そういうわけで、うちの息子はすっかりおばあちゃん子です。明日はおばあちゃんの家に行くんだよと言うと、非常に嬉しそうな顔します。夜寝る時も、明日はおばあちゃんの家行くんだよね、と何度も念を押します。そして、庭先でドングリやヤマボウシの実みを拾ってなんかを拾って「これをおばあちゃんに持っていこうかな」なんて言ってます。その光景が、とっても微笑ましかったんですが、ある時、息子がこんなこと言ってきました。
「タケルには、おじいちゃんは居ないの?」
実は、嫁さんの父親は、かなり若くして脳腫瘍で亡くなっています。なので、息子の母方の祖父は、この世にはいません。しかし、私の父ならまだ生きています。ただし、85歳ぐらいなので、いつ仏様になってもおかしくない年齢です。
「タケルには、おじいちゃんは居ないの?」
「いるよ」
「どこにいるの?」
「佐渡島と言うところだよ」
「佐渡島?」
「タケちゃんは、 2年前に佐渡島に行っておじいちゃんになっているんだけれどね、それは2歳の頃だから覚えてないのかな? 」
「うーん」
「おばあちゃんだって、もう一人いるんだよ。タケちゃんには、おばあちゃんが二人いるんだ」
「ちがうよ、おばあちゃんは一人だけ」
「いやいや、二人いるんだ」
「えええええええええええええ、違う違う」
「本当だよ、二人いる。一人は館林に、もう一人は佐渡島に」
「違う違う違う違う」
このような言い合いになったわけですが、息子は親と同じく、祖母は一人だけだと思っているらしい。なので、その誤解をとくように何度か説明するのですが、いまいちピンとこないようなのです。ああ、これは、実際に会わせなければ理解できないんだな・・・と、久しぶりに私の故郷・佐渡島に里帰りしなければならないと思うようになってきました。
「そうか、たまには佐渡島に帰ってみるか。いつまでも佐渡島のおじいちゃん・おばあちゃんが生きているとは限らないからね」
というわけで、息子のために2年ぶりに佐渡島に帰ることにしました。今のうちに父方の祖父母にも会わせておいて、息子に思い出を作ってあげないと思ったからです。
出発は11月6日。前日から準備して、朝の5時に車に乗って出かけました。新潟港9時20分出発のカーフェリーに乗るためです。車ごとカーフェリーに乗りますから、往復チケットをインターネットでカード決済で予約。これによって乗船料金がかなり安くなります。本当なら北軽井沢からだと、直江津まで行ってそこから佐渡島に行った方が早いのですが、 11月から直江津航路は閉鎖になっていました。なので、北軽井沢から新潟港まで高速道路を使って3時間で到着。カーフェリー「おけさ丸」に乗り込みました。
「おけさ丸」は、 5,860トンと大きな船で、授乳室・喫煙室・ゲームセンター・ペットコーナー・スナック・食堂・売店・イベントプラザ・コインロッカーとなんでもあります。私が子供の頃には、佐渡汽船の船はもっと小さくて海が時化ると、船酔いで大変でした。みんなゲロを吐くために、船のあちらこちらにアルミのオケがおいてありました。
だから佐渡島の人間は船の乗り方をよくしています。窓側なんかに行かずに船の中央部に場所を取ります。そして進行方向に対して前すぎてもだめだし、後ろすぎてもダメです。前過ぎると波にぶつかって船が揺れて気持ち歩くなるし、後ろすぎるとディーゼルエンジンの振動で、これまた気分が悪くなります。
あと島民は必ず場所取りの意味も含めて100円で毛布を借ります。毛布を広げれば、そこが自分の領土になります。で、元島民として毛布を借りに行って帰ってきたら、嫁さんと息子は窓際を占拠していました。
「窓際は酔うぞ」
と思ったんですが、まぁせっかくの船旅だし、白波も経ってなかったので、好きなようにさせることにしました。
毛布で場所取りをした後は、船内の探検です。なにしろ嫁さんも息子も海無しの群馬県民ですから、海の上に浮かんでいる船に乗っているだけでハイテンション。群馬県民は、海を見るだけで幸せになると言う変わった人種ですから安いものです。
これが夏だったら、航行中にトビウオが飛んでいたり、船がイルカの大群に囲まれたりするんですが、今は11月なので、それは期待できそうもありません。
代わりに売店で「かっぱえびせん」を買って、それをカモメたちに放り投げました。そしてアッという間にカモメたちは集まってきました。息子は、そんなカモメたちに大喜びです。
で、次は、息子の船内探検。
疲れ知らずの息子は、二時間ちかく船内をウロウロ。
全くもって休む気がありません。
嫁さんは、三十分でダウン。
私も、いい加減嫌になってきたので、
息子をレストランに誘ってアイスなどを食べてつつ休憩しました。
ちなみに下の画像は、佐渡乳業の看板。
佐渡の牛乳・バターは、ここで作られますが、実は私の実家から徒歩1分のところに工場があって、小学生の頃に学校で見学にいったりしています。それが縁で学校帰りによく遊びに行ったものです。そして賞味期限切れの牛乳をもらったりしました。
今からしたら信じられないことですが、昔は仕事している現場に近所の小学生が乱入できたんですよね。追い払われなかったんです。それで牛乳をもらったんですよ。で、学校の給食で牛乳を残していた奴が、「おっちゃん、牛乳クレー」と強請っていたんです。まあ、迷惑もいいところなんですが、そういう事が許された昭和時代という、のんびりした時代があったんです。
ちなみに実家では、牛乳を取っていて、毎日6時頃に牛乳配達のおじさんがやってきました。その時の牛乳瓶のガチャガチャいう音に目覚めて、牛乳をとりにいったものです。私は、実家で牛乳を飲んで、学校給食で飲んで、工場で飲んだりしましたから、一日3本も飲んだことになります。
実は、この佐渡乳業の牛乳やバターは、知る人ぞ知る有名ブランドで、特に佐渡バターは軽井沢の高級レストランでもよく使われています。佐渡乳業の企画力・商品力は本当にすばらしいもので、北軽井沢も見習ってほしいものですが、残念ながら北軽井沢の「みるく村」は、よそに買収されてしまって、北軽井沢ブランドは無くなって、みるく村も今では見る影もありません。
ちなみに現在の佐渡乳業は、規模が拡大して、佐渡島でも大きな会社になっており、ここに外海府ユースホステルの息子さんが就職しているそうです。話は変りますが、今回は外海府ユースホステルに泊まるのも目的の一つです。そして外海府ユースホステルを、ここを読んでる皆さんに紹介する予定です。おっと話がそれました。
上の写真はジェットホイルという高速船です。
私は、一度も乗ったことがありません。
値段が高いし、船はのんびりの方が好きなので。
下の写真は、佐渡おけさを歌った村田文三です。
ロビーに飾ってありました。
村田文三は、佐渡おけさや相川音頭を全国的な民謡にした功労者で、彼の節回しによって、佐渡おけさが日本を代表する名曲になったと言われています。もともとの佐渡おけさは、もっとテンポの速い曲で、誰にでも歌えるものでしたが、彼の歌が有名になって、現在の佐渡おけさになったと言われています。つまり、今の佐渡おけさは「村田文三さどおけさ」なんですね。
ちなみに私が、ヨーロッパに行ったときに佐渡おけさを歌ったら、口の悪いドイツ人が「雑音にしか聞こえない」と言ってきたので、「こきりこ節」や「谷茶前節(たんちゃめぶし)」を歌ったら、大喜びで「すばらしい民謡だ」と絶賛。彼らは手拍子したり、踊り出したりしたので、おもしろいなあと思ったものです。
こきりこ節も谷茶前節も、テンポの良い曲ですから、ヨーロッパ人に受けたのかもしれません。しかし、佐渡おけさは、ヨーロッパのどこで歌っても
「?」
という感じで、シーンとなります。彼らには、音楽に聞こえてないようです。雑音にしか聞こえてないんですよね。しかし、これが日本になると、逆で、佐渡おけさの方が、メジャーで、こきりこ節も谷茶前節もマイナー民謡ですからおもしろいですね。
(ただし西洋化された平成時代の日本では、こきりこ節や谷茶前節の方が、メジャーかもしれない。しかし昭和では、佐渡おけさの威力が凄く、私が上京した頃は、宴会の席で、佐渡おけさを踊れとか歌えとか良く言われたものでした)
ようするに村田文三の節回しを理解できるのは、日本人だけがもつ右脳のせいかもしれません。世界で日本人だけが、特殊な右脳をもっていて、虫の音を言語や音楽として認識できることと関係あるかもしれません。このあたりは、脳科学がもっと進歩すると、分かってくるかもしれません。若い脳科学者に、佐渡おけさを使って、ヨーロッパと日本人の脳の反応実験をしてもらいたいものです。
もっとも村田文三以前の佐渡おけさは、独特の節回しも無く、テンポの良い曲なので、これだったらヨーロッパ人に受けたかもしれません。しかし、それでは佐渡おけさが日本で大ヒットすることもなかったでしょう。やはり佐渡おけさは、村田文三あっての佐渡おけさなんでしょう。
限に、村田文三の節回しは、民謡界の伝説であり、過去に聞いた人の話によると、体が震えるほどの芸術であったといいますから、村田文三の存在が佐渡おけさを有名にしたので間違いないと思います。
これは船内で食べた海鮮丼。
息子が、休むこと無く2時間以上船を歩き回るので休憩です。
息子の奴は疲れ知らず。
嫁さんは船酔いでダウン。
そして、佐渡に到着。
船はやがて両津港に到着しました。実は、佐渡の両津港こそは、日本最初の鉄船建造をしたところです。ここで、日本で初めて船体構造に鉄材を使用した船が作られたのです。その船の名前は『新潟丸』で、明治四年のことです。
安政5年(1858)、江戸幕府はアメリカなどと通商条約を結び、横浜、長崎、函館・神戸・新潟の開港を約束しました。そして、明治元年11月19日に正式に新潟が開港となります。そのときに両津が補助港となり、港湾工事が着工され、それが完成されると、新潟と両津を結ぶ、蒸気船を建造して外国人の旅客や貨物を運送することとなりました。
そして英国造船技師マクニホールを雇い、造船場を建設し、鉄船を建造しました。明治四年のことです。それが日本最初の鉄船「新潟丸」です。意外に思えるかもしれませんが、明治以前の佐渡は、金山のために日本有数の工業地帯でもありました。製鉄に使われる木炭も豊富であり、砂鉄も多かったために、鉄の生産も豊かで、製鉄に関連する山の名前「ドンテン山」もあるくらいで、ドンテンロッジという山小屋もあります。なので、日本最初の鉄船を建造するのに適した土地であったわけです。
そのうえ新潟港は、信濃川が土砂を運んでくるので浅瀬が多く、大型船の入港には無理があり、小型船でも他所から来た船は現地での水先案内人を付けないと座礁の危険がありました。そこで佐渡の両津港に陸揚げして、それから小型船で新潟に輸送するようになり、そのために両津の湊が繁栄しました。港としての機能は新潟よりも両津港の方がすぐれており、特に冬場は両津の方が積荷も多かったと言います。
また、佐渡島民は、その巧みな操船技術によって、江戸時代から新潟に薪炭や魚を輸出して儲けていました。その代表格が、外海府ユースホステルの御先祖様たちです。今回の旅は、その外海府ユースホステルに泊まってマネージャーと話をすることも目的の一つです。で、すごい収穫があったわけですが、それについては、後日、ここにアップしましょう。
佐渡島民は、江戸時代の佐渡は、奉行所の命令で鎖国体制をとっており、他藩と交流が無かったと思っているようですが、それはとんでもない勘違いなんですよね。松浦武四郎の佐渡日誌を読めば分かるとおり、鎖国どころか、その逆なんですよ。佐渡の資料しか読んでないから、そういう勘違いが起きるんです。他地域の資料を読んだら全く違ってくる。それについては、また後日。
つづく。
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