2016年07月09日

大河ドラマの真田丸の録画を4話分をまとめてみた結果

 ここ2週間ぐらい、 Facebookもブログも何も更新できなくて申し訳なかったです。正直言って、しばらく忙しかったですね。登山ガイドや自然ガイドの仕事が入ったり、観光協会の仕事が入ったり、夏のピークシーズンの準備で大忙しだったです。特に庭仕事が忙しかったですね。夏の雑草が生い茂るこの時期に、 500坪の庭のメンテナンスを行うという事は、並大抵のことではありません。なので、夏が終わったら、メンテナンスをしやすい庭に大改造したいと思っています。具体的に言うと花壇を減らして、ツリーハウスや滑り台などの子供向けの遊具を揃えようかなーと思っています。また、ハンモックやロッキングチェアをおいてもいいかもしれません。もう花壇の雑草をとる作業は、この夏を最後に極力減らすようにしたいですね。

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 そんな事はどうでもいいとして、今日はちょっと時間ができたので、先ほど大河ドラマの真田丸の録画を4話分ぐらい見ました。23話から26話の4話です。その感想を述べたいと思います。

 前から薄々感じて湧いたのですが、このドラマのシナリオライターは、徳川家康のシンパですね。真田幸村の話を書いているのにも関わらず、徳川家康の側から見て歴史を書いています。 23話から26話を見る限り、それは間違いないと思われます。まず、秀吉が朝鮮出兵をした理由を鶴松を失った悲しみを紛らわすために行ったという林羅山がの説を採用しているからです。

 もちろんそんな事はありません。
 これは徳川陣営が流したフィクションです。
 徳川史観なんですよね。

 秀吉の大陸遠征の計画の準備は、それよりずっと前に行われています。というか、それをそそのかしたのがイエズス会と当時世界最強のスペイン軍です。当時のスペインは、ポルトガルを併呑し、世界の大半を植民地にしてしまいました。そのパワーは、あの大英帝国や現在のアメリカよりも大きかったと思われます。



 そして次々と世界はヨーロッパに征服され、最後に残ったのが、日本と中国と朝鮮だったんですね。で、イエズス会の宣教師は、日本を征服するのは難しいけれど、中国なら簡単に征服できると考えて、フィリピン総督に日本と同盟して、中国を攻撃しようと報告書送っています。フィリピンのマニラ司教であったサラサールも、盛んに中国を攻撃すべきであると訴えています。実際、スペインは中国侵略の準備を着々と進めていました。本国から軍艦を次々と呼び寄せ、場合によっては日本と同盟を組み、南北から中国を攻略しようとしていたのです。

 ところが、ここで重大な事件が起きます。
 スペインの無敵艦隊がイギリス軍に敗北するんです。
 当然のことながら、中国に遠征どころではなくなってしまいます。

 また、空気の読めないイエズス会日本支部の準管区長ガスパール・コエリョによって、武力による秀吉に対する威圧行為によって秀吉を怒らせてしまったんですよね。おまけに彼らは日本人を奴隷貿易に使っていた。言ってることと、やってることが違うことがミエミエだったので秀吉が激怒する。そしてバテレン追放令となってしまうんです。日本とスペインの同盟の話は、これですっかり消えてしまいました。



 その結果、日本は中国に攻め入ることが不可能になったんです。当時の日本軍が、中国に上陸するには、どうしてもスペイン海軍の力が必要です。ところが、当時の日本にはそのような海軍がなかったんですね。そうなると、中国に攻め入るためには、朝鮮半島道を通るしかないわけです。こうして朝鮮出兵が行われたんですが、これが最悪の選択だったんです。

 なぜ最悪だったかと言うと、陸路では補給は続かなかったからです。
 これが海だったら話は別でした。

 ここで、少しばかり戦国時代の軍事編成について解説しておきます。

 当時の軍役を調べてみると、兵力の2割が補給部隊(小荷駄)なんです。せいぜい100キロくらいの距離しか移動しないのに補給のために兵力が2割も割かれるんです。しかも、それでも物資が足りなくて地元の商人から買い集めたりしました。これが200キロになった、さらに大量の物資が必要になります。なので孫子にも「攻撃側が不利」と書いてあります。だから攻撃側は3倍の兵力が必要だったんです。3倍でも兵站に2割をとられるから、2倍にしかならない。距離が離れていれば、もっと兵站に人数がいります。なので戦争上手の項羽も、兵站上手の劉邦に敗れてしまう。

 けれど、船なら大量の物資が届けられる。
 そこに目をつけたのが秀吉です。
 秀吉の小田原征伐は、船を使ったからこそ可能でした。
 船という流通革命は、戦争指導を一変させたんです。

 ところが朝鮮出兵では陸路で補給物資を届けなければならなかった。そうなると、兵力の半分以上を補給のために使わないといけない。おまけに当時の朝鮮には、商業が全く発達して無くて、現地で物資を買うことさえ出来なかった。朝鮮には流通が全く整備されていないんです。

 これが中国なら話は別で、金さえあれば食糧が集まったんですよね。船も運河もあったし流通も整備されていた。そういう意味では、補給路の確保を充分に考えてなかった朝鮮出兵は、圧勝につぐ圧勝をかさねても、補給面で苦しくなってしまい、厭戦気分ならざるえなかったんですよね。

 ただし、日本軍は圧勝につぐ圧勝でしたから、秀吉の耳には、景気の良い話ばかりはいったはずです。大河ドラマ「真田丸」の秀吉のように秀吉が落ち込んでいたわけがないんです。だからこそ仮装パーティーなんかやって遊んでいたんですよ。


つづく。

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2016年06月17日

大河ドラマの真田丸の録画を5話分をまとめてみた結果

しばらく忙しかったので、大河ドラマの真田丸を1ヶ月ぐらい見てなかったんですが、昨日ようやく時間が取れたので録画した5話分をまとめてみました。

真田丸第19話「恋路」
真田丸第20話「前兆」
真田丸第21話「戦端」
真田丸第22話「裁定」

と、見てきたのですが、第22話「裁定」にあれ?と思いましたね。

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 見てない人のために、第22話「裁定」のあらすじを説明すると、北条氏政が上洛するためにに出した交換条件は、沼田領を真田から取り上げて北条に渡すことなんですよ。もちろん真田は不服ですから拒否します。そこで両者の論戦がはじまります。沼田領の所有権を決める論争をはじめるわけです。

 北条からは板部岡江雪斎、真田の真田信繁が出て論戦をし、真田がほぼ勝利をつかみかけるのですが、そこに石田三成が裏から手を出して、わざと負けよという。沼田をあきらめて北条に渡してほしいと言います。理由は「戦争になるから」という理由です。

 いやいやそれは違うでしょう。
 戦争したくないのは秀吉の方であって、
 石田三成は、そこまで先を見てない。

 まぁその辺はどうでもいいとしても、昌幸は沼田城のそばにある名胡桃だけは真田家の先祖代々の墓があるから真田に残してほしいとウソの申し出をしたことになっています。これもちょっと困ったもんです。これは群馬県側からの視点ですが、名胡桃には本当に先祖代々の墓があったかもしれないんです。

 と言うか、私はあったと思っています。
 真田昌幸のおじいちゃんのお墓があったはずなんです。
 つまり、海野棟綱の墓です。

 海野棟綱の子供が真田幸隆(幸綱)。
 その子供が真田昌幸なんですよ。

 ではなぜ、幸隆(幸綱)は、海野氏ではなくて真田氏を名乗ったかと言うと、幸隆(幸綱)は、真田の婿養子になって真田一族を乗っ取っているからです。これは珍しいことではなくて、当時、盛んに行われたことなんです。例えば嬬恋村の鎌原氏は、真田氏から婿養子をもらって、真田一族になって真田家の家老になっているんです。つまり鎌原氏というのは真田氏とイコールなんです。

 これと同じことで、武田信玄も、地方の名族を滅ぼすと、その一族に自分の息子を婿養子にやります。具体的に言うと、海野氏を滅ぼした時に、自分の息子(次男)を海野氏の養子にしてしまいました。これが、海野信親です。武田信親ではなく、海野信親になっています。同じように諏訪氏を滅ぼした信玄は、息子を諏訪氏の養子にして諏訪勝頼(武田勝頼)にしています。

 つまり海野氏と諏訪氏を武田信玄が乗っ取っている。

 その後に真田幸隆が、武田信玄に仕えたわけですが、もう海野氏の跡取りに海野信親(武田信親)がいましたので、海野氏を名乗るわけにはいかないわけです。仕方なく真田氏を名乗り続けたわけですが、後に真田氏の方がビックネームになってしまったわけです。

 ではどうして、名胡桃城に海野棟綱の墓があったかもしれないかと言うと、この辺は上杉氏(山内上杉家)の領地というか勢力範囲だったんです。そこに海野棟綱が配置された可能性が高いんですね。どうしてそこに配置されたかというと、真田は、村上氏に滅ぼされた後も、鳥居峠から沼田に向かう街道を支配していたわけです。そこでの関所の収入が無視できないほどあったわけで、その収入で自分の軍団を養っていたわけです。だから上杉氏(山内上杉家)も一目置いていたわけです。

(逆にいうと、それに目をつけてヘッドハンティングしたのが武田信玄だったりする)

 確かに村上氏は、戦争には強かったたわけですが、街道を支配していたのは海野一族である真田の方なんですよね。しかも真田氏は、村上氏に奪われたはずの真田郷から完全に撤退してなかったのです。真田郷の人は、支配者の村上氏と、街道をおさえていた真田氏に税金を二重に支払っていた。

 海野棟綱は、志半ばで死んでしまったわけですが、その墓が名胡桃にあったとしても、不思議はないんですよ。だからこそ真田昌幸は、名胡桃だけは譲れなかったんだと思います。そもそも名胡桃よりも西側は、つまり吾妻の土地は、海野1族の土地なんです。北条に渡すわけにはいかないんですよ。

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 ここでちょっと解説がいるかもしれません。
 海野一族についての解説です。

 海野氏というのは、当時の教養ある武士たちにとっては、スーパースターなんです。鎌倉幕府の公式的な歴史書である吾妻鑑に出てくるスーパースターの1人が海野氏。ここは分からないと、なぜ真田昌幸が名胡桃にこだわったかがわかりません。

 室町時代の武士たちにとっての歴史本というのは、平家物語や吾妻鑑です。特に吾妻鑑はよく読まれました。吾妻鏡というのは、鎌倉時代に成立した日本の歴史書で、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第六代将軍・宗尊親王まで六代の将軍記という構成で鎌倉幕府についての歴史書なんです。

 その吾妻鏡に海野小太郎幸というスーパースターが、たびたび出てきます。鎌倉で一番の弓の名人であり、わずか十一歳の時に、主人である木曽の義仲の息子の命を守るために体を張ったことで有名な人間です。海野氏は、吾妻鑑にたびたび登場してきます。つまり、海野氏は、当時の武士団にとって憧れの存在だったわけです。

 その海野氏は蒙古襲来の時も大活躍していますし、足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼしたときも海野氏は、北条氏残党をかくまい、足利直義を敗走させ鎌倉を一時的に回復したこともあります。南北朝内乱時代のときも主要メンバーとなって大活躍しています。つまり武士たちのあこがれの存在でした。

 おまけに海野氏の家系も良かった。
 具体的に言うと、

 清和天皇の第二皇子の孫が滋野氏(海野氏)。
 清和天皇の第六皇子の息子が源氏(源経基)。
 海野氏は、源氏より血筋が良いのです。

 そのうえ滋野氏初代は、平家の三代目と親友で、共同で平将門と戦っています。平将門は、平家二代目を殺した犯人で、その敵討ちで勝利したのが三代目平家の平貞盛。その親友である滋野初代であり、源氏の元祖となる源経基。

 さらに海野氏六代目は
 前九年の役(1051年から1062年)
 後三年の役(1083年から1087年)
 二つの大戦でも活躍しています。

 ただし、この戦乱では、多くの人たちが死に、国土が荒廃しています。
 その結果、戦争はこりごりだと思った人が二人います。

 一人は藤原清衡です。
 藤原清衡は、荒廃した国土を復興しこの世の浄土「理想郷」を創ろうとしました。
 それが奥州平泉です。

 そして、もう一人が海野氏。
 修験者となって嬬恋村に開拓に行きた海野氏で、
 後に下屋将監と改名します。

参考サイト http://ss-rekishi.seesaa.net/article/190055128.html

 この子孫が、鎌原氏をはじめとする吾妻郡の武士団です。

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 それはともかく、海野氏八代目は、保元の乱(1156年)で大活躍して、吾妻、佐久、松本市まで領地が拡大します。

 海野氏の領地は、皇室の牧場(牧)がいくつもあったところです。そこの民謡の信濃追分節は、モンゴル民謡と同じなので有名です。古代韃靼人が牧場の管理をしていた名残だと言われています。それを使っていたのが海野氏なので、信濃の騎馬武者といえば海野氏と言われていました。なので木曽義仲が旗挙げしたときに、真っ先に家臣として召し抱えたのも海野氏です。

 義仲は海野氏の騎馬軍団を従え父の故郷・群馬県吉井町を制圧しますが、平家が攻めてきたので信濃への退却して破ります。また源頼朝と和睦して、義仲は嫡子義高を頼朝の長女大姫と結婚させ、人質として鎌倉に送ります。そのお供に海野氏十代が付き添います。

 結局、義仲は義経軍に滅ぼされるわけですが、人質となった義仲の嫡子義高を海野十代目が、十一歳という若さで身代わりになって逃がすわけです。その忠義を頼朝に感心されて、十代目は頼朝に仕えるようになりますが、この十代目が、吾妻鏡によくでてくるスターなんですね。つまり海野氏は、当時の武士団にとってビックネームだったわけです。

 ここが重要なんです。

 これが分からないと、真田昌幸が名胡桃より西にある吾妻郡にこだわる理由がわからないと思います。もし、ここを真田が手放したら、海野一族同士が戦うことになる。それは避けたいし、街道の権益も守りたい。名胡桃までの領地を確保できれば街道の権益が守れるからです。当然のことながら祖父の墓も守れます。もちろん祖父の墓があることは、本当のことだから裁定者の秀吉にも大義名分として通じたはずです。ここに嘘はないはずです。私がシナリオライターだったら、そこを重点的に書きます。

しかし真田丸では、名胡桃の重要性を放置して、沼田城にこだわっているんですよね。あれでは、視聴者に説得力がないし、真田昌幸が単に腹黒い男という単純な視点で終わってしまいますから、ここに群馬県側から見た私の私見を書いておきます。

つづく。

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2016年04月20日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 13

 真田丸15話の録画を見ました。いやー笑った笑った。 15話は、喜劇を書くシナリオライターの個性が非常によく出た回でしたね。秀吉のキャラクターが、非常に面白かったです。あと色々な伏線が、随所に散りばめられていました。

 それはそうとして、やはりこの15話も、ちょっと説明不足のところがあります。まず、いきなり秀吉が、徳川家康を使って真田昌幸を攻めると上杉景勝に宣言し、上杉景勝が非常に驚いた顔をしていましたが、これは見ていた視聴者の皆さんも、同じだったのではないでしょうか? いつの間にか、秀吉、家康が仲良くなっていて、いつの間にか秀吉が家康を使って真田昌幸を攻撃することになっていたからです。

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 この辺の事情に詳しくない人たちにとっては、「? 」ですよね。
 説明が足りないです。
 この大河ドラマでは、肝心な説明を省いてしまう癖があるんですよね。

 では、どうしてこうなったのか?
 ちょっと説明をしたいと思います。

 実は第一次上田合戦で勝利した真田昌幸は、秀吉と連合して徳川を徹底的に攻撃するつもりでいたんです。もちろん秀吉もそのつもりでした。ところが、その直後に、天変地異が起こります。

 天正の大地震が起きるんです。


 この地震は、ものすごい地震で、飛騨では城が一瞬のうちに消えてしまい、一族が全滅したところまででてきました。他にもいろいろな城が壊滅しています。熊本地震の熊本城なんかより被害の大きい城が続出したんです。その上、若狭湾と伊勢湾に同時に津波が発生しています。その結果、近畿地方と濃尾地方は、経済が壊滅的な打撃を受けます。東日本大震災をイメージすればいいと思います。

 問題は、震災によるダメージの大きかったのが秀吉の領土だったことです。
 もう少しで、家康を追い詰める寸前だったのに、
 いきなり東日本大震災クラスの災害が起きてしまった。
 しかも一ヶ月にわたって大規模余震が続いた。
 家康を攻撃するどころではなくなってしまったんですね。
 それが、第一次上田合戦で真田昌幸が勝利した四ヶ月後に起きるわけです。
 そこで秀吉は、家康を懐柔することにしたんですね。
 戦争をやめて、政略で家康を子分にしようとしたわけです。

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 もちろん家康も、秀吉の意図を知っています。
 だから条件を出します。
 信濃の国衆をくれと言うわけです。
 要するに、真田をちょうだいと言ってるわけです。

 家康にしてみたら、石川数正の寝返りによって、徳川の軍事システムが秀吉にばればれになっているために、早急に軍事体制を武田信玄のシステムに変更しなければなりません。そのためには、真田の力がどうしても必要なわけです。

 もちろん、真田昌幸にしたらとんでもない話ですから、良い返事をする訳がありません。秀吉に対しても、渋い顔します。もちろん秀吉は、激怒します。 家康に、真田を攻撃することを容認し、上杉景勝に、真田に対して支援することを禁じます。そして、秀吉自ら真田昌幸を討伐するぞと言い始めるんです。

 もちろんこれは芝居です。家康の面子を立ててあげてるだけです。本気で真田を攻撃するつもりは全くありません。それは家康も知っていますから、真田を攻めるそぶりをして、甲府まで軍を進めますが、そこで引き返して、家康は秀吉に臣従するんです。

 また、真田を家康に渡すためには、上杉景勝から引き離さないとならない。だから秀吉は、上杉景勝に真田を攻撃するから手出しはするなと言って、真田を上杉から引き離すのです。そうしないと、真田を家康にやれない。これも秀吉の巧妙な計算です。真田昌幸などより一枚も二枚も上手なんです。真田昌幸は、してやられたんですね。

 しかし、これは真田にとって悪いことではなかった。
 秀吉によって、国衆から大名に引き上げられたからです。
 もちろん家康の配下になりましたけれど。

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 ところで、もし織田信長であったら、天正の大地震で経済がめちゃくちゃであっても、真田昌幸と連合して家康を攻撃して滅ぼしたと思います。しかし秀吉は、根っからの商人ですから、そういう不経済なことはしません。それよりも、手っ取り早く家康を子分にして、その軍事力を使って、早く天下統一を成し遂げる事を選んだんでしょうね。この時点の秀吉は、領土の拡張よりも、経済の中枢を握ることに熱心でしたから。天下統一をしたら、領土の大小なんか意味をなさないことを知っていましたね。統一さえしたら、その気になったら家康など、一ひねりでつぶせますから。


つづく。

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2016年04月16日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 12

 やっと真田丸14話の録画を見ることができました。14話は、と第一次上田合戦の続きを放送するんだと思っていたら、後半戦の戦いを全部カットしてあったのに仰天してしまいました。あのドラマを見た視聴者は、徳川軍が上田城を攻撃しようとして失敗して、それで終わってしまったのだと勘違いしてしまいますね。

 実は違うんです。

 第一次上田合戦は、この後が重要なんです。徳川軍は、上田城を攻略するのに失敗した後に、もっと小さな丸子城を攻めるのですが、そうはさせないと真田昌幸は、徳川軍の邪魔をします。そうこうしているうちに、上杉景勝が援軍にやってきてピンチになります。慌てた徳川家康は、さらに大規模な援軍を送りますが、戦わずに佐久方面に撤退します。この間4ヶ月。 4カ月間も、両者は戦ったりにらみあったりしているわけです。

 もちろん豊臣秀吉も黙って見てはいません。
 いろいろと工作をします。

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 大河ドラマの方では、徳川の人質となっている真田信尹(真田昌幸の弟)が、徳川家康の家老である石川数正が、家康を裏切って豊臣秀吉に仕えるように工作したことになっていますが、実は違います。これは秀吉の差し金なんです。秀吉が、石川数正の裏切りを画策したのです。そして、裏口から真田昌幸を助けたんです。で、真田昌幸に
「小笠原貞慶と、よく相談して失敗のないように、うまくやり過ごしなさい」
と言う手紙を送っているんです。

 この手紙をもらった真田昌幸は「? 」と、頭をひねったことでしょう。小笠原貞慶は、徳川方なんですよ。変だなぁと思ったと思います。しかし、その1ヶ月後に大変なことが起きます。徳川の家老である石川数正が、秀吉側に寝返たんです。で、石川数正の軍勢の中には、小笠原貞慶の人質もいたんです。つまり、石川数正が、秀吉側に寝返ることによって、小笠原貞慶も一緒に寝返ることになったわけです。

 この事件は、徳川を揺るがす大事件となりました。
 ここが、 14話の最大のポイントです。
 これによって、前提条件が、すべてひっくり返ったわけです。


 石川数正の寝返りによって、徳川の軍事情報が
 すべて秀吉に筒抜けになってしまったからです。
 真田征伐しているどころではなくなってしまったんです。
 そこで、徳川は全軍を撤退させます。
 そして、軍事体制を一新させるわけです。

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 暗号とかを変更したり、
 情報機関をすべて変更したり、
 戦術を大幅に変更したり、
 影武者を一新させたり、
 城の構造を変更させたり、
 何から何まで変更しなければならなくなったんですね。

 実は徳川軍というのは、今川義元の弟子みたいな軍事体制なんですね。徳川家康は、今川義元を手本にしていたんです。もっとはっきり言うと、今川義元の師匠と徳川家康の師匠は同一人物なんです。太原雪斎と言う和尚さんが師匠なんです。若い頃、徳川家康は今川家の人質で、静岡県の駿府で青春時代を送っています。徳川家康は、青春時代に過ごした駿府が、よほど気に入っていたらしく、晩年もここで暮らしています。駿府に、甘酸っぱい思い出があったんでしょうかね。この駿府で、太原雪斎から学問を学び、それが基本となって徳川軍の軍事制度を作っています。

 これが石川数正の寝返りによって、
 徳川の軍事情報がすべて秀吉に筒抜けになってしまった。
 ここが重要なんです。

 困った徳川家康は、軍事制度を大幅に変更しなければならない。で、藁をもすがるように飛びついたのが、武田信玄の軍事制度です。

 で、それに1番詳しい奴がいたんですよ。
 うまい具合に、いちばん詳しい奴がいた。
 それは、真田昌幸と真田信尹なんです。

 この2人は、武田信玄のもとで、優秀な官僚として大いに活躍しているからです。残念ながら真田昌幸とは、今は敵対していますが、真田信尹なら人質として徳川家にいる。彼を家臣に加えれば、武田信玄の軍事制度を短期間で学べます。できれば、真田昌幸とも戦争をやめて仲良くなり、彼も取り込みたいと、家康は考えたはずです。

 ここから先は、まだ大河ドラマで放送されていませんが、
 ちょっとネタバレを言います。
 真田昌幸は、結果として家康の配下につくんです

 嫌々ながらでしょうが、豊臣秀吉の命令で、徳川家康の配下になるんです。おそらく、家康が秀吉のところに上洛するにあたって、色々と根回しをしていたんだと思います。秀吉に「真田をくれ、そしたら秀吉の家来になる」と。真田昌幸にしてみたら、秀吉に臣従したつもりが、その秀吉の命令で家康の配下にされてしまうわけですから、内心複雑だったと思います。

 で、家康のすごいところは、真田昌幸の長男である真田信幸に、政略結婚で本田忠勝(藤岡弘)の娘を結婚させているところです。そこまでして、武田信玄の軍事システムを手に入れないと、やばかったです。情報が筒抜けとなった今、秀吉相手に、小牧長久手の戦いのような戦いは通用しないですから、次はあっという間に、秀吉にやられちゃうかもしれない。それを防ぐためには、武田信玄の軍事システムが、どうしても必要なんです。

 この辺が分からないと「真田丸」14話が見えてこない。
 もちろん15話以降の話も見えてこない。

 私がシナリオライターなら、そこを重点的に書いていたはずです。石川数正の寝返りは、それほどの大事件だったんです。皆殺しにするつもりの真田昌幸を、逆に味方に取り込まなければいけない位の情勢の変化があったんですね。

 それ以前は、何とかして北条氏と同盟を結んで、秀吉に対抗しようとしてたんです。だから真田昌幸に、沼田城を北条氏に渡せと言って、第一次上田合戦が起きてしまった。しかし、石川数正の寝返りによって、それどころではなくなった。北条氏と同盟を結んで秀吉に対抗しても、勝てる見込みがなくなってしまったわけです。おまけに、第一次上田合戦によって、徳川の軍事システムよりも、武田信玄の軍事システムの方が優れていることが分かってしまった

 だから、家康は頭を切り替えたんです。
 つまり家康は、かなり頭の切れる男だった。
 逆に真田昌幸にしてみたら、
「天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので」
 と思ったでしょうね。

つづく。

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2016年04月07日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 11 真田丸13話解説 後編

 第一次上田合戦の解説のつづきです。

 松尾古城・砥石城を散策してみると分かると思いますが、古来から真田の城というのは、一本道なんです。どんな大軍が来ても、一本道を登りながら戦うしかないんです。一列縦隊で登るしかないわけですから、大軍が意味をなさない。逆に言うと、守るほうは少数で十分なわけですね。で、防御側が敵に被害を与えつつ、どんどんどんどん後退するのが、彼らの戦い方なんです。

 で、上田城というのは、古典的な真田の城を平地に持ってきたような作りになっているんですね。大手門から長い一本道を作っているんですよ。普通城下町というのは、大手門まで一本道というのはありえない。ジグザグになったりして、攻めにくくなっている。しかし上田城は例外で、長い一本道が続いていて、その突き当たりが大手門あたりなんです。そして、その一本道の両サイドに武家屋敷・横郭(よこぐるわ)と呼ばれる小さな城が両サイドにあったりする。ここに多少の武士を隠しておいて、徳川逃げていくときに横から攻撃する手はずに成っているのです。

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 このスタイルは、大阪城の真田丸も全く同じなんですね。大阪城の真田丸の前は寺町であるために、長い一本道が通っています。その一本道を徳川軍がどんどん押し寄せるわけですが、それに対して真田は、銃撃を浴びせます。慌てた徳川軍は逃げようにも逃げられない。なぜならば一本道の後ろの方から、どんどん大軍が押し寄せてきて、おしくらまんじゅうのように、ぎゅうぎゅう押し寄せるので戻るに戻れない。

 つまり人が一本道に攻撃側が過密に集まってきているわけですが、そこに火縄銃を浴びせかければ、目をつぶってても絶対に弾があたるわけです。で、敵はバタバタと倒れていくにもかかわらず、逃げるに逃げられない。しかし後ろからはジャンジャンと人がやってくる。おしくらまんじゅうのようにやってくる。そこを真田軍は虐殺するように火縄銃を浴びせかけるわけです。

 これが彼らの闘いの常套手段なんです。
 敵を一本道に詰め込んで、
 飛び道具で虐殺するわけです。
 これなら味方は無傷で、敵が一方的にやられることになります。

 もっとも、この作戦は、もともとは村上義清の戦法だったとも言われています。この方法で武田軍が散々やられたことから学んだんではないかといわれているんです。神川をせき止めて、それを決壊させて撤退する徳川にとどめを刺したのも、沼田の方で真田がやられたことから学んだ作戦だとも言われています。

 つまりこれらの戦術は、真田昌幸の独創ではなくて、真田家臣団から出てきた意見を昌幸が拾い上げたと考えた方が無難です。そもそも真田昌幸は、武田信玄の一番弟子です。

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 大河ドラマでは、真田昌幸(草刈正雄)は毛皮なんか来たりして、いかにも山猿のような格好をしていますが、子供の頃から小京都と言われている甲府で育っていますから、いわゆるシティーボーイなわけです。そして武田信玄のコピーなんですよ。

 じゃあ武田信玄はどうやって戦を戦ったかというと、重臣たちと何度も何度も会議を開いて、下からの意見を吸い上げて戦略を練るわけです。そして軍団全部が作戦をよく認識して、リハーサルなんかも何度もやっちゃうわけです。

 恐らく武田信玄も、一介の武将としては優れていたとは思いますが、それは表には出さない。出さないで部下の意見を吸い上げて、それを全軍に徹底させて、リハーサル行って、本番の合戦に挑む。こういうスタイルなんですね。だから真田昌幸も、当然のことながら同じことをしたはずなんです。それが証拠に、自分たちがやられた敵の戦術を、そのまま採用して徳川軍を撃退している。

 とはいうものの、第一次上田合戦の戦術が、武田信玄に配下の重臣たちが考えた戦術と違うわけです。真田の代々の家臣が考えた戦術なんです。もし、真田昌幸が前面に出て戦術を指揮したとすれば、どこか武田信玄の重臣たちが考えた戦術と似てくるわけですが、そういうところはあまり見られない。いかにも真田の家臣たちが考えたというか、自分たちが体験した戦術をとっています。これは真田昌幸が、武田信玄のように、部下から意見を吸い上げて採用し、上手く部下を使った証拠かなと思っています。

 なのにTVドラマでは、全て真田昌幸が考えたようになってる。
 世間的なイメージとしても、真田昌幸が、
 天才的な戦術を駆使して戦ったと思われているんですよね。
 どうしてそうなったか?



 これにも訳があるんですよね。真田軍というのは、兵農分離をしてないんですよ。これは武田軍にも言えることなんですが兵農分離をしていない。兵農分離をしていない真田軍の中には、修験者が大量にいます。つまり重い荷物を持って山の中をホイホイと登っていく連中がたくさんいる。それも全国百名山、全国三百名山をしょっちゅう登ってるような連中がたくさんいるわけです。そして修験者は、原則として関所をフリーパスで移動できます。

 彼らは、商人になったり、情報屋(忍者)になったり、医者になったりして病気を治して金をもらったりする。この時代のインターネットみたいな連中が、大勢真田の家臣の中にいるわけです。というか、そもそも、そういう連中が真田の大半なのです。こいつらは、山で製鉄を行ったり、銃砲火器でツキノワグマなんかも仕留めている連中なので、そういう連中に相談しつつも、絶対に勝てる方程式をつくりあげ、みんなに納得してもらったうえに、部署についている。

 だから負ける気がしないとも思ってる。なぜなら勝つための方程式を上から下まできちんと話し合っているし、リハーサルもしている。部下は戦国時代のインターネットみたいなやつらですから、勝てるという見込みも情報として持っているわけです。だから寝返らない。

 仮に負けたとしても、山の中に隠れればいいだけのことです。修験者でもある彼らは、万が一負けたとしても、この時代の常識として許されて新しい君主に仕えることになります。だから気楽なんです。一方で負ける訳がないとも思っている。勝てるという見込みも情報として持っているわけです。

 こういう人たちには、名前がないんですよね。
 名前がないから、勝利の原因は全て真田昌幸にするしかない。
 または真田十勇士という架空の存在にしてしまうしかないんですよね。


つづく。

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2016年04月06日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 10 真田丸13話解説 前編

 久しぶりに大河ドラマを地元から語ってみます。と先ほど、ブログを書いたのですが、書いているうちに前置きが長くなって、嫁さんが川に落っこちて大けがしたことで終わってしまいました。おかげで大河ドラマの真田丸については何も語りませんでした。なので、文書をあらためてもう一度仕切り直しで書いてみます。

 真田丸も13話で、第一次上田合戦を放送しましたね。
 非常に面白い内容でしたが、やはりフィクションが多いです。

 大河ドラマでは、真田軍も被害を受けていたように書かれてありましたが、実際は、被害はほとんど皆無に近いです。記録によれば、徳川軍の死者は千三百です。それに対して真田軍はたったの四十です。この四十という数字は、ほぼゼロと一緒です。

 この時代の戦いでは、弓矢や鉄砲なども使われますから、どんな完璧な勝利でも流れ弾が当たって死ぬ人が出てきます。真田軍が二千人だとすれば、流れ弾で死ぬ人は、 四十人ぐらいはいるでしょう。相手が七千人なら、飛び道具を持っている人が千人ぐらいいるので、そのくらいはいて当然です。つまり真田軍は、圧倒的に勝利しているのですよ。

 大河ドラマで見るよりも、完璧に勝っているんです。
 それは徳川軍の記録にきちんと書いてあります。
 みんなおびえきって戦いにならなかったと大久保彦左衛門が書いているんです。

 あとドラマでは、真田昌幸が諸葛孔明ばりに、いろいろと小細工をして、徳川軍を退けているように描いていましたが、これもちょっと史実とは違います。

 真田軍は、もっと単純に戦って勝っています
 もっとシンプルに勝利してるんです。

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 それについては、後日、詳しく解説するとして、こういう大河ドラマにありがちな説明不足を、今日は解説をしようと思います。

 これは仕方がないことなのかもしれませんが、シナリオライターも、歴史作家も、歴史小説家も、少しばかり見落としてるところがあります。それは我々一般的な日本人が、外交とか戦略に詳しくないというところです。多くの視聴者は、戦略戦術を正式に学んでいないんですよ。だからわかる人にはわかるんですが、わからない人にはまったくわからない。なぜ徳川軍が、あれほど焦って沼田城を北条氏に返さなければいけないかが、このドラマだけではよくわからないんです。

 だから、どうしても徳川家康が悪人に見えてしまう。

 しかし、徳川家康にしてみたら沼田城は絶対に北条に返さなければいけない場所なんです。そうしないと自分が滅びてしまう可能性がある。それがわからないと、このドラマは、勧善懲悪の予定調和のドラマになってしまう。

 そもそもこのドラマのスタートからして、ちょっと不親切なんですよね。いきなり武田勝頼が滅びるところからスタートしているんですが、どうして武田勝頼が滅びるのか書いてないんですよ。それがわからないと、このドラマはわかりにくい。

 なのでお節介にも私が説明しますが、
 武田勝頼が滅びる直接の原因が沼田城なんです
 武田は沼田城で滅んでるわけです。
 これがなければ、武田軍はそう簡単に滅びはしません。
 しかし、沼田城の取り扱いで滅んでいるんです。
 それと同じ立場に、家康も立たされているんですよ

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 そもそも武田信玄のお父さんが甲斐国から追放されたのも、今川と同盟を結んで北条氏を刺激したからです。つまり、武田軍団というのは、北条氏と同盟を結ぶことによって地上最強になり得たわけです。上杉謙信と激闘していた時も、北条氏と同盟を結び、さらには織田徳川と同盟を結んで川中島を戦っています。もちろん織田信長と戦う時も、北条と同盟を結び、上杉とも同盟を結んだ上で、敵を信長軍に絞って戦っているわけです。

 武田信玄は絶対に二正面作戦をしていません。
 というか、二正面作戦をした段階で武田軍は滅びる運命にある。
 だけど信玄のお父さんは、馬鹿だからそれをやった。
 それに危機意識をもった家臣たちが、信玄をそそのかして、
 信玄のお父さんを甲斐国から追放したんです。
 こうして二正面作戦を避けたんです。
 それが分からないと小山田信茂(温井洋一)が、
 武田勝頼を裏切った理由も分からない。

 武田勝頼は、戦闘能力そのものは、武田信玄より勝っていましたが、所詮、それだけの男で、兵法の基本中の基本を全く知らなかったようです。だからあちこちに戦を仕掛けて、二正面作戦をしてしまいました。織田信長や徳川と戦っているにもかかわらず、北条氏をカンカン怒らせてしまい、両方で戦わざるをえなくなります。これには、武田信玄の重臣たちも青ざめたと思います。

 北条氏と言うのは、 二百五十万石もある最強の大名です。もちろん織田信長も、それに匹敵する以上の領土を持っています。それに対して、武田勝頼の領土は、たったの七十万石です。もし、本気で織田軍と北条氏が同時に攻めてきたら、いくら武田軍団が強くても全くかなわない事は、戦国武将にとっては常識中の常識なんです。

 にもかかわらず、上杉謙信が死んだ後の相続争いで、北条氏を裏切って、上杉景虎ではなく上杉景勝を応援し、しかも北条氏の城である沼田城を奪い取ったわけですから、北条氏が激怒する事は火を見るよりも明らかです。しかも、それの実行者が真田昌幸なわけですから、真田昌幸も武田家を滅亡させるのに手を貸したようなものです。

 もし、武田軍が北条氏と徹底的に戦うならば、まずその前に徳川家康や織田信長と同盟を結ぶべきなんですね。しかしそれをせずに、信長や家康をさんざん挑発して戦争を仕掛けたわけですから、武田の重臣たちも
「なんというバカ殿なんだろう」
とあきれ果てて物も言えなかったに違いありません。

 そういう意味では、武田勝頼という男は、全く戦略を知らなかったと言って良いと思います。真田昌幸も、内心はやばいと思いつつ、もうどうしようもなかったんでしょうね。だからこそ、岩櫃城に武田勝頼を撤退させる策をうったえたんだと思います。なぜならば、勝頼と上杉景勝は、同盟関係にあるので、上杉側は勝頼を助けないと自分が危ないからです。

 前置きが長くなりましたが、
 大河ドラマの13話における徳川家康の立場というのは、
 この武田勝頼と全く同じ立場なんです。


 秀吉がどんどん日本を統一していく中で、このままでは圧倒的な差ができてくるのは時間の問題なんです。つまり、北条氏と戦っている場合ではなくなってきたんです。二正面作戦は絶対に避けないといけないわけです。なにしろ北条氏の領土は二百五十万石です。それに対して家康の領土は百二十万石です。この差は圧倒的なので、絶対に戦えない。

 もし北条氏と戦ったら、秀吉との二正面作戦となって、武田勝頼と同じことになってしまいます。だから、何が何でも沼田城を北条氏に渡さなければならない。しかし真田昌幸は、これを拒否して上杉景勝に寝返るわけです。これが原因となって第一次上田合戦が起こるわけです。

 徳川家康としては、冷や汗握る瞬間だったと思います。
 なにしろ自分が武田勝家と同じ状況に陥ってるからです。
 同じ沼田城が原因で自分の滅びかねない。
 この辺が分からないと、あのドラマはわかりにくいかもしれません。



 では、真田昌幸は、第一次上田合戦をどうやって戦ったか?

 ドラマでは、いろいろな策を使って、敵を分断して撃退していることになっていますが、彼はもっとシンプルに戦っています。それについては後日詳しく述べるとして、そもそも真田昌幸は、上田城に籠城する気なんかさらさら無いわけですね。上田城の城下町を使って合戦する気でいるわけです。事実、上田城の戦いで勝利した後も、ずっと地上戦が続いていますから。

 では真田軍が、どのように戦ったかというと、真田軍としては非常に伝統的に戦ってるんですね。これは松尾城や戸石城を散策した人ならよく分かると思いますが、真田の城というのは、ずっと一本道なんですよ。敵が長い一本道をどんどん攻めるような形になってます。つまりどんな大軍が来ても、一本道を登りながら戦うしかないんです。 一列縦隊で登るしかないわけですから、大軍が意味をなさないわけです。逆に言うと、守るほうは少数で十分なわけですね。で、防御側が、敵軍に被害を与えつつ、どんどんどんどん後ろのほうに下がっていくのが、彼らの戦い方なんです。

 で、上田城というのは、古典的な真田の城を平地に持ってきたような作りになっているんですね。大手門から長い一本道を作っているんですよ。普通城下町というのは、大手門まで一本道というのはありえないんです。ジグザグになったりして、攻めにくくなっている。

 しかし上田城は例外で、長い一本道が続いていて、その突き当たりが上田城の大手門あたりなんです。そして、その一本道の両サイドに武家屋敷が並んでいます。それだけでなくて、横郭(よこぐるわ)と呼ばれる小さな城(上田高校と清明小学校あたり)が両サイドにあったりする。ここに多少の武士を隠しておいて、徳川逃げていくときに横から攻撃する手はずになっているのですね。テレビのように民家に隠れていたわけではありませんし、徳川が攻撃してくるときにはじっと沈黙していました。敵が逃げるまで隠れていたんですよ。だから、ドラマの方はフィクションです。


 文章が長くなったので、この続きは、半日後にアップします。
 ちよっと用事をすませてきます。
 そろそろ息子を保育所に迎えに行かなければならないので。


つづく。

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2016年02月25日

僕だけがいない街・梶浦由記・冨田勲

 2月から3月にかけて、この時期は確定申告のために自営業者は大忙し。もちろんうちも例外ではありません。にもかかわらず息子が4月からこども園に入ることになったので、その準備として、毎日が大忙しです。下着を大量に揃えて、名前やドングリのロゴをつけたり、布団や布団カバーをそろえたり、手作りのカバンやら雑巾やらを作ったり、嫁さんの仕事は大忙しです。当然のことながら、息子の面倒は私がみることになるのですが、どういうわけか今月に限ってはお客様が例年よりも多いんです。毎日、御客様がいたりします。

 そんな時に、役に立つのはインターネット先生です。うちの嫁さんが、縫い物に四苦八苦しているときに、インターネットで調べると、縫い物のコツというか、裁縫の基本を教えてくれるサイトがたくさんあるんです。うちの嫁さんはそれを見て、どんどん裁縫の技を磨いていったようです。で、その裁縫の基本を教えてくれるサイトというのが、コスプレ関係のサイトなんですね。コスプレを趣味にしてる人たちは、自分でいろいろコスチュームを作っているみたいです。そういえば、うちの宿にもコスプレ関係者から宿泊の問い合わせが来るようになりました。今のところ問い合わせだけで、実際に宿泊したケースはありませんが、いつか泊まりにきてくれるのではないかと、ワクワクドキドキしています。

 ちなみに、北軽井沢の別荘オーナーの話では、コスプレ関係者は、すごいお得意様らしいです。別荘の貸切でお泊まりになるコスプレ関係者も多いようです。あの軽井沢グリーンプラザホテルの支配人の話では、グリーンプラザホテルでも何組ものコスプレ関係者がお泊まりになっているみたいですね。

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 それはともかくとして、最近面白いなぁと思って見ているアニメがあります。

「僕だけがいない街」

です。映画化されるのと、前評判が高かったので、最初から見ていたんですが、ぐいぐい引き込まれるように見てしまう自分がいました。で、見ているうちにデジャブ(既視感)を感じました。この作品は、どこかでいちど、過去に見たような気がしてならなかったんです。それが証拠に、ラストの結末まで途中で気がついてしまったのですね。タイトルを見て気がついてしまいました。

 とはいうものの、普通の人ならタイトルだけで、ラストの結末が分かる訳がないです。にもかかわらず、私に予想がついてしまったのは、過去に似たような作品を見た気がするからです。それが気になって、過去の記憶をずっと辿っていったら、思い出しました。昔、 NHKの少年ドラマシリーズでやっていた、 SF作品の中に、似たような話があったんですよね。だから分かってしまったんだと思います。

 しかしです。それを割り引いても「僕だけがいない街」は、素晴らしい作品です。原作の事は知りませんが、よく作りこまれた作品だと思いました。で、エンディングテーマ曲を聴いたら、癖のある曲だったので調べてみたところ梶浦由記でした。

 梶浦由記とは泣かせますね。
 何を隠そう私は梶浦由記の大ファンなんです
 梶浦由記を知らない人もいると思いますので、
 念のために、どんな曲を作る人か紹介します。
 歴史マニアだったら、この曲は絶対聞いたことがあるはずです。



 そうです。 NHKの歴史ドキュメンタリーー番組である
 歴史秘話ヒストリアのオープニングテーマ曲です。

 歌っているのはKalafina(カラフィナ)というグループで、梶浦由記プロデュースによる日本の女性3人組ヴォーカルユニットで、もともとは劇場版アニメ『空(カラ)の境界』主題歌プロジェクトのために結成されたユニットで、空(カラ)の境界だから、Kalafina(カラフィナ)というグループ名なんですね。ちなみに劇場版アニメ『空(カラ)の境界』主題歌を紹介してみると、こんな感じです。



 それにしてもKalafina(カラフィナ)の歌唱力が凄すぎます。
 しかし、もっと凄いのは梶浦由記の音楽ですよ。
 これなんかは梶浦由記の代表作です。


 
 魔法少女まどか☆マギカです。
 まさに梶浦由記ワールド。
 このほかにNHKで言うと朝ドラの「花子とアン」の音楽も梶浦由記です。
 BGMでしたけれど、良かったですね。

 それにしても今年のNHKの大河ドラマに、どうして梶浦由記を起用しなかったんでしょうかね? 歴史オタクとアニメオタクとゲームオタクはリンクしてますから、梶浦由記を起用していたら、大河ドラマの視聴率ももっとすごいことになっていたと思うと非常に残念です。

 今から40年も前の大河ドラマには、アニメ音楽を作っていた冨田勲を起用しているわけですから、その頃の大河ドラマのプロデューサーはすごかったと思います。

大河ドラマ第1作:花の生涯(1963年)冨田勲
大河ドラマ第7作:天と地と(1969年)冨田勲
大河ドラマ第10作:新・平家物語(1972年)冨田勲
大河ドラマ第12作:勝海舟(1974年)冨田勲

 当時の冨田勲はアニメ音楽の巨匠でしたからね。「ビッグX」とか「ジャングル大帝」とか「リボンの騎士」とか、当時の冨田勲は、すごい曲を作っています。特に「キャプテンウルトラ」の「宇宙のマーチ」は、最高傑作かもしれません。それを紹介します。



あと私が個人的に大好きなのが、冨田勲の新日本紀行です。



これは何回聞いても感動します。昔のNHKは、冨田勲を起用することによって、すごい作品を後世に残したんですよね。先見の明があったと思います。なので、今のNHKも冒険してよいと思います。梶浦由記を起用するくらいのことをして良いと思いますね。かってのNHKは、冨田勲を大胆に起用して名曲を後世に残したわけなんですから、梶浦由記を起用することぐらいのことはできると思うんですけど。


つづく。

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2016年02月15日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 9

 ブラタモリ沼田編、面白かったですね。軽井沢編よりも余程面白かったです。冒頭にタモリが、河岸段丘のことに触れていましたが、実は私も地質オタクとして沼田の河岸段丘を何度も見に行っているんです。あと、歴史オタクとしても沼田には何度も足を運んでいます。沼田の図書館は何十回と通っているんですよ。日本ユースホステル史を調べるためです。実は、日本ユースホステル協会を作った横山祐吉氏は、沼田藩の士族だったんです。

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 沼田藩といえば、大河ドラマの真田丸にでてくる真田信幸が始祖に当たりますが、実はその沼田藩は、少々めんどくさいことになっているんですよね。1600年の関ヶ原の戦いで東軍についた真田信幸は、負けた父親(真田昌幸)の上田領も領土としてもらい、沼田と合わせ9万5千石の上田藩となります。しかし、1622年に、真田信幸は松代藩13万石へ加増移封となります。ただし、沼田領は引き続き真田領のままでした。ここまでは、問題ないんですが、この後に少々めんどくさいことになります。

 真田信幸には、 2人の子供はいまして、
 長男が真田信吉。
 次男が真田信政なんです。

 で、長男(信吉)には沼田藩3万石を継がせました。
 で、次男(信政)には松代藩10万石を継がせました。

 と、このように書くと何か差別があるように感じられますが、実は両者にはそんなに差はありません。沼田藩といっても、領地は吾妻郡と沼田地域の広大な面積を占めており、群馬県の3分の1ぐらいの広さを持っています。実質の石高は、9万石ぐらいだと言われています。

 逆に言えば、9万石なのに3万石の表記であるから、その分の役目が少なくてすみますので、その方がお得なのです。しかも、領地が吾妻郡と沼田ですから、いわゆる海野氏の勢力範囲であり真田軍団の中心的な地域でありますから、どうせもらうなら沼田藩3万石の方が、圧倒的に美味しいのです。だからこそ、長男(信吉)には沼田藩3万石を継がせたのではないかと思います。

 話わかりますが、真田信幸は、ものすごい長寿でした。 93歳まで生きていたというから、江戸時代にギネスブックがあれば、間違いなく世界1番の長寿だったと思います。その真田信幸は、松代藩の藩主でしたから、本家は自動的に松代藩ということになります。つまり次男の真田信政の方が、本家ということになりました。で、真田信幸が、 93歳で亡くなりますと、沼田藩と松代藩で本家争いをします。いわゆるお家騒動が始まるわけです。

 ちなみに長男真田信吉の子供は、真田信直(信幸の孫)といいます。彼は、信幸の長男信吉の子であることを理由としてと幕府に訴え出て松代藩の本家相続の撤回を求めましたが、幕府の回答は、沼田領は松代藩から分離独立。信直を藩主として正式に沼田藩として独立します。怒った真田信直は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662年)に検地を行って、表高3万石に対して実高14万4000石の幕府に報告しました。その上、沼田城を修築して巨大で豪華な天守閣を立て、江戸藩邸も松代藩邸以上のものに改造したために、領民は重税を強いられ、あわよくば第二の島原の乱が起きそうな雰囲気にまでなってしまったといいます。

 それが原因で沼田藩は、お取りつぶしというか改易となり、 信直は山形藩奥平家に、長男の信音は赤穂藩浅野家に、次男の武藤源三郎信秋(母は正室松姫)は郡上藩遠藤常春に、三男の栗本外記直堅・四男の辰之助は上田藩仙石家にお預けとなりました。

 この後、沼田藩は、本田家、黒田家、土岐家と続いて幕末に至ります。ただし、吾妻郡に関しては、幕府領となって、幕末まで続きます。嬬恋村は沼田藩から逃れて幕府領のまま明治維新を迎えています。ここまでは、歴史の本などでよく書かれている歴史ですが、ここから先は、地元の老人たちから聞かされた話です。

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 嬬恋村は、なんだかんだと言って真田の親戚が多い地域なんですが、沼田藩に対しては、非常に恨みがあるようです。真田信直のやった政治は、本当に酷いもので、嬬恋村の農民たちは、その後何百年も恨めしく思っていたようでした。で、その悪代官の代表が鎌原氏でした。

 もともと鎌原氏は、真田幸隆や真田昌幸の先陣として大活躍した嬬恋村の一族ですが、真田家が松代藩と沼田藩に分かれた時に沼田藩につき、沼田藩の悪政を手助けする側になりました。そのために鎌原氏は地元民に長年にわたって恨まれることになり、つい最近まで鎌原氏の墓がなかったくらいです。人々からどのような悪さをされるか分からなかったからです。鎌原氏は、年貢を払えない農民を水牢に入れるなどの拷問で苦しめました。怨嗟の声はちまたに広がりました。どうでも良いことですが、吾妻郡には水牢が多いんですよね。現在でも残っています。

 ちなみに鎌原氏は、途中で真田家から養子を迎えています。真田幸隆の弟です。つまり、鎌原氏も真田一門なんですね。で、嬬恋村が幕府領となった後も、幕府の代官としてこの地(鎌原観音堂付近)に残ります。そして関所の役人か何かをしながら生きながらえるわけですが、今から200年前に天明の大噴火がおこり、鎌原村は壊滅するわけです。そして鎌原村を再建するときに、身分というものをほぼ廃止するわけです。これについてはまた別の機会に述べたいと思います。

09kan-006.JPG

 さて沼田ですが、土岐氏が代わりに統治をするわけですが、元々いた地侍たちは、土岐氏に仕えます。その中に横山氏がいました。これが日本ユースホステル協会を作ったよ横山祐吉氏のご先祖になります。これについても別の機会に述べたいと思います。

つづく。

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posted by マネージャー at 21:08| Comment(5) | TrackBack(0) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月06日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 7

 前回は、真田昌幸は諸葛孔明では無い。黒田官兵衛・竹中半兵衛では無い。諸葛孔明ではなくて、武田信玄であったということを述べました。真田昌幸は、武田信玄の遺伝子を濃厚に受け継いでいると言いました。では、武田信玄とはどういう人間であったのか?について、真田丸の5話が始まる前に、少し解説しておきたいと思います。

 これは以前にも話したことなんですが、武田信玄と言うのは、戦国時代には珍しいインテリだったんですね。どうしてかというと、血筋がスーパーサラブレットだったんです。下手したら足利将軍なんかよりもずっと血筋がいい。だから鎌倉幕府には警戒されていたくらいです。そういう血筋なので、幼い頃から教育を受けています。もちろん禅宗の坊さん達から儒教などの古典教育をしっかり受けています。当時の僧たちは、今で言う大学教授みたいなもので、政治経済歴史古典なんでもたしなんでいましたので、武田信玄は山梨県の田舎にいながらも、その情報収集力は京都にいるのと全く変わらなかったようです。

 有名な風林火山の旗印も、心頭滅却すれば火もまた涼しと叫んで、織田信長に焼かれてしまった快川紹喜が書いて与えたものだと言われています。ちなみに風林火山とは、孫子の言葉からとった文句でもあります。孫子の本質は戦わずして勝つことにありますので、武田信玄の兵法は、無駄な死者を出さないことに集中していました。

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 まぁそんな事はどうでもいいんですが、ここで注目したいのは、武田信玄が、戦国大名には珍しい教養人だったということです。要するにエリートだったんですね。幼い頃から帝王学を学び、中国の古典、儒教などを学ぶことによって、人に気遣いをする様に訓練をし、さらに和歌、絵画、蹴鞠まで嗜みました。

 こんな武田信玄は、 21歳で父親を追放して、家督を継いでから、すぐに行ったのは土木工事です。戦争ではなく、土木工事行っているんですね。これがいわゆる信玄堤です。これは家督を継いでから19年もかけて完成しています。もちろんそのメンテナンスも抜かりありません。メンテナンスをする農民たちには税金を免除して、これに従事させています。

 さらに、すごいことには鉱山の開発を行いました。もちろん金鉱石を精錬するためには燃料が必要です。その燃料は、もちろん樹木です。金銀がが掘られるたびに、次々と山が禿山になっていきますが、その禿山も段々畑や田んぼにして、農業生産力を拡大してしまいました。

 また、道路の建設や、通信手段としての狼煙台も盛んに設置しています。もちろん狼煙台は、嬬恋村にも跡地が残っています。有名なのは、桟敷山の狼煙台です。

 福祉施設も大量につくりました。その一つが温泉です。山梨県には、信玄の隠し湯なるものはたくさんありますが、群馬県にもたくさんあります。その中でも有名なのが、伊香保温泉です。これについては後で解説してみたいと思います。その上、商業を奨励し、付加価値の高い農作物を作らせました。

 とにかく武田信玄という男は、自分の国のGNPを増やし続けました。どのくらい増えたかというと、平安時代には、たったの1万石しかなかった甲州 の石高が、太閤検地の頃には、22万石に増えています。22倍に増えているんです。これが隣の長野県になると、平安時代には15万石で、太閤検地の頃には、40万石です。だいたい2.5倍ぐらいしか増えていません。他の国々でもにたようなもんです。同じ山国の飛騨なんかは、平安時代も太閤検地の頃も同じ3万石ちょっとです。これを考えると、武田信玄の開発力が、いかに凄かったか分かるかと思います。

 だから甲斐の領民たちが、武田信玄を崇拝する気持ちはよくわかります。領主が交代しただけで、あっという間に豊かになったわけですから、尊敬しない領民が居る訳がないのです。おまけに武田信玄は、甲州法度で法治国家を作り上げ、領民に不平不満がないようにしています。その上、戦争になっても、できるだけ自分のところには犠牲のないように、謀略を中心とした方法で領土を拡大しています。

 雑談も大好きで、家来に気配りをし、常に家来や領民の言葉に耳を傾けたわけですから、これほど心地よい上司もないかもしれません。その信玄の側で、一部始終見ていた男が、真田昌幸であり、武田信玄のエッセンスをことごとく自分のものにしていたわけです。


つづく。

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2016年02月05日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 6 真田丸4話解説

 やっと暇ができたので、真田丸4話の録画を昨日の夜に見ました。で、感想なんですが、一言で言うと目が点ですね。まず織田信長ですが、靴を履いて屋敷の中を闊歩する姿を見て、大爆笑してしまいました。後は明智光秀。見た瞬間大笑いです。こういう人をキャストにしちゃうんですねー。岩下尚史ですよ? 岩下尚史の明智光秀はありえないでしょ? シナリオライターは、絶対に受け狙いを狙っていると思います。そういう意味では、このドラマは成功しているのかもしれません。

 ところで、今回もフィクションがたくさん混ざっていましたね。

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 まず、武藤喜兵衛のことです。

 徳川家康は、真田昌幸に、かつて三方が原の戦いにて「武藤喜兵衛」と言う武将から手痛い目に会った言いますが、かって武藤喜兵衛であった真田昌幸は「存じませぬな」と、とぼけます。つまりドラマでは、真田昌幸つまり武藤喜兵衛は、三方が原の戦いで、猛将であったことになっていますが、これがフィクションです。

 何度も書いていますが武藤喜兵衛は、
 行政官(奉行)であり伝令(使い番)なんですよ。
 最前線で戦う武将ではないのですよ。

 そもそも真田昌幸は、武田の人質ですから、最前線で死なれてしまっては困るんですよ。だから武田信玄の、身の回りに置いたわけです。だから武藤喜兵衛は、勇猛果敢に戦う立場の人間ではなくて、司令官の命令を伝えたり、最前線の戦いぶりを確認したりする仕事をしたわけです。平和な時は、行政官として裁判官として調査官として、いろいろな揉め事や、福祉行政を実行する人間なんです。

 ここが重要なんです。

 ここで武田信玄についてちょっとした説明しておきます。武田信玄は、上杉謙信のように戦争が上手だったわけではなくて、行政の能力が高い人だったんです。部下の使い方が非常に上手い人でもありました。武田信玄のお父さんは、上杉謙信のように戦争が上手だったんです。けれど、行政能力に劣っていました。それを反面教師としていましたから武田信玄は、自分が家督になると行政に非常に力を入れます。

 まず、家来とよく話し合うようになります。そして、話し合いに話し合いを重ね、法治国家を作るわけです。多発する領地争いを収めて、国を豊かにしていくわけです。そのために人材もたくさん集めました。いろんな人たちをヘッドハンティングしたんですね。

 真田一族もヘッドハンティングされた1人です。
 ヘッドハンティングされた真田幸隆は、 2人の息子を人質として送ります。

  1人は真田昌幸(武藤喜兵衛)。
  1人は真田信尹(加津野信昌)。

 二人は、武藤氏と加津野氏の養子になって、それぞれ武藤喜兵衛。加津野信昌を名乗っています。そして常に武田信玄の側で働いているわけですが、武田信玄という男は、雑談が大好きなんです。織田信長みたいに、部下を上から目線で見ないんですよ。常に部下とお話をする。雑談をするのが武田信玄なんです。これがまた、部下に対する教育でもあったわけです。

 また武田信玄は、人を育てる天才でもありました。戦国武将と聞くと、誰も彼もが勇猛果敢なイメージがありますが、実は戦国時代でもビビリな人はたくさんいたんですね。武田信玄の部下にもそういう人は大勢いました。これが織田信長ならば、クビにしたかもしれません。 豊臣秀吉ならば降格処分にしたかもしれません。でも武田信玄は、ちょっと違っていたんです。ビビリな人に勇気をつけさせるために、いろいろサポートして手柄をつけさせてあげたりしているんです。武田信玄は、そうやって人を育てていって、武田軍団を強くしていたんですね。けして戦上手だったわけではないんです。

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 たとえば、海尻城に村上義清が攻め込んできたとき、海尻城の兵たちは、内応して城内に火を放ち、村上勢を二の丸、三の丸に引き入れてしまいます。夜中に不意を襲われた日向大和守は抵抗する間もなく落ちのびました。そこに応援のために出陣していた信玄がやってきて、逃げてきた日向大和守に出会います。日向大和守は馬から飛び下りて土下座しながら経緯をはなして処罰を待ちました。城を捨てて逃げてきたのですから切腹でもおかしくない状況です。しかし、信玄は

「危機に陥れば誰でも同じことをするものだ。不満であるはずがない。よくぞ無事で戻ってきた。さぞ無念だったろう」

とねぎらい、

「疲れているところをすまぬが、これより先陣を申しつける。わしの馬印を預けるゆえ、海尻城に取って返し、一功名あげてみせよ」

と逆に先陣の名誉を与え、小山田が守る本城へ向かわせましたのです。 主君の温情に感泣した日向大和守は奮起し、手勢を連れて海尻城にとってかえします。そして城が間近に迫ったとき、武田信玄の伝令がきて、信玄の言葉を伝えます。

「お前ならできる。勝利はまちがいない」

日向大和守は、獅子奮迅の活躍で海尻城から村上勢を追い払っています。こういう事実があると、こういうエピソードがあると調略もしやすいです。相手だって武田信玄になら寝返ってもいいという気になる。そのくらいに人材活用がうまかった。

 それらの信玄流人材活用術を、側で一部始終全部見ていたのが、真田昌幸(武藤喜兵衛)であり、 真田信尹(加津野信昌)だったりするんですね。この2人は、武田信玄学校の優秀な生徒として、武田信玄の遺伝子を受け継ぎました。そして武田の旗本として、武田信玄の参謀として大活躍する予定だったんです。ところが、とんでもないことが起きます。

 長篠の戦いです。

 天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで武田軍は信長・家康の連合軍に惨敗します。3000丁の鉄砲で壊滅するわけです。その時に真田信綱・昌輝が討死します。真田家に跡継ぎがいなくなったわけです。そこで武藤喜兵衛こと真田昌幸は、武藤の養子から外れて真田の家督を相続するわけです。

 そして、真田の自分の領地で行政を行うわけですが、武田信玄流の行政を行うのですから部下からも領民からも非常に喜ばれるわけです。いろんな人たちと雑談をしながら人々の意見を取り入れて人材を育てていく。武田信玄流の行政をしっかりやっていくわけです。これが、最強の真田軍団が出来上がる素地になってくるわけです。

 話は飛びますが、後に真田幸村が大坂の陣で大活躍するわけですが、その時に真田幸村の部下は3,000人ぐらいいたとみられています。このたった3,000人が、もう少しで家康の首を取るところだったので天下を驚かしたわけですが、この3,000人の中に、真田系の武将は100人から150人だったと言われています。後は、烏合の衆だったんですね。しかし、バラバラだった3,000人の武士たちが、もう少しで家康の首を取るところまで行ったのは、真田幸村に武田信玄流の人材育成スタイルがあったからだと思います。そうでないと、あの短期間で、日本最強軍団ができる訳がないのです。

 ここで雑談を許してもらえれば、硫黄島の戦いで大活躍した栗林忠道中将も、真田軍団松代藩郷士の家に生まれています。そして、真田軍団の兵法の遺伝子を色濃く受け継いでいます。彼は、米軍に大打撃を与えたことで有名なのですが、当時の米軍が、硫黄島の捕虜尋問して驚いた事は、どんな下っ端の兵士たちも栗林忠道中将のことをよく知っていた。下っ端の兵士が栗林忠道中将と雑談もよくかわしていたらしいのですね。これを読んだとき、血は争えないなぁと思いました。栗林中将も真田軍団の遺伝子を色濃く受け継いでいるようです。

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 ここで結論みたいなものを述べますが、私が何が言いたいかと言うと、真田昌幸は諸葛孔明では無いということです。諸葛孔明ではなくて、武田信玄であったということです。真田軍団こそは武田信玄の遺伝子を濃厚に受け継いでいると言いましょう。けして、諸葛孔明・黒田官兵衛・竹中半兵衛では無いということです。

つづく。

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2016年01月29日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 5 真田丸3話解説

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 5

 録画してあった大河ドラマ「真田丸」の3話をやっと見ました。で、感想なんですが、やはりやってくれたか…と思いました。この回は伏線だらけだったですね。シナリオが実にうまい。と同時に、シナリオライターは、かなり歴史に詳しい人だなぁと思いました。

しかし、やはりこの大河ドラマにもフィクションが、たくさん入っています。それは2話の甲府から岩櫃城まで移動シーンでもフィクションが入っていましたが(それは前回このブログで解説しましたね)、今回も色々と入っています。たとえば、小山田茂誠(高木渉・木村佳乃のご主人役です)のところなんか、かなりフィクションが入ってますが、これはこれでいい味を出しています。

それにしても小山田茂誠あたりにスポットを当てるなんて、憎い演出をしています。一体このドラマは、どこに行こうとしているんでしょうか? そういえば、きり(長澤まさみ)の登場にも驚きました。この役は、いったいどのような役なんでしょうかね? 長澤まさみが、演じるという事は、よほどのキーパーソンなんでしょうね。

 あと笑ったのが藤岡弘の本多忠勝!
 いい味だしていたなあ。

 それはともかくとして、 3話のストーリーは、真田昌幸がいろいろな謀略を行いつつ、織田信長の配下につこうと旅に出かけるシーンで終わります。ドラマでは真田昌幸をかなり腹黒い男として描かれていますが、私は個人的に、真田昌幸は腹黒い男ではなかったと思っています。

 もちろん彼の得意技は調略。つまり、敵方の人材を引き抜いたり、謀反を誘発させたりしますけれど、これを今の感覚で言うところの「腹黒い」というのとは、ちょっと違うんですよね。この当時の調略とは、今で言えば選挙活動みたいなものです。自分の土地を安堵してもらうために、誰を親玉にするか選挙活動するようなものです。

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 武田信玄が死んだ後、武田勝頼の時代に、あっという間に武田軍団が崩壊した理由は、多くの家来が裏切ったためですが、実際のところは裏切るというより同盟を廃棄したといったほうがいいですね。

 武田の土地には名田と恩地があります。
 名田は、先祖伝来の土地。
 恩地は、信玄からもらった土地です。

 裏切った家臣たちの多くは、先祖伝来の土地をもつ国人。いわば武田の同盟者。しかし真田幸隆・真田昌幸の領地は恩地ですから、真田軍団というのは、武田信玄の家来みたいなものです。もちろん調略によって真田について本領安堵された群馬県吾妻郡の領主たちの土地は名田ですから、彼らは真田に恩があるというわけでないから、もし真田が行政に失敗してしまったら、群馬県吾妻郡の領主たちは簡単に主人を見限ってしまいます。それを防ぐために、武田信玄は、甲州法度で「寄親(このばあい真田)に不服がある場合は、訴訟できる」と決めており、行政(領国経営)に細心の注意をはらっていました。

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 ここで武田軍団の旗印を思い出してみましょう。
 風林火山です。
 孫子の言葉です。
 孫子の本質は、戦わずして勝つ。
 この一言に尽きます。

 なので武田信玄も真田幸隆・真田昌幸も、盛んに調略によって相手を降伏させています。戦わずして勝利しているのです。もし、上杉謙信と正面衝突したら武田軍団・真田軍団も危うかったかもしれませんが、彼らは調略を盛んに行いました。そして、それが成功する理由の1つに、海野氏と言う親戚同士だったこともありますが、それでも武田軍団・真田軍団の行政能力が非常に高かったということもあると思います。

 逆に言うと、武田軍団の真田軍団も行政(領国経営)で失敗してしまったら、あっという間に軍団は解体してしまった可能性があります。武田勝頼は、武田信玄より戦争が上手だったみたいですが、行政(領国経営)で失敗してしまったみたいなんですよね。それで多くの国人(国衆)たちにそっぽをむかれたんだと思います。なにしろ武田軍団の領地の大半は、名田武士たちですから。

 ではなぜ? 武田信玄は、領国経営を重んじるようになったのでしょうか?
 実は、武田信玄は、戦国時代には珍しいスーパーインテリだったんですよね。
 その上、血筋も最高でした。
 その側で、英才教育を受けたのが真田昌幸だったわけです。


つづく。

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2016年01月28日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 4 真田丸2話解説

 10日前に50センチの大雪が降りました。そして1週間前にさらに40センチの大雪が降り、うちの宿はてんてこ舞いです。なにしろ土地が1,000坪もあるので、雪かきも半端でない量になります。おまけに大雪の初日から、ウィンターフェステバルの作業が始まっていました。午前中はウインターフェスティバルのボランティア作業をします。これがなかなかの重労働です。そのために出席するホテルやペンションオーナーはほとんどいません。皆さん自分のところの雪かきで、精一杯なんですね。

 無理もないです。
 自分もそうしたいです。

 けれど、それをやったらだれも出席する人がいなくなります。欠席したいけれど欠席できない状態が続きいました。なので午前中はウィンターフェスティバルの手伝いをし、午後から自分の宿の雪かきです。もちろん日が暮れるまであります。朝から晩までこの仕事をして、体はクタクタなのですが、おそらく今年が最後だと思うので、老骨に鞭を打って頑張ってきました。おかげで体重はどんどん減ってきました。

 まぁそういうわけなので、最近はテレビを見る暇もありません。ようやく昨日、テレビを見るゆとりが出てきたので、 NHK大河ドラマの真田丸の2話と3話の録画を見ることができました。今日は、2話について少しばかり解説します。(明日は、3話を解説しますね)

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 2話は、真田信幸と幸村が、甲府の新府城から、群馬県吾妻郡にある岩櫃城に向かうのが主なストーリーなのですが、その時に野党に狙われたり、裏切り者の小山田一族に殺されかかったりします。それを、真田幸村の機転によって何とか切り抜けるのが、主な見せ場になっています。たとえば、兵糧狙いの農民には、着物をばらまいてその隙に逃げるとか、みすぼらしい農民の格好して、逃げるとかです。ドラマとして非常に面白かったですが、これはあくまでもドラマです。本当はちょっと違うことを述べておきたいと思います。

 実際は、この時は兄の信幸の大活躍で一同は助かるんですよね。兄の信幸は、身長185センチの当時としては大男です。彼がつけていた鎧の大きさでわかるんですよね。もちろん巨大な鎧を身につけ、彼は甲州黒と言う名馬にまたがって、岩櫃城に向かうんです。このとき彼の年齢は17歳。馬にまたがって十文字槍をとって、堂々と街道行きます。

 当然のことながら、甲斐の落ち武者狩りがやってきますが、 17歳の信幸の超人的な活躍によって次々と返り討ちにします。そのために、誰も近づけないわけです。そこで、埼玉県や群馬県あたりの忍者たち(おそらく北条氏の手のもの)が、彼らを暗殺しにくるわけですが、これも撃退します。もちろん幸村も活躍したと思いますが、ゲリラのように百姓の姿になって岩櫃城に向かったわけではなく、甲冑鎧をつけて馬にまたがり、堂々と帰還しているんですよ。

 だからあれは、いわゆるフィクションです。

 それはともかく闘いながら、岩櫃城に戻るわけですから予定通りに到着しません。行軍の日程が伸びてしまい食料がなくなってしまうわけです。それでもなんとか草津街道あたりに到着し、腹が減ってどうしようもなくなった頃に、吾妻郡の鎌原氏(嬬恋村)・湯本氏(草津町)が迎えにきて、腹を満たします。そして、嬬恋村の大笹の雁ヶ沢に到着。このあたりです。

http://kazeno.info/karuizawa/9-hoka/9-hoka-3-06.htm

 関所跡のあるあたりです。

 雁ヶ沢という地名は、雁がこの谷へ降りても、ふたたび飛び上がるのも難しいということでつけられた地名。目がくらむほどの断崖絶壁。信幸は誰かここから飛び降りるものはいないか?と冗談を言うのですが、赤沢嘉兵衛という者が「それがしが飛んでご覧にいれましょう」と飛び降りました。

 真田兄弟は、呆然とします。
 もちろん真田昌幸は烈火のごとく怒ります。

「せっかくの赤沢を無駄事にさせるとは何事だ。言語道断である」

 真田昌幸は、家来を無駄に死なせた信幸に大激怒です。
 そこに死んだと思ったら赤沢嘉兵衛がやってきました。そして

「あの程度の谷へ飛び下りたところで、死ぬような自分ではありません」

 赤沢は茶目っ気たっぷりに答えました。
 しかし、それに対する真田昌幸の回答はこのようなものです。

「稀には死なないこともあろう。しかしこのような無茶なものは俺の用にはたたぬ。無益に命を捨てようとしたのは不届き千万」

と勘気を申し付けました。後に赤沢嘉兵衛は徳川家康が上田城を攻めた折、神川合戦で首級二をぶらさげて昌幸の実検に現れ、勘気を説かれました。その後も数度の戦功をあらわし、一生のうちに二十五の首級を捕ったと伝えられています。

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 このエピソードから分かる事は、真田昌幸は、むやみに命を失うような無茶を嫌う人だったということです。命を大切にし、着実に物事を納めることを重視している姿が見えます。これがもし、豊臣秀吉だったらどうだったかと思うと、派手好きな秀吉だっただけに、赤沢に感動していたかもしれません。それだけに昌幸のキャラクターが浮き出てきますね。

 また、このエピソードで、真田昌幸は息子達に独自の帝王学を教えています。家来に無茶をさせるなと怒っているわけです。つまり真田昌幸は、無茶ぶりの人ではなく、むしろ慎重で着実に物事を進めるタイプに見えます。いわゆる官僚タイプです。武田信玄のもとで行政官(奉行)や伝令を行っていた感じの人ですね。

 17歳の真田信幸も赤沢嘉兵衛と同じように、無茶をするタイプだったのかもしれません。だから真田昌幸は息子の教育のためにも、無茶をした赤沢を公衆の面前で激怒してみせたのかもしれません。

 のちに真田昌幸は徳川軍を2度も撃退しますが、無茶な博打のような戦で撃退したわけではありません。非常に慎重に行動した結果、徳川軍を撃退しています。その時に、真田信幸が調子に乗って作戦を台無しにしかかるケースもあったかもしれないんですが、その頃の信幸は、慎重なキャラクターに変化していました。昌幸の帝王学がうまく通じたようです。


つづく。

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2016年01月25日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 3

 私は新潟県で生まれています。当然のことながら上杉謙信が大好きです。子供の頃、天と地とというNHKの大河ドラマを見て、興奮した覚えがあります。だからどうしても、武田信玄に対して良い感情を持っていません。その上で言うのですが、上杉謙信と武田信玄。 2人は川中島(長野市)で、向かいにわたる激闘を繰り広げて、天下に名を轟く明日戦国武将ですが、 2人は対照的な武将でした。2人の違いを簡単に説明すると、上杉謙信がロンメル将軍だとするならば、武田信玄はヒットラーみたいな感じです。だけど、この例えだと武田信玄ファンは、怒ってしまいますよね。では、このように言い換えましょう。

 上杉謙信がナポレオンだとすれば、武田信玄はウェリントンとグナイゼナウ。
 上杉謙信が義経だとすれば、武田信玄は源頼朝。
 上杉謙信が遠山の金さんだとすれば、武田信玄は必殺仕事人たち。
 上杉謙信が仮面ライダーだとすれば、武田信玄はゴレンジャー。
 
 戦国武将で最も戦闘力が高いのは、上杉謙信で間違いありません。その勝率は9割にもなります。NHK BS歴史館によれば、上杉謙信は、69戦して61勝2敗8分の記録を作りました。

 勝率は9割です。これがどのぐらい凄いかというと、ライバルの武田信玄でさえ、49戦33勝11敗3分。勝率6割です。武田信玄得意の調略による城攻めを含めれば、通算72戦49勝3敗20分になりますが、それでも勝率は6割です。川中島の戦いでも、引き分けということになっていますが、戦闘そのものは上杉軍の勝利で間違いないと思います。なにしろ武田軍の主な武将たちが何人も死んでいるからです。上杉軍で大将首を盗られたものはありません。しかも、上杉謙信は侵略のために戦争したことが1度もありません。それに対して武田軍は、侵略に次ぐ侵略です。そもそも武田軍の旗印である「風林火山」からして、私は侵略しますよ・・・と言っているようなものです。なにしろ「侵略すること火の如し」ですからね。

 だから、新潟県民にしてみたら、武田信玄を好きな人など誰もいません。それは武田信玄の侵略方法からして非常に残酷だからです。例えば、稲刈りの時期に敵国に攻めていきます。もちろん敵国は山城にこもるわけですが、武田軍は略奪の限りを行ったうえに、実った苗を全部刈り取って帰っていくわけです。もちろん暖房狼藉の上に住民たちを人買いたちに売りさばいてしまったりする。こんな連中を好きになれといっても、新潟県民は、なかなか好きにはなれないわけです。

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 しかし、別の見方をすると武田信玄という男は、すごい名君なんですね。自分の犠牲を出さずに、相手を降伏させる天才なんです。それは「風林火山」の元になっている「孫子」の兵法を使っているからです。孫子のテーマは「戦わずして勝つ」ですから、こんな合理的な事はありません。戦国武将だって、できるだけ死傷者は出したくないですから。

 けれど、武田信玄の1番の魅力は、戦争上手というよりも行政能力にあります。徳川家康が手本にして江戸幕府の基本法律に取り入れたぐらい武田信玄の行政能力は高かった。特に甲州法度はすごかった。長い前置きはこのくらいにして、ここから本題に入ります。

 世の混乱には、ある法則があります。法律と警察と裁判所が機能しなくなったときに混乱するのです。例えば戦後の混乱期は、法律と警察を裁判所が機能しなくなって起きたものでした。法律が平等でなくなり治外法権ができると混乱するんですね。戦国時代でもそうです。

 武士というのは基本的に農民ですから、水争いや土地争いがしょっちゅう起こります。それを収めるために鎌倉幕府というものができたのですが、裁判で自分の土地を明確にしてもらうのが当時の政府の主な役目でした。もちろん室町幕府でも事情は同じです。しかし、これがだんだん機能しなくなってくるわけです。そうすると水争いや土地争いが起きると、喧嘩になってしまいます。たいていは、親戚同士の喧嘩なんですが、それがだんだん大きくなって、収まりがつかなくなって、周りの有力大名を抱きこんでの戦争が起きてしまうわけです。

 そうなると有力大名も、土地争いに介入して子分をどんどん増やしていって勢力圏を拡大していく。そうしないと他の有力大名に滅ぼされる可能性がありますから。そうして戦国時代が始まるわけですが、その戦国時代に有力大名のエースが山梨県から出てきました。戦争が上手で、他国をどんどん侵略するエースです。

 その人の名前は「武田信虎」です。
 いわゆる武田信玄のお父さんですね。

 この人は、上杉謙信ばりに戦が上手でした。戦争の仕方も、武田信玄というよりも上杉謙信のほうに近いかもしれません。なにしろ14歳で家を継ぎ、その翌年に叔父を滅ぼし、そして今川軍と戦っています。その後も今川軍や北条軍と戦いながら甲斐国を統一していますから戦争の天才といってもいいでしょう。下手したらこの人が、甲斐国の上杉謙信。いや、甲斐国の織田信長になっていたのかもしれません。

 しかし、そうはならなかったんです。武田信虎は、戦争が上手でも行政能力がイマイチだったんです。部下に対しては信長のように厳格だったために、何人ものの部下が明智光秀のような感じになっていました。でも、それだけならまだ救いがあったんですが、当時の山梨県は災害に明け暮れているいたんです。例えば、4月に1メール50センチの雪が降っている年もあり、翌年に全く降らなかったりしています。2年連続で領民が壊滅状態になるほどの自然災害がおきたこともあります。で、その結果、何がおきたかというと、武田家の内紛が起きたんです。家臣と息子の武田信虎を追放して、武田信玄が領主になっているのです。

 信長は、明智光秀と言うたった1人の部下に謀反を起こされて死ぬわけですが、武田信虎の場合は、すべての部下たちと息子である武田信玄に謀反を起こされているわけです。よほどみんなから嫌われていたようです。しかも、当時の記録によれば、武田信虎が息子に追放されると、甲斐国の武士から坊さんから農民に至るまでみんな喜んだと書いてあります。

 で、父親を追放して君主となった武田信玄は、父親を反面教師として、行政に力を入れるわけです。

 まず法律の制定です。これがいわゆる甲州法度ですね。そして警察と裁判所を設置して、土地争いを収めます。そして、下々に訴訟する権利を与えます。訴訟があれば、中央から綿密な調査を行って仲裁します。したがって、喧嘩両成敗となります。喧嘩になれば、どちらに非があろうが処罰されるわけです。私闘による解決を禁止して、公的機関で決着をつけさせると言う方法をとっているわけですね。法治国家を目指していたわけです。法治国家を作ることによって、土地争い・相続争いをなくして混乱を防ごうとしているわけです。

 その他にも、金山の経営を行って貨幣を生産したり、計量単位を統一したり、大規模な土木工事行って農業生産を上げたりしています。商業も保護しました。保護した上で商人たちから情報を収集しました。その上、温泉の開発などの福祉政策も積極的に行っています。武田信虎を反面教師とした武田信玄は、このように内政を徹底的に重視したんですね。

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 当然のことながら、官僚が(行政官)法治国家を支えます。
 その官僚の1人に、武藤喜兵衛という人がいます。
 彼こそが信玄の行政官として領国経営を行っていました。
 戦争時には、武田信玄の伝令として活躍していました。

 この武藤喜兵衛が、真田昌幸なんですよ。

 つまり彼は、武田信玄のもとで、行政官として活躍し、戦場では伝令として戦争を目撃する立場にあり、情報集める立場にありました。武田信玄の目玉に成っていたのです。まさに、真田昌幸イコール武田信玄であったわけです。武田信玄の能力の後を継いだのは、武田勝家ではなくて真田昌幸だったのかもしれないのですよ。

 意外に思われるかもしれませんが、真田昌幸は、決して上杉謙信のように勇猛な武将であったわけではありません。むしろ行政官として民心の安定を心がけ、戦場では、もっぱら情報を扱う縁の下の力持ちでした。


つづく。

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2016年01月22日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 2

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 2

 実は私は、新潟県のド田舎で生まれ育ちました。そこから上京して東京の池袋の街中に17年住むわけですが、最初の頃は、ご多分にもれず、東京の人達はちょっと冷たいと、みんなそれぞれに距離があると思ったものです。まあ口に出しては言えませんでしたが、田舎から来る人たちは、たいていの人たちがそう思ったと思います。特に関西地区から来た人たちは、大声で叫んでいました。

 しかし、池袋の駅から徒歩10分ぐらいのところに、数年ぐらい住んでいると、なぜ東京の人たちは、ちょっと冷たいと感じたかがわかってきます。冷たいのではなくて、礼儀正しいのですね。礼儀正しく生きていくのが、人生の知恵にならざるをえないのです。

 今では考えられないことですが、昔は、トイレや台所が共同のアパートが多かったですから、池袋から徒歩10分のところに住むと言う事は、そういうところに部屋を借りるということになります。もちろんお風呂なんかありません。みんな銭湯に出かけます。台所もない4畳半がほとんどで、ちょっとリッチな部屋になると、 6畳間に、 半畳ほどの水回りが付いている場合もあります。そんな狭いアパートが、20部屋ぐらいあったりして、そういうところについ最近まで、というかバブルの頃まで多くの日本人は住んでいました。

 もちろん、それだけの住人がいれば、変わった人たちも、中には1人ぐらいいて、酒乱か何かになって他の住人に迷惑をかけるケースもあります。そうなると、大家さんが激怒したり、警察を呼んでみたりで、一騒動が起きるわけですが、それで片付けば良いのですが、なかには、おかしな人たちもいて、片付かないケースもあるわけです。

 すると、今まで全く無関心だった紳士ぽい隣の部屋の人が、突然出てきて、あっという間に、おさめてしまいます。警察や裁判所でも解決できなかった問題を、今まで空気のような存在だった影の薄い隣人が、全部解決してしまう。

「あれ?」

 と思うわけですね。

「なんだろうこれは?」

 と、 20歳ぐらいの私は不思議に思っていたのですが、後でその隣人は、 893関係者だったということを、ある人から聞かされて「えええええええええええええ?」と驚きました。というのも、とても親切で優しげなサラリーマンにしか見えなかったからです。つまり、東京の池袋駅から徒歩数分ぐらいのところのアパートに住んでいたら、人は全く見かけによらないという事を、否が応でも学習します。そう簡単に、喧嘩なんかできません。自然と礼儀正しくなるわけです。

 これは運転免許をとって自動車を運転してみるともっとよくわかります。都心に近づけば近づくほど運転マナーがよくなってきます。都心部では譲り合いを徹底しています。しかし都心から離れて北関東のほうに来ると、運転マナーは、次第に悪くなってきますね。田舎に行くほど、運転マナーがひどくなってきます。

 じゃぁ、田舎のほうは、人間がダメなのかというとそうではないと思います。ある意味、人間を信頼しているから、多少マナーが悪くてもなんとかなってしまうこともあるのかなぁと思っています。しかし、東京の都心では、どんな人がいるか分からないので、マナーを守らないと安心して運転なんか出来ないんですよね。

 まぁここまで書くと、極論になりますが、何が言いたいかと言うと、
 東京人の礼儀正しさの中には、
 安全保障の一面がある

 ということを言いたいわけです。

 前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。 17年間池袋に住んでいた私は、その後、 3年ぐらい埼玉県の春日部に住むことになります。春日部は、東京のベットタウンみたいなところなので、古い住民と新しい住民が住んでいるわけなのですが、新しい住人は、東京と同じく礼儀正しいのですが、古い住民たちは、ちょっと口が悪いんですね。逆に言うと、距離感がないというか温かみがあったりするわけです。これに衝撃を受けるわけです。その前に17年間池袋に住んでいたので、この人たちは大丈夫なんだろうか?と思うわけです。

 例えば何かのトラブルが起きた場合、古い住民は、ささいなことでも、人に文句をつけてくるわけですね。新しい住民は、ささいな事はとりあえず我慢して、我慢しきれなくなった場合は、警察に相談するとか、法的手段に訴えるといった行動をとるわけですが、古い住民たちはそういうことをしないんですよね。ストレートに文句を言ってくるわけです。それも、相手の神経を逆なでするような言葉も使ってくるわけです。つまり安全保障のために礼儀正しくするという感覚がうすいのです。

 これにはハラハラしました。相手が893関係者だったらどうするんだろうと、ハラハラしたもんです。池袋にいた住人たちは、相手がどんな人間か分からないわけですから、かなり慎重に行動するわけですが、春日部あたりの古い住人たちは、そういう配慮をしないわけです。つまりそれだけ、池袋よりも安全な地域なんですね。相手に対して信頼感があるわけです。だからそういう無茶ができるんですね。

 そして、その後に、私は北軽井沢に引っ越してくるわけですが、こちらに来ると、もっとそれがひどいわけです。ここでも安全保障のために礼儀正しくするという感覚がうすいのです。だから平気で悪態をつける。相手の素性が知れているから安心して悪態がつける。何処の誰か分からないということがないからです。ある意味、人間を信頼しているわけでしょうが、それゆえに田舎特有のトラブルもあるわけです。これは私が生まれた佐渡島でも一緒でした。

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 話をもどします。
 嬬恋村は修験者たちが開拓した村でした。

 平安時代末期、一人の修験者が、嬬恋村に流れてきました。信州に大帝国を拡げていた、海野一族の跡取りの一人でした。名は、海野幸房と言います。彼は、戦争に嫌気がさし、修験者となって、人も住んでない嬬恋村にやってきました。当時の嬬恋村は、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない頃でしたから、ほとんど人は住んでなかったようです。そこに、修験者となって、流れてきた海野一族の一人は、粗末な庵をつくり、『捨城庵』と名付けました。城を捨てて、造った粗末な小屋という意味です。刀を捨てて、修験者となって、修行を行いつつ、嬬恋村の開拓をはじめました。

 海野幸房は、名前を、下屋将監幸房と改名します。そして、子孫たちに嬬恋村を開拓させていき、広大な領地をもつにいたりますが、下屋氏は、勢力が大きくなると、次々と分村していき、譲り状を渡し、小国に分割していきます。わざと巨大な帝国を造らずに、逆に小さくしていったのです。今風にいえば、地方分権に徹したわけですね。

 こうして、吾妻郡はどんどん開拓されていくわけですが、そのたびに譲り状を渡して小さな豪族が生まれるわけです。そして、吾妻郡一帯は、みんな親戚だらけに成ってしまうんですね。先祖をたどると海野一族(下屋氏)になってしまうわけです。ここが重要なんです。吾妻郡の先祖が、みんな海野一族ということが重要なんですね。

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 吾妻郡というのは、後に、武田信玄と上杉謙信が激動する場所であるのですが、戦場では圧倒的に強かった上杉謙信が、武田信玄に徐々におされてしまう理由は、ここにあるわけです。まともに戦ったら、武田信玄は上杉謙信に勝てるわけがないんですが、実際は、少しずつ武田信玄の方が吾妻郡の領土を拡大していくんですよね。そして最終的には、群馬県の北部をほぼ手に入れるわけです。その理由が、吾妻郡のほとんどが親戚同士だったということがあるんですよね。

 さて、この親戚というのが曲者なんです。

 お里が知れているために、安全保障のために我慢する(譲歩する)という感覚が、お互いにないんですよ。今現在、田舎に住んでいる人なら分かると思いますが、親戚というのは、それも遠い親戚というのは、よくもめるんですよね。お里が知れているからよくもめる。特に農家は、土地争いをします。相続あらそいもします。戦国時代の吾妻郡もご多分に漏れず、領地をめぐって争いが絶えなかったようです。

 この時代の武士というのは、ほぼ農民の事でしたから、農地をめぐって戦いに明け暮れました。これが鎌倉時代なら、問題は簡単でした。鎌倉幕府に訴えを出して、裁定してもらえばよかったからです。けれど、 室町幕府には、そういう力がだんだんなくなってきたために、土地争いが激しくなってくるんですね。それで、近くの有力な大名をバックに自分の土地の安全保障をしてもらうわけです。こうして、自分の土地を守ろうとしたわけです。

 吾妻郡嬬恋村でも例外ではありません。鎌原氏と羽尾氏が土地をめぐって争い、鎌原氏が武田信玄をバックにし、羽尾氏が上杉謙信をバックにして戦うわけです。両方とも親戚なんですが、バックに超大国を持ってきて同族同士が戦ったわけですね。

 で、これに関わったのが「真田幸隆」という人間なんですが、こいつが、またくせ者なんですよ。嬬恋村の隣にある旧真田町の国人衆なんですが、戦いに敗れて嬬恋村に落ち延びてきます。そして、嬬恋村の親戚の羽尾入道のもとに逃げてくるわけですが、この「真田幸隆」が、後に武田信玄の家臣となり、最強の武田軍団を作っていくんですね。つまり、真田イコール武田だと思って間違いありません。で、どういうところが「イコール」なのかと言いますと、長くなるので、続きは、後日、解説したいと思います。


つづく。

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2016年01月17日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる

 西暦2000年に私は、嬬恋村の北軽井沢地区に引っ越してきて、今の宿屋を始めるわけですが、最初はなかなか地元の人と馴染めなかったです。これはどこの田舎でもそうだと思うんですが、最初はなかなかなじめないものなんですね。ただし、 3年ぐらい経つと、周りから地元民がどんどん私に接触してくるようになりました。理由は簡単です。地元の店舗とかレストランをホームページで徹底的に紹介したからです。そして、うちのお客さんを、どんどんそういう店に紹介していたものだから、地元の人たちに感謝されたんですよね。で、地元民と仲良くなった訳ですが、ある程度仲良くなると、仰天するような事を体験します。その一つが、自殺に関する話題です。

「最近なになにさんが、見えないねぇ」
「あ、その人は自殺したわ」
「そうだったのか。ところで話は変わるけれど…」

 普通、人が自殺すると大ニュースになります。これは、私が生まれた佐渡島でも、あたしが17年間住んでいた東京の池袋でも同じでしたが、嬬恋村では普通に日常会話で流されてしまう。自殺が少しも珍しく語られない。これに衝撃を受けたわけです。

 どうしてだろう?

 と不思議に思っていたら、この村で校長先生をやっていたこともある人に、その理由を教えてもらいました。この村では、親族間の結婚が多くて、遺伝子的に精神が弱いところがあるのかもしれないとの事でした。だから、躁鬱症にかかる人も多く自殺率も高いらしいのです。

 それが事実かどうかは、さておいて、この地域には親戚が多い事は確かです。例えば、嬬恋村の隣にある長野原町は、人口の半分が◇◇一族だと言われています。先祖をたどると、半分近くが親戚になってしまうわけです。嬬恋村でもご多分にもれず、大抵はどこかで血が繋がっているわけです。で、その血の繋がりというのは、みんな真田一族なんですね。

 そんなバカな?

 と最初は思っていましたが、本当にそうでした。私のようなよそ者はともかくとして、村の人の大半が真田1族なんですね。で、真田の血筋のものと、私のようなよそ者では、行動原理が違うわけです。例えば真田系の人たちというか、嬬恋村の人たちは、上田市に買い物に行くわけです。しかし、私のようなよそ者は、軽井沢に行きます。向いている方向が違うわけです。嫁さんにしても上田市の方(旧真田町)に嫁に行ったり、上田市の方(旧真田町)から嫁をもらったりしてるわけです。親戚が県をまたいでいるんですね。

 面白いなぁと思ったのは、登山道の整備に関してです。日本百名山の1つ四阿山の登山道は、嬬恋村の中にあります。当然のことながら登山道の整備は、嬬恋村役場の観光商工課がやっているわけですが、嬬恋村が登山道整備すると、旧真田町(上田市北部)の人たちが、お礼を言ってくるわけです。明らかに、四阿山の登山道は、旧真田町(上田市北部)の人たちのものだと思っているし、自分たちが整備すべき場所だと思っているわけですが、本来ならば嬬恋村の土地にあるわけですから、嬬恋村の役場が整備して当然なわけですよね。しかし、旧真田町(上田市北部)の人たちは、そうは思っていないわけです。

 なぜか?
 実は、ここに嬬恋村と真田一族の謎を解く鍵があります。

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 実は嬬恋村は、非常に特殊な歴史をもっているんですよね。
 修験者たちが開拓した村だったんです。

 平安時代末期、一人の修験者が、嬬恋村に流れてきました。
 信州に大帝国を拡げていた、海野一族の跡取りの一人でした。
 名は、海野幸房と言います。
 兄は、海野幸家。真田一族の家祖にあたります。

 彼は、戦争に嫌気がさし、修験者となって、人も住んでない嬬恋村にやってきました。当時の嬬恋村は、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない頃でしたから、ほとんど人は住んでなかったようです。そこに、修験者となって、流れてきた海野一族の一人は、粗末な庵をつくり、『捨城庵』と名付けました。城を捨てて、造った粗末な小屋という意味です。刀を捨てて、修験者となって、修行を行いつつ、嬬恋村の開拓をはじめました。場所は、嬬恋村の万座鹿沢口駅のあたりです。

 海野幸房は、名前を、下屋将監幸房と改名します。そして、子孫たちに嬬恋村を開拓させていき、広大な領地をもつにいたりますが、下屋氏は、勢力が大きくなると、次々と分村していき、譲り状を渡し、小国に分割していきます。

 わざと巨大な帝国を造らずに、逆に小さくしていったのです。今風にいえば、地方分権に徹したわけですね。そのために、下屋本家は、戦国時代の下克上からも逃れることができました。そして、今なお嬬恋村に存在しています。嬬恋村には、千年の歴史をもつ名家が、いまでもいるのですね。

 下屋本家を造った下屋将監は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。そして、神社は大いに栄えるのですが、山津波で壊滅します。壊滅した後に「阿弥陀堂」が建ちます。まあ、それはいいとして、そのあたりに住む人たちは、宮崎の姓を名乗るひとが多いのですが、ご先祖様が、神社に使えていたためです。

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 下屋氏一族は、さかんに嬬恋村を開拓します。そして、真田から嫁をもらって人口を増やします。この風習は、現在でも残っていて、嬬恋村と旧真田町は、親戚どうしみたいになっています。そのために、嬬恋村は真田と隣接している西部の政治力が強く、東部の北軽井沢側は、風に飛ばされてしまいそうに弱体です。村長も、議員も、真田側からワンサカでてきますが、北軽井沢側は政治的に沈黙したままです。

(そのへんの事情は、詳しくは、以下のページを御覧ください)
 http://kaze3.seesaa.net/article/123305890.html



 脱線しました。
 下屋氏一族のことです。

 下屋氏一族は、武器を捨て、宗教(修験道)の力をもって開墾を続けました。武器の力ではなく、信心の力で開墾を行い、天仁の噴火で壊滅した嬬恋村を見事に再生させます。そして、広大な領土をもつに至りますが、下屋氏一族には、領土的野心はこれっぽっちもなく、分村し、暖簾分けし、村々を次々と分家たちに譲り渡してしまいます。

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 暖簾分けされた中に、鎌原氏という存在があります。下屋氏一族の開祖、下屋将監の孫にあたります。この鎌原氏が、勢力を伸ばし、嬬恋村の地頭職に出世します。しかし、下屋将監直系の本家は、武力を持たず、ひたすら修験道に励んで荘園領主として平和国家を作っていました。

 しかし、平和国家なるものは、自分の都合だけでは成立しません。武器無き民を攻め掠めようとする侵略者たちは、かならず現れます。それに対抗したのが鎌原氏でした。

 北軽井沢ブルーベリーYGHの住所は、嬬恋村鎌原1506-12ですが、これは鎌原氏の領土範囲だったことを示します。鎌原観音堂も、鎌原氏ゆかりの寺であったはずです。そして鎌原氏が、武力で他国の侵略を防ぐわけですが、そういう役割を人間を鎌倉時代では、「地頭」と言ったわけです。

 こうして、荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?


つづく。

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2016年01月14日

大河ドラマの「真田丸」について

 私は、 NHKの大河ドラマをあまり見ない方なのですが、今年はたまたま、真田幸村が主人公だと聞いたので、とりあえず第1話を見てみました。で、率直な感想を言わせてもらえば、なかなか面白かったです。時代考証が、残念なことになっていましたが、シナリオが面白かった。エンターテイメントとして考えたら、これはかなり面白いドラマになるのかもしれません。シナリオライターが、かなり面白いものを書く人なので、これからも期待してもいいかもしれません。

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 今回の大河ドラマの1話で感心した事は、最初から「美味しいところ」を見せる切り口を見せているところですね。まるでルパン3世カリオストロの城のように、真田幸村がドタバタなアクションを繰り広げるところから話はスタートしていました。

父である真田昌幸モ、なんともいい味を醸し出していました。昌幸の(草刈正雄)のキャラクターもなかなか面白かったですね。特にセリフがよかった。ちょっと残念だったのは、真田信幸のキャラクターでした。真田信幸という武将は、父親の昌幸に劣らないすごい武将なのですが、それがちょっと見えてないのが残念でしたけれど、まだ一話なので、こんなものなのかもしれません。

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 ところで真田軍団というのは、長野県上田市の軍団のようなイメージがありますが、実は主力部隊の大半は、群馬県の吾妻郡の武士団なのです。北軽井沢ブルーベリーYGHのある嬬恋村あたりの武士たちが、真田軍団の中心部隊なのですね。そして真っ先に突撃する先鋒の軍団が、吾妻衆と言われている嬬恋村の武士団です。上田の武士たちは、馬周り。つまり殿様のそばにいる兵士たちでした。そして後詰めが沼田衆といわれる部隊です。いちばん勇猛で戦闘能力が高いのが吾妻の武士団であったということです。その中でも中心的な武士団が鎌原氏です。つまり北北軽井沢ブルーベリーYGHの住所にあたる嬬恋村鎌原という場所の武士なんですよね。

 というわけで、これから何回かに分けて、真田軍団のゆかりの地について解説してみたいと思っています。岩櫃城とか、伊香保温泉とか、沼田城とかです。そして、どうして徳川秀忠が関ヶ原に間に合わなかったのか? 本当に第二次上田合戦が原因だったのか? また、どうして大阪城は落城したか? 真田丸とは、なんであったのか? ということを解説してみたいとも思っています。


つづく。

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2010年04月21日

阿弥陀堂 マネージャーのミステリーツアー3

阿弥陀堂 マネージャーのミステリーツアー3

『阿弥陀堂だより』という、南木佳士の小説を原作とした日本映画がありました。あれは、嬬恋村が舞台なんです。つまり『阿弥陀堂だより』は、群馬県嬬恋村三原の話なのです。万座鹿沢口駅から徒歩7分のところが舞台です。

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まず、原作者の南木佳士さん、この人は嬬恋村生まれなんですよ!

で、これが本物の阿弥陀堂!
つまり、作者の遊び場であったわけでです。
もちろん作者の祖母も、ここで眠っています。


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 映画では都会に疲れて鬱になって田舎に癒される話なんですが、実は全く逆なんです。医学部を卒業し、信州の田舎にある佐久病院に努めて、あまりにも多く老人が死んでいくために、鬱になりかかる。それで、原作者は軽井沢病院に出向し、そこで癒されるんです。

 そもそも話しが逆なのです!

 実は、軽井沢と嬬恋村は、繋がっていて、軽井沢には、原作者の友人知人がいっぱいいた。旧軽井沢は、昔は貧しい村で、炭焼きでしか生活が出来ないところで、その旧軽井沢の炭焼きばあさんが、作者の生家(嬬恋村三原)の近所に住んでいたりする。だから、原作者の南木さんは、軽井沢に偏見をもたなかった。だから佐久病院からの出向に応じたんですね。

 しかし、佐久病院の地域医療に対する理想に燃える医師団たちは、
軽井沢に対して偏見に満ちており
「お金持ちの診療なんかできるかよ!」
と軽井沢病院の面倒なんかみないという剣幕だった。


 しかし、嬬恋村出身であり、昔の軽井沢をよく知っていた原作者の南木さんは、進んで軽井沢病院への出向を希望します。そこで、嬬恋村の昔の知り合いに、よく出会うんです。

 ただ、佐久病院から出向してきた若い同僚の医師は、女子高校生の膣から抜けなくなったコンドームの取り出しや、都会から来た自殺未遂の若い女性の治療なんかに嫌気がさして、
「軽井沢なんか嫌だ。佐久病院に帰って地域医療を真面目にやりたい」
と怒ったそうです。


 そういう同僚を尻目に、作者は、軽井沢病院の裏の小川で、イワナ釣りやカジカ釣りを楽しみ、自殺未遂の若い女性に、君が死のうとした旧軽井沢の場所は、貧しい炭焼きの老婆が一生懸命生活した所なんだよ。その老婆と私は子供の頃から知ってるんだと言い聞かせたりするのです。

 『阿弥陀堂だより』の原点は、こんな体験の風景の中にあったんですね。そういう背景を知ると映画は、もっと面白くなります。佐久病院・軽井沢・嬬恋村。これを理解して、もういちど『阿弥陀堂だより』をみると面白さが倍増すると思います。


 原作者は、決して都会に疲れたのではない。
 田舎の病院に疲れたのです。
 で、軽井沢病院でリハビリをした。
 このへんの事情は、現地を知らないとよくわからないかもしれない。
 このへんの解説があれば

安易に都会vs田舎の視点では
すまされないモノが見えてくる。




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つづく。

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南木佳士さんの御実家 マネージャーのミステリーツアー2

南木佳士さんの御実家 マネージャーのミステリーツアー2

『阿弥陀堂だより』という、南木佳士の小説を原作とした日本映画がありました。パニック障害を病んだ妻を連れて帰郷した夫と阿弥陀堂を守る老女との交流を描いた話です。北林谷栄が第26回日本アカデミー賞助演女優賞を、小西真奈美が新人俳優賞を受賞、第56回ヴェネチア映画祭でも「緑の獅子賞」を受賞するなど、世界中で高い評価を受けた映画です。

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良い映画でしたが、あれ、嬬恋村が舞台なんです。
長野県ではない。
まず、原作者の南木佳士さん、
この人は嬬恋村生まれなんですよ!
南木佳士は、ペンネームですが、

『南木』

というのは、北軽井沢ブルーベリーYGHのあるあたりのことです。

つまり『阿弥陀堂だより』という話は、群馬県嬬恋村三原の話なのです。
万座鹿沢口駅から徒歩7分のところが舞台です。


これが原作者の南木さんの生家です。

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 『阿弥陀堂だより』は、映画より原作の方が面白いです。嬬恋村・軽井沢・佐久がジャンジャンでてくる。たまに秋田の話も出ますが、それは、秋田大学の学生だったからですね。つまり南木さんの書くものは、みんな私小説なんですよ。そしてほとんど実話。だから迫力あります。そして、この話は、嬬恋村を知らないと、知ってるとでは大きく違ってきます。

 嬬恋村では、自殺が多い。
 珍しくない。
 鬱も多いです。

 近親結婚が多かったからと言われています。そういう村の状態を知っていると映画が倍面白くなります。本家の阿弥陀堂も知っていると映画が面白くなります。作者は、佐久の病院でパニック障害になり鬱になったんですよ。佐久病院は長野県の田舎ですが、その田舎で鬱になった。長野で鬱になった。それを癒したのは、軽井沢病院に来院してくる故郷嬬恋村の素朴な村人だったのです。


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南木佳士さんについて

南木佳士は昭和二十六年(一九五一年)十月に吾妻郡嬬恋村に生まれました。本名は霜田哲夫。父重義は入り婿で鉱山会社に勤め、母つぎは群馬女子師範を出て、地元で小学校の教師をしていました。南木の四歳のとき母が結核で死亡したため、その後は祖母に育てられました。

 少年時代は、嬬恋村の三原の山あいの捨城庵のそばにある小学校に通っていました。父は、バスで二時間もかかる小串鉱山の社宅にいて週末にしか帰って来ませんでしたから、ふだんは祖母と姉の三人で生活していました。父からのわずかな仕送りで暮らしていたので貧しかったようです。

 しかし父が東京へ転勤しましたので、中学から東京に行き、都立高校から秋田大学医学部をへて長野県佐久市にある佐久総合病院の医師になり、現在もその地に住み内科医長を勤めながら、小説を書いています。

 そこから一時期、軽井沢の町立病院に派遣されたことがありました。「軽井沢は生まれ育った群馬の山村のとなりの町である」。そこの風物や縁戚にあたる人間たちに親しんでいるうちに生まれたのが、第百回芥川賞の『ダイアモンドダスト』平成元年(一九八九年)でした。


つづく。

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2009年12月02日

嬬恋村史と、真田一族3(鎌原城ツアー2009/11/30)

嬬恋村史と、真田一族3
(鎌原城ツアー2009/11/30)


つづきです。

 武器を捨てて修験道で開拓していった荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?

 下屋氏一族は、武力ではなく、修験道という宗教の力をもって民を治めました。この方法は、武力をもって侵略するより、はるかに効率が良かったらしく、アッという間に北部群馬県を制圧していきました。これは昔、ソ連がマルクス主義を抱えて、アッという間に世界中を制圧していったのと似ています。

 しかし、下屋氏一族は、武力をもってなかったために、同族の地頭職である鎌原氏に、領地を掠め取られます。すると、各地の地頭たちも、下屋氏一族の領地を次々と掠め取ります。その結果、嬬恋村全体が、群雄割拠の時代に入ってしまうのです。親戚同士が互いに武力で争い、下屋氏本家は、アッという間に廃れていきました。

 代わりに勢力を台頭したのが鎌原氏です。
 実は、先日、その鎌原氏ゆかりの地、鎌原城に行ってきました。
 これが鎌原城の跡地です。

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 造りは、小諸城に似ています。
 三ノ丸追手門付近です。

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 この城は、長らく調査も、文化財保護もなされていませんでした。
 嬬恋村は、そういう事に全く興味がありませんでした。
 あと地元民たちの鎌原氏への憎しみもありました。
 その理由は、後で述べます。

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 最近になって、鎌原氏の後子孫が、個人的に金を出して碑を建設。
 自治体は、全く関与していません。
 真田六文銭があります。
 鎌原氏は真田一族なのです

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ここに鎌原氏の先祖代々の墓が1つだけあります。

しかも1つだけ。
先祖代々の墓が1つだけ。
これには、訳があります。

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鎌原氏には、敵が多かったために、墓が暴かれるのを恐れて、長い間、墓を作れなかったのですね。どういう事かといいますと、真田氏が群馬県に攻めてきたときに、その片棒を担いで、一緒に攻めていったのが鎌原氏であり、他の下屋氏一族を次々と滅ぼしていったために、多くの下屋氏一族の恨みをかっていて、墓を作れなかったのですね。

で、ここに、やっと墓ができたのが、
昭和45年、つまり1970年なのです。
それまで墓を作れなかった。
だから、先祖代々の墓と言っても、この墓は新しいのです。

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墓には、歴代の鎌原氏の戒名が彫られています。
1975年まで墓を作れなかった鎌原氏。
敵が多く土地の人に嫌われていた鎌原氏。

いったい、どうして、これほど嫌われていたのでしょうか?
真田氏と嬬恋村を攻めたためなのでしょうか?
それだけで、墓を作れないほど嫌われるものでしょうか?

次回は、その謎に迫ります。



つづく。

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2009年11月28日

嬬恋村史と、真田一族2

嬬恋村史と、真田一族2

 平安時代末期、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない嬬恋村に修験者となって、流れてきた海野一族がいました。下屋将監です。彼は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。城を捨てて粗末な家を建てたという意味です。

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 下屋氏一族は、さかんに嬬恋村を開拓します。そして、真田から嫁をもらって人口を増やします。この風習は、現在でも残っていて、嬬恋村と旧真田町は、親戚どうしみたいになっています。そのために、嬬恋村は真田と隣接している西部の政治力が強く、東部の北軽井沢側は、風に飛ばされてしまいそうに弱体です。村長も、議員も、真田側からワンサカでてきますが、北軽井沢側は政治的に沈黙したままです。

(そのへんの事情は、詳しくは、以下のページを御覧ください)
 http://kaze3.seesaa.net/article/123305890.html

 脱線しました。
 下屋氏一族のことです。

 下屋氏一族は、武器を捨て、宗教(修験道)の力をもって開墾を続けました。武器の力ではなく、信心の力で開墾を行い、天仁の噴火で壊滅した嬬恋村を見事に再生させます。そして、広大な領土をもつに至りますが、下屋氏一族には、領土的野心はこれっぽっちもなく、分村し、暖簾分けし、村々を次々と分家たちに譲り渡してしまいます。

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 暖簾分けされた中に、鎌原氏という存在があります。下屋氏一族の開祖、下屋将監の孫にあたります。この鎌原氏が、勢力を伸ばし、嬬恋村の地頭職に出世します。しかし、下屋将監直系の本家は、武力を持たず、ひたすら修験道に励んで荘園領主として平和国家を作っていました。

 しかし、平和国家なるものは、自分の都合だけでは成立しません。武器無き民を攻め掠めようとする侵略者たちは、かならず現れます。それに対抗したのが鎌原氏でした。

 北軽井沢ブルーベリーYGHの住所は、嬬恋村鎌原1506-12ですが、これは鎌原氏の領土範囲だったことを示します。鎌原観音堂も、鎌原氏ゆかりの寺であったはずです。そして鎌原氏が、武力で他国の侵略を防ぐわけですが、そういう役割を人間を鎌倉時代では、「地頭」と言ったわけです。

 こうして、荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?

つづく。

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2009年11月26日

嬬恋村史と、真田一族。

嬬恋村史と、真田一族。

 嬬恋村は、非常に特殊な歴史をもっています。
 修験者たちが開拓した歴史です。

 平安時代末期、一人の修験者が、嬬恋村に流れてきました。
 信州に大帝国を拡げていた、海野一族の跡取りの一人でした。
 名は、海野幸房と言います。
 兄は、海野幸家。真田一族の家祖にあたります。

 彼は、戦争に嫌気がさし、修験者となって、
 人も住んでない嬬恋村にやってきました。

 当時の嬬恋村は、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない頃でしたから、ほとんど人は住んでなかったようです。そこに、修験者となって、流れてきた海野一族の一人は、粗末な庵をつくり、『捨城庵』と名付けました。城を捨てて、造った粗末な小屋という意味です。刀を捨てて、修験者となって、修行を行いつつ、嬬恋村の開拓をはじめました。場所は、嬬恋村の万座鹿沢口駅のあたりです。

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 海野幸房は、名前を、下屋将監幸房と改名します。そして、子孫たちに嬬恋村を開拓させていき、広大な領地をもつにいたりますが、下屋氏は、勢力が大きくなると、次々と分村していき、譲り状を渡し、小国に分割していきます。

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 わざと巨大な帝国を造らずに、逆に小さくしていったのです。今風にいえば、地方分権に徹したわけですね。そのために、下屋本家は、戦国時代の下克上からも逃れることができました。そして、今なお嬬恋村に存在しています。嬬恋村には、千年の歴史をもつ名家が、いまでもいるのです。

 その逆をやったのが、真田氏でしたが、
 真田氏については、後日、述べましょう。

 下屋本家を造った下屋将監は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。そして、神社は大いに栄えるのですが、山津波で壊滅します。壊滅した後に「阿弥陀堂」が建ちます。まあ、それはいいとして、そのあたりに住む人たちは、宮崎の姓を名乗るひとが多いのですが、ご先祖様が、神社に使えていたためです。

51DsxBlOWeL.jpg

つづく。

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