当時はテレビが高級品で、一家に何台もあるという状況ではありません。私が小学校2年生の時(1969年)に、担任の先生が「自宅にテレビがある人手を上げて」とアンケートをとったことがありますが、昭和44年当時においても、テレビのない家庭が2割ぐらいありました。といってもテレビのない家庭が決して貧乏だったわけではなく、テレビにより優先するものがあった。農家だったら耕運機や軽トラックを優先して買わなければいけないので、テレビが後回しになっていただけです。それが証拠に遅くテレビを買った家は、当時は驚くほど高価なカラーテレビになっていた。
それはともかく、当時はどの家でもテレビが1台しかなくて、それを家族全員で見ていました。親が大河ドラマを見れば、子供も一緒に見ます。チャンネル決定権は親にありますから「もう寝なさい」と言われない限り一緒に見ることになる。だから私が小学校2年生の時に放映された『天と地と(1969)』を親と一緒に夢中になって見ていることは、新潟県民にとっては、少しも珍しくないことだった。だから小学校の2年生が、学校でNHKの大河ドラマを語るということが普通にあったのです。
ところが、日本がどんどん豊かになっていくと、状況が少し変わってきます。まず新潟県に一つしかなかった民放が、二つになってチャンネルの選択肢が増えてきます。テレビも一家に一台ではなくて、二台になる。カラーテレビが普及して、今まで使っていた白黒テレビが予備のテレビになって、どの家庭でもテレビが2台以上になる。つまり大河ドラマの裏番組を見れるようになる。親と違う番組を見るようになる。大河ドラマを見る子供たちがどんどん減っていってしまう。
そして学校での話題が、大河ドラマから青春ドラマに変わっていく。
徐々にクラスの友達から大河ドラマの話題がなくなっていき、
日テレの青春ドラマを見る人たちがどんどん増えていく。
(俺は男だ!/日テレの青春学園ドラマ復活の起爆剤となった)
『俺は男だ』から始まって、『飛び出せ青春』『われら青春』と、どんどん面白い青春ドラマが出てきた。私の友人たちは、ほぼ全員が、それらのドラマに熱中していました。大河ドラマを見る人間は、クラスの中で私一人しかいなかった。だから私は日テレの青春ドラマをリアルタイムで見ていません。大河ドラマを優先していたので、これらの青春ドラマは全て再放送で見ています。
『俺は男だ』の時は、『新・平家物語』だったし、
『飛び出せ青春』の時は『国盗り物語』で、
『われら青春』の時は『勝海舟』だったので日テレの青春ドラマには見てない。
ところが中学生になって、中学校で運動会が開かれると愕然とします。運動会といえば応援合戦がつきものですが、応援合戦をする時に歌う歌は、たいてい『太陽学園』の歌。つまり布施明の『貴様と俺』だった。これは日テレの青春ドラマを見ていれば、必ず覚えてしまう歌で、クラスメイトは全員知っていたのですが、私一人が知らなかった。
(布施明の『貴様と俺』は、当時の運動会の応援歌の定番だった)
『貴様と俺』という歌は、1965年に日本テレビで放送された『青春とはなんだ』という学園ドラマにでてくる歌で、以降、日テレの青春学園ドラマでは、かならず劇中歌として歌われていました。その裏番組が、NHKの大河ドラマだった。大河ドラマを見ていたら、それについて無知になる。で、無知なのは私一人だった。
みんな大河ドラマなど見ず、日テレの青春学園ドラマに夢中になっていた。運動会の応援歌は、まだあった。『太陽がくれた季節』とか『帰らざる日のために』を運動会で歌っていた。運動会のフォークダンスは、中村雅俊の『青春貴族』で踊っていた。この曲も『われら青春』で使われた曲で、大河ドラマしか見てなかった私は知らなかった。
ただし、こういった青春学園ドラマは、夕方5時台にジャンジャン再放送されたので、そこで見るようになり、やっとみんなの話題に追いつくようになりました。学園ドラマで使われた音楽の知識も吸収できるようになった。
中学校や高等学校時代に、友人とテレビドラマで会話が合わないというのは非常に辛いものがあります。だから放課後に自宅で青春学園ドラマの再放送を何度も見た。つまり、NHKの大河ドラマを見るということは、友人関係にブレーキがかかる。みんなの趣味と合わなくなる。
私は、みんなと一緒に遊んだりふざけたりもしますが、そういう賑やかな友人たちとの付き合いから、こっそり抜け出して一人図書館で司馬遼太郎の本を読みふけることも多かった。
それと似たような人間が、私の他にも何人かいて、その人たちもやはり図書館でこっそり本を読んでいました。もちろん同じ趣味だと思われるので、そういう人たちと話しあえば、歴史仲間として一緒につるむこともできたんでしょうが、どういう訳か、お互いにそういうことはしません。お互いに趣味を語り合うよりも、時間の許す限り読みたい本を読むことを優先していたのだと思う。
ここから大河ドラマについてのべます。
倉本聰の名作『勝海舟(1974)』の後に始まったのが『元禄太平記(1975)』です。これが非常に面白かったのですが、裏番組が中村雅俊の『俺たちの旅』で、当時全国の若者が、このドラマに熱中しました。私の同級生も全員見てましたけれど、私は『元禄太平記(1975)』を見ていたので話題にはいれなかった。ちょうど中学2年生だった。
その頃の中学生のお決まりのパターンとして、誰も彼もがギターをひきながら、ビートルズやフォークソングを歌っていましたが、そういう中に入っていけなかった。仕方がないので、そういう話題になった時は、こっそり図書館に行って歴史本を読んでいました。
その次が『風と雲と虹と(1976)』です。相変わらず裏番組は『俺たちの旅』で、中村雅俊は超人気スターとして、ものすごいスポットを浴びていました。彼はラジオ番組でDJをやっていて当時の若者たちは夢中になって聞いていました。そのうち『俺たちの旅』の番組が終わると『俺たちの朝』という青春ドラマが始まって、どういうわけかその番組には、中村雅俊はいなかった。変だなぁと思っていたら、翌年の大河ドラマの主役(高杉晋作)の一人に抜擢されていました。次の青春ドラマから、中村雅俊が消えるということで、話題になっていた。
(俺たちの朝・中村雅俊ぬきで、大ヒットした青春ドラマ)
半沢直樹で大人気になって、半沢直樹パート2に期待されていた堺雅人が、NHKの大河ドラマ『真田丸』の主役に抜擢されたために、半沢直樹パート2が作られず、全国民がイライラしたことがありましたが、あれと同じような状況が、1977年にもおきたのです。
最初の頃は、中村雅俊が『俺たちの朝』に出ないので、青春ドラマは失敗するのではないか?と言われましたが、これが大ヒットしました。特に松崎しげるが歌った「俺たちの朝」がヒット。作詞が谷川俊太郎。作曲が小室等という爽やかな曲が秀逸で、ラジオ番組のリクエストで何度も流れていた。そして若者たちが、江ノ島海岸にロケ地(聖地)めぐりで殺到しました。
私は、NHKの大河ドラマの『花神』を見終わった後に、チャンネルを変えたものですが、まだ『俺たちの朝』は放送中で、ちょうどエンディングで、この曲が流れてて、銭湯から主役の三人がでてくるシーンでした。それを見るたびに、この青春ドラマを見たいと思ったものですが、そういう訳にはいかなかった。当時、司馬遼太郎ファンだった私は、司馬遼太郎原作の『花神(1977)』を見ないわけにはいかなかった。
司馬遼太郎の原作を映像化するのは難しい。
このことは、前回の『国盗り物語』の解説で述べました。
NHKは、この難問を、群像ドラマにすることらよって解決させたことも前回述べました。『国盗り物語』の中に『功名が辻』『尻啖え孫市』『梟の城』『新史太閤記』を入れて、司馬遼太郎の余談の代わりにした。
この手法は、『花神(1977)』でも取り入れられ、『花神』をベースに『世に棲む日日』『十一番目の志士』『峠』『酔って候』『燃えよ剣』を挿入し、群像劇にしてしまった。これが最高に面白かった。おまけにシナリオは『国盗り物語』の時と同じ大野靖子なので、『国盗り物語』のような作品になった。
音楽も『国盗り物語』と同じ林光なのだが、天才・林光は『国盗り物語』と違う感じの音楽を作り込んだ。『国盗り物語』では、死肉を求めて飛び回るトビの鳴き声を思わせる出だしから合戦シーンを思わせる重厚な音楽となり戦国時代らしい音楽だったけれど、『花神』の音楽は日本の夜明けを思わせる音楽で、幕末維新にピッタリの音楽だった。
(花神・司馬遼太郎が、唯一大絶賛したドラマでもある)
ドラマの方も最高だった。それは私の個人的な感想だけの話では無く、原作者の司馬遼太郎本人が、当時大絶賛していたことからもわかると思う。大河ドラマとしては、視聴率は低かったけれど、当時のコアな司馬遼太郎ファンは、涙を流して喜んでいたことを私は知っている。裏番組が若者たちがこぞって視聴した『俺たちの朝』だったわりには善戦したと思う。
おしむらくはタイトルを『花神』にしたことだ。『世に棲む日日』をタイトルにして、中村雅俊の高杉俊作をメインにして、『花神』『十一番目の志士』『峠』『酔って候』『燃えよ剣』を挿入していたら視聴率は、19パーセントでは無く、40パーセントになっていただろう。しかし、あえてそれをせずに、中村梅之助の大村益次郎にしたところが、NHKの意地かもしれない。
男前でかっこいい主人公(中村雅俊の高杉俊作)をサブにもっていって、ドジで不細工な三枚目(中村梅之助の大村益次郎)をメインにしたからこそ、司馬遼太郎が大絶賛したのかもしれない。
人を怒らせる天才で、ドジで不細工な三枚目で、運動音痴で馬にも乗れず、刀の抜き方も知らない司令官という、どうしようもない最低な人間を主人公にした大河ドラマは、この『花神』が最初で最後の大河ドラマである。そういう意味では、三谷幸喜の『真田丸』と真逆な大河ドラマなのだが、面白いことに三谷幸喜は、この『花神』を大絶賛している。
私は『花神』が最終回となった後、大河ドラマをほとんどみてない。『花神』より面白い大河ドラマがあるとは思えなかった。その後は、裏番組の日テレ青春ドラマ『青春ド真中!』を見ていた。当時、私は高校2年生で『青春ド真中!』の設定も高校2年生だった。シナリオは鎌田敏夫で、彼が全盛期を迎えていた頃なので面白さは歴代学園ドラマの中でも最高クラスだった。
つづく。
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