2021年04月21日

渡部昇一物語【2】 マーフィーの法則

 そんな訳ですから、渡部教授は母親を崇拝していました。マザコンなんて言う生易しいものではなくて崇拝です。そういう人に嫁さんなんか来るわけがありません。大学の先生であったにもかかわらず、お見合いで断られまくったようです。後に結婚することになった奥さんとお見合いしたときには
「お見合いをしたのが三十回目だ。断った女性はみんな見る目がない」
と言い、奥さんにする女性のチェック項目表みたいなものを持っていて、英語ができる人とか何かいろいろな条件が書いてあったと言います。

 もちろん、のちに奥さんになった迪子さんはドン引きします。その項目に、すべて当てはまらなかったからです。なので、このお見合い話は破談したなと安心して、スキーをしに遊びに行きました。その結果、雪焼けしてゴーグルをしていたところだけ真っ白になっていたので、メガネ猿みたいな顔になっていたそうです。そんな時に、母親から「すぐ帰れ」という電報がスキー場に届きました。何のことだろうと帰ってみると、留守中にアポなしで渡部昇一がバラの花束を持ってやってきて、プロポーズしに行って留守だったらしい。

 それからイヤイヤながらスキー焼けのメガネ猿顔で何度かデートをしたらしいのですが、奥さんは「どうせチェック表に全て当てはまってないのでだいじょぶ」と安心していたそうです。しかし、渡部昇一は、その紙に書いてない最も重要なチェック表を隠していたんです。それは
「自分に正直であること」
「知的正直であること」
です。デート中に難しい話をしても、奥さんは、分からないことを分からないとはっきり言ったそうです。それが渡部昇一が一番気に入ったところだと私は推測しています。

 また奥さんは、できないこともできないと言う人でした。渡部昇一は、母親を崇拝していましたから、自分の母親のことを奥さんによく話したそうです。すると奥さんは必ず
「私には出来ない」
と言い切ったそうです。そういうところも奥さんに対して惚れたところだったようです。彼は「自分に正直であること」を一番の美徳に思っていたし、逆に言うといちばん嫌ったのが偽善だったと言います。その偽善嫌いが、後に、大勢の人たちを敵にまわしますが、それは別の機会にふれます。

 ところで奥さんになる迪子さんの方にもチェック表がありました。迪子さんは、小澤征爾さんと同級生で、桐朋学園大学のピアノ科の出身です。その彼女の隠していたチェック表とは、音楽に関して知ったかぶりをする奴とは結婚しないという事でした。

 知ったかぶりで音楽を話す人間が一番嫌いだったようです。
 逆に言うとその他の事は関心が無かったみたいです。

 ずいぶん低いハードルですが、考えようによったら高いハードルかもしれません。人間は相手に合わせて背伸びをするものです。ましてや好きな人がいたら、背伸びして相手に合わせるのが普通です。ましてや相手が音楽家なら、音楽の話の一つや二つは一夜漬けで勉強してウンチクを述べるのが一般的ではないでしょうか? しかし、自分に正直に生きる渡部昇一は、その一般的に常識をもとうとしなかった。

 迪子さんは、渡部昇一とデートをしている時に、音楽について尋ねてみると
「音楽は分からない」
と言いました。クラシックを聴いてもガチャガチャにしか聞こえないと正直に言いました。母親を崇拝していた彼には、母親のように生きるのを目標にしていたので、自分に嘘をつけなかったようです。

 普通なら音楽家とデートしているのですから、相手に合わせて聞きかじったことを言ってもよさそうなんですが、なにしろ知的バカ正直に生きる人です。わからないものは、はっきりとわからないと言い切ってしまった。

 逆に言うと、それが迪子さんの印象を良くしたようです。要するに二人とも、自分に正直であることを心がけている似た者どうしだった。


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 そして二人は、昭和三十五に結婚。昭和三十六年に、第一子が生まれます。ちなみに私も昭和三十六年生まれです。昭和三十六年生まれの人間が、小学校に入った頃に読む最初の漫画が『ドラえもん』です。ドラえもんは、私が小学校に入った昭和四十四年から、小学館の『小学一年生』から連載開始した漫画です。当時の小学生は、誰も彼もが小学館の学年誌である『小学一年生』を読んでいましたから、私はドラえもんとともに大きくなりました。私と同い年である渡部昇一の娘さんも同様です。

 それはともかく、渡部昇一は、娘さんが読んでいたドラえもんの魅力にはまってしまいます。当時ドラえもんは、のび太くんの代わりになんでもやってくれるので教育上よろしくないと、教育評論家から悪書扱いにされていました。それを奥さんがご主人に訴えると、渡部昇一は「ムシのいいことを考える事は、すごくいいことだ」と反論しました。ムシのいいことを考える人の方が絶対に良いことが起きるという信念があったからです。

 これは、尊敬する母親が早死にしたにらもかかわらず、かなりの放蕩者の父親が、長生きしたことからきているかもしれません。二人の差は、ムシが良いかどうかです。どんなに立派な人でもマイナスに考える人だと、寿命が短かかったりする。これは、どういうわけだろう?と思ったわけです。それを不思議に思ってた教授は、渡米中に「マーフィーの法則」という本に出会い、これだ!と感動します。そして、その法則を実践してみると何度も自分の願望が叶ってしまう。

 ムシのいいことをイメージして、
 自分の潜在意識を利用して夢を実現しています。

 これがものすごく効果があったみたいで、
 こんな良いものを紹介しない手はないと考えて、
 日本で初めて「マーフィーの法則」を大島淳一という名前で翻訳しました。
 ドラえもんの連載が始まる一年前のことです。


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 渡部昇一は、マーフィーの法則を使って、超大金持ちになっています。一冊百万円もする本をはじめとして、十万冊も買い集め、五億円の図書館まで自宅に作っているからたいしたものです。大学時代は、超貧乏学生でしたが、寅さんみたいにテキ屋をやって、学生のくせに実家に仕送りまでしました。

 これも無意識にマーフィーの法則を使ってやったことです。

 実はこの本も、私はかなり若い頃から読んでいます。小学生にも読める文章で書かれてあるからです。そこには「人間には潜在意識と言うものがあって、それを利用するとドラえもんのようなムシの良い願いが叶う」と書いてありました。

 私も、この理論を使って多くの若者たちを山に連れて行き、高所恐怖症の子を日本で最も難しいと言われている奥穂高から西穂高へ連れて行ったりしています。三歳になる息子に漢字を覚えさせ、八ヶ岳に登らせたり、四歳になった息子を槍ヶ岳に連れて行ったのもマーフィーの法則の応用です。その方法は、ごくシンプルなもので、潜在意識に対して暗示をかけるだけ。ただし、使い方を間違えると大変なことになります。
「君は、・・・ができる」
と潜在意識に話しかけると、潜在意識は「できない」と反応してしまうからです。だから「できつつある」と話しかけるわけです。


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 例えば、 三十メートルの岩場があったとします。この岩場を君は登れると、無理に暗示をかけると、潜在意識は「できない」と答えます。しかし三十メートルのうちの最初の一メートルなら登れると暗示をかけると、潜在意識は「登れる」と答えます。そして一メートル登った後に、もう一メートルも登れるかもしれないと暗示をかけます。すると思う一メートルも登れるのです。そしてだんだんムシのいいことを潜在意識に働きかけるます。つまり、 二メートル登れたんだから三メートルも登れるんじゃないかという感じです。

 これを使うと、驚くほどの効果があります。なので私もドラえもんをはじめとするムシのいい話が書いてある漫画をよく読みました。効果は抜群でした。なので息子にも、ムシのいいことが書いてある絵本を読み聞かせています。これも効果がでてきています。息子は本好きになり、毎日学校から帰ると本を読んでいます。我が家には、そういった本がすでに何百冊もあります。今後も増える一方でしょう。


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(ただし、あくまでも専門的な人間が、そばでサポートした場合にかぎります。一般の方は真似しないでください。私は40年以上の登山ガイド経験があり、多くの初心者をガイドした経験があるのでできています。うちの息子にしても、2歳の時から登山をはじめていますし、毎日小浅間山に連れて行ったので、3歳になる頃には一人で黒斑山に登れました。そういう素地があって、はじめて3歳で八ヶ岳・4歳で槍ヶ岳に自分の力だけで登れるようになっただけで、誰でも簡単に出来るというわけではありません。そのへんを誤解されると大事故につながりますので注意してください)


つづく。

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2021年04月19日

渡部昇一物語【1】 知的生活の方法

『日本史から見た日本人:アイデンティティの日本史
 渡部昇一著
 産業能率短期大学出版部 1973年11月発行』

 この人の本を読んだのは、小学校六年生の時です。
 佐渡島の図書館で 一冊の新刊本に出会いました。


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 私はこの本に出会うことによって歴史好きになりました。この本には「日本人は正月に神社に、結婚式に教会に行き、お葬式にお寺に行く。こういう民族は珍しい」ということを書いてありました。今でこそ、当たり前の話ですが当時は誰も気がつきませんでした。なので当時の識者は「ユニーク」と渡部昇一のことを表現していました。

 私が中学校に入りますと渡部昇一は、面白い本を次々と出版していました。文科の時代・正義の時代・腐敗の時代といった本です。中学生にも非常にわかりやすい内容でした。江戸時代の三大改革を日本で始めて断罪したのも渡部昇一ですし、日本騎馬民族説を否定したのも彼です。今でこそ常識になっていますが、当時は誰もがそんなこと思っていませんでした。それゆえに斬新でした。

 十五歳の時、私は運命的な本に出会います。
 「知的生活の方法」です。
 この本を読むと感動で震えが止まらなくなった覚えがあります。
 そのくらい、この本が自分の人生を変えました。

 彼の主張する「知的正直」については特に目から鱗が落ちました。「わかったふりをしない」というのは私の人生に知的生活を送るうえで大きく影響を与えています。著者の恩師はよく、どんな有名な学者の意見でも「あれは何をいっているかわからぬ」と述べたといいます。これは、なかなかできないことです。

 あと「名作をあまりに若いときに読むのは危険」という見解には、大いに頷かされました。夏目漱石を、心の底からわかったと言えるには、それなりの人生経験が必要なのに、大抵の人は中学や高校の国語の授業で読まされて、何となくわかった気になっており、大人になってから再びそれらを手に取ろうとはしません。こうした状態こそが、知的発展の阻害をもたらしているというのです。

 夏目漱石を読んだとしても、本当に面白いと思って読んだかどうかが問題だと言います。本当に面白かったならいいのですけれど、皆が面白いというから、無理して面白がって読むのは自分に対して忠実でない。何故ならば、小中学生あたりでは夏目漱石は理解できないからです。それを理解できるというのなら、天才か「自分に対して忠実でない」かのどちらかです。そして、もし自分に嘘をついて夏目漱石が面白いと無理に思い込んでる場合は、一生夏目漱石を理解できないまま終わるといいます。

 知的生活に他人のモノサシはいりません。夏目漱石が面白いか面白くないかは、自分のモノサシで決めなければ、本物の知的生活はできません。だから渡部昇一は、
「知的正直になれ」
と言っています。本当に自分にとって面白いものを読みなさい。面白くないなら正直に面白くないと言いなさい。今は面白くなくとも将来は面白いと思える日がくる時もあるのですから、そうなる時期を待ちなさい。決して他人のモノサシを気にしてはいけない。それが知的正直であると言うのです。

 他人の評判や、テストの点や、世間の噂話や、会社の成績などを全く気にしない。そういうことは気にしないけれど、自分自身に対して正直であるかどうかは気にする。しかし社会のルールは遵守する。それが自分のモノサシで生きるということだと言うです。

 ただし、社会のルールは遵守し、他人を不愉快にしたり、エゴを押しつけたりはしない。けれど自分の内面には、自分自身のモノサシがあって微動だにしない。それが自分に対して忠実になれということであり知的正直に生きるということだといいます。


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 そんな渡部昇一ですから、存命中にはいろいろなことをやらかしています。世間には、この人は右翼の人だと思っている方がおられますが、誤解もいいところです。彼の甲殻類の研究を読めばわかりますが、右翼(国家社会主義者)を一番嫌っているが渡部昇一です。なので、右側からもバッシングされています。

 例えば、ロッキード事件で日本中が田中角栄をバッシングしている時代に、田中角栄裁判を「人権無視の暗黒裁判」として訴えたのも彼です。渡部教授の主張は、田中角栄の有罪無罪を言ってるのではなく、田中角栄側に反対尋問の権利が無かったことを問題にしていました。

 ところが当時の保守派の人たちの大半は、アンチ田中角栄なので、アンチ渡部教授です。新聞をはじめとする日本中のマスコミも渡部教授に批判的でした。現職の最高裁裁判官も、渡部教授の論理を批判して「一審判決の重みは大きい。田中角栄は服役するべきだ」と言いました。

 ところが、意外なところで渡部教授に応援団が現れました。
 共産党系の元裁判官や弁護士たちです。
 彼らは人権に敏感なので、反対尋問の権利が無かったことが
 いかに重大なことであるか、気がついてしまったわけです。

 渡部昇一は、「角(角栄)を縛る縄(法律)は、丸(左翼)も縛れるけれど、それでいいのか?」と言ってたわけですが、その言葉の意味を知った左翼陣営人は青ざめてしまったわけです。

 もちろん法曹界の人たちも、この意味に気がつきました。そして田中角栄の上告審の審理が、全く動かなくなってしまったのです。当時は「裁判所が田中角栄の死に待ちをしている」という噂が流れており、週刊誌・新聞・オピニオン雑誌などでも、そのことを取り上げるようになっていました。

 結局、平成五年十二月十六日の田中角栄の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となっています。時は流れ、今では田中角栄は冤罪であったと言う人が多くなっています。少なくともあのロッキード裁判は無茶苦茶な暗黒裁判であったと批判する人が多くなっています。

 それはともかく、法律に関して全く素人だった渡部昇一が、角栄裁判を暗黒裁判と言い切った理由は、彼が自分に正直に生きたからです。だから
「どんな極悪人にも反対尋問の権利がある。その権利を奪う裁判は、とんでもないことではないか」
という疑問を最後まで捨てなかったからです。だから日本中を敵に回しても一歩も引かなかったんですね。

 ちなみに渡部教授にとっては田中角栄の有罪無罪は、興味がない。けれど、被告の反対尋問といった人権を奪って行う裁判には、納得できなかった。つまり、自分の内なる心の声に正直に耳をすませば、おかしいものはおかしい。どんなに偉い人が、どんなに立派な理屈をつけて、田中角栄の有罪を訴えても、反対尋問の権利を奪ってしまったという一点で、おかしいと思った。

 しかしそれを納得させてくれる人は、誰一人としていなかった。誰も彼を納得させてくれないんであれば、やはりおかしい。これが彼にとっての知的正直です。細かい法律の話や、政局の話なんかどうでもいい。どんな極悪人にもある反対尋問の権利はどうなってるんだ?という一点で納得できないと言ったのです。


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 ところで、渡部昇一が、知的正直にこだわるようになった理由は、彼の母親の影響だったと言われています。彼の母親は、文字の読めない人でした。いわゆる文盲です。学問はなかった。それに対して渡部昇一は、大学の教授になるぐらいですから、少なくとも母親よりも学問はあったはずなんですが、全くかなわなかったそうです。

 戦時中は、偉い人から聞きかじった「高度国家防衛論」を母親に話したことがあったそうです。すると母親は
「それは今よりも、軍人が威張る世の中にしろということかい? 馬鹿馬鹿しい」
と、相手にしなかったそうです。

 戦後になると、日本中にマルクス主義が蔓延し、渡部昇一も共産主義の理想を母親に話したそうです。すると彼の母親は
「どんなに立派な理屈をつけても、配給制度はダメ。配給する側が威張るだけだ。そんなことも偉い学者さんは知らないのか」
と言って相手にしなかった。つまり渡部昇一は文盲の母親に全く敵わなかった。

 彼の母親は、小学校もでてなく文字も読めませんでしたが、どんな偉い学者さんも物事の本質を見極める力を持っていた。そして学問をかじった自分よりも、よほど物事が見えた。

 それは難しい理屈を分かったふりしない。
 つまり知的正直に生きたから、
 偉い先生よりも本質が見えたのではないか
 と渡部昇一は考えたわけです。

 そういう母親のことを渡部昇一は、大変尊敬していました。そして意外なことに気がつきました。自分の母親が絶対に嘘をつかないということです。

 知的正直。

 つまり自分自身に正直でいるという事は、他人に対して嘘をつかないという事なんです。そして他人に対して嘘をつかないということは、人の悪口を言わないということとイコールなのです。悪口は、無責任な嘘と同じだからです。

 すると、こんな結果になります。

 近所の人たちがやってきては、
 渡部昇一の母親のところに来て、
 愚痴をこぼすようになるわけです。
 つまり悪口を言うわけです。
 人は、悪口を言わない人に愚痴をこぼしに来る。
 口の堅い人の所に愚痴を言いに来る。


 絶対に他人の悪口を言わない母親ですから口が堅い。
 だから近所の人たちにしてみれば、
 安心して他人の悪口が言えるわけです。



 これがどういう結果になるかというと、渡部家に村の情報が全部集まってくる。つまり渡部家が村の情報センターになるわけです。ちなみに渡部家は、化粧品店を経営していて主に母親が切り盛りしていましたから、これが売上に影響しないわけがありません。知的正直に生きるということは、そういうことでもあるわけです。


つづく。

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2021年04月18日

晴耕雨読

 昨日は、浅間山が真っ白になり、今朝は北軽井沢に雪が降りました。今頃になって雪とは、驚きです。でも10時頃には晴れたので、家族と愛犬コロとで、小浅間山に登ったのですが、小浅間山にも雪が降っていましたね。お昼過ぎには、天気がよくなりましたけれど、すごい風。春一番かと思えるような強風で、庭の人工芝は吹き飛ばされました。近所を散歩したら、数多くの木々の枝が風で折れて、道路に散らばっていました。かなり大きな大木も風で大きくしなっていましたから、ちょっと怖かったです。

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 それはともかく、ずっと閑古鳥だったんですが、今週末は、三日連続で多くの御客さんが泊まってくれてありがたかったです。小浅間山の駐車場にも県外ナンバーがいっぱい駐車していました。軽井沢・北軽井沢も御客さんが少しずつ戻ってきた感じです。怖いのは感染爆発ですが、なんとか起こらないで欲しいですね。御客さんからの情報だと、医療機関ではワクチンの接種がほぼ終わり化刈っているみたいですね。今度は高齢者になるのかな? 一刻も早く新型コロナウイルスが壊滅してほしいです。


 話は変わりますが、4年前の今日、渡部昇一教授がお亡くなりなっています。この人に出会ったのは、忘れもしない小学校6年生の時で、古ぼけた田舎の図書館で「日本史からみた日本人」という本を読み、歴史好きになりました。どういう本かというと、「日本人は正月に神社に、結婚式に教会に行き、お葬式にお寺に行く。こういう民族は珍しい 」ということを書いた本です。今でこそ、こういう発想は当たり前のことになっていますが、当時は教授に指摘されるまで誰も気が付きませんでした。当時の書評を読むと、いろんな立場の人たちが「ユニーク」と渡部昇一教授のことを表現していました。
 私が中学校に入ると、文科の時代・正義の時代・腐敗の時代といった本を出版していて、それを買って読んだんですが、中学生にも非常にわかりやすい本で、江戸時代の3大改革を日本で始めて断罪したり、日本騎馬民族説を否定したりして、衝撃をうけたものです。今でこそ常識になっている主張ですが、当時は誰もがそんなこと思っていなかったので斬新な説に驚いたものです。

 でも一番影響をうけたのは、中学3年生の時に読んだ「知的生活の方法」です。この本を読んだ以後の私は、この本に書かれてあることを59歳になる今日まで続けています。今、本に囲まれた生活をしていますが、そのせいかブログで長文を書くことが、苦にならなくなってますね。晴耕雨読じゃないですが、晴れた日は登山して、雨の日は読書です。で、時々、ブログに何か書く。特に新型コロナウイルス以後の毎日は、そんな感じです。


つづく。

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2021年01月05日

ストーブにヤカンを見直してみた!

 昨日から息子と嫁さんは、おばあちゃんの家に出かけています。私は一人で留守番なのですが、お客さんもいなくて退屈なので、ホームセンターに灯油を買いに行きました。それと似たようなペンション仲間がホームセンターにいました。聞いてみたら我が家と同じで、正月にはキャンセルが続出して暇だったそうです。

 Gotoトラベルが中止になって、みんなキャンセルになったらしいです。ただ例外があって、リピーターさん達はキャンセルがなかったようです。この辺もうちの宿と同じでした。

 Gotoトラベルとは、宿泊費の35%と地域クーポン券の15%。合計50%を国が負担してくれる制度なんですが、実はまだ支払ってもらっていません。

 Gotoトラベル自体は、去年の7月から始まっているんですが、うちの宿に関して言えば、まだ1円ももらってない。ここで愚痴を言えば、税金は待ったなしでとって行くのに、Gotoトラベルの費用は未だに振り込まれてないと言いたいところですが、実は、未だに振り込まれてないことが、結果として助かった可能性がある。

 いつ支払ってくれるのかは、まだ分かりませんが、日本政府のことですから、年度末までには支払ってくれるでしょう。つまり、私たちのような宿屋が、御客さんゼロが続いて、本当にヤバくなった頃に入金されてくるはずですから、逆の意味で良かったです。


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 話は変わりますが、新型コロナ騒動で、給付金やGotoトラベルの費用が、全国各地に振り込まれることになっているわけですが、これで大儲けしたのが銀行かもしれません。ものすごい振込手数料になるからです。それを考えたら、日本政府も直轄銀行を持つべきではないでしょうか? 100%政府直轄の銀行があって、マイナンバーカードと連動できていれば、全国の銀行に振込手数料を支払わずに振り込める。でも結局のところ、引き出すためには、どこかの金融機関のATMを使わなければいけないんですよね。それだったら同じことか・・・・。役場にATMつくるわけにもいかないだろうし。

 いっそのこと、日本国政府が電子マネーを作っちゃったらどうでしょうかね?
 振込手数料のかからないスイカみたいなものをつくっちゃう。
 マイナンバーカードを電子マネーにしちゃうとか。

 まあそんなことはどうでもいいとして、実は、去年の12月から今年の3月末頃までに、もう一度新型コロナのピークが来ることは、宿屋仲間では予想がついていました。インフルエンザが大流行する時期に、新型コロナウィルスが、大流行しないわけがないからです。ですから今回のことは、想定内と言えば想定内です。どのお宿さんも準備はできていました。うちも覚悟をもって臨んでいます。

 12月から3月にかけては、お客さんが、ゼロでも生きていかれるように頑張ってきましたし、それは、どのお宿さんでも一緒でしょう。でもGotoトラベルを考えた人たちは、そうは思ってなかったふしがあります。だから1月末までキャンペーンを続けたんでしょうね。こういうキャンペーンは、インフルエンザが流行する期間に行わない方がいいです。

 それと外国からの入国制限を安易に緩和するのもどうかと思います。11月に入国制限を緩和したとたんに感染爆発が起きたわけですから、明らかに因果関係があるはずです。統計で見る限りGotoトラベルで感染爆発してはいません。ちょっと古い統計になりますが昨年11月までに、Gotoトラベルで感染確認されたのは、約130人です。

 それを考えたら、今回の感染拡大と、入国制限の緩和と、インフルエンザの流行する時期と、何らかの因果関係があるような気がします。特にインフルエンザの流行する時期の特色として、冬の乾燥が考えられます。で思ったのですが、乾燥を防ぐための対策としてストーブを見直してもいいんではないかと思いました。

 今どこの宿でもストーブは使っていません。みんなファンヒーターを使っています。危険だし、暖房効果もいまいちだからです。いまいちだけれど、ストーブだったらやかんを置いて沸騰させることができる。そして湿度を上げることができるわけです。そうすれば喉にもいいし、ウィルスを撃退する効果もあるはずです。停電の時を考えて、物置の奥底にストーブが2台ほどあったこと思い出して、何年ぶりかで、それを取り出してみました。メーカーは、コロナ。コロナの対流型ストーブです。


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 息子が生まれてから、幼児には危険と思って奥にしまい込んだストーブ。今まで使ってなかったストーブとヤカンが、新型コロナウィルス騒動で活躍するようになるかもしれません。あれで冬場の乾燥を少しでも緩和できたらいいなあと。でも、幼児連れの御客さんが来たら、使うことはできない。その場合は、客室にある加湿器つきの空気清浄機に大活躍してもらうことにします。


つづく。

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2020年08月22日

ユースホステルの今後

 今日は涼しい一日。それでもって、今日も一人旅のお客さん(ホステラー)がいますし、大学生も泊ってます。昔、私は契約の会というユースホステルの組織で広報をまかされていましたが、何をやってもダメでした。打つ手無しという感じです。ホームページもダメ。バナー広告もダメ。ポスターもダメ。そして、ユースホステルの会員は、どんどん減っていきます。

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 うちの宿でも会員の宿泊は激減し、じゃらんネットや楽天トラベルの御客様ばかりになっていきました。そのうえ会員の高齢化が問題になっていました。50〜70歳の会員さんしか見かけなくなったのです。若い人たちは、どうせ安宿・ドミトリー(相部屋)にとまるなら、ゲストハウスにしよう・・・ということでゲストハウスに流れていきました。

 その結果、既存のユースホステルまで、自社ホームページの検索ワードに『ゲストハウス』の文字を入れるようになったり、ユースホステル協会を脱退して、ゲストハウスそのものになってしまった宿もあります。かなり熱心にユースホステルに打ち込んでいた宿までゲストハウスに鞍替えしています。ユースホステル協会に所属していることにメリットを感じられなくなってしまったのでしょう。

 まあ、そんなことは、どうでも良いとして、ユースホステルの御客様が高齢化していくと、深刻な問題にぶつかります。『いびき』の問題です。これが相部屋に対して究極のデメリットとなります。

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 若い人の中にもイビキをかく人はいるでしょうけれど、ごく少数です。けれど50歳以上となると、五人に一人はイビキをかきます。そのうえ無呼吸症状の人もいて、音も大きくて、まともに寝られないケースも多々あります。ところが意外とユースホステルのマネージャーたちや、ユースホステル協会の幹部たちは、これに気がついてません。

 また、夜中に何度もトイレに起きるひともいます。老人特有のトイレが近い人がいます。これが若い人たちをユースホステルから遠ざけている原因でもあることを私は、複数の大学生から聞いています。なので、うちの宿では事前にアンケートをとって部屋割りをしたり、50歳以上の人と、それ以下の人とは同室にしないようにしていました。それでも若い人たちは、ゲストハウスに行ったまま戻ってきません。

「これは根本から変えなければダメだ」

と思った私は、息子が生まれたことをきっかけに、少しずつファミリーをターゲットにした宿に変えていき、特に幼児連れの御客様が泊まりやすい宿に変えていきました。ドミトリーも減らしてでも御家族の御客様を増やすようにしました。そして、少しずつファミリーのリピーターさんが増えていき、新型コロナウイルスが流行った今年の夏は、9割がファミリーのリピーターさんという割合になっています。ユースホステルの会員さんは、かなり少なくなっています。

 しかし、ここで不思議なことがおきました。去年あたりから、少しずつ若い学生さんたちが泊まりに来てくれるようになったのです。学生さんたちは、子供の頃に家族で、うちの宿に泊まったことがあって、その時に、よい思い出があったので、今度は学生仲間をさそって泊まりに来てくれたらしいのです。

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 そこで思い出したのが、ユースホステルの広報をやっていた時のことです。広報では何をやってもダメだったわけですが、広報の努力は難しくても、宿による努力は決して難しくないということです。新型コロナウイルスによって、相部屋形式のユースホステル文化(ドミトリー文化)は瀕死の状態ですが、新しく違う形のユースホステル文化(個室形式を利用した新しいユースホステル文化)を作り上げれば、意外にユースホステルは再生できるのではないか?という気がしてきました。


つづく。

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posted by マネージャー at 22:24| Comment(3) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月21日

ユースホステルの会員は激減するが、その旅行スタイルは絶賛拡大中な件

 今日も猛暑。それでもって、今日は一人旅のお客さんが四人います。皆ホステラーさん達です。ホステラーさんというのは、ユースホステルの会員で、主に一人で旅行する人たちのことです。うちの宿はユースホステルなので、昔は、このような一人旅のお客さんばかりが宿泊していました。
 もちろん相部屋です 。
 相部屋というのは、見知らぬ他人が同じ部屋を使って宿泊する制度で、ドミトリーというカプセルホテルみたいなシステムです。相部屋ですから値段も非常に安く設定されていて、あまりお金のない若い人たちにとっては天国のような制度です。今流行りのゲストハウスなどが、そのようなシステムで運営されていますけれど、元々はユースホステルがはじめた制度でした。

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 ところが新型コロナウイルスの発生によって、この制度は崩壊しつつあります。どのユースホステルも、相部屋制度・つまりドミトリー制度をやめてしまいました。もちろん私の宿でもドミトリーは、やめています。 お客さんは全て個室でないと受け入れていません。そうなると、家の宿では、最低でも二人部屋なので、ハイシーズンの時は、一人旅のお客さんを断るか、ふたりぶんの 値段で受け入れるかのどちらかになります。そうしないと経営が成り立たないからです。

 私が経営する宿は、最大で24名泊まれる宿なんですが、部屋は7つしかありません。7つしかないので、ひとり旅を入れてしまうと7人しか宿泊できなくなる。 単純計算しても1/3以下の売上となってしまいますので、 今後はハイシーズンに一人旅を受け入れることは難しくなるでしょう。

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 それでも、 なんとかやりくりをつけて、今日は四人の一人旅のお客様を受け入れることができました。 そのうちの一人は、うちの宿がオープンした頃から、長い間(20年間)、贔屓にしてくれた人だったので、そういうお客さんに、同じような一人旅の人たちが、いる事で、ホッとしています。

 なぜならば、ユースホステルの旅のスタイルというのが、見知らぬ旅人同士の一期一会の出会いにあるからです。他人同士が、泊まった宿で仲良くなって旅の情報交換をしたり、仲良く世間話をする。そしてまたバラバラに旅に出かける。これがユースホステルの旅のスタイルなんですね。

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 話は変わりますが、このようなユースホステル方式の旅のスタイルは、ユースホステル会員以外にも広く普及しつつあります。うちの宿を例にあげると、じゃらんネットや楽天トラベルから予約して宿泊したファミリーのお客さん同士が、家族の垣根を越えてお付き合いをするようになり、最後には住所交換をして、また次の年に、私の宿に泊まりに来て合流するというケースが多くなってきました。

 今年に限って言えば、そういうケースが2日に1回。いや3日に2回はあったと思います。そしてこの傾向は、どんどん増えつつあります。特に北関東と関西方面のファミリーのお客さんに、そういうお客さんが多かった気がします。

 日本ユースホステル協会かから経営状態のヒアリングがあった時に、
「うちの宿の御客さんの平均年齢が二十歳代」
と申し上げたら、かなり驚かれました。ファミリーが多いために子供達が多い。それで宿泊者の年齢が若いわけですから、当然といえば当然です。そして、 子供達というのは、 すぐに他の子供達と仲良くなって、それがきっかけで、ファミリー同士も仲良くなります。連絡先の交換も、 SNS を通じて簡単に行えますし、旅が終わってからも SNS を通して付き合いは続くわけですから、このような旅のスタイルも昭和時代のユースホステルの旅行スタイルとそっくりです。

 ユースホステルの会員が、どんどん減ってひどい状態になっている昨今ですが、ユースホステル方式の旅のスタイルは、ファミリーを中心に、かえって広まっています。それを考えると、今後のユースホステル運動は、ファミリーから始まっていくような気がします。ただそれを支えるだけの宿(ユースホステル)の数が、ないのが残念です。



つづく。

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2020年07月19日

寝る子は育つ その3

 息子が、生まれて数年間。身長が伸びなかった理由は、夜更かしし過ぎたためだったことが分かってから、なるべく睡眠をとらせるように努力してきましたが、一度身についた生活習慣は変えがたく、なかなか眠ろうとしませんでした。仕方が無いので、寝る前にプロレスごっこなどの運動をさせて、疲れさせて寝かしつけましたが、それも本当は良くなかった。あまり運動させすぎても身長は伸びないというのですが、仕方が無い。

 で、少しずつ生活習慣をかえていき、なんとか8時には寝るようになったけれど小学校に入学すると一変します。

 登校時間が1時間早くなるので、夜8時に寝かせても、朝6時に起きなくてはならない。10時間睡眠させるには、夜7時に寝かせなければならないけれど、そんなことは不可能。御客さんの食事(デザート)を作っている最中だし、皿洗いで戦争のような状態。けれど、なんとか時間を作って8時に寝かせようとするのですが、困ったことに息子の奴は読書狂。寝たと思って引き上げると、それは狸寝入りで、こっそり夜中に起きて本を読んでいる。

 ちなみに嬬恋村の小学校では、一日一本のスクールバスで長い時間拘束されるので、一日の大半が学校生活です。朝7時すぎから、夕方4時半頃まで拘束されます。その後、宿題などをやると、アッというまに夕食時間になり、風呂に入って、就寝時間となる。友達と遊ぶ時間が全くない無い。

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 私が子供の頃は、帰宅した後、2時間くらい友達と遊んでいました。そして夕方5時のサイレンで自宅に帰って、アニメかなんか見て、食事をして、その後ものんびりしていた気がする。宿題も無かった気がする。というか宿題をやった記憶が無い。ひたすら遊んでいたと思うし、習いごとも習字くらいしかやったことがない。自慢じゃ無いけれど、塾なんぞ一生かかわったこともなれれば、進研ゼミもやったことがない。

 しかし、息子の時代は違っている。うちに泊まりに来る御客さんは、みんなタブレットを持っていて、宿泊中もチャレンジタッチで勉強している。もちろん息子も、チャレンジタッチをやっている。遊ぶ時間が無いのに、チャレンジタッチはやっている。ということは、息子の趣味である読書する時間も無いわけで、時間におわれるスケジュールとなる。

 おまけに、うちの息子は、空手・キックボクシング・スケートを習っているので、その習いごとがある時は、分刻みに忙しい一日となる。火曜日の軽井沢空手教室の時は、スクールバスなんかに乗っていたら間に合わないので、学校まで迎えに行って、車の中で宿題をさせて4時半に軽井沢風越公園に到着。夜7時頃まで練習させて、8時に帰宅。夕食は車の中。木曜日のキックボクシングでも同じ事で、夜7時頃まで練習させて、8時に帰宅。宿題も夕食は車の中です。スケートにしてもにたようなものでした。すごいスケジュール。遊ぶ暇が無い。

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 唯一、息子が遊べる時間は週末の御客さんが来るときだけ。それも小さな子供たちが泊まりに来たときだけです。だから息子にとって、御客さんが連れてくる子供さんと遊ぶことが唯一の楽しみなんですね。

 まあ、そんなことはいいとして、こういうスケジュールだと、息子の睡眠時間がなかなかとれなくて、でも、苦労して寝かせようとしても、読書できないことで息子の不満も大きくなり、夜中に、こっそりと隠れて本を読むようになり、結局、睡眠がとれないというジレンマになる。

「どうしたものか?」

と悩んでいるところに、突然、新型コロナウイルスが上陸して、あれよあれよ言う間に学校が休校になり、空手・キックボクシング・スケート練習など全て中止となってしまい、皮肉なことに息子の睡眠問題は解決してしまいました。息子の大好きな読書もたっぷりと時間がとれました。こんなこと言うと不謹慎に聞こえるかもしれませんが、ある意味、休校に感謝していたところがありました。息子と密接に関われるからです。私自身も、長年の疲労を取り除きましたし。

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 しかし、再び学校が始まると、また大忙しです。
 忙しい息子は、最近、ちょっと不機嫌でした。

 群馬愛郷キャンペーンで多少は忙しかった最近は、息子に対してかまってやれなかったので、何かのストレス発散のためなのか、今日は御客さんがいる時にガラスを蹴って割ってしまいました。これも何かのサインなんでしょうか? 

 それはともかく、群馬愛郷キャンペーンも、そろそろ終わりです。7月までは群馬県民で予約がいっぱいでしたが、8月になるとガラガラです。幸か不幸か、今年は新型コロナウイルスによって、御客さんが激減しています。宿屋の方の仕事が減っているので、今後は、もっと息子に向き合ってあげられるので、なんとか時間をつくって工夫して息子の睡眠時間を確保していかなければ。



つづく。

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2020年07月18日

寝る子は育つ? その2

 宿屋に生まれ育った息子には、一瞬で見知らぬ人と親友になる特技があります。それはそうでしょう。毎日毎日、御客さんのお子さんと知り合っては別れているので、一期一会の出会いと別れは、息子にとって、日常の一コマでしかありません。


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 昨日も、今日も、大勢の御客さんのお子さんと一瞬で仲良くなり、すごく仲良くなって大いに盛り上がるのですが、翌朝には別れてしまう。そして、再び会うことはないかもしれない。でも、それが日常になってしまっている。そんな息子の得意技は、転校生と親友になることです。

 群馬県のチベットとも言われているド田舎の嬬恋村にも転校生がくるようで、息子は三人の転校生と仲良くなっています。最初の転校生は、幼稚園時代で女の子が転校してきました。で、すぐに仲良くなってスーパーなんかで出会うと仲良く会話していましたが、今では疎遠になっているようです。一期一会が日常の息子らしい。

 二人目の転校生は、小学校の入学式の時。これは転校生というカテゴリーではないのでしょうが、嬬恋村では、幼稚園と小学校のメンツが一緒なので、転校生扱いで、入学式の時に
「知らない奴の机がある!」
と大騒ぎしていました。で、息子はその子とも直ぐに仲良くなりました。

 三人目の転校生は、N君という男の子で、二年生になった時に転校してきました。もちろん瞬時にN君と仲良くなり、今では毎日、N君のことばかり話しています。本を借りたり、シールをもらったりで、学校でN君とばかり遊んでいるらしい。

 ちなみに息子は小学校二年生なのですが、一年生に知り合いが多い。3月26日生まれのためか、息子の成長が遅すぎて、一学年下の子供たちの方が相性が良かったりする。なので、一年生と遊ぶことも多かったりする。


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 で、先日。一年生と二年生の合同授業があったらしい。何でもダンゴムシを探して見つける授業だったらしい。「そんな授業があるのか?」と首を傾げながら息子の話を聞くと、息子とN君は、一年生たちと一緒にダンゴムシを探したらしく、一年生に気に入られて、彼らの秘密基地に招待されたらしく、二年生の中で息子とN君だけ、
「一年生の秘密基地への出入りを許可された」
と嬉しそうに話していました。

 私は「おまえは先輩じゃないのか?」「どうして、そこで喜んでるんだ?」と、突っ込みたかったのですが、突っ込んではダメだと、笑いをこらえるのに必死でした。やはり息子の心は、一年生のレベルなんだろうな。本当なら、今、一年生で丁度いいんだろうな・・・と思った次第です。


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 ちなみに今年は、九人しかいなかったスケート部に、一年生が六人も入部してきたんですが、一年生新入部員の誕生日をみると、四月上旬生まれがいたりして、息子と二週間しか離れてない子がいたりする。その二週間の差で、片方は二年生。片方は一年生ですから、運命の分かれ道の不思議を感じます。たったの二週間の差で先輩になってしまう。でも息子には先輩意識は無いだろうから、また仲良くなっちゃうんだろうなあ。成長が遅れ気味の息子のことだから、下手したら一年生に格下に見られてしまうかもしれない。もっと、たくさんの睡眠をとらせて、大きく育てなければ。



つづく。

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2020年07月17日

寝る子は育つ? その1

 昭和30年代。私が生まれた頃はテレビがありませんでした。テレビがなかった頃は、オルゴールを不思議そうに鳴らしてみたり、万華鏡を見て遊んでいたり、紙風船やシャボン玉で遊んだものです。おもちゃも大したものはありませんでしたから、その辺の石ころや、座布団なんかがおもちゃだったりしました。そういうわけで一日が長かったので、昼間は眠ってばかりいた。母親が、仕事で小学校に出かけると、近所の老婆に預けられました。

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 と言っても、おもちゃか何かがあるわけでもないので、すぐに布団に寝かせられた。寝ているうちに夕方になり、気がついたら仕事場から母親が帰ってきていた。なので昼間の大半を寝て暮らしていたことになる。もちろん夜も寝たので、運動なんかしてないし、体力もついてない。3歳までは、寝てばかりなので、知能も体力も、同年代に劣っていたと思う。遊び友達も兄もいなかったから、3歳までは引きこもりの時代だった。当然のことながら病弱だった。肺炎で一ヶ月学校を休んだこともあるし、遠足の前日に熱を出して、歯ぎしりしながら遠足を断念したこともあった。

 けれど寝てばかりいたので、身長だけがぐんぐん伸びた。誰より大きく育って身長が伸びた。そして大きく育ち、佐渡島の4歳児の健康優良児の大会では優勝して、当時としては高価だったブリキでできた車のおもちゃをもらった。それが生まれて初めてのおもちゃだったかもしれない。虫歯が無ければ県大会に出られたとも聞かされた。寝て大きく育ったのだ。ただし、大きくなって夜更かしをするようになったとき身長がピタリと止まってしまった。

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 4歳児の健康優良児の大会で優勝してもらった景品。他に積み木等をもらっている。


 そんなことはどうでもいいとして、それから50年たった。
 50歳をすぎて息子が生まれたわけですが、息子が生まれたときは、標準より大きかった。
「この子は大きくなるな」
と思ったのですが、少しも大きくならなかった。

 運動させたために、私と違って健康そのものだったし、頑丈だった。
 けれど、身長が伸びなかった。
 毎日のように小浅間山登山したし、時々隠浅間山にも登った。
 もちろん自力で登っている。
 おんぶもダッコもなしの自分で登っている。
 頑なに他人の助けを拒否する息子だった。

 そして3歳で八ヶ岳・4歳で槍ヶ岳に登るくらいになった。
 全ての行程を自力で登ってる。
 誰の助けを借りてない。
 浅間山にも四阿山にも登っている。
 病気ひとつしないし、インフルエンザにかかっても一晩で治癒した。
 本物の健康な子供である。
 私とは大違いである。
 私は身長が大きかっただけの偽物だった。
 体格ばかり大きいけれど、実際のところ病弱もいいところだった。
 大会で優勝しても、賞状をもらっても、私の息子に比べたら不健康だったと思う。
 だから、あの手の大会はインチキくさい大会だと思う。

 それに比べて私の息子は正真正銘の健康体。
 体力もあるし病気にもならない。
 なのに、年齢を重ねるうちに、同級生の皆より相対的に小さくなっていった。
 身長が伸びないのだ。
「なぜだろう?」
と、いろいろ調べてみたら、睡眠に原因があることがわかった。

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 御客さん相手の商売をしているために、息子は夜10時頃まで御客さんにかまってもらっていた。
 だから毎晩遅くまで起きていた。
 御客さんから、さんざん可愛がられ、
 3歳になるまで夜更かしばかりしていた。
 これが良くなかった。
 身長が伸びなかった原因は、そこにあった。

 また、毎日のように登山などの運動をさせたのも原因だったようだ。 私の息子は、大勢の御客さんに遊んでもらい可愛がってもらったので、幼少期の私より社交的だし体力もある。知能テストをすれば高い数値もでる。けれど、年々どんどん背が低くなっていった。

 唯一の例外は、2月から4月のオフシーズンだった。この時期には御客さんも来ないし登山もできない。体も鈍るし、睡眠も長くなる。昼寝も多くなる。母子手帳の身長体重グラフをみると、この時期だけ身長が異常に伸びている。つまり睡眠と適度の休息が、身長を伸ばせているという仮説が成り立つ。
「これはいかん」
と思った私は、息子が4歳の頃に、夜8時には強制的に寝かせることにし、息子に会いたがる御客さんの要望も断ることにした。


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 もちろん私も一緒に寝る。御客さんは減るけど仕方ない。一番大切な時期なので経営のことなど二の次である。これは親なら誰だって、同じことをした思う。金なんかよりも子育てが優先になってしまう。

 それに一緒に寝ないと息子が寝付けない。こっちがイビキをかけば息子も寝るから御客さんを放置してでも一緒に寝る。それでも中々息子が寝られないようなら、睡眠前にプロレス技のアイアンクローでもしかけて、息子の腕力を使わせ疲れさせて眠らせた。

 すると身長が伸び出した。全く伸びなかった息子の身長が少しづつ伸び出して、少しづつ痩せてきたのである。その結果、小さかった息子も、今では後ろから5番目くらいまでの背の高さまでになった。3月26日生まれということを考えれば、かなり大きくなったと思う。寝る子は育つというが、これは本当だと思う。睡眠は本当に大切なんだと身に染みた。


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 幼児の頃は、勉強・運動よりも睡眠の方を重視した方が良いかもしれない。中学生くらいになったら夜更かしするようになるだろうから、小さい頃に身長を伸ばしてやるべく、せっせと子供を眠らせるべきなのかもしれない。それを第一目標にしたうえで、臨界期に間に合うように、人徳・知能・運動神経を発達させてあげるのが一番なのかもしれない。





つづく。

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2020年06月25日

吾妻鉱山 最後に・・・

 最後に吾妻鉱山が閉山になった理由を述べて終わりたいと思います。私の知識では、石油から硫黄をとるようになったために廃坑になったという理由だったのですが、実は、そうではなかったことを吾妻鉱山の広報誌を読んでいくうちにわかってしまった。というか、吾妻鉱山の広報誌を読んでいるうちに、当時の人たちでも、いやでも近い将来に閉山になってしまうことが分かってしまいます。というのも吾妻鉱山が最盛期の頃でも、価格的にアメリカのものと対抗できなかったからです。

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 ではなぜ昭和30年代に硫黄鉱山が繁栄していたかと言うと、日本に外貨がなかったからです。いくらアメリカ産の硫黄が安くても買うことができなかった。つまり硫黄に関しては自由貿易が成立してなかった。

 しかし、日本の経済成長のためには硫黄が欠かせませんでした。自動車も家電も造船も製鉄もまだ赤ちゃんの頃で、必ずしも国際的に競争力があるとは限らなかった。昭和30年代における日本経済の牽引力は、繊維産業だった。なのでナイロンを作るための硫黄が必要不可欠だった。その結果、吾妻鉱山(嬬恋村)・小串鉱山(嬬恋村)・石津鉱山(嬬恋村)・万座鉱山(草津町)といった硫黄鉱山が空前の繁栄を迎えるわけです。

 そういうことを広報誌に書いてある。価格的にアメリカのものに対抗できないことも書いてある。自由化が始まったら吾妻鉱山が危機を迎える事も書いてある。直接的に書いてなくても暗黙の了解と言うか、そういうことですよという信号を広報誌で読者に送っている。そしてそれを吾妻鉱山で働いている人達は、しっかり読んでいる。読んでいる人にとっては複雑な心境だったでしょう。

 この硫黄鉱山の仕事によって日本の経済は発展していくけれど、日本経済が成長し、日本が外貨を溜め込んだとたん、自由化がすすみ硫黄鉱山は壊滅する。つまり硫黄鉱山は、期限付きの繁栄でしかないことを、吾妻鉱山の人たちは、みんな知っていた。その可能性がある。

 広報誌に詳しく書いてあるからです。直接的には書いてないけれど、そういうことだという間接的な文章はいくらでも見受けられる。察しの良い人なら、誰もがわかっていたと思うし、一人でもわかった人がいれば、情報は、全家庭に筒抜けとなり、すべてに共有されてしままう狭い社会なので、やはり吾妻鉱山の大人全員が分かっていたと思う。そういうふうに広報誌を読んでいくと、なんともやるせない気持ちになってしまう 。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 しかしそれは大人たちの話であって、子供達がそこまで考えていたとは思えない。子供達にとっては、ある日突然、今まで住んでいたところが、廃墟になってしまい、みんなバラバラに全国に散っていってしまった・・・・という思いがあったと思います。そしてその子供たちが、40年〜50年経って、老人となって再び嬬恋村に訪れる。その瞬間に、私は宿屋の主人として立ち会えたわけです。

 吾妻鉱山の子供たちは優秀だったという。
 群馬県でもトップレベルだったという。
 それは広報誌に掲載されている作文や習字を見れば一目瞭然でわかってしまう。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 見ただけで優秀なのが一発でわかってしまう。でも、だからみんな大学に進学したのかというと、違っていて、卒業後には就職して手に職をつけて頑張っている。そして学校に近況を知らせる便りを送っている。ある人は、東京の寿司屋で働いている。もうじき魚の解体を教えてもらえると嬉しそうに手紙を学校に送っている。前にも書いたけれど、吾妻鉱山では生鮮食品は週に1回しか配給されない。他の6日は、缶詰ばかりなのだ。寿司どころか生の魚さえ週に1回も見られるかどうかの僻地なのである。そこに生まれ、そこで育ち、そこの中学を卒業して東京の寿司屋で働く少年。きっと親に寿司を食べさせたいと思って就職したに違いないのだ。

 吾妻鉱山は僻地だけれど、当時希少なテレビはあった。電波も届いていた。と言っても他の地域の人には分からないだろうけれど、北軽井沢にテレビの電波がくるようになったのは、ほんの数年前なのである。吾妻鉱山には昭和35年頃には、どの家庭にもテレビがあって電波が届いていたのだ。テレビドラマには寿司屋もあったことだろう。寿司屋になろうと思った少年がいても不思議は無い。そういう人たちが吾妻鉱山で生活をし、ある日、突然、鉱山を去って行く日がくるのである。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 私は吾妻鉱山のことを何も知らなかった。今回、万座の企画展で、知ることができて大変良かったと思っています。これで彼らの心情を少しでも理解できることができた。しかし、以前は、知る機会が無かった。インターネットで検索しても何もひっかからなかった。だから、吾妻鉱山関係者が泊まりに来ても何も出来なかった。しかし、もう大丈夫。少しだけれど、当時のことをしることができた。で、この知識をインターネットに残しておきたいと思った。

 うちの宿に限らず、他のお宿さんでも、昔、吾妻鉱山に住んでいた人たちがやってくるかもしれません。その時のための準備として、吾妻鉱山のことを知ってもらいたいと思い、余計なお節介とは思いつつ、吾妻鉱山について少しばかり語ってしまいました。必要に迫られて、吾妻鉱山について検索をかけ、この文章にたどり着いた方がいらっしゃいましたら、これを書いた甲斐があったというものです。

つづく。

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posted by マネージャー at 20:56| Comment(5) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月23日

吾妻鉱山の人たちが、佐渡鉱山(金山)を見学した結果・・・・

 今回は吾妻鉱山の人たちの娯楽を紹介したいと思います。

 吾妻鉱山で盛んに行われたのはスキーです。日頃から肉体労働をしているのにスキーをして遊ぶなんて信じられませんが、吾妻鉱山の中でスキー大会が行われていたぐらい、皆さんスキーをしていたようです。これは学校の先生も同じで、暇さえあればスキーをしていたようです。

 広報誌には、スキーのバッジテスト・指導員検定の傾向と対策なども掲載されていますから、吾妻鉱山の人たちのスキー熱は大したものです。ちなみに吾妻鉱山には、スキーリフトはありません。歩いて山に登って滑るだけです。つまり山スキーです。広報誌をみると白馬で山岳スキーを楽しんでいる猛者もいたようです。

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(広報『吾妻鉱山』より借用・吾妻鉱山のスキー大会)

 他の娯楽は登山と温泉ですね。
 万座温泉まで登山道を歩き、温泉に浸かって昼寝をしてビールを飲んで下山をする。
 考えてみたら贅沢な娯楽です。

 野球も熱心にしていたようです。
 実業団野球で非常に強かった。
 これはテレビの普及率と関係があるかもしれません。

 ところで吾妻鉱山では、早くからテレビが普及していました。昭和35年頃の広報誌の「家庭訪問」に出てくるご家族は、皆さんテレビを好意的に捉えています。チャンネル争いもなかったようです。最もチャンネルを選択できるほど、視聴できるテレビ局が多くはなかったのかもしれません。インタビューの人が、子供たちはテレビで勉強ができなくなるのではないかと質問していますが、そんなことはないと答えています。

  カメラも普及していたようで、広報誌に投稿写真がたくさん載っています。その当時プロの写真家が使っていたMamiya6で、撮影した写真が、 吾妻地区労働者美術展で入選していた写真も広報誌に掲載されていたりします。 ということは吾妻鉱山では、写真現像ができたということです。

 そういえば吾妻鉱山には映画館もありました。
 毎月、 何本かの最新映画を上映していたようです。

 登山部もあったようで、あちこち登山もしているようで、その記録が毎月のように広報誌に掲載されています。夏の北アルプスはもちろんのこと、全国各地の冬山登山も盛んに行われています。残雪のゴールデンウィークに燕岳から槍ヶ岳そして上高地とテントで一人縦走する猛者もいました。

 どの報告を読んでも、コースタイムが非常に早く、ほとんどがテント泊であることを考えたら、 彼らの体力は想像絶するものがあります。広報誌で山の天気予報と対策について解説を行っているくらいですから、プロの登山家なみの力量があったみたいです。

 例えば、浅間隠山に登った記録があるのですが、二度上峠の道路がなかった時代に、北軽井沢あたりから2時間30分で浅間隠山に到着しています。これでも十分すごいのですが、その後、 3時間かけて薬師温泉まで降りた後に、須賀尾峠を越えて、 丸岩を登り、川原湯温泉方面に抜けて、長野原駅まで歩くという超超超ハードスケジュール。地元民なら
「嘘だろう!」
と絶叫したくなるようなコース。土地勘のない人には何のことやらさっぱり分からないでしょうが、 1日に浅間山に2回登るレベルだといえば分かっていただけるでしょうか?

 吾妻鉱山の仲間と団体旅も盛んに行われていたようです。
 昭和35年には、須坂の上山田温泉に一泊二日の旅行を行っていました。
 登山道を歩いて万座温泉まで行き、そこから始発のバスで上山田温泉に行きます。

 どうして万座温泉かと言うと、当時は万座温泉から須坂に抜けるルートが、最も交通の便が良かったからです。途中に吾妻鉱山より巨大な小串鉱山がありますので、 バスの利用客も多かった。小串鉱山の人たちも、 吾妻鉱山の人たちも上山田温泉の上客(お得意さん)だったようです。 当時の上山田温泉には、ヘルスセンターなるものがあって、吾妻鉱山では勤続15年以上のものを 招待したようです。

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(広報『吾妻鉱山』より借用・佐渡尖閣湾の遊覧船)

 そういえば、 私が生まれた昭和36年の夏に、吾妻鉱山の人たちが、私が生まれ育った佐渡島に旅行に出かけています。早朝に出発して、 夕方に佐渡島に上陸。かなりの強行スケジュール。佐渡の玄関口である両津港というとところに宿泊しますが、暑くて寝られなかったらしい。それはそうでしょう。標高1500Mの涼しい高原に住んでいるわけですから、真夏に下界に降りる方が間違っている。 せっかく涼しい所にいるわけだから、何も暑いところに出かけなくても良さそうなものなのに、やっぱり出かけてしまっている 。

 そして翌日、尖閣湾・相川金山をまわって、 新潟に宿泊。なんと言っていいのやら。佐渡に生まれ育った私に言わせれば、無茶苦茶なハードスケジュール。これは若い佐渡島民には分からないでしょうけれど、昭和36年当時の佐渡島の道路事情を考えたら、考えられないほどのハードスケジュールになります。で、観光バスを使っているみたいですね。そして、出発したら、それに薄々感づいてしまっている吾妻鉱山のご一行様。

 対向車がきたらアウト!

 という道幅に大型バスが、荒波のギリギリ崖っぷちを走るわけですから、かなりスリルのある恐怖の観光バス旅行なはずなのですが、吾妻鉱山の御一行様は「運転がうまいなあ」と感心している。鈍感なのか? それとも、ひょっとして当時の草軽交通バスもにたようなものだったのか? 吾妻鉱山行きのバスも、たいして変わらない道幅を運転していたのか?

 そして相川金山の跡地を見学していると鉱山関係者だけに相川金山のことが気にかかってる様子。特に金山が、鉱山として寂れていき、観光に活路を見いだしている姿に感慨深そうである。10年後に閉山となる吾妻鉱山の人たちにとって、佐渡金山は、観光名所というより、自分たちの未来の姿を写しているような気がしていたかもしれない。

 昭和27年に縮小され廃墟となっている金山の工場跡地に感傷をうけていたようである。
 硫黄鉱山の坑道で働いている彼らが、佐渡金山の坑道で何を思っていたのか?
 私は静かに想像してみました。

 それから佐渡島の広大さに、さかんに感心していました。日頃、吾妻鉱山という狭い地域に密集しているためなのか、やたらと「佐渡は広い」と感動している。彼らは、佐渡島を吾妻鉱山くらいの面積だと思っていたのだろうか?

 ちなみに彼らは、米の美味しさに絶句しています。吾妻鉱山では、米が美味しくなかったのかなあ? 佐渡の魚についてはふれていませんね。吾妻鉱山では魚は食べられなかったのに。吾妻鉱山での食事は、もっぱら缶詰で、生鮮食品は週に1回の配給のみでした。けれど、どの旅行記をみても食事(グルメ)についてふれていてる記事が無いのはなぜなんだろうか?

 ヒントとしては、群馬県民は、どんな粗食も美味しく食べる県民性だからかもしれません。そういう風に躾けられているらしい。うちの嫁さんも、かなり不味いものを美味しく食べて文句一つ言わない。ハズレの定食屋で私が「不味い」なんて言おうものならテーブルの下で足で私を蹴っ飛ばしてくる(さすがカカア天下の国)。群馬県民は出された料理に文句を言う習慣がないらしい。

 新潟県民は逆に不味かったら「不味い」といくらでも言う。私の親も、さかんに「美味しい」とか「不味い」と言っていた。不味いものを「不味い」と言っても何の問題もなかった。群馬県民は食事で文句を言わない県民性なのだ。そのかわりに最新家電は、ジャンジャン買う。吾妻鉱山という僻地でのテレビ普及率は驚異的です。昭和35年にほとんどの家にテレビがあった。佐渡出身の私は昭和36年生まれだけれど、テレビなんて昭和40年頃までなかった。昭和44年の小学校2年生の時でもテレビの無い家があった。だからヤマダ電機・コジマ電気・ビックカメラといった家電の量販店は、すべてが群馬発祥です(ケーズ電気は、群馬県の御親戚の栃木県)。

 それはともかく話をもどします。

 翌日、吾妻鉱山のご一行様は、新潟県の弥彦辺りを回って帰るわけですが、くたくたになって吾妻鉱山に帰ってきた彼らの結論は、
「夏は涼しい吾妻鉱山が一番!」
ということでした。

 これは私も否定しません。
 夏は涼しい北軽井沢が一番だと思っています。



つづく。

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2020年06月22日

吾妻鉱山の医療事情

 吾妻鉱山は、明治41年に発見され、大正3年には群馬硫黄株式会社として採掘が始まり、大正6年「吾妻硫黄株式会社」が引き継ぎ、昭和2年には日本4位の硫黄鉱山に成長。昭和5年の世帯数55戸、人口は258名を数えました。しかし、日中戦争の影響を受け、事業は縮小化され経営は、東レの関連会社である帝国硫黄鉱業株式会社に移ります。

 買収後、東レ(帝国硫黄)から吾妻鉱山に出向してしてくる人がいました。村上さんと言う人で昭和14年12月21日の冬のことです。帝国硫黄は関西の会社。それも滋賀県草津町が本社ですから、村上さんも関西人です。関西から嬬恋村に来た村上さんは、その風景・言葉・風俗に面食らいました。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 吾妻鉱山の広報は、昭和31年4月に創刊されますが、創刊号に吾妻鉱山が、東レの関連会社である帝国硫黄鉱業株式会社に買収された直後の事が、村上さんによって書かれてあります。

 村上さんは、従業員の寮・寄宿舎を「飯場(はんば)」と普通に言ってることにショックをうけます。「江戸時代者あるまいし・・・」と嬬恋村の旧弊に愕然とするわけですが、出向の身分であり、まだ完全に経営権が帝国硫黄に移ってないこともあって黙ってました。

 そしてタイムカードがないことに衝撃をうけ、7時の仕事開始時間になっても社員が揃ってないことに衝撃をうけ、誰も残業をしないことや、勝手に早退してしまう人に衝撃をうけます。しかし、書類をみたら生産性は悪くない。いったいどうなってるんだ?と不思議に思っていたら職人たちは請負で働いているという。なので終業時間前でも仕事が終わると勝手に帰って行く人が多かった。

 この話は、私も土地の古老から聞いたことがあります。小串鉱山の話になりますが、戦争中は、何人もの親方のグループがいて鉱山からの請負で働いていたと。なので働きのあるグループとそうでないグループでは給料が全く違っていたらしい。それを十年くらい前に聞き取り調査したことがありました。

「戦争中は、日本人の若者の大半が兵隊にとられたので、兵隊にとられてない朝鮮からきた若い労働者の方が威勢がよくて、仕事をこなしてバンバン稼いでた。請負だから、やればやるだけ金になる。日本人の倍は稼いでた。ちょっとした金持ちになっていた。それで札束きって牛を農家から買って生で食べるんだわ。あれは驚いたな。生で食べるんだよ。だから終戦間際には干又川に牛の骨が散乱してた」

と証言していました。あのご老人たちは、今でも元気にしているだろうか?

 それはともかく、昭和15年に村上さんが所長になった時から普通の会社になったわけですから、小串鉱山より近代的なスタイルになったといえます。逆に言うと労働力確保の点から小串鉱山も、近代的にしないといけないわけで、戦後は小串鉱山も、近代的になっていったと思います。ただし、土地の古老の話では、小串鉱山は終戦までは請負制度でやっていたようで、働くだけ大儲けできる小串鉱山に朝鮮人が集中したと思われます。干又の老人は、吾妻鉱山に朝鮮人が行ってた話をしていませんから。

 まあ、そんなことは、どうでもいいとして、経営権が帝国硫黄にうつるさいに村上さんは、請負制度をやめて月給制度にかえるように進言します。しかし、それは却下されます。かわりに四割の給料アップし、始業・終業時間の厳守をさせることになった。

 そして吾妻鉱山が帝国硫黄に引き継がれると村上さんは、吾妻鉱山の所長に就任し、住宅・学校・映画館・生協・無料浴場・水道・医療設備といったインフラの充実をさせていき、吾妻鉱山を一大都市に作り上げていきます。嬬恋村の旧弊を刷新し、近代的な鉱山に変えていったわけです。そして最後に月刊の広報誌まで発行し、学校の広報誌の援助までした。あまりに福祉をやり過ぎるので、帝国硫黄の社長が度々おとずれて
「エスペランチストの君は、理想的すぎるんじゃないか?」
と言われてしまう。

(エスペランチストとは、エスペラント語を話す人のこと。ポーランド人のルドヴィコ・ザメンホフ(1859-1917)が、故郷の町でポーランド語、ロシア語、ドイツ語、イディッシュ語を話す人たちが、お互いに理解し合わず、いがみ合って暮らしていたのを見て、異文化の相互理解と共存のために、中立的な世界共通言語を作った)

 で、所長と社長は、二人で万座温泉までの登山道を歩き、そして温泉につかり、ビールを飲んで昼寝し、また、ブラブラ吾妻鉱山に帰って行ったそうです。昭和15年のことでした。のんびりした時代です。まだ道路は無く、登山道で吾妻鉱山まで登り、登山道で万座温泉に行った時代でした。荷物は、索道というスキーリフトみたいなもので運んでいました。

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 そういう僻地なので、困るのは病気にかかったときです。
 なので村上さんは、立派な診療所を作って医師を募集しました。
 嬬恋村で最初にレントゲンを導入したのも吾妻鉱山です。
 (つまり小串鉱山・石津鉱山より先だった)
 設備は都会の病院に負けていません。
 歯科医の先生には、週末の出張診療のお願いしています。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 この歯科医の先生が、時々、万座温泉に遊びに行くのですが、万座温泉日進館に泊まると、なじみの仲居さんが、
「先生、新潟からきた女中さんが、盲腸で苦しんでます」
と駆け込んできました。

 しかし、歯科医に盲腸は切れない。
 けれど万座に医者がいるわけがない。
 歯科医の先生は困った。

 しかたなく診てみると熱は平熱で、お腹を雪で冷やしながらウンウンと唸っている。足を触ってみると冷たい。これは盲腸ではなく過労かもしれないと思った歯科医の先生は、雪の代わりに湯たんぽを二つ用意させ、腹と足を温めさせ、鎮痛剤を飲ませたら、すやすやと眠ってしまった。交通手段のない僻地で恐いのは、今も昔も病気なんですよね。新型コロナウイルスによって、小笠原諸島が、いまだに観光客を呼べないでいるのは、そういうことなのでしょう。


つづく。

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2020年06月21日

吾妻鉱山 嬬恋村の『軍艦島』

 吾妻鉱山(嬬恋牧場付近)とは、どんなところだったのか?
 嬬恋村の軍艦島とも言える吾妻鉱山の実態を、当時の広報誌から読み解いてみます。

 面白いなあ・・・と思ったのは、F・Hさんという主婦の投稿記事です。新婚さんらしきF・Hさんは、御主人と分かれて暮らしていたようです。もちろん御主人は、吾妻鉱山で働いています。どうやら単身赴任で働いているらしい。

 で、吾妻鉱山に夫婦向けの社宅が完成して、そこに夫婦で入居できると大喜び。けれど、嬬恋村の人たちは、寒くて大変だとか、不便だとか、不安を煽るような話ばかりします。で、だんだん不安になってきた。そして、いざ引っ越しをしてみると、吾妻鉱山の住民たちにモグラの巣のような所(地下通路)に連れて行かれます。
「あれ? やばいぞ?」
と思ったF・Hさんですが、その地下通路は、雪に備えて各家に通じる地下通路でした。当時は、除雪機などという便利なものがなかったので、豪雪の時期は地下通路で行き来していたんですね。そして、すぐに吹雪がやってきて、この地下通路の威力を知ることになります。

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 実は、この地下通路の話、教職を退職された郷土史家の唐沢先生から、小串鉱山の地下通路のことを聞いていたんですが、現場を調査しても分からなかった。商工会の小林さんも探したけれど分からなかったという。
「唐沢先生はボケたのかなあ?」
と思っていたんですが、どうやらそうではなかった。吾妻鉱山にあったということは、小串鉱山にも絶対にあったはず。豪雪の小串鉱山では、もっと大規模な地下通路があってもおかしくない。唐沢先生の話では、峠を越えずに須坂方面に抜けられたというが、今はもう見つからない。

 では、豪雪の時、吾妻鉱山の小学校・中学校では、どうだったのでしょうか? 先生はもちろんのこと、生徒・児童が率先して、学校を雪から掘り起こしたと書いてあります。掘り起こさないと学校に入れなかった。学校の雪かきは子供たちの仕事みたいですが、掘り起こしたとは、すごい表現です。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 昭和31年4月8日。嬬恋村に住む下屋徳次先生が、転任で吾妻鉱山に引っ越してきました。翌9日に下屋先生は、小学校に向かおうと玄関に出ると、家の庭で遊んでいた各家庭の子供たちが、みんな
「先生、いってらっしゃい!」
と声を揃えて見送ってくれたと広報に書いています。昨日、ひっこしてきたばかりで、まだ生徒の顔も名前も知らなかった下屋先生は驚いたと言います。

 しかし、吾妻鉱山の子供たちは、みんな下屋先生のことを知っていた。狭い地域生で、すべての情報が筒抜けだった。むこう3軒両隣と言いますが、吾妻鉱山では、情報が全て筒抜けだったようで、吾妻鉱山の情報は、みんなに共有されていたということが、なんともほほえましい。この設定で、『嬬恋村の軍艦島』というドラマや映画を作ったら大ヒットすると思いますけれど。どうですかね?

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 ちなみに吾妻鉱山の小中学校には、そのへんの都会よりも教材が充実していることに転勤してきた教師たちは驚かされます。当時めずらしかったテレビや放送設備。昭和31年ですよ。高額すぎてテレビを買える人なんかどこにもいなかった時代。放送設備だってそうです。テープレコーダーなんか誰も持ってない時代なのに。

 そのうえ食堂・映画館・水道というインフラに転任してきた先生たちは、ほんとうにびっくり。昭和31年の嬬恋村に。どれだけ水道が普及していたことか。これもバックに吾妻鉱山の資金があったためでしょう。吾妻鉱山やPTAたちは、惜しみなく学校に援助しています。

 グラウンド(校庭)は、後に14600平米(だいたい120メートル四方の広さ)に拡張され、どの角度からでも100メートル直線コースがとれる広さになっています。やりようによっては400メートルトラックさえ作れる広さ。もちろん野球のバックネットもあります。これは現在の嬬恋村の小中学校より広大で豪華なグラウンドが、吾妻鉱山にはあった。

 もちろん吾妻鉱山が学校に援助する理由もあります。学校の施設を鉱山関係者(PTA)が借りて使うためです。吾妻鉱山では、毎年、大運動会を開いてますが、学校のグランドで行っています。だから吾妻鉱山の野球部も大活躍している。実業団チームとして、神宮球場まで、あと一歩のところまでいってますが、なにしろ豪雪地帯なので練習期間が短すぎるようです。それでも村内では無敵で、小串鉱山・石津鉱山・草津鉱山・嬬恋高校あたりを蹴散らしています。群馬県の産業別野球大会でも自衛隊あたりを破って優勝しています。

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(現在のこっている体育館)

 ただ、吾妻鉱山だけでなく、子供たちも教育資金の金策にはげんでいたようです。豚を飼って、その資金で生徒会の費用を作っている。なんと逞しいことなのだろうか? 今では考えられないことですが、教育資金の調達を子供たちにやらせていた。これは教育面からみても素晴らしいことだと思うのですが、今なら確実に問題がおきるだろうなあ。つくづく昭和という時代は、よい時代だったと思います。



つづく。

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2020年06月20日

吾妻鉱山 修学旅行が、日本橋三越だった理由

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 この写真は、昭和33年5月10日に発行された広報『吾妻鉱山』に掲載された写真で、「我が家の自家用車」というタイトルです。よくみると「◆◆ダイナマイト」と印刷されています。つまりダイナマイトの木箱に滑車のようなものをつけた手作り自動車です。

 若い人には、わからないでしょうけれど、昔は段ボール箱というものがなく、なんでも木箱に入れて輸送していました。なので、どの家庭でも木箱のミカン箱のストックがあって、それを分解して風呂の燃料にしていました。そして大半の風呂は、ミカン箱などの木箱を分解して作った、まきで沸かしていました。しかし、吾妻鉱山には無料の公衆浴場(銭湯)がありましたから、ダイナマイトの木箱は子供の自動車となったわけです。すごい自動車ですよね。

 ちなみに、この頃の自動車は、サスペンションが悪いのか? それとも道が舗装されてなかったためか、振動が激しかったようで、かなり乗りこごちがわるく、車のネジ(部品)もよく外れたようです。走行中のブレーキのネジが外れて制御不能になると、男たちが車から飛び降りて、人力で車を押し止めたという話が記事に載っていました。すごい話ですね。そういえば、草軽鉄道も、よく脱線したらしく、脱線すると御客さんと一緒に持ち上げて線路に戻したと、当時の北軽井沢駅の元駅長さんから聞きました。のんびりした時代ですね。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

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(広報『吾妻鉱山』より借用)
 
 話は変わりますが、私と同世代の友人に、父親が捕鯨船で働いていた人がいますが、その人のうちには、黒色火薬と印刷された木箱が山のようにおいてあったそうです。鯨をしとめるための銛を発射させる火薬が黒色火薬だったらしい。で、鯨漁から帰ってくると、その木箱を大量にもらってきて、風呂を沸かす、まきに使ったり、紹介した写真のように、手作りの子供の車に改造されたみたいなんですが、その人の自宅は、吾妻鉱山ではなく東京の早稲田にあったために、警察がやってきたと言います。東京では、そうなりますよね。吾妻鉱山では、なんの問題もなかったようなので、実に、のんびりしていたようです。

 次の写真を見てください。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 吾妻鉱山の様子ですが、周りに木が全くありません。これが現在の紅葉台付近だとは、誰が信じられますか? 現在はうっそうとした森になっているので、とても信じられませんが、当時は、嬬恋牧場一帯は、はげ山だらけでした。吾妻鉱山の事業所・社員住宅・その他の施設を建設するためか? それとも暖房に使われたのか? 当時の写真をみると、あたり一面はげ山だらけです。

 で、これでも足りなくなったらしく、もっと万座のほうの原生林の伐採許可がおりた話が、この吾妻鉱山の広報に載っています。よく当時の厚生省(環境庁)が許したものです。もっとも、その何十年後には、表万座スキー場ができているわけですから、そっちの工事の方が、自然へのダメージが大きかったでしょうけれど。

 さて、こうまでして、吾妻鉱山(硫黄鉱山)が開発されたのには訳があります。どうしても親会社が硫黄を欲しかったのです。親会社。つまり東レは、硫黄が欲しかった。硫黄がないとナイロンが生産できなかった。なので東レは、吾妻鉱山に投資し、吾妻鉱山の中学生の修学旅行は、親子同伴で出発できるようにし、東レの子会社であり、傘下の「日本橋三越」に修学旅行の親子を招待し、そこで買い物三昧させたわけです。それについては、また後日、面白いエピソードを紹介します。


つづく。

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2020年06月19日

吾妻鉱山の謎

 今回、万座に行ってきて、最大の収穫は、万座自然情報館でやっている企画展が、『吾妻鉱山特集』だったことです。
 吾妻鉱山について解説します。

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 (万座自然情報館の展示から借用)

 この企画展で、長年の『謎』が解けました。
 やっと吾妻鉱山の歴史にふれることができた。
 私としては、涙ものでした。

 なぜか?

 あれは15年くらい前でしょうか? 宿屋をはじめて5年くらいたったころ、中高年の団体さんが泊まりに来ました。私は、星空を案内し、嬬恋村の歴史や文化について解説しましたが、みんないたく感動してくれました。で、去り際に、こんなことを言ったのです。

「実は、私たち嬬恋村の出身者なんです」
「ええええええええええええええええええええええええええ?」

 こりゃ、やっちまった。
 嬬恋生まれの団体様に、嬬恋村を語ってしまった。
 ああ、なんてこったい・・・と赤面し、落ち込んでいると、

「嬬恋村の出身と言っても、嬬恋村を全く知らないんです」
「え?」
「閉山した吾妻鉱山の者なんです」
「吾妻鉱山?」

 吾妻鉱山というのは、万座ハイウエイの嬬恋牧場(愛妻の鐘)から紅葉台あたりにあった硫黄鉱山で、昭和35年の最盛期には、292戸人口1318名をこえる鉱山都市が栄えていました。昭和2年には国内第4位の硫黄鉱山となり、閉ざされた吾妻鉱山の中に吾妻小学校・吾妻中学校があり、昭和37年には小学生171名、中学生70名も就学していました。山奥の学校ということで、教員がなかなか集まらず、定数を満たさなかったこともあったという。にもかかわらず、子供たちの成績は、群馬県下でもナンバーワンだったらしい。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 しかし、硫黄が石油から作れるようになると、硫黄鉱山からの硫黄は価格的に太刀打ちできず、昭和40年代中頃に全国的の硫黄鉱山は閉山の追い込まれた。吾妻鉱山も昭和46年5月31日閉山。そして廃墟となってしまった。

 吾妻鉱山の子供たちは、全国に散り散りとなってしまったわけですが、その子供たちが中高年となって、何十年ぶりに嬬恋村で同窓会を開く・・・。といっても、吾妻鉱山は廃墟となって泊まれない。仕方が無いので、リーズナブルな宿をさがしているうちに、うちの宿をみつけ
北軽井沢ブルーベリーYGHに泊まることになった。で、北軽井沢ブルーベリーYGHに泊まってみて
「嬬恋村って、こんなところだったんですね」
と感動したわけです。

 つまり彼らは、嬬恋村を知らない。
 普段は狭い鉱山地区から出ることが無かったから、
 そもそも嬬恋村をよく知らない。
 吾妻鉱山はそれだけ辺鄙なところだった。

 もちろん、昔から万座温泉はあったけれど、嬬恋村ではなく、長野県の須坂から万座温泉に通っていた。万座は嬬恋村よりも、須坂から行くところだった。現に昭和28年に(1953)須坂から万座間の定期バスが運行開始している。万座は長野県から行くところで、嬬恋村から行くところではなかった。

 なので、吾妻鉱山の子供たちは、嬬恋村をよく知らなかった。吾妻鉱山だけで完結している世界なので、吾妻鉱山が彼らの世界だった。だから修学旅行ともなると一大イベントで、親も一緒についていったし、見送りも盛大なものだったらしい。親が一緒に修学旅行にいく学校なんて、全国でも吾妻鉱山くらいしかないのではないか?


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 (万座自然情報館の展示から借用)


 で、そんな御客様を何組か受け入れているうちに、吾妻鉱山に興味をもち、自分なりに吾妻鉱山のことを調べたんですが、資料はほとんど残って無く調べようが無かったのですが、万座自然情報館が、吾妻鉱山の企画展を行ってくれて、長年の疑問点が解けました。そうだったのか!そういうことだったのか!と・・・・。

 これを最初から知っていれば、子供時代を吾妻鉱山で暮らした人たちに、もっと親身になって接客できたのになあ・・・と、残念に思えてなりません。宿屋として反省しきりです。

 嬬恋村の皆さん、吾妻鉱山に興味のある皆さん、今なら、万座自然情報館で吾妻鉱山のことを調べられます。こんなチャンスは、もうないかもしれない。ぜひ万座自然情報館に足を伸ばしてください! 嬬恋村にふらりと、訪れる元吾妻鉱山関係者と出会ったときに困らないためにもです。

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(万座自然情報館の展示から借用)
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(広報『吾妻鉱山』より借用)
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(広報『吾妻鉱山』より借用)
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(広報『吾妻鉱山』より借用)
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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 それにしても、これらの写真をみると、胸が痛くなるのは、
 良くも悪くも昭和三十年代に生まれた者のサガなのかな。


つづく。

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2020年06月11日

『ブラックマーケティング』と『学力と社会力を伸ばす脳教育』

【7日間ブックカバーチャレンジ】7日目

 最終日は二冊の本(二人の著者)を紹介します。二冊二人の訳は、二人とも人気テレビ番組『ホンマでっか』のレギュラーメンバーで、両方とも著名な脳科学者だからです。しかも両者のキャラは全く違う。一見、知的で真面目でNHK的な中野信子先生と、どうみても芸人に見える危ない感じの澤口俊之先生。

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 中野信子先生は、よくNHKの番組に出てくる先生で、いろんな TV局から引っ張りだこの先生。話し方も穏やかで、非常に知的な感じの先生。しかし、この先生は、結構きわどい本を書いています。今回紹介するのは、ブラックマーケティングという本で、商売をやってる方、会社の経営をしてる人ならば、読んだ方が良い本です。

 これまでのマーケティング理論では悪徳商法や怪しい商売に関して十分説明できなかった。けれど脳科学を利用すると説明できる。ということはこれまで「科学」のように装っていたマーケティングは、倫理であり規範にすぎなかった。マーケティングは、経済学、社会学、統計学、心理学、人類学等を援用して来たが、科学の域に達してなかった。しかし脳科学を基に組み立て直すと「科学」に近づいてくるという本です。

 書いてある内容は、えげつないことこの上なし。一言で言えば悪魔の本。逆に言うと消費者視点の「よいこのマーケティング」では考えられない手を打てるかもしれない。この本を利用して、詐欺をする人もいるかもしれないし、逆に詐欺に引っかからないようになるかもしれない。

 マーケティングというのは、お客さんを喜ばすことによって、 お客さんを取り込むことができる。という部分にばかり目に入っていました。しかし、そうではない マーケティングもあるかもしれない。それがブラックマーケティング。損をしたくない気持ち、よく見られたい気持ちが、どのような弱点となるのか? なので、自分の脳の弱点を把握して行動する必要がある。あと努力不要論・科学がつきとめた「運のいい人」もおもしろいです。

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 もう一人は、澤口俊之先生。テレビ番組のホンマでっかでは、 異常行動が多く、発言も一見するとおかしな感じで、大学の先生と言うよりは、危ない芸人という感じの先生で、あまり友達にしたくないタイプの人に見えます。ところがこの先生の書いてる著作は、非常に常識的な本ばかりです。読んでて本当にためになるし、清々しくなる。

 先生の見た目と、書いてある本の内容が一致しないのですね。最初それが不思議だったんですが、何冊か読んでいるうちに、 その理由が分かってきました。この先生は、多動児で、それゆえに少年時代や思春期に悩み多い人生を送ってきた人だった。いわば苦労人です。

 苦労人だけれど、やはりテレビ番組中の異常行動と異常発言が目に入ってしまう。街で出会ったら確実に近づきたくない人の一人です。けれど、そんな先生だから、とても素晴らしい本を書いている。特に、子育てをしている親に読ませたい本をいっぱい書いている。

 しかも、内容が科学的で説得力のある本ばかり。私はこの先生の本をたくさん読んで、自分の息子に応用した結果、かなりの成果を上げています。一番おすすめなのは『学力と社会力を伸ばす脳教育』ですね。これは良書です。過去の自分と向き合って完成させた本ですね。説得力があります。また 『やる気脳を育てる』もいいですね。

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この二人は、同じ脳科学者でも全く毛色が違います。
中野先生(超IQ・メンサの会員)は、常識人ぽいのに『努力したら負け』という非常識な本を書く人だし、
澤口先生(多動児)は、アホっぽいのに、一般人の子育ての悩みを解決してくれる常識的な本を書く人だし、
この両者の差を読み比べると、とてもおもしろいです。



これで 「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ゙」は終了です。
次に、二人にバトンを送りたい。
土井健次君。
上原一浩君。
急で申し訳ありませんが、よかったら二人ともバトンを受け取ってください。
好きな本を1日1冊、7日間投稿するのが作法らしいです。



**********
「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ゙」
※参加方法※
・好きな本を1日1冊、7日間投稿する。
・毎日ひとりのFB友達をこのチャレンジ゙に招待する。
#7days #7bookcovers
#BookCoverChallenge
#day7


つづく。

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2020年06月10日

『宇宙戦艦ヤマト』

 アニメブームを作った最初の作品が『宇宙戦艦ヤマト』です。そして沢山の続編ができていますが、これをリアルで見ていた世代にとって『宇宙戦艦ヤマト』と言えば、第一作目だけです。

 私は昭和36年生まれですが、私の世代になると、近所に軍隊経験者が大勢いました。近所の駄菓子屋の親父が、空母瑞鶴の乗員で、50円の安いプラモデルを買うと、その親父が戦争体験を語ってくれたものです。例えば、空母瑞鶴の廊下は、どのくらい狭いとか、寝るときはどうやるとか、私物はどこに置くとか、どんな料理がでて、その料理が出ると何曜日になるとか・・・実際の軍隊経験でないと分からないことを教えてもらうわけですが、これが実におもしろい。なので、その親父の話を聞きたいために、いくら金を巻き上げられたことか。

 軍隊経験者は学校にもいました。特攻隊あがりの先生でしたが、この先生もおもしろい。爆弾を川に投げて魚を捕った話とか、飛行機内では小便を漏らし放題で、誰の落下傘も真っ黄色だったとか、上空では飛行めがね(サングラス)がないと目が見えないとか、戦記物とかミリタリーに書いてないこと。つまり経験者で無いと分からないことを話してくれる。で、不思議なことに、みんな面白可笑しく話してくれる。そういう人たちに囲まれて育ってしまうと、こっちも相当な戦争知識が、積みかさなって来る。

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 ここからが本題です。

 昭和49年、『宇宙戦艦ヤマト』がテレビ放映されました。裏番組が、アルプスの少女ハイジだったので、『宇宙戦艦ヤマト』は、まったく視聴率がとれなかった。この『宇宙戦艦ヤマト』がブームになるのは、数年後に再放送されてからであり、昭和49年当時は、話題にもならなかった。しかし、ごく少数の人間が、この『宇宙戦艦ヤマト』に熱狂した。第1話に熱狂した。

 『宇宙戦艦ヤマト』の第一話は、冥王星で、地球連邦軍とガミラス艦隊が、艦隊決戦を行い地球連邦軍が2隻を除いて全滅するのですが、残った2隻のうちの1隻が『雪風』なんですよ。『雪風』といえば、旧海軍軍人なら知らぬ者はいない。『戦艦・大和』より『駆逐艦・雪風』の方が圧倒的に有名であり、スターなんです。

 『雪風』に比べたら『大和』なんか下っ端も下っ端。大和の方がスターだと思っている奴は、素人かモグリだ・・・なんて言うくらいのものだった。なにしろ『雪風』は、太平洋戦争の最初から最後まで、大半の海戦に参加していながら一度もやられてない。戦死者も二〜三人しかいない。連合艦隊がレイテ湾に突入したときも、戦艦大和が沖縄特攻に出撃し撃沈されたときも、この『雪風』だけは無傷だった。無事どころか、海に放り出された大和乗員を助けまくって無被害で帰ってきた。

 それでも終戦直後には、燃料が無くなって動けなくなったけれど、港で空襲にあっても対空砲火で敵を撃退し続け、終戦直後まで生き残ったのが『雪風』だった。

 『宇宙戦艦ヤマト』の第一話に、この『雪風』がでてきて、その艦長が『古代守』で、『宇宙戦艦ヤマト』の主人公の兄に当たる。その古代守艦長が、撤退命令を無視して敵ガミラス艦隊に突入していく。これが第一話の前半部分なのです。そして、ただ一隻が地球に戻っていくわけですが、その地球が廃墟になっている。冥王星から攻撃してくる遊星爆弾で、地球は放射能まみれになっている。
「ああ、これは広島だ!」
「原爆投下された広島をダブらせている」
と思いましたね。そして、第二次世界大戦の時に沈んだ戦艦ヤマトを改装して、宇宙戦艦ヤマトに仕上げている。太平洋戦争では、大和が沈んで雪風が生き残っているけれど、『宇宙戦艦ヤマト』では『雪風』が沈んで、昔沈んだ戦艦ヤマトを改装した宇宙戦艦ヤマトが生き返る。逆なんですよ。逆になっている。

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 この逆転パロディは、いろんなところで『宇宙戦艦ヤマト』のエピソードとして出てくる。太平洋戦争で、日本が負ける原因になったのがミットウェー海戦。日本は、ここで精鋭の四空母を撃沈されますが、『宇宙戦艦ヤマト』では逆になっている。ガミラス艦隊が、精鋭の四空母を失って、地球に負けるきっかけをつくってしまう。逆パロディをやっている。

 しかし、この微妙な仕掛けは、当時の子供たちには分からないし、再放送でブームになり、大勢のアニメファンが誕生したわけですが、そのアニメファンたちも分かってない。と言っても、戦記マニアなんかは、そもそもアニメなんかみないし、
「宇宙戦艦ヤマト? なにそれ、美味しいの?」
という状態だろうから、彼らが『宇宙戦艦ヤマト』に興味をもつわけろがない。監督の松本霊士が、しかけた劇中の仕掛けが分かった人間が、当時も今も、いったい何人いただろうか? ただ、交響組曲宇宙戦艦ヤマトを作曲した宮川泰氏だけは、松本霊士の世界観を分かっていたかもしれない。でないと、こういう音楽は作れなかったはずだから。



 残念だったのは、低視聴率すぎて放送打ち切りになったことです。ガミラス艦隊が、精鋭の四空母を失って、いよいよ、これからと言うときに、唐突に終わってしまった。ああ、放送打ち切りかあ・・・と、当時13歳だった私は、かなりガッカリしたものです。で、私が高校生になったころに『宇宙戦艦ヤマト』ブームがおきるんですが、そのブームに全く興味がもてなかった。『宇宙戦艦ヤマト』ファンと会話しても、全く話が通じなかったことを覚えています。当然のことながら、その後のパート2以降も、リメイク版も全く見ていません。


**********
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2020年06月08日

『この人を見よ(下村湖人)』

『この人を見よ(下村湖人)』

 ドイツの教師シルマンは、野外で小学生たちに勉強を教えました。バイオリンをひき歌を歌いました。映画『サウンドオブミュージカル』の世界。これが、ドイツのユースホステル運動の根源です。

 ほぼ同じ頃、日本でも同じようなことを始めたのが田澤義鋪。
 彼は、小学生ではなく青年を相手にしていた。
 なぜ青年であったか?

 明治維新は、大量の失業者を出しました。
 版籍奉還、廃藩置県、失禄処分。
 まず武士たちが失業しました。

 一方で、武士たちよりも遙かに巨大な数の失業者がいた。
 青年たちです。


 明治維新前の青年たちには、仕事がありました。警備、消防、災害救助、神事、祭、公共事業、社会教育などの仕事です。彼らは、子供を卒業すると、自宅には寝泊まりせず、若者宿(若衆宿・郷中宿)で寝泊まりしました。そして、そこから仕事に出て行きました。結婚すると、自動的に若者宿(若衆宿・郷中宿)を出て行き、今度は大人(オトナ)と呼ばれる世界に仲間入りしました。

 明治維新がおきるまでの日本では、大人(オトナ)の世界と、若者組の世界の二重構造になっており、警察や祭礼や公共事業は、若者組の役割であり、家を守るのは大人組の役割でした。若者組は、治安維持や道路、橋梁の修繕、堤防の築造などのいろいろな仕事に対し、一人前として責務を果たさなければなりませんでした。これらの日本の風習が分からないと、維新の志士たちが二十歳代であったことが分かりにくい。

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 しかし、明治維新によってヨーロッパの風習が導入され、警察や公共事業が公務員によってなされるようになると、若者組は用無しとなり、失業してしまいました。その失業者の数は、路頭に迷った武士たちの数倍にもなった。

 失業した若者組の人々は、やることを失って、イタズラや夜這いといった悪弊がはびこり、いつのまにか、社会から糾弾される立場にまで転落しました。また、西南戦争により、若者組の延長から構成された西郷隆盛軍が、近代的な政府軍に全滅させられることによって、若者組という江戸時代の遺物は消滅したかに見えました。

 田澤義鋪は、そんな青年たちに希望を託し、彼らに仕事を与えた。
 (明治神宮は、日本中の青年たちによって作られた)
 そして彼らの拠点である日本青年館(つまり日本式のユースホステル)を作った。
 この日本青年館は、日本ユースホステル協会が設立されると同時に
 日本の第一号ユースホステルとなっている。

 この田澤義鋪の凄いところは、青年たちに教えることよりも「自分で考え自分で解決する」ことをさせたことです。多くの青年たちが、田澤義鋪のところに悩み事を相談しに行きましたが、田澤義鋪は決して自分から答えをださず、かならず相談してきた者自身に考えさせました。あくまでも自分で考え自分で解決させたのです。そして自主独立の気風を青年たちに植え付けた。これは、上の命令でロボットのように動く青年を育てる世界と正反対の世界でしたから、日本が軍国主義化していくと、徐々に国家社会主義者たちの弾圧を受けるようになります。そして田澤義鋪は、大政翼賛会と反発するようになり、第二次大戦中に「日本は負ける」と公言するようになりますが、それは後の話です。

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 ちなみに『この人を見よ(下村湖人)』の著者は、田澤義鋪の親友である下村湖人。
 次郎物語の下村湖人です。



**********
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2020年06月07日

『森岡ママは今日も笑顔で丘の上』

 マッカーサーを怒鳴りつけた唯一の日本人。
 それが森岡俊之(明治35年生)であり、
 森岡ママの御主人です。場所は軽井沢の万平ホテル。
 マッカーサーと面会した森岡俊之氏は、
 マッカーサーに対して怒鳴りました。

「どうして原爆を落とした! 人間として、あまりに酷いじゃないか」
「確かに人道的ではなかったが、戦争を早く終わらせるには仕方なかった」

 マッカーサーに対して、正面から怒鳴った日本人は、この森岡俊之氏ぐらいだった。森岡俊之氏は被爆者であり、原爆症に苦しんでいた。また、多くの友人知人が、一人二人と原爆で亡くなっていた。その事実に怒り沸騰していた。だからマッカーサーに対して怒鳴っていた。マッカーサーは、
「これは原爆症に効く薬です」
と赤い錠剤を渡そうとしたが、森岡俊之氏は
「バカヤロー」
と錠剤を床に叩きつけた。その瞬間、憲兵たちが身構えた。

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 もし、ここでマッカーサーが、森岡俊之氏を逮捕するなりしていたら、この事件は神話になっていたかもしれない。森岡俊之氏は、歴史に名を残しただろう。しかし、マッカーサーは偉かった。森岡俊之氏と奥さんに、できるかぎりの事をしている。なので、森岡俊之氏は伝説になりそこねた。

 しかし森岡俊之氏は、別の事で伝説になり、神話となるのである。たった四畳半のユースホステル(MGユースホステル)をつくり、若い人に被爆体験を語り続け、多くの若者たちのカリスマとなる。その噂は、全国に広まり、文部大臣から呼び出され
「国立青年の家の館長になってほしい」
と懇願されました。しかし、森岡俊之氏は辞退します。あばら屋で、たった四畳半のユースホステルで、青少年と雑魚寝をする方を選んでしまった。彼は、文部大臣に、このように答えました。

「吉田松陰が一間の私塾から始めて、幕末維新の志士を輩出した松下村塾のように、四畳半のユースホステルから次代を担う立派な若者を育てることが私の夢であり役目だと思っています」

 初期のユースホステルのオーナーには、こういうマネージャーが多く存在しています。その人たちの魂がユースホステル業界に宿っている。だから
「ユースホステルなんかやめて、ゲストハウスにしたら? その方が儲かるよ」
という人がいても、素直にはうなずけない。森岡俊之氏のようなマネージャーたちが渡してくれたバトンを引き継いで、若い人たちに渡していかなければならないからです。


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2020年06月06日

『馬喰一代』

【7日間ブックカバーチャレンジ】3日目

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 今回紹介するのは、日本ユースホステル協会の創設者である中山正男氏の自伝。『馬喰一代』です。『美女とネズミと神々の島々』が100%の実話ですが、この『馬喰一代』には、かなりの脚色が入っています。

 そういう意味では、『美女とネズミと神々の島々』と『馬喰一代』は真逆な性質をもっています。では、なぜ中山正男氏は、大きく脚色をしたのでしょうか?

 
 時々、こんなに不幸な少年時代があるのか? と驚かされる伝記を読む事がありますが、中山正男も、そんな少年時代をおくっています。彼は、己の自伝を「馬喰一代(ばくろういちだい)」という小説にし、それが直木賞候補になったりもしましたが、内容に大きな脚色がありました。

 本当は、もっと不幸でした。

 しかし、彼の場合、事実を事実のままに書きますと、リアルさに欠けてしまいます。あまりにも悲惨すぎる過去は、それ自体がフィクションに思えてしまう。2ちゃんねるにアップしたら「嘘松」とか「ネタだろう?」とか「それって何て言う都市伝説?」と言われかねません。だから、真実を十倍の水で薄めて自伝を書かざるをえなかった。それでも、悲惨すぎる物語になってしまう。

 事実は小説より奇なりとは、中山正男の自伝「馬喰一代」にこそ言えるかもしれません。中山正男の人生は、馬喰一代に書いてある事よりも、ずっと辛く苦しいものだった。しかし、彼は、自らの人生を笑いのネタにしました。実話であってもリアルさに欠ける話は、わざと悲惨さを水で薄めてリアルさをだし、面白おかしく話しました。

 講演会でも、自分の過去について、おもしろ可笑しく語りました。二人目の母親が父親を包丁で殺そうとしたり、三人目の母親が発狂して死んだことも、四人目の母親が盲目になったことも、「おまえの母ちゃん淫売婦(売春婦)」とからかわれたことも、面白おかしく話し、その上で、オチに「いい話」を持って行っています。しかし、『馬喰一代』には、そういう事は何も書いてません。さすがに母親の数を誤魔化しはしませんが、どの母親も美しく清らかに表現し、父親に対しても愛情を込めて書き込んでいます。

 そのため作品が直木賞候補となり、大映で映画されており、大評判となり皇室までも御覧になっています。

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 ところで、私は、最初にこの『馬喰一代』を漫画で読んでいます。昔、小学館が『小学5年生』という漫画学習雑誌を発行していたのですが、そこの付録に『馬喰一代』の漫画がありました。「走れユキカゼ」という漫画で江波讓二という人が絵を画いてます。

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 この江波讓二氏は、小学館の漫画雑誌の常連作家で、他にも、ウルトラQ・キャプテンウルトラ・ウルトラセブン・マイティジャック・シルバー仮面・猿の軍団なんかを書いていました。その頃のアシスタントたちは、京都造形芸術大学芸術学部マンガ学科の教授になったり、京都精華大学マンガ学部キャラクターデザインコース教授になったりしています。

 まあ、そんなことは、どうでもいいとして、この『馬喰一代』は、小学生の学習漫画雑誌の付録になるほどの名作であったと言うことが重要なポイントです。昭和四十年代のPTAと教育委員会は、すごい堅物の集まりで、ドリフターズなんかのバラエティ番組さえも敵視していましたから、教育上良くないとされるものなんか絶対に小学生の学習漫画雑誌の付録にならなかった。つまり『馬喰一代』は、文芸大作と認識されていたということになる。だから付録になった。

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 もし、中山正男氏が、脚色なしに真実そのままに『馬喰一代』を書いていたら、映画化もされなかっただろうし、皇室が映画を御覧になることもなかったし、小学生の学習漫画雑誌の付録になることもなかったかもしれません。


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2020年06月05日

『美女とネズミと神々の島々』

【7日間ブックカバーチャレンジ】2日目

 今回紹介するのは、『美女とネズミと神々の島々』です。ノンフィクションの実話というか、著者の体験記というか、ルポルタージュです。この本に出会った人は、少ないでしょう。なにしろ昔の本ですから。

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 昭和36年といえば、私が生まれた年ですが、その昭和36年に朝日新聞の社会部が、『底辺に生きる』というシリーズを4回にわたって企画しました。それぞれ、いろんな地域の底辺を新聞記者たちが取材をして、それを発表したわけですが、そのシリーズの最後が、朝日新聞九州支局の秋吉茂氏の書いた
『美女とネズミと神々の島々』
でした。

 私が『美女とネズミと神々の島々』を読んだのは、とある学校で秋吉茂氏の講義を受けたことがきっかけです。つまり秋吉茂先生は、私の恩師でもあります。

 秋吉茂先生は、九州福岡県の田川の生まれです。旧制中学校時代に、とある事件(冤罪)で退学となり、ほぼ全国の学校で締め出しをくらったのですが、ただ一校だけ受け入れてくれる学校があり、そこに入学。そして第二次世界大戦が始まり、徴兵されて暗号解読班に回されます。終戦後に復員し、福岡県田川高等学校の国語教師となりますが、ある新聞記事に涙が止まらなくなります。それは

「崖に転落寸前のバスに対して、我が身を輪止めに
 バス車掌、乗客の命を救う」

 その記事に感動した秋吉茂先生は、朝日新聞九州支局の新聞記者に転職します。そして、数々の名文を書き上げて、多くの読者を感動させました。例えば、映画化されたこともある「百万人の大合唱」。福島県郡山市で、音楽で暴力を追放した実話など、多くの名作を残しています。その中でも名作中の名作が、『美女とネズミと神々の島々』です。

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 この連載が始まると、大変な反響となり、匿名の中学生・高校生・大学生たちから「悪石島に送ってください」という寄付金が、朝日新聞にどっさり届きました。筑後柳川市のポッポ幼稚園では、園児たちが、お小遣いをあつめて、当時の金で六千円(今の物価なら12万円以上)も寄付しています。尼崎の女医さんは、
「島の女の子を引き取り洋裁を習わせて自立させたい」
と言い、大阪の中島金属の社長は、
「島の男の子たちに進学をさせてやりたい」
と言い、奈良県五条東中学校では、悪石島の友へ運動を始めるし、家電メーカーは、当時、高額だったテレビを学校に寄付しました。島には自家発電機が届き、夕方の二時間だけ電気がつくようになった。島の人たちは、映画どころか幻灯(スライド上映)さえ見たことがなかったので、さぞかしテレビに腰を抜かしたことでしょう。

 とはいうものの、そんな昔の話ではありません。私が生まれた昭和36年の頃の話です。日本が豊かになった頃で、高度経済成長真っ只中の話です。そういう時代に、「こんな世界があったのか?」と驚かされます。

 しかし、この『美女とネズミと神々の島々』は、単なるルポルタージュではありませんでした。最後には、感動のラストシーンが待っています。目に涙の洪水が流れてしまう。実話であるだけに感動も大きいし、なんとも言えない、すがすがしい気分になる。

 ちなみに「美女」とは、島全体の若い女性たちのこと。写真でみると確かに美女である。しかし秋吉茂先生は言います。大人の女性は、長い間の粗食と過労によって花の命をけずりとっていると。あまりに過酷な生活なために美女の命が短いと。どんな美女も、すぐに皺だらけになって老婆のようになってしまう。

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 そして「ネズミ」とは、ネコぐらいの大きさのネズミで、何十年かに大繁殖して海を泳いで渡ってくる。そして農作物を食い荒らして、また海を泳いで去っていく不思議な生き物のことです。いったい、この生き物は、今でも存在しているのだろうか?

 最後に「神々」ですが、複数形です。なので一部の神を写真で紹介します。

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 最後に秋吉茂先生は、この島の取材をあきらめます。志なかばで立ち去ります。あまりにも激しい環境に、体を壊してしまったからです。そして、島を去っていき、この体験を、朝日新聞の『底辺に生きる』シリーズで、10回にわたって連載され、日本中に悪石島ブームがやってくることになる。



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2020年06月04日

『銀河鉄道の夜』

 この作品のテーマは、欠点だらけでも一生懸命に生きる人にエールを送る。そういう作品です。

 まだ小学生の主人公は、みんなに虐められていました。家も貧乏で、みんなが祭りに遊びに行ってるのに、印刷所でアルバイトしないと生活できない。注文したはずの牛乳も届いてないし、牛乳屋の人も無愛想。鬱になりかかるほど惨めな気分の主人公は、気がつくと、いつのまにか大好きな親友と銀河鉄道に乗っている。そして旅をしている・・・という話なんですが、以下は、ネタバレです。

 実は、この列車、天国行きの列車なんです。
 みんな切符をもっている。
 罪深い人は、すぐにおりる。
 徳の高い人は、長く乗っていられるという列車。
 そして、みんな行き先が書いてある切符を持っている。

 で、車掌がやってきて、
「切符を拝見します」
と言ってくる。みんな素直に切符を出す。

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 ところが主人公は、切符を買った覚えが無い。「やばい!」と思いつつ、ポケットをまさぐると、何か紙が入っていたので、やけくそで「エイ」と車掌に出してしまうんですが、車掌は、その紙切れに驚いて
「どこまもでも行ける切符だ!」
すると、他の乗客も
「本当だ!」
「本当に、どこまでも行ける切符だ」
「その気になれば、本当の天上にさえいれる切符だ」
と驚くわけです。

 主人公は、ホッとして、親友と「僕たち、どこまでも一緒に行こうね」と約束するんですが、親友には降りる駅が決まっていた。しかも主人公も、どこまでも行けなかった。気がつくと、主人公は、夜空の野原で寝ていたわけです。そして主人公は、親友の死を知るわけです。

 親友は、溺れた友人を助けて死んでしまっていた。自己犠牲によって他人を救ったわけなんですが、そのために銀河鉄道では、行き先の書いてある切符しかもてなかった。ただし、誰よりも長く列車に乗れている。けれど、主人公と一緒に旅はできなかった。

 では主人公は?
 まだ旅の途中なんです。
「どこまでも行ける切符」
というのは、「生きている」ということ。つまり生きてさえいれば、本人がそのきになりさえすれば、本当に「どこまでも行ける」というわけです。つまり「どこまでも行ける切符」とは、「生きている」と同じなんですよね。これが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のお話です。


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2020年05月30日

例のウイルスで・・・ その3 小市民の親が行う植福

 今回は「植福」についてです。
 植福とは、将来に対して幸福の種を蒔いておくことです。
 過去に自らが蒔いた種が芽を出し、今の自分を創っている。
 過去を書き替えることはできないが、今から良い種を蒔き続ければ、
 望ましい未来につなげることができるというのが植福です。

 実は、幸田露伴もびっくりの植福の人が軽井沢にいます。
 雨宮敬次郎です。
 過去に5回ほどやっている、雨宮敬次郎のツアー(離山ツアー)に参加した人なら御存知でしょうが、彼ほど植福に命をかけた人はいなかった。

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 彼は、行商から身を起し、事業の失敗と成功を繰り返し、明治二十一年(1888)に甲武鉄道の取締役となって以来、川越鉄道、北海道炭礦鉄道と関わり、日本鋳鉄会社を起しました。東京市街鉄道株式会社を設立し、京浜電鉄、江ノ島電鉄の社長となり、軽便鉄道を日本にもってきたり、列車を製作したり、鉄道国有論を唱えたり、広軌レールを主張したり、運賃無料論を唱えたり、物流革命を見越した人物でもあります。

 この雨宮敬次郎が、軽井沢を作ったことは意外に知られていません。軽井沢といえば、宣教師のアレキサンダー・クロフト・ショーが別荘地に軽井沢を発見したことばかり言われていますが、そうではない。軽井沢を作ったのは、雨宮敬次郎なんです。雨宮敬次郎が、軽井沢に大規模な植林事業を行ったのであり、多くの農民を入植させて、こまごまと面倒をみてやって、今の軽井沢の骨格を作り上げたのです。

 アレキサンダー・クロフト・ショーが「軽井沢の恩父」などと言われてますが、馬鹿言ってるんじゃ無いよ。雨宮敬次郎を忘れていませんか?と言いたいですね。雨宮敬次郎こそは、私財をなげうって軽井沢に尽くしてきた人間であり、軽井沢に多くの人を入植させた人間なのです。軽井沢を避暑地として紹介しただけの宣教師ショーとは格が、スケールが違います。

 アレキサンダー・クロフト・ショーが、軽井沢に訪れたとき、軽井沢は原野であり樹木が一切なかった。その原野に植林事業を始めました。当時、原野と言えば御殿場か軽井沢だった。どちらかで植林事業をやるつもりだった。結局軽井沢になったのは、東海道線よりも信越線の方が早く開通したからです。もし東海道線の方が早く開通していたら、今でも軽井沢は原野のままで、御殿場が大森林地帯になって怒ったかもしれない。

 もちろん原野から始める植林事業なので、雨宮敬次郎が生きている間に利益を上げることはありません。でもそれでいいと思った。彼は、子孫のための貯金だと言って、ただひたすらにカラマツの植林に励みました。しかもカラマツというのがすごい 。カラマツは、若いうちは何の役にも立たないけれど、樹齢何百年も経つと高値がつく。松ヤニが多くて油まみれのカラマツは、腐りにくく特に線路の枕木にうってつけだった。 大量のカラマツがあれば、日本全国に線路が引ける。雨宮敬次郎は、物流こそが人々を幸せにするという信念を持っていたので、カラマツの植林事業は、 将来はきっと日本の役に立つと信じました。彼こそは、 植福の達人だと言えましょう。 雨宮敬次郎は言います。

「日本人は未だに貯蓄心が足りない。金があればすぐ使ってしまう。私は一文もない時分から貯蓄というものに重きを置いていたが、今は開墾地への貯蓄の金をかけている。貯蓄をどういう方法でするかと言うと木を植える。金の貯蓄ではなく木の貯蓄をやっている。生前のための貯蓄ではなく、死後のために貯蓄をやっているのだ」

 こうして軽井沢に大量の落葉松林ができたのですが、残念ながら鉄道の時代は終わっています。しかし、雨宮敬次郎の苦労は無駄に終わっていません。この大量の落葉松林が、新型コロナウイルスが、世界中に蔓延する危機的状況下において、軽井沢の救世主になる可能性が出てきたからです。落葉松林が、住民の免疫力を上げている可能性があるからです。

 平成十七年度の研究では森林浴がNK細胞内の抗がんタンパク質の増加によってヒトNK活性を上昇させることを明らかにしています。どうして、そうなるのか?そのメカニズムは、まだよくわかっていないのですが、フィトンチッドが原因の可能性があるとも言われています。このフィトンチッドは、松科の樹木に多いのですが、軽井沢には、雨宮敬次郎が植林した大量のカラマツがあります。これが、軽井沢・北軽井沢・嬬恋村の住民の健康の持っている可能性が出てきました。

 考えてみれば昔から軽井沢は、病人を治癒する土地として有名でした。戦前は、軽井沢にたくさんのサナトリウムがあって、多くの結核患者を治癒してきました。軽井沢に住む文豪たちの中には「風立ちぬ」といった結核をテーマにした作品ができたりしてます。だとすると、雨宮敬次郎は、子孫のために大きな 植福をしてくれたということになります 。

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 その他にも軽井沢が雨宮敬次郎に感謝すべき理由があります。
 雨宮敬次郎はこんなことを言ってます。

「四十戸の人間を入植させることは木を植え付けるよりも難しかった。人間の植え付けは容易にできるものではない(略)。不毛の原野に住もうとする者は何かの欠点を持った人間である。少しでも財産をこしらえると、もうそんなところには辛抱できず、すぐ 帰る気になるから、それを居着かせるためには、酒を飲むものがあれば酒を飲まし、病人があれば薬を与えるなど我が子同様にしなければ、ついて来れない。それだから家内が行くと皆がお母さんのように思ってすっかりなついている。この状態であの村ができたのだった」

 長い前置きはこのくらいにして、本題に入ります。

 先日、とあるスーパーで同業者(宿屋)のオーナーとバッタリ出会い、 その方の息子さん(一人っ子)の話を聞きました。その方の息子さんも、やはりお人好しでサービス精神が旺盛らしく、お客さんのお子さんがやってくると、うちの息子と同じように遊び相手になり、絵本の読み聞かせをしたり、なんでもプレゼントしてしまうらしい。なので、うちの息子も同じなんですよと言うと、
「宿屋というサービス業をやっている親の真似をするんだよね」
という話で盛り上がってしまった。

 やはり、宿屋の息子はどこも同じなんだなぁと返事を返していたら、必ずしもそうではないとのこと。 同じ宿屋でも、お客さんの悪口ばかり言ってるオーナーさんの息子は、人の悪口ばかり言うようになるし、がめついオーナーの息子さんも、非常にがめつくなるらしい。だから、息子さんの性格をみれば、その宿屋のオーナーの経営方針が非常によくわかるとのこと。
「ああ、なるほど・・・」
と思ったんですが、しばらく経って青ざめてしまった。そういう視点で、うちの息子を観察する人もいるんだ・・・と青ざめてしまった。

 うちの息子は大丈夫なんだろうか?
 よそ様にご迷惑をかけてないか?
 妙に落ち着かなくなってしまった。
 その心理を察したのか、相手はこんなことを言ってくる。

「◇◇さんのところは、すごいよ。三人も子供がいて、みんな良い子ばかりで、親孝行なんだよ。しかも、全員が成績優秀。なので有名私立に入ってしまった。だから学費も半端じゃなかったらしい。こないだその件を聞いてみたら、最近になってやっと、親の任務を離れることができて生活が楽になったって言ってたよ」
「へえ・・・」
「◆◆さんのうちも、三人も子供がいて、みんな良い子ばかりで、みんな前橋に下宿している」
「え? 前橋?」
「奥さんが前橋に住んで子供の面倒をみてて、週末にペンションに戻ってくる。優秀なお子さんばかりだと親も大変だけれど、これも未来への投資。歴代の親たちが子供にやってきた道を、今の親たちもやるということさ」
「・・・」

 嬬恋村といえば、群馬県のチベットと言われるぐらいのど田舎ですが、 こんなド田舎にもかかわらず、 優秀な子供たちが多いのには呆れます。近所のペンションでもお子さんが、長野県でもナンバーワンと言われている有名私立高校に入っている。しかも同じペンション仲間のお子さんも入学している。嬬恋中学校といえば、一学年の人数は下手したら五十人をきる年もある。これだけ子供の数が少ないのに、この調子。そういえば息子の入っていたスケート部の先輩も、中高一貫の超有名私立学校に入学していました。親たちの負担も大変でしょうが、子供の将来を思ってのことなので、これも一種の植福と言えるかもしれません。

 とてもじゃないけれど、私にはそこまでやるほど気力はない。本人がどうしてもといえば、考えないでもないですが、かなりの高齢で生まれた子供ですから、どちらかというと、学力よりも健康体を作ってあげたい。この心理は、五十歳を過ぎて子供を持った人間にしかわからないかもしれません。

  私は二十年間宿屋をやっていますが、その間に何人かのリピーターのお客さんが、命をなくしています。 そこまで行かなくても、ストレスで鬱になった人もいる。嫁さんの親戚の方で、若くして突然死した人もいる。 そもそも嫁さんの父親からして、若くしてなくなっている。

 無駄に人生を長く生きていると、そういう経験が積み重なるので、どうしても健康というものを重視してしまいます。体の健康もそうだし、心の健康も。 だから早取り学習よりも、ゲームを使った脳トレーニングを重視してきたし、小さいうちから空手家キックボクシングをさせたり、毎日のように息子を連れて登山に明け暮れています。子育てを健康中心にもっていく。健康のために金を使う。これはこれでひとつの植福と言えるかもしれません。将来のために息子に健康を植福している。

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 植福 にも、色々あると思います。
 人それぞれ、いろんな植福を行なっている。
 これは、どの植福が正解かというよりも、
 それぞれ親たちの歩んできた人生に大きく影響されて植福が選択される。
 たまたま私は、健康というものに対して敏感にならざるえなかった。
 だから息子にしてやれる植福は、健康な体つくり。
 それもほどほどの健康な体。

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 息子が望むなら別だが決して全国を狙うスポーツマンにしたいわけではなく、ほどほどの健康体と、ほどほどの人格者であればいい。息子が望むなら別だが、決して聖人君子になんかにしたくない。少しだけ欲がある平凡な人間で良い。宮沢賢治の「雨にもマケズ」の世界が息子にとって一番良いと思っている小市民な親だったりする。 


つづく。

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2020年05月28日

例のウイルスで息子の夢が消えてしまった その2

 二十年ほど前に『幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法(渡部昇一)』という本を読みました。幸田露伴の面白いことは、幸福を語るのに『幸福論』と書かずに『努力論』を書いているところです。その『努力論』で幸福を引き寄せる方法として「惜福、分福、植福」が必要だと言っています。幸福を引き寄せるためには、惜福・分福・植福といった努力が必要だと言うのです。

 分福について幸田露伴は、自分に巡ってきた福を独り占めしないで周囲にも分け与える。しかも見返りは期待しない。福は天からの授かりものであり人々の間を巡るもの。自分に巡ってきた福を天の一角に返す気持ちを持つ心掛けが大切。周囲を幸福にすることが、自らの幸福につながる。だから分福によって、よりいっそう大きな福がやって来る。例えば、
「商売で儲かった時に利益を使用人らに分けたとしよう。すると使用人らは、店主が福利を得るならば自分たちも福利を得るのだということが分かり、熟心に業務に励み、店主を儲けさせようと努力するものなのである」
というふうに。

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 ところで幸田露伴が、なぜ露伴なのかというと、仕事をやめて北海道から徒歩で餓死寸前になりながら帰京したことがあり、露を伴って野宿したので「露伴」と名乗ったと言います。ああ、なるほどと思いましたね。これなら幸田露伴が、
『分福』
と言った理由が分かります。私でなくても、1980年代から1990年代にわたって北海道を徒歩旅行した人なら誰だって分かると思います。どれだけ『分福』のお裾分けに預かってきたか、身にしみて分かると思います。

 今から四十年ぐらい前の北海道では、電車に乗れば、地元民の人たちが誰彼なく気さくに話しかけてきました。道を歩いていれば、車が止まって乗せてくれましたし、車中で話が盛り上がれば、「俺の家に泊まっていけ」と言われて、何日もお世話になることも多かった。もちろん住所交換もした。年末になると新巻鮭が送られてきたり、色々なものが送られてきました。もちろんこちらの方もお返しに何らかのものを送り返しましたが、相手は金額にして倍ぐらいのものを送ってくる。

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 そういえばライダーハウスなんてものが北海道にはありました。今でも存在してるとは思いますが、当時のライダーハウスはちょっと違ってました。ラーメン屋の駐車場の隅に小屋なんかがあって、ラーメン一杯を食べるとそこに無料で泊めてくれました。ライダーハウスには旅人も泊まっていましたが、ジプシーみたいな人たちも泊まっていました。そして近くの農家や漁師番屋で働いていました。その人たちは、野菜を持ってきたり、魚を持ってきたりして、夜になるとみんなで持ち寄った食材で美味しそうな鍋を作ったりしていた。するとどこからともなく差し入れが届いてくる。ラーメン屋の親父が、余ったご飯を届ける場合もあれば、近所の農家がとうもろこしや酒を届ける場合もある。お礼を言うと
「何もだ」
と言って、一緒に酒を飲んだりします。
「俺もここの人間だ」
近所の農家のご主人は、ライダーハウス出身だと言う。農家でアルバイトしてるうちに、そこの娘と結婚して、今は農家の大黒柱になっているらしい。

 そのご主人のおじいちゃんの話によれば、昔は芋掘りさんという人たちがいて、家族でじゃがいも掘りの季節労働して北海道中を渡り歩いていた人たちがいたらしい。だから芋掘りの季節になると大勢の子供たちが転校してきて、二週間後に去っていったという。

 どの子供たちも服はボロボロで身なりは良くなかったけれど、地元の子供たちも、大人たちもみんな親切にしてあげた。彼らは貴重な労働力だったし、学校から帰ってすぐに雇われた農家で親と一緒に芋掘りの手伝いをする。一生懸命親孝行する子供たちを馬鹿にできる人たちは、当時の北海道のどこにもいなかった。むしろ尊敬の眼差しで見ている人たちの方が多かったという。

 芋掘りさんたちが転校していく日、ご主人のおじいちゃんは、餞別に宝物でも何でも差し出したといいます。そして時代が変わって芋掘りさんたちが住んでいた小屋は、ライダーハウスの前身になりました。

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 また北海道には、開拓地だというのに神社がいっぱいありました。神社にはたいていテントが並んでいて、大勢のキャンパーたちが生活していました。1990年の頃。バブルのさなかの頃です。キャンパーたちの中は、優雅に写真撮影をしてる人たちもいたし、バイクでツーリングしている人たちもいましたけれど、農家で働いてる人たちも多かった。

 寒さの厳しい冬になると、日本列島を南下していき、沖縄の波照間・石垣島・西表島に向かって製糖工場で働く人たちも多かったけれど、真冬の北海道でキャンプしてる人たちも多かった。キャンプと言っても、山ガールのキャンプをイメージとは程遠い。ジプシーみたいな生活。芋掘りさんに近いと思います。彼らが厳冬の北海道でキャンプできたのも、北海道の庶民に分福が根付いていたからだと思います。でなければ、彼らは厳冬の北海道では生きていけなかったはずです。

 長い前置きはこのくらいにして、分福について。

 分福と言えば、嫁さんの実家のある群馬県館林が本家です。あの分福茶釜は、群馬県館林にある茂林寺にありました。館林というところは、昔から裕福な土地だったらしく、その理由が、いくらお湯を汲んでも全く尽きることのない茶釜のおかげであると言われていました。お湯が無限に湧いてくれれば、燃料代が助かりますから、村全体が裕福になるという理屈です。

 本当にそんなことがあったかどうかは別にして、ポイントは、お湯を分け合ったということにあります。分福が徹底したからこそ館林は裕福になった。それを周辺の市町村が信じたということに大きな意味があります。館林からちょっと離れると栃木県になりますが、その栃木県の住民たちにも館林の分福は有名であったという明治時代の記録が残っています。

 実際に館林周辺の市町村は、江戸時代の昔から栃木県も含めて分福を徹底していました。なので、この辺りには多くの人たちが集まってきたと言います。NHKのテレビドラマで有名な「おしん」のような存在が、わんさか押し寄せてきたのも、館林周辺地域です。

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 彼らは、奥州子と言われて、わずかばかりの米俵と引き換えに奉公に出された子供であり、小さい赤ん坊の子守をしながら学校の校庭に集まっていました。

 その辺の事情を知っている教師たちは、わざと窓際で奥州っ子に聞こえるように、窓に向かって叫ぶように授業をしました。子守の子供たちは、それに甘えて勉強した。教科書もノートもないので子守の子供たちは棒で地べたに文字の練習をしました。一事が万事、みんなこの調子です。

 お墓のお供え物も、白米のおむすびでした。そのおむすびは、貧しい人たちの食事にやることが前提です。実際、おそなえをすると、貧しい人たちが、それを食べていた。

 赤ん坊を抱えて物乞いをする人には、温かいご飯を食べさせたと言います。お金をあげても、コンビニのない時代ですから、お金よりも食事の方がありがたかった。米をもらっても、金をもらっても困るだけだった。このような館林の分福も、館林出身の嫁さんには興味がないようなので、あまり話していません。

 話は変わりますが、どういうわけか、うちの息子には分福が身についています。時としてやりすぎることがあるくらい。原因は、宿屋の息子なためだと思われます。子供というものは親の真似をします。特に長男や一人っ子の場合、信じられないくらい親の真似をします。うちの息子も、何でも真似をしました。問題は、私が宿のオーナーであることです。

 親が盛んに接客サービスをしていると、息子もそれを真似する。息子なりに何でもサービスをする。それがお客さんに好評で、売上が伸びたのも確かです。小さなお子さん連れのご家族が来ると、自分が持ってるおもちゃを両手に抱えて小さなお子さんたちのところに走って行きます。絵本を読んであげるし、こっそり溜め込んだ自分のおやつも持っていく。お客さんが、メガネを探していると、度数の合わない私のメガネまで持っていく。

 まさに分福。
 なんでもかんでも差し出そうとする。
 売り物の小さなおもちゃまで勝手にあげてしまう。
 それを叱るんですが、何が悪いのか今ひとつ分からない。

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 最初は微笑ましいなぁと思っていたんですが、さすがに大変な弊害があるということに気がついた。分別のない分福は、かなり危険だということに。

 なので幼稚園の年長さんの頃に、お金を学習させるためにコンビニやスーパーに連れて行って、こづかいをあげて、自分でおやつを買わせますと、買ったおやつを、親にも分けてくれます。決して独り占めしようとはしません。

 と書くと美談のように思えますが、これは少しばかり危険です。お金の怖さを分かってない。幼稚園時代の息子は、呆れるばかり物欲がないので、お金でもおやつでも、おもちゃでも、何でも他人にあげてしまう。親の接客姿をみて、そういうものだと勘違いしている節がある。

 それはそれで決して悪いことではないのですが、世の中にはクレクレ君と言う、物欲の塊の人たちが少なからずいるし、悪意のある人もいる。そういう人たちと出会ったら必ずトラブルになるのは目に見えている。なので分福という行為は、惜福に比べて、かなり高度で難しい判断を必要とする。どの過ぎた分福には、必ずトラブルが生じてしまう。

 そこで、欲というものを教えることにしました。具体的に言うと、アルバイトなどをさせて、お金を稼がせることにした。何かお手伝いをしたら十円ずつ払い、その十円が貯まったら、おやつか何かを買わせるようにした。お金の価値を自身の労働によって身をもって分からせるようにした。

 しかしこれを実行してみると、少々具合の悪いことに気がつきました。
 幼稚園児が行うお手伝いというものは、かえって足手まといになる。

 なので、勉強や運動することに十円ずつ払うことにしました。その代わり、おやつも与えなければ、おもちゃを買わない。欲しければ自分で稼ぐように仕向けました。その結果、苦労して手に入れた十円は、簡単に手放さなくなりました。労働することによってお金の価値が分かってきた。そうなると、コンビニでお菓子を買うこともなくなる。苦労の末、手に入れたお金を滅多に使わなくなった。

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 これにアジをしめた私は、息子に十円をジャンジャン支払うようになり、小学校一年生になる頃には、何かする事に百円ずつ払うようになった。そのかわりに罰金を取ることも始めました。お金はジャンジャン払いますけれど、忘れ物をしたり、嘘をついたり、やってはいけないことをした場合、千円とか二千円の罰金を取るようにしました。

 罰金制度にしたのは、子供をきつく怒鳴っても効果が無いからです。怒鳴ったところで忘れ物がなくなるわけではない。でも、忘れ物をすることに千円の罰金を命じると、忘れ物はなくなる。それはもう嘘のように忘れ物をしなくなる。怒ったり叩いたりしても忘れ物をするくせに、千円の罰金だとピタッと忘れ物がなくなってしまう。千円を稼ぐのが、どんなに大変か身をもって体験したためか、恐ろしいほど忘れなくなる。その結果、おこずかいが、どんどん増えていく。

 不思議なもので、お小遣いが増えると、お金を使わなくなる。増やすことに執念をもちはじめ、アルバイト・勉強・運動など、お金になることを率先してやるようになった。で、自分の貯金通帳を作りたいと言ってきた。群馬銀行に出かけて息子の貯金通帳を作ってあげた。で、私の方は、新型コロナウイルスで経営悪化したので定期預金を解約手続きを行った。帰り際に息子が
「1億円ためたいな」
と言うので
「そんなに貯金して、何に使うの?」
と聞くと、ロシアで寿司屋をやるための資金で必要だと言った。
「こいつ、何を言ってるんだ?」
と首を傾げていると、息子は得意満面で、将来の計画を語り始めたのです。今年の二月頃の話です。ダイヤモンドプリンス号が入港した頃で、まだ新型コロナウイルスが、深刻な状況でなかった頃の話です。

つづく。

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2020年05月26日

例のウイルスで息子の夢が消えてしまった

「惜福、分福、植福」幸田露伴

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 二十年ほど前に『幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法(渡部昇一)』という本を読みました。幸田露伴には、全く興味が無かったのですが、渡部昇一氏の本なので、無条件に買って読みあさりました。

 で、予想したとおり素晴らしい本で、何度も読み返したい良書でした。その内容は『幸運を引き寄せる生き方の法則』について書かれた本で、一種の幸福論です。

 で、幸田露伴の面白いことは、幸福を語るのに『幸福論』と書かずに『努力論』を書いているところです。その『努力論』で幸福を引き寄せる方法として「惜福、分福、植福」が必要だと言っている。幸福を引き寄せるためには、惜福・分福・植福といった努力が必要だと言うのです。

 で、惜福について幸田露伴は、「たとえば掌中に百金を有するとして、これを浪費に使い尽して半文銭もなきに至るがごときは、惜福の工夫のないのである」と言っている。

 惜福。福を惜しむ。これは倹約とかケチとか、そういったことではなく、幸運を大切にして使い切らないということです。たとえば、親からプレゼントやお年玉をもらっても、それを無駄に使わずに大切に貯金することです。そういう子供には、もっとお年玉をあげたくなる。結果として、さらに福を呼び寄せるわけです。それを幸田露伴は「惜福」と言った。逆に、せっかく何かをプレゼントしてあげても、すぐに壊してしまったり、三日で飽きてしまったりしたら、だんだんプレゼントをあげたくなくなってきます。「惜福」つまり、福を惜しまないと福が逃げていく。もらったものを大切にしてないと、もらえるものがだんだん少なくなっていく。これが「惜福」の効果だと幸田露伴は、言いました。

 他にも、分福(福を分ける)、植福(後世に残す)という福がありますが、これについて説明すると長くなるので割愛します。

 惜福についてです。どういうわけか、うちの息子は、生まれながらに惜福に長けていました。いつだったか、親戚の人から絵本をもらった時、もらった絵本を毎日のように眺めていました。宅急便で送ってもらった、お下がりの服・おもちゃでさえ宝物扱いです。
 お客さんから誕生日祝いに水筒をもらったことがあったんですが、ボロボロになって使えなくなっても大切にしていました。ひびが入って使えない水筒でも毎晩枕元に置いて寝たくらいです。お客さんに、駅長さんの帽子を頂いた時も同じで、ずっと持ち歩いて大切にしていました。お年玉を頂いた時も、金額にかかわらず、毎日それを眺めていました。眺めては貯金箱に入れ、貯金箱から取り出しては眺める。そして絶対に使おうとはしない。

 そんな息子も幼稚園の年長さんの時に、世の中にはサンタクロースというものがいて、プレゼントをくれるらしいという知識を仕入れてきました。で、サンタクロースに欲しいものを手紙を書いて、窓ガラスに貼ったのです。そんなものをお客さんに見られてはまずいので、取り外すと息子は
「手紙がなくなった」
と悲しそうな顔をする。仕方がないので、
「サンタクロースが持って行ったんじゃない?」
とごまかしました。

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 で、息子のやつは何が欲しいんだろうとその手紙を読んでみると、くまのぬいぐるみが欲しいと書いてある。欲のないやつだなーと思いつつ、リサイクルショップで、百円のくまのぬいぐるみを二つほど買って、クリスマスイブに、枕元に置いてあげました。

 すると大喜び。「二つももらったよ」と大喜び。二百円でこれだけ喜んでくれるとはプレゼントのしがいがあると思いましたが、その日からの息子のサンタクロースのプレゼントに対する態度は、親の私も想定外でした。

 くまのぬいぐるみは、息子にとって友達とような存在になりました。大切に取り扱うのはもちろんのこと、食事の時も、散歩の時も、布団に入る時も、いつも一緒です。寝るときに枕元に置くのはもちろんのこと、北アルプスを縦走しようという時でさえ、ザックに入れようとする始末。さすがにそれだけは許しませんでしたが、近くの山なら今でも普通に持って行きます。息子は小学二年生で、幼稚園の年長さんの時のクリスマスから二年も経っているんですが、未だにこの調子です。新型コロナウイルスが流行し、毎日のように登山をしてるんですが、隙あらばリュックサックの中に二体のぬいぐるみを入れようとします。

 まあそんなことはどうでもいいとして、去年の十二月。息子が小学一年生になった冬。またクリスマスイブが近づいてきた時のことです。今度は、何をお願いするんだろうと思っていたら、ラジコンカーをくださいと言う手紙を食堂の窓ガラスに張り出した。やっと世間並みの欲が出てきたのかな?と思い、今回もトイプラネットという中古品のおもちゃを売っている店に行って、五百円くらいのラジコンカーを買おうと思ったんですが、息子は
「ラジコンカーをやめて地球儀にする」
と言い出したので、百円ショップで売っている百円のミニ地球儀を買ってこようかなと思っていました。

 何しろ、うちの息子はどんな安物でも、大げさに喜ぶし、とても大切にする男なので、金がかからなくていい。で、クリスマスの前に
「クリスマスツリーをみたい」
と言うので、ホテルブレストンコートで毎年行われているキャンドルナイトに連れて行きました。そこには巨大なクリスマスツリーがあるからです。で、クリスマスツリーを見学の後に、星野遊学堂という教会に行くと、一人一枚ずつ絵葉書をもらったのです。

「せっかくだから、おじいちゃんやおばあちゃんにクリスマスカードを送ったらどうだい?」

と言うと、息子のやつは喜んでカードを書きました。一枚は母方のおばあちゃん。もう一枚は父方の祖父母に。すると、しばらくして
「これでプレゼントを買ってあげて」
と、父方のおじいちゃんおばあちゃんから、母方のおばあちゃんから、まとまった現金が送金されてきました。で、今年は100円のプレゼントですますわけにはいかなくなった。なので少しばかり考えてみた。

「うちの息子は、成長が遅いので、小学一年生のくせにサンタクロースをそのまま信じている。でも、一年後の二年生になったら、さすがにサンタクロースの正体を知るだろう。現に私は、保育園の年長さんの時にすでに、サンタクロースなんていないこと知っていた。二年生になったら、きっとクリスマスに対する夢が消えてしまうに違いない」

 そう思った私は、百円ショップの小さな地球儀をプレゼントするのをやめて、何万円もする地球儀にした。地球儀の中にコンピューターが入っていて、たとえば日本をタッチすると、日本について色々な説明をしてくれる地球儀。クイズを出したり、質問に答えてくれるコンピューターの入った、いわゆるしゃべる地球儀をクリスマスにあげることにした。

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 もちろん息子は大喜び。
 毎日のように地球儀で遊んでばかり。
 地球儀が友達のようになってしまった。
 その結果、息子のやつはとんでもない事を言い出した。

 それまでは、将来は小学校の先生になって、
 担任の先生のような先生になると目を輝かしていたんですが、
 地球儀のおかげで、あっさりその夢を放棄し、とんでもない野望を持つようになった。

 まずロシアに行って、そこで寿司屋を開業して、巨大チェーンを作って大儲けする。そのあとに、アメリカでホテルを作って、巨大なホテルチェーンをアメリカ各地に配備するとかなんとか。とんでもない夢物語を語るようになった。明らかにコンピューター内蔵の地球儀に影響されている。というか、これでは
「将来の夢はウルトラマンになることです」
と何も変わりないではないか。

 と思ったのですが、結構本人は真面目に考えているらしく、まだ小学二年生なのに、真面目に英語の勉強しだしている。そのうち、ロシアで寿司屋をやるとか、アメリカでホテル王になるとか、そんなバカみたいなことを忘れてしまう・・・・と思っていたのですが、この半年間、未だにその夢を持ち続けている。そして、本人自ら勝手に自主的に英語の勉強を始めてしまった。まだ小学二年生なのに。
「そんなことはしなくていい」
と言っても聞く耳をもたない。世界に打って出るためには英語が必要ということは分かっているようで、英語に夢中になっている。
「こいつはヤバイ・・・」
と思っていたら、新型コロナウイルスが世界中に猛威をふるってしまった。

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 これが何を意味するか、成長の遅れてるうちの息子にもわかったようで、息子の夢はついに破れてしまった。最近は、地球儀をいじってはないのですが、それでも英語の勉強だけは毎日続けてるようです。


つづく。

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2020年03月15日

台風19号で被害をうけた嬬恋村 その4 明暗を分けた八ッ場ダム

 奥穂高・前穂高経由の縦走を断念してザイテングラート経由で下山。高速道路を使い、上田インター経由で嬬恋村に帰ってみると、役場と観光協会の活躍で、嬬恋村の被害状況が判明しつつありました。

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 吾妻線は、がけ崩れで復旧の見込みなし。
 崖そのものが水分を含んでいるので、
 二次災害の可能性があるので復旧工事ができないという。

 吾妻川沿いのそばにあった国道一四四号線の一部は、河川の濁流に削られて道路は消失。大きく蛇行していた吾妻川の一部は直線になり、川の流れそのものが変わってしまいました。道路そのものが全て削られているので国道一四四号線の復旧の見込みは立っていません。直線となった吾妻川の一部は、町の中を寸断し家屋敷を流しました。

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 最も被害が大きかった所は、鳥居峠方面から流れてくる吾妻川と鹿沢方面からの湯尻川が合流した所です。水量を増した吾妻川は、蛇行しつつ下流に流れていたのですが、川が溢れて直線的に進むようになり、町中(田代)の住宅や倉庫、車両などを流失させたのです。

 悲惨なのは新鹿沢温泉地区。累計五メートル近い豪雨によって温泉旅館の一階が土砂で埋まって床上浸水。道路は寸断され、橋は落ち、住民は孤立して移動できない状態でした。

 この惨状にもかかわらず県や国の支援は遅々として進まず、災害対策救助法が適用されたのは、一週間後の十月十九日。復興法に基づく非常災害に指定されたのは十一月一日。さらに国道一四四号線の復旧工事を国直轄で実施決定されたの十一月八日。 JR東日本が、吾妻川早期復旧を決めたのも十一月八日。

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 これが早いのか遅いのかを他に比較のしようがありませんので私にはわかりませんが、こんなに時間がかかったのは、道路が寸断され被害の全貌の把握が遅かったからかもしれません。

 この被害によって嬬恋村は激変しつつあります。村内のイベントは全て中止。社会福祉協議会は、映画・講演会・福祉事業など全てを中止してボランティア受付と指示に全力を注いでいます。商工会のイベントなども中止。小中学校の文化祭も中止です。教育予算が大幅に減額されたからです。

 スクールバスも二便だったものが一便に縮小。低学年は、五年生六年生たちの授業が終わるまで学校で待機することになりました。そのうえ他路線と合併してバスの台数までも減らされ、バスへの搭乗時間も増えています。

 教育委員会が主催していた数々のイベントも予算カットで中止。代わりに他の市町村のイベントを紹介してますが、もちろん遠すぎて行けない。その結果、子供たちの楽しみだった村独自の課外授業が無くなりました。年に二回やっている陸上フェスティバルや各種のイベントも中止。これも予算カットが原因でしょう。というか役場の職員が、復旧で忙しくてやってられない。

 嬬恋村の図書館も閉鎖されて県の復旧本部に。
 息子たちは残念がっていましたが、仕方ありません。
 教育予算よりも、交通インフラの整備が優先されるべきですから。

 ところで、こういう状況下で災害支援寄付が届いています。姉妹都市提携している所や、過去に関係のあった市町村六箇所から百五十万の寄付が届きました。今まで姉妹都市にどんな意味があるんだろうと思っていましたが、こういう時のための姉妹都市だったんですね。またふるさと納税サイトから二百三十七件三百三十九万の災害支援の寄付が届いています。ふるさと納税サイトには、こういう使い道もあった。

 この状況を、ブログやFacebookで、これらの真実を拡散するべきなのでしょうが、観光協会の役員をやってる者としては、それはできない。これから冬のスキー客の集客をしなければならない新鹿沢温泉地区に御客様の予約がこなくなるからです(現在は復旧してスキー場も営業している)。

 当時の新鹿沢は、道路の寸断はもちろんのこと、多くの旅館が床下浸水し、どうにもならなくなっている。早急に新鹿沢温泉地区の復旧を行わないと、風評被害によって新鹿沢温泉地区のスキーシーズンの予約はゼロになってしまう。なので全力を挙げて新鹿沢温泉地区の復旧工事を行わないとならない。そして風評被害を防ぐ必要があった。

 ちなみに現在、新鹿沢地区は、完全ではないものの、ほとんど復旧しています。
 村民の悲願だった吾妻線も2月21日、やっと開通しました。
 大前駅には、多くの鉄道ファンが訪れ、駅ノートに記念に書き込んでくれました。
 ありがたいことです。




 私も連日、北軽井沢付近の道路復旧に出かけましたが、幸いなことに、機械力を持った不動産屋・工務店・農家のパワーによって一週間ぐらいで台風以前の状態に戻っています。そして、周りが徐々に落ち着いてくると、被害のあった地域と、被害のなかった地域の差が、明確に見えてきました。

 一言で言うと、八ッ場ダムの上流は壊滅。
 八ッ場ダムの下流は全く被害なし。

 もともと私は八ッ場ダムの工事については、反対の立場だったのですが、今回の台風で考えが正反対になりました。

 台風の直前に完成した八ッ場ダムでは、試験湛水を始めていました。普通なら三ヶ月から四ヶ月かけてダムが満水になる所、台風19号によってアッという間に満杯になってしまった。満杯になった八ッ場ダム。台風直後に実際にダムの様子を見たのですが、泥水と流木とゴミの吐きだめで湖面が真っ黒でした。あの風景を見たら、吾妻川がどんなにすごいことになっていたのか簡単に想像できます。八ッ場ダムの建設反対運動をしてきた「八ッ場あしたの会」は、公式サイト上で八ッ場ダムがなかったとしても利根川が氾濫することはなかったと主張していますが、嬬恋村からの視点から言わせてもらうと「何言ってるんだ?」となります。

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 このダムがなかったら、嬬恋村より下流の吾妻川沿いの市町村は大壊滅していたはず。このダムがあったからこそ、長野原・吾妻町・原町・中之条・東吾妻・渋川などの下流の市町村が無事だった。被害は嬬恋村だけですんだのです。もしダムが無くて、長野原以下の下流の市町村が被害をうけ、これらの交通インフラが壊滅していたら復旧工事は何十年もかかっていたはず。というのも下流地域には吾妻川に合流する河川が大量にあり、もしダムが無いまま合流していたら大惨事になっていたはずだからです。現に吾妻川は、江戸時代から昭和時代まで何度も大洪水がおきている。

 幸いなことに八ッ場ダムの建設のおかげで、新しい交通インフラが完成していており、しかも道路の大半がトンネルであり、山の中を通っているために、台風の被害を受けずにすんでいる。もし、古い交通インフラのままだったら、吾妻線も国道一四四号も何十キロにあたって削りとられていた可能性が高く、これを復旧させるのはほぼ不可能だったでしょう。大半がトンネルである新道路や線路があったからこそ、交通インフラが大丈夫だったことを建設反対運動グループたちや、専門家たちは、どう考えているのか?

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橋詰さんのFacebookから借用(2019/10/13)

 もちろんダム一つで洪水を防げるわけはなく、ダム頼みの水害防止には限界があるのも事実です。嫁さんの実家・館林市の渡良瀬遊水地は、台風十九号の雨で約一・六億立方メートルの洪水をためたといいます。下野新聞によれば最大貯留量の九十五パーセントに達していたと言います。

 立命館大学・高橋学教授によれば、荒川や江戸川にしろ、東京の下町は危険水位まで達していた。もし利根川上流からもう少し水が流れてきていたら、東京の下町をほとんど水没させた。デッドラインぎりぎりの所まで水が来ていたことで、八ッ場ダムの果たした役割は重要と八ッ場ダムを評価しています。そのうえで高橋教授は、以前であれば、八ッ場ダムはなくても大丈夫だった。関東平野に水田が広がっていて、水田そのものに十センチ水がたまれば、八ッ場ダムの水ぐらい簡単にクリアできる。ところが、水田やため池がどんどん無くなっていき住宅地がどんどんできていっていると言っています。つまり、昔は水田が巨大なダムに匹敵する効果を持っていた。それが宅地になってしまった。そのために危険は大きくなってきていると言う。

 国交省関東地方整備局によると、伊勢崎市八斗島での氾濫危険水位は四・八メートル。そこで最高水位の四・〇七メートルを記録している。一方、上流のダム群は計一億四千五百万立方メートルの水をためている。整備局が試算した結果、七ダムがなければ八斗島の水位は一メートル上昇して五・〇七メートルとなり、氾濫危険水位を超えていたという報告もあります。

 下流域では、荒川と隅田川を分ける岩淵水門が、増水した荒川から隅田川への水の浸入を防ぐために閉門。この岩淵水門では、避難判断水位を大幅に超え、氾濫危険水位まで約五十センチの所へと迫っていました。そして、江戸川区民四三万二千人を対象に避難勧告が出されました。

 明治四十三年に東京だけで約百五十万人が被災する大惨事になった東京大水害がおきてしまいます。明治政府が偉かったのは、その直後に荒川放水路(荒川)の開削事業に着手。二十年かけて昭和五年に完成させています。金八先生が土手を歩いていた荒川は、川では無くて洪水を防ぐための放水路だったのでした。

 それでも昭和二十二年のカスリーン台風で、荒川上流部で氾濫し、利根川が決壊して死者・行方不明者一九三〇人を出しています。江戸川区は、大半が海水面以下の地帯で、一番高い所でも標高一・六メートルという恐ろしい地域。つまり江戸川区をはじめとする下町は、簡単に壊滅してしまう可能性がある地域です。

 これを防ぐために行政は、三段構えの対策をとっている。まず、上流域はダム群(八ッ場ダムなど)で防ぐ。中流域は遊水池群(渡良瀬遊水池など)で水を吸収する。下流域は、放水路(荒川)で守るという役割分担による洪水調節の方針が確立している。今回の台風では、これらの役割分担によって、ギリギリ氾濫を防ぐことができた。東京の下町は守られた。と、専門家である土屋信行氏が述べていますが、大したものです。行政も意外にしっかり対策をしている。感心もしました。

 しかし、それらの視点は、あくまでも首都圏からの視点です。吾妻川沿いの住民である私から言わせてもらえれば、ダムの前後で無事だった市町村と、甚大な被害を受けてしまった嬬恋村との明暗があまりにもありすぎるという点を指摘する専門家たちが、少なすぎることが気になります。

 嬬恋村はとんでもないことになってしまってる。にもかかわらず、ダムの下流の市町村は安全そのものだった。これをもうちょっと学者やマスコミは言ってもいいのではないか? しかし、いつまでたっても、そういう話が出てこないという事は、案外、学者もマスコミも、きちんと現場検証をしてないのかなと、勘ぐりをしたくなります。

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 最後に軽井沢について。北アルプスの山小屋で軽井沢のペンションオナーたちと一緒になり、夕食をいただきました。で長野県の状況を伺ったわけですが、軽井沢は停電が何日も続いて大変だったそうです。停電になれば冷凍食品が壊滅するからです。しかし群馬側には大規模停電はおこらず、嬬恋村にも大した停電はなかったので、冷凍庫もボイラーも大丈夫だった。これも八ッ場ダムのおかげだったかもしれません。

 台風で北軽井沢ブルーベリーYGHに被害はなかったとしても、長期の停電が起きていたら、うちの宿は大変なことになっていました。4つの冷蔵庫冷凍庫が停電によって食材が壊滅していたら、泣くに泣けなかったと思います。そういう意味でも八ッ場ダムには感謝しかありません。長年、反対ばかり言ってて申し訳なかったと思っています。

 それはともかく、台風の次は、新型コロナウイルスですからね。今日、6歳の息子と「しりとり」をしながら登山をしていた時、息子が「し」のところで大声で「新型コロナウイルス」と叫んでいました。6歳の子供のしりとりゲームに「新型コロナウイルス」という単語がでるようになってしまったとは・・・・。


つづく。

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2020年03月12日

台風19号で被害をうけた嬬恋村 その1

 もう時効だとだと思うので、書き留めておきますが、実は皆さんに謝らなければならないことがあります。去年に大災害をもたらした台風十九号の件です。軽井沢ブルーベリーYGHのブログやFacebookなどでは、大した被害がないと書きましたが、実は嘘です。風評被害を防ぐために嘘を書きました。

 もちろんうちの宿には、台風の被害はありません。ブログで書いたように三年がかりで庭の土壌改良をしたからです。庭を五十センチほど掘り石と砂利を置いた結果、水はけが良くなり、豪雨にびくともしませんでした。県道からうちの宿に入る村道も大丈夫でした。ここも私が三年がかりで土壌改良したので宿そのものには全く被害はありません。なので、翌日、村内を見回るまでは「今回の台風は大したことなかったな」と思っていました。

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 しかし、それは私の勘違いで、嬬恋村は壊滅的なダメージを受けていました。大半の村道が洪水に押し流され亀裂が入って、車は通れなくなっていた。県道も土砂で埋まっていました。村道が川となって砂利がえぐられて、その土砂が県道に堆積したために、徐行しないと車が通れなくなっていました。側溝も大きく削られ、県道のアスファルトの下の部分が空洞になり、その上をトラックが通ったら陥没しかねない状態でした。さすがに国道一四六号・国道十八号は大丈夫だったのですが、道路は泥だらけ。他の国道の状態は、分からない状態でした。

 これでは、お客さんを入れることができないので、大急ぎで道路整備のボランティア。スコップと一輪車を担いで近所の道路を整備していると、近所の不動産屋・工務店・農家の人たちも各自がブルドーザーなどで整備している。とにかく道路を整備しないと流通がストップしてしまい日常生活に支障が出る。政府や自治体が動くのを待っていたらダメ。なのでブログなどでは「なんともない」と書きながら、毎日のように土方作業を続行。

 こうして次から次へと道路が整備されていきました。この辺は工務店やキャベツ農家が多いので、ブルやトラクターがいっぱいあります。普通の住人も重機・軽トラ・除雪機用ブルを持っている人も多い。私も除雪機用ブルを持っていますので、それが大活躍。こうしてアッという間に道路が整備されていったのですが、問題は落下した橋やアスファルトが剥がれて亀裂の入った道路。こればかりは自治体にやってもらわないとならない。また、村内の被害状況がわからない。どの道路が通れるか、どの道路が通れないかわからない。

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 そんな時に大活躍したのが嬬恋村観光協会。彼らが村内の道路状況を逐一調査してホームページで次々とアップしてくれました。実は嬬恋村観光協会には、都会から来た若者たちの実行部隊がいます。いずれは都会に去っていく彼らが、道路をくまなく調査して次々とインターネットで発表ました。これには大助かり。この情報で、お客さんを宿まで誘導できることが分かってきましたし、どこに人手が足りないかも分かってきた。

 嬬恋村における台風十九号における雨量は累計四百八十五ミリを記録。吾妻川は各所で氾濫し、川幅を広げ、護岸ブロックを破壊、崖を崩し、建物や車両を流失させていました。多くの急傾斜地で崩落と土砂流出が起こり、他地域への移動ができなくなっていました。北軽井沢ブルーベリーYGHにも別荘地から避難民が泊まりに来ました。別荘のトイレが使用不可能になっていたからです。あまりの豪雨で、浄化槽があふれ出してトイレが流れなくなっていた。そういう家屋敷が多かった。

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 幸いうちの浄化槽は大型だったのと、営業開始以来、二十年にわたって四回にわたる排水のための改良を行ない、排水パイプを四倍に増やしており、そのうえに何度か水酸化ナトリウムの溶解能力を利用して配管清掃を行なっていたのでいたために十九号の台風の豪雨でも持ちこたえていました。

 不思議な事に停電は、ほとんどなかった。軽井沢や長野県は、酷い停電で冷凍庫の食材が全滅したというのに嬬恋村を含む群馬県では、大した停電がおきなかった。後で分かったことですが、八ッ場ダムのおかげで、下流地域が安全だったために停電被害が最小限だったと聞きました。

 結果として群馬県は、嬬恋村を除いて台風の被害は、ほとんど無かったのに、軽井沢を含む長野県の被害は酷かった。私は、台風直後に六歳の息子を含む家族で北アルプスの奥穂高に登っているのですが、その時に高速道路からみた長野県の平野部分の大半は水没していました。(嬬恋村以外の)群馬県の被害が大きくなかったので、余計に長野県の悲惨な状況に対してショックを受けました。



つづく。

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2019年09月10日

息子の運動会で目が点になった話 その2 浅間団という謎の組織

息子(6歳)の運動会で目が点になった話し その2

 私の出身地は、新潟県は佐渡島です。その後東京に上京して、東京池袋20年間住んでいました。群馬県民になったのは今から20年前にユースホステルをオープンしてからです。なので、もともと私は群馬県民ではありません。

 実は嬬恋村には、そういう移住組が多いのですが、移住組にとって、嬬恋村に定住しても、あまり違和感のないことが多かったです。つまり田舎特有の排他性が嬬恋村のそれも北軽井沢にはありません。田舎っぽくないんです。何しろまわり近所は、ほとんどよそ者ですから、東京にいた頃とあまり変わり無かった。息子が生まれるまでは・・・・。

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 ところが、息子が生まれてからは、激変化しました。地域の洗礼をたっぷりと浴びることになりました。幼稚園時代には、子供会ならぬ「園児会」というものに入ることになり、獅子舞とか、上毛かるた大会とかに参加するようになったのです。

 これがもう少し前なら、そういうものに移住組。つまりよそ者は、入る事はできませんでした。ところが、少子化によって子供たちが激減した結果、移住組の幼稚園児たちも入れてもらえるようになったのです。

 ただし、小学校に入ると違ってきます。子供会はあるんでしょうけれど、移住組に声がかかることありません。なので、私たちよそ者は、地域の行事に参加することは無くなります。以前、現浅間高原観光協会の会長は、それは寂しいということで、入れてくれるように頼んだらしいのですが、断られたということを私たちは聞いていたので、これから寂しくなるなと思っていたら、そうでもなかった。小学校の中で、謎の組織が存在していたからです。

 その謎の組織の名前は『浅間団』という名前です。

 息子はいつの間にか浅間団と言う謎の組織に入っていて、上級生のお兄さんお姉さん達と一緒に道路清掃のボランティアなどの作業をやっていました。この謎の組織は、いわゆる子供会ではありません。地域とは全く関係なく、小学校が独自に作っている組織らしい。

 息子に話を聞いてみると、この謎の組織は、他にも3つあるらしく、
『榛名団』
『白根団』
『赤城団』

と言う組織があるらしい。

 子供が小学校に入学すると、この4つの謎の組織に分かれて、上級生と一緒に日常的にボランティア活動をするらしい。

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 その結果、息子は浅間団の上級生達と、非常に仲が良くなった。野菜の直売所に行けば、そこには同じ浅間団に所属する上級生がいて、仲良く遊んでくれる。スクールバスの中で、息子の奴が忘れ物をすると、浅間団に所属する上級生たちが忘れ物を届けてくれたりする。春の遠足なんかでも、上級生がいろいろ面倒見てくれるわけですから、息子は同級生も浅間団の上級生のほうになついてしまっている。

 同級生の中には、いじめっ子や、暴力的で意地悪をする人たちがいたりするので、入学したての頃、息子の奴は、あまり同級生と遊びませんでした。しかし浅間団の上級生たちは、下級生をとても可愛がりますので、息子の奴はすっかりなついてしまった。同級生のいじめっ子の暴力に対して守ってくれたりするので、息子にとっては、先生や親に匹敵する信頼できるお兄さんお姉さんだった。

 この謎の組織『浅間団』とは何であるのか?

 担任の先生が家庭訪問に来た時に聞いてみたら、どうやら運動会のチームらしい。群馬県では、運動会の時に赤組白組で戦うのではなく、浅間団・榛名団・白根団・赤城団と言う4つの組織に分かれて戦うらしいのです。しかもただ戦うのではなく、日ごろから4つの団に分かれて、ボランティア活動や遠足の班分けなど、それぞれ団別に分かれて活動する。そして上級生が下級生の面倒見るわけです。これを一年通して行うわけですから、団ごとの団結心は非常に強い。

 面白いのは、この謎の組織は、地域別に分かれているわけではないということです。
 浅間山の近くだから浅間団と言うわけでは無い。
 運動能力(それもかけっこのタイム)によって振り分けられているらしい。
 (それも毎年、メンバーをリセットする)
 したがって、兄弟で別々の団に入っているケースが多い。
 というか、わざと別々の団に入れられている様な気がする。

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 うちの近所には、息子と同じ浅間団のお姉さんがいて、そのお姉さんの弟に息子の同級生がいました。近所でありながら幼稚園時代は一緒に遊ぶ事はなく、嫌っていたのですが、同じ浅間団のお姉さんのおかげで、その弟さんと非常に仲良くなって、今では大の仲良しです。

 もちろん、その同級生は、運動会では敵同志です。八十メートル走では、ライバルとして一緒に走り、その子は二位。息子は3位で負けています。けれどその子のお姉さんとは同じ浅間団で、一緒のメンバーで、いろいろとお世話になっています。

 この浅間団・榛名団・白根団・赤城団と言うのは非常にいいですね。聞くところによると、群馬県では、どの小学校でも浅間団・榛名団・白根団・赤城団と分かれて活動しているようです。そして、運動会で浅間団・榛名団・白根団・赤城団で戦うわけです。もちろん応援合戦もします。この応援合戦がまたいいのです。

 もちろん私が佐渡島の小学校にいた頃も、赤組と白組に分かれて、応援合戦をしましたが、
「白組勝つぞ!」
「赤組頑張れ!」
といった自分のチームを応援する応援合戦でした。まあ当たり前ですよね。ところが、嬬恋村の小学校の応援合戦はちょっと違っていて、浅間団なら、榛名団・白根団・赤城団にエールを送る。榛名団なら浅間団・白根団・赤城団にエールを送ります。その時の様子を、ここに動画をアップできないのが残念です。もし、動画が見られたら、全国の皆さんが感動すると思います。

 そのせいか、嬬恋村の東部小学校の上級生たちは、実に下級生を可愛がります。運動会では、上級生たちは学校の先生の仕事を手伝っていて、かけっこでゴールした下級生の子供たちに、敵味方関係なく、上級生たちは頭をなでなでしたりしていました。こういうところが、すごい。ある意味、素晴らしい教育成果を出していると思います。これも「団」と言う謎の組織のおかげなのか?

 ここで思いだすのが、私の子供の頃です。私が佐渡島の小学校一年生になった時の運動会の話です。赤組白組に分かれて、 一年生と二年生で、リレー競技に私は出場しました。けれど走ってる途中に倒れて血まみれになった。それでも頑張って最後まで走りきりました。すると、上級生の何人かがやってきて、「お前のせいで負けたんだぞ」と、大勢の上級生に詰められました。その罵倒を血まみれになりながら歯を食いしばって聞いたことを思いだしました。もちろん普段から知っている上級生で、保育所時代から一緒に遊んでいた人たちですが、そういう人たちに罵倒されるだけ罵倒された。

 赤組白組といっても、所詮、運動会の一日限りの組み分けです。そもそも私自身が、上級生は下級生の面倒見なさいと言う教育的指導を受けたことがない。これは全国どの小学校でも、にたようなものでは無いでしょうか? 私と同じような体験をしたことがある人も全国に大勢いるはずです。しかし、嬬恋村の小学校では、そういう雰囲気とは違っています。これも団という謎の組織のおかげなのでしょうか?

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 上級生たちは、下級生を思いやり、その上先生の手伝いをして、運動会の運営を行い、その上さらに、マーチングバンドをやってる。マーチングバンドについては、前回詳しく触れたので、これ以上は書きませんが、彼らの頑張りは、かなりのものです。けれど、これが、すごいことだと思っているのは、どうやら私と私の嫁さんだけのようで、嬬恋村村民(群馬県民?)たちには、これが全国標準だと思っているようなので、それに対してもちょっと驚いています。

 なので、嬬恋村村民(群馬県民?)たちのために、ここに書いておきます。
 この伝統を絶やしてはいけないと!

 嬬恋村村民(群馬県民?)は、そのスタイルを貫けと!



つづく。

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2019年09月09日

息子の運動会で目が点になった話し その1

 土曜日に息子の運動会がありました。なので、金曜日には休館させてもらいました。せっかくの問い合わせにもかかわらず、お断りすることになったお客様には相変ご迷惑をかけました。息子の通う嬬恋村東部小学校の運動会は、朝の8時半から始まりますので、どうしてもお客様をお止めすることが出来なかったのです。また、おもちゃ王国のチケットをお買いになるお客様で、事前にご連絡をいただけなかったお客様にもご迷惑をかけました。おもちゃ王国のチケットを事前に買いになられるお客様は、必ずご連絡の上、来ていただければと思います。ご連絡さえいただければ、手渡す手段はいくらでもございます。

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 それはともかく、いつから運動会は、すべての家族が、テントを組み立てるようになったんですかね。場所取りは朝の6時からと聞いていたので、念のために朝の5時半に小学校に行ってみたら、ものすごい人数が並んでいて、駐車場に車が止められないくらいでした。皆さん、巨大なリヤカーみたいなものにテント道具を乗せて、朝早くから行列を作っていました。当然のことながら私は最後尾です。幼稚園のときには、夜12時から場所取りで並んでいたお父さんがいましたが、この分だと小学校も似たようなものかもしれません。

 たかが息子の運動会に、テントなんて大袈裟だと思った私たちは、当然のことながらそんなもの持っていません。レジャーシート1枚だけです。それを見た、他のお父さんがたが、
「テントがないときついですよ」
と何人も注意してくれました。そんなわけないだろう。と、私は本気にしなかった訳ですが、それは大きな間違いだったようです。幼稚園の頃だってテントなしでやってきたわけですし、何の不都合もなかったので、テントやバーベキューセットみたいな大げさなものはいらないだろうと思っていたんです。しかし、それが大きな誤算でした。

 幼稚園の運動会は9月末でした。涼しい時期なんです。それに対して小学校の運動会は9月の初旬です。残暑が厳しいですね。小学校のある場所は標高600メートルなので、北軽井沢よりも暑いんです。その上、谷間にあるために風がない。もちろんテントのない家庭はうちだけです。どの家もタープテントにキャンピング用のテーブルと椅子を用意し、巨大なクーラーボックスを抱えています。それに対して、我が家は、レジャーシートに小さなトラ箱1個。非常に貧相なんですね。

 幼稚園時代は、そういう家族に対して、教室を開放してくれていました。なので、ギラギラと照りつける太陽の下でお弁当食べる事はなかったんです。しかし、小学校では、教室の解放がないので、炎天下の下で弁当食べることになるし、雨が降ったら車の中に避難しなければいけなくなる。そういうことが全くわからなかったので、テントなんか必要ないだろうと思ってしまった。なので、ここにしっかりと書いておきます。

 嬬恋村東部小学校の運動会には、テントが絶対に必要です。

 他の小学校も、同じかもしれないので、来年小学校1年生になるお子さんをお持ちの方は、その辺を注意した方が良いかもしれません。大袈裟でなくテントが必要なんです。

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 前置きはこのくらいにして本題です。息子の通う小学校は、何か変だと思えることが、ありました。まず夏休みが、非常に短いこと。短い上に、小学校の5年生と6年生は、夏休みの大半を返上して、登校して鼓笛隊の練習をしなければならないということ。もちろんそのためにスクールバスも動き、プールに遊びに通えること。そのおかげで、夏休み期間中、息子は毎日学校のプールに入りに、遊びに行きましたから、こちらとしては大助かりだったのですが、

「どうして5年生と6年生は、夏休みを返上して学校に行かなければならないのか?」

という疑問が、どうしても消えませんでした。

 そしてもう一つ。運動会のことです。
  9月の第1週土曜日に運動会がある。
 いくらなんでも早すぎましないか?と言う疑問です。

 そして、土曜日に運動会を迎えたのですが、その理由がようやくわかりました。小学校の5年生と6年生の演目に、マーチングバンドがあったからです。鼓笛隊だとばっかり思っていたら、マーチングバンドだった。

 マーチングバンドというものがどういうものか分からない人のために、 YouTubeの動画をアップしておきます。本当は嬬恋村の小学校の動画をアップすればいいんでしょうが、肖像権の関係で小学校から禁止されているので、参考のために某高校吹奏楽部の画像をアップしておきます。





 鼓笛隊だと思っていましたが違いました。
 マーチングバンドでした。

 マーチングバンドですから、全員が、金管楽器と打楽器で演奏しながらパレードを行います

 問題は、これがクラブ活動の延長ではないと言うことです。
 5年生と6年生全員が参加してのマーチングバンドです。
 メンバーには障害児もいます。

 特別に音楽教育をうけているわけではない、ごく一般の児童が、肺活量を必要し、ミスが目立ちやすいトランペットなんかを演奏しながら、リコーダーの鼓笛隊でも難しいと思われるパレードを行っている。

 私は真正面からビデオ撮影をしていたんですが、一糸乱れぬ素晴らしいパレードに、ただただ目が点になり、口があんぐりと開きっぱなしでした。

 金管楽器をやった人なら分かると思いますが、トランペットにしても、トロンボーンにしても、ホルン・コルネットにしても素人には音は出せません。 吹けば誰にでも音が出せるリコーダーとは違います。それをクラブ活動やってるわけでもなく、小さい頃から音楽の英才教育を受けてるわけでもなく、単なるド素人の小学5年生6年生に演奏させることもすごいと思いますが、マーチングパレードをさせるわけですから、驚いたのなんの

 専門家に聞いてみたい。
 夏休み返上ぐらいで、ハイレベルなマーチングパレードができるものですか?
 金管楽器を使いこなせるものなんですか?

 もっとも1番驚いたのは、吹奏楽をやっていた、うちの嫁さんかもしれません。もちろんマーチングバンドのある小学校は全国にたくさんあり、全国大会もあるわけですが、それは、あくまでもクラブ活動の一環です。好きで音楽をやってる人たちのグループなわけで、授業でやっている訳では無い。嬬恋村では障害児も含めクラス全員でやってるわけですから、その上であのレベルのマーチングパレードを行うわけですから、これは大変なことです。

 というか、大変なことをやってる自覚が、嬬恋村の子供達にあるのだろうか? 子供達の親に、これが凄いことであることが分かっているのだろうか? どうも分かってなさそうな雰囲気に私は衝撃を受けてしまっています。

「そもそも人数分の楽器(トランペットなど)をどうやって揃えたんだろう? あれだけの楽器を揃えるためには、一体幾らしたんだ? 」

という点も、疑問だったんですが、その疑問も地元民が、明確に答えてくれました。

 この小学校は、もともと中学校だったらしい。少子化のために2つあった中学校が合併して、 1つになって、余った中学校の1つが小学校になったと。楽器はその時のものと、小学校が合併して余った楽器が集中したのではないか?と言う事を教えてくれました。つまり少子化によって、学校の機材に、様々な余剰品が生まれている。楽器もそうなのではないか?ということを聞きました。

 なるほど、そういうことだったのか。

 少子化時代というのは、子供達に、こういう恩恵をもたらすものかと感心しました。第二次ベビーブームだった嫁さんの時代は、その逆で、吹奏楽部に入っても楽器が足りなくて、自分で買ったり、 OBから寄付してもらったり大変だったということを聞いたことがあります。値段も決して安いものではありません。

 まぁ楽器の謎は解けたとしても、非常に肺活量を必要とするトランペットやトロンボーンをどうやって短期間で覚えたのかが謎です。マーチングパレードつまり動きながらの演奏ができるようになったのか?不思議でなりません。しかも3曲も演奏するわけですから驚きです。しかし、嬬恋村の地元民には、これがどれほど凄い事なのか?よくわかってないような気がします。

 とにかく、この村には、驚かされることが多い。
 長くなったので、続きは後で・・・・。



つづく。

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posted by マネージャー at 10:13| Comment(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月06日

息子が小学校に入学してから2ヶ月 その3 宿題と習い事

 「小学校に入ったら宿題が、大量に出る」と聞かされていたのだが、そんなことはなかった。まあ、出ることは出るのだが、5分もかからないで終わる程度の宿題しかでない。学校で勉強したプリントを書き直すていどである。つまり息子が書いた『ひらがな』の文字が、下手くそすぎるので、それを書き直すのが宿題である。

 担任の先生曰く、
「このクラスは、入学したときに、みんな文字を知っていたので感心しました」
とのこと。つまり学校での勉強は、文字を習うと言うより、美しい文字を書くことに重点を置いている。

 話は変わるが、嬬恋村といえば、群馬県のチベットと言われるくらいの僻地である。若い新任の先生が、ここに派遣されると僻地すぎて教師をやめるために、昔はペンションオーナーがアルバイトで教師をやっていたくらいの僻地である。この群馬のチベットで、どういうわけか子供の教育が加熱していた。

 それを知ったのは、息子が年中組(4歳)の頃である。息子が持っていた紙飛行機が、落ちていたので何気なく開いてみたら3桁の足し算のプリント(公文・学研など)だった。名前も書いてあって、息子の同級生のものだったので驚愕した。年中組(4歳)で、自分の名前が書けたのも凄いけれど、3桁の足し算・引き算を筆算で行なっていたのに驚愕した。

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 3桁の足し算・引き算は、小学校二年生で学ぶレベルである。それを4歳で学んでいるのだ。しかも、そういう子供は、例外的な一人ではなかった。もっといた。子供園の祖父母会に出席したら、数人の幼児たちが二桁の計算の問題を出し合い、それを暗算で答えている光景をみてしまった。さらに上毛カルタ大会では、全ての幼児たちが大人より速くカルタをとる猛者ばかりだった。

 どん引きした。
 こんな群馬のチベットで何がおきているのかと・・・・。
 小学校に入学する頃になると「今、割り算をやってる」という子供さえ出てきた。
 しかも複数でてきた。
 
 それに対して、我が家では、せっせと息子をつれて、小浅間山などの山に登っている。愛犬コロも一緒である。習い事も空手だけである。あえて空手をやらせているのは、息子のクラスが先生も驚くような暴力的なクラスなためである。それ以外の塾など一切行ってない。ひたすら自然の中で、自然を体験させている。しかし、この群馬のチベットでは、そういう方向ではなく、塾やスポーツ教室の掛け持ちをしているお子さんが多いようだ。

 私は、ひたすら、どん引きした。

 理由は、スクールバスにあるようだ。少子化のために多くの小学校が合併して、遠くからスクールバスで通うようになってしまった。そのために学校が終わると一緒に遊ぶ機会が無い。つまり大人のいないところでの集団学習をする機会が無い。で、人格に欠陥が出やすくなっている可能性がある。

 なにしろ近所に友人がいない。子供同士で遊べる場所もいない。そもそも公園が無い。児童館も広大な嬬恋村に1ヶ所しか無い。けれど習いごとに行けば、友人たちがそこにいる。逆に言うと習い事に行かないと、放課後に友達に会えないという事情になる。それが子供たちの身体能力を鍛え、学力を上げる結果になる。

 逆に言うと、大人のいないところでの集団学習をする機会が少ないために、キレやすい子供たちが、この村に多いのかもしれない。息子のクラスが、担任の先生も驚くような暴力的なクラスなのは、そういう背景が影響しているのかもしれない。

 もちろん、それを危惧した教育委員会は、放課後に子供たちを対象とした「ふれあい教室」を週一回ひらいている。いろんな講師が現れて遊びを教えているが、脳科学的にいうと効果はうすいと言われている。大人のいないところでの集団学習ができてないからだ。で、キレやすいが、勉強やスポーツに秀でる子供が、嬬恋村で量産される結果になるのかもしれない。それは、ある意味、すごいことなのだが、それが長い人生に、どう影響していくのか、そこが問題である。

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 そういう意味では、宿屋の我が家は、すこし異質な世界なのかもしれない。多くの子供さんが泊まりに来て、息子と遊んでくれるからだ。つまり大人のいないところでの集団学習を頻繁に行なうことが比較的多いからだ。その代わりに児童館や塾に行かせることは難しい。習い事もさせられない。せいぜい空手を学ばせたり、親子で登山するくらいしかできない。それが、息子の人生に、どのような影響を与えるか?



つづく。

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posted by マネージャー at 06:07| Comment(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする