「何万年前の空気だ・・・」
南極の氷は、何万年も前の空気を閉じ込めています。それを噛みしめている私たち親子がいる。不思議な空間が、そこにはありました。
(南極の氷と息子。氷には数万年前の空気が入っている)
本当なら深夜まで話していたかったんですが、夜の10時。
7歳の息子は、もう寝る時間だったので、
途中でストップさせて息子を寝かせたんですが、
その日の夜は、興奮していて寝付かれなかったようです。
息子は、この時の事を宿題の絵日記に書いたんですが、1ページでは書ききれなくて、5ページぐらい必要だといいます。仕方がないので絵日記のフォーマットをコピーして2ページに抑えるように言いました。なんとか2ページで宿題の絵日記終わらせたようですが、本当は5ページぐらい書きたかったようです。それほど息子の心をくすぐった。
どおりで講演の要請があるはずです。内容が面白い。小学2年生が聞いて面白いらしい。何しろ土屋達郎氏は、あまり難しいことを言わない。そういうキャラでもなく、どちらかと言うと幼稚園生でも分かる言葉を使って南極での体験を語る。もちろん、写真や動画を使っての解説です。なので
「もし嬬恋村から講演の要請があったら、いくらぐらいで引き受ける?」
と聞いたら、
「いつも謝金(交通費程度)で引き受けてます」
と言ってきたので、機会があったら、嬬恋村や教育委員会に推薦してみたいと思います。というのも、嬬恋村は、南極と繋がりがあるからです。
(第1次南極越冬隊の隊長の西堀栄三郎)
第1次南極越冬隊の隊長である西堀栄三郎さんは、11歳のとき、白瀬矗中尉の南極探検報告会に行って「いつかは自分も南極へ行きたい」と思い、中学時代から登山をはじめ、南極の厳しい自然に対応できる技術や知識を蓄えました。そして京都大学に入り、昭和2年1月に京都大学山岳部の仲間たちと群馬県吾妻郡嬬恋村の鹿沢温泉で合宿しました。
(アインシュタインと学生時代の西堀栄三郎)
合宿が終わってから後に第1回南極越冬隊長をされた西堀栄三郎氏、京大カラコルム遠征隊長となった四手井綱彦氏、アフガニスタン遠征隊を勤めた酒戸弥二郎氏、並びに東大スキ−部OBで後にチャチャヌプリ遠征隊長をされた渡辺漸の4名でスキ−で新鹿沢(おそらく鹿沢館)へ下って宿泊しましたが、翌日天候が崩れ宿に閉じこめられた。その時に「山岳部の歌を作ろう」と詩を書いた。それが雪山讃歌です。ちなみに歌詞は、
「町には住めないからに」
でわかるとおり、京都弁まるだしです。
嬬恋村の鹿沢温泉紅葉館に雪山讃歌の碑があります。鹿沢温泉にメロディーラインがあるんですが、それも雪山賛歌の曲です。嬬恋村の防災無線でお昼に流れる音楽も雪山賛歌だった。そのせいかどうかは分かりませんが、2019年の越冬隊の訓練は鹿沢温泉ちかくの湯の丸山で行われました。ちなみに、この曲が世に出た時は、作詞者不詳とされましたが、桑原武夫(京都大学人文科学研究所教授)が西堀榮三郎を作詞者として著作権登録の手続きを行い、この著作権印税に拠って京都大学山岳部の財政が潤ったという逸話もあります。
(西堀さんの直筆をレリーフにしている)
1955年(昭和30)の秋。日本が1957年(昭和32)の「国際地球観測年」に参加することになり、そこで西堀は、長年蓄積してきた知識を披露し、その翌年には南極観測隊副隊長就任を打診されました。
地球観測年は1957年を予備観測、翌1958年を本観測と定められており、文部省の計画では、予備観測年に越冬するという計画はなかった。日本に割りふられた観測地域の偵察を行い、基地を設置する場所を決めるだけとなっていました。
ちなみに日本に割りふられた観測地域は、絶対に上陸できない地域と言われ、どの国も上陸できないでいた。そんな地域を嫌がらせのように割り寝当てられていた。だから初年度は、偵察だけの予定だったが、西堀は偵察だけで無く越冬を強く主張しました。予備年での越冬経験のない状態では、本観測年での越冬は危険であるというのが西堀の主張だった。その結果、越冬が決定されることになりました。
もし、この時、越冬してなかったら、その後の南極越冬隊は無かったかもしれない。というのも、本観測年に当たる1年後(1958年)に南極へとやってきた第2次観測隊は、予想をはるかに上回る悪天候の氷海を前に、南極大陸に接岸することもままならず、本観測隊の越冬を断念するしかなかったからです。一次越冬隊をヘリコプターで収容するだけで精一杯で、タロ・ジロといった犬たちは置き去りにされてしまったからです。
もし第1次での越冬がなかったら、本観測年での越冬断念と併せて、日本の南極事業は、それで終わっていたかもしれない。なので西堀栄三郎は、日本の南極観測事業を切り開いた人と言っても過言ではありません。
それはともかくとして、私の中で南極教室といえば、オーロラとか、ペンギンとか、 アザラシとか、そういったものイメージしていて、そういう話がいっぱい聞けるんだろうなぁと思っていたんですが、 意外なことに、そういう話より現地での体験談みたいなのが多かった。
例えば、アザラシの生態調査をする観測班がいたので、それを土屋達郎氏がサポートすることが多かったのでアザラシの話がありました。アザラシを捕まえる時のエピソードとか、おとなしいアザラシの横で添い寝する時の画像とか、アザラシがどこから出てくるとか、アザラシに噛まれるとどうなるかとか、そんな話が多かった。
(氷河が、海に落ちようとしている光景がよくわかる写真)
話を戻します。土屋達郎氏の南極教室で印象的だったのは、
『南極は地球を覗く窓』
という視点です。
南極を調べることによって、地球が見えてくるんです。これに私が食いつきました。色々質問してくると、その答えに対するヒントが土屋達郎氏の口から色々と出てきて、菅沼悠介先生の
『地磁気逆転と「チバニアン」』
を読むといいと言われ、本を貸してもらいました。この本はブルーバックスなので専門的な難しいことがいっぱい書いてあるのかなと思ってたんですが、その先入観に反して書いてある内容は分かりやすかった。
著者の菅沼悠介先生というのは、土屋達郎氏がよく知っている国立極地研究所の人で、第四紀地質学、古地磁気学、岩石磁気学などが専門らしいのですが、その人が書いた『地磁気逆転と「チバニアン」』 に感動。そこにはハリウッドで映画化されてもいいくらいのすごいエピソードが書いてある。
チバニアンとは地球の歴史上の一つの時代(これを「地質年代」という)についた新しい名称で、チバニアンの認定を巡っては、次々に立ちはだかった障害がありましたが、それをはねのけて、正式に認定され、国際学会が発表する最新の地質年代表にも「Chibanian(チバニアン)」の名前が追加された。その時のエピソードが『地磁気逆転と「チバニアン」』に書いてありました。
その本を読んでいる間、眠れませんでした。最後にはベッドの上で正座して読んでいました。最後の1ページを読み終えると久しぶりに腕がガクガクと震えた。ふつうブルーバックス(新書)と言う科学的な本を読んでこれほど感動することはあまりない。しかし、今回は感動した。
どうして火星には空気がないのかとか、どうして金星には生物が住めないのかとか?という疑問がいっぺんで分かってしまった。そして、それを調べるためになぜ南極を調べなければいけないかとか、 いろんなところがつながってくる。おまけに 地学の教科書を書き換えるような大事件に発展してしまう感動的なエピソードがラストにある。
本の中身を少しだけ紹介すると、 地球には磁場があります。この磁場のおかげで、太陽から吹き荒れる太陽風をブロックしているわけですが、火星や金星には磁場がありません。そのためにモロに太陽風の影響を受けて、空気や水を宇宙空間に放出しまうわけです。
幸運なことに地球には磁場があった。どうして地球に磁場ができたかと言うと、地球の核に鉄を含む金属が固体または液体状となって対流している。その対流によって、磁場が起きるんですが、火星にはそれがない。だから大昔の火星には水もあったし空気もあったし氷や川もあった。それが太陽風によってなくなってしまったわけです。
逆に言うと地球は、対流があったために磁場ができて水も空気も保存された。その代わりに大陸が移動したりした。プレートテクトニクスの現象が起きた。そして磁場の関係で太陽風がブロックされて南極や北極に集まってくる。それが地球の大気とぶつかり合ってオーロラもできたりする。こういうことを研究するために、南極で調査してる人たちもいる。つまり土屋達郎氏 のいう
『南極は地球を覗く窓』
というのは、こういうことを言うわけです。
つづく。
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偉大な人が多かったですね。
先人には・・・・
先人のモノの少ない時代に、いろんな開発等、今では考えられない中で、
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成り立っていることに、忘れてはなりませんよね。