野口援太郎にいたっては、明治元年生まれですから江戸時代から続いた若衆組(青年団)の雰囲気を詳しく知っていたと思います。だから若衆組の雰囲気をふまえて、このような教育スタイルを始めた可能性が高いと思う。
逆に、明治後半生まれの若い先生なんかは、若衆組(青年団)の雰囲気がわからないから、子供を放置しているように見える野口援太郎校長のやってることにハラハラして、
「これはおかしい。これは間違ってませんか?」
「もう我慢できない、家に帰りたい」
と校長に抗議している。
若衆組の雰囲気を知らないから
「これは駄目だ」
と絶望するんです。
ここで若衆組を説明しておきます。
若衆組とは、江戸時代から続いた日本の伝統的な青年教育システムで、
青年が青年を教育するスタイルです。
薩摩の郷中組みたいなものです。
その若衆組には大人は入れません。
あくまでも自主的に自分たちで学ぶのが若衆組のスタイル。
もちろん講師として大人を呼ぶことはあります。
しかし、その人選を決めるのは若衆組。
これが日本の伝統的な姿なんですね。
児童の村小学校は、その伝統的・土俗的な若衆組ぽいものを復活させたわけですが、じゃあ、それ以前の小学校教育は、どういう教育だったかというと、ヨーロッパ流だった。それも列強諸国の教育スタイルを翻訳したものだった。それに限界を感じた教育の世紀社が、教育方法を実験的に変えてみたら、それが実は、かなり土俗的なスタイルになってしまった。それが児童の村小学校になります。
池袋の児童の村小学校の校長先生は、野口援太郎です。
この野口援太郎は、
『本来、遊びと勉強と仕事に区別はない』
と言って、児童の村小学校の教育方法を始めています。
しかし、この方法は、子守の老婆に育てられた私にとっては、なじみのある方法でした。子守と一緒に内職や作業をしていた幼児の頃の私は、その作業を仕事とも勉強とも思ってない。遊んでいると思っていた。
その経験をふまえて私は、二歳から三歳の息子に、漢字や九九を教えたり、ベットメイクをさせたり、料理させたり、食器洗いをさせたり、床掃除をさせているけれど、うちの息子は、勉強しているとか、仕事をしていると思ってないと思います。本人は楽しく遊んでいるつもりでいるはずです。
また私のうっすらとした記憶をたどっても、子守の人を先生だと思ったことはない。ましてや親と認識したこともない。どちらかというと遊び相手なんですよ。実際、暇があれば遊び相手になったわけだし、親ほどキツく叱られるわけでもない。むしろ甘やかしてくれて、よく遊んでくれる都合のいい存在です。
けれど、四六時中遊んでくれるわけではなくて、内職などの作業をする。それを、私はジーッと眺めて、最終的には真似をするわけですが、それだって幼児にしてみれば、遊びの延長です。延長でありながら、勉強・仕事をしているわけですが、幼児には、それらの区別はない。つまり児童の村小学校の野口援太郎先生の言ってることと同じなんですよ。
『本来、遊びと勉強と仕事に区別はない』
ということなんです。
私が、幼稚園を嫌って、ひたすら保育所に入れようとしていたのは、私にそういう背景があったからなんです。もちろん保育所に入れたとしても、皆勤賞を取らせるつもりは毛頭ありませんでした。むしろ遠慮なく保育所を休ませて、一緒に仕事をしたり、山に登りに行ったりするつもりでした。
その計画が狂ったのは、嬬恋村に唯一あった保育所が幼稚園と合併して、子供園になったためです。前にも言いましたように、子供園になってしまったら、午前中は強制的に幼稚園です。午後から保育所になっているわけですが、たったの三時間だけです。正直言って、がっかりしたものです。
ところが私の想定外のことが起こってしまう。息子の担任の先生が、とても熱心な先生だったんです。厳しくて、優しくて、誰よりも子供たちのことを考える聖人のような先生でした。
私は五十五歳ですが、 五十五年生きていて、これだけ素晴らしい先生には出会ったことがない。そのくらいにできた先生でした。車で迎えに行くと、その日に起きたことを事細かく報告し、色々な注意点を見つけてくれて、服装の改造までアドバイスしてくれる。それが、あまりにも熱心だったために、報告が細かすぎて、嫁さんがちょっと引いたぐらいです。けれどアドバイスは、非常に的確でなるほどと思えるようなことばかり。先生のノウハウの豊かさに驚いたものです。
私は子供園をどんどん休ませるつもりでいました。出席日数の半分ぐらいは休ませて、息子と一緒に山に登ったり、たびに出かけたりしようと思ってました。幼稚園は、そのついででいいやと思っていたんです。けれど先生が熱心ために、ちょっと休めなくなりました。先生は、実際の親よりも息子のことをよく見ていて、息子が自分でなんでもできるように指導してくれ、息子に礼儀を教えてくれました。
同級生とトラブルがあっても、息子の何がいけないのかを、言葉でわかりやすく教えてくれました。何しろ息子は三月二十六日生まれで成長が遅かったために、幼稚園に入ってからもしばらくは会話能力はなかったんです。会話ができない息子に対して、ルールや礼儀や道徳を教えるわけですから、簡単ではありません。苦労したと思います。
天気の良い日は、午前中でに息子を早退させて浅間山などに連れて行っててたんですが、早めに幼稚園に息子を迎えに行って、先生の授業風景をこっそり見ていると、これがまた素晴らしい。小さな子供たちが嬉しそうに歌を歌ったり踊ったりしている。とても楽しそうだったので「幼稚園の授業も子供たちにとっては遊びなんだ」と言うことがよくわかりました。決して子供たちが勉強してると言う感じではなかった。これじゃ児童の村小学校と変らないと思ったくらいです。
にもかかわらず担任の先生は、幼児を甘やかしてない。行儀の悪い子には、上手に注意して行儀をよくさせています。それが、私の力量ではできないレベルだったので余計に感心しました。幼稚園は、みんなこういうものなのか、それとも担任の先生が特別なだけなのかは、わかりませんが、かなり高いレベルの幼児教育・集団保育をしていたことは確かです。
もちろん嬬恋村は少子化が進んでるために、一クラス十三名という恵まれた環境もあったかもしれません。元小学校の改装した贅沢な施設だったのも子供たちによい影響を与えていたのかもしれませんし、午前中という短い授業だったからこそ、集中して子供たちの面倒を見ることができた。というのもあるかもしれません。
これが長時間幼児を預かる保育園だとしたら、これほど贅沢な教育をしてくれなかったかもしれません。また、一クラス六十名といった託児所だったら、これほど繊細で手の込んだ幼児教育は絶対に無理だったはずです。
そう考えると幼稚園は幼稚園なりに、非常に良い面があったのだなぁと感心した次第です。いずれにしても、うちの息子は恵まれた幼稚園と、恵まれた担任の先生のおかげで、随分得をしたという気がします。
つづく。
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