父親は厳格なために些細なことで物置に閉じ込められ、箸の持ち方一つで良く殴られた。優しい子守に囲まれた生活とは真逆な生活だった。祖母も酷く口うるさい人だったので、三歳までの子守時代とは全く違う環境で毎日不安なまま暮らしていた。子守時代とは天地ほど違う環境だった。
それ以前は、子守に可愛がられた。子守と言っても腰の曲がって杖で歩く老婆なので、二歳から三歳くらいの男の子の方が速く走れる。逃げようと思えば逃げられるが、そういう気持ちは全くなく、むしろ老婆の後を追いかけることの方が多かった。いわゆる後追いとい現象である。
母親に対する後追いとは少しばかり違って、農作業や干芋造りなんかを、じーっと見つめては、時々手伝ったりした。そして御褒美に干し芋をいただいて、うまの美味しさに驚いたりした。
子守といっても、四六時中子供の面倒をみているわけではなく、いろんな作業をしながら合間に世話をするのが子守のパターンである。片手間に仕事をしていた方が、子守をしやすかったのかもしれないし、元来、子守とは、そういうものだったのかもしれない。
幼少期から体が大きく、ジャイアント馬場的な存在で、その巨体うえに、おんぶしながら作業ができなかったということもあっただろう。だから私は、子守におんぶされたことがなかった。いつも子守とともに地べたを歩いて移動した。そして子守たちの片手間の作業をじーっと見て育っていた。そして、作業を手伝いたがった。
母の下宿先では、農作業の合間に洋服の仕立てをしていた。当時は、電気アイロンなどはなく、鉄のアイロンを炭に熱して、指で温度調節しながらアイロンがけをしていた。私はじーっと、それを観察した上で自分でやってみようと思い、自分の顔にアイロンをあてて大火傷したこともあった。
とにかく、周りを観察して、それをやってみようと思って一緒に作業していた。それが、かなりの労働だったようで、昼寝になると私はアッという間に寝てしまった。寝ることによって、ますます身長が伸びたことは言うまでもない。
こうして私は。三歳九ヶ月まで子守たちに可愛がられた。僻地なのに、店が何も無いのに、昭和三十年代に、いったいどこから手配したのか、どういうわけかクリスマスケーキがでてきた。当時としては貴重なホールケーキに対して、私は恐る恐る「どれ食べて良いの?」と聞いたものだった。私の母親は、そこまで甘やかさなかった。
子守たちと分かれてからも、子守の老婆たちは、遠くから私を訪ねてやってきた。何度も遊びにきては、帰り際に泣いてお別れしました。別れ際には必ず
「お父さんの言うことを聞いて、お利口にするんだよ」
と泣きながら帰って行った。子守されていた時には、絶対に言わなかった台詞を言った。それほど可愛がられ。そういう環境から、厳格な父親と口うるさい祖母の元に預けられた。
環境が一変すると、私は放置子ぽくなる。近所の老婆のところに勝手に遊びに行くようになる。知らず知らず以前の環境を求めてのことだったかもしれない。ご近所の人も、さぞかし驚いたことだろうが、不思議なことに私は、近所の見知らぬ老婆たちに可愛がられた。誘拐犯がいたら、いとも簡単に誘拐されたと思っている。
ただ、実家のあった佐渡島の都会(?)には、佐渡の僻地と違うところがあった。保育園があったのである。そして生まれて初めて保育園に入ることになる。
それまでは、別に何か教育されるわけでもなく、プログラムに沿って進行されるわけでもなかった。親と違って子守には強く怒られないので、子守たちの生活習慣が、すんなりと私の中に入ってきた。そして作業を手伝ったりした。干芋を並べたり、仏壇に一緒にお供えしたりした。
ところが厳格な父と暮らすようになると、多くのダメ出しを食らうために、何に対しても拒絶反応が出てきた。いたずら書きをして強く怒られれば、書くことに拒絶反応が起きる。これが絵を画いたり、字を書くことに対しても、拒絶する心理状態になってくる。
これは人間に限らず、どんな生物にもそのような反応がある。そういう反応がなければ、アッという間に天敵に殺されてしまうからである。親が子供に必要以上に強く怒れば、子供は自らの生命保存のために学習して、拒絶の心理が働いてしまう。
幼児が危険な階段を上がろうとしたところを見つけて、それを必要以上に強く怒ってしまうと、それがトラウマとなって高所恐怖症になったりする。それをみこして武家社会では、子供に対して強く叱らない躾をしていたと言われている。もちろん武士なので躾に厳しかったことは確かなのだが、強くは怒らない。
むしろ子供に対してもっぱら暴力的に躾たのは農民階級の方だったといわれている。農民は臆病でも問題ないし、むしろその方が、自己保存のために良い場合もあったのかもしれない。
まあ、そんなことはどうでもいいとして、これだけ環境が変わって、戸惑うと脳に非常に悪い影響が出てもおかしくないのだが、歯止めになったのが、保育園だったかもしれない。保育園が環境の変化を和らげるクッションのような役割があったような気がする。
現在では、どうなっているか分からないが、昔の保育園では、あまり教育的なことはしてなくて、のんびりしていた。運動会・遠足といった行事も無く、それが私にとっては良かった。そのせいかその保育園でおきたことは記憶に残ってる。記憶の法則によると嫌なことは忘れる傾向があるのに対し楽しいことは忘れないという。
この法則は私だけに当てはまったのではなかった。一年後、私は引っ越して、別の保育園に入り、最初の保育園の友達と別れた。それから十二年後に、小学校の合併で彼らと再会するわけですが、お互いに年少組の頃のことを覚えていた。
ところが幼稚園出身だった嫁さんに
「幼稚園時代のことを覚えてる?」
と聞いても全く覚えてないという。
嫁さんは、保育所でも託児所てもなく、幼稚園(二年制)出身だった。幼稚園だから授業もあったかもしれない。そのうえ午前中で帰宅なので友達との縁も薄かったかもしれない。
そのうえ嫁さんの家庭環境が良かった。近所に親戚がいっぱいして、従姉妹どうしで仲良く遊んぶという感じだったらしい。その思い出話は、よく聞かされる。家内にとって楽しいのは、幼稚園では無く家族と大勢の親戚たちだった。
それはともかくとして、母・子守たちと離れて、父・祖母と生活することによって、私にとっては地獄のような毎日が始まるのだが、そんな時に、佐渡島外海府の漁村から私の子守だった老婆や下宿のおばさんたちが、遠方からわざわざ私の顔を見にやってきた。
そして何泊か滞在したあとに、何かを察して、帰り際にボロボロ涙を流しながら
「いいかい、お父さんの言うことを聞いて、おりこうにしているんだよ。お父さんのことを良く聞くんだよ」
と帰って行った。当時の私は、子守の老婆に対して一歳に満たない弟の子守はしなくてよかったのだろうか?と不思議な気持ちで、その言葉を聞いていたものだった。
で、子守の婆さまも、下宿のおばさんも、何度も何度もやってきた。当時は、バスを使って一日がかりでやってきては、私に会いに来て、一泊して帰っていった。
帰った先には、母と小さな弟がいる。生まれたばかりの弟の方が、よほど可愛がいだろうに、何度も私に会いに来た理由は、乳幼児の頃にしつけられた、あの大げさな礼法と無関係でなかったと思う。
そして一年後。
母の単身赴任は終わり、家族そろって一緒に生活するようになると別の問題がおきた。私に対する教育方法をめぐって夫婦喧嘩が絶えなくなった。あと、嫁・姑の問題も出てくるが、それについては後述する。父・母・祖母の三人が、それぞれ全く違う教育をする上に、その愚痴を公言するものだから、子供の頃の私は大変だった。
おまけに私は、厳格な父に何度も家を追い出された。追い出された後は、あちこちを放浪し、それを母と祖母が大声で探し求めるものだから、私の家は、近所でも有名な家になった。
三軒隣に、NHKテレビによく出演していた有名な植物学者がいたが、私が夜中に放浪していると、自転車で追いかけてきた。とは言うものの、私とは距離をとって関わろうとしなかった。遠くから。そっと見守るだけで、私が探しにきた母に見つかるまで見守っていた。私が母や祖母に探し出されると、そっと自転車で去っていった。思えば、変な時代だったように思う。
こうして何年かたつわけだが、その間にも、下宿のおばさんや、子守の老婆は、相変わらず私に会いに来た。そして帰り気際に必ず
「お父さんの言うことを聞いて、おりこうにしているんだよ。お父さんのことを良く聞くんだよ」
と涙ながらに帰って行くのだった。
やがて何年かたって、母の教え子だった小学生が青年になり、自動車免許をとるようになると、軽トラでやってくるようになった。幼児の頃の私の頭をナデナデしてくれた小学生が、たくましくなって颯爽とやってきた。
そして人さらいのように
「外海府に遊びにこないか?」
と誘ってくるのだ。
両親の許可をとって大喜びで私は出かけた。弟は、一緒ではなかった。私だけだった。そして外海府の漁村に到着すると、みんなが出迎えてくれた。それは幸せな瞬間だったが、そこで何日が生活していると、突如として私の中に不安がやってくる。
外海府の下宿のおばさんや、子守の婆さまたちが、
「うちの子供にならないか?」
とささやいてくるのだ。すると私の心の底から無性に。不安や寂しさが込み上げてきて、なんともいえない悲しい気持ちになり、実家に帰りたくなった。
宮本常一という有名な民俗学者は、このように言っている。
「海府の人たちは、冬には雪で閉じ込められてしまうので、夏場の稼ぎだけで一年間の食生活費を稼がなくてはならぬので、村人たちはことのほか、激しく働かねばならず、そのため人出はいくらあっても足りなかった。そこで海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」
(宮本常一・離島の旅より)」
人買船に売られた安寿と厨子王の母が、佐渡の外海府(鹿野浦)に連れて来られてきたと言う話と、宮本常一の「海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」という話は、微妙にリンクしている。海府は、昔から人手を必要とする地域だった。宮本常一が指摘しているように、海府地方では、人出はいくらあっても足りなかった。
「そのような村にも相川から養子をもらう風習があった。相川にはまずしい町家がたくさんあり、そういう家の子をもらってきた。相川や国中の方では子供が泣くと『海府へ牛のケツたたきにやるぞ』と言えば泣きやんだものであるという」
(私の日本地図・宮本常一より)」
この話を裏付けるように、昔の海府の戸籍には、「同居人二人」などと書いてあった。安寿と厨子王の母親は、こういう地域に売られていったのだ。私は、その地域、つまり北片辺で、生後三ヶ月から三歳九ヶ月まで住んでいたのだった。
つづく
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