ばせている。それはもう他の先生は焦ります。これでいいのか?と。
遊んでいるうちに子供たちは、色々な道具を出してくれとか言ってくるので道具を出してあげたり手伝ったりします。そうやって子供たちは遊んでばかりいるのですが、さすがに何人かの先生は
「これはおかしい。これは間違ってませんか?」
「もう我慢できない、家に帰りたい」
と、焦り出します。
しかし校長の野口先生は、辛抱強く「大丈夫。黙って見ていなさい」と説得します。そして不安に思いながらも、子供たちのやることを見ていると、大きな穴を掘ったり、みんなで家を建てたりします。秘密基地ですね。もちろん一人では、そんなことはできませんから、みんなで共同作業で作ります。共同作業を通して人間関係を学んでいきます。
あと秘密基地の小屋を建設するにしても、子供のやることですから、すぐ壊れてしまう。そこで初めて校長先生が、物理学の基本や数学の基本を教えるわけですが、何度も失敗している子供たちは、こんどこそ成功させようと、かなり真剣に聞いてくれます。こうして勉強教えるわけですが、ここまで来るのに六ヶ月ぐらいかかっています。気が遠くなるほどの遠回りです。
まあこれは、 三年生とか四年生に対する授業なんですか、もっと小さい一年生ぐらいになると、さらに破天荒な授業になります。先生が帽子をかぶって、オーバーを着て、靴を履いて、新聞紙を敷いてその上に立っている。そして、
「こういう格好をするのには、お金ならどれくらいかかるか?」
「・・・」
「一つ一つの値段はどのくらいのものか?」
と質問していくわけですが、児童はポカーンですよ。そこで、まず帽子を取って帽子の説明をしながら、これはいくらいくらで買ったと説明するわけです。その次に靴はいくらだ、靴下はいくらで、という風に全部先生が一つ一つ脱いでいくわけです。それで最後にはパンツ一丁になる。
もう大爆笑です。
で、このパンツがいくらだと、全部身につけているものを黒板に書いていくわけです。そしてそれらを合計して、いくらになったかということを勉強させるわけですが、これは算数の勉強でもあり、社会科の勉強でもあるわけです。このように、学科のすべてを一緒くたにして勉強する。これが児童の村小学校が行った革新的な教育方法でした。
時間割は二つしかありません。
教師の時間と
子供の時間です。
午前中は教師の時間。ここでは、読書・計算・観察・作業をやります。先生が教える時間です。午後は子供の時間。つまり子供たちが自分たちの生活を切り開いく時間。秘密基地を作ってみたり、本を作ったりする時間です。
そして、毎日「明日の時間配分はどうする?」ということを先生と子供たちが話し合って時間配分を決めます。当然のことながら子供たちは、もっと子供の時間が欲しいと言ってきますから、それならば先生も「これだけのことを君たちに教えたいんだよ」といって、子供たちと交渉します。
子供たちは、一生懸命やったら、時間をくれるのか?と聞いてきますから、明日はこのくらい勉強ができていたら残りの時間は自由に使っていいよと言う。これで交渉成立です。
子供たちにしてみれば、秘密基地を作ったりするのに子供の時間が欲しいですから、家に帰って密かに勉強をして、先生の時間を短縮させようとします。ちょっと勉強が遅れている子がいたら、みんなで教えてしまう。その結果、はやくに勉強が終わって、子供の時間が増えていく。楽しい時間が増えていく。そこにはイジメも存在しないし、引きこもりもいない。そのうえ結果として、子供たちは勉強ができるようになっていく。
ここまで説明したら、もう私の言いたいことは、おわかりと思います。児童の村小学校がやっていたことは、ライオンや狼と同じ教育です。ライオンは、子供たちに遊びながら狩りを教えている。それを児童の村小学校で行っていた。決して勉強を強制させることは無かった。
児童の村小学校を設立させた下中弥三郎にしろ野口援太郎にしろ、為藤五郎・志垣寛にしろ明治初期の生まれです。
野口援太郎にいたっては、明治元年生まれですから江戸時代から続いた若衆組(青年団)の雰囲気を詳しく知っていたと思います。だから若衆組の雰囲気をふまえて、このような教育スタイルを始めた可能性が高いと思う。
逆に、明治後半生まれの若い先生なんかは、若衆組(青年団)の雰囲気がわからないから、子供を放置しているように見える野口援太郎校長のやってることにハラハラして、
「これはおかしい。これは間違ってませんか?」
「もう我慢できない、家に帰りたい」
と校長に抗議している。
若衆組の雰囲気を知らないから
「これは駄目だ」
と絶望するんです。
つづく。
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