7000円の小遣い というのは、ちょっと多いように感じるが、実はそうでもない。この 7000円の中には、2回の昼食代と、神社仏閣の拝観料、移動のための電車賃。そして、その他もろもろの費用を含んでいるからだ。鎌倉は暑いだろうから水分補給のための料金も必要だろうし、 チャンスがあれば、けんちん汁や 抹茶をごちそうになったり、 お賽銭や 朱印帳の 費用を考えたら 7000円では足りないのではないかと 思っていた。
ちなみに息子の修学旅行は、班別の自由行動になっている。 5・6人の班で子供達だけで移動することになっている。先生がついてくるわけではない。しかも、GPS付きのキッズ携帯や、デジカメの持ち込みは禁止されている。おやつも持ち込んではいけないし、友達との交換も禁止されている。私の子供の頃とは、かなり違ったルールなのに驚いた。
なかでも面白かったのは、カメラのルールである。自分のカメラの持ち込みは禁止されていた。カメラは、学校から渡され、それしか使用してはいけない。そのうえ集合写真しか撮ってはいけないことになっている。風景写真も、誰か一人を撮影するのも禁止だ。
私の子供の頃は、カメラは高級品でそんなもの持っている子供はいなかった。だから先生が子供たちの写真をバチバチ撮っていた。それを現像したものを廊下にはりだして、各自が写真を注文し、それを先生が、焼き増しをして各自に配った。
先生は、子供たちのアップ写真を大量に撮影した。で、写真にやたらと写る子と、そうでない子がいた。カメラを向けると、だだーっと駆け寄ってくる子供もいれば、カメラから逃げる子供もいるからだ。私は逃げるほうだった。だから私の写真は、一枚もなかったはずだった。
ところが、そんな私を先生は、遠くから望遠レンズで狙って撮影した。それが偶然にも最高の画像となって焼き上がった。その結果、みんなが私が写った写真を競って注文するというハプニングまでおきた。私は、自分の写真に興味が無かったので買ってない。私が買ったのは風景写真だけである。それを先生と友達は不思議そうにしていた。
そんなことは、どうでもいいとして、息子のやつは修学旅行から帰ってすぐに寝た。旅行中、2時間しか寝てなかったらしい。二人部屋なのに寝られなかったそうだ。私が子供の頃は、100人の大部屋だった。枕投げもやったし、布団の引っぺがしもやったし、プロレスもした。ドリフターズの8時だよ全員集合を真似てコントもやった。先生には何度も怒鳴られたものだった。でも、ぐっすり寝れた。
それに対して息子は、プリンスホテルの豪華な二人部屋。にもかかわらず寝られなかった。友達と一晩中、しずかにお喋りしていたらしい。枕投げも無いし、布団の引っぺがしも無いし、プロレスも無い。コントもやってない。先生にも怒鳴られてない。女子風呂をのぞきに行って怒られることもない。なのに寝れなかったとは、それで良いのか?と思ったが、まあ、これが令和時代の修学旅行なのだろうなあ。
つづく
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