昭和三十六年生まれなので、
日本の高度成長をそのまま体験して生きてきた世代。
昔の佐渡島は 経済発展が遅れていたから、母親が洗濯板で私のオムツを洗っている姿を見ていたし、 井戸水を汲んだ体験もある。足踏みミシンを勝手に動かして血を流したこともあるし、炭で加熱して使うアイロンを頬あてて大火傷をしたこともあった。
そういう時代に母親は、学校の教師をしていた。当時、若い教師は佐渡島の僻地で仕事をすることになってい。佐渡島のチベットともいえる外海府という僻地で働いていた。
父親と別れて単身赴任していた。
生まれて三ヶ月の私をひきつれて、車さえ通らぬ辺鄙な漁村の小学校に赴任していた。
生まれて三ヶ月の私は、母が下宿先に出入りしている老婆に預けられた。当時の佐渡島の漁村では、鍵をかける風習がなく、留守だろうが何だろうが、近所の知人が勝手気ままに出入りして、家主が帰ってくるまで昼寝しながら待っているということが日常茶飯事だった。
私は、そういう近所のお婆さんたちに、生後三ヶ月で、あずけられて、三歳になるまで育った。父親と離れて辺鄙な漁村で育った。
今では数年の育児休暇が認められている教職員も、昔は生後三ヶ月から職場復帰を義務づけられていた。だから私は生後三ヶ月で、 いろんな人に預けられて育っていた。
当時は、テレビもなければ、おもちゃも、絵本も無かったので、よく寝かされた。あまりにも寝かされたので、身長がどんどん伸びてしまった。小学校に入る前には、母親と身長差が無くなるくらいに大きくなって、ジャイアント馬場的な存在になっていた。
二番目に背の高い同級生の身長も、私の肩より低かった。そのために、みんながしてもらっていたダッコをしてもらったことがなかった。それが幼児の頃の私の心を閉ざすことにもなった。
まあ、そんなことはどうでもいいとして幼児の頃の私は、ただひたすらに昼寝させられ続けたという事実があった。
母親の下宿先で、朝起きて、朝食を食べたあとは、近所の老婆に預けられて、ひたすらに眠らされる。昔の漁村の屋敷には、ほとんど窓が無かったりするので、室内は薄暗くて寝るしかなかった。
玩具・絵本・テレビなど一切無かったから寝る以外にやることがなかったのだ。それを生後三ヶ月から三歳になるまで続けたわけだから、身長が伸びるのも当然といえば当然だった。
もちろん夜も寝たので、運動なんかしてないし、体力もついてない。三歳までは、寝てばかりなので、知能も体力も、同年代に劣っていたと思う。遊び友達も兄もいなかったから、三歳までは引きこもりの時代だった。
当然のことながら病弱だった。肺炎で一ヶ月学校を休んだこともあるし、遠足の前日に熱を出して、歯ぎしりしながら遠足を断念したこともあった。
けれど寝てばかりいたので、身長だけがぐんぐん伸びた。誰より大きく育って身長が伸びた。そして大きく育ち、佐渡島の四歳児の健康優良児の大会では優勝して、当時としては高価だったブリキでできた車のおもちゃをもらった。それが生まれて初めてのおもちゃだったかもしれない。虫歯が無ければ県大会に出られたとも聞かされた。寝て大きく育ったのだ。
(ただし、大きくなって夜更かしをするようになったとき身長がピタリと止まってしまった)
ちなみに母は、かなりのチビだったから遺伝で私が大きくなったということはない。
もちろん父も背は高くない。
それなのに幼児の頃には、母の身長に追いつくほどに身長が伸びた。
それほど延々と昼寝を強制されてたわけだが、幼児の私が素直に従ったことに驚きを覚える。息子の子育ての経験からして、よく大人しく寝ていたものだと感心する。
そして夕方頃になると、その家の子供たちが小学校から帰ってくる。
すると私は、その小学生に遊んでもらった。
昭和三十年代の佐渡島の漁村では、あちこちに子供たちが溢れており、道路や路地にあふれんばかりにウジャウジャといた。
道路に自動車が走ることはなかった。だから道路こそは子供たちの遊び場だった。で、その子供たちが私の相手をしてくれた。
そして、子供(小学生)たちは、みな母の教え子だったりする。
当時の小学生は、みんな学生服に学帽をかぶっていた。
私は、その姿をみるとダダッと駆けよっていき、頭をなでてもらい、一緒に遊んでもらっていた。
今思えば、うざったかったのではないかと思う。しかし先生の息子ということで、無視できなかったのだろう。紙風船でバレーボールしたり、万華鏡をのぞいたり、石けんで作った手作りシャボン玉で遊んだりした。
絵を描いて遊んだこともある。漁村だったせいか、みんな船の絵を描いてくれた。どういうわけか当時は、船のことを「トントン」と呼んだ。トントントンと航行するからである。当時の漁船は、焼玉エンジンで動いていたからトントントンという音を出しながら波を蹴っていたのだ。だからみんな船のことを「トントン」と言ってた。
私は、「トントン」を画いてというと、みんな自分の家の漁船を画いてくれた。
それがとてもかっこよく見えたものだった。
みんなが画いたトントンは、かっこよかった。
はやく大人になってトントンに乗りたいと思った。
そうこうしているうちに夕暮れになる。すると、みんな自宅へ帰って行った。日没になり、真っ暗になると母親が迎えに来て、下宿先に帰るのだが、その時に闇夜で見えた、お地蔵さんと墓石の不気味さに、なんともいえない霊気を感じたものだった。
両墓制だった佐渡島の漁村の墓は二つある。一つは拝むだけの立派な墓。これはお寺にあった。もう一つは、海岸に転がっている崩れた墓。これは土葬の墓で、死体が土にかえると墓石は自然と崩れていく。
これは死者を埋めるだけの墓なので、何年かたちと墓石が崩れてしまう。にもかかわらず、崩れた墓石を直すこともない。そのかわりにお寺には、立派な墓があって、その墓には立派なもので献花は絶えなかったりする。
それに対して、土葬死者を埋めるだけの墓は、むざんな姿をしていた。で、そばには六地蔵があったりする。お地蔵様のところだけは、手入れが行き届いていた。
それらの崩れた墓石を幼児たった私は、じっと眺めながら夜道を歩いた。二歳から三歳ぐらいだったはずなのだが、今でも、はっきりと記憶がある。記憶があるのは、その瞬間だけが、母と二人っきりの時間であったからだ。
いろいろ余計なことを書いてしまったが、何が言いたいのかというと、幼児の頃の私は、母親との接点が、かなり薄かったということを言いたかった。一日のほとんど、母と接してない。母と一緒にいる時間がほとんど無い。
今と違って、昔の教師は、九時から五時で帰れなかった。帰っても持ち込みの仕事がたくさんあった。パソコンもコピー機が無いために、毎日のようにガリ版をきっていた。母親と一緒にいるといっても、ただ一緒にいるだけだった。
そんな母親だったが、しつけは厳しかった。単身赴任で父親がいなかったせいもあって、非常に厳しい躾(しつけ)をされた。私の弟たちは、そういう厳しい躾(しつけ)をする母親の姿を知らない。母の単身赴任が無くなっていて、父親と一緒に生活するようになっていたからだ。
弟たちにとってい怖いのは父親であり、母親は優しい存在だったと思う。しかし、私を連れて単身赴任していた頃の母は、怖い存在だった。かなり厳しく躾けられたからだ。
つづく
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