2019年06月05日

息子が小学校に入学してから2ヶ月 その2 遠足の話

 息子が小学校に入学してから2ヶ月となった。その間に家庭訪問や、遠足などがあり、楽しそうに学校生活を送っている。

 今回は遠足の話。

 子供園のときも遠足はあったのだが、親が同伴だった。親が一緒ということは、親の財布も一緒についてくるのと一緒で、おやつも、昼食も、お土産も、親の管理下のもと、自由になるのである。しかし小学校の遠足は違う。親はいないのだ。

 で、息子の奴は、遠足計画書を作って私に見せた。そこには、おやつの種類や、弁当のおかずなどのメニュー表が細かく書かれてあり、このとおりのメニューを用意してくれと言ってきた。それをみた私は大爆笑してしまった。なんと細かいことか。

 息子の奴は、こういうところがある。毎日、母親に手紙を書いたり、日記を書いたりする。SFまがいのものを書いたりもするが、今回は遠足計画書ときているから、腹がよじれるほど笑ってしまった。

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 話は大きく変わるが、小学校に入学すると同時に、息子の奴に財布と貯金箱を買って与えた。そして、手伝いなどの労働・勉強などに対して10円ずつ支払うようにした。そして、店に連れて行き、自分の小遣いで買い物をさせたりした。ファイナンシャル教育のためである。

 息子の奴は、金が貯まるたびに、私と一緒に買い物に行き、安い駄菓子を2つ買って、一つは自分のものにし、一つは私に分けてくれた。まさか6歳の息子に駄菓子を奢られるとは思ってなかったので、さすがの私も涙を堪えるくらいに感激し、有難く頂戴した。

 しかし、あまり感動してばかりいられない。息子の性格からしたら誰にでも奢ってしまいそうだからだ。まだ、お金の価値・恐ろしさを充分に理解してないからだ。なので、

「お金は自分のために使いなさい」
「お金を貯めたら、もっと好きなものが買えるよ」
「お金が貯まっていくと、楽しいよ。お金持ちになれるかもよ」

とアドバイスしたら、アッとい間に守銭奴ぽくなってしまった。しかし、それはそれでいい。10円ほしさに手伝いでも運動でも勉強でも何でもするからである。以前は、おやつで釣って登山させていたが、これだと太ってしまう。10円ですむなら、そっちの方がいい。コストも下げられる。

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 話を戻す。
 遠足の話である。

 息子は、遠足計画書を作って、弁当のメニューや、おやつを細かく指定してきた。私は大爆笑したのだが、息子は、どうして爆笑したのか不思議そうだったので、それを分からせるために、スーパーに連れて行き、遠足に持って行く、おやつを3つ選んできなさいと言った。

 息子は、難しそうな顔をしながら30分もかけて、やっと3つ選んだ。
 よくみたら、どれも安い駄菓子ばかりだった。
 そしてレジに並んだら息子の顔が真っ青になっていた。

「お父さん、財布を忘れちゃった」

 どうやら息子は、遠足のおやつを自分の小遣いで買うつもりだったらしい。どうりで、安い駄菓子しか選んでないはずである。

「大丈夫、今回はお父さんが支払うからね」

 そして、家に帰ると息子の奴は、『遠足おやつ計画書』を作っていた。

「遠足おやつ計画書? どうして、そんなもの作るんだい?」
「だって、おやつは3つしかないから、いつ食べるか計画をたてておかないと、最初に全部食べてしまったら、あとが大変でしょ?」

 また爆笑してしまった。

「そんな心配しなくていいんだよ」
「どうして?」
「おやつは、3つだけじゃないんだ」
「どうして?」
「明日、リュックをあけてごらん。おやつが増えているから。お弁当もね」
「?」
「遠足は、タケちゃんの計画書だけじゃないんだ。お父さんの『遠足計画書』も追加されるんだよ。世の中、自分の計画どうりにいかないのさ」
「・・・」
「ま、明日のお楽しみということで・・・」

 こうして私は、息子の計画を破壊してしまった。
 私は息子のおやつを、密かに買っていて、それをリュックに入れて置いたのである。
 おやつは、3倍の10個に増えていた。
 もちろん弁当のメニューも息子の指定より豪華になっている。
 旅の楽しみは、こういうハプニングにある。
 計画どうりの旅なんてつまらないのだ。

つづく。

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2019年06月04日

息子が小学校に入学してから2ヶ月 その1

 息子が小学校に入学してから2ヶ月となった。その間に家庭訪問や、遠足などがあり、楽しそうに学校生活を送っている。担任の先生の感想を聞くと、予想通りというか、やっぱりというか、男の子たちは、超暴力的とのこと。これは子供園の頃と全く変わってない。子供園の担任の先生も
「こんな暴力的なクラスは珍しい」
と言っていたが、小学校に入学しても全く変わってなかったようだ。

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 それだけに息子の担任の先生は、最も最適任だった気がする。すごくテキパキとした先生で、細かいことに実に気がつく。何人も子育てを終えたうえに観光関係の環境の中で育ったせいか、処理能力が高い先生で、連絡帳に細かく報告してくれ、よく電話をくれる。息子の特徴もよく捉えていて、その短所・長所もよくわかっている。

 子供園の時も担任の先生には恵まれていたと思うが、今回の担任の先生は、それ以上、神レベルの仕事をしていると思う。毎年一年生を受け持っているらしいのだが、適材適所というところだろう。

 うちの息子は成長が遅い。これは、何年も前から分かっていた。はっきり分かっていた。最初はIQが低いのか?と思って検査してみたら、非常に知能指数が高いことがわかった。しかし、やはり成長が遅い。IQが高くても成長が遅い。それは誰が見ても一目瞭然。

 具体的に言うと永久歯が生えてこない。最近になってやっと歯が1本抜けただけ。動作も遅く言葉もゆっくりしている。忘れ物も多く、短期記憶に問題があるのでは?と思うところがあるのだが、知能検査の結果ではワーキングメモリの知能が120以上もあるので、そうでは無さそうである。

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 会話もファンタジックで、空想的な発想が多いのだが、論理的思考の知能は、最高レベルに高いので、どうして息子がファンタジックな会話をするのかさっぱり分からない。ファンタジック(空想的)と言えば、聞こえはいいけれけど、別の言葉で言うと虚実つまり『嘘』を言うのと同じなので、非常に危うい感じがする。論理的思考能力が高いのに、どうしてファンタジック(空想的)な会話をするのか? どうして熊のぬいぐるみと会話したり御飯を食べさせたりするのか? このへんがさっぱり分からない。

 話がそれた。

「こんな暴力的なクラスは珍しい」

という担任の先生の話である。クラスの男子の大半がキレやすく、すぐに乱闘するという話である。非暴力なのは、うちの息子を含め四人くらいしかいない。宿屋をやっている関係上、特に息子に対して絶対に暴力を許さなかったので、息子は非暴力に徹している。そのために子供園で、息子は女の子と遊ぶことが多かった。仲の良い女の子も多かった。

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 ところが小学校に入って少し変わってきた。男の子とも遊ぶようになってきた。子供園時代には絶対に一緒に遊ばなかった男の子たちとも遊ぶようになってきた。非暴力に徹している息子に少しスポットがあたってきたようだ。友人の家に遊びに行って、虫や魚をもらってきたり、一緒に宿題をやったりしている。

 非暴力が幸いしてか、みんなに可愛がってもらっているようでもある。息子が忘れ物したとき、先生から直に電話がかかってきた。こういう時の先生の行動は速い。私が、忘れ物を届けに行くとクラス中の人たちが
「タケル君、よかったね」
と口々に叫んでいた。みんな心配してくれていたようだった。息子は、みんなから弟のような存在で見守られているのかもしれない。



つづく。

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2019年04月23日

昭和40年代、とある小学校の話7 小学校の入学式の服装の違い(1969年佐渡島と2019年嬬恋村)

 今年、息子の小学校の入学式に出てみて、私の頃と違うなあと思ったことは、男の子の大半がネクタイつきのスーツだったことです。私の頃(1969年)は、七割が学生服でした。残りの三割がスーツでした。女の子は、今と変わりなかったと思いますが、それでも一割くらいはセーラー服だったと思います。

 で、学生服・セーラー服の新入生の大半が、兄姉のいる家庭で、お下がりだったようです。つまり、私より世代が上になると、みんな学生服・セーラー服で入学式をしていたということになります。

 その世代になると、就職試験も大学入学式も学生服だったと思います。さすがに私の世代では、そういうことはありません。逆に言うと、当時は卒業式に女の子にボタンをプレゼントする習慣がありません。学生服は大学の入学式にも就職試験にも使うからです。

 私は、1961年生まれですが、この前後の生まれの場合、年度によってガラッと生活スタイルが代わってきます。1961年生まれだと、小学校の入学式では学生服が大半ですが、私の弟、つまり1964年生まれだと、小学校の入学式で学生服を着用する人は皆無になっています。

 その逆に1955年生まれの小学校の入学式では、ほぼ全員が学生服&セーラー服だった思います。もちろん佐渡島での話です。で、その頃は卒業式も学生服でしたし、小学校時代も六年間学生服を着つづける人もいました。ついでにいうと、私より3年くらい年齢が上になると、中学校に入ると全員が坊主頭でした。それが廃止になって三年後に私が中学校に入学してます。

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 当然のことながら校則も細かく厳しかったのですが、死文化されておりほとんど守られてない状況でした。特に厳しかった所は、服装の項目でしたが、これには訳があります。江戸時代の日本では、年齢によって着るべきスタイルが厳密に決まっていたために、その名残が明治・大正期までのこっていて、その影響で服装のことが厳密になっていたそうです。これは、当時の校長先生に教わっています。

 もちろん規則破りは、江戸時代も、明治・大正期も大量にいて、その破天荒さは、昭和時代の不良など、かわいいものだそうです。むしろ年々行儀が良くなってきていると、昭和50年頃の校長先生に聞いています。で、私の感想を言えば、平成時代の子供たちは、昭和時代より、もっと行儀がいいので、江戸期・明治大正の不良たちのスケールの大きさに唖然としますね。

つづく。

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2019年04月22日

昭和40年代、とある小学校の話6 二年間に担任の先生が5回代わった話

 私は昔、体が弱くて病気がちでした。保育園児の頃には、病院に長期入院してましたし、遠足前日に熱をだしてよく休みました。すぐに風邪をひいたし、熱で難聴になったりもしました。小学校に入学直後には、肺炎になり1ヶ月も学校を休みました。そして1ヶ月後に登校すると、こんどは担任の先生が肺炎で入院したとのこと。結局、その先生は肺癌でお亡くなりになるのですが、当時は肺炎と聞かされており、すぐに復帰するものだと私たちも教育委員会も思っていました。

 で、非常勤(正教員ではない)の先生が、臨時に雇われ担任の先生となりました。そして、代理の先生が臨時に就任するわけですが、二年間に四人も担任の先生が変わりました。つまり、私が小学校入学後の二年間に五人も担任の先生が代わったことになります。平均して、一学期ごとに担任の先生が代わったわけですが、それは肺病で入院された先生が、すぐにでも復帰される可能性があったからだと思います。

 現に、その先生とは、町で何度も出会っています。というのも私の自宅が総合病院のそばにあり、総合病院は、子供たちの遊び場だったからです。そのうえ、その先生の御実家は、病院から徒歩十五分くらいの同じ町内にありました。

 まあ、そんなことは良いとして、二年間に5回も担任の先生が変わるという体験をすると、クラスが全く別物になることに気づきます。ある先生の時は乱暴な状態になるし、ある先生の時は静かなクラスになる。担任が替わるだけでクラスが全く違ってくる。

 ある先生は、「人間に成績をつけるが嫌いなのでテストに点数をつけません」と言って○×だけの答案用紙を返したりしました。当然のことながら通知表にもそれが現れますので、教育熱心な家庭の子供たちは自分の通知表に青ざめます。成績の良い子ほど両親に怒られていたと思います。みんな同じような平均値の成績をつけられていましたから。
 こういうことをしたら今なら大問題になるところでしょうが、昔は、こういう個性派教師がいても何の問題もなかった。ただし、この先生は、点数はつけなかったけれど、成績が良くなった子供に対しては、一人一人呼び出して、すごく褒めていました。点数はつけなかったけれど、褒め上手でした。そして親にもわざわざ言っていた。ただし、それが点数になってないので親の方は「?」と首をかしげていたと思います。

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 別の先生は、運動バカと言ってもいいくらいのスポーツウーマンで、体操ばかりやらせていました。この先生も変わり者で、生徒が「・・・をしたい」と言うと、本当にさせてしまう恐ろしい先生でした。例えば、「学芸会の出し物で何をやりたいですか?」と聞いてきたときに、よせばいいのにクラスの女の子が「バレエ」をやりたいと言う。バレーボールではなく、バレリーナのバレエです。当時、少女漫画でバレエがはやっていた。そんなもの佐渡島の田舎の小学校二年生ができるわけがない。しかし、その先生は
「じゃあ、やろう」
と言ったから大変です。授業をつぶしてバレエの特訓です。基礎も出来てない小学校二年生ができるわけがないのに、勉強そっちのけでバレエの特訓。そして、アホらしいことに何とか「くるみ割り人形」のバレエを上演してしまうのです。

 というわけで、教師が替わるとガラリと教室の雰囲気が変わることを体験したことは、非常に貴重な体験でした。そのうえ、どういうわけか校長先生は、全校集会で毎週、2ヶ月で入院してしまった元担任の先生の病状報告を詳しく教えてくれました。

 ひょっとしたら元担任の先生は、元ではなくて、正式な担任の先生であって、現在の担任の先生は、仮の担任なのかな?と思わせるような口ぶりでした。この報告が無かったら、2ヶ月しか習ってない私たちは、とっくに忘れてしまっているのに、何度もしつこく報告するので、記憶が消えることは全くなかった。

 で、代わりに担任になった先生は、やはり仮だったのか、突然に辞めていきます。そして新しい担任の先生が就任する。そして忘れた頃にジャングルジムか何かが、辞めた担任の先生から寄贈されている。ジャングルジムは、当時も現在も決して安いものでは無いです。車が買えるくらいの値段です。それを寄付した安月給の元担任の先生は、隣町の小学校で正式な先生になったという。

 で、手紙が送られてきて、「みんなと出会って本当によかった。これから隣町で正式な先生になって頑張ります・・・・」みたいなことが書いてある。今から思えば、私たちが踏み台になっていたような気もしますが、その先生は、別れ際に涙を流しながら去って行ったわけですし、私も別れ際でギュッと抱きしめられたので、本当に去りがたかったのかなあと思います。

 そう言えば、当時の女教師たちは、学校を去るときに良く泣きました。全校集会の別れのあいさつで、感極まって必ず泣いたものです。それも低学年の先生が。しかし、子供というのは残酷なもので、それを何人かがクスクス笑うのです。決してドラマのように感動的な別れになったためしがない。

つづく。

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2019年04月21日

昭和40年代、とある小学校の話5 小学校一年生、担任の先生が入院してしまった

昭和40年代、とある小学校の話5 小学校一年生、担任の先生が入院してしまった

 今から五十年前、私が小学生一年生(1969年)になると、すばらしい担任の先生に出会いました。その先生は、小学校の先生というより保育士でした。とにかく真面目で熱心で、子供一人一人に丁寧に接していて、そのうえ、いつも子供たちを笑わせていました。授業も遊びの延長で、校庭を散歩しながら教科書を読んだりして毎日がとても楽しかった。もし、完全無欠な先生がいたとしたら、この先生でしたが、それだけに他の先生には、理解できない部分が大きかった。

 例えば、誰かが癇癪をおこして暴力を振るったとしたらクラス全員が
「赤ちゃん、赤ちゃんベロベロバー!」
と一斉に大声で囃し立てるのです。先生が、そういう風に仕向けたわけです。そのために授業中に私語は無く、イジメも無ければ暴力も無い。とにかく悪いことが出来ないのです。今思えば、賛否両論なんでしょうが、このおかげで善悪がはっきりし、クラス中が仲良くなって、楽しい毎日が続きました。

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 とにかく何から何まで破天荒なことをやる先生でした。教科書も順番どうりにやらないし、脱線は多いし、漢字なんかも、いきなり難しいことを教えるし、例えば「目」という字を教えるときなどは、黒板に
「すず目」
と書いて、
「目玉が空を飛んで餌を食べるかな?」
と子供たちを笑わせたりします。その他にも「目し(メシ)」とか「目んこ(メンコ)」とか「と目る(止める)」とか、いろいろ笑い話をする。目という漢字を教える前に、こういう笑い話をさんざんしたうえで漢字の「目」の意味を教えたりする。なので、なんとなく目が分かってくる。その上で目玉焼きとか、目つきとか、目前とかを教えてくれるので、目という字を一つ覚えるうちに、様々なことが分かってくる。

 算数にしても、教科書をやるのではなく大きな算盤で、ひたすら遊んでいるうちに自然と足し算引き算を覚えてしまう。そのうえ隣同士で問題を出し合ってクイズ対戦をして遊んだりする。とにかく授業が楽しくて楽しくてしょうがない。

 今と違って昔は、先取り学習なんかしなかったので、小学校で初めて文字や計算を学ぶ子供たちが多かったので、それだけに新しい知識が楽しかった。

 ところが、この担任の先生とは、たった2ヶ月でお別れになりました。私は、肺炎になり1ヶ月間も学校を休むことになり、毎日、自宅で塩水でうがいする日々を続けたのです。暇すぎて一日中テレビをみていました。当時の私の田舎には、民放は1つしか無く、子供番組もなかったために、1日中、教育テレビを見ていたために、へんに雑学が増えていきました。アポロの月着陸もリアルタイムに自宅でみていました。

 そして1ヶ月後、小学校に復帰してみると、担任の先生も肺炎にかかって長期のお休みをとっていた。それが肺癌であったのは、あとで知った事実です。そして、代理の先生が臨時に就任するわけですが、誰かが何かをやらかしてクラス全員が
「赤ちゃん、赤ちゃんベロベロバー!」
と囃し立てた瞬間、代理の先生は真っ赤になって怒って、一人に対して、全員で囃し立てることが、いかに悪いことか説教されました。そして、その日以降、ごく普通の、ありふれた平凡な授業スタイルがはじまりました。そして、ありふれたクラスになり、イジメも暴力もおき、子供たちも行儀が悪くなりました。

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 ちなみに肺癌になってしまった担任の先生は、その後、四年間も入院を続け、四年後にお亡くなりになったわけですが、当時は肺炎と聞かされており、すぐに復帰するものだと私たちも教育委員会も思っていました。で、非常勤(正教員ではない)の先生が、臨時に雇われ担任の先生となりました。
 現在からすると、臨時の非常勤の先生が、担任を受け持つことも常識はずれですが、それが二年も続いて、二年間に五人も担任の先生が代わったことも常識外れです。昭和四十年代の教員の給料は、とても安くて先生のなり手がいなかった時代です。デモシカ先生といわれた時代でした。
 中には、教員免許のない先生も多かった。私が中学校の時は、アルバイト教師から正教師になった先生が、知ってるだけで二人いました。一人は、特攻隊の生き残りで、一人は技術者でした。もちろん免許などもってない。ないけれど正規教員で、戦前だと陸軍航空隊の方が、教師の数倍ランク上のエリートだったらしい。校長か教育委員会か知らないけれど、教員をやってくれと、頭を下げてたのまれたらしい。思えば、のんびりした時代でしたね、昭和という時代は・・・。

 まあ、そんなことどうでもいいとして、私が小学校一年から二年にかけて、二年間に五人も担任の先生が代わったことによって、すごく貴重な体験をしたわけですが、これについては、次回、つづきを書きます。


つづく。

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2019年04月14日

昭和40年代、とある小学校の話4 用務員さんの話

昭和40年代、とある小学校の話4 用務員さんの話

 私が生まれたのは、昭和三十六年の七月です。出身地は新潟県は佐渡島。小学校に入学しますと、そこには薪ストーブがありました。今のおしゃれな薪ストーブをイメージしてはいけません。素朴でボロボロなストーブで、火傷防止のフェンスさえありません。火力の調整もできず、ストーブ前は真夏より暑く、そこから離れると寒くてしょうがなかった。窓は隙間だらけの木製の窓で、すきま風は入り放題。

 当時、薪当番というものがあって、朝早くに学校に行って、用務員さんから薪をもらってきました。その薪は、太い針金でぐるぐると巻かれていました。その針金を分解して、新聞紙などの焚きつけて朝ストーブに火をつけるのでが、先生より上手に火をつげる一年生の子供がいました。

 ところで、学校が終わると友達の自宅に遊びに行くことになります。そして夕方五時のサイレンが鳴ると家に帰るのですが、たまに友達のお母さんが、風呂を沸かしていました。当時、ボイラーのようなハイカラな風呂釜がある家は少なくて、五右衛門風呂か、巨大な樽風呂がほとんどでした。樽風呂の方が多かった気もします。もちろん薪で風呂を沸かすのですが、薪といってもみかん箱を解体して作った薪です。または、どっかから拾ってきた板を燃やして樽風呂を沸かしていました。それが珍しくて、私は、ずっと見学をしていた。というのも、私の家は当時珍しいボイラー式の風呂釜だったのです。つまり新築の家に住んでいた。そのために薪で風呂を沸かす友人の家の風呂釜が珍しかった。

 それはともかく、 九月から一〇月ぐらいになりますと、小学校の校庭で、用務員さんが汗だくになって薪割りをする風景が見られるようになります。 三〇ぐらいある教室の薪ストーブの薪を蓄えなければいけないからです。それも莫大な量。年配の用務員さんが、上半身素っ裸になって、ねじりハチマキで、次から次と薪を割っていました。私と友人たちは、飽きもせずにずっと眺めていました。

 用務員さんは何時間も何時間も黙々と薪を割っていました。薪は、校舎の壁に次から次と積み上げられていきますが、何しろ凄い数ですので、校舎の壁をずらっと薪の壁が包み込むようになります。だから校舎の窓を開けますと、すぐそこに薪の束があるという具合です。

 ちなみに用務員さんは、とても優しい人でした。事情があって、私が泣きそうにながら学校に行くと、すぐに声をかけてくれて、心温まる対応をしてくれました。そういう用務員さんですから、みんなから好かれていたと思います。用務員さんには奥さんもいました。奥さんと一緒に学校に泊まり込んでいました。というか住んでいたと思います。毎日のように、夜の学校を見回っていました。私の父は、厳格な人間でしたので、私は何度も家を追い出されて街中を放浪したのですが、行き先は必ず小学校の縁の下でした。

 父親に殴られ蹴られ何度も追い出されているうちに、子供ながらに知恵がついてきます。家を追い出される時のために、学校の縁の下に、こっそり秘密基地を作っていました。当時は、段ボール箱のようなものはありませんので、用務員さんが割って束ねた薪をせっせと学校の縁の下に運び、それで椅子やらベットを作り、食料や現金や懐中電灯などを隠しておいていました。

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 小学校二年生位の子供が、そんな不審行動をするものですから、用務員さんが気がつかないわけがありません。縁の下で、いろいろ作業してるのを、用務員さんに見つかってしまいました。怒られるのかな?と、びくびくしていましたが、彼は何も言いませんでした。私は慌てて逃げ出しました。用務員さんが追いかけてくる事はありませんでした。けれど、これで秘密基地はおじゃんになってしまったと観念しました。

 しかしである、翌日、その秘密基地に行ってみると、何一つ撤去されてなかった。私が、作ったままそのままの状態で存在していたのです。すると、薪割りの音が聞こえてきました。私は縁の下から出てくると、用務員さんが、盛んに薪を割っていました。目と目が合いましたが、彼は黙々と薪をわっていた。私には何事もなかったように、作業を続けていたのです。今思い出してみると、非常に不思議な気がする。なぜ用務員さんが、何事もなかったようにスルーしてくれたんでしょうか? そして私が使ったために足りなくなった薪を、割り始めたんでしょうか? 今思えば不思議な事だらけです。

 ただ思い当たることがあるというすれば、私は、夜の小学校で、よく用務員さんにお世話になっていることです。父親が厳格でしたので、ランドセルに教科書が一冊でも欠けていますと、学校に取りに行ってこいと怒鳴られて、泣きながら何度も学校に取りに行ったことがあります。もちろん、玄関から入るのではなく、窓からこっそり学校に入り込みました。夜は暗いので電気をつけて自分の席の机の中をごそごそとやる。その度に、用務員さんが駆けつけてくるのです。それはそうでしょう。夜の学校で電気をつければ、そこだけ目立つのです。泥棒でも入ったかと、用務員さんが恐る恐る駆けつけてきます。しかしそこには、小学校一年生位の子供が泣きながら、落とし物やプリントを探しているのだから、そういうことが何度も何度も続けば顔見知りになってしまいます。しかし彼は、深入りはしてきませんでした。とても優しい人でしたけれど、ある程度の距離を保って見守ってくれていました。それが良かった。秘密基地のそのままにしてくれていました。今では考えられないことかもしれません。

 私は小学校三年生になった時、その用務員さんがいなくなりました。そして学校から薪が消えました。すべて石油ストーブになってしまったのです。日本はその頃から豊かになっていた気がします。ちょうど大阪万博が始まっていました。


つづく。

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2019年04月13日

昭和40年代、とある小学校の話3 教頭先生の話

昭和40年代、とある小学校の話3 教頭先生の話

 今から五十年前、私が小学生の頃に新しい教頭先生が赴任してくると、突然、教育スタイルが変わりました。それまで担任の先生が担当していた図工・音楽を教頭先生が教えるようになりました。この教頭先生は、背が高く筋骨隆々で運動神経もよく、走ればサラブレ等のように早く、プールに入ればイルカのように泳ぎ、声を発すれば雷ように轟き、背筋がピンとして足が長く、そして頭がはげていました。

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 この教頭先生は、それまでの影の薄かった教頭先生と違って、やたらとはりきっていました。朝には全校生徒が体育館に集り全校集会を行うことになり、しかもその全校集会は、いつも長引いて、毎日二〜三人の子供たちが貧血で倒れ、保健室に連れて行かれました。それでも毎日はりきって全校集会で演説する教頭先生でした。六百人もいる子供たちは体育館で、教頭先生の決めた今月の目標を声を出して読み上げたものです。

 こうなると、 六年生はもとより、二年生ぐらいの低学年の子どもたちでさえ、学校の教育スタイルがガラリと変わったことを認識します。それに対する感想は人それぞれだと思いますが、大方の子供たちは『めんどくさい人が教頭先生になったなぁ』と言う感じだと思います。なにしろ突然授業中に教頭先生が入ってきて、授業の見学をするわけですから、こういう先生にあだ名ニックネームがつかないわけがありません。

 ハゲ頭先生とか、ツル先生とか、といったニックネームがガンガン生まれます。普通ニックネームは一つなんですが、この教頭先生に限って無限大に増殖していきました。そしていくら増殖しても新しいニックネームが生まれても誰もが教頭先生のことだとわかります。

 もちろんハゲ頭の先生は他にもいっぱいいましたが、他のハゲ頭の先生にはニックネームがつきません。単なるハゲではダメなんです。光り輝いてないとニックネームがつくことありません。そういう意味では、この教頭先生は、常に光り輝いていました。その行動力と、その強引さと、その理想に燃える教育熱心さに輝いていた。これが子供たちにとってまぶしかった。

 この教頭先生は、スポーツ万能で長身。プールでは、すばらしい泳ぎをみせますが、なぜかこの先生だけは規則で決められている水泳帽をしない。髪の毛がないのでする必要が無いんでしょうが、そのせいで太陽を良く反射する。

 教頭先生は、ピアノもプロなみに弾くので音楽教師にもなり、美術教師にもなりました。それまで担任の先生が担当していた図工の授業は、教頭先生が受け持つことになりました。そして図工の時間になると、意気揚々と出現し、図工の時間だというのに例によって演説から始まります。その日は、イメージについて教頭先生は語りました。いかにイメージを持つか、そのイメージが大切だと言うのです。それを延々と語った後に教頭先生は仰いました。

「ではみなさん、私に対するイメージを一人一人聞かせてください」

だれも答えません。

「何でもいいんですよ、どんな些細なことでもいいから教頭先生のイメージを語ってください」
「・・・・」
「じゃあはじから言ってもらおうか、◆◆君、君はどんなイメージを持ってかい?」
「それ言ったら先生が怒るから」
「怒らないよ」
「絶対怒るもん」
「どうして先生が怒ると思うの? 怒らないから」
「いやいや絶対に怒ると思う」
「怒らないよ」
「絶対に怒らない? 」
「怒らない怒らない」
「絶対に? 」
「約束します」
「じゃぁいいます」
「・・・・」
「ハゲ頭」

 教室は一気に大爆笑と重なりました。
 教頭先生は微動だにせず次の児童を指名しました。

「フラッシュ」

 その次も大爆笑。
 次の児童もイメージを語りますが、どれもこれもが大爆笑。

「太陽」
「反射鏡」
「まぶしい」
「電球」
「つるっぱげ」

 教室は次々と爆笑の渦となって授業になりませんでした。子供は残酷です。教頭先生は苦笑いしながらも少し寂しそうな顔をしていました。そして私のクラスの図工の時間は、再び担任の先生が受け持つようになりました。私も頭が薄くなってきています。あの教頭先生に、今頃になって親近感がわいてきています。

つづく。

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2019年04月12日

昭和40年代、とある小学校の話2 校長先生の話

昭和40年代、とある小学校の話2 校長先生の話

 息子が小学校に入学してから四日目。今日も楽しそうに小学校に通っています。それはともかく今年から嬬恋村小学校では、専門の先生が一教科ずつ教えるのではなく、担任の先生が全てを教えるシステムになったそうです。という事は、去年までは、算数算数の先生。国語は国語の先生が教えていたそうで、このシステムが、あまりよくないということで、今年から担任の先生が全て教えるようになったそうです。

 今から五十年前、私が小学生の頃も、ある日突然、授業スタイルが変わることがありました。突然変わる時は、必ず教頭先生が変わった時でした。そしてここが不思議なのですが、校長先生が変わっても授業スタイルが変わることがありませんでした。教頭先生が変わると授業スタイルに変化があったのにです。

 では、校長先生が新しくなるとどうなるんでしょう?
 校長先生が変わると小学校の何が変わるんでしょうか?

 校長先生が新しくなると、授業スタイルではなくて、全く別のものが変わってきます。私が小学生の頃、金井小学校という学校に通っていたんですが、そこの校長先生の名前が原田先生(ハレダ)と言いました。この校長先生がいる時は、遠足でも運動会でも、どんな行事でも必ず晴れたものです。ところが、隣町の両津小学校では、遠足も運動会も全ての行事が全て雨でした。そこの校長先生は、水落(みずおち)と言う名前でした。

 金井小学校の先生方も、私たち児童たちも、この原田先生のことを『ハレダ(晴れだ)大明神』と言って、生神様のように敬っていました。原田先生は、背が低くてちょっと小太り気味でしたが、いつもニコニコしていて、とっても優しいお方でした。ほっぺたは赤くて、鼻先はお酒に焼けていましたが、その笑顔を見ると、小学校に入ったばかりの私などは、とても癒されたものです。

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(佐渡人名録より借用)

 ある時、友人とかくれんぼした時に、校長室に隠れていたら、校長先生がやってきて、青ざめたことがあったのですが、原田先生はニコニコと、頭を撫でてくれて、明日の遠足、晴れるといいねと、ニコニコ話してくれました。

 そして当日、ハレダ大明神の力は強烈で、朝から雲一つもない日本晴れ。しかし私は、母親から熱があると注意されて、それが学校に連絡が行き一人学校で留守番する羽目になり、大きな小学校の校舎で一人ポツンと残された。とても寂しかったんですが、晴れだ大明神も、 一人ポツンと校舎の中に残されているのを知って、ちょっとほっとしたことを覚えています。

 数年後、原田先生が退職されると、運動会も遠足も天気が不安定になり、校長先生の神通力を思い知ったものです。

つづく。

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2019年04月11日

昭和40年代、とある小学校の話

 息子が小学校に入学してから3日目。小学校は楽しい?と聞いたら、すごく楽しいと答えます。うちの息子は好奇心がとても強いので、新しい環境がいたく気に入ったようです。この辺はうちの嫁さんの性格にそっくり。やたらと好奇心が強い。逆に私の場合は、なかなか小学校に馴染めなかった。授業サボってひとりで小学校の館内を散策したりしてました。

 昭和時代の小学校ですから築80周年の校舎で古い。中庭には井戸があり、温室があり、ブランコがあり、動物小屋があったり。縁の下には、何十匹と言うコウモリ。その他にも町の施設(図書館など)が小学校の中にテナントで入っていて、その辺を散策するのも楽しかった。不思議なことに当時の担任の先生は、私が授業サボってぶらぶらしていても、親に通報することもなく、放置してくれました。

 そして何日か出すと私の放浪癖は収まって、みんなと一緒に授業を受けるようになった。思えばいい時代だった。今だったら確実に大問題になっていたと思います。しかし、ある程度放置してもらったせいか、私の放浪癖は消えてしまった。そのうち教室でみんなと一緒に真面目に授業を受けていました。そして皆で校外を散歩したりしました。

 この時の担任の先生のことをよく思い出します。授業中に何度も咳をして、そして咳が止まらなくなり、苦しそうでした。

 私のほうも肺炎にかかり1ヶ月間自宅静養することになり、 1ヶ月後に学校に登校しました。その時は担任の先生は、合いませんでした。代理の先生の話によれば、肺の病気にかかって入院してるとのこと。私も肺炎でしたが、その先生も肺の病気でした。

 こうして1年生の時は、 2人の先生に学んでいます。そして2年生になると、1学期ごとに臨時の先生が変わりました。代用教員だったと思います。担任の先生が復帰するまでの臨時教員だったと思いますが、なかなか復帰しなかったので、教育委員会は1学期ごとに1人ずつ代用教員を雇い1年間に3人の先生に習っています。

 結局担任の先生は、復帰することもなく、その後癌で亡くなったわけですが、そのために私は、2年間で5人の先生に学んでいます。 2年生で受け持ってもらった3人の代用教員たちは、その後、別の小学校で正式な教員に採用されることになり、感謝のためと言うことで、私が居た小学校に、ジャングルジムとかブランコなんかを寄付してくれたりしています。

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 それにしても思う事は、昭和時代の佐渡島は本当にのんびりしていた。 平成時代でも、令和時代であっても、ありえないことだと思います。しかし、昔はのんびりしていたので、病気になった担任の先生がいつか復活すると信じて、教育委員会が温情に温情を重ねたんだと思います。2年間に5人もの先生に学ぶという非常に得がたい経験をしました。


つづく。

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2019年02月07日

真っ青になって病院に駆け込んだ話 その6

 話が大きくそれました。
 タブレットについてです。

 5歳の息子にタブレットでやらせたのは大失敗でした。
 もう少しで両眼視の能力を失うところだった。

 タブレットをやらせる前は、ポピーという幼児教材をやらせていました。ワーキングメモリを鍛えることを最も重視している教材だったからです。バックに篠原菊紀という脳科学者(諏訪東京理科大学教授)がいて、その先生が、幼児の脳波を測定しながら、ワーキングメモリが働くような問題をつくって、それを教材にしている『幼児ポピー』という教材です。

 幼児教育の書籍の多くは、平仮名・カタカナ・計算といった小学校教育の早どり学習を中心にしているのですが、ポピーという教材は、それよりもワーキングメモリを使うことを重視しています。なので、公文式のように、大量の問題をこなすスタイルではありません。平仮名などを書かせるといった苦行は、ほとんどなく、あくまでもワーキングメモリの強化を主眼とした問題ばかりです。

 鉛筆を使って書くよりも、シールを貼ったり、工作をしたりしながら推理する方がメインになっています。問題も、なぞなぞみたいなものが多くて、勉強と言うより、遊び感覚のものが多い。なので息子は大喜びでとりくむんですが、これが息子にとって難しかったようで、かなり苦戦していました。

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 逆にいうと息子のワーキングメモリは、かなり鍛えられていたようで、息子のワーキングメモリはフル回転していたわけで、効果は着実にあがってきていたように思います。論理的に考えるようになりましたし、ただをこねることがなくなりました。言ってきかせれば、分かってくれるようになったのです。そのうえ論理的に親に問いかけるようにもなりました。親のミスも冷静に指摘するようになってきました。他動的なところは減り、落ち着きが出てきたのです。

 もちろん集中力もアップしてきました。五分も持たなかった平仮名の書き取りを一時間くらい続けることができるようになりました。その代わり、自分なりのノルマが終了したと、自分で判断するとピタリとやめます。自分で計画をたてて、自分で自分をコントロールするようになってきたのです。そのおかげで学力もアップしてきました。たいして勉強をしてないのにです。

 よそのお子さんの中には、三歳くらいの幼児の頃から公文塾に通って大量の書き取り練習しているのに、それをしてない息子の奴も、決して学力で劣ることはなくなったのです。

 しかし、一番驚いたのは、毎日、お母さんに手紙を書くようになってきたことです。母親好きの息子は、交換日記をするように、母親と、せっせと手紙を交換し合うようになってきました。毎日毎日、母親に手紙を書き、分からない文字やカタカナがあると、父親である私に質問してきたり、勝手に自分で文字を調べるようになってきたのです。

 このまま成長を見守っていれば、よかったのでしょうが、そうもいきませんでした。宿屋にとって、このスタイルには、限界がありました。一緒につきっきりで相手をしなければなかったからです。具体的に言うと、夏の忙しいときに息子に手紙なんて書いてられないし、親の仕事を手伝いをしたがってる息子がいると邪魔でしょうがない。

IMG_7793.JPG 一般知能がアップする

ということは、空気を読む能力がアップするということでもあるので、息子の奴は、宿が忙しい状況を読んで、やたらと手伝いたがるようになるのです。しかし、正直言って、五歳児の手伝いなんて、邪魔でしかありません。そこでいろいろ考えたあげく、御客様のお子さんと一緒に遊ぶミッションを与えたのです。

 子供さんが大勢いると、ロビーや廊下をバタバタと走り回ります。静かにゆっくりしたい御客様に御迷惑をかけます。

 そこで、四〇〇坪もある庭の花壇の大半を潰してしまい、十年かけて育てた庭木(マユミ・シャクナゲ・ブナ・リンゴ・ブルーベリーなど)の大半を伐採し、砂利や人工芝をひき、トランポリン・滑り台・ブランコ・ハンモック・砂場・水遊び場・シーソー・ゴルフマット・ミニハウスといった遊具をずらりと並べました。庭を公園のようにしたのです。で、小さなお子さん連れの御客様があらわれると息子をそそのかして

「小さなお友達(御客様)が来たよ。小さい子が暴れて他の御客様に迷惑がかからないように、一緒に外に遊びに行って!」

とけしかけました。庭で遊んでくれれば、静かに過ごしたい御客様の御迷惑にはなりません。それに夢中で庭で遊べば、幼児たちは疲れてすぐに眠ってしまいます。夜は静かになります。一石三鳥くらいの効果があります。

 息子は大喜びでした。
 やりたかった親の手伝いが、遊びと直結するわけですから
 息子にとっては、こんな楽しい手伝いはなかったかもしれません。

 脱線しますが、庭を公園のようにして、御客様のお子さんと息子を遊ばせたのには、もうひとつ理由があります。実は、公園で集団で遊ぶと一般知能が高くなるのです。御客様のお子さんも、うちの息子も一般知能が高くなる。その結果、他の御客様に気をつかえるようになる。

 うちの御客様の大半は、年に何回も来てくれるリピーターなので、何度もリピートして息子と庭で遊ぶうちに、思いやりのある礼儀正しいお子さんになってくれています。これは、日常的に毎日会っている幼稚園の友達と遊びをするより効果があります。久しぶりに会う友人には、お互いに我が儘を言いにくいし、気をつかうので一般知能がアップします。なので、一石三鳥どころか、一石四鳥・一石五鳥の効果があったかもしれません。

 ただ問題なことは、ますます息子が、空気を読むようになり宿を手伝いたくなってしまう。うまいぐあいに子連れ御客様がいれば、いいのですが、いないことも多いし、御客様が立ち去った後に、ベットメイクなんかを手伝いたがってしまう。これが邪魔でしょうがない。何か別のものでエネルギーを発散させなければ・・・と、いろいろ考えてみたのですが、どうも思いつかない。

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 ネットや諸先輩方に、いろいろ相談してみたらスポーツ教室とか、公文の塾がいいのでは?ということでしたが、連休や夏の忙しいときに、とてもじゃないけれど、そういうところに送迎する暇がない。他に何かないのか? 他所の御家族は、いったい何をやらせているんだ?と聞いてみたら、テレビ・ゲーム・勉強をやらせている人たちばかり。

 うちの息子はテレビは見ないので、残るはゲームか勉強と言うことになりますが、ゲームは一般知能が低下するので気が進まない。残るは勉強の一択ですが、それを喜んでやってくれる子供なんか、いるわけがありません。もし、あるとしたら親がつきそっているか、ゲームぽい勉強だけです。そもそも勉強だって、つきっきりでないとしてくれません。子供は、親の真似をするわけですから、親がベットメイクの仕事をしてたら、教材をほうりなげてベットメイクをします。親を追いかけ回すのが五歳児の特徴です。一人で何かをやってくれるわけがない。

 ただし、タブレットによる教材なら話は別です。
 あれはゲームで勉強させるシステムなので、試しに与えてみました。
 ただ、幼稚園教材のタブレットが無かったので、
 ベネッセのチャレンジ一年生というタブレットの教材を渡してみたのです。

 すると息子は大喜びです。ゲームぽい勉強にハマって「すごく簡単!」と、夢中にななりました。そして、小学一年生の問題をスイスイと解き始めたのです。幼児にしてみたら、難しいナゾナゾや迷路なんかより、平仮名・カタカナ・足し算引き算の方が、具体的なので簡単だったようです。

 逆に言うと息子にとっては、小学校一年生の問題より、ワーキングメモリを訓練する幼児ポピーの方が圧倒的に難しかった。迷路や、間違い探しや、ナゾナゾなんかの方が難しかった。それだけポピーの幼児教材の方がワーキングメモリを使っていたということ。つまり効果があったということなんでしょうね。

 だからワーキングメモリ能力をアップさせる幼児教材ポピーをやらせておけばよかったのに、困り果てて、タブレットを与えた結果、とんでもない結果になってしまった。こういう失敗を皆さんにしてもらいたくないので、あえて私の失敗談を書いておきます。皆さんの参考になればと思います。子供の臨界期をよく知った上で、適切な成長の手助けをしないと、とんでもないことになるという失敗談です。



つづく。

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2019年02月06日

真っ青になって病院に駆け込んだ話 その5

 幼児のうちに、一部の脳だけを成長させすぎると、他に大切な知能である別の脳の成長がうまくいかなくなる可能性がある。大げさに言うと両眼視を失う可能性だってある。つまり、ゆとり教育というのは、脳科学的に非常に危険な教育だったという説がでてきている。

 極端な例として、サバン症の人たちがあります。発達障害などのせいで、自閉症的だったりする人たちの中に驚異的な能力を示す人がいますが、それがサバン症です。サバン症を主人公にしたドラマで『グットドクター(山ア賢人主演)』というドラマがありましたが、あれがサバン症です。

 以上は、大げさな話ですが、ゆとり教育には、そういう危険性がなくもないというのです。それを私は聞きかじって知っていたから、息子の視力検査で異常が出たと聞いて青ざめ、幼稚園を休み、眼科で最も有名な御代田総合病院に駆け込んだわけです。



 では、どういう幼児教育が良いかというと、幼児のうちは、多くの知能を均等に伸ばしてあげるのが一番だという。そもそも知能は環境に適応するために進化してきた脳機能ですから、進化的予想している環境があれば、自然と発達すると、脳科学者の澤口俊之が言っています。

 つまり、そういう環境を息子の周辺につくるのが親の役目なんでしょうね。

 例えば、いろんな友達と遊ぶ環境。
 祖母と暮らす環境などなど。

 そういう環境があれば、臨界期をうまく利用して適正な知能の発達が得られると言います。

 具体的にいうと、公園に連れて行って、見知らぬ子供たちと遊ばせる。親は介入しない。殴られてもイジメられてもグッと我慢する。また、できるだけ嫁さんに里帰りさせて祖母と接触をもたせる。それらの環境をつくってあげることによって一般知能が向上するといいます。

 ここでちょっと説明をします。
 一般知能についてです。
 一般知能というのは、イギリスの心理学者、チャールズ・スピアマンが発見した概念で、知的作業には、個別に必要とされる特殊因子と、全ての作業に共通する一般因子があることを発見しました。

 例えば計算に必要な知能と、音楽に必要な知能とでは、それらの間に関連性が全くないわけです。いくら暗記が得意になっても、音楽の才能が発達するわけではありません。これが個別知能です。
 
 一般知能というのは、計算や音楽やその他のいろいろな作業すべてに関わる共通の知能のことです。

 つまり、知能には、
 『一般知能』と
 『個別知能』の二つがある。

 1998年、アメリカでの大規模な調査で一般知能の調査が行なわれました。その結果、一般知能が低いほど社会的リスクを負う確率が高くなることが分かりました。仕事が続かないとか失業するといったリスクは、一般知能が低いほど高くなる。結婚に関しても離婚したり、望まない妊娠をする。社会保障を受けないと自活できない、といったリスク確率が高くなるというのです。

 高校に関して言うと、いくら個別知能(暗記能力や、計算能力など)が高くても、一般知能が75以下の生徒の半数以上が高校を中退。75から90では三人に一人が中退。110以上では中退者は皆無。もちろん高校に入学しているわけですから、個別知能は高い人たちばかりです。個別知能(IQ)が高く、学力があっても、一般知能が低かったら、高校を中退してしまう結果がでているという。

 これは大学生に関しても同じで、大学に入学できるほど勉強ができるわけですから、計算や国語力といった個別知能は高いにもかかわらず、一般知能が低いと、卒業できない傾向が強いという結果がでてしまった。きちんと卒業する大学生の一般知能は110以上という結果がでています。

 さらに社会的地位が高くて年収も多く家庭も円満、という社会的成功者を六百人ほど調べたところ、一人の例外もなく一般知能が110以上だったと言います。一人の例外もないのがミソです。

 しかも追跡調査によって、一般知能が高いほど年収が多いことが再確認され、交通事故死や医療機関にかかる確率も一般知能と相関することもわかり、国民の平均的一般知能が高い国ほどGNP(国民総生産)が高いこともわかっています。それほど重要な知能ということで、多くの専門家たちは、半世紀以上にわたる研究を行なって、一般知能の伸ばし方を追求したのですが、それを解明できた人はいませんでした。

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 ところが、一般知能の脳内中枢が前頭連合野にあることが2000年頃に分かりました。前頭連合野とは、前頭連合野というのは、状況の変化に合わせて柔軟に行動を変えるなどの行動の制御において重要な役割を果たす部分です。

 情動のコントロールや、論理的な判断、将来の予測、判断、行動計画に必要な情報を受け取り、複雑な行動計画を組み立てて判断するところが前頭連合野です。ここに一般知能の中枢があることがわかってきました。で、一般知能とワーキングメモリが深く関係することが分かってきました。

 ワーキングメモリというのは、作業記憶のことです。パソコンでいうところのRAMにあたります。情報を一時的に記憶して、それを材料に判断・決断・行動を行なうために、一時的に記憶しておく装置みたいなものです。パソコンでいうところのRAMです。

 それに対して個別知能が、パソコンでいうところのアプリケーションソフトにあたります。個別知能は、アプリケーションソフトのように各種の脳領域にバラバラに存在します。そして独立しているというか、並列しているわけです。その中で、あるソフトだけが突出して巨大に発達しすぎると、別のアプリケーションソフトが入る容量が少なくなってしまう。で、これらの個別知能(アプリケーションソフト)は、各々が競争し合っている。右目と左目さえも競争し合っているんです。

 それに対して、一般知能は、パソコンでいうとウィンドウズのようなOSに相当するかもしれません。で、脳科学者・心理学者たちは、アプリケーションソフトにあたる個別知能(計算能力など)のバージョンアップの方法を見つけることは簡単にできたんですが、OSにあたる一般知能の向上の方法を見つけられなかった。半世紀にわたって研究をしたけれど誰も見つけることは出来なかった。

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 ところが最近の研究で、パソコンのRAMにあたるワーキングメモリの能力を向上させると、一般知能の能力がアップすることが分かってきました。一般知能そのものを訓練することはできないけれど、ワーキングメモリは訓練で向上させることが可能であることは分かっている。

 で、ワーキングメモリ能力を向上させてみると、自己制御力が高くなり、衝動性は低くなり、キレにくい子供になるということも分かってきた。落ち着きが出てきた。集中力が増したという報告もされるようになりました。ワーキングメモリの訓練でADHD(多動児)の子供の衝動性を低くしたという報告も出てきました。

 しかしワーキングメモリ能力の訓練にも臨界期があるらしいこともわかってきた。八歳頃までです。九歳になるとその効果は急になくなってしまう。実は、甥っ子にADHD(多動児)がいるのですが、対症療法としてワーキングメモリ能力の訓練が有効である可能性があります。

 それはともかくとして、ワーキングメモリ能力の訓練によって、一般知能の能力がアップすることが分かってきたために、何が起きたかというと、幼児教育の教材に、それを取り入れる会社が増えてきました。今までは、どちらかというと小学校教育の早どり学習をする幼児教育が多かったのですが、最近は違っていて、ワーキングメモリ能力の訓練を主流とする学習が主流になりつつあります。

 その最右翼を走っているのが、脳科学者・篠原菊紀氏が監修している全家研の幼児ポピーです。それも幼児用のみです。小学生以上の教材には、脳科学者・篠原菊紀氏はかかわっていません。ワーキングメモリ能力の訓練ができるのは、幼児ポピーのみです。小学生以上は、つまらない教材になっています。





 実は、この教材は、通信教育なのですが、バックナンバーを買うことも出来たので、それらを全て発注して息子にやらせてみました。当然のことながら、息子は苦戦しました。内容に「なぞなぞ」のような部分が多分にあったからです。むしろ息子にとっては、平仮名・カタカナを書くと行った、従来の幼児用教材の方が簡単だったらしく、ワーキングメモリ能力の訓練をするために「なぞなぞ」のような部分に四苦八苦していました。

 しかし、普通なら四苦八苦に教材を投げ出すはずなのですが、そこは脳科学者・篠原菊紀氏が監修しているためか投げ出さない。四苦八苦しながら自分ですすんで教材をやりたがる。というか、遊びの一種だと思っている。「なぞなぞ」のような部分に勉強ぽさをこれっぽっちも感じてないんですね。親の私は
「しめた!」
と思いましたね。なぜならば、幼児ポピーのおかげで、親が言わなくなっても毎日勉強する癖がついてしまったからです。私が忘れていても、息子の方から「まだポピーやってない」とか「もっとやっていい?」と聞いてくる。その結果、六ヶ月ぐらいで一年分がおわってしまう。仕方がないので、早どり学習させるより、同じ問題のほうがいいと思ったので、また同じ物をとりよせて、おなじ問題を再びやらせたら、今度は、四ヶ月くらいで一年分が終わってしまった。

 ちなみに息子の同級生たち何人かは、公文に通っているらしく、みんな早どり学習をしています。なぜ私が、それを知っているかというと、息子が時々、公文のテキストかなんかで作った紙ヒコーキかなんかをもってくるからです。それを分解してみてみたら息子の同級生の名前が書いてあって、三桁の足し算引き算が書いてありました。これには、さすがに目が点になり
「○○さんの家では、幼児に小学三年生の算数をやらせているのか?」
と驚いたものです。




 こんな田舎が、これほど教育熱心だったとは夢にもおもってなかったですが、サラリーマンの息子ならともかくとして、宿屋の息子には、そういった個別知能より、一般知能の方が重要なので、ワーキングメモリ能力の訓練をするために、ひたすら「なぞなぞ」みたいなものに四苦八苦してもらっていました。宿屋の息子に一番大切なものは、学力ではなく、情動のコントロールや、論理的な判断、将来の予測を間違わない一般知能の方なんです。勉強は、たいして出来なくてもよい。それは私自身の過去の体験から言えるし、ユースホステルのオーナーとして、多くの悩める高学歴の御客様と夜通し話し合った体験からも、もっと大切なことがあることを体験でしっている。



つづく。

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2019年02月05日

真っ青になって病院に駆け込んだ話 その4

 確かに息子の成長は、普通より遅かったですが、もともと三月末の生まれであるし、そのへんは個性の範囲内ととらえていました。

 幼稚園で友達づきあいがスムーズでないのも多少気にはなりますが、うちの宿に泊まりに来るお客さんのお子さんとは、とてもスムーズに友達関係をきづいているし、公園に行けば見知らぬ子供たちと、すぐに仲良くなっています。

 これは他の子供たちに無い特技です。

 四歳児が、五歳児が、見知らぬ公園で、初めて会う子供たちと、すぐに仲良くなって一緒に遊べる。そんな幼児は、少ないはずですから、これも立派な特技です。宿に泊まりに来る御客様のお子さんとも、すぐに仲良くなって遊んだりするし、特に小さなお子さんの面倒をよくみます。自分のおやつを、へそくりのように貯めて、それをプレゼントしたりする。なので、御客様から喜ばれて、何度も泊まりに来てくれるようになったりする。そういう対人スキルがある。

 運動神経に関しては、確かに良いとはいえないことは、運動会でいつもビリであるのと、ラジオ体操が下手くそなことを見れば分かります。空手教室に通っていても、敏捷な動きが出来ていません。

 しかし、足が遅いのは、山で走らないように何度も怒っているからです。息子は、晴れてれば毎日のように小浅間山に登っていますから、そこで親から「走るな」と言われ続けていますので、仕方ないといえば仕方ないです。体力だってないわけではない。毎晩スクワットや腹筋を二十〜三十回やっているし、三千メートル級の北アルプスにスイスイ登れる体力もある。週末にはサッカーボールを蹴りながら小浅間山なんかに登っているし、ドッチボールも大好きなので決して運動が出来ないわけではないと思っています。

 スキーも、あっと言う間に覚えて、下手くそながら猛スピードで滑走し、親が見失うくらいです。親以上に滑れるようになっている。スケートも何だかんだで滑れるようになり、今ではせがまれて週に一度はスケートリンクに通っています。とても運動音痴とは思えない。

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 ようするに運動に対するスイッチの入り方が、よその子供たちと違うだけなんではないかと思っています。第一、同学年に3月生まれも、2月生まれもいません。かろうじて1月生まれがいるだけですから、圧倒的に他の子供たちと月齢差がある。3月26日に生まれた息子が、人よりテキパキ動けないのは仕方ないと思っています。

 それは各専門の先生も分かっていて、息子が指導をうけるという作業は、あまりやらなくなって、しだいに私たちと世間話をして時間を潰すことが多くなってきました。その先生の息子さんと、うちの息子が、よく似た症状だったこともあり、さらに、先生の御実家が、うちと同じく宿屋だったこともあって、非常に似た環境下であったこともあって、世間話に花が咲きました。

 で、専門の先生と世間話をするうちに、とんでもないことが分かってきました。ここ数年のうちに、幼児教育において、恐ろしい発見が相次ぎ、過去に行なわれていた幼児教育が、否定されつつてしまっているらしい。それが、とても興味深い内容だったのです。

 世間話で専門の先生は、ここ数十年の幼稚園教育の歴史的な流れを話してくれました。まずゆとり教育というものは、どういうものかを教えてくれました。そしてそれが、どういう問題を引き起こしたのかというのも教えてくれました。

 それらをいちいち話すとキリがないので、ここでは触れませんが、世間話をしていくうちに気がついたことがありました。私が息子にやっていた教育は、ゆとり教育ぽかったことなんだと気がついたのです。

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 私は、過去に何度も「ゆとり教育」を批判しており密かに小馬鹿にしてきました。前にも言いましたが、ゆとり教育とは、ただ単に「バカを量産する教育」ぐらいにしか思ってませんでした。しかし、どうやら、それは私の勘違いだったようです。

 そもそも「ゆとり教育」というのは、科学的根拠にもとづいた教育方法ではなく、「個性重視の原則」という思想にもとづいた、文部科学省が押しつけた教育だったらしいのです。いわゆる個性教育イデオロギーとでも言うのでしょうか? 科学的研究が、ほとんど検証されないまま行なわれた教育だったのです。

 ゆとり教育以前は、『自立した人間を育てる』を第一とした社会思想にもとづいた教育がさかんだったと言います。私が幼児の頃は、自立した人間を育てるという思想のもとに、幼児に個室を与えようとか、乳離れを早くさせようとか、抱き癖をつかせないために、むやみに抱かないとか科学的に根拠のない育児方法が母子手帳に書かれてあったらしいのです。

 それらは当時、世界的に大流行した『スポック博士の育児書』からきたものらしいのですが、現在では、この育児方法は、科学的に否定されており、スポック博士も誤りを認めています。

 それらに毒された育児をされた子供たちは、凶暴化して校内暴力がはびこり、金属バット事件なんかが日本ではおきてしまいましたが、海外ではもっと酷いことになっていたようです。何の根拠もなく、イデオロギーや、ある種の思想で教育する危険性は、非常にリスクがあったわけですが、それは「個性重視の原則」という思想に染まったゆとり教育にも言えたようです。

 で、ゆとり教育時代の幼稚園では、「個性重視の原則」からできた教育指導要領にもとづいて、各個人個性をのばす教育をめざしていました。積み木遊びの好きな子供には、一日中、積み木遊びをさせるような教育をおこなっていたらしいのです。



 現在、幼稚園教育は、ゆとり教育を廃止して、いろいろな知能をバランスよく伸ばす方向に切り替えていますが、それは脳の多重知能の特性がわかってきたからです。

 多重知能とは、多くの知能があるということではなく、
 それらが互いに独立している。
 並列しているということがポイントです。

 つまり、ある一つの知能を伸ばしても
 他の知能は伸びない。
 漢字書き取りが得意になっても、
 歌が上手くなるわけではない。
 むしろ逆である。

 ある知能を伸ばしすぎると、別の知能の発達を抑えてしまう可能性の方が高い。つまり脳内で、それぞれの知能は競争し合うということなのです。例えば、右目を塞いで、左目だけで見ていると、左目のニューロンだけが異常に発達して、右目のニューロンは発達しない。右目の脳神経は、左目の脳神経に競争でやぶれてしまいます。そして、いびつな脳ができあがってしまう。そういうことが、脳科学の発達によってわかってきた。その結果、ゆとり教育が幼児にとって致命的な欠陥があることが分かってきた。

 脳の多重知能は、それらが互いに独立して競争しています。
 幼児期に一つだけを伸ばしすぎることは、危険である可能性がある。

 成長過程にある幼少期の脳内は、互いに競争してあっています。その脳の一つだけを伸ばすのは、成人ならともかく、未就学児に行なうことは、かなりリスキーなことなのだそうです。

 脳の多重知能には、それぞれ別個に臨界期があります。それらは、適切にのばす時期があるわけで、それは、『進化的予想している環境』によって決めるのが無難であるようです。カモの刷り込み現象のように、進化の結果で人間が適応してしまった時期を見極めて、適切にのばす必要があるわけです。



 しかし幼児のうちに、一部の脳だけを成長させすぎると、他に大切な知能である別の脳の成長がうまくいかなくなる可能性がある。大げさに言うと両眼視を失う可能性だってある。つまり、ゆとり教育というのは、脳科学的に非常に危険な教育だったという説がでてきている。

 極端な例として、サバン症の人たちがあります。発達障害などのせいで、自閉症的だったりする人たちの中に驚異的な能力を示す人がいますが、それがサバン症です。サバン症を主人公にしたドラマで『グットドクター(山ア賢人主演)』というドラマがありましたが、あれがサバン症です。

 何らかの障害によって、ある知能だけが突出して発達することがある。その典型例がサバン症だと言われています。サバン症の人は、何らかの理由で、特定の知能だけが発達して、他の知能の発達が遅れている状態です。映画『レインマン』や、ドラマ『グットドクター』の主人公や、放浪画家・山下清画伯みたいな感じを思い浮べるとよいかもしれません。かれらは、確かに天才ですが、そのままでは日常生活に支障をきたします。

 なのでサバン症の幼児を養護学校にいれて、遅れた知能を伸ばしてやる。他の知能を人並みにしてあげるわけですが、他の知能が人並みになると、突出していた知能も平凡な物にもどってしまう。天才でなくなってしまう。代わりに、普通の人間として生きていけるようになる。ドラマ『グットドクター』の主人公や、エジソンや、アインシュタインや、山下清画伯のような天才的な人間が、普通の人になってしまう。では、山下清画伯のようなタイプの天才を量産すべきか? 普通の人間として生きられる能力をもつ人間にしてあげるべきかと問われれば、後者の立場をとるのが公立幼稚園のあるべき姿です。子をもつ親なら後者をとりたいと思う。

 以上は、大げさな話ですが、ゆとり教育には、そういう危険性がなくもないというのです。そういうことを直接的ではないけれど、専門の先生は、世間話の中で、暗に教えてくれました。ゆとり教育というのは、(特に幼少期において)非常に危険な諸刃の剣なんですね。それを私は聞きかじって知っていたから、息子の視力検査で異常が出たと聞いて青ざめ、幼稚園を休み、眼科で最も有名な御代田総合病院に駆け込んだわけです。


つづく。

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2019年02月04日

真っ青になって病院に駆け込んだ話 その3

 両眼視の能力に関する臨界期は〇歳から五歳ということは、知っていましたから青ざめました。原因は、タブレットにあるらしいということは、医者に指摘される前に想像できていました。どうりで幼児用のタブレット教材がないわけです。両眼視に関する臨界期が、五歳であることを考えたら、そういうものを作れるわけがない。

 そんなことは、冷静に考えればわかったはずなのに、ついつい夏の忙しさの誘惑に負けて買い与えてしまった。大きな代償を支払ってしまったわけですが、幸いなことに被害は最低限に抑えることができました。

 十月・十一月・十二月と、毎週のように息子を山登りに連れて行き、森の中から、素晴らしい展望のある頂上に連れて行き、遠くを見せることによって、少しずつ視力を回復させています。

 両眼視の能力も、なんとかなりそうです。そもそも近視とは、近くを見すぎて、それに目が適応してしまう結果なので、ハイキングや登山によって、遠景を眺めることを繰り返せば、子供なら多少の回復はします。

 それに気がつかせてくれた五歳児検診には、感謝感謝ですが、両眼視に関する臨界期が五歳であることを考えると、 三歳児健診・四歳児検診でも視力検査はやっておくべきなのではないでしょうか?

 世の中には、私のような馬鹿な親も少なからずいると思いますから、三歳あたりから視力検査をするべきだと思った次第です。というのも、 三歳児にタブレットをさせている親御さんを少なからず知っているからです。

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 ところで、私たちの脳は、多重知能をもっています。それは単に「多くの知能がある」ということではなく、それらが互いに独立している。並列しているということがポイントです。

 つまり、ある一つの知能を伸ばしても
 他の知能は伸びない。
 計算ばかり得意になっても、
 絵が上手くなるわけではない。
 むしろ逆なんです。

 ある知能を伸ばしすぎると、別の知能の発達を抑えてしまう可能性の方が高い。つまり脳内で、それぞれの知能は競争し合うということなのです。例えば、右目を塞いで、左目だけで見ていると、左目のニューロンだけが異常に発達して、右目のニューロンは発達しない。右目の脳神経は、左目の脳神経に競争でやぶれてしまいます。そして、いびつな脳ができあがってしまう。

 そういうことが、脳科学の発達によってわかってきた。その結果、ゆとり教育が幼児にとって致命的な欠陥があることが分かってきて、ゆとり教育廃止に結び付いたのです。

 話は変わります。

 息子は、幼稚園の年少組に入ってしばらくして、先生から「おちこぼれている」ことを告げられ、専門の先生に指導してもらうことになりました。その先生に、いろんなことを教わったのですが、ゆとり教育時代の幼稚園の教育システムは、例えば砂遊びしてる子供がいたとしたら、好きなだけ砂遊びをさせる。その砂遊びの能力を磨くと言うことを支援する。そういう教育システムだったそうです。

 ところがこの教育システムが、脳科学的に非常に危険なシステムだったことが、様々な科学的な実験によってわかった。ゆとり教育と言うのは、ただ単に「バカを量産する教育システム」ぐらいにしか思ってなかったのですが、どうもそうではなかったのです。

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 私は、天気の良い日ならば、幼稚園をどんどん休ませて、家族でハイキングをしました。その結果、 三歳で八ヶ岳に登り、 四歳で槍ヶ岳に登ったりしたし、空手の青帯もとったり、絵本も毎日二冊以上は読んでます。だから幼稚園の先生からダメ出しを出されても、全く気にしてなかった。何しろうちの息子は、他の子供ができないことをいくつもできているので、落ちこぼれていると言われても、少しもぴんとこなかったんですね 。

 実際、紹介された専門の先生に息子を見てもらっても全く問題なかった。不思議に思ったその先生は、時々幼稚園にやってきては、息子の授業の状態を見学し、いろいろチェックはしてくれていましたが、やはり問題ないということで落ち着いたのですが、それでも二年以上にわたって、めんどうをみてもらい、いまだにそれが続いています。

 専門の先生からOKサインは出てるのですが、幼稚園の担任の先生にとっては、まだ不安材料が消えてないのです。担任の先生は、さかんに
「みてもらえ」
と言ってきます。

 息子は、人より成長が遅いし、幼稚園での友達づきあいもスムーズと言えないからです。運動能力にも疑問符がついているので、発達心理学の先生の他に、作業療法士の先生にもみてもらっている。担任の先生に「みてもらえ」と言われているからです。これは歴代のどの担任の先生も同じ反応です。幼稚園教育のプロたちが三年にわたって、口をそろえて言うことなので、根拠があり、間違ってないのでしょう。

 しかし、親である私の見解は少し違っています。確かに成長は遅いですが、もともと三月末の生まれであるし、そのへんは個性の範囲内ととらえていました。

 幼稚園で友達づきあいがスムーズでないのも多少気にはなりますが、うちの宿に泊まりに来るお客さんのお子さんとは、とてもスムーズに友達関係をきづいているし、公園に行けば見知らぬ子供たちと、すぐに仲良くなっています。これは他の子供たちに無い特技です。幼稚園が終わったあとの保育園では、一級下の子供たちと仲良く遊んでいるし、女の子たちとも仲良しで、プレゼントの交換なんかをしています。

 運動神経に関しては、確かに良いとはいえないことは、運動会でいつもビリであるのと、ラジオ体操が下手くそなことを見れば分かります。空手教室に通っていても、敏捷な動きが出来ていません。

 しかし、毎晩スクワットや腹筋を二十〜三十回やっているし、三千メートル級の北アルプスにスイスイ登れる体力もある。週末にはサッカーボールを蹴りながら小浅間山なんかに登っているし、ドッチボールも大好きなので決して運動が出来ないわけではないと思っています。スキーだってスケートだって、下手くそながら猛スピードで滑走し、親が見失うくらいです。

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 それは各専門の先生も分かっていて、息子が指導をうけるという作業は、あまりやらなくなって、しだいに私たちと世間話をして時間を潰すことが多くなってきました。その先生の息子さんと、うちの息子が、よく似た症状だったこともあり、さらに、先生の御実家が、うちと同じく宿屋だったこともあって、非常に似た環境下であったこともあって、世間話に花が咲きました。

 で、専門の先生と世間話をするうちに、とんでもないことが分かってきました。ここ数年のうちに、幼児教育において、恐ろしい発見が相次ぎ、過去に行なわれていた幼児教育が、否定されつつてしまっているらしい。それが、とても興味深い内容だったのです。


つづく。

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2019年02月03日

真っ青になって病院に駆け込んだ話 その2

 息子が五歳になると五歳児健診がありました。それまでも六ヶ月検診とか、 一歳児健診とか、 二歳児健診とか、いろいろな幼児健診があったわけですが、どういうわけか視力検査だけは全く行って来ませんでした。

 で、 五歳児検診で、初めて視力検査を行ったわけですが、片眼が1.2。片眼が0.75と言う異常な数値が出て、両眼視の能力に関して精密な検査を行うように指導を受けてしまいました。

 真っ青になったのは私です。ユニセフの公式見解で
「両眼視の能力に関する臨界期は〇歳から五歳」
ということを以前脳科学の本で読んで知っていたので、早急に幼稚園を休んで御代田総合記念病院に駆け込みました。

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 この病院は、軽井沢近辺では最高の眼科医師がいるところで有名な病院です。地元では、眼科に行くなら御代田総合記念病院。御代田病院眼科に草木もなびくよ〜と歌われた病院で、観光協会の仲間たちも、みんなそこの眼科でお世話になっている眼科の聖地のようなところです。そこで、専門の先生に看て貰った結果、

(一)両眼視の能力は、問題ない
(二)タブレットは控える
(三)三十分以上、近くのものを見せない

という指導をうけました。眼科の先生は、最近の小学校の教育に批判的で、小学校の教育にタブレットを導入するなどは、もってのほかだと怒っていました。耳が痛かったです。

 実は、うちの息子は、タブレットをやっています。うちは宿屋なので、夏休みの忙しい時に、いろいろ邪魔されるのは非常にキツかったために、ベネッセのチャレンジ1年生のタブレットを買って与えていました。

 息子は、三歳位までは、一日中、ひとりでテレビを見てくれていたんですが、 四歳ぐらいになるとテレビを見ることはなくなりました。最初は、どうしてだろうと思ったんですが、すぐに原因がわかりました。親である私や嫁さんが、全くテレビを見なかったからです。

 夏の忙しい時にテレビなんか見る暇がないのはもちろんのことですが、そもそも私も嫁さんもテレビを見ません。子供は親の後ろ姿を徹底して真似ますから、親がテレビを見ないのなら、子供が見るわけがありません。

 その結果何が起きたかというと、幼稚園の子供たちと、共通の話題がなくなってしまって、ちょっと浮いているようなんです。例えば、昔の男の子なら仮面ライダーやウルトラマンや鉄腕アトムの話題で盛り上がって、ウルトラマンごっこなんかして遊ぶんでしょうが、うちの息子はそういうものを全く見ません。当然のことながら、そういうおもちゃも一切持っていませんし、そういう遊びもしません。その結果、とんでもないことが起きてしまっています。それについては別の機会に述べます。

 では、テレビを見ない息子は、何をしたがるかというと、宿の仕事をしたがります。家の掃除をしたがる。ベットメイクをしたがる。食事を作りたがる。食器の片付けをしたがる。パソコンをいじりたがる。みんな親がやってることを真似したがるわけです。

 これが忙しい時に、邪魔で邪魔でしょうがない。気が狂いそうになるぐらい邪魔なんですよ。かといってやるなとは言えない。邪魔だからと怒ると、それが息子に深刻な影響を及ぼすことは分かっている。

 叱られるというネガティブな情動体験による学習は即座に成立します。これは長い進化の過程で成立した適応で、敵の学習を即座に行なうためです。そうでなければ生存は危うい。敵に会うたびに少しずつ敵に関する学習をしていては、敵に襲われて命を落とす確率が高まるからです。
 これはノルアドレナリン系という物質がストレスによって脳内で働くためですが、このノルアドレナリン系は、幼少期で最も強く活動します。幼児であればあるほど強く活動する。つまり息子に
「邪魔だ」
と怒ると、ノルアドレナリン系の即時効果によって、二度と家の掃除も、ベットメイクも、食事も作らなくなる。

 そういう例を、あまりにも多く知っている。ユースホステルのオーナーさんや、ペンションなどのオーナーさんたちから、いくらでも聞いている。なので、あまりに強いネガティブな情動体験は、その後の悪影響を考えると、あまりやりたくない。

 息子が二歳になる前、客用ソファーに落書きしたことを怒ったら、息子は二度と筆記用具をもたなくなり、それから文字や絵を描かせるのに非常に苦労したことがありました。あまりに強いネガティブ体験は、その後に深刻なダメージを与えるので、やりたくない。

 それに子供の過度なストレスを与えることも脳の発達にマイナスであることも分かっている。ラットにストレスを与え続けると脳が五パーセント軽くなるという有名な実験もあります。できたら強く叱るという体験を利用した教育やしつけは、必要最小限にしたい。

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 なので困った私は、息子にパソコンを持たせようと思いました。息子はテレビを見ませんが、パソコンはやりたがります。親である私たちが、四六時中パソコンを使って予約を確認したり、ホームページを作ったり、ブログやFacebookを書いたり、経理を行ったりしているわけですから、それを見ていた息子は、パソコンやりたがって仕方がない。

 といっても、四歳や五歳の息子にパソコンがいじれるわけがありませんから、タブレットを与えることにする。泊まりに来る御客様のお子さんたちの多くが、ベネッセのチャレンジ○年生のタブレットで勉強していたからです。

 問題はそのタブレットに幼児用のものがなかったことです。なので小学一年生のものを注文しました。そして息子に与えると大喜びでした。しかも小学一年生の問題を
「簡単だ!」
と次々と答えていました。

 実は、それまで息子は、ポピーという幼児用の教材で勉強していたんですが、その幼児用の教材は息子にとっては非常に難しかった。むしろ小学一年生の問題の方が簡単だったのです。息子は、タブレットに夢中になってゲーム感覚で勉強しはじめました。もちろん 三十分以上経つと警告が出ます。それ以上やると目に悪いからです。あとブルーライトの制限もかけられます。ブルーライトは最小限の設定にしてあります。なので画が黄色くなってしまいますが、仕方ありません。

 しかも、このタブレットは非常に良くできていて、息子の勉強意欲を想像以上に引き上げます。ゲーム中毒に陥った子供のように息子を夢中にさせます。私や嫁さんが、パソコンに向かって何か仕事をやっていると息子は自分のタブレットで勉強しだす。わからない問題が出てくると、私に質問してきます。私が、それに答えてあげる。そのやりとりによって親子の共同作業が始まりますから、それも息子にとっては楽しかったようです。

 しかも、このタブレットは YouTubeとか余計なサイトを見ることができない設定になっている。勉強しか出来ない。親の私は安心しきっていました。その結果、息子は三十分どころか一時間でも二時間でもタブレットに向かい続けました。

 これが親にとって都合がよかった。

 息子がタブレットに夢中になったおかげで、親はフリーハンドを得られて、この夏の宿の仕事は、かなりはかどった。おまけに息子の学力はどんどん向上していく。普通の勉強と違って、タブレットはゲームのようなスタイルになっているので、遊んでいるうちに自然と勉強ができてしまうわけです。とにかく良いことずくめだと思っていました。まさにタブレットさまさまだなあと思っていた。

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 ところが五歳児検診で
「目が異常な状態」
と、引っかかったわけです。そしてお医者さんの指導を受けるようになったわけです。

 両眼視の能力に関する臨界期は〇歳から五歳ということは、知っていましたから、私は青ざめました。原因は、タブレットにあるらしいということは、医者に指摘される前に想像できていました。どうりで幼児用のタブレット教材がないわけです。両眼視に関する臨界期が、五歳であることを考えたら、そういうものを作れるわけがない。


つづく。

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2019年02月02日

真っ青になって病院に駆け込んだ話 その1

 初めての子供が生まれ、お父さんになると、子供の将来が気になります。具体的に言うと、人間の持っている臨界期が気になるのは、私だけではないと思います。

 臨界期というのは、何かを学習する際に決定的に重要な期間のことです。臨界期を過ぎると、その何かをほとんど学習できなくなってしまう。

 例えば視覚。誕生から数ヶ月間、全く光を知らないままでいますと、脳の視覚システムが構築できずに失明したままになります。脳のなかの視覚神経回路がその発達の臨界期を過ぎてしまうからです。後で、いくら光を浴びても、目が見えるようにはなりません。

 言語の臨界期もあります。十歳までに人間社会の言語に触れることができなかった子供は、脳における言語システムそのものが構築できないために、十歳以降にどんなに勉強しても文字を覚えることも言葉を話すこともできない。狼少女アマラの話や、アヴェロンの野生児ヴィクトール、アメリカ在住のジーニーの話など。彼らたちは言語の臨界期を過ぎていたために、人間の言葉を最後まで理解できていません。

 臨界期を世界で最初に発見したのは、オーストリアの動物学者ローレンツです。ローレンツは、カモのヒナが、艀化後に最初に見た物体を母親とみなし続けるという事実を見つけました。彼はこれを「刷り込み」と名付けました。

 刷り込みと単なる学習と違うところは、一度「親」としてみなした対象だけを親とみなし続け、その後の修正がきかないという点です。そして、この刷り込みの時間は、生誕後、十時間ほど過ぎてから二十五時間までです。それ以上すぎると刷り込みが起きなくなる。これが刷り込みの臨界期です。

 これは進化の結果、そのようにカモが適応してしまったためです。カモのヒナたちは、生誕後に親がそばにいて、その親が動くことを進化的に予想して生まれて来る。そして、その親を親として生誕後の短い期間で記憶化するという遺伝的プランをもっている。

 これが、もし親を親として記憶化しないでいると敵に襲われる可能性があるため、生誕後の短い期間で親を親として学習しなければならない。そのために刷り込みがある。つまり臨界期がある。要するに、カモのヒナは、環境を予想しつつ生まれてきているわけです。これを脳科学者の澤口氏は、進化的に予想している環境と名付けています。

 もちろん臨界期を過ぎても、親を親として認識するように学習させることは不可能ではありませんが、それは臨界期とは別に「学習容易期」があり、別の脳の働きがあるからです。

 したがって臨界期後でも学習が可能ですが、それは「進化的予想している環境」のための即時適応ではなく、学習による適応なんですね。遺伝子レベルで本能的に即座に適応する行動と、学習によって学ぶ行動は分けて考える必要があります。

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 話は変わりますが、ユニセフでは、各種の臨界期を公式発表しています。

 音声言語の臨界期は一歳から七歳。
 情動のコントロールカの臨界期は一歳から五歳。
 仲間との社会関係力の臨界期は三歳から七歳。
 算数能力の臨界期は一歳六ヶ月から七歳。
 両眼視の能力に関する臨界期は〇歳から五歳。

 音声言語に関して言うと、七歳までに人間の言葉を学習しないと、それ以降はどんなに勉強しても学習効果は極めて少ないと指摘しています。もちろん脳には、可塑性(柔軟性)があるので、 七歳以降は絶対に学習できないというわけでは無いのですが、本能的に即座に適応するという能力は失われてしまう。

 算数の基本的能力に関しても臨界期があります。人類を進化的を考えると、 十程度まで数えたり、大きさを比較したりする能力が七歳ぐらいまでに身に付けていないと生存が難しい。

 これはサルでも同じで、彼らも早い段階で数を認識したり、大きさを比較する能力を持っています。つまり算数の基本的能力は、進化的予想している環境である。なので算数の基本的能力に臨界期がある。七歳までに数の基本的能力を身につけないと生存競争を勝ち抜けない。だから算数の基本的能力を七歳までに学習する必要がある。

 まあ、そんなことはどうでもいいとして、問題は
「両眼視の能力に関する臨界期は〇歳から五歳」
という臨界期です。

 人は眼を二つ持っていますが、この二つの眼はあたかも一つの眼のように働いています。これは、両眼で受け入れた感覚を脳で統合して一つの新しい感覚としているからであり、この機能を「両眼視機能」といいます。

 まず、両眼の左右に映った映像を同時に見る能力が生まれます。そして、左右の眼に映ったそれぞれの映像を、まとめて一つのものとして見れるようになります。最後に、右眼と左眼は左右に離れているため、わずかに角度のずれた映像をもとに脳の中で立体的な映像が作り出されます。これが両眼視の能力で、これがないと対象の遠近関係や三次元での動きを視覚的に認識することができない。この臨界期が五歳までです。

 例えば幼児白内障などで片眼でしかモノを見ないで育った場合、仮に五歳以降に視力が回復したとしても、両眼視の能力は生涯ほとんど発達しません。脳の中で競争が起きるからです。よく活動する神経回路は、ほとんど活動しない神経回路との競争に勝って発達してしまう。勝ち負けが確定すると、負け組の神経回路は、使われなくなってしまう。その結果、両眼視の能力を失ってしまう。

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 ここで本題に入ります。

 息子が五歳になると五歳児健診がありました。それまでも六ヶ月検診とか、 一歳児健診とか、 二歳児健診とか、いろいろな幼児健診があったわけですが、どういうわけか視力検査だけは全く行って来ませんでした。

 で、 五歳児検診で、初めて視力検査を行ったわけですが、片眼が1.2。片眼が0.75と言う異常な数値が出て、両眼視の能力に関して精密な検査を行うように指導を受けてしまいました。

 真っ青になったのは私です。ユニセフの公式見解で「両眼視の能力に関する臨界期は〇歳から五歳」ということを以前脳科学の本で読んで知っていたので、早急に幼稚園を休んで御代田総合記念病院に駆け込みました。



つづく。

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2018年10月08日

幼児に対する道徳教育について その5『良い習慣』

 つづきです。

 島田洋七氏は、「褒めてやらせよう」というのは少し違うと言っている。私も同感です。褒めなくとも、子供は勝手に、自分のことは自分でするんですよね。ある条件がそろえばです。問題は、その条件です。その条件こそが幼稚園教育・幼児教育の要諦(最も大切なところ)なんですよね。

 それを日本で最初に指摘したのが、日本幼稚園教育の父である中村正直です。
 そうです。自助論を翻訳した中村正直です。
 では、中村正直は、なんと言ったかと、
「よい習慣をつけるのが、幼児教育の要諦」
と言ったんです。

 ちなみに日本における近代教育の始まりは、明治五年八月公布の「学制」により開始されていますが、そこには最初から「幼稚園構想」がありました。なぜ文部省に最初から幼稚園構想があったのか?

 明治五年に文部省が「学制」を公布する一年前。つまり明治四年に、当時の日本人をことごとく震撼させる本が中村正直より出版されているからです。『self help』です。これを中村正直が翻訳した『西国立志編(スマイルズ著・中村正直訳)』。

 この本によって当時の日本人は愕然としました。

 それまでは、西洋列強は、単に科学技術に優れているから、その武力で世界を征服できた。貿易で富を稼いだからその財力で世界を征服できた。・・・と思っていたわけです。しかし、そうではないことが、『自助論(西国立志編)』によって分かってしまった。

 ヨーロッパが強大になった理由は、彼らの方法で品性を磨くことによってヨーロッパ諸国が出来上がったということに気づかされたわけです。だから、自助論を西洋の論語と称したわけです。

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 例えば「酔っ払いを禁止する」といった法律を作ったとしても、その法律で酔っ払いが減るという事は無いと言います。「国民の質が国家の質」という原則を多くの事例を持って語られています。みんなが品性を磨き、自己啓発をしていけば、成功者が生まれてくる。
 
「人間の自由を重んじ、その習慣の形成は第二の天性である。したがって幼少の時からの良い習慣を自然と身につけさせることが必要である」

 スマイルズは、習慣が大事だと言い切ります。だから小さい頃から良い習慣を身につけさせなければいけない。そう説いていますが、これは当時の知識人にとっては耳の痛いところでもありました。そこが当時の日本の弱点でもあったからです。日本の子供たちの多くは、悪い習慣に染まっていたからです。これでは西洋列強に後れをとってしまう。

 で、明治政府は、幼稚園に目をつけたわけです。もちろん中村正直も、子供たちに良い習慣をつけさせなければいけないと思って行動に移します。

 明治7年東京女子師範学校の校長に中村正直が就任すると、 すぐに幼児教育計画を立てて明治9年に日本初の幼稚園を創設しました。主任保母にはフレーベル直伝と言われるドイツ人松野クララ夫人を迎え、日本人保母に藤田東湖の姪である豊田芙雄が就任します。豊田芙雄もまた、自助論に感動した口であり、中村正直の同志でもありました。彼女が書いた『保母の栞』を読むと、それがよく分かります。最初の二行だけ紹介します。

「幼稚園とは何か。多くの幼い子供たちを集めて健康と幸福を保ち、良い習慣を与えて子供たちに最も楽しみを得させるために導く一つの楽しい園宴である」

 文中に「良い習慣を与えて」とある通り、よい習慣を与えることによって、もう一つの天性を伸ばそうと言っているわけです。良い習慣を与えることによって、人は勤勉になり、努力家になり、結果として成功者になります。そうやったできた国民の質が国家の質となる。その結果、なんとか西洋列強に対抗できると、当時の知識階級の人たちは考えたわけです。

 つまり本来幼稚園とは、「子供たちに良い習慣をつけさせる場所」だったわけです。勉強・運動・人格の育成のための場所ではなく、ただひたすらに『良い習慣』をつけさせるのが目的だったんですね。だから成績は悪くても良い。運動ができなくてもよい。それらの優劣は全く問題ではないわけです。『良い習慣づくり』が、問題なわけです。

 もちろん良い習慣の中には、勉強もあるかもしれないし、運動もあるかもしれない。遊びもあるかもしれない。それらを含めて習慣化することが大切なんですよね。歯を磨く習慣とか、挨拶をする習慣とか、時間を守る習慣とか、ラジオ体操をする習慣とか、本を読む習慣とか、ペットに餌を与える習慣とか、字を書く習慣とか、人助けをする習慣とか、あらゆる習慣を身につけさせることが、幼児教育の要諦(最も大切なところ)であると、豊田芙雄や中村正直は、言っているんです。

 そして『良い習慣』さえ身につけさせてしまえば、親は何もしなくても、子供たちは勝手に成長して大物になっていく。それが西洋諸国が強大化していった本質だと言うのです。

 難しい話は、ここでおしまいにします。
 五歳になった息子の話です。

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 うちの息子は、三月末の生まれと言うこともあって、非常に成長が遅かったです。ゲスな言葉で言えば、知能が低めということになります。そのために幼稚園で何をやるにしても他の人よりワンテンポ遅れています。行動もノロノロしていて、運動神経も最低レベルであるために、年少組の先生からも、年中組の先生からも、年長組の先生からも、落ちこぼれぎみであると、何度も聞かされています。で、幼稚園から紹介された二人の専門の先生(作業療法士・発達心理)に特別指導をうけたりしました。

 普通の親なら、ここで焦るべきなんでしょうが、全く私が焦らなかった理由は、幼稚園では『良い習慣』さえ身につけてくれればよいと思っているからです。そして園から帰ったら必ず、ハイキングにいくという習慣。本を読むという習慣。柔軟運動・スクワット・腹筋・腕立てをするという習慣。お客さんに挨拶をするという習慣。そういう習慣さえ少しずつ身につけていれば、なんとかなる気がする。

 それに成長が遅いというのも、全くのデメリットでもないんですよね。成長が遅いがためのメリットもある。一番のメリットは、『良い習慣』をつくりやすいこと。まだ固まってないので、『良い習慣』をつくるのが楽なんです。

 もちろん、それだけじゃない。例えば、好き嫌いがない。食べ物の好き嫌いはもとより、勉強を嫌ったりもしない。そのためにいろんなことを暗記する力があったりするし読書量も多い。五歳児なのに、三歳〜四歳児なみに何でも吸収します。警戒心も薄いので、見知らぬ公園で初めて会った人とすぐに友達になれてしまう。

 そのうえ幼稚園では女の子に可愛がられているらしい。女の子からしたら、出来の悪い弟が同級生にいるようなものらしく、いろいろ面倒をみてもらっているようです。

 実は息子は、空手教室に通っているのですが、あまりにも技のかけかたが下手なので、少しばかり私が指導したりするのですが、それをやると、息子の同級生の女の子が
「タケル君を叱らないで!」
と文句をいってきます。息子を叱ったりすると、息子の同級生の女の子が、私のほっぺたをつねることもあります。どうやら息子の奴は、同級生の女の子の母性本能をくすぐるらしい。もちろん同級生の男の子も、息子をさかんにフォローする人がいます。息子の奴は、いろんな人たちに支えられている。というか、友達に恵まれているらしい。しかも、その友達というのは、仲良く遊ぶ友達ではなくて、遠くから息子を見守っている保護者的な友達だったりする。担任の先生曰く、息子の奴は、ふだんは特定の友人とうまく遊べないでいるらしいからです。どうやら他の子供たちに比べて、幼すぎるから・・・です。



つづく。

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幼児に対する道徳教育について その4『良い習慣』

 つづきです。

 島田洋七氏は、「褒めてやらせよう」というのは少し違うと言っている。私も同感です。褒めなくとも、子供は勝手に、自分のことは自分でするんですよね。ある条件がそろえばです。問題は、その条件です。その条件こそが幼稚園教育・幼児教育の要諦(最も大切なところ)なんですよね。

 それを日本で最初に指摘したのが、日本幼稚園教育の父である中村正直です。
 そうです。自助論を翻訳した中村正直です。
 では、中村正直は、なんと言ったかと、
「よい習慣をつけるのが、幼児教育の要諦」
と言ったんです。

 ちなみに日本における近代教育の始まりは、明治五年八月公布の「学制」により開始されていますが、そこには最初から「幼稚園構想」がありました。なぜ文部省に最初から幼稚園構想があったのか?

 明治五年に文部省が「学制」を公布する一年前。つまり明治四年に、当時の日本人をことごとく震撼させる本が中村正直より出版されているからです。『self help』です。これを中村正直が翻訳した『西国立志編(スマイルズ著・中村正直訳)』。

 この本によって当時の日本人は愕然としました。

 それまでは、西洋列強は、単に科学技術に優れているから、その武力で世界を征服できた。貿易で富を稼いだからその財力で世界を征服できた。・・・と思っていたわけです。しかし、そうではないことが、『自助論(西国立志編)』によって分かってしまった。

 ヨーロッパが強大になった理由は、彼らの方法で品性を磨くことによってヨーロッパ諸国が出来上がったということに気づかされたわけです。だから、自助論を西洋の論語と称したわけです。

lif1801080028-p4.jpg

 例えば「酔っ払いを禁止する」といった法律を作ったとしても、その法律で酔っ払いが減るという事は無いと言います。「国民の質が国家の質」という原則を多くの事例を持って語られています。みんなが品性を磨き、自己啓発をしていけば、成功者が生まれてくる。
 
「人間の自由を重んじ、その習慣の形成は第二の天性である。したがって幼少の時からの良い習慣を自然と身につけさせることが必要である」

 スマイルズは、習慣が大事だと言い切ります。だから小さい頃から良い習慣を身につけさせなければいけない。そう説いていますが、これは当時の知識人にとっては耳の痛いところでもありました。そこが当時の日本の弱点でもあったからです。日本の子供たちの多くは、悪い習慣に染まっていたからです。これでは西洋列強に後れをとってしまう。

 で、明治政府は、幼稚園に目をつけたわけです。もちろん中村正直も、子供たちに良い習慣をつけさせなければいけないと思って行動に移します。

 明治7年東京女子師範学校の校長に中村正直が就任すると、 すぐに幼児教育計画を立てて明治9年に日本初の幼稚園を創設しました。主任保母にはフレーベル直伝と言われるドイツ人松野クララ夫人を迎え、日本人保母に藤田東湖の姪である豊田芙雄が就任します。豊田芙雄もまた、自助論に感動した口であり、中村正直の同志でもありました。彼女が書いた『保母の栞』を読むと、それがよく分かります。最初の二行だけ紹介します。

「幼稚園とは何か。多くの幼い子供たちを集めて健康と幸福を保ち、良い習慣を与えて子供たちに最も楽しみを得させるために導く一つの楽しい園宴である」

 文中に「良い習慣を与えて」とある通り、よい習慣を与えることによって、もう一つの天性を伸ばそうと言っているわけです。良い習慣を与えることによって、人は勤勉になり、努力家になり、結果として成功者になります。そうやったできた国民の質が国家の質となる。その結果、なんとか西洋列強に対抗できると、当時の知識階級の人たちは考えたわけです。

 つまり本来幼稚園とは、「子供たちに良い習慣をつけさせる場所」だったわけです。勉強・運動・人格の育成のための場所ではなく、ただひたすらに『良い習慣』をつけさせるのが目的だったんですね。だから成績は悪くても良い。運動ができなくてもよい。それらの優劣は全く問題ではないわけです。『良い習慣づくり』が、問題なわけです。

 もちろん良い習慣の中には、勉強もあるかもしれないし、運動もあるかもしれない。遊びもあるかもしれない。それらを含めて習慣化することが大切なんですよね。歯を磨く習慣とか、挨拶をする習慣とか、時間を守る習慣とか、ラジオ体操をする習慣とか、本を読む習慣とか、ペットに餌を与える習慣とか、字を書く習慣とか、人助けをする習慣とか、あらゆる習慣を身につけさせることが、幼児教育の要諦(最も大切なところ)であると、豊田芙雄や中村正直は、言っているんです。

 そして『良い習慣』さえ身につけさせてしまえば、親は何もしなくても、子供たちは勝手に成長して大物になっていく。それが西洋諸国が強大化していった本質だと言うのです。

 難しい話は、ここでおしまいにします。
 五歳になった息子の話です。

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 うちの息子は、三月末の生まれと言うこともあって、非常に成長が遅かったです。ゲスな言葉で言えば、知能が低めということになります。そのために幼稚園で何をやるにしても他の人よりワンテンポ遅れています。行動もノロノロしていて、運動神経も最低レベルであるために、年少組の先生からも、年中組の先生からも、年長組の先生からも、落ちこぼれぎみであると、何度も聞かされています。で、幼稚園から紹介された二人の専門の先生(作業療法士・発達心理)に特別指導をうけたりしました。

 普通の親なら、ここで焦るべきなんでしょうが、全く私が焦らなかった理由は、幼稚園では『良い習慣』さえ身につけてくれればよいと思っているからです。そして園から帰ったら必ず、ハイキングにいくという習慣。本を読むという習慣。柔軟運動・スクワット・腹筋・腕立てをするという習慣。お客さんに挨拶をするという習慣。そういう習慣さえ少しずつ身につけていれば、なんとかなる気がする。

 それに成長が遅いというのも、全くのデメリットでもないんですよね。成長が遅いがためのメリットもある。一番のメリットは、『良い習慣』をつくりやすいこと。まだ固まってないので、『良い習慣』をつくるのが楽なんです。

 もちろん、それだけじゃない。例えば、好き嫌いがない。食べ物の好き嫌いはもとより、勉強を嫌ったりもしない。そのためにいろんなことを暗記する力があったりするし読書量も多い。五歳児なのに、三歳〜四歳児なみに何でも吸収します。警戒心も薄いので、見知らぬ公園で初めて会った人とすぐに友達になれてしまう。

 そのうえ幼稚園では女の子に可愛がられているらしい。女の子からしたら、出来の悪い弟が同級生にいるようなものらしく、いろいろ面倒をみてもらっているようです。

 実は息子は、空手教室に通っているのですが、あまりにも技のかけかたが下手なので、少しばかり私が指導したりするのですが、それをやると、息子の同級生の女の子が
「タケル君を叱らないで!」
と文句をいってきます。息子を叱ったりすると、息子の同級生の女の子が、私のほっぺたをつねることもあります。どうやら息子の奴は、同級生の女の子の母性本能をくすぐるらしい。もちろん同級生の男の子も、息子をさかんにフォローする人がいます。息子の奴は、いろんな人たちに支えられている。というか、友達に恵まれているらしい。しかも、その友達というのは、仲良く遊ぶ友達ではなくて、遠くから息子を見守っている保護者的な友達だったりする。担任の先生曰く、息子の奴は、ふだんは特定の友人とうまく遊べないでいるらしいからです。どうやら他の子供たちに比べて、幼すぎるから・・・です。



つづく。

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2018年10月03日

幼児に対する道徳教育について その4『自分のことを自分でやれる子供』

 五歳くらいになると、自分の事は自分でするようになります。服を脱いだらきちんとたたむし、風呂に入るときなら洗濯機に入れてくれる。風呂から上がったら、自分でタンスから服を探して勝手に着ます。

 これは朝起きるときも寝るときも、自分でパジャマに着替えますし、パジャマから洋服に着替えます。つまり着替えに関しては、もう親の手はいらない。

 と、こう言う話をお客さんに言いますと、
「そうそう! そうだよね!」
というお客さんと
「うちは全然駄目」
というお客さんがいたので「変だな?」と不思議に思っていたんですが、最近、やっとその差の理由が分かりました。

 きちんと子供用のタンスがあるかないかの違いなんです。そして、そのタンスに「ズボン・下着・靴下」といった文字が書いてあれば、普通の五歳児であれば、たいていのお子さんは自分で勝手に着替える事ができるようになるんです。たとえ親が教えなくても、着替える事ができる。現に私は教えていません。教えなくても必ずできるようになる。もちろん「ズボン・下着・靴下」といった文字を覚えさせる事が前提ですが、幼稚園さえ行っていれば五歳児なら平仮名くらいは読めるでしょうから、不可能では無い。

 で、教えてもないのに、どうして、それができるようになるか?という点ですが、幼稚園で、その基礎を教えていたんですよね。幼稚園には、下駄箱もあればロッカーもある。そこに名前が書いてあって、自分の物は自分でしまうように躾けられている。だから自分のタンスを作ってあげて、衣類の名前を書いてあげれば勝手に自分でコーディネートして着替えてくれるんです。女の子だと四歳児くらいから、それができる子もいる。うちの息子は、成長が遅れ気味なので、五歳になったばかりで、やっとできるようになった。

 だから親は、子供用タンスに洗濯物済みの衣類をそこに入れるだけで良い。いや、それさえも自分でやりたがるのが五歳児ですから、余裕があれば、自分の洗濯物は自分でたたんで入れるようにしむければ、やるようになるはずです。

 とにかく五歳児は、なんでも自分でやりたがりますね。なので、親がその気にさえなれば、なんでも自分で、できるようになる。これに気がついたのが、息子が五歳になってまもなくのことでした。

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 きっかけは、嫁さんが「息抜きに東京に行きたい」と言い出したことです。それは、そうだと思った私は、毎年・東京で行なわれている日本ユースホステル協会の研修会(一泊二日)に、嫁さんを出席させることにしました。たまには息子から離れて息抜きも必要だと思ってのことです。

 しかし、そのためには、息子の物が仕舞ってある場所を教えて貰わなければならない。具体的に言うと五歳の息子の衣類が置いてある場所が分からないので、息子用のタンスに「ズボン・下着・靴下」といったタックシールを貼って貰ったのです。そのタックシールは、あくまでも私に分からせるためのシールだったのですが、そのシールは、息子にとっても便利な目印だったんですね。

 そのうえ、そのタンスは小さな三段のタンスで、息子の衣類しか入ってなかったために、息子にしてみたら「自分のタンス」という意識になる。で、その自分のタンスの中にある衣類は、自分が自由に着て良いものであると思い込んだわけです。そうなると幼稚園で行なわれている教育が、家庭でも再現される。つまり、自分のことは自分でやるようになるわけです。自分で洋服をコーディネートして着替えるようになるし、風呂から上がったら勝手に着替えるようになる。

 今まで私は、幼稚園で何を教えているのか、よく分かってなかったために、それを家庭で活用できてなかったんです。そのために息子が五歳になるまで、幼稚園で教わったことを、家庭で応用するなんて発想が全くなかった。もし、もっと早く気がついていたら、四歳くらいから、自分の事は自分でするようになったはずです。というのも、「四歳の頃から自分の事は自分でするようになった」と証言する人が、うちのお客さんの中にはいたからです。それを聞いたときは
「しまった!」
と地団駄を踏んだものです。

 では、私が子供の頃はどうだったかと言うと、自分が幼児の頃はやってなかった。朝起きたら枕元に着替えがおいてあったので五歳で自立どころか、十二歳くらいになるまでやれてなかった。これは時代もあったと思います。私が生まれた時代(昭和三十年代)は、子供がタンスをいじる風習が今ほどなかったからです。どの家庭でも子供の衣類は、親か祖母が用意していた。いつも枕元に着替えが置いてあったために、風呂から上がると着替えが置いてあったために、自分の衣類が何処にしまってあるのか、中学生になるまで分からなかった。

 もちろん子供用タンスなんてなかった。昔は今ほどタンスは安くなかったし、タンスに「ズボン・下着・靴下」といった文字を書く事もなかった。タンスは高級品だったし、当時は簡単にはがせるタックシールもなかった。セロハンテープだって高級品だった。セロテープがあっても、タンスにテープを貼る発想がなかった。そもそも当時の女性(母親・祖母)は、今よりずっと働き者で、世話焼だったので、子供は甘えようと思えば、とことん甘えられた。

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 そう考えると、時代や風習や豊かさが子供に与える影響も大きい気がします。私より十歳ほど年齢が上(昭和二十年代)になると、これが逆になってしまう。『佐賀のがばいばあちゃん』で有名な漫才師・島田洋七さんは、八歳で祖母に預けられ、その初日からカマドで飯炊きをさせられています。八歳の子供が、電気炊飯器ではなく、薪を燃やしてカマドで飯炊きをさせられるわけですが、それを毎日やっています。世の中が貧しいと、逆に自分のことは自分でやらないと生活がなりたたない。貧しければ、枕元に着替えを置く暇がない。

 それ以前に親を手伝わなければならない。川に流れる風呂の水をくむのも、裏の畑に水をまくのも八歳の島田少年がやっている。風呂だと五十杯。畑だと十五杯。それを毎日やっている。しかし、島田少年は、それを強制されてやっているわけではない。ここで『がばいばあちゃんの笑顔でいきんしゃい・島田洋七著』の中の文章を紹介したいと思います。

**********************************
 これも別に、やれと言われたわけではないが、おばあちゃんが、何も用事があるのに、何十台も持ってお風呂とは、間を往復しているみたら、
「あ、それを俺がやるよ」
ってなる普通じゃないだろうか。
 すっかり日課だったから、飯を炊いても水をくんでも
「ようやった」
と褒められる事もないし、お駄賃をもらえる事もなかったけれど、自分は偉いなぁって思った事もなかった。
 手伝いしない子供に「褒めてやらせよう」みたいな話があるが、それは何か違うなぁと俺は思う。
 親が何かをやっていたら、子供は興味を持ってやってくる。その時にできるかな?とやらせてみて、やり遂げられたら、その後の仕事にしてしまえばいいのだ。

『がばいばあちゃんの笑顔でいきんしゃい・島田洋七著・徳間文庫・37〜38ページより』
**********************************

 島田洋七氏は、「褒めてやらせよう」というのは少し違うと言っている。私も同感です。褒めなくとも、子供は勝手に、自分のことは自分でするんですよね。ある条件がそろえばです。問題は、その条件です。その条件こそが幼稚園教育・幼児教育の要諦(最も大切なところ)なんですよね。

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 それを日本で最初に指摘したのが、日本幼稚園教育の父である中村正直です。そうです。自助論を翻訳した中村正直です。では、中村正直は、なんと言ったかと・・・・また長くなるので、続きは後日にします。

つづく。

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2018年10月01日

幼児に対する道徳教育について その3『ホスピタリティ』

 今年は台風が多かったですね。そのうえ、まだ台風24号が来ると言うですから本当に困ったものです。けれど、どういうわけか北軽井沢は、台風の影響が少なくて、夏の間はずっと晴れていました。おかげでお客さんは大喜びです。うちのお客さんは、小さな子供さんを連れたファミリーが多いので、庭にはたくさんの遊具があります。子供さんに外で遊んでいただくためです。

 そうでないと、宿の中で小さなお子さんがドタバタ走り回り、他のお客様にご迷惑をかけたりするからです。廊下を走らないでくださいと言う張り紙をしてくださいと、お客様から注意された事もあるんですが、例に貼ってみても無駄でした。ドタバタ走り回るお子さんというのは、まだ小さくて文字が読めないんですよね。

 これでは困ると思ったので、 400坪ほどある庭にたくさんの遊具を置いて、息子をけしかけて、お客さんのお子さんたちと遊ばせるようにしました。最初は恥ずかしがっていた息子も、だんだんとコツを覚えて、お客さんのお子さんたちとすぐに良くなるようになり、外で遊ぶようになりました。おかげで、館内でドタバタ子供たちが暴れる事が減り、ほっと一息です。

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 話が変わりますが、息子のやつが五歳になって六ヶ月になります。 五歳児ともなりますと、それ以前と全く違いますね。まるで天使のようです。外見のかわいさは、三歳児や四歳児にかないませんが、五歳児には別の意味のかわいさがあります。

 まず、聞き分けが良くなります。親が怒ったり注意したりする必要がなくなります。多少反抗したとしても言い聞かせれば、簡単に納得してくれます。

 それから他人を思いやれるようになります。夏のある日、私が昼寝から目覚めますと、息子がそばにいて麦茶を差し出したりします。相手を思いやれるようになってきている。お客さんに御菓子をもらうと、独り占めせずに、他の子供たちにも分けてあげますし、親にも分配するようになりました。正直言って、御菓子なんか食べたくないのですが、教育のために無理に食べるようにしています。

 そして夏休みに、お客さんが、うちの宿にチェックインしている時、
「麦茶にしますか? 冷たいお水にしますか?」
と接客の真似事もするようになりました。私が忙しいですと、代わりに宿帳を差し出して、住所と名前を書いてくださいと、ご案内するようにもなりましたし、お客さんに館内の案内もするようになりました。五歳児に接客されたお客さんは、かなり驚いていました。

 また、お客さんの中に自分より小さなお子さんがいたら、本の読み聞かせをしてあげたりします。息子のやつは二歳になるまえに平仮名や片仮名を覚えましたので、今では絵本をすらすらと読めるようになっています。なので、お客さんの中に小さなお子さんがいますと、絵本を読んであげています。

 その姿があまりにも微笑ましいので、何度かこっそりを写真に撮りました。 三歳四歳の子供たちが、 五歳の息子の周りにずらりと集まって、息子の絵本の読み聞かせに静かに聴いている姿は、本当に可愛いものです。そして癒やされます。

 また、夜はお客さんに花火を持っていったり、お茶菓子を出したりもします。自分のおもちゃを差し出したり、シールをあげたりするようにもなりました。息子が、こんな調子ですから、 三か月もしないうちに、再びリピーターとして泊まりにきてくれるお客さんも、かなりの数になってきました。

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 実は、息子ができると、そのようになるという事は、多くの(宿屋の)諸先輩方から聞かされていました。佐渡島のユースホステルの奥さんや、子育て終わった近所のペンションオーナーに、親が一生懸命宿屋をやっていると子供はとても優しい子になるよと言われてました。

 北軽井沢には、アルバイトに小学校の非常勤教員をしつつペンションもやっている方もいるんですが、その方も、宿屋と農家のお子さんは思いやりの多い優しい子供が多いと言っていて。そのうちに息子さんが最強の営業ツールになるよ・・・と言われていたのですが、最初は半信半疑でした。

 が、今ならわかります。

 小さな子供は、徹底して親の真似をします。
 それはこのブログにもくどいぐらいに書いてきました。
  http://kaze3.seesaa.net/category/25476231-1.html

 例えば私が嫁さんを怒鳴ったりすると、息子も母親を怒鳴ったりする。逆に優しくすると、息子も優しく接するようになる。なので、極力夫婦喧嘩はやめて、できるだけお客さんに対するホスピタリティを上げる事に専念する。そうすると、息子のやつは、接客している親の姿を知らず知らずのうちに真似しているんですね。接客している親の真似をしつつ、相手に対する思いやりや、ホスピタリティの精神が身についてくる。つまり、親の後ろ姿を見せるだけでいい。自動的に思いやりがもてるようになるんですよね。

 別に特別な道徳教育のしなくても、親の後ろ姿だけでいいわけですから、そんな楽な事ありません。ファミリーのお客さんに、できるだけの事をしてあげるだけで、それが息子に対する最強の道徳教育になるわけですから、宿屋というのは、子供の道徳教育には、最高の環境かもしれませんね。

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 それだけじゃない。五歳くらいになると、自分の事は自分でするようになります。服を脱いだらきちんとたたむし、風呂に入るときなら洗濯機に入れてくれる。風呂から上がったら、自分でタンスから服を探して勝手に着ます。

 これは朝起きるときも寝るときも、自分でパジャマに着替えますし、パジャマから洋服に着替えます。つまり着替えに関しては、もう親の手はいらないんです。

 と、こう言う話をお客さんに言いますと、
「そうそう! そうだよね!」
というお客さんと
「うちは全然駄目」
というお客さんがいたので「変だな?」と不思議に思っていたんですが、最近、やっとその差の理由が分かりました。ほんのちょっとの環境の差で、明暗がでることに気がつきました。タンスの差です。信じられないかもしれませんが、タンスの差で自分の事は自分でするようになるんですよ。たかが、タンスの違いで大きく違ってくる。文章が長くなったので、続きは、後日で。


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つづく。

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2018年05月25日

幼児に対する道徳教育について その2『ミラーニューロン』

 子供が親の真似することは、息子が生まれる前から理屈としては知っていました。そして、脳内にある神経細胞・ミラーニューロンというものの存在も知っていました。

 ミラーニューロンとは、親の真似をすることによって、相手に対して感情移入できるようになる神経細胞のことです。これが、うまく発達してないと、相手に対して思いやりが持てなくなります。感情移入は、相手を真似することによって得られるんです。この真似ができないと、感情移入できなくて、思いやりがもてない人間になるというわけです。

 つまり、子供が親の真似をするのは、あたりまえのことであり、もし、真似を許さなかったらミラーニューロンの発達がすすまず、悲しい映画をみて涙が出たりしなくなる。スポーツでも、上手な人のお手本を参考にして練習して効果が出なくなってしまう。イメージトレーニングの効果を期待できなくなる。

 それほど重要な脳神経がある。
 それは理屈として知っていました。

 なので、たとえ悪いことでも親の真似をしたら褒めていたので、息子は何でも親の真似をするようになったのですが、その真似の仕方は、想像以上に完璧で、こちらが悲鳴をあげてしまったくらいでした。理屈として知っていることと、自分で体験することは、まるで違うんですよね。

 例えば、キャッチボールするときに、私の息子では身長が違います。なので、お互いが、立ったままキャッチボールとしては身長が違いすぎるので、どうも具合が悪い。それで私がしゃがんでみたり椅子に座って身長を調整しようとするんですが、それをやると息子も真似をするんです。私だけが椅子に座って息子だけを立たせてキャッチボールをするということができないんです。私が椅子に座ったりしゃがんだにすると、息子も真似をして椅子に座ったりしゃがんだにしてしまうので、身長の調整ができない。

 仕方がないので、お互いが立ってキャッチボールするのですが、私は息子の身長に合わせてアンダースロー(つまり下手投げ)で投げるわけですが、息子のやつはそれさえも真似をしてしまいます。オーバースロー(上手投げ)では絶対投げてくれません。いくら教えても親と同じ投げ方をします。

 なので、仕方なく私もオーバースローで投げるんですが、それだとお互いの身長が違いすぎるので、うまくキャッチボールができません。私だけがキャッチャーのようにしゃがめればいいんですが、私がしゃがむと息子もしゃがんでしまいます。本当にめんどくさい。

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 一事が万事こんな具合なので非常にやりにくい。夫婦喧嘩で嫁さんを怒鳴ると息子も嫁さんのいうこと聞かなくなる。なので夫婦喧嘩はもちろん、嫁さんに
「おい、○○持ってきて!」
とも言えなくなってきたんです。
「お母さん、○○を持ってきてください」
と言わないと、息子が真似をしてしまう。なので
「お母さん、○○をお願いします」
そして
「ありがとうございます」
と言わないと、息子も、同じように応対しない。非常にめんどくさいことになったわけです。なにしろ、こっちには息子のミラーニューロンを鍛える意図があるわけですから、親の真似を「するな」とは言えない。

 逆に良いこともあります。親が休まずに山に登ろうとすると、息子も真似して登ろうとします。親が客室を掃除すると息子も一緒にしだします。絶対に、おもちゃをかたづけようとしなくても、一旦、親がかたずけはじめると一緒にかたづけはじめます。パソコンで仕事をしていると息子もパソコンをいじりだす。パソコンで漢字クイズなんかをやりはじめる。とにかく子供は親の真似をする。

 何故、そうやって真似をさせてミラーニューロンを鍛える必要があるかというと、子供の道徳教育にミラーニューロンを鍛えることが欠かせないからです。いくら理屈で道徳教育をしても、そもそも相手に対する共感能力がなければ、理屈だけで終わってしまうからです。そのためにはどうしてもミラーニューロンを鍛える必要性があったわけです。

 前回もこのブログに書きましたが、宿屋が息子の道徳教育に失敗してしまったら、あっという間に宿は潰れてしまいます。うちの宿のそばには、おもちゃ王国があるために、お客さんの大半が小さなお子さん連れです。もし、息子が、お客さんのお子さんに乱暴してしまったら、とんでもないことになるからです。なので、どうしても子育ての道徳教育の部分が重要になってくるんです。子育ての道徳教育が仕事に、そして生活に直結しているんです。だから、普通の家庭よりも、どうしても神経を使わざるをえない。勉強・運動よりも、道徳教育に力を入れざるをえないんです。

 長い前置きはこのくらいにして、これからが本題です。

 前回、ブログにも書きましたが、なんだかんだと言って苦労しながら行なった道徳教育が効果を現し始めると、お客さんの子供さんとも、喧嘩をすることもなく、誰とでも仲良く遊べるようになってきました。

 親には内緒で自分のおやつを全部食べずに少しずつ秘密の小箱の中に蓄えて、お客さんの子供に配ったりするようになりました。遠くに住んでるおばあちゃんからもらったシールや宝箱に大切に保存していたおもちゃを、お客さんのお子さんに惜しげも無く、次々と配って歩くようにもなりました。そして、どのお客さんのお子さんとも仲良く遊べるようになったわけです。

 それはもう生き生きとしていて、楽しそうなんです。喧嘩もせずに仲良く遊べるという事は、息子にとっても非常に楽しい出来事らしく、自分の宝物や自分のおやつを、分け与えることによって喜んでもらえることが嬉しくてたまらないと言う感じでした。

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 こうなると、どうしても気になることも出てきます。
 子供園の息子の姿と、宿での息子の姿が、全く違うということです。

 息子は子供園に通っています。子供園というのは午前中が幼稚園、その後が保育園というシステムのところですが、幼稚園というのは夏休み・冬休み・春休みといった長期の休みがあります。そういう場合は、子供園は朝から晩まで保育園になってしまうんですが、保育園にはスクールバスありませんので、夏休み・冬休み・春休みになると、子供園への送迎は私の仕事です。

 息子を迎えに行くと、子供園での息子の姿を観察する機会があるんですが、どういうわけか、うちの息子は、子供園でつまんなそうな顔をしている。宿に遊びに来るように友達ができてない。宿では、初対面のお子さんと活発にコミュニケーションがとれているのに、子供園では友達とコミュニケーションがとれているとは思えないのです。

 全く別人のような感じがする。

 これは午前中の幼稚園の授業のときに用事があって迎えに行っても、同じような感じです。運動会や祖父母会の様子をみても、三歳児検診・四歳児検診といった場所でも、その他の行事でも似たような感じです。

 もしこれが、子供園でも、宿でも全く同じであったら「そういうものか」と気にしないのですが、そうではない。御客様が同じくらいの年齢のお子さんを連れてきたときは、別人のように生き生きとして、すぐに仲良くなって楽しそうに遊んでいるからです。

 うちの宿の御客様の八割は、ファミリーで、そのうちの半分は未就学児。夏休みや週末には、宿は幼稚園みたいになっているのですが、息子は生き生きとして、さかんに御客様のお子さんと遊びつつ、みんなを喜ばせようとしている。しかし、子供園や、その他のところでは、そういう姿をみたことがない。

 私が園に送迎に連れて行ってるときに見た息子の姿と、宿での姿が違いすぎる。
 まるで別人。
 それは不思議なくらいで、二重人格なのか?と疑うほどに違う。

 誤解の無いように言うと、息子は子供園(幼稚園+保育園)が大好きなんです。入園初日から喜んでバスに乗ったし、3日くらい子供園(幼稚園+保育園)を休ませると、子供園(幼稚園+保育園)に行きたいと親に訴えてくるようになるくらい子供園(幼稚園+保育園)が好きなんです。もちろん担任の先生も大好きで、特に年中組の男の先生が大好きだったようで、◆◆先生に会いたいと言うので、休ませにくかったくらいです。なのに、自宅での姿と子供園(幼稚園+保育園)での姿が全く違う。

 幼稚園での姿と、自宅での姿が、あまりにも違いすぎる。
 これは何故なんだろう?

 二年間、ずーっと不思議に思っていました。
 どうしても分からなかった。
 しかし、最近になって、やっと謎がとけました。

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 息子は宿(自宅)にいるときに、親の真似をしてたんです。宿屋ですからサービス業です。お客さんから「夜のティッシュペーパーがなくなったですが」と言われれば「すいません、今お持ちします」とティッシュペーパーをお出しします。お客さんに親切にするのがサービス業の基本です。

「子供が熱があるようなんですが」
「体温計を出しましょうか?子供用のお薬を出しましょうか? 」

「両替してほしいんですが・・・」
「はいただいま参ります」

「ビデオの調子がおかしいんですが」
「別の新しいビデオデッキをお持ちしますので、少々お待ちください」

「ミルクを作りたいんでお湯が欲しいんですが」
「電気ポットをお持ちいたしますね」

「ベットガードってありますか?」
「ありますよ。おもちしますね」

「幼児椅子が、すこし高いんで食べにくいみたいなんですよね」
「それじゃ、大人の椅子に9センチの幼児用クッションをセットしましょうか?」

「保冷剤を冷やしていただけますか?」
「いいですよ。お名前を書いてもってきてください」

 親が行っている、これらのやりとりを朝から晩まで息子は見ているわけです。それも生まれてからずーっと1年中見ているわけです。親の真似なら何でもやってしまう、うちの息子のことです。それを真似しないわけがありません。

 息子を風呂に入れるのは私の役目です。私は2歳くらいの頃から毎日のように風呂場で息子の体を洗っていました。石鹸で息子の体を洗うと、息子のやつはプイと後ろを振り向きます。私に背を向けるんです。そして目の前にある浴槽に石鹸をつけて洗い始めます。そんなところまで親の真似をします。最近は、私の体も洗いたがります。ミラーニューロンを鍛えるために、徹底して親の真似を奨励したために、こんな息子に育ってしまったわけですから、親の仕事の真似をしないわけがありません。

 親が笑顔でお客さんに対応すれば、息子もお客さんの子供に笑顔で対応します。それを真似をしないわけがないんですよね。自分のおやつを宝箱に蓄えて、お客さんの子供に配ったりするのも、おばあちゃんからもらった物を、お客さんのお子さんに惜しげも無く、次々と配って歩くのも、そして笑顔で御客様の子供さんを迎えて喜ばせるのも、宿業をやっている親の真似だと考えると、すっきりする。

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 逆に言うと、子供園では、親の真似をすることが不可能なので、宿での息子の姿と子供園での息子の姿が違ってあたりまえなのかもしれないとのようになりました。

 前回のブログに書いた、息子に対する叱り方や、絵本によるトラブルシミュレーションの教育効果だけで、道徳教育が成功したわけでは無い。どうもそれだけではないらしいということに、今更ながら気がついたのです。

 やはり、どんな教育よりも強力なのが、親自ら見せる手本であることに違いない。で、そういう意味では、サービス業をやっている環境というのは、子供の教育上、ある意味有利に働いているなぁと、思った次第です。ただし、これが問題が無いかというと、そうではない。それにも最近、気がついたんです。というのも・・・・。

 長くなったので、それについては、またあとで。


つづく。

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2018年05月23日

幼児に対する道徳教育について その1『笑い捌き』

 うちの宿には、コロ(シエルティ)という名前の犬がいますが、犬を飼う時に非常に気を使ったのが、犬種としつけです。万が一、お客さんにけがをさせてしまったら大変なことになるからです。日本犬は最初から諦めていました。何度か飼った経験からして、宿屋では無理だと思ったからです。もちろん躾次第では飼えなくもないですが、リスクがあまりにも大きすぎる。

 なので、人間に対して警戒心を持たないシエルティを選び、子犬の頃から、いろんな人たちに抱っこしてもらいました。アマガミは絶対に許しませんでした。その苦労の甲斐もあって、愛犬コロは、子供が大好きになり、誰にでもなついてしまう愛嬌のある犬になってくれました。

 そのおかげで、コロのやつは宿の人気者で、コロに会いに来るお客さん・コロとの散歩を楽しみに来られる御客様がたくさんいます。犬を飼ったことのない嫁さんは、私のコロに対するしつけの厳しさと、粘り強い密着に驚いていましたが、結果として、コロが誰からも愛される犬になって、毎日コロが御客様と楽しそうに暮らせるようになったことに感心しています。厳しい躾が、愛犬コロにとっての幸せな一生を保証してくれたわけです。愛犬コロは、いろんな人達から可愛がられ、散歩に連れて行ってもらってます。

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 これは、息子が生まれた時も同じでした。犬を躾けるような訳にはいきませんでしたが、万が一、間違った教育方法を行い、御客様の小さなお子さんを傷つけてしまっては大変なので、道徳教育を徹底して行ないました。人を噛んだりしたら容赦なく激怒したし、暴力も絶対に許さなかった。お子さんを育てたかたなら分かると思いますが、1歳以下の、赤ちゃんは普通に暴力をふるいます。噛むし、叩いてきます。うざいと思えば頭突きもしてきます。泣きわめきながら物を放り投げます。1歳以上になると、もっと酷くなります。なので、暴力をいけないことだと思わせるのに一苦労しました。

 2歳になると、道徳教育が効果を現し始めました。文字を理解してきたので、ネットのオークションで大量の絵本を購入し、毎日、読み聞かせることによって、ものの善悪が分かってきたからです。絵本の力は偉大で、その効果は抜群です。3月26日生まれの息子は、3歳0ヶ月で子供園(幼稚園)に入りました。入園すると集団生活で鍛えられたのか、宿で、お客さんの子供さんとも、仲良く遊べるようになりました。喧嘩をすることもなく、誰とでも仲良く遊べるようになってきたのです。

 4歳になると、自分のおやつを全部食べずに少しずつ秘密の小箱の中に蓄えて、お客さんの子供に配ったりするようになりました。さらに、自分のおもちゃを差し出してみたり、お客さんが「メガネがない、絵本の読めないなぁ」と言ってるのを聞いて、私の眼鏡を持ち出してお客さんに渡すようになりました。もちろん度数が違うので使えないわけですが、 4歳なりの親切心が芽生えて来ている。自分の欲望よりも、人に喜んでくれることに生き甲斐を感じてくれている。

 去年の秋に、佐渡島にある私の実家に連れて行った時、息子は佐渡島のおばあちゃんからドラえもんのシールをたくさんもらいました。シールが大好きな息子は、それを自分の宝箱の中に入れて大切に保存していたのですが、子ども連れのお客さんがやってくると、息子は、小さな子供たちにドラえもんのシールを惜しげも無く、次々と配って歩きました。もちろんお客さんの子供さんたちは大喜びです。

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 そんな息子の様子を見た私は、
「道徳教育が成功した」
と思って胸を撫で下ろしていたんですが、最近、ちょっと違うかもしれない。と、思うようになってきました。まぁそれについては、後で詳しく述べるとして、どういう風に道徳教育をしたかというと、これもいろいろ試行錯誤しています。

 まず最初(1歳の頃)に、いけないことをしたときに、強く叱っていました。しかしこれは失敗でした。私が強く叱ると、息子も癇癪を起こしやすくなるのです。特に母親に対して癇癪を起こす。自分より下と認定した人に対して、癇癪を起こすんですよ。
 これはまずい。
 これではお客小さなお子さんに癇癪を起こす可能性がある。
 なので、強く叱るのはやめて、優しく諭すようにしたんですが、これも失敗でした。
 あまり優しくしすぎると、わがままになってしまうんです。

 なので、強く叱るけれど回数を減らし、叱った後は1時間以上楽しく遊ぶようにしました。できれば遊びながら少しずつ叱っていく。それを繰り返していくと、赤ちゃんがえりをするようになる。叱られると泣きながら抱きついてくるのです。赤ちゃんのように甘えてくる。で、その後、仲直りするように一緒に1時間以上遊ぶ。すると非常に親子関係が良くなっていくのが判りました。

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 私の経験だと、子供と1日1時間以上遊べば、1週間に1回くらい強く叱っるだけで親子関係が円滑になります。それ以上叱りすぎると逆効果で、息子が暴力的になってくる。

 しかし叱らずに子供と1日1時間以上遊べば、子供は、甘えてきてわがままになるので、1週間に1回くらい強く叱った方が良い。その程度ならショックを受けて赤ちゃん返りする。泣きながら抱きついてくる。そのときに、優しい言葉語りかけると、素直になる。これを繰り返すと親子関係が信じられないくらいに円滑になります。強く叱らなくても、ちょっと気づかせるだけで、自分で善悪を判断して、良い悪いの分別を持って行動するようになってくるのです。もちろん子供と1日1時間以上楽しく遊ぶのが前提です。

 あと、親が注意するよりも、絵本で善悪教える方が効果があることもわかってきました。絵本といっても、どれでもいいわけではなく、幼稚園がテキストに使っている月刊誌。具体的に言うと、キンダーブック(フレーベル館)・学習おおぞら(フレーベル館)・プリン(学研)・ぴっかり(学研)・よいこの学習(学研)・ひかりのくに(ひかりのくに社)・エースひかりのくに(ひかりのくに社)・学習ひかりのくに(ひかりのくに社)・ワンダーランド(世界文化社)・ワンダーブック(世界文化社)・ワンダー絵本(世界文化社)が、道徳教育に優れた効果をもっています。

 子供同士のトラブル事例を絵本で示して
「こんなとき、どうすればいいの?」
と、具体的に正解を考えさせるからです。いわゆるトラブルシュミレーションを絵本によってさせているわけですから、効果は抜群です。身近な具体例を絵本にしているので、息子にとっても興味がわきやすいんですね。これを短期間に集中的に読み聞かせます。それも寝る直前が良い。とても効果がある。

 しかも、これらの本は、2・3回読み聞かせると、ほっておいても自分一人で読むようになります。気に入ったものは何度も読み返します。

 で、これらの本は、大量に中古で出回っていますので、ネットオークションで格安で手に入ります。私は、1年分の月刊絵本12冊を500円から1000円で競り下ろし、各社の絵本を150冊ほどオークションで買って読み聞かせましたが、息子のモラルは、かなり向上しました。かかった費用は、新刊の絵本10冊分より安かったと思います。送料は別にして1万円もあれば、150冊ぐらい手に入るので、中古を買わない手はありません。

 もちろんベネッセの『こどもチャレンジ』も大いに効果があります。うちの嫁さんは、どういうわけかベネッセの『こどもチャレンジ』を嫌っており、そのために4歳まで『こどもチャレンジ』をやってなかったのですが、中古をネットオークションで競り落としてみると、内容が良く出来ているのに驚いて「しまった失敗した!」と地団駄を踏みました。

 嫁さんの偏見など耳をかさずにもっと早くからベネッセの『こどもチャレンジ』を導入していたら、もっと子育てが楽だったのにと苦い経験をしました。あれは、本当によく出来たプログラムです。絵本とビデオと付録で、ウンチトレーニングさせるといった、非常に素晴らしいシステムなんですよね。

 しかし、断捨離に凝っている、うちの嫁さんは、毎月増えていく絵本と付録を嫌がっていたわけです。物が増えるのを極端に嫌っているため、ベネッセの『こどもチャレンジ』のように付録が増えていくシステムを毛嫌いしているし、幼児教育に金を使う思想もありません。なので私が絵本を大量に格安でオークションで買うたびに嫌がっていました。しかし、この感覚は私には分からない感覚です。私は子供の頃に、親から本代・教育費をケチられたことが無いので、嫁さんの考えが不思議に思えてしかたなかったです。

 そもそも息子の道徳教育に失敗したら、宿屋の浮沈にもかかわる大事ですから、息子の道徳教育は、私たち夫婦の生活にかかわる一大事です。現に幼稚園には、乱暴な子供たちがゴロゴロいます。運動会では、男の子たちが喧嘩で乱闘していました。スクールバスを待ってる間でも息子に暴力をふるう子もいます。それを軽くいなす力をつけさせなければならない。これが宿屋をやっている者の宿命なんですよ。

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 もし、うちが宿屋でなかったら「やられたらやり返せ」と教育していたかもしれません。しかし、宿屋で、子供にそんな教育をしたらアッという間に宿は潰れてしまう。どんなに理不尽なことをされても、サラリとかわして相手を笑顔にさせるスキルを身につけさせなければならない。

 これは、幼児にとって非常に難しいスキルなんです。だから人一倍息子とスキンシップをとってくすぐってみたりして、ある程度の暴力に対する耐性と、それを笑いに変えるためのスキルを身につけさせました。寝る前には、プロレス技のアイアンクローを軽くやってみたり、起きるときは布団をひっぱがしたり、簀巻きにしてみたり、ちよっと乱暴に扱っては息子を笑わせました。もちろん自然と「捌き」を教えています。武道の「捌き」です。攻撃を笑いながら受け流す訓練です。私は、これを『笑い捌き』と名付けています。

 その結果、3歳のときは、幼稚園で父親と同じようなことをして友達を怒らせたりもしましたが、そのつど先生が注意してくれて何が悪いのかを息子は教えてもらっていました。そのたびに「先生、すまん」と思いましたが、家庭でやっている教育は、先生たちには内緒にしていましたし、このブログにも書いてませんでした。あくまでも秘密裏に、笑い捌きを教えて、これによって息子は、乱暴な子供たちに対する耐性をもつようになりました。

 叩かれても蹴られても怒ることなく笑っていられるようになったのです。息子が笑って、軽くいなせば、たいていのトラブルは防げます。幸い、年少組の時には、1クラス13名という少人数なうえに熱心な先生だったので、先生の監視もゆきとどいており、極端な乱暴者がでる環境ではありませんでした。

(とはいうものの、運動会では男の子同士が乱闘しています。良い悪いは別にして、これは男の子の本能というか、もって生まれた性のようなものなので、仕方ないのですね)

 ただ気になることがありました。
 どういうわけか、うちの息子は、子供園でつまんなそうな顔をしているのです。
 友達が出来てない。
 発達が遅いためか友達とコミュニケーションができてない。

 自宅でも同じなら「そういうものか」と気にしないのですが、そうではない。
 御客様が同じくらいの年齢のお子さんを連れてきたときは、
 別人のように生き生きとして、
 すぐに仲良くなって楽しそうに遊んでいるからです。


 うちの宿の御客様の八割は、ファミリーで、そのうちの半分は未就学児。夏休みや週末には、宿は幼稚園みたいになっているのですが、息子は生き生きとして、さかんに御客様のおこさんと遊びつつ、みんなを喜ばせようとしている。しかし、子供園では、そういう姿をみたことがない。夏休みの間は、私が園に送迎に連れて行ってるんですが、宿での姿と、園での姿が違いすぎる。まるで別人。それは不思議なくらいで、二重人格なのか?と疑うほどに違う。

 誤解の無いように言うと、息子は子供園(幼稚園+保育園)が大好きなんです。入園初日から喜んでバスに乗ったし、3日くらい子供園(幼稚園+保育園)を休ませると、子供園(幼稚園+保育園)に行きたいと親に訴えてくるようになるくらい子供園(幼稚園+保育園)が好きなんです。もちろん担任の先生も大好きで、特に年中組の男の先生が大好きだったようで、◆◆先生に会いたいと言うので、休ませにくかったくらいです。なのに、自宅での姿と子供園(幼稚園+保育園)での姿が全く違う。

 幼稚園での姿と、自宅での姿が、あまりにも違いすぎる。
 これは何故なんだろう?


 二年間、ずーっと不思議に思っていました。
 どうしても分からなかった。
 しかし、最近になって、やっと謎がとけた。

つづく。

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2017年04月04日

幼稚園と保育所について 5

 児童の村小学校を設立させた下中弥三郎にしろ野口援太郎にしろ、為藤五郎・志垣寛にしろ明治初期の生まれです。
 野口援太郎にいたっては、明治元年生まれですから江戸時代から続いた若衆組(青年団)の雰囲気を詳しく知っていたと思います。だから若衆組の雰囲気をふまえて、このような教育スタイルを始めた可能性が高いと思う。
 逆に、明治後半生まれの若い先生なんかは、若衆組(青年団)の雰囲気がわからないから、子供を放置しているように見える野口援太郎校長のやってることにハラハラして、
「これはおかしい。これは間違ってませんか?」
「もう我慢できない、家に帰りたい」
と校長に抗議している。

 若衆組の雰囲気を知らないから
「これは駄目だ」
と絶望するんです。

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 ここで若衆組を説明しておきます。

 若衆組とは、江戸時代から続いた日本の伝統的な青年教育システムで、
 青年が青年を教育するスタイルです。
 薩摩の郷中組みたいなものです。
 その若衆組には大人は入れません。
 あくまでも自主的に自分たちで学ぶのが若衆組のスタイル。
 もちろん講師として大人を呼ぶことはあります。
 しかし、その人選を決めるのは若衆組。
 これが日本の伝統的な姿なんですね。

 児童の村小学校は、その伝統的・土俗的な若衆組ぽいものを復活させたわけですが、じゃあ、それ以前の小学校教育は、どういう教育だったかというと、ヨーロッパ流だった。それも列強諸国の教育スタイルを翻訳したものだった。それに限界を感じた教育の世紀社が、教育方法を実験的に変えてみたら、それが実は、かなり土俗的なスタイルになってしまった。それが児童の村小学校になります。

 池袋の児童の村小学校の校長先生は、野口援太郎です。
 この野口援太郎は、
『本来、遊びと勉強と仕事に区別はない』
と言って、児童の村小学校の教育方法を始めています。

 しかし、この方法は、子守の老婆に育てられた私にとっては、なじみのある方法でした。子守と一緒に内職や作業をしていた幼児の頃の私は、その作業を仕事とも勉強とも思ってない。遊んでいると思っていた。
 その経験をふまえて私は、二歳から三歳の息子に、漢字や九九を教えたり、ベットメイクをさせたり、料理させたり、食器洗いをさせたり、床掃除をさせているけれど、うちの息子は、勉強しているとか、仕事をしていると思ってないと思います。本人は楽しく遊んでいるつもりでいるはずです。

 また私のうっすらとした記憶をたどっても、子守の人を先生だと思ったことはない。ましてや親と認識したこともない。どちらかというと遊び相手なんですよ。実際、暇があれば遊び相手になったわけだし、親ほどキツく叱られるわけでもない。むしろ甘やかしてくれて、よく遊んでくれる都合のいい存在です。

 けれど、四六時中遊んでくれるわけではなくて、内職などの作業をする。それを、私はジーッと眺めて、最終的には真似をするわけですが、それだって幼児にしてみれば、遊びの延長です。延長でありながら、勉強・仕事をしているわけですが、幼児には、それらの区別はない。つまり児童の村小学校の野口援太郎先生の言ってることと同じなんですよ。
『本来、遊びと勉強と仕事に区別はない』
ということなんです。

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 私が、幼稚園を嫌って、ひたすら保育所に入れようとしていたのは、私にそういう背景があったからなんです。もちろん保育所に入れたとしても、皆勤賞を取らせるつもりは毛頭ありませんでした。むしろ遠慮なく保育所を休ませて、一緒に仕事をしたり、山に登りに行ったりするつもりでした。

 その計画が狂ったのは、嬬恋村に唯一あった保育所が幼稚園と合併して、子供園になったためです。前にも言いましたように、子供園になってしまったら、午前中は強制的に幼稚園です。午後から保育所になっているわけですが、たったの三時間だけです。正直言って、がっかりしたものです。

 ところが私の想定外のことが起こってしまう。息子の担任の先生が、とても熱心な先生だったんです。厳しくて、優しくて、誰よりも子供たちのことを考える聖人のような先生でした。

 私は五十五歳ですが、 五十五年生きていて、これだけ素晴らしい先生には出会ったことがない。そのくらいにできた先生でした。車で迎えに行くと、その日に起きたことを事細かく報告し、色々な注意点を見つけてくれて、服装の改造までアドバイスしてくれる。それが、あまりにも熱心だったために、報告が細かすぎて、嫁さんがちょっと引いたぐらいです。けれどアドバイスは、非常に的確でなるほどと思えるようなことばかり。先生のノウハウの豊かさに驚いたものです。

 私は子供園をどんどん休ませるつもりでいました。出席日数の半分ぐらいは休ませて、息子と一緒に山に登ったり、たびに出かけたりしようと思ってました。幼稚園は、そのついででいいやと思っていたんです。けれど先生が熱心ために、ちょっと休めなくなりました。先生は、実際の親よりも息子のことをよく見ていて、息子が自分でなんでもできるように指導してくれ、息子に礼儀を教えてくれました。

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 同級生とトラブルがあっても、息子の何がいけないのかを、言葉でわかりやすく教えてくれました。何しろ息子は三月二十六日生まれで成長が遅かったために、幼稚園に入ってからもしばらくは会話能力はなかったんです。会話ができない息子に対して、ルールや礼儀や道徳を教えるわけですから、簡単ではありません。苦労したと思います。

 天気の良い日は、午前中でに息子を早退させて浅間山などに連れて行っててたんですが、早めに幼稚園に息子を迎えに行って、先生の授業風景をこっそり見ていると、これがまた素晴らしい。小さな子供たちが嬉しそうに歌を歌ったり踊ったりしている。とても楽しそうだったので「幼稚園の授業も子供たちにとっては遊びなんだ」と言うことがよくわかりました。決して子供たちが勉強してると言う感じではなかった。これじゃ児童の村小学校と変らないと思ったくらいです。

 にもかかわらず担任の先生は、幼児を甘やかしてない。行儀の悪い子には、上手に注意して行儀をよくさせています。それが、私の力量ではできないレベルだったので余計に感心しました。幼稚園は、みんなこういうものなのか、それとも担任の先生が特別なだけなのかは、わかりませんが、かなり高いレベルの幼児教育・集団保育をしていたことは確かです。

 もちろん嬬恋村は少子化が進んでるために、一クラス十三名という恵まれた環境もあったかもしれません。元小学校の改装した贅沢な施設だったのも子供たちによい影響を与えていたのかもしれませんし、午前中という短い授業だったからこそ、集中して子供たちの面倒を見ることができた。というのもあるかもしれません。

 これが長時間幼児を預かる保育園だとしたら、これほど贅沢な教育をしてくれなかったかもしれません。また、一クラス六十名といった託児所だったら、これほど繊細で手の込んだ幼児教育は絶対に無理だったはずです。

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 そう考えると幼稚園は幼稚園なりに、非常に良い面があったのだなぁと感心した次第です。いずれにしても、うちの息子は恵まれた幼稚園と、恵まれた担任の先生のおかげで、随分得をしたという気がします。



つづく。

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2017年04月02日

幼稚園と保育所について 4

 ここで子守で育てられた私の体験を述べたいと思います。前に、子守は保母さんに似ていると言いましたが、少しだけ違っています。保母さんは「先生」と呼ばれるのに対して、子守は「おばちゃん」です。

 この違いはとても大きくて、先生に対しては、ある程度壁があるのに対し、子守の「おばちゃん」に対しては壁がありません。また、母親とも違っていて、親ほど厳しくもなく、かといって完璧に甘えられるというわけでもありません。強いて言えば、大人の遊び相手に近いかもしれません。

 例えば掃除とか、後片付けとか、一緒に共同作業していても、仕事している気持ちはこれっぽっちもありません。三歳児にとっては、遊びの延長上でしかありません。服を着替えるのにしても、どこかに出かけるにしても、やはり遊びの延長です。そのうえ子守の人は、農作業や内職で何だかんだと目まぐるしいために、それをじっと観察する機会も恵まれていて、その観察が子供にとっては素晴らしい娯楽だったりします。もちろん最終的には手伝ったりするんですが、そのお手伝いも娯楽もいいところです。

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 そういう環境から、保育園に毎日通うようになってしまうと、保育園の遊びも大して面白いとは思わないんですよね。最初の頃は、 なんだか暇で一日中ぼーっとしていました。保育園での遊び方がわからなかったんです。積み木や、おもちゃで遊ぶやり方がわからなかったんです。

 つまり、幼児は遊び方を教えてもらわないと遊べないわけです。おもちゃをポンと与えても、それで遊べるとは限らないんです。周りの人が、それを使って遊んでるのを見て、初めて遊び方がわかるわけです。

 これって、子守が作業しているのを観察して、子供が真似するのとまるで同じなんです。つまり、子供にとっては、遊びと仕事と勉強の区別がないんです。これはライオンでも狼でも一緒で、彼らは遊びながら狩りの学習をしています。つまり遊びと勉強と仕事がイコールになっている。

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 私は仕事で超有名進学校の子供たちを連れて自然ガイドに出かけたりするのですが、偏差値七十位の彼らも、やはり遊びと勉強が一緒になっている。ガリ勉してるわけではなく純粋に勉強を楽しんでいる。遊びと勉強がイコールだったりする。そう考えると、幼稚園・保育園・子守の中で、どれが一番、遊びと勉強と仕事をしたかというと、圧倒的に子守時代です。私が子守にお世話になってる時、一番遊んでいたし仕事も勉強もしていた気がします。

 それに気がついた時、あることを思い出しました。東京は池袋に存在した「児童の村小学校」のことです。
実は私は日本ユースホステル協会の歴史を調べていまして、初代会長であった下中弥三郎についてかなり調べたことがあります。下中弥三郎と言う人は、百科事典で有名な平凡社を創設した人で、もともと小学校の先生です。この下中弥三郎が、野口援太郎、為藤五郎、志垣寛という四人を集めて、教育制度の改革ではなく、教育方法の改革をしなければならないと考え、児童の村小学校という事業を始めました。

 教育制度ではなく、教育方法の改革です。

 で、どのような教育方法をとったかというと、児童を束縛しない教育方法です。まず池袋に児童の村小学校を作って、子供たちを集め、教科書もなければ時間割もない自由奔放な授業を始めました。結果から言うと、その学校は資金不足でつぶれてしまうわけですが、そこの卒業生の大半は、大学教授・研究者・企業家・有名人などになって後に大活躍することになります。

 もちろん例外もいますが、その例外も大半が戦争や病気で亡くなった人たちです。つまり戦争や病気で死ななかった人たちは、残らず知識人として活躍するという驚異的な成果を残しています。そのために、萩の松下村塾や、北軽井沢の法政大学村と並んで、教育の三大聖地とまで呼ぶ人もいるくらいに有名になっています。

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 では、児童の村小学校が、どのような授業を行ってていたかというと、これが非常にユニークで、学校の隣にある広い野原で遊ばせるだけ。それも半年くらいずっと授業無しで野口援太郎校長が遊ばせている。それはもう他の先生は焦ります。これでいいのか?と。

 遊んでいるうちに子供たちは、色々な道具を出してくれとか言ってくるので道具を出してあげたり手伝ったりします。そうやって子供たちは遊んでばかりいるのですが、さすがに何人かの先生は
「これはおかしい。これは間違ってませんか?」
「もう我慢できない、家に帰りたい」
と、焦り出します。
 しかし校長の野口先生は、辛抱強く「大丈夫。黙って見ていなさい」と説得します。そして不安に思いながらも、子供たちのやることを見ていると、大きな穴を掘ったり、みんなで家を建てたりします。秘密基地ですね。もちろん一人では、そんなことはできませんから、みんなで共同作業で作ります。共同作業を通して人間関係を学んでいきます。

 あと秘密基地の小屋を建設するにしても、子供のやることですから、すぐ壊れてしまう。そこで初めて校長先生が、物理学の基本や数学の基本を教えるわけですが、何度も失敗している子供たちは、こんどこそ成功させようと、かなり真剣に聞いてくれます。こうして勉強教えるわけですが、ここまで来るのに六ヶ月ぐらいかかっています。気が遠くなるほどの遠回りです。

 まあこれは、 三年生とか四年生に対する授業なんですか、もっと小さい一年生ぐらいになると、さらに破天荒な授業になります。先生が帽子をかぶって、オーバーを着て、靴を履いて、新聞紙を敷いてその上に立っている。そして、
「こういう格好をするのには、お金ならどれくらいかかるか?」
「・・・」
「一つ一つの値段はどのくらいのものか?」
と質問していくわけですが、児童はポカーンですよ。そこで、まず帽子を取って帽子の説明をしながら、これはいくらいくらで買ったと説明するわけです。その次に靴はいくらだ、靴下はいくらで、という風に全部先生が一つ一つ脱いでいくわけです。それで最後にはパンツ一丁になる。

 もう大爆笑です。

 で、このパンツがいくらだと、全部身につけているものを黒板に書いていくわけです。そしてそれらを合計して、いくらになったかということを勉強させるわけですが、これは算数の勉強でもあり、社会科の勉強でもあるわけです。このように、学科のすべてを一緒くたにして勉強する。これが児童の村小学校が行った革新的な教育方法でした。

 時間割は二つしかありません。
 教師の時間と
 子供の時間です。

 午前中は教師の時間。ここでは、読書・計算・観察・作業をやります。先生が教える時間です。午後は子供の時間。つまり子供たちが自分たちの生活を切り開いく時間。秘密基地を作ってみたり、本を作ったりする時間です。

 そして、毎日「明日の時間配分はどうする?」ということを先生と子供たちが話し合って時間配分を決めます。当然のことながら子供たちは、もっと子供の時間が欲しいと言ってきますから、それならば先生も「これだけのことを君たちに教えたいんだよ」といって、子供たちと交渉します。

 子供たちは、一生懸命やったら、時間をくれるのか?と聞いてきますから、明日はこのくらい勉強ができていたら残りの時間は自由に使っていいよと言う。これで交渉成立です。

 子供たちにしてみれば、秘密基地を作ったりするのに子供の時間が欲しいですから、家に帰って密かに勉強をして、先生の時間を短縮させようとします。ちょっと勉強が遅れている子がいたら、みんなで教えてしまう。その結果、はやくに勉強が終わって、子供の時間が増えていく。楽しい時間が増えていく。そこにはイジメも存在しないし、引きこもりもいない。そのうえ結果として、子供たちは勉強ができるようになっていく。

 ここまで説明したら、もう私の言いたいことは、おわかりと思います。児童の村小学校がやっていたことは、ライオンや狼と同じ教育です。ライオンは、子供たちに遊びながら狩りを教えている。それを児童の村小学校で行っていた。決して勉強を強制させることは無かった。

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 児童の村小学校を設立させた下中弥三郎にしろ野口援太郎にしろ、為藤五郎・志垣寛にしろ明治初期の生まれです。
 野口援太郎にいたっては、明治元年生まれですから江戸時代から続いた若衆組(青年団)の雰囲気を詳しく知っていたと思います。だから若衆組の雰囲気をふまえて、このような教育スタイルを始めた可能性が高いと思う。

 逆に、明治後半生まれの若い先生なんかは、若衆組(青年団)の雰囲気がわからないから、子供を放置しているように見える野口援太郎校長のやってることにハラハラして、
「これはおかしい。これは間違ってませんか?」
「もう我慢できない、家に帰りたい」
と校長に抗議している。

 若衆組の雰囲気を知らないから
「これは駄目だ」
と絶望するんです。


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2017年03月22日

幼稚園と保育所について 3

 最初に幼稚園の歴史と自助論の関係について書きました。前回は、子守学校と自助論の関係について書いています。子守学校というのは、子守をしているために学校にいけないでいる子供たちを収容するための学校のことで、赤ちゃんを隣の部屋に置いて、交代で面倒見ながら勉強する学校のことです。

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 明治五年八月二日、日本初の教育法令が公布されました。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指しました。そして、尋常小学、女児小学、村落小学、貧人小学、小学私塾、幼稚小学、廃人学校について規定しました。

 この中の幼稚小学が、現在で言うところの幼稚園に当ります。そして、女児小学、村落小学、夜学校、貧人小学、小学私塾ですが、これは尋常小学校以外の学校のことで、そういう学校の設置が認められ、何らかの事情で尋常小学校に帰れない子供たちはそれらの学校に通えば「就学」とみなされたのです。それらの学校に関する教則は、文部省は示していません。なので各県によって自由な設置ができ、それぞれ独自の教則ができています。

 例えば群馬県では、松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となった明治十年に「群馬県学則」が制定され、女児小学、村落学校、工女余暇学校、変則夜学校の設置が規定され、「小学教則」「小学訓導心得」「小学授業法」などの諸規則が制定されています。そして保児教育所(子守学校)の必要性を文部省に訴えています。残念ながら保児教育所(子守学校)についての詳しい記録は残っていませんが、子守学校に類する小学校が群馬県にあったことは確かだと思われます。

 以前、妻の実家の群馬県館林方面の歴史を多少調べたことがあるのですが、面白い記録が残っています。当時、尋常小学校に通っていた人たちの証言によると、先生が黒板に字を書くときは必ず窓側の半分のところでしか書かなかったとあります。なぜならば、窓の外には子守をして学校にいけないでいる子供たちが、何人も授業を受けていたからです。なので窓開けっ放しにして外にも聞こえるように教師たちは窓側に向かって大声で勉強を教えていました。子守の子供たちは、ノートと鉛筆の代わりに地面に棒で文字を書いて覚えたと言います。そういう記録が、いくつか残っています。

 それらの子守たちは、陸州ッ子とよばれ、東北地方から飯米と交換で十歳くらいで子守として売られてきた人たちで、頭はヨモギのような髪で、垢だらけで、衣服も垢と赤ん坊の大小便で汚れ、悪臭には耐えられなかったと言います。なので、外で子守をしながら授業を聞き、文字を覚えるのですが、赤ん坊が泣くと授業の邪魔にならないように遠くまで走って行って、赤ちゃんをあやしたと言います。そういう子守たちに教師たちは、できる範囲で様々な便宜を与えたようです。

 養蚕が盛んだった北関東(特に群馬)は、裕福だったのでしょう。東北から子守を受け入れて子守をさせながら学校にやったり、新潟から瞽女(ごぜ)といわれる盲人芸能集団や、角兵衛獅子などを盛んに受け入れて特に親切にして接待しています。そういう証言が歴史の本では無く、民衆レベルでたくさん残っていて、北国の貧しい人たちは群馬県にお世話になっていたようです。なんとも羨ましい群馬県の経済力ですが、それよりもっと群馬県が幸運だったのは、明治維新後に松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となったことかもしれません。

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 大河ドラマにもなった楫取素彦は、群馬県の県知事になってすぐに教育事業に重点的に取り組みました。そしてたった四年間で全国第一位の小学校の就学率を達成しています。明治十四年に幼稚園の類似施設(県師範学校内に幼稚遊戯場が付設)を設立しています。明治十六年には群馬県立幼稚園(全国でも五校)が正式に設置され、市町村部でも幼児教育施設が設置されました。つまり群馬県は、幼稚園先進国でした。どうりで群馬県には幼稚園が多いはずです。もちろん私の家内も幼稚園出身者です。

 ちなみに群馬県の隣の、新潟県や長野県では圧倒的に保育園が多いです。軽井沢にしても、私の生まれた佐渡島にしても保育園だらけなのに、農家と観光業者の多い嬬恋村は、つい最近まで保育園はたったの一つしかありません。それに対して幼稚園は三つありました。どうしてなんだろう?と言う疑問がずっとあったのですが、こういう歴史的経緯があったことを思えば納得です。松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となったことが、群馬県が幼稚園だらけのであることと無関係ではないでしょう。

 その結果かどうかはわかりませんが、文部省が公表した平成二十七年度の英語教育実施状況は、高校生で群馬県が一位。中学校では、群馬県は九位。二〇一六年の全国学力テストランキングだと群馬県は、中学生が十位。小学生は三十六位。小学校はともかく中学生以上は、学力は高いようです。これが保育所王国の新潟県だと、逆で小学校が九位で中学校が二十一位。

 まあそんなことはどうでもいいとして、それにしても一つ不可解なことは、保育所が少ないことに群馬県民には、不便さを感じてなかったか? もっと保育所に対する需要がなかったのか?という疑問です。しかも昔の幼稚園は、たったの二年制でした。三年制になったのは最近の話です。そのうえ午前中で終わり。それだけでは不便ではなかったのか?と言う疑問が出てきます。その疑問に対する答えはまた後で述べるとして、今回は、保育所について述べてみたいと思います。

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 日本で最初に保育所が生まれたのは、新潟県です。だから新潟県では保育所王国です。私が生まれた頃の佐渡島では、幼稚園は島に一ヶ所しかなく、どこもかしこも保育所だらけでした。当然のことながら私も保育所出身者です。今は保育園と言う呼び名が通用しているみたいですが、昔は保育園なんて言う人は誰もいなくて、保育所でした。

 保育士を目指している人たちが、最初に勉強することが日本最初の保育園のことだと思います。ネットや保育原論といった教科書には、明治二十三年、赤沢鍾美(あつとみ)・ナカ夫妻が新潟市東港町の新潟市静修学校に付設の保育施設を開設。これが日本最初の保育園とされています。その保育園は現在も赤沢保育園として新潟県に存在しているようです。

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 ところで、赤沢が経営していた静修学校とは何かというと、私立小学校だったようです。もともと赤沢は、小学校の教員だったのですが校長先生と教育についての意見が衝突したために退職しました。

 その年、つまり明治二十三年の十月七日には、第二次小学校令が公布され、市町村に私立小学校がある場合には代用できることになっており、しかも徒弟学校と実業補習学校を小学校の種類とすることになり、生徒は私立学校も選択できることになりました。

 そこで赤沢は、父親が開いていた修身学舎という家塾をひきついで、静修学校と改名し、昼は尋常小学科・中学科、夜はそれを卒業した文学専修科を設けて子供たちを指導しました。

 赤沢の授業は町の評判も良く、多くの子供たちが集まりました。赤沢の方針により普通の小学校よりも一年早く卒業できたり、卒業して実用に役に立つことを集中して教えたことも魅力で、貧しい人たちが大勢押し寄せたようです。

 ただし、子供たちのなかには子守をしながら登校してくるものも多いために、その扱いに困って、赤沢の妻仲子が、やむを得ず授業中に赤ちゃんを預かるようになりました。もちろん保育料を取っていません。赤ちゃんや幼児は、おやつはもちろん昼食の持ってこないようなケースが多かったようです。妻仲子は、そういう子供たちには食事まで作って食べさせ、傘のない国は傘を買って与え、夏の炎天下には帽子を買って与えたりしました。

 そのため子供たちの親は泣いて喜び、その噂が大きく広まり、自分の子供も是非預かってほしいと頼む人が続々と現れて、それも断りきれず次々と預かってしまうようになりました。これが日本最初の保育園となるわけですが、最初は私立学校からスタートし、それが子守学校のような形になり、それが日本最初の保育園になったわけです。

 ここで私の話をしたいと思います。

 昭和三十六年生まれの私は、三歳九ヶ月くらいまで、子守に育てられています。両親共稼ぎで母親は小学校の教員で、佐渡島の僻地で仕事をしていました。道路は舗装されず、マイクロバスがやっと一台通れるくらいの漁村です。テレビもNHKしか写らない時代で、電話もダイヤル式ではなく呼び出し式です。もちろん幼稚園も保育園もありません。子守をたのむしかありません。そのうえ当時は、二ヶ月しか産休が認められていませんので、生後三ヶ月から私は、朝はやくから夕方おそくまで子守の人に預けられていました。

 子守と言っても、さすがに子供たちではありません。
 中高年の老婦人たちです。
 当時は、腰が曲がって畑仕事ができなくなった老婆が子守となって活躍していました。

 今でこそ腰の曲がった老人を見かけることがなくなりましたが、昔は、 五十歳後半くらいから腰が曲がって杖なしに歩くことのできない老人が多かったものです。各人がいろいろな杖を持っていて、玄関先に杖が置いてあると、
「○○の婆が、家に居るな?」
とわかったものです。

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 昭和三十年代は、どの家も鍵をかけることはなく、別の家に勝手に上がりこんで、こたつに入って家主を待っていることが普通にありました。だから、家に帰った時に、玄関先にある杖を見て「○○の婆だ」と存在がわかったものです。近所の人たちも「ははあ。○○の婆が、◆◆の家にいて家主を待ってるな。◆◆に教えてやるか」と、用事ついでに家主の人に知らせたものです。なにしろ携帯電話がない時代です。通信手段は、このようにのんびりした口コミだけです。

 そういう時代ですから、車もなく、かといって商店街もない僻地なので、お互いに子守を頼んだり、洋服の仕立てを頼んだりしていました。洋服も衣料品店で買うのではなく、お金を払って近所の家に仕立てて作ってもらっていました。そもそも洋服屋がなかった。あるのは「よろずや」というコンビニみたいな店が二軒のみ。電気屋もなければ本屋も無い。道路だって最近出来たばかり。当時の登山ガイドに代表的なコースとして紹介されているくらいの場所なので何もかもが無い。今で言えば知床半島のような存在で秘境好きの登山客の名所のようなところでした。そういう僻地ですから、不便なことはお互い融通しあう。私はそういう漁村で複数の子守に三歳九ヶ月まで育てられていたのです。

 腰の曲がって杖で歩く老婆ですから、二歳から三歳くらいの男の子の方が速く走れます。逃げようと思えば逃げられるのですが、そういう気持ちは全くなく、むしろ老婆の後を追いかけることの方が多かった。いわゆる後追いというやつですが、母親に対する後追いとは少しばかり違って、農作業や干芋造りなんかを、じーっと見つめては、時々手伝ったりしました。

 子守といっても、四六時中子供の面倒をみているわけではなく、いろんな作業をしながら合間に世話をするのが子守のパターンです。子守学校の生徒も、子守しながら勉強をしていましたが、老人にだって子守の合間にできる仕事はあります。というか片手間に仕事をしていた方が、子守をしやすかったでしょう。私は、そういう環境で育ち、子守たちの片手間の作業をじーっと見て育っています。そして、作業を手伝いたがりました。

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 私が母親と下宿していたところは、農作業の合間に洋服の仕立てをしていました。当時は、電気アイロンなどはなく、鉄のアイロンを炭に熱して、指で温度調節しながらアイロンがけをしていました。私はじーっと、それを観察した上で自分でやってみようと思い、自分の顔にアイロンをあてて大火傷したことがあります。とにかく、周りを観察して、それをやってみようと思うのが、子守に育てられた子供の特徴だと思います。

 この経験が、息子が生まれたときに生きてきました。

 私は、息子が0歳の時から、ベッドメイクや部屋掃除などに連れて行ってます。そして、常に一緒に作業しています。部屋掃除をするわけですから、部屋は埃まみれになるので、嫁さんは非常に嫌な顔をしましたが、そんなことお構いなしです。ハイハイしている息子に布団をかぶせては、いたずらしました。私も小さい頃に、子守のおばさんや、子守のおばあちゃんと似たようなことをしてきていますから、これが私にとっては非常識ではないのです。

 しかしうちの嫁さんには、そういう経験がありませんから、このやり方にずいぶん戸惑ったようです。私は買い物にも必ず息子を連れて行き、買い物カートを押させてついてこさせます。雪かきや庭の手入れも側に置いておきます。私が花壇をいじると、息子も真似していじります。その結果、花壇が破壊されますが、叱りはしません。私の小さい頃の体験があるので、生あたたかく見守っています。最近は、皿を洗ったり、料理を創りたがっていますが、少しずつ手伝ってもらっています。

 ところで私には三歳以前の記憶が残っています。普通の子供なら三歳前で記憶は残りません。脳科学では、そういう定説になっています。けれど私は例外らしく、三歳以前のことを良く覚えています。逆に四歳以降の記憶があまりありません。四歳以降は、母親や子守の人から離れて、父親・祖母と佐渡島の都会(?)らしきところで暮らすことになったからです。つまり弟が生まれて、母親は弟と佐渡島の僻地に向かい、私は父親に預けられることになったわけです。

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 父親は厳格なために些細なことで物置に閉じ込められ、箸の持ち方一つで良く殴られました。優しい子守に囲まれた生活とは真逆な生活です。祖母も酷く口うるさい人でしたから、三歳までの子守時代とは全く違う環境になり、毎日不安なまま暮らしていました。子守時代とは天地ほど違う環境です。

 三歳九ヶ月まで私は子守たちにかわいがられました。僻地なのに、店が何も無いのに、昭和三十年代に、いったいどこから手配したのか、どういうわけかクリスマスケーキがでてきたりしました。当時としては貴重なホールケーキに対して、私は恐る恐る「どれ食べて良いの?」と聞いたものです。私の母親は、そこまで甘やかしません。

 子守たちと分かれてからも、子守の老婆たちは、遠くから私を訪ねてやってきました。何度も遊びにきては、帰り際に泣いてお別れしました。別れ際には必ず
「お父さんの言うことを聞いて、お利口にするんだよ」
と泣きながら言われました。子守されていた時には、絶対に言わなかった台詞を言うのです。そして何度も何度も遊びに来ては、時々、僻地に遊びに連れ帰ったりしました。それほどかわいがられました。そういうかわいがれっぱなしの環境から、厳格な父親と口うるさい祖母の元に預けられ、環境が一変したわけです。

 環境が一変すると、私は放置子ぽくなります。近所の老婆のところに勝手に遊びに行くようになります。知らず知らず以前の環境を求めてのことだったかもしれません。ご近所の人も、さぞかし驚いたかもしれません。当時の私にしてみたら、統一一貫性の本能が混乱しないための生存本能が働いたためにとった行動なんでしょう。幼児には、強い統一一貫性の本能があります。一貫した何かを求める本能があって、これが混乱すると、パニックになるのです。

 ただし、佐渡島の都会(?)には、佐渡の僻地と違ってちょっと違うところがありました。保育園がありました。私は、生まれて初めて保育園の年少組に行かされました。

 保育園に行って驚いたことは、子供の数です。今まで、これほど多くの同年代の子供の数を見たことが無かったので衝撃をうけました。しかし、それでも保育園に違和感なくなじめたのは、家庭にいるよりも安心感があったからです。私はこの時の体験をもとに、自分の息子を幼稚園を大好きにさせています。その方法は、以前このブログにも「子供を幼稚園好きにさせるコツ」として書いてあります。詳しくは、下記のサイトをクリックして読んでみてください。

http://kaze3.seesaa.net/article/447054742.html

 それはともかくとして、日本に制度として幼稚園・保育園・託児所ができる前は、いったい誰が幼児の面倒を見ていたかというと、『子守』なんですよね。私は保育園・幼稚園のない地域で、子守に面倒をみてもらっています。私の体験から言うと、子守は保母さんと似ています。別に何か教育されるわけでもなく、プログラムに沿って進行されるわけでもありません。日常生活と延長上に、子守をされる。農作業とか、洋裁の内職とか、家事の合間に見てもらってるわけです。

 それを幼児なりに観察しつつ、幼児なりに自分もやってみたいという衝動にかられ、ミラーニューロン(ものまね細胞)によって脳内に蓄積されていきます。親と違って子守には強く怒られたりしませんから、積極的にミラーニューロン(ものまね細胞)を働かせて、子守たちの生活習慣が幼児に遺伝していきます。そして作業を手伝ったりします。干芋を並べたり、仏壇に一緒にお供えしたりします。子守と一緒に生活をしていくと、一緒に共同作業をしたがるようになります。

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 逆に厳格だった父親には、多くのダメ出しを食らっていますので、怒られるたびに進化適応によって拒絶反応が出てきます。例えばいたずら書きをして強く怒られれば、書くことに拒絶反応が起きて、お絵描きや、字を書くことに対しても、なんとなく拒絶する心理状態になります。どんな生物にもそのような反応があるのは、そういう反応がなければ、あっという間に天敵に殺されてしまうからです。親が子供に必要以上に強く怒れば、子供は自らの生命保存のために学習して、拒絶の心理が働きます。

 幼児が階段を上がろうとして、それが危険な場合は、必要以上に強く怒ってしまうと、それがトラウマとなって高所恐怖症になったり、登山を嫌うようになりますから、その後の影響は甚大です。そのせいか武家社会では、子供に対して強く叱らない躾をしていたと言われています。もちろん武士ですから躾に厳しかったことは確かですが、強くは怒らない。むしろ子供に対してもっぱら暴力的に躾たのは農民階級の方だったといわれています。農民は臆病でも問題ないし、むしろその方が、自己保存のために良い場合もあるでしょう。

 まあ、そんなことはどうでもいいとして、これだけ環境が変わって、子供ながらに戸惑うと統一一貫性の本能が混乱します。これは脳に非常に悪い影響を与えることがわかっています。しかし、そこで悪い影響に対する歯止めになったのが、保育園だったかもしれません。長時間にわたって、緩い環境で保育されているので、環境の変化を和らげるクッションのような役割があったような気がします。

 現在では、どうなっているか分かりませんが、昔の保育園では、あまり教育的なことはしてなくて、ただ預かって遊ばせていることが多く、のんびりしていました。運動会・遠足といった行事も無く、それが私にとっては良かったのかもしれません。そのせいかその保育園でおきたことは記憶に残っています。記憶の法則として、嫌なことは忘れる傾向があるのに対し、楽しいことは忘れません。これは私だけではありませんでした。

 一年後、私は引っ越して、別の保育園に入り、最初の保育園の友達と別れます。それから十二年後に、小学校の合併で彼らと再会するわけですが、お互いに年少組の頃のことを覚えていました。これは今にしてみれば、すごいことかもしれません。

 というのも幼稚園出身の家内に
「幼稚園時代のことを覚えてる?」
と聞いても全く覚えてないからです。

 ちなみに家内は幼稚園(二年制)です。幼稚園だから授業もあったでしょう。そのうえ午前中で帰宅ですから友達との縁も薄かったかもしれません。ただし、家内の家庭環境が良かったようで、近所に親戚がいっぱいして、従姉妹どうしでよく遊んだらしく、その思い出話は、よく聞かされます。家内にとって楽しいのは、幼稚園では無く家族と、大勢の親戚たちだったようです。このへんの背景の違いから、子育てに関する考えの違いがでてきている。嫁さんは、できるだけ息子を幼稚園のプログラムに沿わせようとするし、私は、そういうことよりも親子で登山したり、親子で宿の仕事をすることにこだわってしまう。このへんの違いがおもしろいところです。


つづく。

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2017年03月18日

幼稚園と保育所について 2

幼稚園と保育所について 2

 2017年3月17日(金曜日)、息子は幼稚園の年少組を卒業しました。息子の誕生日は三月二十六日なので、三歳のまま年少組を卒業しています。赤ちゃんに毛の生えたくらいの頃に幼稚園に入り、この一年間幼稚園の授業についていくのが本当に大変だったようです。

 入園当時は会話能力がなくて他のお子さんたちとコミュニケーションがとれず、みんなが遊んでいても、そばでニコニコ見ているばかりでした。おまけに体格差もありました。息子は、三歳児健診では三月生まれの中でずば抜けて大きかったのですが、幼稚園に入ると小さいほうになります。

 他の三月生まれのお子さんたちは別の幼稚園に通っていますから。どうしても体が小さい。もちろん運動神経も発展途上で、最初は一人で自分のことができませんでした。だからこそ担任の先生は、ハラハラしたんだと思います。私が、幼稚園を休ませて、百名山に連れて行ったりすると、クレームがくる。せっかく幼稚園でできるようになったことも、忘れてしまってできなくなってしまうからです。

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 前置きはこのくらいにして本題に入ります。
 前回は、中村正直(まさなお)について。

 中村正直は、1832年に生まれています。ドイツのフレーベルが世界初の幼稚園を作ったのが1940年ですから、その八年前になります。幕臣の彼は、昌平坂学問所で佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習って、慶応二年(1866)にイギリスに留学しました。しかしその二年後に明治維新が起きたために帰国。スマイルズの『Self Help(自助論)』を翻訳して『西国立志編』を出版しました。

 この『西国立志編』に当時の知識階級は、衝撃を受けました。この本は、西洋の論語と言われたもので、この本によって、ヨーロッパ人がどうして優れているかということを、初めて日本人は知りえたからです。

 それまでは、西洋列強は、単に科学技術に優れているから、その武力で世界を征服できた。貿易で富を稼いだからその財力で世界を征服できた。・・・と思っていたわけです。しかし、そうではないことが、『自助論(西国立志編)』で分かってしまったのです。西洋にも、論語に匹敵するようなものがあって、その精神によって、ヨーロッパ文明は世界を制圧したんだということがわかったたわけです。

 では、自助論(西国立志編)とはどんな本かというと、自己啓発本に当たります。「天は自ら助くる者を助く」という名分によって明治の青年たちを奮い立たせました。また法律や社会システムの限界を語ります。例えば「酔っ払いを禁止する」といった法律を作ったとしても、その法律で酔っ払いが減るという事は無いと言います。「国民の質が国家の質」という原則を多くの事例を持って語られています。みんなが品性を磨き、自己啓発をしていけば、成功者が生まれてくる。それを具体的に実話を一つ一つ紹介していくのが自助論(西国立志編)です。

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 しかも、よくもこれだけの成功例を集めたものだというくらい成功者たちの人生が紹介されています。それらを読んでいくと、現代人の私たちでさえ腹の底から力が湧いてきます。ましてや、自己啓発本が少なかった幕末維新の頃の知識人たちにとっては、金槌で頭を殴られたぐらいの衝撃があったでしょ。多くの若者が、寝食を忘れてこの本に熱中し大志をもちました。そして自助論に影響を受けた人たちが、幼稚園教育を推進することになります。もちろん翻訳者である中村正直もです。
 
「人間の自由を重んじ、その習慣の形成は第二の天性である。したがって幼少の時からの良い習慣を自然と身につけさせることが必要である」

 スマイルズは、習慣が大事だと言い切ります。だから小さい頃から良い習慣を身につけさせなければいけない。そう説いていますが、これは当時の知識人にとっては耳の痛いところでもありました。そこが当時の日本の弱点でもあったからです。日本の子供たちの多くは、悪い習慣に染まっていたからです。これでは西洋列強に後れをとってしまう。だからこそ翻訳者の中村正直は、子供たちに良い習慣をつけさせなければいけないと思って行動に移します。

 明治7年東京女子師範学校の校長に中村正直が就任すると、 すぐに幼児教育計画を立てて明治9年に日本初の幼稚園を創設しました。主任保母にはフレーベル直伝と言われるドイツ人松野クララ夫人を迎え、日本人保母に藤田東湖の姪である豊田芙雄が就任します。豊田芙雄もまた、自助論に感動した口であり、中村正直の同志でもありました。彼女が書いた『保母の栞』を読むと、それがよく分かります。最初の二行だけ紹介します。

「幼稚園とは何か。多くの幼い子供たちを集めて健康と幸福を保ち、良い習慣を与えて子供たちに最も楽しみを得させるために導く一つの楽しい園宴である」

 文中に「良い習慣を与えて」とある通り、よい習慣を与えることによって、もう一つの天性を伸ばそうと言っているわけです。良い習慣を与えることによって、人は勤勉になり、努力家になり、結果として成功者になります。そうやったできた国民の質が国家の質となる。その結果、なんとか西洋列強に対抗できると、当時の知識階級の人たちは考えたわけです。

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 明治12年には大阪でも府立模範幼稚園が設立されます。その設立主旨には「(略)世の母親が真の保育法を知らず、したがって、家にある幼児は悪戯飽食が習慣となって心身の健康を損なっている者が多い(略)」とあります。ここにも習慣と言う言葉が出てきています。やはり自助論の影響があります。

 では、設立当初の幼稚園は、どのように運営されていたかというと、フレーベルが考案した恩物という二十種類の遊具で遊びを教えたり、歌を歌わせたり、遊戯をさせたりしながら良い習慣を育てることが中心でした。これは理にかなっています。ライオンでも狼でも、子供には遊ばせながら忍耐強く教育をさせます。幼稚園では子供を遊ばせながら良い習慣を身につけさせるのが当初の目的なので、非常に理にかなった行為だといえます。

 しかしこの方法は、本家ドイツでも批判の対象になっています。幼稚園が遊戯学校になっているのが良くないというのです。幼児に勉強を教えたい家庭は、全く勉強教えない幼稚園を嫌っていました。そういう家庭では、幼児を幼児学校に入学させていました。

 そもそもドイツでは、子供の教育は家庭が行うべきだという考えが主流でした。ドイツは職人の国ですから、親の背中を見せることこそが、子供にとっていちばん良いという考えがあったのです。これもまた理にかなっています。そのとおりでしょう。また、ヨーロッパは一般的に階級差の大きいところですから、富裕層は家庭教師を雇って自分の好む教育をしていました。それを奪われることを嫌ったということがあるのかもしれません。

 これは、日本でも同じような批判があったようです。大阪府立模範幼稚園では、親たちの希望に押されて、幼稚園で文字を教えたりもしています。このように親の希望によって、フレーベルの考案した幼稚園というより、幼児学校になっている幼稚園も増えてきました。

(ただし、私に言わせれば、現代では色々な遊具が発達し文字を使って遊ぶことも可能であるから、遊びながら結果として勉強している方法も不可能ではありません。要するに当時は、遊びと勉強は別物だと考えられたために批判されたのだと思います)

 その結果、明治二十六年頃、文部省普通学務局長は「日本の幼稚園は読み書き算を教える小学校予備校となっており、課業を与えて目に見える成果を期待する傾向が強い」とあきれています。本来、幼稚園は下層の子弟の家庭教育を代替する施設であり、悪い習慣を断ち切るために創られているのに、日本の幼稚園では、家庭教育を代替する必要のない中上流層の子弟がほとんどであり、それが日本の幼稚園教育のあり方を誤らせ児童の心身の発達を傷害していると言うのです。つまり幼稚園は、本来の目的を達成してないと文部省さえに認めるようになっていました。

 そこで登場したのが子守学校です。

 子守学校とは、子守りを命じられた少女たちに義務教育を受けさせる上に、彼らが連れてきた幼い子たちも保育教育を行う学校のことです。明治生まれの私の祖母は、義務教育を受けていないために文字が読めませんでしたが、幼い頃から子守りをさせられためです。ちなみにうちの祖母は末っ子です。弟や妹はいません。けれど子守りとして働かされていたわけです。そういう人たちに義務教育の機会を与え、さらに子守りされている幼児にも保育の機会を与えるというのが子守学校です。

 明治8年、堺県では寄付金集め、子守学校開設。
 明治9年、大阪府でも子守学校を開設。
 明治10年、群馬県が保児教育所(子守学校)の必要性を文部省に訴える。

(松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となって明治十年に「群馬県学則」を制定し、小学校の他に女児小学、村落学校、工女余暇学校、変則夜学校の設置が規定して、就学率アップをはかった。その結果、明治十四年には、全国一位の就学率となり、文部省第九年報に「就学生徒の多いことは他に視察の県とかけはなれていること、更に学校の内部に注意すれば本県の学事は非難するところがない」等が述べられている。保児教育所(子守学校)の存在が大きかったと思われる。その結果、明治時代の群馬県は、日本一の教育県になっていた)

 明治12年、山形県で児護学校(子守学校)を開設。
 明治12年、教育令15条・17条によって、子守学校に法的根拠をもたせる。
 明治13年、全国の都道府県に子守学校が設置されはじめる。
 明治16年、茨城県猿島郡小山村に渡辺嘉重が子守学校開設。
 明治17年、渡辺嘉重が、子守り学校のバイブルである『子守教育法』を出版。
 その後、子守学校は全国に普及し、全国に318校に増加。

 最初私は、子守学校は保育所の原型かと思っていましたが、渡辺嘉重の『子守教育法』を読んでみたら、どうもそうではありません。渡辺嘉重が目指したところは、子守に追われて学校教育を受けられない子供たちに、読み書きを教えると言うよりも、子守たちの悪い習慣を断ち切り、できるだけ良い習慣を見つけることが目的とされています。

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 子守学校は勉強の場ではなく、楽しい場所だと思わせ、なるべく良い習慣をつけさせることが大切だと言うのです。ようするに渡辺嘉重が目指したのは、子守学校と言う幼稚園だった可能性があります。彼もまた、自助論によって啓蒙されたひとりであり、その著書に
「習慣の形成は第二の天性である。したがって幼少の時からの良い習慣を自然と身につけさせることが必要である」
と、自助論の言葉を引用して、良い習慣をつけさせることの重要性を説いてます。ここで渡辺嘉重の『子守教育法』の一部を紹介してみたいと思います。

「子守をしているものの風習を見ると、多くは勝手気ままで下品である。例えば野原のバラようなもので、取るべきものがない。その姿を見ると、髪はヨモギのようにボロボロ、顔は垢だらけで、着物が臭く、人をして近づくのもはばかられる。また、していることを尋ねてみると、人の庭から花や果物を取ったり、猥雑な歌ったり、酷いものは道に出てウロウロして馬車に害を与え通行人を囃し立てたり罵るなど、挙動の粗暴、卑しい言葉遣いは実に見るに忍びないものがある。今このような悪い行いを正すには、主に学科の習得よりも、かえって心に感動を与えるような話を聞かせて、人の子なんや言葉遣いは慎まなければならないことを説いて教え、天性の心に変えるようにしなければならない 」

「子守学校は上述したように生徒は皆ヨモギのような髪、垢だらけ、衣服は油垢と赤ん坊の大小便で汚れ、また、赤ん坊を抱くので、その悪臭には耐えられないものがある。ことに換気を良くしないと、たちまち悪臭に悩まされて生徒の学習意欲を注ぎ、怠慢にし、頭痛、めまいを引き起こし、甚だしいときには、流行の伝染病を招きかねない。教師は、深く注意して、時々窓を開閉して換気を図らなければならない」

 どうでしょうか?

 これが子守学校のバイブルとなった渡辺嘉重の『子守教育法』の一部です。現代の我々にしてみたら、信じがたいことですが、これが明治十年代の現実だったと思います。だからこそ、自助論を読んだ知識人たちは、早急に子供たちに良い習慣を与えなければいけないと思ったわけです。

 この話をある親御さん達に聞かせた時に「渡辺嘉重は、子守に対して偏見を持ってないか?」という質問をもらったことがあります。残念ながら違うと思います。なぜならば渡辺嘉重その人も、子守をしながら、こっそりと寺子屋の授業を盗み見て育っているからです。つまり、子守たちのことを一番よく分かっているのが渡辺嘉重でした。

 だからこそ子守学校では、勉強を教えるというよりも品格と良い習慣をつけさせることを重視したのです。たとえ勉強ができなくても良い習慣さえ身に付ければ、自助論にあるように成功者となりうるからです。そういう意味では、子守学校も幼稚園の発展形だと考えても良いのかもしれません。

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 話は変わりますが私は新潟県の出身です。
 新潟県には幼稚園がほとんどなくて保育所ばかりです。
 群馬県はその逆で保育所がなくて幼稚園ばかりです。

 どうしてだろうと不思議に思っていたのですが、その理由が幼稚園と保育所を調べることによってやっと判りました。日本最初の保育所は新潟県で生まれているのです。新潟県生まれで保育所育ちの私が、なんとなく幼稚園を嫌がったのには、それなりの訳があったことに気が付きました。そして私の子育ての原点についてもわかった気がしました。

 さて、今回も長くなったので、続きは次回に回そうと思います。


つづく。

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2017年03月16日

幼稚園と保育所について 1

 あと一日で、息子の幼稚園が終わりです。年小組を卒業です。 一年間、あっという間でした。この後、息子は保育園で預かってもらうことになります。と書くと、変に思われる方がおられるかもしれませんので、ちょっと説明をしておきます。

 実は、私の息子はこども園に通っています。こども園というのは、幼稚園と保育園が合体したような施設です。私は、息子を保育園に入れようと思っていました。幼稚園に入れる気はさらさらなかったのです。理由は、私が保育園出身者ですから、幼稚園のデメリットをよく知っていたからです。

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 私の生まれ故郷の佐渡島では、幼稚園はほぼなくて、島中どこを探しても保育園ばかりでした。当時、島全部で百カ所位の保育園があったと思いますが、幼稚園はそれに対してたった一つしかありませんでした。で、高校生ぐらいになって、幼稚園に通っていたと言う友人に聞いてみたら、
「ああ、これは駄目だな」
と思わざるをえなかったのです。当時(昭和39年)の佐渡島の幼稚園では、学校の授業みたいなことがメインで、子どもどうして遊ぶようなこともなく、授業を四時間ほど受けて、午前中に帰って家で食事をとっていたといいます。しかも、当時は二学年しかなくて、年少さんは受け入れられてなかったと聞いていました。

 それを聞いて保育園出身の私は驚いたものです。なぜならば、保育園では、授業を受けた記憶も無く、遊んだことした覚えてないからです。ひょっとしたら授業みたいなものもあったのかもしれませんが、それはあまり思い出せない。せいぜい音楽を楽しんだ記憶があるくらいです。後は遊んでばかりです。もちろん遊ぶといっても同級生と遊びます。朝から晩まで遊びます。だから友達とは仲良くなります。仲良くなって、家に帰ってからも一緒に遊んだりしました。

 そういえば、自宅に友達が遊びに来たこともありました。その時の私は三歳ですから、当然のことながら年少組のお友達で相手も三歳です。その三歳の子供たちが、親の付き添いもなしに遊びに来ていました。現在の常識から考えたら、信じがたいことですが、当時はそういうこともありました。当時(昭和39年)の佐渡島では、今と違って交通事故の心配も少なく、自動車そのものが珍しかったからかもしれません。

 私は四歳の時に、つまり年中組になった時に、引っ越して別の保育園に転校しました。そこでも事情は同じで朝から晩まで遊んでいた記憶があります。そして、保育園が終わった後も近所の子供たちと一緒に遊んでいました。幼稚園出身の友人は、それを聞いて驚いていましたから、
「もし子供ができたとしても幼稚園だけには入れたくないな」
と思っていました。

 なので、息子が二歳になった時に保育園に入れる気満々でした。もちろん幼稚園の入園届も出していません。ところが教育委員会から
「幼稚園の入園届が締め切りなんですけれど」
と、どうして幼稚園に入れないのか・・・と言わんばかりの催促の電話がかかってきました。おもしろいことに保育園からの入園の催促はありません。もちろん教育委員会には、「うちは保育園に入れるので幼稚園には入りません」と答えています。そして保育園の入園届を出したわけですが、ところが驚いたことに嬬恋村では幼稚園と保育園が合併して、こども園になっていたのです。

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 こども園のシステムは、午前中は幼稚園。午後から保育園となっています。つまり、保育園に入れたとしても強制的に幼稚園に入ってしまうわけです。保育園が始まるのは13時30分から16時30分までの間だけです。要するに、幼稚園に預かり保育プラスしただけのシステムなんですね。結局、うちの息子は、午前中は幼稚園に入ることになったわけです。

 もちろん幼稚園ですから授業があります。何しろ教育委員会から勧誘の電話がかかってくるくらいですから、学校教育の延長みたいなシステムです。休ませれば、幼稚園教育の授業に遅れたりもします。ですから私が幼稚園を休ませて、息子を山に連れて行ったりアウトドアを体験させたりすると、担任の先生からクレームが来たりします。

 さらにうちの息子は、 三月二十六日の誕生日であるために、年少組にいる一年間の間、息子は四歳になる事はありません。三歳のまま年少組を卒業するわけです。だから他のお子さんに比べて赤ちゃんみたいなところもあって、他の子供たちよりも幼いし、その上に成長もゆっくりでしたので、幼稚園の授業についていくのか大変だったようです。

 何しろ息子は会話能力が低く、他のお子さんたちが友人と遊んでいるのを息子はニコニコ見ているだけです。明らかに他の子たちとコミュニケーションがとれていません。他の子たちが、一緒に遊んでいても、そばでニコニコ見ているか、他の子どもたちの真似をしているだけです。まだ、自分が確立して無く、自主的に何か行動できる段階ではなかったのです。だからこそ、平仮名・片仮名・漢字も簡単にマスターしたし、九九を暗記させるのもたやすかった。逆に自主性を重んじる幼稚園の授業についていくのが難しかった。

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 幼稚園では体格差もありました。

 三歳児健診では、 三月生まれの子供さんだけが集まるために、 三月生まれとしては体格が一番大きかったのですが、幼稚園に入ると小さいほうになります。他の三月生まれのお子さんたちは別の幼稚園に通っていますから。三月二十六日生まれで、あと一歩で四月生まれになるわけですから、どうしても体が小さいです。四月生まれ、五月生まれ、六月生まれのお子さんと比較すると、別学年ではないか?というくらいに体格差があります。おまけに顔つきも違っています。赤ちゃんと子どもくらいに違う。

 もちろん運動神経も他の子に比べれば発展途上です。上履きも履くのに苦労していたくらいですから、最初は一人で自分のことができませんでした。だからこそ担任の先生は、ハラハラしたんだと思います。私が、幼稚園を休ませて、百名山に連れて行ったりすると、クレームがくる。せっかく幼稚園でできるようになったことも、忘れてしまってできなくなってしまうからです。

 ちなみに担任の先生は、熱心な方でした。一言で言うと聖職者と言う感じ。私が出会った教師の中でも、これくらい教育熱心な方はないというくらい。もちろん私が他の先生を知らないだけで、幼稚園の先生というのは、みんなこういう先生なのかもしれませんが、とにかく子供たちに対する一生懸命な姿とフォローは、完璧なくらいで文句のつけようがありません。しかも、幼すぎる息子に対処するノウハウももっていた。

「これは、私が体験した保育園とはだいぶ違うな」

と思った私は、保育園と幼稚園の歴史をちょっと調べてみました。

 そして驚きました。

 まず、幼稚園ですが、日本ではいつごろから幼稚園の構想は誕生したかと言うと明治五年とあります。日本における近代教育は、明治五年八月公布の「学制」により開始されていますから、教育システムを創った最初から文部省には「幼稚園構想」があったということになります。また小学校もできてないにもかかわらず、最初から文部省に幼稚園構想があった事は、注目して良いかもしれません。ではなぜ文部省に最初から幼稚園構想があったのか?という点を考えると、ヨーロッパの教育システムをそのまま直輸入したのではないか?と安易に考えていました。

 しかし、よくよく調べてみると、どうもそうではないらしいのです。

 確かに、1840年にドイツのフレーベルによって幼稚園が生まれていますが、1850年には政府によって禁止されています。幼稚園禁止令が廃止になったのは、1860年であり、明治維新の八年前のことです。もちろん明治五年頃でも大して普及していません。普及していないどころか、アンチ・フレーベルの学者たちも大勢いて、幼稚園に対する批判勢力も多かったようです。

 アメリカにしても初めて幼稚園ができたのは1860年。イギリスでは1855年。もちろん産業革命の進んだイギリスでは、労働者のための保育園が次々とできていましたが、幼稚園が着々と普及しているとは、言える状況ではありませんでした。もちろん英米諸国にもアンチ・フレーベルの人たちも大勢いて、幼稚園に批判的な勢力があります。

 にもかかわらず、明治維新直後の政府は、早々と幼稚園を日本の教育体系の中に導入しているわけですから、「これは何かあるな?」と思って、いろいろと当時の歴史を調べてみました。すると、意外な事実がわかりました。

 明治五年に文部省が「学制」を公布する一年前。つまり明治四年に、当時の日本人をことごとく震撼させる本が中村正直より出版されます。『self help』です。これを中村正直が翻訳した『西国立志編(スマイルズ著・中村正直訳)』。つまり自助論です。

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 この本は、西洋の論語と言われたもので、その当時の知識階級がこぞって熱中して読んだ本でもあります。なぜならばこの本によって、ヨーロッパ人がどうして優れているかということを、初めて日本人は知りえたからです。

 それまでは、西洋列強は、単に科学技術に優れているから、その武力で世界を征服できた。貿易で富を稼いだからその財力で世界を征服できた。・・・と思っていたわけです。しかし、そうではない。彼らは彼らの方法で品性を磨くことによって、強大なヨーロッパ諸国が出来上がった。それを具体的にまとめて本にしたのが『自助論(西国立志編)』。つまり、品性によって西欧諸国が強大になったということに気づかされたわけです。

 だから、自助論を西洋の論語と称したわけです。
 その結果、自助論に心底影響受けた人たちが、
 幼稚園教育を推進することになります。
 もちろん翻訳者である中村正直も、日本最初の幼稚園を設立します。

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 文章がずいぶん長くなりましたので、続きは後日書くとしましょう。


つづく。

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2017年03月08日

三歳児に、九九を覚えさせる、ごくごく簡単で手軽な方法

 前回の続きです。

 息子が生まれて以来、このブログにいろいろなことを書いたせいか、小さい子連れのお客さんがうちの宿にたくさんお泊まりになるようになり、質問をいただくようになっています。しかし泊まりにいらしても、十分に質問にお答えすることができなく、わざわざオフシーズンの平日に、有休を取ってうちの宿に泊まって質問してくるお客さんも少なからずいました。あまりにも申し訳ないので、このブログで、よくある質問について解説してみたいと思います。

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 前置きはこのくらいにして、本題に入ります。
 3歳児に九九を覚えさせる方法です。
 意外かもしれませんが、九九が一番簡単に覚えさせられます。
 信じがたいくらいに簡単に覚えちゃいます。
 といっても息子は足し算ができないので九九を理解しているわけではありません。
 単に暗記しているだけです。この九九の暗記が一番簡単で楽。一番手がかかりません。

 実は脳科学の本を読んで、非常に興味深かったのは、言語を理解する脳の部分と、音楽を理解する脳の部分が、同じであるらしいという部分でした。言われてみれば、幼稚園や保育園では、音楽教育を盛んにやっています。また、江戸時代の昔から、子育てに子守唄を盛んに歌って聞かせたことからしても、これらの行為は、理にかなっていたということになります。

 もしそうであるならば、音楽を聴かせることによって、言語の理解も進むのではないかと思い、言語をテーマに選んだCDを買って息子に聞かせてみました。もし漢字のCDとか、ひらがなやカタカナのCDがあれば、それを利用したのですが、そのようなものは売られていませんでした。市販されているもので唯一手に入るものは、
「 ABCの歌」
「九九の歌」
「数字の歌」
「都道府県の歌」
「県庁所在地の歌」
くらいのものです。それらを、車で出かけるたびに、車で幼稚園児送迎するたびに、車の中で聞かせてみました。すると恐ろしいほどに、数字やABCや九九を覚えてしまいます。

「これはすごい」

と思って、いろいろなCDを買いました。

 九九の歌に関しては、いろんなメロディーで大勢の歌い手さんが歌っていますので、様々なバージョンの歌を買い集めて息子に聞かせたのですが、キングレコードで出している「うたって覚えよう!~九九のうた」が1番息子にとって良かったようです。

 実はこの歌は、 1の段から9の段まで全てメロディーが違っています。なので私たち大人にとってはとても覚えにくい歌です。だから1の段から9の段までメロディーが全く同じもを買い直して、そちらの方が、息子には覚えやすいかと思いきや、息子にとってはそうではなかったみたいで、メロディーが違う方がスムーズに頭に入ったみたいなのです。大人の脳の構造と、 3歳児の脳の構造は全く違うことに大変ショックを受けました。

 で、これに味をしめた私は、あることに気がつきました。

 教育テレビの「日本語で遊ぼう」の番組で、似たような歌がいっぱいあることに気がつきました。例えば数字の単位の歌とか、春の七草の歌とか、旧暦の歌とか、そういうものをDVDに録画して、それを編集して息子に見せれば、息子はいろんなものを記憶するのではないかと思いついたのです。

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 しかしこれは大失敗でした。
 画像があると歌を記憶しないのです。
 しかも、すぐに飽きてしまいます。
 VTRを見なくなるのです。

 ところが、車に乗せて音楽だけをCDで聴かせますと、歌詞の内容をすぐに覚えてしまいます。画像付きだとダメなのですが、音楽だけなら頭に入ってしまいます。一見聞いてなさそうに、外の景色を見ているだけなのに、歌詞が頭の中にどんどん入っていくのです。

 じゃあ音楽だけを、四六時中流せばいいのかなぁと思いきや、そうでもないらしいのですね。車の中ではおとなしく聞いてくれるのですが、食堂にCDプレーヤーを置いて、それを聴かせようとしますと、おとなしく聞いてくれることを全くなくて、散々 CDプレーヤーで遊んだ挙げ句にCDそのものを破壊してしまうのです。車の中ではそういうことありませんので、 0歳児の頃から「車内ではじっとしている」と言う刷り込みができているところでないと、おとなしく音楽は聴いてくれないようです。

 それはともかく、以上の実験から、幼児教育における音楽の重要性を感じましたね。世界的に見て日本人のIQが高い理由の1つに、幼児における音楽教育の成果があるという気がします。日本くらい、童謡・童歌・子守歌が多い国は無いですからね。というわけで、いろいろな音楽を聴かせることが、脳の発達に影響があるような気がします。例えば、ネズミやサルにモーツァルトの音楽を聞かせると、例外なく空間的知能が発達することが知られています。もちろん人間の幼児においても同様の効果がありますから音楽が幼児の成長に大きく影響することは間違いないでしょう。


つづく。

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2017年03月04日

2歳児に漢字を覚えさせる方法

 息子が生まれて以来、このブログにいろいろなことを書いたせいか、小さい子連れのお客さんがうちの宿にたくさんお泊まりになるようにになりました。しかも、いろいろな質問をいただくようになっています。しかし、忙しいピークシーズンでは、 1人1人のお客さんに対応できるわけでもなく、わざわざ泊まりにいらしても、十分に質問にお答えすることができなかったりしました。そのせいか、わざわざオフシーズンの平日に、有休を取ってうちの宿に泊まって、質問してくるお客さんも少なからずいました。それではあまりにも申し訳ないので、このブログで、よくある質問について、解説してみたいと思います。

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まず、私はたびたび書いている脳科学の種本についてですが、私の読んでいる本は、久保田競先生・そのお弟子さんである沢口先生を始めとする数人の先生の本です。久保田先生と沢口先生の本はほぼ全部読んでいます。そもそも私は脳科学の本に興味を持ったのが、今から15年前に出た集英社インターナショナルの『痛快シリーズ 』を全部読んだことにあります。痛快シリーズとは、心理学・憲法学・脳科学・医学・歌舞伎学・ローマ学といった、あらゆる学問を漫画を交えて分かりやすく解説した本です。そのシリーズで脳科学を書いたのが、明石家さんまの『ほんまでっか』に出ている沢口先生です。この先生は、脳科学について解説する前に、自分がADHD(注意欠陥・多動性障害)であることを告白しています。

 明石家さんまの『ほんまでっか』では、芸人ぽいバカな学者のように扱われていますが、彼はADHD(注意欠陥・多動性障害)であるので、このような風変わりな行動をとってしまいます。それに悩んだ結果、何故だろうか?と苦しみながら自問自答して、哲学の道に進みましたが、全く解決できませんでした。で、京都大学の久保田先生の弟子になり脳科学の道に進んで、やっと回答をえられるようになっています。

 それゆえに、この沢口先生の本は、ユニークで面白い本が多いですし、その師匠である久保田先生のほうも非常に面白い本が多いです。また、『0歳児の「脳力」はここまで伸びる』のアリソン・ゴプニックやアンドルー・N・メルツォフの本もおもしろいし、瀧靖之先生・黒田恭史先生の本などもおもしろくてやみつきになります。

 しかし、これらの本を読めば、育児に役立つかというと疑問です。乳幼児の学習能力の伸ばし方を知りたいと思って読むと肩すかしになると思います。いわゆる科学の本で、育児哲学・教育哲学にはふれてない。乳幼児の学習能力の伸ばし方を具体的に書いてあるわけではないからです。しかし、これらの基本的な概念をしっておかないと、応用が利かなくなる。

 ただ脳科学の本は、あくまでも科学本なので、これにプラスして動物学や心理学や教育学の入門書と一緒に読むといいかもしれません。野生動物のドキュメンタリー番組の方も参考になります。理論とセットにしてみると良いです。BSプレミアムの『ワイルドライフ』とか、 NHKの『ダーウィンが来た』とか、スカイパーフェクトTVの『アニマルプラネット』『カリスマドックトレーナー』などを熱心にみると何かがつかめてくると思います。あと自然ガイドから野生動物たちの解説を聞くのもいいかもしれません。人間も動物なので得るものが大きいと思います。

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 前置きはこのくらいに留めといて、本題に入ります。

 よくお父さんから、『どうやって2歳0ヶ月の子供にひらがなカタカナを覚えさせたのか?』という質問をいただきます。このブログに何度も書きましたが、覚えさせてはいません。私は息子に全く勉強をさせていません。

 何度も言いますが、 2歳児が勉強するわけがありません。
 もちろん3歳児でも4歳児でも一緒です。
(下手したら小学生だって勉強しないかもしれない)
 彼らは煩悩の塊なので、絶対に勉強しません。
 遊ぶことしか頭にありません。

 だから、ひらがなカタカナを覚えさせる前にお父さんが子供と遊ばなければなりません。これは野生動物を見れば一目瞭然で、ライオンでも狼でも、子供たちは遊ぶことしか能がありません。だからお父さんが近づくと、
「あ、遊んでくれる人がやってきた」
と思わせなければダメなんです。怖い顔でお父さんが近づいても、子供は緊張して遊ぼうとしません。ましてや勉強なんかする訳がありません。

 とにかく2歳児に

『お父さん = 一緒に遊んでくれる人』
『お父さん = 一緒にいて楽しい人』
『お父さん = ウキウキする時間が始まる』

というイメージを植え付けなければ、いけないのです。

 ライオンの子供だって、遊びの中から狩りを覚えるんです。だからライオンたちは、子どもたちが遊んでいるのを絶対に怒ったりしません。だからまずお父さんがやる事は、息子と遊ぶことなんです。そして、お父さんは一緒に遊んでくれる人だと思わせちゃうんです。ただし、長い時間遊んではダメです。盛り上がってきたら5分でやめる。そしてさっと消える。これを何度も繰り返すんです。遊び疲れるまで一緒に遊ぶんではなくて、もうちょっと遊びたいなーと思ってるところで止める。これがコツです。

 遊び方も工夫して毎回違う遊びをします。そして、盛り上がってきたら5分でやめる。そして、ひらがなやカタカナが書いてある積み木を使って遊ぶのです。これも5分でやめる。次は、ひらがなやカタカナが書いてあるカードで遊ぶ。これも5分でやめます。そして一緒にお風呂に入ったら文字のポスターが貼ってある。それを使って遊びます。

 もちろん、どんなに盛り上がっても5分でやめてしまう。もちろん相手は欲求不満になります。これが狙いです。 2歳児は、欲求不満になりますから、文字の書いてある積み木や文字の書いてあるカードをこっそり持ち出して自分ひとりで遊び始めます。その結果、 2週間ぐらいでひらがなやカタカナを覚えてしまいます。うちの息子は、 2歳0ヶ月前後でひらがなカタカナアルファベット数字をすべて覚えてしまいました。

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 では3歳児ではどうかというと、2歳児に比べて明らかに覚えが悪くなってきます。 2歳児の頃は2週間で、ひらがな50文字を全部マスターしましたが、 3歳児の場合は、小学1年生の漢字(80文字)をマスターするのに2ヶ月かかっています。では、記憶力が落ちたのかというとそういうわけでは無いみたいです。 2歳児の頃よりも、 3歳児の頃の方が、周りの世界の知識を大量に理解し始めているからです。文字以外の情報を大量に吸収しているんですよね。つまり、文字だけに関わっていられないのが3歳児なんです。

 ところでうちの息子は、 2歳0ヶ月からいろいろな文字を覚えましたが、周りの世界を理解するのは他の同級生に比べて遅かったです。これは文字を覚えるのに集中したためかもしれません。もし私が文字を覚えさせなければ、もっと別の情報を割りの世界から吸収していたのかもしれません。

 つまり早く文字を覚えようが、後から覚えようが、吸収する情報量は一定である可能性が高いかもしれません。早くに文字を覚えたからといって、それが頭が良い証拠かというと、甚だ疑問です。脳科学的に言うと、むしろ逆である可能性が高いようです。瀧靖之先生に言わせると、成長が早い子は好き嫌いが早く訪れるので、自分の好きなものしか覚えようとしないらしいのです。

 そういう意味では、うちの息子は3歳6ヶ月ぐらいまでは、小学校3年生ぐらいまでの漢字をマスターする勢いがあったのですが、 3歳6ヶ月を過ぎると、それがピタリと終わってしまいました。好き嫌いが明確になってきて、漢字を覚えると言うゲームに飽きてしまったようです。

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 そうそう、『どうやって漢字を覚えさせたんですか? 』という質問もたくさんありました。『ひらがなカタカナを覚えさすことができても、 3歳児に漢字を覚えさすのはさすがに難しい』と言うお父さんお母さんの、質問をいただくことも多かったです。

 実はこれも簡単で、種を明かすと『なーんだ』ということになるんですが、要するに3歳児になると、やたらと親の真似をしたがる傾向が出てきますが、それを逆用をすれば漢字を覚えさせるのも非常に簡単です。例えば、私はこうやってパソコンに向かってブログを書いていたとします。すると息子は、私の膝に乗ってパソコンのマウスやキーボードをいじりたがります。それを利用するのです。息子がやってきたら、即座にパソコンの画面を漢字ゲームの画面に変更します。試しに下記サイトをクリックしてみてください。

http://www.kids-study.net/

いろんな漢字ゲームが出てくると思います。他にもいろんなゲームがインターネット上にはありますから、その画面に変更します。そして漢字ゲームを5分だけやります。 5分たったらやめます。どんなにせがんでもやめてしまう。公文の漢字カードもいいです。3集全て買って、それを分解し、果物の漢字・天気の漢字というふうに分けるといいです。そして分けたカードをお父さんが読む。
「蜜柑」なら
「みかん」と読んでみせ、
できたら蜜柑の実物を食べてみせる。
そして蜜柑カードで色々遊んでみる。
もちろん5分たったら終了。
決して、暗記を強制しない。
というか暗記は絶対にさせない。
あくまでも蜜柑カードで遊ぶだけにする。
5分だけ遊んで、もっと遊びたいなあと思っているところで止める。これがポイントなんです。寸止めで止めるから一日に何度も「漢字やりたい」とねだってくるようになります。ねだられたら、必ず一緒に漢字ゲームをしますけれど、すぐにやめちゃう。絶対に5分以上やらない。だから何度も、おねだりしてきます。

 逆にいうと、スパルタ式は駄目です。
 絶対にやってはだめ。
 勉強も駄目です。
 一瞬で嫌いになってしまう。
 あくまでも遊びで無いと続かない。
 そのためには「怖いお父さん」ではだめです。

 といっても優しいお父さんでも駄目で、優しいだけでは、親子関係がぎくしゃくします。1ヶ月に1回くらいはキツく怒らないと、親子関係が悪くなってしまう。しかし、毎日のように怒るのは駄目。「怖いお父さん」ではだめです。

 そういえば「九九は、どうやって覚えさせたんですか? さすがに3歳に九九は無理ですよね?」というお父さんもいました。しかし、九九が一番簡単に覚えさせられます。信じがたいくらいに簡単に覚えちゃう。といっても息子は足し算ができないので、九九を理解しているわけではありません。単に暗記しているだけです。この九九の暗記が一番簡単で楽。一番手がかからない。これについては、次回解説します。


つづく。

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2017年02月16日

子供を幼稚園好きにさせるコツ

 2月12日の日曜日に、久しぶりにお客さん4人を連れて小浅間山にスノーシューハイキングをしてきました。小浅間山は、なだらかで簡単に登れる山の割には、自然が豊かで景色の素晴らしいところです。登山口から一歩入ると道路からいくらも離れていないというのにカモシカやツキノワグマがと歩いていたりします。標高は1,655メートルもあり、頂上からの大展望は、それはもうすごいもので、その辺の百名山よりもよほど雄大です。にもかかわらずコースタイムはたったの1時間。スノーシューならば2時間もあれば登れてしまいます。

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 この山は、私にとってはかなりお気に入りの山です。春から秋にかけては毎日ここで犬の散歩をしているくらいです。なので、この山は私にとって庭先のようなもので、今では目を閉じても登れてしまいます。なので熊には十数回であってますし、カモシカに至っては50%の確率で対面しています。ですから、熊・カモシカ・山鳥・テンなんかは少しも珍しくありません。しょっちゅう出会っているからです。

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 珍しいのは、人間の赤ちゃんや幼児です。赤ちゃんや幼児を連れて登山する人はさすがに少ないです。とはいうものの、まったくないという事はなくて、都会から来たであろう幼稚園バスが駐車場に止まっていて、幼稚園の先生が子供たちを連れて小浅間山に登っている姿は何度も見かけました。不思議なことに、それらの幼稚園バスは、地元民のバスではなく都会の幼稚園のバスです。どういうわけか、地元の幼稚園は、小浅間山に園児を連れて登ろうとはしません。こんなに素晴らしい自然があるにもかかわらず、これを活用しようとはしないのです。

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 まあそんな事はどうでもいいとして、今回小浅間山にスノーシューで登っているときに、 3歳10ヶ月の幼児を連れたお父さんに出会えました。 3歳10ヶ月といえば、うちの息子とほぼ同じ頃の生まれです。

「何月生まれですか? 」
「 3月14日生まれです」
「え?」
「ホワイトデーに生まれてるんです」
「それはそれは… 」

 この日はマイナス10度ぐらいの寒さの上に、強風が山に吹き荒れていましたから、その中を登ろうとする訳ですからたいしたものです。うちの息子も、去年の今頃(2歳の頃)、冬の小浅間山に何度も登っていますが、幼児には結構ハードルの高い寒さなんですよね。そういうところにお父さんと2人でチャレンジしている訳ですから、大したものです。オンブもなし。抱っこもなし。肩車もなし。小さな3歳児は、マイナス10度の冬山を自分の力だけで登っていました。素晴らしいお子さんでありお父さんだと思いますね。

 話は変わりますが、お客さんから
「お子さんは、素直に幼稚園に行ってくれますか? 」
と言う質問を頂きました。私は答えました。

「うちの息子は、最初から幼稚園が大好きなんです。今でもそれは変わらなくて、 3日ぐらい休ませると、自分から『幼稚園に行きたい』 と駄々をこねます」
「それはすごいですね、私の知り合いは、幼稚園に行きたがらないで、毎日のように駄々をこねています」
「なるほどねぇ。幼児用幼稚園好きにさせるちょっとしたコツがあるんですけれどね、普通のお母さんには、わからないのかもしれませんね 」

 実は、小さいお子さんのいる親御さん達から、こういう質問を何度もされています。世の中には幼稚園や保育園に行きたがらないお子さんが多いみたいですね。そのたびに、お子さんを幼稚園好きにさせるコツを述べていますが、この際だから、このブログにも書いておこうかと思います。

 子供を幼稚園や保育園を大好きにさせる方法は、とても簡単で、入園前に親子でアウトドアで徹底的に遊べば簡単に解決します。私は、息子が幼稚園に入る前に、氷点下5度から10度にもなる冬山に何度も一緒に出かけました。標高1,600メートルもある小浅間山にも何度も登っていますし、雪の積もっている浅間園を何度も散歩しています。軽井沢離山にもスノーシューを履いて何度も登っています。軽井沢おもちゃ王国で雪遊びもしました。

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 2歳児は、親と一緒にいるだけで大喜びですから、氷点下10度の山の中でも全く気にしません。それどころか、雪山の中で私が差し出すお菓子が目当てで、毎日のように「山に行きたい」とせがんできます。もちろん、雪山を歩く訳ですから、2歳児の息子にとっては苦しい毎日だったと思います。けれど親と遊べるという喜びと、その時にだけ食べられる美味しいお菓子のためなら、多少のことは我慢できたのでしょう。

 やがて息子も3月26日の3歳の誕生日を迎え、そして4月になります。

 こども園と言うタイプの幼稚園の入園式になります。 4月ですから春の陽気でぽかぽかと暖かくなります。幼稚園に入った息子は驚きます。幼稚園には、お父さんお母さんこそいませんが、たいして身体は使いません。マイナス10度の冬山で凍えることもありません。おもちゃを与えられて、山に登れなくとも、幼稚園では給食やおやつを無条件にもらえます。息子は、
『幼稚園は楽園ではないか? 』
と思ったはずです。

 ちなみに、どの幼稚園でもどの保育園でも、入園したばかりの時は、慣らし保育と言って、 1時間とか2時間しか預かってくれません。息子の場合は、 4月末のゴールデンウィークまで2時間ぐらいしか預かってくれませんでした。当然のことながら、幼稚園から帰ったら山に連れて行きます。厳しいアウトドアが待っています。もちろん息子は、親と一緒にいられるので大喜びではあるのですが、親と一緒の時間帯には、必ず厳しいアウトドアがセットとなっている事に気が付きます。幼稚園とどっちが楽なのか、いくら鈍感な息子でも気がついたと思います。

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 また、時々 、息子に幼稚園を休ませて、標高2,100メートルの湯の丸山に連れて行きました。湯の丸山は、結構体力を使う山です。幼稚園のない日に、そういうところに連れていくわけですから、いやでも幼稚園の方が楽だということが分かってしまいます。もちろん親と一緒に山登りをして、頂上でお弁当食べる訳ですから、息子は大はしゃぎで楽しんではいるのですが、そういうことが2〜 3日続くと、布団で寝る時に
『明日が幼稚園に行きたい』
と、かわいらしい顔でせがんできます。その時に、優しそうな顔で言ってあげるのです。

「そうだね、明日は幼稚園に行こうね。しずか先生に会いに行こうね」

すると息子は嬉しそうな顔で

「明日は幼稚園に行こうね。しずか先生に会いに行こうね」

と何度も私の言ったことを復唱しながらゆっくりと眠りに落ちていくのです。
こうして私の息子は幼稚園と担任の先生が大好きになってきました。
こうなればしめたもので、
担任の先生もやりやすくなるので可愛がってくれるかもしれない。
これが、子供を幼稚園好きにさせるコツです。


つづく。

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2016年03月14日

勉強のために他の宿に泊まってみた結果3

 やっと経理が終わりました。これから寝て、数時間後には起きて、税務署に行って提出してきます。今月は本当に忙しかったです。ブログもFacebookもほとんど書き込めませんでした。税務署が終わったら、今度は役所に提出する書類を徹夜で書かなければいけません。その後はホームページの手続きとか、原稿の締め切りとか、観光協会とか、いろいろな仕事が目白押しです。 2月から3月にかけては、寝る暇もありません。これは嫁さんにしても同じで、息子のこども園の入学準備のために、大忙しだったようです。

 前置はさておき、本題に入ります。

 去年の11月から今年の1月までの間に、勉強のために毎週のように宿に泊まってみました。その結果いろいろ分かったことがありました。前回は、子連れの宿泊について書いてみましたが、今回は、じゃらん・楽天の予約について書いてみます。

 自分で宿泊先を決めようとしたとき、結局インターネットで探したんです。紙媒体で探してないんです。というか、そういう便利な紙媒体は、もう手に入らないんです。だからインターネットを利用することになる。当然のことながら口コミを読んで決めています。口コミの最大情報量を持つサイトは、トリップアドバイザー・じゃらん・楽天・ブッキングゴムなどですが、どこがいちばん参考になったかというと、じゃらん・楽天なんですよね。この2つが1人勝ちしているわけです。

 もちろん宿屋の情報ネットワークがありますから、どの宿が評判高いかは私も事前に知っています。だから自分の持ってる情報で良い宿に泊まっろうと思えば泊まれるのですが、今回はそういう宿は、一切排除して自分の全く知らない宿に泊まっろうと言うテーマを持って、宿探しをしてみたんです。で、 1泊に3万円くらいを使おうと思ったら、目の色を変えて口コミサイトを探して読み込むわけです。失敗したくないわけです。自腹を切って宿を探してみたら、その辺の気持ちは痛いほどわかりました。

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 しかしです。今回は、じゃらん・楽天が発行するプレミアム宿泊券というものがあったんです。つまり、今年度に限っては、半額で泊まれたわけです。 1泊3万だったとしても、実は半額の1万5,000円しか払わなくて良かったですね。そのためには、そのクーポン券を獲得しなければいけません。そのチャンスは、群馬県に限って言えば10月、 11月、 12月、正月、 2月と、5回ぐらいありました。もちろん、長野県とか、山梨県のプレミアム宿泊券もあります。

 けれど、ものすごい競争倍率ですので、朝10時のクーポン券発行時間に、すぐにゲットして、1分以内に予約しなければなりません。それで、やっと予約できるかどうかなんです。だからプレミアム宿泊券をかたっぱしからゲットして、迷っていたら1分後にプレミアム宿泊券のクーポン券の有効期限は終わってしまうのです。だから前もって泊まりたい宿を調べておいて、プレミアム宿泊券が発行されると同時に予約を確定するわけです。そうすれば、半額で泊まれるんですね。この制度を利用して、私たちは、毎週のように、いろんなホテルやペンションに泊まって宿泊の勉強させてもらったんですが、 1つだけ非常に気になることがありました。

 宿屋の中に、ごく稀に自分から契約を破る宿屋があるということです。
 それも五つ星をもらっている有名な宿屋が、そういう行為をするんですよ。


 宿屋が、宿泊プランを、じゃらん・楽天に出したとします。
 そこにお客さんが予約をしたとします。
 この時点で契約は成立しているわけです。
 ところが、それを後になってひっくり返す宿屋があるんですね。

 どういうことかというと、宿屋のマネージャーの中には、インターネットに詳しくない人もいるわけです。そのために、じゃらん・楽天の操作が今一つよくわからなくて、設定ミスで安すぎるプランができているケースが稀にあるわけです。

 こういう場合は、宿屋が設定ミスをしてプランを出しているわけですから、宿屋の責任です。宿屋はどんなに安かろうが、成立した契約を履行する義務があります。そうでなければ最低でも、予約が入った直後にメールか電話をして、

「さっきのプランは設定ミスでしたごめんなさい。本当はこの金額ですから、そっちに変えていただけませんか? 」

と、連絡をするのがマナーというものです。もちろん、それだって決して褒められたことではありません。宿が悪いんですから、本来なら契約は成立しているのだから、宿側が泣くべきことであって、お客さんに謝って、料金を変更するべきではありませんが、それでも、予約した直後に連絡があるのなら、まだ話はわかります。

 ところが、 1ヶ月以上前に予約したにもかかわらず、宿泊の前日になって、
「こちらのプランの設定ミスでした。 1泊2万円ということでしたが、本当は3万円です。すいませんが、当日は3万円払ってください」
という電話がかかってきました。

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 最初に電話を取ったのは、私でしたが、相手は自分の名前も名乗らずに、うちの嫁さんの名前を連呼してきたので、嫁さんと電話を変わりました。ずいぶん失礼な電話だなぁと思ったものです。一体誰だろう?と不審に思ったんですが、これが契約をひっくり返そうとした例の宿でした。うちの嫁さんは、どんどん顔色を失って、どんよりとしていたので

「どうしたの?」

と聞くと

「訃報です。今日になってん宿の値段が1万円値上がりしました」
「え? 出発前日に値上げなの? どういうこと?」
「・・・・」
「1ヶ月前にじゃらんで、2万円のプランを申し込んだんだよね?」
「うん」
「それが出発の前日に勝手に値上げ? おかしいだろう? 電話をもってきて」
「やめて! 明日、泊まるのに、相手を刺激するようなことは言わないでよ。泊まりづらくなるじゃない」

 実は、うちの嫁さんは、その宿(伊香保の宿)のファンでもありました。宿に泊まった事はなかったのですが、レストランの料理は何度か食べたことがあり、料理も内装も嫁さんが特に気に入っていた店だったのです。

 だからこそ、この仕打ちにショックを隠せなかったようで、顔面が青ざめていました。それは1万円が惜しかったということではなくて、そういうことをする宿だったんだということに衝撃を受けていたようです。そこで電話をかけて文句の1つでも言ってやろう。それがダメなら予約サイトのじゃらんのほうにクレームを入れてやろうと思ったんですが、

「やめて! 明日、泊まるのに、相手を刺激するようなことは言わないでよ。泊まりづらくなるじゃない」

と嫁さんは拒否します。どうしても相手の宿から、嫌な客だと思われたくないようです。これほどの仕打ちをされても、相手の宿を思いやっていることを考えると、よほどその宿に思い入れがあったんでしょう。仕方がないので、相手に対して柔らかく電話で諭すことにしました。まず、担当者を呼び出しました。そして低姿勢に問いかけたのです。

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「さっき電話してくれた佐藤智子の夫だが、家内がどんよりしてるんだよね」
「・・・・」
「オタクが値上げの電話してくるまでは、明日の伊香保旅行のためにウキウキしてたんだよね。1ヶ月前から楽しみにしていたんだよ。だけど電話以降、どんよりしてるんだよ。せっかくの伊香保旅行が楽しめそうにないんだよね。楽しい旅行が、暗い旅行になっちゃったんだよね」
「・・・・」
「別にクレームをつけてる訳じゃないよ。そちらさんがそう言うルールだというなら仕方ないよね。でもさぁ、予約した直後に電話をしてくれるならともかくとして、出発の直前に、それもあと10時間後に出発するという時になって、すいません1万円値上げしますと言われたら、普通どんよりとするよねー。だって契約は、 1ヶ月前に成立しているわけだから、そのつもりで、こっちは予定を立てているよね。それひっくり返す宿が、この世に存在するとは想定外だったしねえ。予約した1ヶ月前に、契約変更を宿側がもし出るならわかりますよ。1ヶ月も放置しておいて、出発の10時間前に、それも電話で口頭で言ってくるなんて経験は初めてです」
「だから先にお願いをしたわけで、あくまでもこちらをお願いをしたわけなので」
「ふぉー、オタクは、あくまでもお願いしただけで、勝手にうちの家内が1万円を払うというたわけで、 1万円払うのはあくまでも客側の好意?という風に聞こえますが、そういうことをおっしゃってるのでしょうか?」
「いえ、決してそういうわけではなく・・・・」
「別に1万円を払うのが嫌だというわけではありませんよ。 1万円を払います。ただ、楽しい気分で旅行しようと思っていた矢先に水を刺されて残念でなりません。誰だってそうなると思いますよ。1ヶ月も前に契約が成立しているのに、出発の10時間までに値上げですって言われたら、せっかくの楽しい旅行も、暗い気分になっちゃいますよ。わかりますよね?」
「解りました。今回は2万円でいいです」

 はあ? 2万円でいいとはなんたる言いぐさだと思いましたけれど、私は、それをグッと噛みしめましたね。

「いえいえ、こちらも払わないと言ってるわけではないんです。払いますよ1万円余分に。ただ、気分良く旅行ができなくなるんで、そこをなんとか、うちの嫁さんのどんよりとした顔を笑顔にしてやってくれと言ってるんですよ。それだけを伝えたかったんです」
「いいえ、今回は2万円でいいです」

 この後もいろいろ電話のやりとりがあって、結局、 2万円で泊まれることにはなったのだが、私たちが気分を直したわけではありません。ずっと、もやもやしたままです。なんか相手の言いぐさに納得できてない。もちろん金額の問題ではなくなっている。何かモヤモヤがとれない。そして、モヤモヤしたままチェックインしたわけですが、宿側は、直前に値上げしたことを最後まで謝らなかったので、やはり「モヤモヤ」は、残ったままでした。

 一言あれば、「モヤモヤ」は消えていたと思うんですけれどね。きっと宿側は、1万円安く泊めてやったんだと思ってるんでしょうねえ。それがサービスなんだと思っているんでしょうね。しかし、客側の立場だと、契約を直前でひっくり返された被害者でしかありません。はっきり言って、もう二度と泊まりたくないと思っています。

 けっきょく、このような反則は、宿屋にとっても、いいことなんか1つも無いと思いますね。目先の1万円に目がくらんで、昔からのファンであった家内を幻滅させ、過去にホームページで紹介していた、その宿のレストランを私が消してしまっていますから。

 ちなみに、私達は泊まった宿のほとんどに、 5つ星をつけて、口コミにも絶賛の書き込みを書いているわけですが、この宿だけには、まだ何も書いていません。冷静に評価をすれば、施設面では確実に5つ星なんでしょうが、最初についたケチのために、心情的には、 1つの星もつけたくない気分です。

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 ということで、もしこのようなことが起きたら、どうすればいいのか?

 トラブルに関するお問合せについては、
 じゃらんホットラインに電話すると良いかと思います。
 もしお客様の訴えに正当性があれば、宿側は必ず謝ってくるはずです。

【じゃらんホットライン】
0120-15-5971
11:00〜13:00/14:00〜17:00 土日祝、年末年始を除く平日
http://help.jalan.net/app/answers/detail/a_id/10408

 ただし、このホットラインは平日しか使えませんので、今回のように出発直前に起きたトラブルは、土日祝の場合も多いでしょうから、【じゃらんホットライン】は使えません。そういう場合は私のように「情」に訴えれば、宿側も過ちを認めて相手が引き下がる可能性があります。常識のある宿のマネージャーであれば、大抵の場合は大丈夫だと思います。というか、そう思いたいですね。



つづく。

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