2020年12月09日

『ふふはり亭』とC.W.ニコル【6】最終回

 令和の時代になっても子供たちに人気のあるドラえもんは、私が小学校二年生の時に小学館の漫画雑誌で連載されています。1969年のことです。そして私が中学一年生だった1974年3月に、最終回で一度は連載が終わっています。

 私の子供の頃のドラえもんは、今のドラえもんとちょっと違っていました。東京が舞台だったにも関わらず、ドジなのび太が何度も肥溜めに落っこちていたのです。そうです、1969年頃の東京郊外には、田畑がいっぱいあって、それに伴いたくさんの肥溜めがありました。今は高級住宅街になっている世田谷区には牧場までありました。藤子不二雄が住んでいた練馬区にも、見渡す限りの畑がありました。その畑のそばには、人糞と藁などをかき混ぜて発酵させていた『肥だめ』というものがあったのです。


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 実は、その数年前に、一人の北極探検隊が、空手と柔道を学ぶ目的で、日本に訪れていました。cwニコルさんです。彼は礼儀正しい日本人をいたく気に入りました。というのも、彼の母国であるイギリスでは同級生に苛烈ないじめを受け、教師から理不尽な体罰を繰り返して受けていたし、イングランド国教会の牧師にも理不尽なことでよく殴られていました。

 ところが日本人は、武道を身につけて強いにもかかわらず、暴力的なことをせず礼儀正しく思いやりがあった。だから日本が大好きになったんですが、一つだけ気に入らないことがありました。東京が大都会すぎることです。

 大都会すぎて、鬱になりかかった頃に、空手の先生が心配して、弟子にたのんでニコルさんを冬の北アルプスに連れて行くよう言いました。

「先生、冬の北アルプスなんかに連れて行って大丈夫ですかね」
「何を言うか、この人は3回も北極探検に行った人だぞ」

 こうして彼は北アルプスに連れて行かれたわけですが、あまりの雪の大さと森の深さに愕然としました。冬の北アルプスは、北極なんかよりもずっと厳しかった。しかしそれが楽しかった。以来、森と山のとりこになった。


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 それからのニコルさんは、日本の自然に魅了されて、当時はまだあった東京郊外の森にどんどん入ってきました。現在でも東村山市には森がありますけれど、1960年代の東村山市の森は、鬱蒼としていました。

 けれど一旦森に入ってみると、落ち葉を拾い人たちがたくさんいました。落ち葉を何に使うのかなと思って聞いてみたら、肥溜めに使うそうです。そして肥溜めに驚きます。当時の東京郊外には、今では全国どこにも存在しない肥溜めがたくさんあって、それがドラえもんにも登場して、のび太が何度も落っこちるシーンが書いてあります。

 それはともかく、ニコルさんは森の中で、たくさんの子供たちに出会います。子供たちも当時は珍しかった外人に興味深々で近づいてきました。両者はすぐ仲良くなって、ニコルさんは子供たちに自然のことをいっぱい学びます。ヨーロッパには存在しないセミのこととか、色々な木のこととか、食べられる木の実とか、野草とか色々なことを子供たちから学びました。


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 話を変えます。

 私がcwニコルさんを知ったのは、二十歳の頃です。当時私は、シナリオを書く勉強をしていて、シナリオコンクールに作品を応募していました。残念ながら私の作品は、二次選考止まりだったんですが、その時のシナリオコンクールで入選したのが、cwニコルさんです。彼のシナリオを読んで
「手強いライバルが登場したな」
と思ったんですが、彼はそれから二度とシナリオを書かなかった。あれ?どうしたんだろうと思っていたら、その5年後ぐらいに、黒姫山の麓の里山を買い取って
「アファンの森」
という森を作ったと聞きました。どういう意味だろうと調べてみたら、ケルト語で「風の谷」という名前だと知りました。当時、風の谷のナウシカというアニメが大ヒットしていたので、なんとなく納得したことを覚えています。


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 それをきっかけにcwニコルさんの本を何冊か読んでみたんですが、本を読んでみると非常に面白いユーモアのある人であることがわかりました。中でも一番面白かったのが

「この数十年間の間に、日本の森で絶滅した生物がいる」

という問いかけです。
「昔は日本の森にいて、今は存在しない生物といったら何だろう」
と私は首をかしげました。すると驚くべき答えが返ってきました。

「それは日本の子供たちです」

 なるほど、それはそうです。
 昔は森に行けば、そこは子供たちの遊び場でした。
 今では森に入る子供たちなんかいません。

 だから私は息子が産まれたら毎日のように北軽井沢の森の中に連れて行きました。森が無理なら浅間牧場に連れて行きました。小学校に入る前の、うちの息子ほど北軽井沢の森に出入りした子供はいないと思います。ほぼ毎日、森の中を散策していましたから。新型コロナウイルスで非常事態宣言がでて、5ヶ月にわたって学校が休校になったときも、毎日、山に入っていました。けれど、息子以外に森で子供を見かけたことはありません。森で遊ぶ子供たちが、激減しているのは確かです。


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 それはともかく、ニコルさんは1960年代の日本の森で日本人の子供たちと出会い、彼らから自然のことを教わったと言います。ニコルさんの師匠は、60年代の日本の子供たちだった。彼らは何でも知っていて、森の中の恵みを食べては、腹ぺこをいやしていたし、虫たちや魚たち相手に遊んでいて、ニコルさんの良き師匠でもあった。けれど、そういう子供たちは、平成時代になると森から消えてしまった。つまり絶滅したというわけです。

 長い前置きはここで終わります。

 私の友人である土屋達郎氏が、南極探検から帰ってきて「宿をやりたい」と言ってきました。私は、色々サポートしてあげて、最終候補地として、北軽井沢か黒姫のどちらかに絞られてきました。私としては北軽井沢を推奨したんですが、彼が選んだのは黒姫山の麓でした。

 彼には黙っていましたが、確実にcwニコルさんからアポがあるなと確信しました。北極探検家が、南極帰りの男をほっておくわけがないからです。絶対にアファンの森の事業に引きずり込むだろうと思っていました。ところが、営業がスタートしても、そういう話は出てこなかった。

 おかしいな変だなと思っていたら、彼は癌で入院していたそうです。そして、新型コロナが猛威を振るっている2020年4月3日に長野市の病院で亡くなったそうです。どおりで、土屋達郎氏に接触してこないわけだと思いました。ちょっと残念でもあります。アファンの森の事業については、機会があったら、このブログで解説したいと思っています。


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 ちなみに、黒姫童話館の別館では、今年の11月末まで、C.W.ニコルさんの企画展をやっていました。私は、ぎりぎり、その企画展を見ることが出来ましたが、写真撮影が禁止されていたので、画像をアップできなかったのは残念です。


つづく。

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posted by マネージャー at 09:30| Comment(2) | 長野県&長野市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私は首都圏ながら田舎の昭和30年代に育ちましたので、肥だめも里山もなじみですが、当時の森、里山は焚きつけ用の松葉を集めるなどいろいろに使われていたので、下草は刈られ、自転車でも入って行けて、我々ガキどもの格好の遊び場でした。焚きつけも薪も使われなくなり、下草も伸びきってしまえば、もう入れる場所ではなくなってしまったのが、昭和40年代くらいのように思います。
Posted by Aki at 2020年12月10日 01:28
これは貴重な証言ですね。たしかに佐渡でも焚き付け用のシバを集めていました。秋口に自分の3倍ぐらいの大きさのシバを担いでいた老人をよく見かけましたね。
Posted by マネージャー at 2020年12月10日 09:25
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