2023年12月24日

母の思い出 その2

 2023年4月24日、私の母が永眠した。
 佐渡島に住んでいる弟から連絡があった。
 八十八歳だった。
 その母について語ってみようと思う。


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 私の母は、華族・伯爵家(広橋家・藤原氏の一族)の血をひいている。祖父は画家。曾祖父は女学校の校長。その前が広橋家(貴族・華族)の当主だった。朝鮮王族とも関係があったらしいが、よくは知らない。

 私が物心ついた頃は、そういう雰囲気は全く見せなかった母だったが、私が幼少の頃には、その面影が少し残っていた。

 話はとんでしまうが、昭和時代の田舎の小学校に多数存在していて、平成・令和時代には滅びてしまったものを御存知だろうか? それは
「レーホー室」
である。昭和時代の田舎には、創立八十周年とか、九十周年といった木造校舎の小学校が、まだ沢山あった。その百年近い木造校舎には、かならず「レーホー室」なるものがあった。

 レーホー室というのは、百畳くらいの畳部屋のことである。戦前は、この畳の部屋で礼儀作法を小学校の子供たちに教えていた。つまり、レーホー室とは、礼法室であった。分厚くて古い郷土史などを調べると、まれに礼法室で礼儀作法の授業を行っているのを見ることができる。

 東京だと、スペースの関係で礼法室が作れなかったのか、外の運動場に畳をずらりと敷いて、礼儀作法の授業を行っている写真があったりする。麻布区史という郷土資料には、笄小学校(こうがいしょうがっこう)での礼儀作法教室の様子が白黒写真に残っている。畳を取り囲むように、数百人という大勢の子供たちが、礼儀作法を習っていた写真が郷土史の資料に残っている。

 つまり戦前では礼儀作法が重要視されていたわけで、これができてないと社会で苦労する思われていたわけである。

 しかし戦後にそういう教育は無くなってしまった。もちろん私も学校教育で礼儀作法を教わった記憶がない。それで苦労したということはなかったし、そういう話を聞いたこともない。私は昭和三十六年生まれだが、少なくともその世代では、そういう教育を受けてないし、それで困ったこともない。





 長い前置きは、このくらいにして本題に入る。

 元教員だった母が死んで、まず思い出した記憶は、大げさな挨拶だった。子供心に
「なんて大げさな」
と、こっちが赤面するくらい大げさであった。

 たとえば、よその家に出かけたときなど、出会って軽く会釈する。ふつうなら挨拶は、それで終わるはずなのだが、母の場合は違っていた。その後にご自宅にあがらせてもらったあとに、ひざまずき、深々と口上を述べるのである。
 いったい、どういう礼儀作法なのだろう?と不思議に思ったものであるが、大人になって見た時代劇の股旅者(ヤクザ)の映画を見て
「これだ!」
と思ってしまった。

 この「お控えなすって」と言うシーンを見ることによって全て納得してしまった。母は、仁義をきっていたのではないかと。だから子供心に大げさに見えていたと。で、この大げさな挨拶に、妙に納得したものだった。

 僻地の民家に下宿するわけだから、そのつど「お世話になります」と、それなりの仁義をきっていたと思えば納得することが多い。
 そして、生まれたばかりの私に、そういう仁義の切り方を教えた理由もわかる。なぜならば、それによって私は、とても可愛がられたからだ。

 しかし、父も、二人の弟も、母の大げさな挨拶を見てない。私が六歳くらいになった頃に、母は大げさな挨拶をしなくなっていたからだ。そして、その原因は私にある。私が母に反抗して大げさな挨拶をすることを拒否したからだ。

 反抗心で母に逆らったわけではない。自分自身で判断して逆らっていた。と、書くといかにも偉そうな存在に見えるが、そうではない。誰でも陥る罠にはまっただけだった。どの子供にも当てはまる罠が、世の中には存在する。それをこれから説明して、子育てについて考えてみたい。


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 子育てをして愕然とすることは、男の子と女の子の差である。一般的に言って女の子の方が成長がはやく、挨拶もきちんとできる。
 逆に男の子は挨拶ができない。どういう訳かできない子供が多い。うちの息子もその例にもれなく、挨拶ができない一般的な子供であった。

 私は、幼児連れ家族をターゲットにした宿を経営しているが、そんな例を飽きるほど見ている。どうしても男の子は、挨拶ができない。もちろん、私も例外では無い。私も小さい頃には挨拶ができなかった。

 しかし、そんな私も例外期間があった。

 信じられないことだが三歳くらいまでは、大人も驚くような大げさな挨拶ができていた。寝る前には、大人たちの前に出て、正座して三つ指をつき
「お先に失礼いたします。おやすみなさい」
と、深々と挨拶して寝床に入った。

 二歳児の頃だったろうか?
 三歳児の頃だったろうか?
 はっきり私の記憶に残っている。

  ちなみに私の生まれ育ったところは 佐渡島。昭和三十六年生まれなので、日本の高度成長をそのまま体験して生きてきた世代。

 昔の佐渡島は 経済発展が遅れていたから、母親が洗濯板で私のオムツを洗っている姿を見ていたし、 井戸水を汲んだ体験もある。足踏みミシンを勝手に動かして血を流したこともあるし、炭で加熱して使うアイロンを頬あてて大火傷をしたこともあった。

 そういう時代に母親は、学校の教師をしていた。当時、若い教師は佐渡島の僻地で仕事をすることになってい。佐渡島のチベットともいえる外海府という僻地で働いていた。

 父親と別れて単身赴任していた。生まれて三ヶ月の私をひきつれて、車さえ通らぬ辺鄙な漁村の小学校に赴任していた。

 生まれて三ヶ月の私は、母が下宿先に出入りしている老婆に預けられた。当時の佐渡島の漁村では、鍵をかける風習がなく、留守だろうが何だろうが、近所の知人が勝手気ままに出入りして、家主が帰ってくるまで昼寝しながら待っているということが日常茶飯事だった。

 私は、そういう近所のお婆さんたちに、生後三ヶ月で、あずけられて、三歳になるまで育った。父親と離れて辺鄙な漁村で育った。


つづく


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posted by マネージャー at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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