「野尻湖の発掘によって世界史が書き変わる」
と言ってました。どういう風に書き変わるのか、当時高校生だった私にはさっぱりわかりませんでしたが、あれから四十年経って、どういう風に世界史が書き換わったか興味がありました。
実際、この四十年間に日本史に関しては確実に書き換わっています。稲作に関して言えば、四十年前には、中国大陸から入ってきたと言われていましたが、今では完全に否定されています。日本では今から六七〇〇年前から陸稲の稲作栽培が行われていたことが分かっていますし、水稲栽培は三七〇〇年前から始まっています。そして朝鮮半島の稲作は、日本から輸入されたものであることも中国の研究家による裏付け調査で、歴史として確定しています。日本最古の土器は一万六五〇〇年前までさかのぼる事になりました。農業の起源地とされた中近東やアフリカには一万年をさかのぼる遺跡がありませんので縄文時代人は土器製作における世界先端技術を持っていたということがわかってきました。また北海道の縄文遺跡から布が発見されており、三内丸山遺跡では巨大建築物と、加工された全国各地の翡翠・黒曜石が発見されています。
しかしこれらの歴史の書き換えは、あくまでも縄文時代の話です。
野尻湖のナウマン象の生きてた時代は、今から四万年以上前です。
その四万年前の遺跡に石器がじゃんじゃん出てきている。
これが問題だったりする。
ホモサピエンスは、今から三万八千年前に、中国と日本に同時多発的に広がっています。三万八千年以上前の遺跡は存在してない。つまり、三万八千年以上の前にホモサピエンスはアジアに来てないことになっている。けれど、野尻湖には大量の旧石器がある。何らかの人類がいたことは間違いない。ところが人骨が出てこない。これは仕方ないことで、日本の土壌はほとんど酸性土質なので、人骨が残りにくい。唯一の例外は沖縄地方だけ。沖縄の土壌はアルカリ性なので人骨が残っている。
まあそれはいいとして、もし、野尻湖に人骨が残っていたとしたら大発見になる。
その人骨がホモサピエンスのものか、ネアンデルタール人のものか、
その他の人類のものなのか特定できたら、すごいことになる。
世界史が書き変わることになる。
ところで日本には一万箇所の旧石器時代の遺跡があります。
この一万箇所という数字は、世界最大クラス。
すごい数で驚かされますが日本列島にそれだけ人口が密集していたことになる。
ところがどういうわけか、その一万箇所にものぼる遺跡は、
今から三万八千年以降のものです。
それ以前の遺跡はほとんどありません。
これが何を物語るかと言うと、今から三万八千年ぐらい前に突然ホモサピエンスが日本列島にやってきたということになります。これは根拠のない話ではなくて、中国でも朝鮮でも三万八千年以前にホモサピエンスの遺跡がないことを考えれば、三万八千年を境にしてホモサピエンスが東アジアに殺到したと考えるのが自然です。
ちょっと脱線しますが、東南アジアとオーストラリアには、四万五千年前にホモサピエンスが到達しています。そしてこのホモサピエンスと、東アジアのホモサピエンスは、骨格から何からしてほとんど共通点がありません。むしろメラネシアやアボリジニの骨格の特徴と共通しています。しかも現在の東南アジア人の骨格とも共通点がないことから、東南アジア人の祖先とも違うとも言われています。
話を戻します。
東アジアにおける旧石器時代の遺跡の調査により、
今から三万八千年前に東アジア全体にホモサピエンスが殺到したと推定されている。
ここまでが前提です。
ここから野尻湖の話になりますが、野尻湖には、ナウマン象の骨と共に大量の旧石器の遺跡が発掘されています。問題はその年代です。その旧石器の遺跡は、四万年以上前のものが多い。もしこれが本当だとすると、日本には四万年以上前にホモサピエンスがいたか、それとも別のホモサピエンスがいたのか、それともネアンデルタール人がいたのか、ホモエレクトロス(北京原人またはジャワ原人)がいたのか、興味が尽きないのです。
残念ながら野尻湖に人骨を発見されてない。と言うか沖縄を除いて日本列島には旧石器時代の人骨がほとんど発見されてない。これは日本列島の土壌が酸性土質でやるために骨が残りにくいという土壌であることが原因だといわれています。だから野反湖の遺跡がホモサピエンスのものなのか、それ以前の人類のものなのか今ひとつわかっていません。
ちなみに野尻湖の旧石器時代の遺跡は、新しいもので三万八千年前のもので、古いものになると六万年前のものになります。石器も多いですが、骨製品も多い。骨製のクリーパーや骨製のナイフ骨製のスクレーバーが出てきます。これらは狩りで捕まえたナウマン象を解体するときに使われたと思われます。
その他にも骨製の尖頭器も出ている。尖頭器というのは、先端が鋭く尖った骨器で、投げ槍の槍先として使われてます。この尖頭器が、六万年前の地質から出てきている。野尻湖とは、いったい何なんでしょうか?
この博物館に来て印象深かったのは、旅館のご主人が湖を散歩してる時に象の化石らしきものを発見して、それを専門家にみてもらった。しかしよくわからなかった。そこでとりあえず掘ってみようと、素人が手弁当で掘ってみたらナウマン象の骨がザクザクと出てきたと言うエピソードです。そして、その後、大量の素人たちが、専門家と協力して発掘作業をしてると言うエピソードに驚かされます。
このエピソードを伺うと思い出すのが、明石原人のエピソードと、相澤中庸のエピソードです。
まず明石原人について。アマチュア考古学者の直良信夫が、明石で明石原人を発見したけれど、彼は素人だったので誰にも相手にされなかった。人骨を旧石器時代のものとする直良の主張は学界では認められなかった。旧石器時代の日本には人類は存在しないと言われて相手にされなかった。昭和二十四年以前は、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられていた。
ところが戦後、縄文時代以前に人類が日本列島に存在した可能性がでてきて、明石原人の存在が浮かびあがり発掘調査が行なわれた。その時、発見者の奈良信夫に対して学者たちは「オブサーバーとしてなら参加を許す」と高圧的な態度をとり、直良は激怒して参加拒否したため、調査団は化石発見地点から約八十m西寄りの場所を調査してしまい何の化石も発見できなかった。野尻湖発掘とは大違いである。
ここで群馬県の話になります。
昭和二十一年、相沢忠洋は、岩宿の切り通し関東ローム層から細石器を発見した。その後も発掘を続け、昭和二十四年に黒曜石の尖頭器を発見した。しかし、まともに取り合う学者はいなかった。その中で、明治大学の院生だった芹沢長介氏だけが、黒曜石の尖頭器が、赤土の中から出土するという重大性に気づいて、岩宿で発掘を行い、旧石器を発見して主要新聞に発表し、それがきっかけで本格的な発掘が始まっています。院生が取り扱ってくれたので、明石原人のときよりマシですが、当時の学者たちの頑迷ぶりに驚かされます。
ちなみに野尻湖で地民がナウマン象の臼歯を発見したのは、昭和二十三年のことです。そこから学者たちに知られるまで八年かかっています。その間に日本の地質学会や考古学学会が大きく変化しています。アマチュアを含め、地元の教員たちや、郷土史家たちが一緒になって、共同研究をする。それが専門家をしのぐ大きな発見に繋がっていた。
そういう雰囲気の中で野尻湖を発掘しようとなって、野尻湖友の会というものを作って、それこそ小学生から大人まで発掘をするようになったわけです。で、発掘してみたらナウマン象だけでなくて、旧石器時代の石器などが続々と出てきた。それも四万年以上前の地層から出てきた。信じられない大発見が、素人たちの発掘から続々と出てきたわけです。アマチュアを含めた共同研究が、専門家をしのぐ業績を次々と残していったのです。
つづく。
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