そんな時代にちょっと反抗して見たかった。
そこで私は友人達にこんな手紙を書きました。
「宝物というのは、大抵の場合はキラキラと光る宝石であったり、新しくて綺麗なものだったり、誰もが羨むような高価なものであったりするんですけれど、そうではなくて、ボロボロになればなるほど価値が出てくる。そんな宝物が、あってもいいと思います。ボロボロのママチャリを使って、東海道を何回も往復すれば、もっとボロボロになります。どんどんどんどんボロボロになっていく。けれどボロになれば頃になるほど宝物としての価値が出てくる。そんな宝物を作るには、みんなの協力がいるのです」
この手紙に大勢の人たち(当時二十代の若者)が賛同して、ボロボロのママチャリは東海道を何往復もすることになるのですが、私の計算はちょっと外れてしまいます。東海道を何回も往復すればママチャリは、相当ボロになると思ったんですが、そんなことはなかった。当時の日本製品は、信じがたいぐらいに丈夫で、びくともしなかった。それどころか、かなりボロかったママチャリは、少しずつ皆の手入れがされてしまってピカピカになっていった。私はボロボロにやることによって貴重な宝物を手に入れるはずだったんですが、それは逆になっていく。
まあそんなことはどうでもいいとして、ママチャリは東海道を何往復もします。例えば大阪から東京にママチャリで走って来る。それと東京の連中はそれをたたえて青少年会館かなんかに集まって歓迎します。旅先のエピソードなんかを聞いて盛り上がるわけです。
そして東京に着いたばかりなのに、夜行バスに乗って帰ったり、新幹線で大阪まで帰ったりする。一週間ぐらいかけてママチャリで東海道五十三次を走って東京に来たにも関わらず、東京に着いた途端に新幹線で帰ってしまう。こんな話を今の人たちが聞いたら「馬鹿じゃなかろうか」と思うでしょうけれど、こういう馬鹿なことに熱中する人間がいた時代があった。
到着してすぐ帰る。
いったい何のため?
と思うでしょうけれど、ママチャリで五十三次を走るのが目的なので終わったら帰るのが当然です。けれどそれを他の人に説明するときに困った。どう説明したらいいのか、ちょっと説明しにくい。しかも乗ってきた本人と初対面だったりする。友達の友達がチャレンジしたりするので、私の知らない人がママチャリに乗ってくる。向こうだって、こっちのことは知らないけれど、
「面白そうだな」
と、この企画にのってやってくる。
もちろん、みんな社会人。
休暇をとってチャレンジしている。
そういうママチャリの猛者が大阪に帰るとなると、大勢で見送りに行きます。入場券を買って新幹線のホームに集まって、見送るのですが、歓迎会で、たった数時間一緒にいただけなのに、初対面だったにも関わらず、もう何年も前から友達だったような気になって離れがたくなっている。
だから出発する新幹線と一緒に列車のホームを走ったりするんですけれど、それが毎週のように続くものですから、東京駅の駅員さん達も分かっていていたらしくて、私たちがホームに現れると「来たぞ!」という合図とともに十人ぐらい駅員さんが増えていて事故のないように警備される。完全にマークされていました。
この辺はいかにも東京という感じですが、関西の駅ではちょっと違います。関西人は私たちの想像の斜め上を行く過激さを見せます。東京よりも派手な見送りをします。例えば駅のホームで踊ったりするんですが、どんなにどんちゃん騒ぎをしても関西では駅員さんが警備することはありません。その代わり
「ホーム踊られているお客様、危険なので踊らないでください」
と放送されて、他のお客さんは大爆笑して、写真に撮られたりします。よく見たら駅員さんも笑っていました。
そういえば京都の鴨川(有名なデートスポット・いつもカップルが座っている)で、飲み会の帰りに歌ったり踊ったりしたことがあったんですが、いつのまにか知らない人たちが一緒に踊ったりしていました。で踊りが終わったら何人かの知らない人たちが、恋人のいる自分の席に戻っていくわけですが、恋人を放置して踊りに参加するあたりは、すごいなあと感心したことがあります。
これは飲み会でも東西の差がはっきり現れていました。関東で居酒屋の飲み会をやると、皿にひとつ残ります。 例えば唐揚げが十個ぐらいある皿があったとして、 九個まではみんな遠慮なく食べるんですが、最後の一個になると誰も手をつけなくなる。これを関東の一つ残しと言うらしいんですが、大阪ではちょっと違っていて、最後の一個を誰か食べるかじゃんけんしていました。それを関東の人間、それも江戸っ子たちが、嫌な顔しるんですが、そんなのお構いなしにジャンケン。
もちろん私も参加。「意地汚い」と嫌がる江戸っ子たちを尻目にジャンケンして誰かが勝つと、その唐揚げにみんなで ラー油とか唐辛子をガンガンかけてジャンケンの勝利者に食べさせるわけですが、そういう文化を徐々に理解しだすと、江戸っ子たちも面白がって参加するようになりました。
話を戻します。ママチャリで東京に行ってきて、大阪に帰る時は。もちろん見送りをしました。出発する時だって見送ります。東京から出発する場合は、当時市ヶ谷にあった東京都青少年センターの前から出発します。万歳三唱してママチャリで大阪に向かう友人を送り出すだけですが、その十分後に
「佐藤さん、助けて!」
と友人が戻ってきた。その友人は、手足が動きづらい障害者だった。その友人が「助けて!」とママチャリで逃げてきたので驚いていると、後ろから警官が何人か走ってきている。まるで犯人の逃亡劇のように逃げてきて、私の後ろに隠れて震えている。何事かと聞いてみたら、職務質問をされたので逃げてきたらしい。
逃げれば、おまりさんとしては追いかけますよね。
どうして逃げるのかなあ・・・と思ったら、障害者の彼は、その見た目のために過去に警察官からの職務質問でひどい目にあった事があったらしくて、基本的に警官を嫌っていて逃げてきたらしい。まあ気持ちは分かります。自分の持ち物でないママチャリに乗って旅するわけですから、変な警官に捕まってしまったら面倒なことになることは分かっている。彼はそれを説明するよりも、私のところまで逃げてきて、私から説明する方がベターだと思ったらしい。
結局私から説明したら警官の方は納得したんですが、自分の無実を証明されたということがわかったとたんに、友人は警官たちに対して高圧的になってきた。
「もういいじゃないかお仕事なんだから」
「警官から逃げるのも良くないんだぞ」
となんとか仲裁してその場を切り抜けました。私の友人には警官も多かったので、余計な揉め事は勘弁です。警官の友人とは言っても旅先で知り合った人間なので、交番で出会うと旅の話で盛り上がります。別れ際に記念撮影をしようという話になって、交番の前ではまずいから、どこか別のところに移動しようかと言うと、友人の警官は
「別に構わないよ」
と言って交番で記念撮影をしました。
「交番の前で撮影するのってダメなんじゃないの?」
「いいんだよ、いいんだよ!」
と一緒に撮影するわけですから、 これにはびっくりです。昔映画の撮影をやっていた時は、少しでも交番にカメラが向かっていたら警官から厳重に注意されたことが何度もありましたので、交番前でも撮影にびっくりしたものです。 知り合いがいれば、ゆるいんだなぁと驚いた記憶があります。
あと、チャリに乗って大阪に向かった一人に、うちの宿で長いことスタッフをやってくれている土井君がいます。信じられないことに彼は、一月上旬にママチャリで東海道を走るという。私も台風シーズンに走ったので人のことは言いませんが、真冬の一月に東海道を走るなんて、どんな罰ゲームだと思ったんですが、本人がやりたいと言うので止めるわけにもいかずに出発を見送ったわけですが、そんな彼もなんとか無事に大阪についてみんなの歓迎を受けた夜、阪神大震災が起きてしまった。彼は死ぬ思いで東京まで戻ってきたけれど、今となっては懐かしい思い出かもしれない。
つづく。
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