嬬恋村の軍艦島とも言える吾妻鉱山の実態を、当時の広報誌から読み解いてみます。
面白いなあ・・・と思ったのは、F・Hさんという主婦の投稿記事です。新婚さんらしきF・Hさんは、御主人と分かれて暮らしていたようです。もちろん御主人は、吾妻鉱山で働いています。どうやら単身赴任で働いているらしい。
で、吾妻鉱山に夫婦向けの社宅が完成して、そこに夫婦で入居できると大喜び。けれど、嬬恋村の人たちは、寒くて大変だとか、不便だとか、不安を煽るような話ばかりします。で、だんだん不安になってきた。そして、いざ引っ越しをしてみると、吾妻鉱山の住民たちにモグラの巣のような所(地下通路)に連れて行かれます。
「あれ? やばいぞ?」
と思ったF・Hさんですが、その地下通路は、雪に備えて各家に通じる地下通路でした。当時は、除雪機などという便利なものがなかったので、豪雪の時期は地下通路で行き来していたんですね。そして、すぐに吹雪がやってきて、この地下通路の威力を知ることになります。
実は、この地下通路の話、教職を退職された郷土史家の唐沢先生から、小串鉱山の地下通路のことを聞いていたんですが、現場を調査しても分からなかった。商工会の小林さんも探したけれど分からなかったという。
「唐沢先生はボケたのかなあ?」
と思っていたんですが、どうやらそうではなかった。吾妻鉱山にあったということは、小串鉱山にも絶対にあったはず。豪雪の小串鉱山では、もっと大規模な地下通路があってもおかしくない。唐沢先生の話では、峠を越えずに須坂方面に抜けられたというが、今はもう見つからない。
では、豪雪の時、吾妻鉱山の小学校・中学校では、どうだったのでしょうか? 先生はもちろんのこと、生徒・児童が率先して、学校を雪から掘り起こしたと書いてあります。掘り起こさないと学校に入れなかった。学校の雪かきは子供たちの仕事みたいですが、掘り起こしたとは、すごい表現です。
(広報『吾妻鉱山』より借用)
昭和31年4月8日。嬬恋村に住む下屋徳次先生が、転任で吾妻鉱山に引っ越してきました。翌9日に下屋先生は、小学校に向かおうと玄関に出ると、家の庭で遊んでいた各家庭の子供たちが、みんな
「先生、いってらっしゃい!」
と声を揃えて見送ってくれたと広報に書いています。昨日、ひっこしてきたばかりで、まだ生徒の顔も名前も知らなかった下屋先生は驚いたと言います。
しかし、吾妻鉱山の子供たちは、みんな下屋先生のことを知っていた。狭い地域生で、すべての情報が筒抜けだった。むこう3軒両隣と言いますが、吾妻鉱山では、情報が全て筒抜けだったようで、吾妻鉱山の情報は、みんなに共有されていたということが、なんともほほえましい。この設定で、『嬬恋村の軍艦島』というドラマや映画を作ったら大ヒットすると思いますけれど。どうですかね?
(広報『吾妻鉱山』より借用)
ちなみに吾妻鉱山の小中学校には、そのへんの都会よりも教材が充実していることに転勤してきた教師たちは驚かされます。当時めずらしかったテレビや放送設備。昭和31年ですよ。高額すぎてテレビを買える人なんかどこにもいなかった時代。放送設備だってそうです。テープレコーダーなんか誰も持ってない時代なのに。
そのうえ食堂・映画館・水道というインフラに転任してきた先生たちは、ほんとうにびっくり。昭和31年の嬬恋村に。どれだけ水道が普及していたことか。これもバックに吾妻鉱山の資金があったためでしょう。吾妻鉱山やPTAたちは、惜しみなく学校に援助しています。
グラウンド(校庭)は、後に14600平米(だいたい120メートル四方の広さ)に拡張され、どの角度からでも100メートル直線コースがとれる広さになっています。やりようによっては400メートルトラックさえ作れる広さ。もちろん野球のバックネットもあります。これは現在の嬬恋村の小中学校より広大で豪華なグラウンドが、吾妻鉱山にはあった。
もちろん吾妻鉱山が学校に援助する理由もあります。学校の施設を鉱山関係者(PTA)が借りて使うためです。吾妻鉱山では、毎年、大運動会を開いてますが、学校のグランドで行っています。だから吾妻鉱山の野球部も大活躍している。実業団チームとして、神宮球場まで、あと一歩のところまでいってますが、なにしろ豪雪地帯なので練習期間が短すぎるようです。それでも村内では無敵で、小串鉱山・石津鉱山・草津鉱山・嬬恋高校あたりを蹴散らしています。群馬県の産業別野球大会でも自衛隊あたりを破って優勝しています。
(現在のこっている体育館)
ただ、吾妻鉱山だけでなく、子供たちも教育資金の金策にはげんでいたようです。豚を飼って、その資金で生徒会の費用を作っている。なんと逞しいことなのだろうか? 今では考えられないことですが、教育資金の調達を子供たちにやらせていた。これは教育面からみても素晴らしいことだと思うのですが、今なら確実に問題がおきるだろうなあ。つくづく昭和という時代は、よい時代だったと思います。
つづく。
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