吾妻鉱山で盛んに行われたのはスキーです。日頃から肉体労働をしているのにスキーをして遊ぶなんて信じられませんが、吾妻鉱山の中でスキー大会が行われていたぐらい、皆さんスキーをしていたようです。これは学校の先生も同じで、暇さえあればスキーをしていたようです。
広報誌には、スキーのバッジテスト・指導員検定の傾向と対策なども掲載されていますから、吾妻鉱山の人たちのスキー熱は大したものです。ちなみに吾妻鉱山には、スキーリフトはありません。歩いて山に登って滑るだけです。つまり山スキーです。広報誌をみると白馬で山岳スキーを楽しんでいる猛者もいたようです。
(広報『吾妻鉱山』より借用・吾妻鉱山のスキー大会)
他の娯楽は登山と温泉ですね。
万座温泉まで登山道を歩き、温泉に浸かって昼寝をしてビールを飲んで下山をする。
考えてみたら贅沢な娯楽です。
野球も熱心にしていたようです。
実業団野球で非常に強かった。
これはテレビの普及率と関係があるかもしれません。
ところで吾妻鉱山では、早くからテレビが普及していました。昭和35年頃の広報誌の「家庭訪問」に出てくるご家族は、皆さんテレビを好意的に捉えています。チャンネル争いもなかったようです。最もチャンネルを選択できるほど、視聴できるテレビ局が多くはなかったのかもしれません。インタビューの人が、子供たちはテレビで勉強ができなくなるのではないかと質問していますが、そんなことはないと答えています。
カメラも普及していたようで、広報誌に投稿写真がたくさん載っています。その当時プロの写真家が使っていたMamiya6で、撮影した写真が、 吾妻地区労働者美術展で入選していた写真も広報誌に掲載されていたりします。 ということは吾妻鉱山では、写真現像ができたということです。
そういえば吾妻鉱山には映画館もありました。
毎月、 何本かの最新映画を上映していたようです。
登山部もあったようで、あちこち登山もしているようで、その記録が毎月のように広報誌に掲載されています。夏の北アルプスはもちろんのこと、全国各地の冬山登山も盛んに行われています。残雪のゴールデンウィークに燕岳から槍ヶ岳そして上高地とテントで一人縦走する猛者もいました。
どの報告を読んでも、コースタイムが非常に早く、ほとんどがテント泊であることを考えたら、 彼らの体力は想像絶するものがあります。広報誌で山の天気予報と対策について解説を行っているくらいですから、プロの登山家なみの力量があったみたいです。
例えば、浅間隠山に登った記録があるのですが、二度上峠の道路がなかった時代に、北軽井沢あたりから2時間30分で浅間隠山に到着しています。これでも十分すごいのですが、その後、 3時間かけて薬師温泉まで降りた後に、須賀尾峠を越えて、 丸岩を登り、川原湯温泉方面に抜けて、長野原駅まで歩くという超超超ハードスケジュール。地元民なら
「嘘だろう!」
と絶叫したくなるようなコース。土地勘のない人には何のことやらさっぱり分からないでしょうが、 1日に浅間山に2回登るレベルだといえば分かっていただけるでしょうか?
吾妻鉱山の仲間と団体旅も盛んに行われていたようです。
昭和35年には、須坂の上山田温泉に一泊二日の旅行を行っていました。
登山道を歩いて万座温泉まで行き、そこから始発のバスで上山田温泉に行きます。
どうして万座温泉かと言うと、当時は万座温泉から須坂に抜けるルートが、最も交通の便が良かったからです。途中に吾妻鉱山より巨大な小串鉱山がありますので、 バスの利用客も多かった。小串鉱山の人たちも、 吾妻鉱山の人たちも上山田温泉の上客(お得意さん)だったようです。 当時の上山田温泉には、ヘルスセンターなるものがあって、吾妻鉱山では勤続15年以上のものを 招待したようです。
(広報『吾妻鉱山』より借用・佐渡尖閣湾の遊覧船)
そういえば、 私が生まれた昭和36年の夏に、吾妻鉱山の人たちが、私が生まれ育った佐渡島に旅行に出かけています。早朝に出発して、 夕方に佐渡島に上陸。かなりの強行スケジュール。佐渡の玄関口である両津港というとところに宿泊しますが、暑くて寝られなかったらしい。それはそうでしょう。標高1500Mの涼しい高原に住んでいるわけですから、真夏に下界に降りる方が間違っている。 せっかく涼しい所にいるわけだから、何も暑いところに出かけなくても良さそうなものなのに、やっぱり出かけてしまっている 。
そして翌日、尖閣湾・相川金山をまわって、 新潟に宿泊。なんと言っていいのやら。佐渡に生まれ育った私に言わせれば、無茶苦茶なハードスケジュール。これは若い佐渡島民には分からないでしょうけれど、昭和36年当時の佐渡島の道路事情を考えたら、考えられないほどのハードスケジュールになります。で、観光バスを使っているみたいですね。そして、出発したら、それに薄々感づいてしまっている吾妻鉱山のご一行様。
対向車がきたらアウト!
という道幅に大型バスが、荒波のギリギリ崖っぷちを走るわけですから、かなりスリルのある恐怖の観光バス旅行なはずなのですが、吾妻鉱山の御一行様は「運転がうまいなあ」と感心している。鈍感なのか? それとも、ひょっとして当時の草軽交通バスもにたようなものだったのか? 吾妻鉱山行きのバスも、たいして変わらない道幅を運転していたのか?
そして相川金山の跡地を見学していると鉱山関係者だけに相川金山のことが気にかかってる様子。特に金山が、鉱山として寂れていき、観光に活路を見いだしている姿に感慨深そうである。10年後に閉山となる吾妻鉱山の人たちにとって、佐渡金山は、観光名所というより、自分たちの未来の姿を写しているような気がしていたかもしれない。
昭和27年に縮小され廃墟となっている金山の工場跡地に感傷をうけていたようである。
硫黄鉱山の坑道で働いている彼らが、佐渡金山の坑道で何を思っていたのか?
私は静かに想像してみました。
それから佐渡島の広大さに、さかんに感心していました。日頃、吾妻鉱山という狭い地域に密集しているためなのか、やたらと「佐渡は広い」と感動している。彼らは、佐渡島を吾妻鉱山くらいの面積だと思っていたのだろうか?
ちなみに彼らは、米の美味しさに絶句しています。吾妻鉱山では、米が美味しくなかったのかなあ? 佐渡の魚についてはふれていませんね。吾妻鉱山では魚は食べられなかったのに。吾妻鉱山での食事は、もっぱら缶詰で、生鮮食品は週に1回の配給のみでした。けれど、どの旅行記をみても食事(グルメ)についてふれていてる記事が無いのはなぜなんだろうか?
ヒントとしては、群馬県民は、どんな粗食も美味しく食べる県民性だからかもしれません。そういう風に躾けられているらしい。うちの嫁さんも、かなり不味いものを美味しく食べて文句一つ言わない。ハズレの定食屋で私が「不味い」なんて言おうものならテーブルの下で足で私を蹴っ飛ばしてくる(さすがカカア天下の国)。群馬県民は出された料理に文句を言う習慣がないらしい。
新潟県民は逆に不味かったら「不味い」といくらでも言う。私の親も、さかんに「美味しい」とか「不味い」と言っていた。不味いものを「不味い」と言っても何の問題もなかった。群馬県民は食事で文句を言わない県民性なのだ。そのかわりに最新家電は、ジャンジャン買う。吾妻鉱山という僻地でのテレビ普及率は驚異的です。昭和35年にほとんどの家にテレビがあった。佐渡出身の私は昭和36年生まれだけれど、テレビなんて昭和40年頃までなかった。昭和44年の小学校2年生の時でもテレビの無い家があった。だからヤマダ電機・コジマ電気・ビックカメラといった家電の量販店は、すべてが群馬発祥です(ケーズ電気は、群馬県の御親戚の栃木県)。
それはともかく話をもどします。
翌日、吾妻鉱山のご一行様は、新潟県の弥彦辺りを回って帰るわけですが、くたくたになって吾妻鉱山に帰ってきた彼らの結論は、
「夏は涼しい吾妻鉱山が一番!」
ということでした。
これは私も否定しません。
夏は涼しい北軽井沢が一番だと思っています。
つづく。
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どのお店もとても美味しく時には味に郷愁さえ感じました。
群馬の味覚は濃厚で甘しょっぱいだと思います。
秋田は塩を多く使いますが砂糖もまたすごい物です。
納豆、卵焼きにも砂糖を入れますしトマトや夏ミカンにも砂糖を添えてきます。
醤油に砂糖を入れてその汁にうどんを付けて食すなんて事も私が子供時代にはやってました。
味も濃くバター餅はその最たる物です。
群馬では焼きまんじゅうがそれに当たるのでしょうか。
その所為かは分かりませんが群馬の食事はとても美味しいものとインプットされています。