碓氷峠は、標高は約九六〇m。古代には碓氷坂、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記されました。古来より坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきましたが、難所としても有名でした。
平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化しました。これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため昌泰二年(八九九年)に碓氷坂と足柄坂へ関所を設置しました。
中世には碓氷峠付近の主要道は現在の峠を通るようになりました。この峠には熊野皇大神社(碓氷峠熊野神社)があり、同神社正応五年四月八日(一二九二年五月三日)紀の鐘銘から、この頃までには峠道が開設されていたといわれます。
応永三〇年(一四二三年)の国人一揆や永享一二年(一四四〇年)の結城合戦では、碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていました。永禄四年(一五六一年)に長尾景虎が小田原城の後北条氏を攻めた際に武田信玄が笛吹峠に出陣し、信玄は碓氷峠からの進出をその後数回にわたって行ない、永禄九年(一五六六年)には箕輪城の攻略に成功して上野国へ進出しました。天正一八年(一五九〇年)の小田原征伐の際、豊臣秀吉は前田利家らの北国勢を碓氷峠から進軍させています。
江戸時代には中仙道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされました。碓氷峠は、関東と信濃国や北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われました。峠の前後には坂本宿・軽井沢宿が置かれています。
天明三年(一七八三年)の浅間山噴火では三尺(九〇センチメートル)以上の砂が積り、碓氷峠往還は八日間にわたって通行不可能になっています。碓氷峠は中仙道有数の難所であったため、幕末の文久元年(一八六一年)に和宮が徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際に一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓されました。なお、約三万人の和宮一行は同年一一月九日(一八六一年一二月一〇日)に軽井沢を発って碓氷峠を越え、翌一〇日(一八六一年一二月一一日)に横川に宿泊しています。
つづく
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都合つけばまた参加したいです(^o^)
もう1回横川〜軽井沢でも面白そうですけど。
シルマンウォーキング・・・・1年前の悪夢が再び蘇ってきた(涙)