2025年01月06日

さきほど父(91歳)が亡くなりました。今後は年賀状を、やめます。

 さきほど父が亡くなりました。
 91歳の大往生でした。

 誤嚥性肺炎(食べ物が気管に入って感染する肺炎)とパーキンソン症状をともなう認知症が原因で、半年前から何度も倒れるなどの症状がありましたが、内科の医師(インターン)に診断を御願いしても大したことがないと言われてしまい入院を断られ症状が悪化してしました。仕方が無いので脳神経外科の先生(大ベテラン)に連れて行ってはじめて精密検査をしていただくことになり、病気を認定してしまったしだいです。まあ、いろいろありましたが、ほぼ老衰が原因ということのようです。1年前に母が亡くなったことでパーキンソン症状をともなう認知症が発病したのではかいかと推測しています。

 なにしろ頑固でしっかり者の昭和一ケタの人間ですから、超やせ我慢の男で、しかも私生活がきっちりしており、介護認定を受けようとしても、元気すぎるとして中々認定されない状態だった。ヘルパーさんの前や、客人の前では、やせ我慢をしてシャキッとしていたので、なかなか病状が伝わりにくかったようです。一人で失神していたことが何度もあったことを入院の時に白状しています。

 父(佐藤正)は、15歳にして父(私の祖父)を癌で失い、遺産争いで負けて学校を退学し、祖母とともに3人の兄弟姉妹の生活の面倒を見る生活をおくりました。15歳で3人の弟妹の保護者となったわけです。といっても就職先はないため、同情してくれた人から小舟を借りて釣をし、それをさばいて干物にし、祖母が行商に出かけて生計をたてていたようです。

 こうして弟妹を自立させ後は、佐渡金沢村の正法寺に養子として入り、磯西を名乗り、母と見合い結婚し、警察予備隊の第1期生として入隊しました。それが航空自衛隊に発展するわけですが、佐渡金北に設置したレーダー基地で働いていました。当初の上官は米軍だったようで、昔の写真にはアメリカ軍の軍人たちと仲良く写っています。

 このレーダー基地は、第二次大戦中に米軍が使っていたもので、信じられないことですが戦後30年たった昭和50年まで現役でした。昭和50年頃になると戦前設計のレーダーの部品も入手困難となり、最新式の3次元レーダーに変更されました。つまり、その頃まで自衛隊は真空管と格闘していたわけで、修理やメンテに忙しかったようです。真空管はすぐに切れますから。

 そのせいか私の父は、電子関係にかなり詳しかったものです。書斎には「ラジオ技術」なとの専門誌がズラリとならんでいました。なので隣近所で故障したテレビ・ラジオ・扇風機・冷蔵庫などの電化製品の修理をジャンジャンやってました。電気工事もたいていのことはやってました。家を改築するときは、業者が行った雑な電気配線を自分で治したりしていました。父の階級は、私が小学校に入学する前にすでに下士官最高位の一曹でした。恐ろしいほど速い出世をしていますが、よほど修理のスキルが高かったと思われます。

 しかし家電製品にLSIが入り込むと、それらの修理を一切やらなくなり、かわりにパソコンに熱中するようになります。定年退職後は、LSI工場に17年間勤め惜しまれつつも70歳で退社。その後は、佐渡女子高校で守衛として高校が廃校になるまで働きました。その後は。畑を借りて家庭菜園に精を出します。いわゆる働きムシというやつで、働いてないと死んじゃうタイプの人で、とにかく我慢強く自立心のたかい人でした。

 部屋は整理整頓してないと気が済まないタイプで、母が散らかした部屋を常に整理してまわった人間で、教員だった母のもちこみ残業(テストの採点)を常に手伝っていたのは良い想い出です。とにかく動いてないと気が済まないタイプで、夏の間だけ別館のペンションを手伝ってもらったことがあったのですが、その時が、人生で1番いきいきしていたような気がします。自衛隊やLSI工場なんかより、一国一城の自営業の方が向いていた気がしました。


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(私が生まれた佐渡・正法寺・保育所が隣接されている)


 ちなみに磯西から佐藤に名前を変更して、正法寺から脱出した理由は、異母兄のところで厄介になっている祖母を引き取るためでした。そのために正法寺の養子を解消し、磯西から佐藤にもどしたのです。

 兄弟姉妹を一人前にしたあとに残された父の課題は、異母兄のところで肩身を小さくしている実母をひきとることでしたが、それを自分の妻(つまり私の母)に黙って行ったために、祖母と母と父の間には、微妙な空気が流れていました。しかし、母には反対はできませんでした。黙って従うしかなかった。弟が生まれたからです。

 祖母がいなければ、母は教師をやめて家庭に入るしかなかった。母の勤め先は、佐渡島でも僻地で有名な外海府であり、そこには託児所も幼稚園も無かったからです。おまけに当時は、出産後2ヶ月で職業に復帰しなければならなかった。

 さらに新潟大地震があった。ショックで母の母乳はとまり、生後1ヶ月の弟は、ミルク缶のお世話にならざるえなくなりますが、そのミルク缶の入手が地震で困難になりました。地震で一番不足するのはミルク缶ですが、それはショックで母乳が出なくなるからです。そこで祖母の活躍がはじまります。私は、祖母と父と暮らすことになり、母は生後2ヶ月の弟を連れて佐渡島の僻地に単身赴任しました。

 母は、単身赴任先で下宿していました。そこで私は3歳9ヶ月になるまで育っていました。下宿先には男はいませんでした。未亡人と耳の聞こえない娘さんの二人きりでした。そこに近所の婆さまたちが、たむろしていて、いわゆる女ばかりの環境の中で生活していました。そこには男がいなかった。

 つまり幼少の頃の私は、父親という存在が、この世に存在することが、わかってなかった。3歳9ヶ月まで父親という存在を知らなかった。そもそも日常生活の中に男がいなかった。そんな世界から、厳格な父親と、口うるさい祖母のいる世界にぽつりと置き去りにされてしまった。


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 父の躾は厳しかった。
 いきなり児童虐待の世界に放り込まれてしまった。

 箸の身持ち方が悪いと、物差しで叩かれた。それでもなおらないと天井裏に閉じ込められた。これが条件反射として15歳くらいまで体にしみつきました。誰かが手をあげるたびに『びくっ』とクビをすくめるようになった。背後に誰かが迫ると恐怖のあまり激怒した。しかし昭和時代には、そういう家庭が少なくなかった。

 そんな環境下で私はSF小説に熱中した。当時は、NHK少年ドラマシリーズが流行していて『時をかける少女』が大ブームだった。タイムリープ(時間旅行)の話である。で、私には、タイムリープ(時間旅行)の体験があった。だから本気でタイムリープ(時間旅行)の能力が私にあると信じ込んでいた。

 しかし、その体験は、単なる記憶の欠落であったことに18歳の頃に指摘されて気がつき、専門医の診察をうけました。3日くらい隔離入院されましたが、短期記憶に多少の問題があるが、生活するにあたっては問題なしということになりました。今で言う学習障害みたいなもので、ひとさまよりもものわすれが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われました。

 日記をつけると、書いた覚えのない日記が存在することがわかり、タイムリープ(時間旅行)の体験は、単なる記憶の欠落であったことがわかり、その現実に落ち込みました。ちなみにこの障害は、息子にも遺伝しているらしく、やはり忘れ物がおおく、発達心理の先生から学習障害を疑われています。息子の学力は、昔で言うところのオール5にあたるし、知能検査をしても140の数値(これ以上は測定不能)を出しているのですが、専門家にいわせれば、あきらかに学習障害の可能性が高いらしい。

 それはともかくとして、この障害のおかげで良いこともありました。医師から物忘れが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われ、それを実行すると文章力がアップして、人々から文章を賞賛されるようになりました。そこでいろんなコンクールに応募し、いろんな賞をいただくようになったのです。それを良いことにコンクールあらしをして賞金稼ぎでウハウハできるようになったりした。つまり障害も使いどころによっては、武器になるという典型例が私です。

 まあ。そんなことは、どうでも良いとして、父は厳格できびしかった。実は、母もかなり躾に厳しかったのですが、厳しさの方向性が全く違っていたのは興味ふかいところです。母は、やたらとぎょうぎょうしい挨拶にこだわっていた。そのかわりに箸の持ち方などは、きにしてなかった。父は箸の持ちかたとか、食事の仕方、勉強とかに細かくこだわった。人間を一つの型にはめるスタイルで、軍隊式というか、すごいスパルタ教育を父は行った。母が拘ったのは、礼儀と挨拶を大げさに徹底させるだけ。あとは自然にまかせるスタイルだった。寝る前に正座して三つ指をついて
「◇◇さん、◆◆さん、おやすみなさいませ」
と無茶な挨拶を2歳児3歳児にさせるけれど、その他の細かいことは、比較的自由だった。父と母では、あきらかに教育スタイルがちがっていた。

 私は、唯一、しっかりと母に厳しく教育されていたために田舎の老婆たちに可愛がられた。昭和の田舎では、礼儀正しさのある幼児は非常に可愛がられました。ところが父には、そういう礼儀正しさに関する教育の発想がなかった。それよりも食事マナーや、勉強や、整理整頓や、こまごまなことに激怒して何度も殴られた。泣くことも許されなかった。倒れて泣いたら怒鳴られたし、何度も殴られた。あれは人間を一つの型枠にはめようとする軍隊式の教育だった気がします。

 そのためか母は、自分なりの教育をやめてしまった。父があまりに厳しいスパルタだったために自分の拘りを放棄してしまった。だから2人の弟たちは、母は優しい人だと勘違いしていますが、本来は違っています。両方とも厳しいひとなのですが、父のキャラが強すぎるから、自分本来のキャラを消してしまったのです。つまり父と母とで役割分担していたのだと思う。なんだかんだと言って良い夫婦だったのかもしれません。

 その良い夫婦が、別れ別れになったのが、1年9ヶ月前です。
 母が死んだ。
 父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
 弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。

 あれは、3番目の弟が生まれる前の話です。父と母は、よく喧嘩していました。喧嘩の理由は、母が散らかすということから始まっていました。それに対して父は激怒しながら掃除して整理整頓していきました。父はよく
「いらんものが多すぎる」
「整理整頓できないならモノを買うな」
と怒鳴りながら掃除していました。母は、華麗にスルーしつつ散らかしました。しかし、母にも言い分はありました。仕事をしていたからです。採点をしたり、がり版をつくったり、カット(挿絵)を書く練習をしていた。コピーもパソコンもない当時の教師の仕事はたいへんだったのです。

 しかし、父親の言い分もよくわかる。私の母は、いらんものをよく買った。そしてモノが増えていった。そしてモノが増えるごとに家が狭くなり、父のイライラは増した。父は整理整頓ができてないと許せない性分だったのです。結局、家を増築することによって、この問題は解決することになりますが、あれから50年。実家はどんどん増築されてゆき、ものはドンドン増えていきました。母が死んだときは、家の一部がゴミ屋敷になっていました。ものであふれかえっていたのです。

 父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
 弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。
 結局、大半の形見を捨てることになった。

 捨てる時に母の愚痴を思い出した。
 父の無駄使いのことである。

 父は庭に150万の松の木を植えたのだが、
「あんなものに150万払うなんて馬鹿みたいだ」
と母は怒っていました。父が何十万もするボート(船)を買ったときも母は
「馬鹿みたいだ」
と怒っていましたが、
「博打もやらないし、酒にも飲まれないし、まあ、いいんじゃない」
と言ったことがある。

 この時、夫婦の趣味が違うと、うまくいかないなあと思ったものです。
 なので私は、趣味を同じくした人と結婚しています。


つづく

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posted by マネージャー at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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