今と違って、昔の教師は、九時から五時で帰れなかった。帰っても持ち込みの仕事がたくさんあった。パソコンもコピー機が無いために、毎日のようにガリ版をきっていた。母親と一緒にいるといっても、ただ一緒にいるだけだった。
そんな母親だったが、しつけは厳しかった。単身赴任で父親がいなかったせいもあって、非常に厳しい躾(しつけ)をされた。私の弟たちは、そういう厳しい躾(しつけ)をする母親の姿を知らない。母の単身赴任が無くなっていて、父親と一緒に生活するようになっていたからだ。
弟たちにとってい怖いのは父親であり、母親は優しい存在だったと思う。しかし、私を連れて単身赴任していた頃の母は、怖い存在だった。かなり厳しく躾けられたからだ。
特に礼儀作法にはうるさかった。かなりうるさかったはずなのだが、他に比較相手がいるわけでもなかったので、それが当たり前だと思っていたから、三歳九ヶ月までの私は、特に何の疑いももたずに、大げさで古風な礼法で朝晩の挨拶をした。
寝る前も、朝起きたときも仰々しく正座に三つ指をついて、大げさに下宿先のおばさんに挨拶し、子守の老婆にも挨拶した。歌舞伎役者の子供のように仰々しい挨拶をする毎日だった。
どうして、あのような仰々しい挨拶を強制されたのか、今となっては分かりようがないが、子供の頃に母が
「お母さんの子供の頃は、もっと挨拶にうるさかった」
と聞かされていたので、母の御先祖様が『華族』であったことと何か関係があったのかもしれない。母の親戚には著名な人が多く、戦前には朝鮮王朝にまで関わりがあったので、ことさら礼法にはうるさかったのかもしれない。
挨拶にしても母は「会釈(えしゃく)」を挨拶と認めてなかった。会釈は会釈であって挨拶とは別物と考えていた。母にとって挨拶とは、ヤクザ映画・股旅映画で見られる「仁義をきる」に近いものであったような気がする。ひとつの様式美みたいなものだった。それを二歳にも三歳にもならない私に教えて実行させたわけだから下宿先のおばさんたちや、近所の老婆たちは、顔を崩して喜んだ。
二歳児・三歳児の幼児が、大人顔負けの礼法をする。それだけのことで私は誰からも可愛がられた。信じられないくらいにチヤホヤされた。そして、母親のいないところで、いろんな菓子をいただいた。母は、私に菓子を食べさせない人だったので、
「本当に食べてもいいの?」
と何度も念押ししていただいた。
母親のしつけは厳しかったが、他の人には、さんざん甘やかされた。誕生日には、大きなホールケーキをいただいた。クリスマスにも大きなケーキとプレゼントをいただいた。
今でも不思議に思う。昭和三十年代の佐渡島の僻地で、どうやって大きなホールケーキを調達したのだろうか? 近所にあるのは「よろず屋」が二軒だけの寒村である。
そもそも当時の佐渡にホールケーキを売ってる店なんかあっただろうか? テレビも、冷蔵庫も、洗濯機も無く、電話は防災無線のようなもので、ダイヤル式でさえなかった漁村で、どうやって調達したのか? いったいどこでホールケーキを手に入れたのだろうか?
当時の登山ガイドをみると佐渡外海府は、知床半島と同列に紹介されるほどに辺鄙なところだった。もちろん車が走れる道路も完成してない。場所によっては船でいくしかなかった。そんな僻地で、どうやって豪華なホールケーキを調達したのか未だに不思議でならない。
そもそも佐渡島で最も栄えた場所にある実家にもどっても、ホールケーキなんか見たことが無かったし、実家で食べる機会もなかった。誕生祝いも、誕生プレゼントももらったことがない。ところが四歳ほど若い弟は違っていたから不思議である。弟の世代は、各家庭で誕生会をやり、そこに呼ばれていった。弟もお返しに誕生会を開いて、友人を招待していた。四歳ちがうだけで、これほどに生活環境が、風景が違っていた。たったの3から4年くらいで2倍くらい豊かになっていった高度成長期という時代は、兄弟間に、これほどに差がつくのであるからすごい時代であった。
それはともかくとして私がホールケーキを食べた唯一の記憶は、一歳から三歳にかけて、母親の下宿先で出された誕生ケーキとクリスマスケーキだけだった。昭和三十年から昭和四十年の佐渡島は、まだまだ貧しかった。そういう時代にホールケーキを御馳走になった。高価な玩具を頂いた。支払っている下宿料金みあってないものを色々いただいていた。
つまり幼児だった私は、母の礼法教育によって、ものすごい『得』をしたのである。だから私が、そのまま大人になっていれば、もっとバラ色の別の世界線を生きていたと思うが、そうはならなかった。母親の礼法教育は、失敗するのである。
母がしつけに厳しかったことは、すでに書いた。
そして幼い私が、母と接する時間が少なかったことも、すでに書いた。
そして他の大人たちから可愛がられたことも書いた。
この三つ条件が重なって、小さい頃の私は、母に対して反抗するようになる。
それについて具体的に述べてみる。
昔の小学校教員はひどく忙しかった。
そのせいで母は夜遅くまで帰ってこなかった。
運動会の準備だったり学芸会の準備があると、
夜遅くまで帰ってこなかった。
その結果、ただでさえ母親と接触する機会は少なかった私は、ほとんど母と接触しなくなる。で、学芸会当日になると、下宿のおばさんたちや、子守の老婆さんたちと、みんなで小学校の学芸会を見に行くことになる。そして座席に座って待っていると、教員の母親がステージでいろいろ作業をしているのがみえてくるのだ。
二歳児・三歳児の私は、おもわず母親のところに駆け寄るのだが、それは3歳以下の幼児にとっては、ごく自然な本能だったと思う。しかし私は母から、ひどく怒られてしまう。信じがたいくらいに、ひどく怒鳴られてしまう。
「みんな行儀良く座って待っているのに、どうして、座って待ってないのか?」
やさしく抱きしめてもらえると思っていた私は、激怒する母に、ひどく困惑してしまう。が、公務中の母の追求は厳しいものがあった。
「他の人をみてみなさい。みんなおりこうにしているのに、どうしてそれができないのか? みんなを見習いなさい」
駆け寄れば、優しく対応してくれると思っていた二歳児・三歳児の私は、母親の怒気にみちた声にショックを受けて反省するのだが、その時の
「皆を見習いなさい」
という「しつけ」には、幼心に「なるほど」と納得するものがあったことは確かであった。そして、こういう事は、何度も何度も繰り返された。
母親と接点がないがために、学校で働く母親をみつけると私は駆け寄るが、そのつど激怒されてしまう。そして
「みんなを見習いなさい」
と言われ
「みんなに合わせて行儀良く見学しなければならない」
と言うことを学習していく。そして周辺の人たち手本に生きていくことを自然と学習していく。
もちろん、下宿のおばさんたちも、子守の老婆たちも、同じように諭してくる。同じように言ってくる理由は、私をしつけるためではなくて、私が母に怒られてショックを受けずにすむように、親切で教え諭してくれていた。
「お母さんに怒られるぞ」
と、優しく柔らかに諭してくれていた。それは、躾と言うより、私が母に怒られないように、私が母に叱られショックをうけないように、やさしく導いていたことは、子供心にひしひしと感じることができた。下宿のおばさんたちも、子守の老婆も、私ができるだけ母親に怒られずにすむように、導いてくれていた。そして、ショックをうけている私をとてもやさしく慰めてくれるのだ。慰めつつも教え導いてくれていた。
それが子供心に分かってしまうからこそ、そういう大人たちの優しい忠告を素直に受け入れた。すると、まわりの大人たちは、
「良い子だなあ」
と、褒めてくれ、母にナイショで御菓子を買ってくれたりした。その結果、まわりを伺いながら大人の常識を身につけていき、普通の子供たちと共通した常識を身につけていくことが、できるようになっていくのである。
しかし、そのように学習していき、大人と同じような常識がもてるようになると、逆に自分の母親が、他の一般的な大人と違っていることに気が付いてくる。母親の行動が、ごく普通な大人たちの行動と合ってないのだ。その典型が大時代的な礼儀作法だった。仰々しすぎるのだ。
もちろん仰々しいからこそ人々から尊敬されているのだが、三歳にも満たない幼児には、それは分からない。分かっているのは、まわりと違うという点だけである。
それに気が付いた私は、徐々に仰々しすぎる挨拶をしなくなった。母に強制されても「嫌だ」と反抗するようになった。そして、私が可愛がられる原点であった「幼児らしからぬ礼儀作法」は、徐々に失われていった。母は、当時の私を「反抗期」だと思っていたらしいが、反抗期というより、
「皆を見習いなさい」
という事を単純に実行したにすぎなかった。
これが後日、家族分断のきっかけとなるわけだが、それについては後述するとして、
「皆を見習いなさい」
「他の人を手本にしなさい」
というワードは、かなり危険な言葉だと私は思っている。このワードは、同調圧力とは違う。
当時の私は、同調圧力で皆に合わせているつもりは、これっぽっちも無い。むしろ正しい事と自分なりに素直に納得していた。ごく自然に皆を見習うようになっていた。それが結果として母親に反抗する火種になっていった気がする。
それを考えると「反抗期」って何だろう?と思う。子供としては、反抗しているつもりがないが、外から見ると「反抗期」に見えてしまう。幼児にしてみたら大人たちの教えた通りのことを実行しているだけなのに、「反抗している」と言われてしまっては混乱するしかない。大人からは反抗しているように見えていても、幼児に反抗心は全く無いからだ。
つづく
↓ブログ更新を読みたい方は投票を
人気blogランキング
【関連する記事】
- 修学旅行の定番、枕投げは滅びてしまった?
- 群馬県には水族館が無い?
- 息子の修学旅行
- 盟友 土井健次氏の葬式について
- 母の思い出 その6
- 母の思い出 その5
- 母の思い出 その3
- 母の思い出 その2
- 母の思い出 その1
- 昭和40年代、とある小学校の話7 小学校の入学式の服装の違い(1969年佐渡島と..
- 昭和40年代、とある小学校の話6 二年間に担任の先生が5回代わった話
- 昭和40年代、とある小学校の話5 小学校一年生、担任の先生が入院してしまった
- 昭和40年代、とある小学校の話4 用務員さんの話
- 昭和40年代、とある小学校の話3 教頭先生の話
- 昭和40年代、とある小学校の話2 校長先生の話
- 昭和40年代、とある小学校の話
- 息子を連れて佐渡島へ 18 佐渡汽船・北軽井沢に帰る
- 息子を連れて佐渡島へ 17 佐渡島から北軽井沢へ
- 息子を連れて佐渡島へ 16 沢根団子・佐渡乳業・柿酒
- 息子を連れて佐渡島へ 15 高千・不時着した英国大使館の飛行機