買収後、東レ(帝国硫黄)から吾妻鉱山に出向してしてくる人がいました。村上さんと言う人で昭和14年12月21日の冬のことです。帝国硫黄は関西の会社。それも滋賀県草津町が本社ですから、村上さんも関西人です。関西から嬬恋村に来た村上さんは、その風景・言葉・風俗に面食らいました。
(広報『吾妻鉱山』より借用)
吾妻鉱山の広報は、昭和31年4月に創刊されますが、創刊号に吾妻鉱山が、東レの関連会社である帝国硫黄鉱業株式会社に買収された直後の事が、村上さんによって書かれてあります。
村上さんは、従業員の寮・寄宿舎を「飯場(はんば)」と普通に言ってることにショックをうけます。「江戸時代者あるまいし・・・」と嬬恋村の旧弊に愕然とするわけですが、出向の身分であり、まだ完全に経営権が帝国硫黄に移ってないこともあって黙ってました。
そしてタイムカードがないことに衝撃をうけ、7時の仕事開始時間になっても社員が揃ってないことに衝撃をうけ、誰も残業をしないことや、勝手に早退してしまう人に衝撃をうけます。しかし、書類をみたら生産性は悪くない。いったいどうなってるんだ?と不思議に思っていたら職人たちは請負で働いているという。なので終業時間前でも仕事が終わると勝手に帰って行く人が多かった。
この話は、私も土地の古老から聞いたことがあります。小串鉱山の話になりますが、戦争中は、何人もの親方のグループがいて鉱山からの請負で働いていたと。なので働きのあるグループとそうでないグループでは給料が全く違っていたらしい。それを十年くらい前に聞き取り調査したことがありました。
「戦争中は、日本人の若者の大半が兵隊にとられたので、兵隊にとられてない朝鮮からきた若い労働者の方が威勢がよくて、仕事をこなしてバンバン稼いでた。請負だから、やればやるだけ金になる。日本人の倍は稼いでた。ちょっとした金持ちになっていた。それで札束きって牛を農家から買って生で食べるんだわ。あれは驚いたな。生で食べるんだよ。だから終戦間際には干又川に牛の骨が散乱してた」
と証言していました。あのご老人たちは、今でも元気にしているだろうか?
それはともかく、昭和15年に村上さんが所長になった時から普通の会社になったわけですから、小串鉱山より近代的なスタイルになったといえます。逆に言うと労働力確保の点から小串鉱山も、近代的にしないといけないわけで、戦後は小串鉱山も、近代的になっていったと思います。ただし、土地の古老の話では、小串鉱山は終戦までは請負制度でやっていたようで、働くだけ大儲けできる小串鉱山に朝鮮人が集中したと思われます。干又の老人は、吾妻鉱山に朝鮮人が行ってた話をしていませんから。
まあ、そんなことは、どうでもいいとして、経営権が帝国硫黄にうつるさいに村上さんは、請負制度をやめて月給制度にかえるように進言します。しかし、それは却下されます。かわりに四割の給料アップし、始業・終業時間の厳守をさせることになった。
そして吾妻鉱山が帝国硫黄に引き継がれると村上さんは、吾妻鉱山の所長に就任し、住宅・学校・映画館・生協・無料浴場・水道・医療設備といったインフラの充実をさせていき、吾妻鉱山を一大都市に作り上げていきます。嬬恋村の旧弊を刷新し、近代的な鉱山に変えていったわけです。そして最後に月刊の広報誌まで発行し、学校の広報誌の援助までした。あまりに福祉をやり過ぎるので、帝国硫黄の社長が度々おとずれて
「エスペランチストの君は、理想的すぎるんじゃないか?」
と言われてしまう。
(エスペランチストとは、エスペラント語を話す人のこと。ポーランド人のルドヴィコ・ザメンホフ(1859-1917)が、故郷の町でポーランド語、ロシア語、ドイツ語、イディッシュ語を話す人たちが、お互いに理解し合わず、いがみ合って暮らしていたのを見て、異文化の相互理解と共存のために、中立的な世界共通言語を作った)
で、所長と社長は、二人で万座温泉までの登山道を歩き、そして温泉につかり、ビールを飲んで昼寝し、また、ブラブラ吾妻鉱山に帰って行ったそうです。昭和15年のことでした。のんびりした時代です。まだ道路は無く、登山道で吾妻鉱山まで登り、登山道で万座温泉に行った時代でした。荷物は、索道というスキーリフトみたいなもので運んでいました。
そういう僻地なので、困るのは病気にかかったときです。
なので村上さんは、立派な診療所を作って医師を募集しました。
嬬恋村で最初にレントゲンを導入したのも吾妻鉱山です。
(つまり小串鉱山・石津鉱山より先だった)
設備は都会の病院に負けていません。
歯科医の先生には、週末の出張診療のお願いしています。
(広報『吾妻鉱山』より借用)
この歯科医の先生が、時々、万座温泉に遊びに行くのですが、万座温泉日進館に泊まると、なじみの仲居さんが、
「先生、新潟からきた女中さんが、盲腸で苦しんでます」
と駆け込んできました。
しかし、歯科医に盲腸は切れない。
けれど万座に医者がいるわけがない。
歯科医の先生は困った。
しかたなく診てみると熱は平熱で、お腹を雪で冷やしながらウンウンと唸っている。足を触ってみると冷たい。これは盲腸ではなく過労かもしれないと思った歯科医の先生は、雪の代わりに湯たんぽを二つ用意させ、腹と足を温めさせ、鎮痛剤を飲ませたら、すやすやと眠ってしまった。交通手段のない僻地で恐いのは、今も昔も病気なんですよね。新型コロナウイルスによって、小笠原諸島が、いまだに観光客を呼べないでいるのは、そういうことなのでしょう。
つづく。
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