2015年11月02日

佐渡島に里帰りしてきました3 佐渡ベルメールユースホステル編

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大佐渡スカイラインで、佐渡島の展望を楽しみつつ、
大平高原や乙和池を見学しつつ、下山していくと佐渡金山に到着します。
けれど今回は、それをスルーして、外海府に向かいました。

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 歴史が好きならば、金山によらない手は無いのですが、うちの嫁さんは、歴史よりも海の方を見たい口なので、今回は、神社仏閣や金山といった歴史に関係ある観光は封印です。嫁さんの希望もあって、ただひたすら、海を眺める旅行になりました。

 これが私の一人旅なら、城跡とか名所旧跡巡りになるのですが、今回は息子と嫁さんに海を見せるのがテーマなので、私の歴史に関する解説は、これから後も全くありません。ちょっともったいないですね。ちなみに、金山といえば、佐渡をロケにしたサスペンスで定番なシーンが、金山の洞窟でおきるクライマックスです。かならず犯人が主人公を金山の洞窟で殺そうとするんですが、すると『ちょっと待った!』と刑事さんたちが登場する。洞窟においてある鉱夫の蝋人形(まねきん?)が、突然、動き出して、実は刑事さんだったというオチなんですよ。

 まぁそんな事はどうでもいいとして、車を走らせると、磯の香がするのが佐渡島の海岸道路です。下の写真を見てもらうとわかりますが、道路に稲を干す柱がたくさん並んでいます。これが佐渡島の原風景で、子供の頃は、このような柱をたくさん見たものですが、今では佐渡島でも外海府(そとかいふ)くらいでしかいられません。

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下の写真を見てください。
途中、巖に墓があったりします。
海岸沿いに墓があったり、崖下に墓があったりします。
そして、それらの墓にしおれてない新しいお花が飾ってあったりします。

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下の写真は、海府大橋です。

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 この橋ができるまで、佐渡島の外海府は、知床岬にも匹敵するほどの秘境であり僻地でした。車はもちろん人が歩くのも困難な場所で、昭和30ー40年代の登山ガイドブックにも掲載されていたくらいです。

 この海府大橋ができたのが昭和44年(1969年)で、私が小学校1年生の頃です。それまで佐渡島を1周する道路はなかったのです。外海府ユースホステルのある岩谷口から船に乗らないと隣の集落まで行けませんでした。いわば隣の集落は、佐渡島のチベットだったわけで、映画『喜びも悲しみも幾歳月』にも秘境の灯台として、ロケ地にもなっているくらいでした。それが今や簡単に行けてしまうのですから驚きます。

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 ちなみにこの海府大橋の下に、落差100メートル以上の大瀑布、大ザレの滝があります。そのすごさは、見る者を感動させます。これを見るためには海から船で見る以外に手段がないと言われていますが、実は簡単に見られる方法を私は知っています。海府大橋のつけねから、降りるルートがあるんですよ。危険なのでこれ以上は具体的に言いませんが、地元民でも知っている人はほとんどいない秘密のルートがあって、大ザレの滝がみられるのです。おまけに、その先に、秘密の洞窟があって・・・・おっと、これ以上は、やめておきます。 

 ところで佐渡島には、観光ガイドには全く載ってない大瀑布がかなりあります。しかし地元民もほとんど知りません。無関心なのです。で、その中の1つに7段の滝というのがあります。沢装備にロープを持っていかないといけないところにあるのですが、これもまた落差100メートル以上の滝が7段にわたってあるんですね。場所は外海府ユースのあるところから、 2時間ぐらい歩いたところです。もちろん登山道もありませんので命がけです。これも地元民がほとんど知らないと思いますけれどね。

 でも、知らなくていいんですよ。
 下手に知られたら、頭の悪い観光業者に開発されてしまうかもしれませんから。
 佐渡島の秘境は、もうちょっと眠らした方が良いと思います。

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 海府大橋からしばらく車を走らせると、大野亀に到着しました。ここは、 7月ごろになるとカンゾウが咲き乱れる別天地になります。それは美しい光景で、何時間も見とれてしまうほどの場所ですが、残念ながら花の季節は終わってしまっていました。

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 奥に見えるのは、 2つ亀です。中学時代や高校時代に、よく自転車で訪れたところです。今はどうかわかりませんが、私は高校生のデートスポットでもありました。というのも、その辺あたりの集落は『願』と言うんですね。何かを願うために2つ亀に行く人たちがいたわけです。ちなみに、ここも秘境の1つで、 2つある島の奥のほうには、非常に面白いものがあるんですよね。見た人は驚くと思いますが、そこまで歩いていく人は皆無なんですね。だから、佐渡島の地元民も、何があるのかを知らと思います。なので、ここではあえて何があるのかは書きません。行った人のみが、『なるほど』と感動してください。ちなみに今回は、私たちはそこまでたどり着けませんでした。時間切れでした。

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 下の写真は、外海府ユースホステルです。実は、 このユースホステルの初代ペアレントさんとは、私がユースホステルを始める前から、非常に仲良くさせてもらっていました。もうお亡くなりになっていますけれど。だから今回、このユースホステルに泊まってみたかったのですが、運悪く新潟県のペアレント会と日程が重なって、泊まることができませんでした。外海府ユースホステルの初代ペアレントさんは、佐渡島のことなら何でも知っている生き字引のような人でした。山も海も知り尽くしていて、人間国宝にしてもいいくらいな人だったんですが、お亡くなりになったのは残念です。

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ここが外海府の砂浜です。

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下の写真はレストラン海鷲跡地です。

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 佐渡島でもっとも美しい展望がのぞめるレストランだったのに廃墟になっていました。ああ、もったいない。大正時代を思わせる屋形で、味が合ってよかったのに。そのレストランでは、海軍珈琲なるものが、メニューにあって、ためしにたのんでみたらネスカフェがでてきました。280円でした。マスターは、佐渡弁がつよくて話が通じなかったですね。そういえば、佐渡に来た当初、やたら中国語みたいなものが聞こえてくるので「佐渡にも外国人が増えたなあ」と思って耳をすませてみたら中国語ではなくて佐渡弁でした。

 で、この日に泊まったのが佐渡ベルメールユースホステル。

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 嫁さんが希望した「海の見えるユースホステル」です。
 徒歩50メートルでプライベートビーチまであります。

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とても綺麗で、オシャレなユースホステルでした。

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全室が和室でエアコン完備です。

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すごいのが食事。

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これ、東京で食べたら何千円とられるだろうか?

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これはブリカツ。
ブリをカツにするなんて、なんて贅沢な料理。
というかもったいない・・・と、思ったら美味しい!
最高に美味しい!

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ご飯は、かに御飯。
いつもはサザエ御飯だそうです。

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味噌汁もカニづくし。
当然のことながら、ビールをたのみました。
大瓶3本飲みました。
もちろん、他にも御客さんがいました。
2ヶ月間も連泊している御客さんが・・・・。
何か分かるような気がします。
私もリタイアしたら、こういうところで2ヶ月くらい連泊してみたいから。
ちなみに、女将さんと、若女将。

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女将さんには、すでに2回ほどあっていて、
「北軽井沢でユースホステルをやってます」
と言うと
「佐渡の人なら、どうして佐渡でユースホステルをやらないの?」
と言われたことがあります。当時は、
「いやいや、ライバルが増えるでしょ・・・困るでしょ」
と、思ったものですが、このレベルの食事を出せるライバルは、簡単にはあらわれないだろうなあ? だって、あきらかに元がとれてないですから。ちなみに下の写真が、若女将の御主人。

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これが朝食です。
美味しかったです。

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とても良い宿だったので、ちょっと紹介してみました。
海産物が苦手な人には向きませんが、
海の幸が大好物という人には天国みたいなところですね。
おまけに佐渡では珍しい全室オーシャンビュー。
徒歩0分で海岸。
尖閣湾まですぐそば。いいところですよ。


つづく。

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2015年11月01日

佐渡島に里帰りしてきました2

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 2015年10月27日、私たちは佐渡島の妙見山に登りに行きました。途中、立派な杉林がたくさんありましたが、昔は雑木林だったところです。佐渡島の雑木林は、どんどんなくなりつつあります。代わりに杉が植えられて、紅葉は昔ほど綺麗ではなくなりました。ただし、蔦漆が杉の木に巻き付いて、非常にきれいな紅葉を見せてくれています。こういう風景は昔はありませんでした。植生の変化とともに、私たちを楽しませてくれる風景も変わっていくようです。

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 ここには昔、白雲荘という国民宿舎があったのですが、今は綺麗に撤去されて、その代わりに木造のレストランに変わってしまっていました。ここから見る佐渡島の風景は、すごい絶景だったのに、どうして国民宿舎の経営が成り立たなかったのでしょうか? 不思議でしょうがないですね。

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 さて、妙見山に登ろうとしたら、昔の登山道が閉鎖されていて自衛隊の基地になっていました。そして新しい登山道ができていたのですが、そのルートにびっくりです。

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 ここは、昔は、絶対に入っていけない場所だったからです。ここに入ったら最後、迷って出られなくなると言う場所が、大佐渡山脈には、何カ所かあるのですが、まさしくその場所だったわけです。普通なら、こんなところに登山道を作るわけがない。第一、急すぎて、登山するお客さんに対しても不親切だろうと、不思議でなりませんでした。

 それならば、キャンプ場の方から展望台を経由して簡単に登れるルートがあったなぁと、そちらのほうに行こうかと思ったのですが、なぜこんなところに新しいルートができたのか、どうしても知りたかったので、息子を連れて登ることにしました。

 ちなみに、どうして迷って出られなくなるかと言う理由を子供の頃に、学校の先生やボーイスカウトの人たちから何度か聞いたことがありますが、答えは決まって同じで「狢に化されるから」でした。しかし、それも今にして思えばおかしな話です。そんな訳は無いからです。けれど、迷って出られなくなるという話は本当で、私も子供の頃に、それを経験したことがあるのです。その理由が、この新しいルートを登ることによって、わかるかもしれないなぁと、ワクワクドキドキしながら登ってきました。

 で、わかりました。
 1発で解りました。
 確かにこの林は、迷いやすい場所です。
 ブナ林だからです。
 ブナ林は迷いやすいのです。

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 そういえば昔佐渡島には、たくさんのブナ林がありました。そして、それらのブナ林の中に入ると、迷って出られなくなることが多かったと思われます。地元の人々は、それを狸のせいにしたんだと思いますが、タヌキもいい迷惑だったでしょう。あと、たかだか妙見山ごときの山で、登山届を出さなければいけない理由もわかりました。新しいルートのはブナ林だったからです。

 で、わざわざブナ林に新しいルートを作った理由も解りました。ブナ林のルートは商売になるからです。だから、もっと見晴らしの良い、なだらかで気持ちの良いルートがあるにもかかわらず、わざわざブナ林に新しいルートを作ってしまったわけです。これは、環境保護の観点から、観光の観点からも、賛否両論かもしれません。

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 それにしても、この自衛隊の基地には驚きました。昔は、もっと緩やかな感じだったのですが、この新しい基地は警備が厳重です。とてもでは無いですが、素通りして大佐渡山脈を縦走することはできません。届け出を出さない限り無理なようです。米ソ冷戦時代の自衛隊の基地は、もっとおおらかでした。歩いて通行する限り自衛隊の道路を自由に行き来できたのです。しかし、米ソ冷戦時代よりも今の方が警備が厳重なのは、どういうことなのでしょうか?

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 ところで、中学校時代や高校時代に、この妙見山によく登ったものです。写真のように、石垣があるのは、大昔から続いている信仰登山の証でもあります。中学生の頃は、家族が旅行に出かけた後に、ひとりで妙見山に登り深夜にここで座禅を組みました。

 意外に思われるかもしれませんが、佐渡島の山は暗くありません。海のあちこちに漁火があるために、非常に明るいです。ましてや月夜の晩ともなると、真っ昼間のように明るいです。おまけに島の夜景も輝いています。この島では、いちばん大きな動物が、タヌキぐらいのものですから、闇が怖いという感覚も起きてきません。これが、本土だったとしたら、大分違っていたんでしょうが。

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 大平高原。

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 妙見山から下山して、しばらく車を走らせると、大平高原があります。
 懐かしかったので、散策してみました。

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 ここには昔、土産物屋があったりして、そこのおばちゃんの息子さんが、旅好きで、世界中を回っているという話を20年前に聞かされたことがありましたが、その土産物屋も、この通り廃墟となって薮の中に埋もれてしまっています。あのおばちゃんは、今、何をしているんだろうか?と感慨深く思ってしまいました。昔は、観光地として有名だった大平高原も、今や閑古鳥が鳴く単なる牧場跡地となってしまっています。ここは佐渡島でも有数の眺めが良いところなので、もったいないといえばもったいないです。

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 そして、大平高原から少しばかり車を走らせるとあるのが乙和池です。ここも高校時代によく訪れたところで、美しい紅葉をみせてくれる場所でもあり、湖に「ひよっこりひょうたん島」のように島が浮いている珍しい名所でもあります。なのに誰一人として訪れる人がいません。もったいないというか、観光資源が活用されてないというか、まあ、その方が、自然保護には良いのかもしれませんが。

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(以下、乙和池の画像)
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 じつは、この乙和池は、乙和(おとわ)の民話の場所です。
 乙和の民話を佐渡の人なら知らぬ人はいません。
 島民にとっては、夕鶴よりもメジャーな民話です。
 どんな民話かというと、こんな話です。

 昔、とあるお寺に、女の子の赤ちゃんが捨てられました。お寺の和尚さんは、縁あってのことと思い、その赤ちゃんを育てることにしました。赤ちゃんは、乙和と名づけられました。乙和は、すくすくと大きくなり、村の人たちからも可愛がられ、誰からも愛されました。そして10歳ぐらいの頃、乙和は和尚さんに尋ねました。

「和尚さん、和尚さんは、どうしてみなしごの私を育ててくれたんですか? 」
「それが仏の道というものなのだよ」
「仏の道とは、どういう事なんでしょうか? 」

 和尚さんは良い機会と思い、乙和に仏の道を教えることにしました。

「昔、旅人が荒野で行き倒れになったことがあった。そこに、熊と狐とウサギが通りかかった。それを哀れに思った熊と狐とウサギは、旅人を助けることにした」
「・・・・」
「熊は川で魚をとってきた。狐は木の実をとってきて旅人に差し出した。しかしウサギはどうしても人間が食べられるものを見つけられなかった」
「・・・・」
「ウサギは旅人に言った。『私には何もしてあげられません。なのでこの体を食べてください』そしてウサギは、燃え盛るたき火の炎中に飛び込んだのだ。旅人は必死になって火を消したのだが、間に合わなくてウサギは黒こげになってしまった。旅人は、そのウサギの行いに号泣しつつ、ウサギを食べたという」
「・・・・」
「どうした? 乙和、なぜ泣いている」
「ウサギさんがかわいそうです」
「かわいそうかも知れぬが、ウサギは輪廻転生の後に人間に生まれ変わった」
「人間に? 」
「良い行いをすれば、人間や菩薩に生まれ変わる。逆に悪い行いをすれば、畜生や餓鬼に生まれ変わる。ウサギはその行いゆえに人間に生まれ変わり、そしてお釈迦様としてこの世に誕生したのだ」
「では、乙和も良い行いをすれば、良い人間に生まれ変わることができますか? 」
「もちろんだとも」
「お父さんと、お母さんがいる、おうちに生まれかわることが出来るんでしょうか? 」
「うむ」
「では、乙和はこれから、ひたすら良い行いを心がけます」

 その日から、乙和は、村人の手助けをするようになりました。あちこちに出かけては、困っている人たちの手助けを始めたのです。もともと村人に可愛がられていた乙和ではありましたが、乙和のさらなる手助けによって、村人はますます乙和を可愛がるようになりました。誰もが乙和を愛し、誰もが乙和を自分の娘のように可愛がってのです。乙和には、血の繋がった両親こそいませんでしたが、村人の誰もが乙和の父親であり、母親になっていました。

 ある年、村に日照りが襲いかかりました。
 何日も何日も雨が降らなくなったのです。
 乙和は、村人たちの助けになろうと、
 いろいろ動こうとするのですが、村人たちは、力を落としたままです。

「畑の雑草を取りましょうか? 」
「無駄だ、こんなに日照りが続けば、雑草をとっても意味がない」
「川に水をくみにいきましょうか? 」
「ありがとうよ、でもな、川に水なんかありゃしない。このままでは、村は全滅だ。雨さえ降ってくれればなぁ」

 村の人たちは、無気力にため息をつくばかりでした。何もできない乙和。何の力にもなれない乙和が、すっかりしょげ返っていると、和尚さんが元気づけるように「山菜でもとりに行こうか」と言ってくれました。「少しでも山菜を集めて困っている村の人たちに差し上げよう」というのです。

 乙和は喜んで、和尚さんと一緒に山の中に入っていきました。山には、食べられる山菜などがたくさんありました。乙和は、村の人たちのことを思って、一心不乱に山菜を取り続けました。あまりにも熱心なので、どんどんどんどん山奥に入っていき、和尚さんに呼び止められたのです。

「乙和、そこから先には行ってはならん」
「なぜでしょうか? 」
「そこから先は、女人禁制なのだ」
「・・・」
「女が足を踏み入れると竜神様の怒りに触れる。だから、そこから先には絶対に行ってはならん。もう帰ろう。山菜は充分にとれた。これだけあれば、村の人たちも大喜びだ」
「・・・」

 何を思ったのか、 突然乙和は、女人禁制の場所にどんどん走っていきました。

「乙和! ダメだ! 戻ってこい!」
「和尚様、お許しください」
「どうしてだ乙和! そっちへ行っては竜神様の怒りに触れるではないか」
「和尚様、村の人たちによろしくお伝えください」
「乙和!」

 山は、次第に雲行が怪しくなってきました。
 突風が吹き荒れ、雷が鳴り出しました。
 しかし、乙和は、どんどん山の中に走っていきました。

「竜神様、お怒りください。私を罰してください」

 雷鳴は轟き、突然、嵐が起こりました。

「乙和! 乙和! 乙和!」

 雨は7日間降り続き、村は救われました。
 乙和は、二度と帰ってきませんでした。

 毎年7月23日の乙和の命日には
 乙和の霊を慰めるために「乙和池まつり」がおこなわれています。

つづく。

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2015年10月31日

佐渡島に里帰りしてきました1

 四日間、宿をお休みして、故郷の佐渡島に行ってきました。
 嫁さんの海を見たいという希望も兼ねています。

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 海なし県の群馬県民であるうちの嫁さんは、年に1度海を見ないといけないらしいんですよね。というわけで、群馬県の北軽井沢から新潟県の新潟港に4時間かけて車で向かいました。本当は直江津の方が圧倒的に近いのですが、直江津から向かう船は全席座席指定であるために、やめました。やはり船旅は、カーペットの上に寝ながら海を眺めつついきたいからです。ちなみに下の写真は、佐渡汽船乗り場にある駐車場です。

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 駐車場は非常に分かりにくい所にありました。しかしどんなに分かりにくても、佐渡汽船の駐車場に車を駐車するべきなんです。というのも、佐渡汽船の利用客は駐車料金が半額になるからです。切符を買うときに、駐車料金が半額になるチケットを必ず請求してください。

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 ちなみに、駐車場は立体駐車場になっていて、 3階の駐車スペースに止めるのが便利です。というのも、佐渡汽船ターミナルへの連絡通路が3階にあるからです。もちろあと屋上なんかに止めると、雨の日に苦労しますからね。もちろん群馬県民の私は、屋上に止めました。車庫入れがめんどくさいために、誰も止めたがらないスカスカの屋上に駐車しています。

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 途中、佐渡杉の宣伝ポスターを見つけました。このような巨大な杉は、大佐渡山脈の稜線上にたくさんあります。こんな事は、 30年も前から私らが知っていたのでことで、取り立てて珍しいことではなかったのですが、今佐渡島ではこれらを観光資源にしているようです。下の写真を見て、笑ってしまいました。実は、この杉もよく知っているのですが、いちいち名前をつけるんだなぁと思ってしまいました。

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 私は大佐渡山脈を何度も縦走してますが、これらの杉の大木に何度も助けられています。このような杉があると、明日の杉の放つフィトンチットのおかげか周りに雑草が少なくて、藪がなくて山歩きが楽なんですね。ビバークも、杉の木の下で行ったものです。あと、昔は大佐渡山脈縦走ルートというものがなかったですから、杉の大木が稜線上のルートとしてよい目印になったんですね。

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 話を戻します。
 佐渡汽船のことです。

 最近の佐渡汽船は、船が大きくなって上の写真のように、豪華感が出てきました。思わず、階段を上がって2階の客室に陣取りたくなりますが、船は上に行けば上に行くほど揺れるんですね。もちろん前のほうも揺れます。後ろのほうも揺れるのですが、前ほどではありません。真ん中か、後の客室に陣取るのがベストです。

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 混んでいたら、毛布を100円でレンタルします。これは、場所取りのために使います。毛布を広げて多少とるわけですね。下の写真のように、折りたたんだままではあまり意味がありません。きっと島民以外が借りたと思われます。

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 ちなみに、多くの人は窓側に席を陣取ります。波が静かな場合は、それでもいいでしょう。しかし、波が荒れる場合は、やめたほうがいいです。窓際は揺れます。船の中心線上が1番揺れません。どうしても窓際に陣取りたい場合は、頭を船の中心線上に向けて寝るといいです。今回は、島民と思われる高校生の団体さんが真ん中を占拠していました。さすが、島の連中は物事をよくわかっています。

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 まぁそんな事はどうでもいいとして、息子と一緒に船内を散策してみました。佐渡汽船もずいぶん立派になったものです。ゲームセンターやレストランやイベントホールなんかがあって、お客さんが飽きないような工夫がこらされています。おかげでうちの息子は、大はしゃぎで船内を歩き回り、 2時間半の船旅は、ずっと船の中を歩き回るハメになってしまいました。

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 息子はかなり船酔いに強いみたいです。

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 それに対して、海無し県に生まれた嫁さんのほうは、船酔いで散々だったようです。

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ちなみにこれは、日本海の夕日です。美しい夕日ではありますが、この日の日本海は緊張感いっぱいだったようです。自衛隊の戦闘機が緊急発進して、国籍不明(おそらく中国)の戦闘機に対してバトルしていたようです。その時の飛行機雲が夕日にいくつも連なって非常にきれいな夕焼けを見ることができました。船内にいた地元の人に聞くと、珍しくない光景らしいです。

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やがて日は沈み、佐渡島の両津港が見えてきました。

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空を見上げると、夏の大三角形が鮮やかに輝いていましたが、
天の川に何本もの飛行機雲がかかっていて、
天の川は、少しぼんやりしていましたね。

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つづく。

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ラベル:佐渡
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2015年06月05日

病院の選択 その4 

 嫁さんが群馬大学医学部の付属病院に行ってきた。そして帰ってくるなりに叫んだ。病院がガラガラなんだよね。群馬大学病院といえば、いつも満員で何時間も待たされるとこで有名である。巨大な駐車場は、 4つもあるのに下手したら駐車できなかったりする。それも4階建ての駐車場が満杯になるのである。その群馬大学病院が、ガラガラだったのだ。いくらなんでもこれは変だなと思って、いろいろ聞いてみたら、ある消化器外科の先生が、次々と医療ミスを起こして、分かっているだけで8人も死亡させたことが原因で、病院がガラガラになっているらしい。

 もちろん裁判になっている。そして群馬大学が全面的に自分の非を認めたらしい。しかしである。同一人物の先生が 8人も犠牲者を出して、まだ群馬大学で医療行為をしているらしい。その辺も驚きなのだが、そのために患者がガラガラになっているのも驚きである。

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 少なくとも、ちょっと前までは、群馬大学医学部の付属病院は、名医の多いところとして評判が高かったはずである。私もお世話になったことがあるが、入院しているときに同室の患者さんが、この病院には名医が多いと話していた。ペンション仲間にも、同じような発言をする人たちが多かった。しかしこの評判が、天地がひっくり返ったように、今は悪評になっているらしい。

 どういうことだろうと、インターネットで調べてみたら、すべての医療ミスが、回復手術ではなく腹腔鏡手術で起こったらしい。それぞれのケースは違うかもしれないが、昔ながらの回復手術だったら助かったかもしれないのに、わざわざ近代的な機械を使う腹腔鏡手術をしたために、医療ミスが起こったらしいのだ。まぁこの辺のところは、素人の私にはわからない。

 ただ、たった1人の医者の医療ミスで、群馬大学病院すべてを否定するのはどうなんだろうか? ついこの間までは、みんな絶賛していた大学病院を、医療事故が明るみになると、ガラガラに開いてしまうというのはいかがなものだろうか? 大学病院の中には、素晴らしい先生もたくさんいるはずである。私がお世話になった先生も、家内がお世話になった先生も、基本的に良い先生だったし、色々親身になってくれる先生でもあった。嬬恋村から通ってることを知ると、いろいろ時間的に融通をきかせてくれたし、言葉遣いも丁寧だったし、一流のサービスマンに劣らないほど、紳士的であった。そしてこちらの不安を取り除くように丁寧に説明をしてくれた。白い巨塔の中のことまでは詳しい事は知らないが、私が体験した限りでは、そんなに悪い病院には思えない。

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 ところで、こういう事件があると、あるゴルフ場オーナーの話を思い出す。

 うちの近所に、ゴルフ場オーナーが住んでいるのだが、彼は目を患った。放置したら失明の危機があったらしい。そこで、この近辺でいちばん目の病気に強い病院である●●●総合病院に入院した。この病院は、他の診療科は評判が悪いのだが、眼科だけは最高水準の先生が居ることで有名な病院だった。で、例のゴルフ場オーナーが、そこに入院して目の手術をしたのだが、鮮やかな手術で、視力は回復してめでたしめでたしと言う所であった。

「それはよかったじゃないですか」

と、私は、そのゴルフ場オーナーに言ったのだが、彼は

「それが良くないんだよ」

と、言うのである。

「確かに先生の腕は良かった。この通り視力は回復しつくしたよ。でも生きた心地がしなかったんだ」
「はあ? 」
「目が見えないとさ、耳が聞こえるのね」
「はぁ・・・・・?」
「普段は聞こえないような小さなささやき声もね、よく聞こえるんだよ」
「・・・・」
「で、看護師さんが不安をはおるようなことばかりささやいているんだよね。それが良く聞こえるんだよ。こちとら目が見えないから死んだようにベットに横たわってるでしょ。だから生きてるんだか死んでるんだか看護師さんたちにはわかんなかったんだろうね。気配がなかったんだろうね。だから油断してささやいているのが、聞こえちまうんだよね」
「どういうことですか? 」
「今度の先生は、腕が悪いってね」
「ええええええ?」
「前の眼科の先生は、凄腕だったけれど、新しく入った今度の先生は腕が悪いね。というようなささやきが毎日聞こえてくるんだよね。そしてその先生が私の執刀医なんだよ。でさー、不安になっちゃうのよ。結果としては、いい先生だったんだけれど、完璧な手術をしてくれたんだけれど、手術する前は焦っちゃうわけよ。不安になっちゃうわけだ。そんな事聞こえなければ、何でもないことなんだろうけど、心臓に悪いわけよ。焦っちゃうわけよ。手術前には病院から逃げ出したくなったわけよ」
「あははははははははは」
「佐藤さん、笑っているけれど笑い事じゃないよ。明日は我が身かもしれないんだよ。目を悪くしてごらん、聴力が10倍ぐらいに跳ね上がってくるから」

 ゴルフ場オーナーは、そのように私を脅してきた。
 しかし私なら問題ない。
 私は難聴なのである。

つづく。

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2015年06月01日

病院の選択 その3

病院の選択 その3

 北軽井沢から通える範囲で1番有名なのが佐久病院である。全国的に有名な病院で、名医がいっぱいいるらしい。日本中から患者が押し寄せるらしい。お医者さんの卵も佐久病院に憧れて集まってくるらしい。
「・・・らしい」
と、ばかり書いてしまったが、私も1度だけ佐久病院に行ったことがある。そして懲りた。かなり長く待たされるからだ。何時間も何時間も待っている間に、どんどん病気が悪化していった。こういう病院には、軽い症状の人間は行ってはいけないと思った。だから二度と行くつもりはない。いくら名医がいても、診療に時間がかかってしまっては、治るものも治らないからだ。

 なので、最近はヤブ医者のいる、●●●総合病院に行くことが多い。なぜこの病院にヤブ医者がいると断言できるかというと、私が、この病院のヤブ医者の診断の犠牲になっているからである。

 あれは10年以上前のことだ。足に水虫のようなものができたので、●●●総合病院に行った。先生は、見るなりにひどい水虫ですねと言って、飲み薬を処方してくれた。しかもパルス療法といって、 1ヶ月間の間に3倍も4倍も大量の水虫薬を飲んで、 1カ月間全く薬を飲まないと言う治療方法である。これを3回繰り返すわけだが、普通の人は大体1回ぐらいで水虫が治るのであるが、私はまったく治らなかった。これ以上のパルス療法は、肝臓の負担が大きいと言うことで、この治療は行えなくなる。仕方がないので、普通の塗り薬で治療することになった。

 どうも変だなぁと思ったので、思い切って病院を変えてみた。近所の人たちのアドバイスに従って、長野県ではなくて、群馬県の原町の日赤病院に通ってみた。実は、群馬県には皮膚科の病院があまり多くない。草津温泉があるために、皮膚病を患う人が多くないのである。

 で、日赤病院に行って診察受けると、まず皮膚の細胞を採取して顕微鏡で白癬菌があるかどうかを確認した。まぁ当然と言えば当然なのだが、●●●総合病院では、この確認がなされてないのである。目で見ただけで、水虫と診断されたのだ。これは私だけのケースではなかった。別の友人も、目で見ただけで水虫と診断されたと言う。そういう病院であった。もちろん先生は1人では無い。いろんな先生が居るはずなのだが、どの先生も目で見ただけで診断されていたようだ。幸い友人の場合は、本物の水虫だったらしく、治療によって治った。

 しかし、私の場合は違っていた。
 私は水虫ではなかった。
 本当は皮膚のアレルギーだった。

 なので、今まで逆の薬を処方されていたらしく、最悪の治療を受けていたらしい。皮膚のアレルギーの治療と水虫の治療は、全く正反対の治療であるらしい。なので、このままだと大変なことになっていたとのことである。特に肝臓に悪いパルス療法を、半年間にわたって行ってきたワケなので、下手したら廃人になっていた可能性もあったらしい。それを聞いた私は、背筋が凍るほど驚いた。結局、私の皮膚アレルギーは、日赤原町病院で治療してもらったのである。

 ここで話が終われば、医者の誤診の話になるが、実はそうでは無い。確かに誤診恐ろしいのだが、私は●●●総合病院を、憎む気になれなかった。誤診でひどい目にあったのは確かなのだが、ここのお医者さんは、人柄が良いのだ。看護師さんも、いろいろ気がつく上に、院長や他の偉い人たちも、一生懸命なのが伝わってくるのである。

 いつだったか、待合室で会計を待ってる時に、立って待っていた。すると、たまたま通りがかった偉い人が、お客さんが立っている。お客さんを立たせてはダメだ。と、受付の人に注意していた。

 もちろん私が立っていたのは、席がいっぱいだったからではない。席はガラガラだったが、体力作りのために立ってストレッチをしていただけである。だから申し訳なく思ってそれを説明した。こんなことが日常的にある病院なのである。切り捨てるには、ちょっと惜しい病院だったのだ。だから私も嫁さんも、そこをかかりつけの病院にしたのである。しかし、先生を100%信用しているわけでは無い。疑問を持ったら、他の病院にも診断をしてもらっている。人間ドックは、原町の日赤病院にかかっている。だけど、かかりつけの病院は、その病院にしているのだ。待ち時間が長いと、それをこっそり教えてくれる、その病院をかかりつけの病院にしている。それが、息子の誕生につながるのだから、世の中何が幸いするのか分からない。

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 3年ぐらい前、私は、健康診断で前立腺がんの疑いをかけられた。前立腺がんは死に至る病では無い。しかし治療によって生殖機能は失われることがあり得る。それを家内が病院の先生に相談したら、大変心配して頂いて、いろいろな先生に紹介して頂き、不妊治療を行うことになった。そして息子が授かった。といっても、嫁さんはともかくとして、私自身は精子の検査以外に特別に何かしたと言う訳では無いのだが、いろいろな先生方の応援によって、無事に息子が授かった。それも、ありがたいことに健康体の息子である。だから私は、この病院には足を向けて寝られない。なのでこの病院の名前は伏字にしておく。

 医者にもいろいろなタイプがいる。それを嗅覚で判断し、使い分けることができるようになってきた私も、どうやら老人の仲間入りをしたのかもしれない。

つづく。

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2015年05月30日

病院の選択 その2

病院の選択 その2

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 今から30年前の昭和時代に、私が東京の池袋に住んでいた時の話である。どんな病気だったか今となっては思い出せないが、おそらく結膜炎かなにかにかかっていたと思う。眼科に行こうと思ったけれど、電話帳で調べてみたら当時池袋には眼科が2軒あった。A眼科(仮名)と、池袋眼科(実名)である。どちらの眼科がいいのか、正直言って分からなかったので、大家さんに聞いてみたら、絶対A眼科がいいと言う。池袋眼科はヤブ医者だというのである。他にも何人かに聞いてみたら全員が全員、A眼科の方が良いと言っていた。みんな口を揃えて池袋眼科の先生はヤブ医者だという。

 しかし、A眼科よりも池袋眼科の方が、何か偉そうな感じがする。池袋駅の前にあって、池袋眼科と言う名前なのだ。よさげな名前ではないか。これがもし仮に渋谷駅の前に渋谷眼科なる病院があったら、何となく入りたくなるのではないだろうか? 新宿駅の前に新宿眼科があったら、他にいくつかの眼科があったとしても、なんとなく新宿眼科に入ってしまうのではないだろうか? 私は、池袋眼科と言う名前に惹かれて、人の忠告を聞かずに、そこを尋ねてみたのである。

 しかし行ってみたら驚いた。
 そこはメガネ屋だった。
 メガネ屋の奥のほうに、繁盛してなさそうな池袋眼科があった。
 しかも、患者が誰1人いるような感じがないのである。
 なんとなく嫌な予感がした。

 私はすぐその池袋眼科に入らずに引き返してしまい、皆がお勧めするA眼科に行ってみた。すると、そこには大勢の患者がぎっしりと並んでいた。
 なんとなく安心した。
 看護婦さんも大勢いた。
 池袋眼科には看護婦さんらしきものはなかったのである。
 やはり、みんなが推薦するこの眼科がよかったんだと。
 そして先生に言われるままに毎日A眼科に通った。

 通院するごとに目を洗って、ベタベタするものの中に入れられた。そういえば小さい頃に、結膜炎か何かになったときに、こんな治療したなぁと懐かしく思った。もちろん目薬ももらっている。それを1日三回めに刺していた。しかしである。毎日A眼科に通ったにもかかわらず、私の目はなかなか治らなかった。1ヶ月もかかっても治らなかった。

 それどころか、少しづつ気になることが起きた。なぜか視力検査をさせられた。こんなことが治療に必要なんだろうか?と思ったが、そういうもんなのか?と無理矢理納得した。他にも色々な検査をさせられたのだが、その都度、治療費はかさんでいった。なぜ眼科ごときで、こんな費用がかかるんだろうかと、思ったのだが、素人の自分にはよくわからない。お医者さんに任せるしかないのだ。そして1ヶ月以上かかってしまったが、治る様子は一向に見られなかった。

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 ある日のことである。私の前に治療していた老婆が、先生に、

「おかげさんで、少しずつ治りかかっているような気がします。とお礼を言っていた」

 そしたら、先生は、憮然とした顔で、そんなわけはありません。白内障は前よりも悪化しています。と、機械的に答えていた。その答え方が、女医さんであるにもかかわらず非常に機械的だったので、何か嫌気がさしてきた。そして病院を変えることにした。地元民がヤブ医者だからやめておきなさいと言われた、池袋眼科に行ってみた。

 やはり池袋眼科には患者がいなかった。
 看護婦さんも1人もいない。
 私はなんとなくそわそわしながら、先生に事情を説明した。
 先生は、

「ちょっと薬を見せてもらえませんか?」

 と言ってきた。その薬を見せると、

「最近流行の抗生物質ですね」
「なぜわかるんですか?」
「薬の容器でわかるんですよ。おそらく体質に合わなかったんでしょう。抗生物質ではない◆◆という別の薬を出しますので、いちにち3回刺してください」

 治療はこれだけだった。たったの3分もかかってない。A眼科ではもっといろんなことをしてくれたのだが、非常にそっけない印象である。やはり藪だったのか?と不信感がでてきたのだが、翌日も、池袋眼科に行った。A眼科では毎日通うように言われていたので、池袋眼科でも当然のことながら毎日通うんだと思いこんでいたからである。しかし、行ってみると先生は怪訝な顔をした。

「何かあったんですか?」
「え、毎日通うのではないのですか?」
「いや、昨日差し上げた薬を差すだけでいいんです」
「前の眼科では、毎日通うように言われて、何かの液体で目を洗ったり、何かベタベタするものを目に差し込んだり、いろんな検査をしたりしたんですけれど・・・・」
「ああ」

 池袋眼科の先生は笑っていた。そして、目を洗ってくれて、何かベタベタするものを目に差し込んでくれたが、その上で、

「こういうのは気休めなんですよ。あまり意味はありません。3日たっても昨日差し上げた薬に効き目が現れなかったら、もう一回来てください」

 そして、1枚の紙切れを差し出した。

「前に渡し忘れたかなぁ。これは私のプロフィールです」

 その紙切れをよく読むと、数年前まで虎の門病院の院長をしていたと書いてあった。そして私の目の病は、3日後に完治していた。A眼科で1ヶ月半通っても治らなかったにもかかわらず、たったの3日で治ってしまっていたのである。

 この体験は衝撃だった。

 池袋眼科に患者さんがいなかったのは、ヤブだったからではなく、患者が毎日通院しなくてもよかったからだ。また3日で治ってしまうからである。どうりで患者さんがいなかったわけだ。治りが早かったら患者はいない。そのうえ余計な治療をしないから混むこともない。また、メガネ屋の奥に密かにあったというのも、看護婦さんがいなかったのも、地元民には、なんとなくヤブ医者に見えたのかもしれない。しかし、私にとっては、池袋眼科の先生は名医なる。なにしろ3日で治してくれたのである。

 それにしても、A眼科の先生は、どうして1ヶ月以上も同じような治療を続けたのであろうか? ちなみにインターネットで検索してみたら、池袋眼科はもうなくなっていた。A眼科は、まだ健在のようである。私は苦笑せざるをえない。


つづく。

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2015年05月28日

病院の選択 その1

 いつもの年ならゴールデンウィークの後は、全くお客さんが来なくなるのだが、今年はどうも様子が違っている。お客さんが途絶えないのだ。どうも変だなぁと思っていたら、どうやら下界(標高の低いところ)は暑いらしい。北軽井沢に入ると、朝方などは、まだストーブを使っていたりするので、その辺の感覚がよくわからなかった。なので、先日、息子と軽井沢に行ったら暑かった。北軽井沢と軽井沢ではこうも違うのかと驚いてしまった。どうりで、夏の予約がどんどん入ってくるわけである。

 まぁそんな話はどうでもいい。息子を軽井沢に連れて行ったのは訳がある。浅間園で息子が転んで爪が割れてしまったからである。本当なら総合病院に連れて行くべきなんだろうが、私は軽井沢の長倉クリニックに連れて行っている。ここはかなりオシャレな病院だ。もう病院というカフェである。いや、その辺のカフェよりよほどすごい。待合室などは、コーヒーやお茶も飲めるし無料である。絵本もあれば、各種の本もある。内部は無垢の木で内装が作られており、椅子もテーブルも、木をベースにした豪華なものである。

 と書くと、自由診療に誤解されそうだが、そういう訳では無い。普通の小児科の病院だ。もちろん内科もやっている。しかも予約制である。だから待たされる事はほぼない。その上、往診や訪問診療も行っている。訪問診療に関しては、 24時間体制で対応しているらしい。だから、予約制なのだろう。もちろん大手総合病院との連携も行っているので、万が一の時は、紹介状を書いてくれるらしい。

 ところで、この病院の先生は、ちょっと変わっている。
 なるべく薬や消毒液を使わない先生なのだ。
 バンドエイドさえ、渋い顔をする。
 ノリが、赤ちゃんの皮膚に対してかぶれやすい成分があるからだそうだ。
 1番かぶれないテープは、ホームセンターなどに売っているビニールテープであると言っていた。

 この先生の面白いところは、薬を使わないところなのだが、親に対処方法を教えて、なるべく通院させないようにする治療を行っている事である。以前、インフルエンザで息子を連れて行った時は、原因を特定するための検査だけ行って、薬は出さなかった。対処方法だけ教えてくれて言われた通りの対処方法行ったら翌日には熱が下がっていた。恐ろしいドクターだと感心した。

 今回もやはり、薬を出さずに対処方法だけ教えてくれた。ただ違っていることは、傷口をデジカメで何枚も写真を撮っていたことである。それをパソコンにアップロードして、カルテに掲載していた。その画面を私たちに見せるわけだが、そのモニターがやたらとでかい。40インチぐらいあるのではないかと思うぐらいデカイのである。しかも3画面もある。当然のことながら、過去の病気のデーターとか身長体重などすべて私が見ることができた。そうそう、通院することに身長体重も計測している。こういう小児科の病院もなかなか無いのではないだろうか?

 実は、軽井沢には小児科の病院が多い。これは全国的には珍しいことかもしれない。面白いことに、それぞれの病院がすべて特色がある。だからお母さんやお父さんのなかには、それぞれひいきする病院が違ってきている。私は長倉クリニック派であるが、別の小児科病院を推薦するお父さんお母さんも多い。子供たちが遊べるプレイルームのある小児科病院もあるらしい。いちどその病院にも息子を連れて行ってみたい気がするのだが、長倉クリニックも捨てがたい。なにせ、うちの息子は滅多に病気をしないのである。というか、今まで2回しか病院に通ったことがない。インフルエンザと爪が割れたときしかないのだ。だから、なかなか病院に行く機会がなくて、別の病院を試すチャンスが訪れない。

 そこで、思い出すのが、東京の池袋に住んでいた時の病院の話だ。これについては、後日話したい。これから浅間高原シャクナゲ園に行って、受付のボランティア作業を行わなければならないから。帰ってきてから続きを書くとする。

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2015年04月15日

宵越しの金は持たないと啖呵を切った理由2

宵越しの金は持たないと啖呵を切った理由2

 前回は複式簿記の視点で、大正時代の館林の農家と、東京の一般人との豊かさを比較した話をしたが、同じ視点で江戸時代の武士と農民を比較するともっと面白くなる。武士は、話にならないくらい経費がかかっていた。それを分かり易く書いた本がある。「武士の家計簿」と言う本で、映画化もされている。

 例えば、金沢藩・猪山家(七十石)の当主直之の小遣いは、年間にして銀十九匁。しかし、家来の草履取りの給金は、銀八十三匁と月々五十文の小遣い。それに年三回の御祝儀をもらい、外出するたびに十五文の駄賃(チップ)をもらっていた。外出は、二日に一回くらいあったから、そうとうの金額をもらっていたことになる。しかも衣食住は保障されていた。つまり草履取りの収入は、当主の十倍くらいあった。

 じゃあ、七十石どりの武士の当主の小遣いが、どうして、それほどまでに少なかったかと言うと、これにも訳がある。給料の大半を「身分費用」に使っていたのである。自分の家来に小遣いをわたしたし、来訪があれば、相手方の家来にも祝儀をわたしていた。つまり、来客があれば、じゃんじゃん金が無くなっていく。さらに辻番にも金品をわたしていた。

 じゃ、来客が無ければよいじゃないかと思うのだが、そうはいかない。武士の身分になると、さまざまな行事があり、そのつど親戚一同が集まるしきたりになっている。節分や、端午の節句や、袴入れの儀式、元服や、七五三など。そういう行事が毎日のようにあり、おおぜいの親戚が集まり、逆に親戚のところに出かける必要がある。これを怠るとどういうことになるかと言うと、武士でいられなくなる。万が一、世継ぎが出来なかったばあい、家名が断絶するおそれがある。だから、親戚づきあいを非常に大切にした。で、その費用が、莫大な金額になっている。

 では、草履取りが資産家というと、そういう訳では無い。彼らには失うものは何もないくらい貧乏である。農地もなければ家屋敷もない。教育も受けられてない。しかし、現金収入は多い。衣食住も困らない。自衛隊員みたいなもので、貯金が溜まる一方なのだが、その貯金で資産家になったという記録も見たことがない。複式簿記的に見ると、やはり草履取りよりも武士たちの方が資産は多い。資産は多いけれど、彼らの身分費用の出費のために、生活はかなり貧しかったようだ。鯛の絵を描いて、その絵をおかずにご飯を食べているからである。だから、どんなに百姓一揆を行っても、農民たちは武士になりたいとは、これっぽっちも思わなかった。これが日本で革命が起きなかった理由である。

 話は変わるが、武士たちは、意外なところにお金を使っていた。教育費である。読み書きそろばん以外に、礼儀作法や、学問を学ばなければいけなかった。正式には藩校に通うのだが、その前に塾に通った。水戸藩を例にとると、 5歳ぐらいの幼児から塾に通っている。 5歳ぐらいの幼児たちは、夜が明ける前の5時ぐらいに塾に向かい、教室の机を並べて掃除をするのである。掃除が終わった頃に、上級生がやってくる。すると上級生たちは、 1人ずつ慇懃に下級生たちにお礼を述べた。下級生たちは、それに大喜びをしたと、当時の記録にある。 5歳ぐらいから、こんな具合だから、武士の礼儀作法というのは、厳しく美しかった。その後は、朝読みと言われる書物の音読を行う。それが終わると、いったん自宅に帰って、朝食をとる。そしてまた塾に戻って、先生から教えを乞うのである。もちろん上級生も下級生の勉強の面倒を見る。こうやって武士という美しい人種が出来上がっていくのである。なかなか大変である。経費もかかったろうけれど、本人たちの苦労も大したものだと思う。このような武士という人種が、当時の日本に5%ほど存在した。

 もちろん農民たちも寺子屋で勉強はしている。地域によっては、武士と農民が一緒の寺子屋で学んだというケースもあったかもしれない。なにしろ江戸時代の識字率は、世界一高かったと言われている。幕末期においては、武士がほぼ100%。嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は8割で、裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は男女ともほとんどいなかったという。これに対し1837年当時のイギリスの大工業都市での就学率は、たったの2割である。

 ドイツのシュリーマンは、1865(慶応元)年に日本を訪れ「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と驚いている。

 では、具体的な例を挙げるとして朝鮮半島の場合を述べる。マジソン大学のマイケル・セスの研究によれば、明治38年においても朝鮮半島では、近代的な小学校の数が7校から8校しかなく、人口1200万の朝鮮半島で学校に通っている人間の総数は、 500人前後であったと言っている。 500人とは、あまりに少ない。本当なのか?と疑いたくなるくらいに少ない。この後、日韓併合が行われ、朝鮮総督府は盛んに教育の普及を始めるが、なかなか進まなかった。それでも1937年に子供たちの3分の1を学校に通わせている。義務教育の実施は1946年からスタートする予定であった。他のアジア諸国は、もっと悲惨な状態だった。義務教育を実施しようとしていた国家は、 1カ国もない状態であった。東アジアで、日本だけが近代化できた理由はこの辺にあると思う。


つづく。

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2015年04月14日

宵越しの金は持たないと啖呵を切った理由

 その昔、漫才師の島田洋七が「がばいばあちゃん(すごいおばあちゃん)」と言う本を書いた。映画にもなったしテレビにもなった。その発祥の地である佐賀県に尋ねに行ったこともある。この「かばいばあちゃん」には信じられないことが書いてある。父親のいない小学校低学年の主人公が、母と別れて祖母のところに預けられるわけだが、10歳位の男の子が、いきなりかまどでご飯を炊かさせるのである。電子炊飯器では無い。薪を使って、かまどで炊くのだ。映画や本で、その件を知った時に、まさか?と思った。実は、私はかまどを使って米を炊いたことがあるのだが、その経験上10歳位の男の子には無理だと思った。

 話を変える。最近、日本ユースホステル協会を作った横山祐吉氏を調べているのだが、その関連で大正時代の群馬県館林の一般的家庭(農家)の状態を調べたことがある。どうしてそんなものを調べたかと言うと、大正時代の都会と田舎の格差を知りたかったからである。大正デモクラシーの時代は、東京でいろいろな大衆文化が花開いた。そのために、何となく全国一律に豊かになったようなイメージがあるので、実際のところどうだったんだろうか?と思ったからだ。

 で、嫁さんの実家がある群馬県館林市辺りに的を絞って、大正時代の一般的な農家の生活レベルを調べてみたら、かなり良質な資料が何冊もあったので、それを読んでみて驚いた。当時としては裕福な家庭であっても、子供が5歳ぐらいになると家の仕事をしていた。

 その仕事というのが、驚かされるのだが、庭掃除や、鶏やヤギの餌やりはともかくとして、朝5時に起きてかまどでご飯を炊いている。 5歳の子どもといえば、まだ幼児であるのに、重い水を運んで米を研ぎ、かまどでご飯を炊いているのである。島田洋七が「がばいばあちゃん」どころではない。五歳の子供が、かまどでご飯を炊くなんて想像ができない。しかし、 100年以上前は、当たり前の光景だったのだ。

 それは、貧乏人の家の話では無い。どちらかというと、少しばかり裕福だった家の子供の話だ。では東京ではどうだったかというと、やはりかまどでご飯を炊いていた。しかし、貧しい家庭ではともかくとしても、裕福な家では5歳の子供が炊くという事はなかった。家によっては、お手伝いさんを雇っていた。

 ここで不思議なのは、館林の農家でもお手伝いさんはいたのだが、大半は子守りとして雇っていたみたいなのだ。東京のお手伝いさんは、家事全般なんでもやっていたのにである。お手伝いさんに年齢やスキルの違いがあったのかもしれない。農家のお手伝いさんは、何の教育も受けずに家から奉公に出された10歳位の子供たちである。子守以外に何もできなかったのかもしれない。だから5歳の子供にご飯を作らせたのかもしれない。

 普通で考えたら、 5歳の子供にまで働かせる館林の農家の方が貧乏な家というイメージがある。ところが、視点を変えるとこれがまったく違ってくるのだ。その視点とは、複式簿記の視点である。複式簿記とは、財産を全体的に把握する簿記の方法である。

 例えば、 100万円の貯金を持ってる人と、 100万円の借金を持っている人がいたとする。単式簿記の考え方をすれば、 100万円の借金をしてる人の方が貧乏ということになるが、複式簿記の考え方で比較したら、そのような単純な構造にはならない。 100万円借金して500万円の家を買っているかもしれないからだ。そうなると必ずしも100万円の貯金を持ってる人が金持ちとは限らないのだ。そういう考え方で、大正時代の館林の農家を見てみると、必ずしも貧乏とは限らない。 5歳の子供にご飯を作らせても、実際には東京のサラリーマンよりも資産家である可能性が出てくる。

 ではなぜ、館林の農家は5歳の子供を働かせたかというと、それは貧乏のためではなく、農地という財産を維持するためである。当時、農地や家畜を維持するためには、かなりの経費がかかっていたようだ。今のように機械化されているわけではないので、人間の労働力と言う経費で維持するしかなかったのである。あと、自営業者の悲しい性として、働けば働くほどお金が入るために、人一倍勤勉に働くという側面もある。

 それはともかく、農家の経費の中に面白い項目がある。近所付き合いという項目である。近所付き合いをうまくやらないと、ときには生死に関わる状態になったらしい。例えば、お嫁さんが出産したとして、万が一、母乳が出なかった場合は、新生児は死ぬしかない。当時はミルクという便利なものがなかった。

 だからこそ助け合いが必要になってくる。万が一の時は他の家に母乳を分けてもらうためである。新生児がいるよその家の嫁さんに、ニワトリの卵とか、米とか、精のつくものをたくさん届けて、母乳を分けてもらうのだ。もちろん、自分の子供が優先になるので、自分の子供が満腹になるまで待って、その余りをもらうことになる。あまりといっても、大して出るわけではないから、すぐに赤ちゃんは泣き出す。だから、小さな赤ちゃんを抱いて何軒もハシゴして母乳をもらいに行くのだ。もちろん、精のつくお土産を大量に背負ってである。雨の日も風の日も通うわけだから、その苦労は想像を絶するものがあるだろう。しかし、それによって1つの生命が救われるのだ。

 だからこそ大正時代の田舎では、近所付き合いを大切にしたのだ。そしてそのための経費も、考えられないくらい大きかったのである。こういうことがあるから農地という財産があっても、それを維持管理することは並大抵のことではなかった。それに比べれば、東京の下町に住む職人さん達は、維持管理するものが少ない分、少ない収入でも、かなり豊かに暮らせたようである。子供たちが重労働するということも少なかった。都会の子供たちは、雑誌を読んで投稿したり、芝居や活動写真を見に行くゆとりがあったようである。といっても、 6畳1間に家族5人が寝泊まりするという状態ではあったが。

 あと田舎の農家の経費に、宗教費の金額が大きいことも面白いところだ。宗教といっても、お寺や、キリスト教のような宗教のことでは無い。お餅をついて田畑にお供えをするとか、井戸の神様にお供えをするとか、竜神様のお祭りをするとか、いわゆるイベント費のようなものも含んでいる。この時代までの特色として、お伊勢参りなども経費に入っている。農家である限り、天災や干ばつの恐怖もあって、宗教費は欠かせないものだったようだ。これが東京になると、これらの経費はほとんど必要なかったのではないだろうか? 

 貧乏であっても、経費がかからない。物を持たないという生活をすれば、実は案外、生活が楽になるのかもしれない。江戸っ子たちは、火事のたびに街を復興してきた歴史がある。江戸っ子が、宵越しの金は持たないと啖呵を切ったのは、火事ですぐ焼け野原になる江戸という都市の中で、ものを持たない生活が身に付きすぎてしまったからかもしれない。


つづく。

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2014年10月11日

ノーベル平和賞に「もったいない」を思い出した

 連日、ノーベル賞の話題が続いているが、私個人の感想を書きたい。実は、私どもの事業はノーベル平和賞に少なからず影響を受けている。

 私が、宿をはじめたのが2000年だった。そして日本ユースホステル協会と契約したのが2001年である。その後、まもなく日本ユースホステル協会から、そして宿屋の団体などから、環境に配慮した宿業を行うように言われるようになった。新聞雑誌にも、環境・環境という文言が見られるようになった。それも突然である。

「はて? どういうことだ?」

と不思議に思っていたが、ある日、突然、テレビ画面で黒人女性が「もったいない!」と叫んでいるシーンをみた。もったいない!と叫んで、みんなに復唱させている。で、みんなも、もったいない!と叫んでいる。叫んでいるのは、世界各国から来た偉そうな人たちなのだ。

「この人、誰なの?」
「知らないの? ワンガリ・マータイさんだよ。ノーベル賞をとった人だよ」
「博士かなんかなの?」
「いやいや、有名な環境関係の人だよ。すごい人らしいよ」
「ふーん、で、どうして、その有名なアフリカ人女性が、もったいない!と叫んでいるの? それでもって、他の偉そうな人たちに復唱させているの?」
「オレも、よくは知らないんだけどさ、3Rって知ってる?」
「Reduce・ゴミを減らす。Reuse・ものを繰り返し使う。Recycle・リサイクル(再資源化)する。だっけ?」
「そうそれ、その3Rにそって、これから宿屋も事業を展開しなさいという話しが最近多いじゃない」
「うん」
「ノーベル賞をとった、この黒人のワンガリ・マータイさんも、それの普及に日本にやってきたわけよ。ちょうど京都議定書が成立するときにさ。それで、3Rについて日本人に説明している時に、日本人の誰かが『日本にも、もったいない』という言葉がありますよ。って言ったわけなのよ。それを聞いたワンガリ・マータイさんは、感動したわけ」
「何に?」
「もったいない!の言葉の方が、3Rよりも奥が深いと」
「あーーーー」
「もったいない!には、3Rの全てが入っていると」
「なあーるほど! よーく分かった。それでもったいない!と叫んでいる訳か。ふーん、なるほどねえ。ふーん」

 2004年にノーベル平和賞をとったワンガリ・マータイさんが、「もったいない」に感動した理由はよくわかった。たしかに日本人の「もったいない」精神は異常なのである。異常すぎて奇妙に見えるかもしれない。もちろん欧米諸国にも「もったいない」精神はある。しかし、日本のものと質が違う。ベクトルが違う。違う理由は、宗教観からだと思う。

 日本人の「もったいない」は、あらゆるモノに神性を感じるために生じるための「もったいない」なのだ。しかし欧米人の「もったいない」は、唯一神にささげるための「もったいない」なのである。だから「もったいない」のベクトルが違う。勤勉にしても、省資源にしても、リサイクルにしても、欧米人のそれは、日本人に劣らないと思う。しかし、その動機付けが全く違うのだ。だから日本人の「もったいない」は、べつの視点からみたらキチガイじみて見えるだろう。

 そもそも「もったいない」とは、モノに限らないはずなのだ。時間がもったいないこともあろう。効率がもったいないことだってあるはずだ。しかし、日本人はモノを優先する。モノには神が宿っているからである。だから針供養もすれば、何でもかんでも供養する。しかし、欧米人にはその精神はない。神のために省資源とリサイクルを頑張っているが、モノを供養する発想は無い。だから、日本人のもったいないは、少々やりすぎることが多い。

 これに気が付いたのは、和裁を習ったときであった。和裁を習って自分で自分の浴衣を作ってみた。で、驚いたことに布のゴミが残らなかったのである。反物を全部使い切る。もちろん身長が伸びれば、伸ばせるようになっているし、一切の無駄が無いようになっている。モノを徹底して大切に扱っている。これは着物にしても同じであった。徹底的に無駄なく作られており、ゴミが出ないようになっているのだ。

 と書くと、昔の日本人は素晴らしいと絶賛したくなるが、そうは問屋がおろさない。日本人は、モノを徹底的に大切にするあまり、別の「もったいない」を捨てているのである。それは効率・時間・コスト・便利のもったいないである。

 具体的にいうと和服の洗濯。これが気が遠くなる方法で洗っていた。一々、糸をほどいて部品に分解し、その部品を一ずつ洗って板に貼り付けて乾かし、それをまた縫い直したりした。ここまで徹底していれば、モノは長持ちする。何世代にわたって着物が伝わっていく。しかし、そのおかげで「おしん」のように膨大な手間暇をかけなければならない。

 江戸時代の庶民は、世界で最も豊かであった。世界的に見て裕福であった。同時期の欧米諸国の庶民と比較しても豊だった。みんな銭湯にいって清潔にし、初鰹を競って食べるなどの贅沢もした。本も読んだしオモチャも買った。子供が生まれたらシャボン玉で遊んであげたりした。

 あの大英帝国でさえ識字率30パーセントの時に、日本人の識字率は70パーセントを超えていた。庶民でありながら学校にかよい、豊かな消費生活をおくっていた。そのために乞食たちでさえ、家を建てられるほどであった(そういう記録がある)。社会が豊で無いと豊かな施しは受けられないから、やはり豊かであったのだ。

 しかし、そんな豊かな庶民であっても奴隷のごとく働いた。それは豊かさを維持するためでは無い。モノを大切にするためである。どんなモノであれ、モノを大切にするということは、それなりの労力が必要になるのである。しかし、その労力を金持ちになってまで支払いつづける民族は、それほど多くはない。

 しかし、そうでない民族があるとすれば、その行為に宗教的な動機付けがある場合のみである。日本人にとって、その動機付けは、モノに人格や神格がるというところだろう。でなければ「針供養」という行為は生まれない。普通は豊かになれば、労力は放棄されるからである。現に、ある程度の金持ちは、人をやとってまでモノを大切にした。コストに見合わないことをしたのだ。

 そこで思い出すのが、縄文時代の貝塚である。従来は、貝塚は、古代人のゴミ捨て場と言われていた。しかし最近は、違う説がでてきている。ゴミ捨て場ではなくて、供養する場所だったのではないかというのである。もちろんまだ定説にまだなってないが、そう思わせる出土品が貝塚の中から出てきているらしい。たとえば、貝塚によっては、貝殻がきれいに整列されているところもある。貝輪、貝皿、貝鐘、貝札なども出土し、貝塚がゴミ捨て場であるという単純なものではないといわれている。

 嫁さんの実家の群馬県館林の話になるが、明治時代の館林付近では、正月が2回あったらしい。1月の正月には、神様を祭った。井戸や納屋や仏壇やあらゆるものにお供えをして祈った。これが大きい正月。それが終わると小さい正月があったらしい。2月の小さい正月では自分たちが休む番だった。大きい正月は八百万の神様に祈る行事であって自分たちが休む正月ではなかったのだ。そしてあらゆるモノに感謝するためにセッセと餅をついてお供えしたのだ。こういう精神世界に生きる日本人の「もったいない」が、はたしてワンガリ・マータイさんに正確に伝わったか疑わしい。日本人の「もったいない」は、3Rで説明できるものではないのである。

 これについて詳しく書き始めたら1冊の本になってしまうので、これで筆を置く。気が向いたら続きを書こうと思う。


つづく。

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2014年10月07日

ノーベル賞に赤崎・天野・中村氏が受賞

ノーベル物理学賞に赤崎・天野・中村氏

http://www.yomiuri.co.jp/science/20141007-OYT1T50097.html

 スウェーデン王立科学アカデミーは7日、2014年のノーベル物理学賞を、青色発光ダイオード(LED)を開発した名城大学の赤崎勇教授(85)と名古屋大学の天野浩教授(54)、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の中村修二教授(60)の3人に贈ると発表した。

 ここで重要なことは、物理学賞を受賞したと言うことだ。ノーベル賞といえば、物理学賞だからだ。もちろん化学賞・医学賞も凄いと思う。ただ文学賞・平和賞は、価値があるとは思えない。経済学賞にいたってはノーベル賞でさえ無い。スウェーデン国立銀行賞という賞で、スウェーデン国立銀行によって作られたものなのだ。

 そこで、歴代の日本人ノーベル賞(文学賞・平和賞を除く)受賞者を列記してみた。

1949年・湯川秀樹・物理学賞
1965年・朝永振一郎・物理学賞
1973年・江崎玲於奈・物理学賞
1981年・福井謙一・化学賞
1987年・利根川進・医学生理学賞
−−−−−−−−−−−−−−
2000年・白川英樹・化学賞
2001年・野依良治・化学賞
2002年・小柴昌俊・物理学賞
2002年・田中耕一・化学賞
2008年・南部陽一郎・物理学賞
2008年・小林誠・物理学賞
2008年・益川敏英・物理学賞
2008年・下村脩・化学賞
2010年・鈴木章・化学賞
2010年・根岸英一・化学賞
2012年・山中伸弥・医学・生理学賞
2014年・赤崎勇・物理学賞
2014年・天野浩・物理学賞
2014年・中村修二・物理学賞

 そして、気が付いたことは、2000年以降のノーベル賞ラッシュである。
 あきらからに、それ以前と受賞者の数が違う。

 で、ここで西暦2000年という数字に思い当たることがあるのだ。西暦2000年頃からインターネットが爆発的に増加しているのである。というのも、私はその年に宿屋をはじめていて、インターネットの普及度をコツコツと計測していたからである。2000年において、日本の主なサイトは、100万サイト言われていた。そして、そのうち10万サイトを紹介する出版物もあったのだ。

 その5年前の1995年には、そのホームページさえも、日本にはわずかしかなかった。なにしろホームページ閲覧ソフト(ブラウザ)が生まれたのが1993年なのである。ホームページを見る人なんか、そう多くはなかったのだ。しかし、ブラウザが生まれて、たったの7年で日本に100万サイトも誕生し、その数年後の2000年代は、どの企業もホームページ無しではやっていけないくらいの空気になっていた。

 もちろん、大学の研究者の論文も英訳されて大量に発表されている。日本人の研究も世界中に発信されていて、その受信無しに世界中の研究がすすまなくなっている。私の知っている分野だと火山学なんかもそうかもしれない。2004年に浅間山が噴火したときに、群馬大学の早川教授がすぐに調査して現場の模様をインターネットで情報発信した。すると、海外の研究者たちが、その映像を使って自分なりの考察をインターネットで情報発信した。私は、それらのサイトを早川先生に見せてもらったことがある。こういうことは、2000年以前には、おこりえなかったことである。これが2000年以降のノーベル賞ラッシュと無関係と言えるだろうか? 日本人の研究が、インターネットという情報発信メディアによって、世界中に広まっているのだから。

 またクールジャパンが世界に浸透しだしたのも2006年以降である。つまりYouTubeがスタートしてから以降である。YouTubeによって日本の映画・テレビ・コマーシャル・アニメ・音楽・コスプレ・学校生活が世界に紹介され、世界中に日本マニアが出現した。そして等身大の日本が彼らの目に映るようになった。インターネットとYouTubeがなかったら、未だに不思議な国ニッポンだったと思う。

 これは、宿屋や観光協会などの観光業者にもいえるかもしれない。2000年以前と、2000年以降では、あきらかに観光の形態が違ってきている。2000年以前は、猫も杓子も夏の軽井沢に御客さんが集まった。冬のスキー場にも集まったてと聞いている。しかし、私が宿屋をはじめた2000年以降は、そういうことは無くなった。インターネットによって、猫も杓子も一カ所に集まることは無くなり、各人の趣味にあわせて分散しはじめたからである。情報は『るるぶ』だけではなくなってきたのだ。御客さんが、無料で情報選択できる時代になってきたのだ。

 逆に言うと、情報発信しないと観光地は存在しないも同然という結果になる。

 しかし、これは御客さん側にも言えることなのだ。目的をはっきり宿側に伝えないと、見当違いのサービスを受ける可能性もある。プライバシーをたもちたい御客さんに、宿主がベラベラ観光情報をしゃべってみたり、宿主と会話したいと思って泊まりにきたのに、宿主が奥から出てこないということもにもなりうる。

 これが昔なら、みんな『るるぶ』に書いてある旅しかしないから、猫も杓子も一緒の均一サービスでよかった。だから昔の宿主は楽だったと思う。しかし、今の御客さんは『るるぶ』なんか持っている人を見たことが無い。誰も彼も持っているのは『るるぶ』ではなくスマホなのである。そして、御客さんの目的が多様化してきているのである。

 つづく。

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2014年07月16日

餓死者をだした終戦直後よりも、現代人の方が摂取カロリーは低い 2+α(コメントに対するレス)

餓死者をだした終戦直後よりも、現代人の方が摂取カロリーは低い 2
の記事へのコメントの返事を書きます。

まずコメントの紹介
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
実に興味深いblog 記事です。
自分自身を振り返ってみても、運動量は、戦前の人々の比ではありませんね。

ちょっと話がズレますが、糖尿病の主治医から、私の数値が悪化したもので、ちょいと、説教されました。
私のような弱い膵臓の持ち主の家系の者は、恐らく、家の済みでじっとしていて、無駄にカロリーを消費しない子供が生き延びて、そういう子供同士が成長して、子孫を作っていったので、日本人の中でも膵臓の弱い遺伝子が繋がり、その末裔が私のような膵臓が人よりも根を上げやすい糖尿病患者になるのだと。

そして、主治医曰く、昭和初期の東京辺りの食事が理想的なのだとか。
つまり、米、味噌汁、漬物、魚。

そういう視点で考えたことなかったので、これはこれで興味深いな、と思いました。

主治医の説がどこまで正論かは、検証していませんが。
ちなみに、主治医は、内科医、特に糖尿病専門医です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



>そして、主治医曰く、昭和初期の東京辺りの食事が理想的なのだとか。
>つまり、米、味噌汁、漬物、魚。

いろんな説がありますね。
それはともかく、
日本で一番糖尿病の多い県は徳島県。(2013年)
大量のうどんを食べている県民に多い。
http://diet.usa-tips.net/FoodMonitoring/hypertension_ranking.html

2008年のデーターだと島根県。
http://todo-ran.com/t/kiji/14753


日本の現在の成人糖尿病人口は720万人で、世界10位

世界1位の中国(9,840万人)
2位のインド(6,507万人)
3位の米国(2,440万人)

いずれも食文化が違う。

7位インドネシア(885万人)
8位ドイツ(755万人)

ともなると貧富の差も関係ない。
ちなみにインドネシア(885万人)と、ほぼ同じ人口の日本は、10位。
これは日本人が長寿であり、老人大国であることを考えると、決して多いとはいえないと思う。

ちなみに糖尿病の有病率でいうと、一番多い地域は、中東で10.9パーセント
少ない地域は、アフリカ5.7パーセント
ヨーロッパで6.8パーセント

日本の現在の成人糖尿病人口は720万人
日本の人口は、1億2709万人
つまり、日本における糖尿病の有病率は、5.66527パーセント。

つまりアフリカ以下となる。
これは、日本が長寿大国であることを考えると
やたらと低い数値ではないだろうか?

IDF理事長のマイケル ハーストによれば
「特に途上国では、糖尿病有病者の半数が自分が糖尿病であることを知りません。このことは糖尿病合併症の発症が増え、死亡率が上昇することを意味しています。世界糖尿病デーには、糖尿病はコントロールできる病気であり、合併症を予防できることを世界規模で呼びかけています」
ということなので、実際には、世界の糖尿病の有病率は、もっともっと上かもしれない。

さて、中東の次に糖尿病の有病率が高い地域は、アメリカ・アジア・インドです。肥満大国アメリカは別にして、アジアもインドも穀物を大量に食べる国です。あと、忘れてはならないのは、このアジアには、有病率の低い日本が含まれています。日本をのぞけば、もっと有病率がたかくなるし、きちんと健康診断すれば、さらに有病率は高くなるでしょう。

以上のデーターは、ネット検索すれば、誰でも見られるものです。
頭をつかえば、専門家の説の裏付け調査ができるはずです。


つづく。

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posted by マネージャー at 14:21| Comment(4) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月11日

餓死者をだした終戦直後よりも、現代人の方が摂取カロリーは低い 2

餓死者をだした終戦直後よりも、現代人の方が摂取カロリーは低い 2

 昭和21年 1903キロカロリー
 平成16年 1902キロカロリー

 http://healthy-teeth.org/?p=290

 もちろん2004年以降も、どんどん減っている。
 みんな食べなくなっているのだ。

 明治時代の屯田兵になると、1日7合半をたべていた。
 十五歳以下だと5合、
 六歳以下だと3合であった。
 幼児が3合も食べていたのである。

 おかずにしても肉魚を毎日100グラム以上食べていた。昭和になると昼飯にビーフカレー、夜にカツレツといったメニューになるわけだから、さらに驚く。昭和4年に陸軍が発表した標準献立表によれば、肉は一人当たり150グラム使用するように書かれてある。魚だと200グラムである。この量は、平成時代の若者が食べる量より多い。しかし、昭和4年の日本人は、現代人にくらべてはるかに小柄でチビなのである。

 では、なぜ現代人は食べなくなったのか?
 答えは簡単である。
 体を動かさなくなったからである。

 私も登山をやるのでわかる。縦走の時は、1日五千カロリーで計算しないと倒れてしまう。まず寒さに凍えるようになる。カロリー不足で体温を維持しにくくなるのだ。で、チョコレートを食べると、嘘のように

寒さが消える。だから戦前の兵士達は飢えていたのだ。7合半食べても飢えはするのだ。

 と、ここまでは、前回の記事のまとめ編。
 ここからが本題。

 今年、関東で記録はじまって以来の大雪となった。北軽井沢にも大雪が降った。まず、犬小屋から犬を救出した。雪崩の後を掘り起こすような作業で、愛犬コロを救出した。雪は、1メートル30センチほど積もっており、場所によっては、2メートルのところもあった。除雪機なんか役に立たない。私は、県道まで何十メートルも掘り進めなければならなかった。

 生粋の山屋(登山家)である私は、こういう時は、どういう準備をすべきか知っている。長期戦を覚悟して、アミノバイタルプロを5個ほど飲んだ。大量のチョコレートも食べた。その他のサプリメントも、規定量の5倍飲んだ。大量のチョコレートは、カロリー補給のためである。アミノバイタルプロは、筋肉痛を防ぐためである。これを飲まないと、筋肉痛で1日で体が使えなくなる。今回は長期戦なので、筋肉痛になるわけはいかない。あと、サプリメントも同様である。ビタミンもミネラルも規定の5倍いや10倍は必要なのだ。でないと、体が体を食ってしまう。タコが自分の足を食べるのと同じ現象がおきてしまう。これは登山家たちの常識である。

 もちろん大飯を食ってもよい。5杯飯を食べてもよいのだが、そんなことをすれば逆に身動きできなくなってしまう。胃腸にエネルギーをとられて、かえって動きが鈍くなるのだ。だからチョコとアミノバイタルとサプリメントである。これを大量に食べれば、筋肉を痛めずに雪かきができるし、筋肉痛も最小限でおさまる。ただし、1日8時間限定である。

 で、嫁さんと必死になって雪かきをした。
 10日間にわたって雪かきをした。
 その結果、どうなったかというと、10日間で8キロも痩せた。
 88キロの体重が80キロになった。
 血圧は、20も下がった。

 それほど痩せたのだが、カロリー制限していたわけではない。縦走登山の時とおなじく5000キロカロリーをとっていた。普通の2.5倍のカロリーをとっていたにもかかわらず、10日に8キロも痩せた。もし、この作業が、何ヶ月も続いたら私は栄養失調になっていたであろう。

 では、昔の陸軍の場合はどうか?

 米1合(150g)のカロリーは534kcal。6合なら3204kcal。これに味噌汁(6杯分)や副食(肉200グラムとして)のカロリーをプラスすると4200kcal。このカロリーで、あの雪かきを何ヶ月も続けたら確実に栄養失調になる。

 では、屯田兵ならどうか? 屯田兵に配給された7合半ならば、4005kcal。これに味噌汁(6杯分)や副食(肉200グラムとして)のカロリーをプラスすると5000kcal。つまり、私が雪かきしたときの摂取カロリーと一緒である。しかし、これでも、あの雪かきを何ヶ月もつづければ、確実に栄養失調になる。では、屯田兵たちは、はたして7合半の配給で食事が足りたのだろうか?という疑問がある。開拓事業が、あの雪かきよりも楽だったとは思えないからだ。

 もっとも、屯田兵といえども毎日仕事をしていたわけではあるまい。雨の日は休んだろうし、場合によっては1週間に3日くらいしか働けないケースもあったかもしれない。だから餓死することはなかったかもしれない。

 ただ、一つ言えることは、ある種の労働には大量のカロリーが必要であるということである。それが平成生まれの現代人にはあてはまらないということだ。

 事実、私自身、いろんなダイエットをやってみたが、何一つ成功しなかった。どんな運動もダイエットに貢献してなかった。しかし雪かきを毎日8時間やるだけで急激に痩せた。ということは、雪かきのような運動を8時間やれば、5000kcal以上を消費するということである。そして、昔の人は、それをやっていたということなのだ。じゃあ、その当時の諸外国では、どうだったのだろうか? 日本とおなじだったのだろうか?



つづく。

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2014年07月09日

餓死者をだした終戦直後よりも、現代人の方が摂取カロリーは低い 1

 歴史マニアが増えているらしい。

 御客さんの中にも信長がどうたらとか、秀吉がどうたらとかいう話題をだす人が増えてきた。私も歴史好きだが、そういう話題は興味が無い。というか、高校時代に通過してしまっていた。登山でいえば、高尾山みたいなもので、初心者が好む話題なのだ。司馬遼太郎あたりも麻疹(はしか)みたいなもので、あれは二十代をすぎたら粗が見えすぎて好みではなくなった。なのでNHKの大河ドラマも基本的には見ない。マイナーな人を主人公にすれば見るかもしれないが、観る前から結末が分かっているドラマは面白くない。そのうえ歴史解釈が貧弱すぎて見るにたえないシナリオも多い。時代考証も目を覆いたくなるものばかりだ。

 ここまでが前置き。
 以下、本題に入る。

 ユースホステル協会の会議や研修において、いつも話題になるのが、御客さんが食べる食事の量である。どういうことかというと、最近の御客さんは、めっきり食が細くなっているのだ。平均して一人あたり0.5合も食べないのである。これは、どの宿でも同じで、本当に食べない御客さんが多くなってきている。

 今から30年前。私が学生時代のユースホステルでは、みんな3杯飯を食べていた。平均して一人当たり1合は食べていたと思う。多い人では、5杯飯を食べる人もいた。そして昼飯を抜いた。旅費を節約するためである。しかし、今は、そういう御客さんは減っている。本当にみかけなくなった。みんな小食になってきている。

 そこで、歴史マニアの私は、さっそく調査をはじめてみた。
 で、驚愕した。

 餓死者をだした終戦直後の食糧難の時代よりも、2004年の平均摂取カロリーの方が、摂取カロリーは低いのである。

 昭和21年 1903キロカロリー
 平成16年 1902キロカロリー

 http://healthy-teeth.org/?p=290

 もちろん2004年以降も、どんどん減っている。みんな食べなくなっているのだ。

 しかし、この統計には罠がある。昭和21年の若者の人口比率は、平成16年の若者の人口比率より多い。若者は腹を空かすが、老人は食が細いので、平成16年の方が摂取カロリーが低くて当たり前といえば、当たり前である。しかし、それにしても腑に落ちないことがある。身長と体重の差である。昭和21年の日本人は、身長で10センチ。体重で15キロほど小さかった。そのぶん摂取カロリーは低くてすんだはずである。なのに昭和21年には餓死者がでている。逆に現代では、肥満が問題となっている。

 いったいどういうことになっているのか?

 歴史マニアの私は、さらに追跡調査をしはじめた。軽井沢図書館にいって、過去の食糧事情を記録した資料を物色してみたら、あった! ありました! すごい資料が。

「日本陸軍兵営の食事/藤田昌雄/光人社」

 この本の凄いところは、幕府軍の兵食システムから書いてあるところである。慶応元年の一番下っ端の兵隊の食料は、米が6合。おかずが銀2匁7部(蕎麦なら11杯食べられる)。さらに夜食までついている。当時の日本人の平均身長が155センチなので、当時の日本人はチビの大食いだったことがわかる。

 これが明治時代の屯田兵になると、もっと凄くなって、1日7合半をたべていた。十五歳以下だと5合、六歳以下だと3合であった。幼児が3合も食べていたのである。もちろん白米であって玄米では無い。おかずにしても肉魚を毎日100グラム以上食べていたので、量は現代人とかわりない。昔の人は粗食だなんて、この統計をみるかぎり、とんでもないことである。これが昭和になると昼飯にビーフカレー、夜にカツレツといったメニューになるわけだから、さらに驚く。キツネに化かされたような気分になる。いかに私たちが嘘の歴史をすりこまれていたかが分かって面白い。これだから歴史マニアはやめられない。

 ちなみに大正11年4月19日歩兵三十三連隊第二大隊の夕食が面白い。パンとシチューというメニューなのだ。昭和4年に陸軍が発表した標準献立表によれば、肉は一人当たり150グラム使用するように書かれてある。魚だと200グラムである。この量は、平成時代の若者が食べる量より多い。しかし、昭和4年の日本人は、現代人にくらべてはるかに小柄でチビなのである。しかし、当時の陸軍で使われた飯椀は、アルミ製の15センチどんぶりで、1500ccも御飯がはいるしろものだった。現代の御飯茶碗が250ccであることを考えると、いかに当時の人間が大飯ぐらいであったかがわかる。

 では、なぜ現代人は食べなくなったのか?
 答えは簡単である。
 体を動かさなくなったからである。

 というのも演習があると陸軍の食事も大量に増加されるからだ。屯田兵は、毎日が演習みたいなものだから、陸軍よりも25パーセント増しの米が配給されている。1回の食事に2合半の米を食べている。

 私も登山をやるのでわかる。縦走の時は、1日五千カロリーで計算しないと倒れてしまう。まず寒さに凍えるようになる。カロリー不足で体温を維持しにくくなるのだ。で、チョコレートを食べると、嘘のように寒さが消える。だから戦前の兵士達は飢えていたのだ。7合半食べても飢えはするのだ。今なら高カロリーなバターとか揚げ物があるが、当時は、米がメインだったので、7合半も必要だったのである。
つづく。

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2011年12月08日

群馬大学付属病院でスムーズに診察をうける方法4・国民健康保険

群馬大学付属病院でスムーズに診察をうける方法4・国民健康保険

 ペンション・ティンカーベルを売却したときに、一時的に所得が大きくなり、毎月10万ものの国民健康保険の支払いをすることになりました。10万という高額の国民健康保険に驚いた私は、国民健康保険への加入をやめようかと思いました。だって、10万円もの医療費を使うわけがないからです。

 しかし、考え直して、毎月10万近くという高額の国民健康保険料を払う決心をしたのは、友人に重度の透析患者がいたからです。彼は、私たちが払う国民健康保険のおかげで生きることができる。というのも、昔は、金持ちでない透析患者は死ぬしかなかったからです。しかし、日本の医療福祉の整備によって、彼はギリギリ生き残ることができた。そう考えると、いくら理不尽だと思っても、年に120万の国民保険料を請求されたとしても、ずるして『払わない』とは言えませんでした。

「どうせ1年かぎりのことだ。私が払う保険料によって、どこかの誰かが助かるのかも知れない」

と思ったらズルはできなかった。毎月10万近くの国民健康保険料を払い続けることにしたのです。

 そして、1年後。

 癌検診で私に前立腺癌の疑いがでてきた。そして群馬大学付属病院に検査入院することになったのです。当然のことながら連帯保証人がないと入院できない。つまり高額の医療費が発生する可能性が出てきた。もちろん医療保険に入っているのですが、カバーできるのは入院費用だけ。高度医療までカバーはしてない。そもそも保険会社が、やる気なさそうな回答しかくれない。まあ、そういうものだと分かっていたけれど。

 で、群馬大学付属病院に相談してみたら国民健康保険料を滞納してなければ、市町村から高額医療の大半を自治体がだしてくれるシステムがあるとのこと。で、役場に手続きに行ったらすんなり書類がもらえました。この時ほど日本の保険制度を
「ありがたい」
と思ったことはありませんでした。そして、誰かに支えられて生きているんだと感じましたね。そう思うと、つくづく、あの時にズルしなくてよかったと思いました。私も、誰かを支えなくてはとも思いましたね。私の友人も、そうやって誰かに支えられて20年以上も透析しながら生きているのだから。


つづく。

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2011年11月22日

群馬大学付属病院でスムーズに診察をうける方法3

群馬大学付属病院でスムーズに診察をうける方法3

 群馬大学付属病院に到着した。第4駐車場から、巨大なショッピングモールを通って外来棟に到着。そこに総合案内があった。

 総合案内には、受付嬢の他にフロアースタッフが居て、こっちがマゴマゴしていると親切に色々教えてくれる。まず初診の受付用紙を書いて、受付用紙を何番の受付カウンターに出すのか教えてくれた。そして、診察のための手順を書いたパンフレットをくれました。

 なにげに、このパンフレットが素晴らしい。
 これからの手順が図面で説明してある。
 おまけに病院の詳しい地図があるうえに、
 いろいろな疑問点がQ&A方式で載っている。

 下手なペンションやユースホステルの案内書より、よほど親切に書いてある。サービス業の私も、真っ青の案内書になっている。しかし、この案内書は、来てから渡すのではなく、ホームページに載せて欲しかったな。いや、ホームページに載ってるのかもしれないけれど、もっと分かりやすく、トップページに
「初めての外来の方へ」
と書いて、最初に読ませるようにしてほしかった。そうすれば、私も最初にまごつかなかった。素晴らしい案内書があるだけに残念。

 で、受付に受付用紙と紹介状を提出して10分ほど待つと、一人一人ではなく、一挙に7人くらい呼び出された。で、7人同時に手順の説明を受けた。驚いたことに、全員が町医者の紹介状を持っていた。
「なぜ、みんな紹介状を持っている?」
と疑問に思ったら、群馬大学付属病院は、特定機能病院といって基本的に紹介状がないと見てくれない病院なのだそうだ。つまり町医者の手に負えない病気を専門に診る病院ということらしい。だから全員が紹介状を持っている。

 紹介状無しで診ることも不可能ではないらしいのだが、その場合は、紹介状無し料金として、3150円が加算されるシステムになっている。つまり、群馬大学付属病院は、重病難病の専門の病院ということになる。さらに緊急性の無い治療にいたっては、時間外選定医療費として、4200円が加算される。

 で、気がついたのだが、医療費にも消費税がかかるんですね。
 つまり消費税が上がったら医療費も上がることになる。
 くそー嘘つき民主党め!
 議論さえしないと言ったのはどこのどいつだよ!

 しかし、群馬大学付属病院は、この医療費高騰に対する対処も教えてくれた。
 こういうパンフレットをくれたのだ。

 このパンフレットによると、特殊な56種の病気に関しては診療費の一部を国が補助してくれるらしい。ただし患者が「特定疾患医療給付申請書」を居住する保健福祉事務所に申請し受理された日から適用となる。例えば緊急に手術を受けたが、申請書の準備が遅れて次の日に申請した場合は手術費の補助を受けることができません。速やかに申請を行うことが重要とのこと。そのための相談窓口が群馬大学付属病院にあった。

 患者支援センターもあった。
 癌相談もできるとのこと。
 補助金の給付など、難しい事もここで教えてくれるらしい。
 もちろんクレーム受付もできる。

 つまり、群馬大学付属病院は、こういうサービス環境が完璧なのです。逆に言うと、こういう部門が充実しているがために、私が最初に電話したときに、代表電話のオペレーターが、ものずごく対応の悪い部署に繋いでしまったともいえます。で、白い巨塔の罠にはまってしまった。

「あのー、◎◎病院の◎◎先生から、紹介状をいただきまして、癌の疑いがあるので◇◇科の◆◆先生に見てもらうように言われたのですが」
「予約受付は、15時で終了しました。明日の13時から15時の間にお電話ください」
「え?」

 もし、そのとおりにしていたら、私は何日も診察してもらえないはずだった。
 私は、代表電話のオペレーターに

「はじめて群馬大学付属病院に行くのですが、何しろ何も分からない田舎ものなので、総合案内とか、どこか相談できる部署につないでもらえますか?」 

と聞くべきであった。群馬大学付属病院は、町医者と違って部署が専門化しているために、極度に専門的であり、対応も官僚化しているのである。これは決して群馬大学付属病院を批判しているのではない。極度に専門的であり、対応も官僚化しているということは、総合案内も、患者支援センターも、極度に専門的であり、対応も官僚化しているために、完璧な仕事をしてくれるからだ。ようは、何とかとハサミは使いようで、これはこれで具合がいいのかもしれない。

 というのも、町医者にも、長所と欠点があるからだ。

 町医者の長所は、とにかく親切なこと。かゆいところに手が届くところだが、時々、うざったくなることもある。待合室で待っていると事務方(それとも看護婦?)が「インフルエンザの予防注射はいりませんか?」と売り込みにきたりする。整形外科にかかっていても、咳をしていたりすると、なぜか咳止めまで処方してくれたりする。基本的に院内薬局なのでジェネリックカードを出しても、薬の種類が少ないためか使えなかったりする。この点、群馬大学付属病院だと、そもそも薬は全て院外薬局。病院では薬をだしてくれない。

 けれど町医者の面白いところは、患者の懐具合も考えてくれるところ。

「◆◆検査は、3ヶ月の間を置かないと国民健康保険が使えませんから、次回の検査は、3ヶ月後にしましょう」

 おいおい、癌の疑いがあるんだろ?
 1ヶ月後でいいよ!
 と患者が思っていても、しっかり患者の懐具合を考えてくれる。
 この点、大学付属病院は容赦ない。

「町医者で調べた1週間前のPSA検査で、5.8でした」
「そうですか、じゃ、もう一回検査しましょう」

 さすがは群馬大学付属病院。
 慎重に慎重をかさねている。


つづく。

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2011年11月21日

群馬大学付属病院でスムーズに診察をうける方法2

群馬大学付属病院でスムーズに診察をうける方法2

 群馬大学付属病院に行くことになった。
 受付は、朝の8時から。

 ということで、朝6時に起きて、群馬大学付属病院に出発した。2時間あれば、途中で牛丼屋かコンビニによれる時間があったと思ったからです。しかし、高崎・前橋で朝の交通渋滞にまきこまれてしまい、結局、群馬大学付属病院に到着したのが9時だった。コンビニにも牛丼屋にも寄れなかった。

「しかたない、朝食は病院の売店で調達しよう。御握りやサンドイッチは無理にしても、アンパンくらいなら置いてあるだろう」

と思って、第4駐車場に車をおいて、病院の中に入ったら目が点になってしまった。

「病院の中にショッピングモールがある!」

 というか、ショッピングモールと書いてある!
 コンビニはもちろんのこと、各種レストランに、カフェ、売店、銀行などいろんな店が!
 おそらく嬬恋村の商店が、束になっても敵わないくらいに凄い!
 コンビニのローソンにいたっては、
「ホスピタルローソン」
 になっている!
http://www.lawson.co.jp/company/branch/hospital/cases/case_09.html

 そもそも病院内に、どうしてドラックストアがあるんだ?

 それは、ともかく「ホスピタルローソン」でサンドイッチを買ってみた。
 味は、普通のローソンのサンドイッチだった。
 まあ、あたり前か!

 しかし、サンドイッチを食べながら即、後悔してしまった。安くて美味そうなカフェやイタリアンレストランなんかが、ずらりと並んでいたからです。ここなら八百円以下で、かなり美味しそうなランチが食べられる。店も、みんなおしゃれだし、軽井沢の店みたいだ。もちろんラーメンなんかもある。これだったらローソンのサンドイッチじゃなくて、もっと美味そうなフレンチかなんかにすればよかった。で、カフェで珈琲をすするんだった。

「すげー! さすが群馬大学付属病院だ!」

 どうして、こういうことになっているのかと、帰ってからインターネットで調べてみたら、こういうサイトがあった。


http://www.jomo-news.co.jp/kenko-tsushin/kenko00154.html
--------------------------------------------------------------------------------
以下、引用

群馬大学医学部附属病院を日本のメイヨークリニックに
群馬大学特任教授 森下靖雄

火が消えたような前橋
 15年前、群馬大学に赴任したときは、前橋の街にはもっと活気があったように思います。萩原朔太郎誕生の地として、また、市の真ん中を坂東太郎である日本一の利根川が悠々と流れる水と緑の都として、あこがれさえ持っていました。

 ところが、この数年の寂れようはどうでしょうか? アーケード街の3分の1はシャッターを下ろしています。人通りもまばらです。街中の唯一のデパートも、休日の午後だというのにいずれの階にも買い物客をほとんど見かけません。

 わが国のいずれの地方都市も程度の差はあれ、ドーナツ化現象が進み、前橋市と同じ問題を抱えていると思います。特に前橋の場合、市街地周辺にモールやショッピングセンターが次々にオープンし、駐車場の心配もないことから、人の流れがますます市街地を離れているのが現状ではないでしょうか。

 アメリカの小都市ロチェスターに「メイヨークリニック」という世界的に有名な大病院があります。1883年、メイヨー兄弟が父親の要望で救急医療センターを開設したのが始まりで、大学病院にまで発展したものです。かつて小さな田舎町だったロチェスターは、メイヨークリニックの発展ですばらしい医療都市に変貌し、いまや世界中から患者が集まるようになりました。

 病院の周辺にホテルやショッピングセンターが必然的に造られ、町そのものもさらに大きく変貌・発展したわけです。まさに医療都市の出現です。そこで、群馬大学医学部附属病院を日本のメイヨークリニックにすることは夢でしょうか? (以下、略)
--------------------------------------------------------------------------------

いやはや参った!
群馬大学付属病院は、メイヨークリニックを目指していたのか!
群馬大学付属病院は、地域振興の先兵だったのか!
いやー凄いわ!
なんか、ドラマ「医龍」を思い出してしまった。





前回、白い巨塔の罠と書きましたが、白い巨塔なんて古かったわ。
これは医龍の世界ですわ。
いやー、世の中も変わったものですわ。
病院も、患者の病気を治すだけではない時代なんですね。
地域振興まで考える時代がきたんですね。





医龍の世界なんて、架空の話かと思ったら、
もう、そういう世界が群馬県にあったなんて、いやー驚いたの何のって

しかし、これはこれで便利かもしれない。
ここには多くの入院患者もいるし、
職員・ナース・医師・研究者も多いので、
本屋からカフェまで、なんでもそろっているショッピングモールがあるのは凄く便利。
とくに緊急入院で運ばれた患者にとっては、
下着も買える店や銀行があるのはありがたいかも。

最初から、これを知っていたら途中でコンビニに寄ることなんか考えなくてよかった。



つづく。

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2011年11月19日

大学付属病院でスムーズに診察をうける方法1

 実は、私は大学付属病院というのが大嫌い。嫌いになった理由は、私が小学2年生の時、1970年(昭和45年)頃に母親と上京し東大病院で難聴の診察をうけた経験からです。

 東大病院は大きかった。行列も凄かった。最初は、母親の付き添いで診察を受けましたが、検査は一人で受けさせられました。大勢が順番待ちで、部外者は列に並べなかったからです。で、検査前に説明書を読まされました。

 しかし、読めない。
 難しい漢字が、いっぱい書いてあって読めない。
 小学2年生になったばかりの子供には

「高音」「低音」「聴く」「致します」「御願いします」

という習ってない。読めたとしても意味を理解するのは難しい。どうして良いか、オロオロしているうちに、自分の番が来てしまった。そして病院の人が事務的に
「説明書は読みましたか?」
と怖い顔で聞いてくる。私は恐る恐る
「読んだけれど分かりませんでした」
と答えました。すると

「駄目じゃ無いの! 大勢の人が待ってるんだから無駄な時間をつかわせないで」
「きちんと読んでから来なさい」

と、とりつくしまもな、もう一度、一番後に並ばせられました。私は列の最後でボーゼンとするしかなかった。そもそも小学2年生に理解できる説明書でないわけですから、どうしようもない。しかし、そうこうしているうちに、また自分の番が近づいてくるんですが、分からないものは分からないですから、自分の番が近づいてくると、だんだん恐怖をおぼえてくる。幼かった自分は、怒られるのが嫌で、また最後尾にまわってしまった。

 これが大人なら隣の人に聞くなどの知恵が働くのですが、佐渡島の田舎から上京したばかりの小学2年生には無理な相談。だいたい昨日までエスカレーターも、エレベーターも、自動ドアも知らない土人として育った子供ですから、まわりにいる背広を着た東京の大人たちなんて、エイリアンぐらいにしか見えない。

 第一、私が困っていても、みんな無視している。
 こんな時、佐渡島の老人たちなら困っている子供がいたら
「どうしたの?」
 と聞いてくれるけれど、東京大学の病院に来ている大人たちはムスッとしてる。
 で、何時間も、もじもじしているうちに母親が
「遅いぞ、変だな」
と気がついて見に来て、ようやく説明書の意味を解読することができたんです。





 当時の東大病院は、一事が万事、こんな感じですから、いまだに私は大学病院にアレルギーがある。こういう病院が、正しい診療が出来るはずがないと、いまだに偏見をもっています。幼い頃に刷り込まれた体験は、この歳になっても残っている。だから町医者ばかりにかかっていたのですが、その町医者に

の可能性があるので、群馬大学の◆◆先生に紹介状を書きますので、群馬大学で精密検査をうけてください」

と言われてしまった。
で、群馬大学付属病院に電話してみた。

「あのー、◎◎病院の◎◎先生から、紹介状をいただきまして、癌の疑いがあるので◇◇科の◆◆先生に見てもらうように言われたのですが」
「予約受付は、15時で終了しました。明日の13時から15時の間にお電話ください」
「え?」
「・・・・・」
「あ、あのー、そちら(群馬大学付属病院)は、前日の13時から15時の間に予約をしないと診察してくれないのでしょうか?ホームページには、朝8時から受付と書いてあるんですけれど」
「初診ですか?」
「はい」
「初診なら、朝8時から受付です」
「で、◆◆先生は、水・金しかおられないと聞きましたので、金曜日の明日に、そちらに伺おうと思って電話したんですけれど」
「初診から◆◆先生がみるわけではないので、別の先生に見てもらいます」
「では、明日、診察してもらうことは可能であるということですね?」
「はい」

 とういうわけで何とか診察してもらえることになった。
 短く文章にしていますが、他にもいろいろなやりとりがありました。
 けれど、それは省略しています。
 それにしても長かった。
 ドドーッと疲れてしまった。
 最初の電話で、こんなに遠回りするとは。

 もし、私がホームページを見ながら電話口で粘って対応してなかったら、診察してもらうまでに、いったい何日かかったのだろうかと思うとゾッとしました。だって、最初の対応だと、明日の13時から15時の間にお電話くださいだけだったので、そのとおりにしていたら、翌週の扱いになってしまっていた。そのうえに「初診なら初診と言いなさい」と怒られるところであった。やっぱり「白い巨塔」なのかなと思ってしまった。





 なぜ、私が、ブログにこんなことを書いたかといいますと、
 こういう場合、つまり私のようなケースの場合は、
 もっと別な手段があったんですね。
 それを怠ったために白い巨塔の罠にはまってしまうところだったんです。

 まず、最初に私が犯した誤りは、病院の代表電話に

「あのー、◎◎病院の◎◎先生から、紹介状をいただきまして、癌の疑いがあるので◇◇科の◆◆先生に見てもらうように言われたのですが」

と言ってしまったことです。こんな事を言ってしまったので、代表電話のオペレーターの人が、直接、◇◇科の◆◆先生の担当の秘書か何かに電話にまわしてしまったために、こういうことになってしまったと思われます。

 こういう場合は、代表電話のオペレーターの人に

「はじめて群馬大学付属病院に行くのですが、何しろ何も分からない田舎ものなので、総合案内とか、どこか相談できる部署につないでもらえますか?」 

 と言えば良かったんですね。
 でないと、白い巨塔の罠にはまってしまう。

 敵を知り、己を知らざれば、百戦あやうからず(孫子)

 まずは、敵を知るところから始めなければならない。
 よーするに各病院のシステムを知らなければならない。
 大きい病院には、そういうシステムを親切に教えてくれる部署がかならずあるんです。
 そこに電話するべきだった。
 うーん。
 勉強になりましたわ。

 このシリーズ、しばらく続けます。
 みなさんの参考になるように、
 群馬大学付属病院を徹底的に解剖してみせます。
 私のように田舎者が大病院でウロウロしないために。

つづく

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2011年07月28日

松浦武四郎と海防について+α

みわーぼーさん


>でも、江戸時代の物流が、水運で成り立っていたことは、
>少し江戸時代に立ち入って知っていくと分かる話ではありますね。

ええ、ここまでは誰でも知ってることです。
日本史を専攻した人間なら常識の部類。
へたしたら高校時代に教わってる人もいるかも。
しかし、その先が無い。
その先の常識が空白になっている。
なぜペリーに屈したかという江戸時代の常識が空白になっている。

それは何故か?

理由は、軍事を教えてないからです。
歴史教育の中に軍事教育が入ってない。
だから、へんてこりんな発想になってしまうんですよ。


>しかし、そこと、幕末日本の海防の急務を結び付けられていなかったことに、猛省であります。


これは、みわぼーさんの責任ではありませんね。
日本の歴史学に欠陥があったということです。
戦国時代末期に多かったのが兵糧攻めです。
それを江戸時代の武士達は、知っていた。
飢饉の怖さも知っていた。
そして、江戸のライフラインが海であったのも知っていた。
江戸は消費するだけで生産はしない町であることも知っていた。
だからペリーに驚愕したんです。

 で、1854年にペリー艦隊が去って、わずか四ヶ月後にロシアのプチャーチンが下田にやってきた。そのとき、安政の震災がおきて津波が発生し、ロシア船が沈没します。もちろん下田の人もロシア人を救助しています。江戸時代のトモダチ作戦です。船の無くなったロシアに対して幕府は、3000両の金をロシア側に貸して帆船の建造します。で、7人の優秀な日本人船大工を集めて日本で最初の西洋式帆船を作り上げ、これでロシア人たちは帰国しました。

 幕府は、この後、同型艦を六隻を追加注文しています。
 ペリーショックが、いかに大きかったかがわかりますね。

 また幕府は、このときの船大工2人を、長崎伝習所に一期生として派遣。
 4人を石川島造船所に技師として迎えています。
 別の一人は独立して大坂の難波島に造船所を開設。
 7人とも、大活躍しています。


>陸送重視になっていったのは、何でなんですかね〜?
>日本なんて、山道多いから、本来向いてないでしょうに…。


これは維新政府の勘違いからです。
戊辰戦争の時、制海権は幕府がにぎっていた。
つまり、幕府がその気になれば維新軍は、全滅していたんです。
補給路を絶つこともできたし艦砲射撃もできた。
小栗上野介が、それを主張したんですが勝海舟が、わざとさせなかった。
つまり、維新軍は、きわどいところで勝っているんですが、
それが明治政府には、よくわかってなかった可能性がある。


あと、もう一つ。
明治維新後も、和船は無くならなかったんです。
弁財船による水運は、明治時代も続いたんです。
西洋式帆船は、日本に普及しなかったんです。

このあたりは『船の科学館』にいくとよくわかるんですが、
和船の方が、圧倒的にコストパフォーマンスが高かったんです。

1.甲板がプレハブ式で取り外しが容易なために、積み荷の上げ下ろしが速かった。

2.キール(竜骨)がないために、底の浅い川に簡単にのぼれた。
  川を運行するのに適していた。
  そのために船体に付着した蛎殻を真水で殺すことが出来、船の寿命をながくさせれた。

3.キール(竜骨)がないために簡単に陸揚げができて、船底の蛎殻を取り除けた。

4.キール(竜骨)がないために操船が自由自在だった。
  シーカヤックにはキールがありますが、カヤックにはキールが無い。
  そのためにカヤックは、アクロバットな操船が可能となるのです。

5.マストを2本のロープで操作するだけなので船員が少なくてすむ。
  人件費が西洋船の半分もかからない。
  15人くらいで110噸(千石船)の船を動かしています。
  ちなみにマゼランが世界一周したトリニダッド号は、
  110噸(千石船)ですが、60人の乗員が必要でした。
  弁財船の方が、圧倒的に有利なコストで輸送できます。

ですから、明治時代に入っても、西洋式の船の普及は、なかなかすすまなかったんです。

よく、鎖国によって造船技術が後れたなんて教科書に書いてありますが、
とんでもない話ですよ。
逆ですよ、逆!
むしろ日本の造船技術は、最先端を走っていたんです。
西洋の造船とは、別の進化をとげているんです。
コストを極限まで下げるために発達したのが日本の和船なんです。

それに対して西洋船は、違うコンセプトで作られている。
運送コストより、海賊対策・シケ対策・不沈性を重視している。
だから価格競争をすると和船が勝ってしまう。
これを気に入らなかったのが明治政府の役人達でした。
どんどん堀を埋め始めるのです。

つづく

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2011年07月27日

松浦武四郎と海防について

先日、松浦武四郎を研究しているという若い人とであい、久々に楽しい時間をすごしました。
なにをかくそう私も松浦武四郎には、少しばかり詳しいのです。
で、いろいろ会話がはずんだわけですが、途中から
『はあ?』
という場面にでくわしてしまった。
たとえば、こんな会話。

「松浦武四郎は、日本最初の人権家ですよね」
「はあ?」
「虐げられたアイヌを守ろうとした彼こそは、日本最初の人権家だと思うんです」
「・・・・・・」

 若い頃なら、ここで社会契約説と論語の違いを説明し、西洋と日本の社会背景を説明し、松浦武四郎が人権家などという妄言を訂正するのですが、今の私には、そういう気力はありません。適当に話題をかえて、別の話題でもりあがったわけですが、また、こんな会話に。

「松浦武四郎が海防を唱えたのは方便ですよね」
「はあ?」
「そうとなえることによって探検がしやすかった。だから方便として海防をとなえて北海道を回ったんだと思うんです」
「・・・・・・」

 めんどくさがり屋の私は、ここで会話を打ち切ってしまいました。
 
 もちろん松浦武四郎が海防をとなえたのは方便ではありません。
 松浦武四郎は、本気で海防を考えていた。
 そもそも彼は「探検家」とよばれるより「海防家」と呼ばれたがっていた。
 幕末の志士たちにとって、海防は、急務だったからです。
 
 では、なぜ『急務』だったのか?
 これを知らないからトンチンカンな歴史解釈がまかりとおるのです。
 
 江戸時代の人間にとっての常識が、
 今の人には、分からないから
 トンチンカンな歴史解釈になってしまう。

 なぜ、海防が急務だったのか?
 理由は簡単。
 江戸時代の日本経済は、
 世界で最も完成された流通システムをもっていたからです。

 具体的に言うと、江戸の人口100万をささえる食料の流通システムは、
 水路によってなされていた。
 時代劇のテレビドラマをみると、必ず水路があって舟が繋留してますね?
 あれです。
 あれが江戸の町に縦横無尽にめぐらされてて、
 その水運で大量の消費財(農産物など)が輸送されていたんです。
 そのために、江戸は、世界最大の人口100万人を養えることができたんですよ。
 これが同時代朝鮮の場合、京城(漢城)の人口は、たったの15万くらいです。
 
 で、ペリーがやってきた時に、幕府が徹底抗戦しなかった理由は、
 風に関係なく動く蒸気船に江戸湾を封鎖されてしまうからです。
 そうなると船舶による消費財・つまり米が入ってこなくなるので、江戸百万が餓死する。
 これは江戸時代の人間の常識だったわけです。
 
 江戸のライフラインは、海にあったんです。陸では無い。

 一方、黒船は、朝鮮にも行ってるわけです。
 で、朝鮮はどうしたかと言いますと、徹底抗戦して黒船を撃退してしまった。
 朝鮮には、日本ほど流通が発達してなかったために、
 黒船で海上封鎖されても痛くもかゆくもない。
 しかし、日本では違ったわけです。
 陸送では、間に合わない。
 江戸は餓死してしまう。
 
 かといって海戦で勝てる自信は無い。
 なぜならば、倭寇の時代から朝鮮出兵まで海戦で勝ったためしがないからです。
 だから、当時の日本人は青ざめたんです。
 
 これは、明治時代に出版された『大日本時代史』あたりに、ふつーに書かれてある。
 少なくとも明治人の歴史家にとっては、常識に部類することだったんです。
 
 しかし、大正時代に入って、道路が整備され、鉄道ができてくると、
 江戸の流通をささえていた水運のことがわかりにくくなり、
 志士たちが、なぜ幕末にあれほど『海防』をさけんでいたのか分からなくなってくる。
 
 おまけに学校で教える歴史教科書にも載ってない。
 これは意図的に載せてないんだろうけど、
 載せなければ、どうして幕府がペリーに屈したかわからないし、
 どうして、その1年後に国産の蒸気船を生産するまでになったかもわからないでしょう。
 
 もういい加減、歴史に関するタブーは、なくしてほしい。
 でないと、おかしな事を言い出す人がでてきて困ってしまう。 
 
 

つづく

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2011年06月13日

刷り込み3

Akiさんへ

> ブルーベリーでは省電力化をはかって、
>LED電球を導入されたとうかがいましたが、
>やはり食堂には適用せずに白熱電球なのでしょうか?

 LED電球です。
 こいつです。



 5000円もします。
 これが7個ついてます。


>蛍光灯やLED電球にも「電球色」という色合いの物がありますが、
>やはりこれらは白熱電球とは異なりますか?


 多少ことなります。
 というか、そもそもメーカーによってLED電球の色が違います。
 東芝は、ちょっと赤っぽいし、パナソニックは白っぽい。
 各社で、性能(ルーメン)が違っているのも、
 そのへんがあるかもしれません。


> 蛍光灯はその名の通りですし、今の白色LEDも青色LEDに
>黄色の蛍光体をかぶせて白く見えるようにしているので、
>電球では広いスペクトルの光が出ているのに対して、
>三原色そろっていても限られた波長のピークを持つ光だけ出ているようです。


するどい御指摘ですね。
実は、そのためにLED電球に交換することによって思わぬ恩恵にあずかっています。
カメムシの数が減ったんですね。
これは森の中の宿屋としては、大きなメリットです。

カメムシは、電球の入っている照明器具の中を好むようで、春秋は、毎週のように虫駆除のために照明掃除をしていたんですよ。それが1年に3回くらいしか掃除しなくてよくなったんです。おそらくLED電球では紫外線をカットしているためだと思われます。


> 蛍光灯では料理が美味く見えないというのは良く聞きます。
>私自身は白熱電球よりは明るい蛍光灯の方が良いという育ちで
>刷り込まれてしまったせいかあまり感度をもたないのですが、
>美味く見えないという理由が、上記のようなスペクトルの狭さ
>からくるとすると、やはり差異があるのではないかと推察します。
>もしそうなら、いつかは白熱電球も入手できなくなるのかもしれず、
>貴重品になっていくのかな。

 蛍光灯では料理が美味く見えない理由は、私の知る限り2つあります。
 で、2つの理由は、根本的に異なる理由です。


1.色温度のため

 まず第一の理由は、色温度によって食欲が変化するからです。
 赤提灯はありますけれど、青提灯はないですよね。
 青提灯では客が入らないんです。
 ラーメン屋に青い店もないですね。

 しかし、黒い居酒屋はある。
 でも、これは罠です。
 黒い居酒屋は、夜になると真っ赤になる。
 赤い照明で真っ赤になる。
 赤で御客さんを呼び寄せるんです。
 この場合、店全体が赤い必要は無い。
 むしろ外は暗い方がいい。
 暗い中で、赤い光にライトアップされた暖簾がポイントなんです。
 あれに人々は、吸い込まれるように入っていく。
 人は、赤く明るいい方向に向かう習性があります。
 色は、無限のメッセージを発信しているんですよね。

 これは有名な実験なのですが、同じ店で、日替わりで青・黄・赤のテーブルクロスを交代で使って売り上げを調べた実験がありました。その結果、青は、赤に対して15パーセントの売り上げが減ってしまい、御客さんの声も静かだったんです。こっちは50パーセント減。

 この実験は、飲食店や宿主なら、みんな知っている常識です。秘密でも何でも無い。しかし、以前、日本ユースホステル協会のホステル委員会の人たちが来たときに、これを申し上げても全く理解してくれなかった。分からない人には、全く分からないんですね。生活がかかってないから。

 しかし、宿屋は違う。生活がかかっている。だから必死になっていろいろ試してるから、赤になると売り上げが変わることを体験で知っている。知っているけれど、理屈は分からない。理屈は分からないけれど、赤と黄色が御客さんの喜ぶことは、体験で知っている。蛍光灯では駄目なことは常識で知っている。

 しかしね、今は、インターネットというものがあります。
 なぜ青では駄目なのか? 
 なぜ蛍光灯では駄目なのか
 ということは、ネットで調べれば、いくらでもでてきます。
 よーするに、暖色系の色は交感神経を刺激させる力をもっているんですね。
 そして寒色系は、副交感神経を刺激させる。
 それだけのことなんです。

 自律神経は、正反対のはたらきをする2つの神経 から成り立っています。

1.交感神経・・・活動している時、ストレス・緊張している時に働く
2.副交感神経・・・休息・体の修復をしている時に働く

 昼間の活動での、疲労やダメージを受けた体を夜間の睡眠で休息させて、疲労やダメージを修復して、元気な状態に戻す。この二本立てで、健康を維持できるしくみとなっています。つまり、食堂では赤の光が、御客さんの活発な談笑をさそうわけですが、客室は、むしろ青の蛍光灯で副交感神経を刺激してリラックスさせることにより、「からだの修復」をしてもらう。

 昼間の活動によってたまった疲れや、体に受けたダメージを、副交感神経に切り替わった睡眠中に修復して、元気な状態に戻してもらうのです。だから北軽井沢ブルーベリーYGHの客室は、蛍光灯だったりします。そのほうが、腕白な子供さんが静かになってくれる。すぐ眠ってくれる。



2.影が必要。

 蛍光灯では料理が美味く見えない理由は、影ができないためです。
 私は昔、カメラをやっていたから分かるんですが、
 影がないと美人もブスになってしまう。
 料理も同じなんですね。

 テレビや映画で照明の名人・撮影の名人と言われた人は、みんな影を付ける天才なんです。コントラストをつける天才なんです。ここで、こなさんに美味しそうに見える料理の撮影の仕方を伝授します。斜め上から逆光ぎみに撮影することです。影を利用するんです。逆に一番不味そうに見える撮影の方法は、真上から撮影することです。真上から撮影した料理は、みんな不味そうにみえます。影がないからです。一度試してみてください。

 さて、料理を美味しそうに見せるコツですが、
 一番良いのは、スポットライトのレフ球で、斜め上から照射することです。
 そうです!
 スーパーや、築地や、アメ横なんかで
 サンプルに当てているスポットライトの方式です。

 デバ地下に行ってみてください。
 みんなスポットライトです。
 で、スーパーに行くと、蛍光灯。
 どっちにOLが群がっているか?
 どっちが美味しそうにに見えるか、試してみるといいです。


つづく

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ラベル:刷り込み3
posted by マネージャー at 16:25| Comment(3) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

刷り込み2

ささらーさん

>高速のPAで食事をしたときにお茶を入れる際、
>コップがプラスチックか陶器を選べたんです。
>よく見ずに手前にあったコップをとったのでプラスチックのコップに
>入れたのですが、やっぱりなにか違うと思いました。

>大量に洗うほうからしてみれば割れないものの方がいいのでしょうが、
>実際に口にする際にはやっぱり陶器かガラスのほうが
>おいしく感じるのはなぜなんでしょうね。

>ブルーベリーの平皿は開所当時からナルミ(でしたか?)だったのは
>本当によかったなと思います。
>配膳をお手伝いしていても気分が違うのです。



西洋料理は、絵みたいなもので、皿が画用紙。
料理が絵の具なんです。
どちらも重要。

和食は、別の意味で皿が重要です。
皿は、大地。
料理は素材。
2つで一つの世界観をつくる。
だから高級料亭では、御客さんのキャラにあわせて皿を決め、
その皿にあわせて料理を決定したりします。
やはり、どちらも重要なんですね。

だからプラスチックの皿をみた時は、かなり驚きました。
私より料理にこだわっていた奴だったので、
よけいに驚いたわけです。

どんなに料理にこだわってても、
どんなに味を追求しても、
どんなに良い包丁をもっていても、
どんなに盛りつけに熱心でも
肝心な皿がプラスチックでは、苦労が無駄になりかねない。
食堂の蛍光灯も駄目です。
客室は蛍光灯でもいいけれど、
食堂は蛍光灯ではいけませんね。

しかし、そうは思わない人たちが数人いて、その人たちには共通する何かがあったわけですね。その何かというのは、最初に働いた場所に共通点があった。これが刷り込みというやつかと。


 で、うちの嫁さんですが、飲食店で働いたことが無い。つまり何も刷り込まれてないと思っていたら、そうではなかったんです。私のやり方が刷り込まれていました。私は、オープンして1年間は、ひとりで24人分を作っていました。

(昔は、最大24人泊めていました)

 しかも料理中に予約の電話がジャンジャンはいる。
 送迎もしなければならない。
 これを全部ひとりでやってたんです。
 ヘルパーさんはいませんでした。

 当然のことながら、いそがしすぎる。
 死ぬほど忙しい。
 いちいち鍋やフライパンなんか洗ってられない。
 だから、鍋・フライパンを3倍くらい用意し、使用した物をかたっぱしから積み上げて、後で洗っていました。本当は、良くないことなんだけれど、そうしないと料理が間に合わなかった。

 食事が終わったら温泉ツアー。
 御客さんの相手もしなければならない。
 皿を洗うのは23時以降になる。
 そして洗い終わるのは、夜中の1時だった。

 そういう状況下のところに嫁さんがやってきて、悪い見本を刷り込んでしまった。
 どういうわけか嫁さんは使用した鍋をすぐに洗わないでよいと勘違いしてしまった。
 これを矯正するのに時間がかかりました。
 いったん刷り込まれたものは、矯正が難しいんですね。
 そういう意味で悪い見本を見せてはいけなかった。

 おまけに夫婦という関係は、難しい。
 上下関係で無いので、どうしても甘えがでてしまう。
 で、外の世界を見せないと、理解がすすまないと思った次第です。

 仕方が無いので、毎日のように軽井沢で外食することにしました。
 よそを見せて、自分たちの反省点を見つけようと。
 そしたら嫁さんは大喜びです。

 勉強なんだからな。
 遊びじゃ無いんだからな!

 と言っても「分かった分かった」と浮かれている。
 こんな勉強なら大歓迎と浮かれている。
 私は、わかってるのかなあ?と散財の毎日を続けました。
 財布の現金は、どんどん減っていく。
 頭をかかえました。

(そうだ、ついでに軽井沢のグルメガイドも作っちゃうかな)

 で、できたのが、このサイトです。

http://gourmet.kaze3.cc/

つづく

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2011年06月10日

刷り込み1

 刷り込み。
 宿屋をはじめた人間には、ある種の刷り込みがはいっている事が多い。


 その昔、民宿をやっていた友人の厨房にお邪魔したとき、
「アッ」
と驚いたことがありました。

 皿の大半がプラスチックやアクリルだったからです。
 さらに、その人の得意料理が和食だったので、余計に驚いてしまった。
 まな板も包丁も立派な物を持っているし、
 こだわってダシをとる人なのに、皿がプラスチック。
 ひとことで言って

「ありえない」

しかも食堂が蛍光灯だった。これも

「ありえない」

 だから、さんざん忠告したのですが、頑固な彼は私の忠告を聞かなかったんです。
 そして気がついたら廃業してました。
 しかし、どうして皿がプラスチックで平気だったのだろう?
 どうして食堂が蛍光灯で平気だったのだろう?
 という疑問は、ずっと心に引っかかったまま年月がたちました。

 で、ラーメン屋を開業した別の友人のところに御祝いに行って、また驚いてしまった。
 丼とコップがプラスチックだったからです。
 あんまり驚いたので、ちょっと考えてみました。
 皿がプラスチックで平気な、二人の友人の共通点はなんだろう?と。

 で思い当たったことは、二人ともチェーン店の居酒屋に勤めていたことです。
 チェーン店の居酒屋には大した皿はありません。
 そもそも大した料理もない。
 チェーン店の居酒屋の基本は、不味くない料理を出すことにあります。
 加工も本部がやっていて、店では盛りつけるのが大半の仕事になる。
 皿だって壊れにくいものを使うからプラスチックの皿もあったりする。
 1枚五千円の皿を使うことは絶対無い。
 百円ショップの皿が中心になる。


 つまり最初に働いた店のスタイルが、刷り込まれているということ。
 本人は気がついてないけれど、刷り込まれている。


 そう考えると私も刷り込まれていることに気がつきました。
 私の調理経験は、そこそこ高級な割烹と、魚河岸のマグロ屋です。
 出汁巻き卵だけで千円もする店がスタートだったので、
 プラスチックの皿は、絶対にありえない。
 食堂の蛍光灯もありえない。

 私は、食器と照明が、料理の味を変えてしまうことを、これでもかといういくらいに学んでいるから、メインの皿が五千円以下ということはありません。ニッコー・ナルミ・ノリタケなどのブランド物を必ず使っています。そうしないと御客様に失礼だという、そういう刷り込みをされている。また、味も変わってくるという刷り込みをうけている。


 まあ、そんなことは良いとして、それを考えると、うちの宿に一つ問題があることに気がつきました。うちの嫁さんです。うちの嫁さんは、調理場で働いたことが無い。そのために彼女は、私の作法を刷り込まれている。つまり、私という限界があったということですね。

「こりゃいかん」

と思った私は、慌てて嫁さんを高級料理店に連れて行くことにした。
まず嫁さんに高級料理を食べさせて、学ぶことからスタートしないとと思ったんです。


つづく

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ラベル:刷り込み
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2011年06月04日

老人たちの話し 8

老人たちの話し 8

 老人たちの話しをするとき、どうしても避けて通れないのが大正生まれの人たち。
 一言で言えば、この時代の生まれの人たちは、ダンディな人が多いですね。
 明治生まれが破天荒だとすれば、大正生まれは、おしゃれでダンディ。
 明治生まれに比べると理屈が通じやすいし学もある。
 うちの御客様にも大正生まれの人たちが時々来ますが、やはりダンディな人が多いですね。

 それはともかく、大正生まれともなると言葉遣いも、
 方言が無くなって共通語に近くなります。
 そして身なりも格好良くなる。
 腰の曲がった人も減ってくる。
 これが昭和一桁となると、怒りっぽい人が多いのに、
 大正生まれの老人たちは、オットリしています。
 オットリしているけれどダンディ。趣味をもっている。
 もちろん地方と都会では全く違いますけれど、やはりダンディかなあ。

 あと、面白いのは写真。
 大正生まれの老人たちは、自分の写真を撮っている。
 明治生まれだと、自分の子供の頃の写真を持ってない人が多い。

 で、大正生まれの老人たちに写真をみせてもらうと、若い頃に洋服を着ている。
 全員ではないけれど洋服を着ている。
 女性はスカートをはいている。
 それも、かなりファッショナブル。
 ところが、結婚すると和服になる。
 これが不思議。
 結婚後も洋服って女性は、ほんとうに少ない。

 洋服が一般的になるのは、もっと後なんですね。
 彼らの息子さん達が、洋服。
 で自分たちが和服。
 家族の写真が、洋服と和服がまじってたりする。

 嫁さんのお祖父ちゃんが大正生まれで、
 一度、北軽井沢ブルーベリーYGHにやってきたことがありました。
 車で北軽井沢を案内してあげると
「木のトンネルだ!」
 と喜んでいました。
 おしゃれなだけでなく、
 ポエムな、おじいちゃんでした。

 第二次大戦では、錦糸勲章をもらうくらい優秀な兵隊さんで、
 中国に、大勢の友人がいたそうです。
 夫婦げんかして、中国に帰ろうとしたこともあったらしい。
 大正生まれの老人たちには、こういう謎めいたところがあります。


つづく

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2011年06月03日

老人たちの話し 7

老人たちの話し 6

 モテキというドラマがありました。人間には、誰にでも一度はモテる時期があると言います。それを過ぎると急にモテなくなる。そういうものらしい。但し、モテキが5歳の頃なのか、50歳の頃なのか、25歳の頃なのかは、人それぞれらしい。





 この「モテキ」という現象、ある意味、真実をついてると思いますね。私の友人(男)に、すごくモテる奴がいたんですが、何故か彼女は、みんな5歳くらい年下だった。で、35歳くらいまでは、すごくモテモテだったんですが、45歳の現在、全くモテなくなってしまった。

 45歳だと、5歳年下は40歳。つまり、その世代の女性の大半は結婚してるか、結婚をあきらめてマンションを買っているかですから、対象となる5歳年下の女性そのものが少なくなっているからモテなくなる。つまりモテキは終わってしまっているわけです。

 高校時代に、なぜか先輩にだけモテる男がいましたが、高校3年生になると、バッタリもてなくなってしまった。こういうケースもある。やはり、人には、それぞれのモテキがあるみたいです。カップルになるための相性というものがあるんですよ。それがモテキを形成するための重要な要件となる。


 ここからが本題です。


 実は、若者と老人たちとの相性というのも、ある気がします。
 というのも私は、明治生まれの人と相性が良かったからです。
 明治生まれと、大正ひとけた生まれでは、
 同じ老人でも気質がまるで違っていたからです。
 これが大正二けた、昭和ひとけたになると、まるで違ってくる。


 明治生まれの老婆には、字の書けない人が多い。スミとか、トメという名前の老婆が多いのも、この世代なんです。そして、必ず兄弟が十人以上いる。後妻の子供と、前妻の子供でわかれていたりする。

 私の祖母の名前も「スミ」でした。
 そして明治生まれでした。
 祖母は、大勢の兄弟の中で、
 学校に行かず子守ばかりしていたために字が書けなかった。
 しかし、決して無教養であったわけではなく、
 むしろ今の高校生より、ものを知っていたと思います。

 で、私が二十歳の頃、あれは1981年頃のことです。ある町工場で雑用のアルバイトをしたんです。そこに明治生まれの老人が働いていて、なんだか良く分からないけれど、すごい職人だった。私は、その老人から、とても可愛がられたんですね。逆に昭和生まれの専務には、ひどく嫌われたんですが、明治生まれの職人さんには、ものすごく可愛がられてしまった。





 で、明治生まれの職人さんのそばで、ずっと働いていた。私は、好奇心いっぱいで、老職人さんの仕事をじーっと見る。見ながら、休み時間に見よう見まねで、真似をしたりする。それを年老いた老職人が、目を細めながら、時たま禅問答みたいなことを言う。

「肘だ」
「え? 肘って、どういうことですか?」

 老職人は、ニヤニヤ笑うだけで、それ以上答えてくれない。仕方ないので、休憩が終わった後に、ジーッと盗み見るわけですが、わけが分からなくて、首をかしげてしまう。それをまた老職人は、ニヤニヤ笑う。そんな毎日なんですが、そういう現場を昭和一桁生まれの人に見つかったら、たいへんです。怒鳴られ蹴られてしまう。

「何ぼけーっと見てるんだ! さっさと働け」

と雷をおとします。彼らは、働いてるふりでもいいから、忙しそうに動いてないと機嫌が悪い。もちろん明治生まれの老職人は助けてくれません。笑いながら見ているだけ。しかし、時々助けてくれることもある。怒られてる最中に
「たばこ買ってきてくれ」
と用事を言いつけてくれる。私は、よろこび勇んでタバコを買いに行きました。





 ちなみに、この老職人たちは、その世界では人間国宝みたいな人だったらしく、造のエンジン部品をつくっていました。当然のことながら造船所や大きな工場に出張に行くことが多い。役立たずだった私もお供するのですが、通用門に入るときなど、名前を書くときに必ず私が代筆しました。

現場では、私は役立たずなので、私の仕事は、この代筆くらいなもんです。代筆だけの仕事で、1万円の日給はもらいにくいので、ある日、アルバイトを辞めることを決意し、老職人にうちあけました。すると驚くことに老職人は、こう言ってきたのです。

「困ったな、俺は字が書けないんだよ。また新しく別の奴をさがさないとな」
「・・・・・」

 最初、冗談かと思いました。
 難しい図面を読める人が字が書けないわけがない。
 新聞だって読んでるし、難しい計算もバッとこなす。
 だいたい、人間国宝といわれている人が、字が書けないわけが無い。

 しかし、字が書けなかったのは本当だった。
 読めても書けなかった。
 文字を書かせると書き順がデタラメだった。
 あきらかに学校教育をうけてない。
 しかし、文盲というわけではない。
 逆に凄いレベルの知性をもっている。
 なのに何故?

「むかしはよ、学校に行かなくても本は読めたのさ。横に小さなカナをふってあったからな」
「そういう問題ですか?」
「ははははは」

 老職人は言います。

「そうか、辞めるのか。おめーは見込みあると思ってたんだがな。若い奴には、珍しく、おれの仕事を盗もうとしてたからな」
「あれは、好奇心というか、なんというか」
「他の奴はよ、専務の顔色をみてばかりなのにな」
「・・・・」
「専務は、動く奴が好きなのよ。働く奴よりもな。人偏(にんべん)は、いらねえんだ」
「でも、私は、まだ働けてせん」
「そう簡単に働けるようになってたまるかってーの」

 この後も、この明治生まれの老人には驚かされることばかり続いた。
 明治生まれの老人の中には、このような破天荒な人が多い。
 今の価値基準では、計れきれない。

つづく

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2011年06月02日

老人たちの話し 6

老人たちの話し 6

 佐渡の北片辺のことを書いているうちに、懐かしくなってインターネットで北片辺を調べてみました。今は、どんな状況なのかと。で、写真をみつけました。

62kat-12.jpg

 もう無残としか言いようがないです。
 美しかった北片辺の風景は、もうありません。
 海岸は、堤防とテトラポットにかわってしまっている。
 まあ、仕方ないことなんでしょうね。

 Googleマップでも調べてみましたが、昔あった道もなくなっている。かわりに巨大な橋と巨大なトンネルになっている。昔は、正面から車が来ると、どっちかがバックしなければならなかった。第一、島を一周する道路が無かった。だから交通手段は、バスというより船だったところが多かった。

 1日1便の両津行きのバスが出ている。そういう場所も多かった。そのために佐渡は、昔の登山ガイドに載っていた。登山道が載っていたのではなく、島の海岸線のルートが載っていた。そのせいか自動車の通行できない僻地なのに旅館は多かった。しかも江戸時代から続いている老舗の旅館も多かった。戸数が三十くらいしかない集落に旅館が三軒ということも珍しくなかった。そういう意味では、僻地だった頃の佐渡島の方が、今より栄えていたのかもしれない。





 前にも言いましたが、私は4歳になると、母親と別れ、父親と祖母のもとに引き取られます。佐渡の北片辺という土地から離れ、佐渡の泉というところに住むことになります。ここは、佐渡にしては都会だったので、北片辺のような風景は無かったのですが、やはり鍵はなく、いろんな人が家に出入りしていました。六畳と四畳半と土間の小さな借家だったのに、いろんな人が出入りしていた。

 その中の一人に、とても仲がよかったおじさんがいましたが、病気になり死んでしまった。何でも731部隊の将校だったらしく、身元がバレるのを嫌がって、病気になっても病院に入院すること拒んだために病死してしまった。

 まあ、そんなことは、どうでも良いのですが、私は父親と祖母によく怒られましたから、新しい環境になじめませんでした。そういう状況の中で、北片辺から老人たちが、よく遊びに来てくれました。

 私は、北片辺の人たちに、よほど可愛がられたみたいです。親戚でもないのに、いろんな人たちが次々とやってきた。そして私の顔をみて帰っていった。そのうち北片辺の人たちは、当時、高価だった軽トラを買って、みんなで遊びに来ました。休みになると私を拉致するように北片辺に連れ帰ったりもしました。このように北片辺との交流がつつきました。

 こういう子供時代をおくると、街中で老人を見ると無性に涙が出てくるようになる。祖母とは、口喧嘩が絶えないのに、見知らぬ老人に涙が出てくる。こういう条件反射が、二十歳くらいになるまで続きました。

 一般的に可愛がられるという行為は、「甘え」の原因を作ると言われます。確かに原因にはなりますが、私は、決して悪いことだとは思いません。そういう記憶は、大人になって、ギリギリのところで人間を人情深くする。つまり人間を性善説にしてしまうと思うからです。

 むしろ人に甘えることを知らないまま大人になった方が怖い気がします。「甘え」を知らない子供の方が、大人になってから凶暴になる可能性がある。かといって、無制限の甘えは、人間を駄目にする。ここが難しいところですね。





 以前、9歳のお子さんと、お母さんが、スノーシュー体験をしに北軽井沢ブルーベリーYGHに泊まりに来ました。土井君がいないので、私がガイドをしました。最初は、真面目にガイドをしていたのですが、9歳の子が、あまりにも甘えん坊なので、途中で無茶苦茶あそんでしまった。雪をかけて埋めてしまったり、母親がみてないところでポカリと叩いたり、漫画見ながらラーメンを食べてると「行儀わるいな」と鼻をつまんだり。どんどん距離を縮めたら、ものすごく仲良くなってしまった。

 で、草津ユースホステルにチェックインするために、お別れすることになったのですが、
「一緒に草津ユースホステルに行こう!」
と駄々をこねはじめた。

 お母さんは大爆笑です。
 9歳のお子さんは、
 私が宿屋のオーナーであることを忘れてしまっていた。
 そのくらいに仲良くなっていた。

 けれど私は、単に甘やかしただけではない。マナー違反には何度もポカリと頭を叩いている。そのうえで一緒に笑い転げながら雪遊びしている。甘えるところは甘えさせている。これは、かって北片辺の老人たちが、私にしてくれたことを、9歳の子供さんにしただけなんですね。しかし、具体的に、どのように接したか、というのは言葉では説明しにくい。

 こういうものは、世代を超えて体験で受け継ぐしか無い。
 逆に言うと、体験で伝えられなければ、
 終わってしまう。

つづく

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2011年06月01日

老人たちの話し 5

老人たちの話し 5

ちょっと脱線します。
ベビーシッターについて御本人から面白いコメントがついたもので。

「マネージャーさん! お金持ちでないとベビーシッターを雇えないんじゃなくて、他人が自分の家で一緒に住むと言う形が日本では感覚的に浸透しにくいんじゃないかっていったんですよ〜。場所の問題もあるし。でも、感覚ってことであればマネージャーさんの子ども時代のお話や、そういえば私の母が子どもだった頃の家には色んな人がいたって話も思い出して、あ!と思ったんです。やっぱり核家族化してきてから今の感覚になってきたのかな」


昔は、ふつーに他人が家に住んでましたからね。
幼児の私と母親は、ふつーに他人の家に住んでいたし、
そこには、村の年寄りをはじめとして、
大勢の子供たちがふつうーに出入りしてました。

もちろん鍵なんかありゃしない。
どこの家にも全く無かったと思います。
泥棒がいたら入り放題!





 この風景が、今の人には分かりにくいと思いますから、
 もう少し具体的に書いておきます。
 でないと昔の佐渡島の風景を知る者がいなくなってしまう。
 佐渡島民だって、知らない人が多いと思います。


 私が幼児の時に御世話になった家には、いろんな人が自由に出入りしていました。それこそ家族みたいにです。御客さんとしてではありません。だから自由に出入りし、コタツに入って温まっていても、菓子が出るわけでも、茶が出るわけでも無い。ふつーに世間話するだけです。家族に菓子や御茶を出さないのと一緒です。


 そこのおばさんと買い物に行って帰ってくると、玄関に杖がある。
 すると
「◆◆のバアがきたな」
と言う。

 杖の形で、これは◆◆のバア。これは◇◇のバア。と、一発でわかる。
 下駄や草履ではわからない。
 留守中に◆◆のバアが、来たのですが、
 買い物で留守だったので、勝手に上がり込んでコタツにあたっていたわけです。
 全ての家に鍵が無いから、自由に上がることができたんですね。

 で、コタツにしても、豆炭コタツなので、朝にセットしたら夜まで暖かい。電気コタツのように買い物の時に電機を切る必要も無かったんです。ちなみにコタツは掘りコタツです。いろんな人が出入りするので、堀コタツでないと、足が邪魔になって大勢が入れない。もちろんストーブなんてものはない。あっても囲炉裏・火鉢だけです。

 家に入ると◆◆のバアが、勝手に堀コタツに入って待っていました。
 今なら「何の用?」と聞くことになるのですが、
 当時は、用がある方が珍しい。
 用が無くて勝手に入ってくるケースが多い。

 で、おばさんは、勝手に家の仕事をはじめてしまう。
 私は、◆◆のバアとコタツで遊び始めます。
 こういうところも、下宿先のおばさんにとって、
 ◆◆のバアの存在はありがたかったと思います。
 ◆◆のバアにしてみたら、単に小さい子供と遊びにきただけでしょうが。





 ちなみに、どうして「◆◆のバア」と言うかと言いますと、昔の佐渡島では、名前で呼ぶことは少ないんです。自分の名前が重要になってくるのは、小学校に入ってからであって、いわゆる西洋文明にふれるまでは、名前というものは重要ではなかった。だから、みんな屋号でよんでいたんです。

 ◆◆というのは、屋号です。
 ◆◆の父ちゃんといえば、◆◆の主人のこと。
 その息子は、◆◆の跡取り。
 その母親は、◆◆のバア。

 で、佐藤智子なんて名前では呼ばない。屋号で呼ぶ。北軽井沢ブルーベリーの奥さん、北軽井沢ブルーベリーのバア。という感じで呼ぶんです。それがめんどくさい時には、「バア」とか「バアよ」という言い方をする。そうしないと集落全体が「佐藤」だったりするのでややっこしい。

 で、私が下宿していた家と、◆◆の家は、家族みたいにつきあっていて、共同で軽トラなんかを買っている。そして一緒に山仕事をしたりしている。そういう家が、何軒もあって、田植えとか稲刈りとか漁業で共同作業をするんです。

 しかし、共同作業をしつつも分業もする。例えば、私が下宿していた家では、男手が無かったために洋裁をしていました。毎日、村の人の服を作っていた。電気アイロンが無かったので、囲炉裏の炭なんかでアイロンを温めながら洋裁をしていた。ユニクロなんか無かった時代ですから、小さな子供服なんかは、みんな手作りです。

 思い出してみると、そこには原始共産制度が、しっかり生きていたような気がする。

 ちなみに、◆◆の家と、下宿していた家は、微妙に離れています。
 下宿していた家は、海に接しています。
 今は、堤防やテトラポットで台無しになっていますが、
 昔は綺麗な海と接していました。

 家の構造は、砂浜−船小屋−小さな畑−蔵−民家 という感じで細長ーい土地に、いろんな建物があって、海からの風や波を防ぐ構造になっていました。もちろん海側に窓なんかありません。窓は全て山側をむいていました。土地が海に向かって細長いのは、風と波をふせぐためだったんです。





 で、◆◆の家は、山側にあったのです。つまり漁師の家と、そうでない家が仲がよかった。親戚でも何でも無いのに仲がよかった。逆に漁師の家同士、つまり隣近所が仲がよかった記憶が無いです。あるいは仲がよかったのかもしれませんが、私の記憶だと、漁師同士が家族のように仲良くしていたというケースは覚えてない。それから察するに、海山で、お互いに助け合って生きていたのかもしれない。

 あと、佐渡で自動車を買い始めたのが、こういう僻地の農家でした。サラリーマンよりも、農家の方が車を先に買っているんです。しかも軽トラ。それを何軒か共同で買っている。耕耘機・トラクターなんかも共同で買って一緒に仕事をしている。しかし、買う前も一緒にしていた。共同で一斉に田植えや稲刈りをしていた。

 田畑は、山にあります。民家のある海から遠いですから、村から大人たちはいなくなります。そうなると腰の曲がった老人たちの出番です。三歳だった私は、真っ暗になるまで腰の曲がった老婆に引き取られます。小学校の教師だった私の母も、真っ暗になるまで小学校で働いていますから、私は、真っ暗になるまで老人と一緒の生活です。逆に言うと暗くなると母親が迎えがくることを体験で知っていた。

「真っ暗」

というのがポイントですね。
暗くなっても簡単に電気を付けなかったんですね。
で、暗闇な夜道を母親と二人して帰っていった。

 道には、たくさんの御地蔵さんがあったのを覚えています。なぜ覚えているかと言いますと、御地蔵さんは、いつも真っ赤な服をきていて、とても鮮やかだったからです。野ざらしなのに、いつも綺麗な真っ赤な服を着ていた。あれは、誰が着せ替えていたんだろう?

 外灯なんか無い時代ですから、真っ赤な服を着た御地蔵さんは、月あかりでみています。
 海というのは、海が月光を反射して、夜でも明るいんですね。
 ちなみに、この北片辺は、「民話・夕鶴」の発祥の地です。


つづく

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2011年05月31日

老人たちの話し 4

老人たちの話し 4

高校3年生の時(1979年11月)、あるテレビドラマを見ました。
私の人生が変わってしまったのは、そのテレビドラマからです。
そのテレビドラマには、素晴らしい曲が流れていました。
英語の曲でした。
日本語にすると、こんな歌詞です。


 大地に日は昇る。
 一日がやってきた。
 頭上には太陽が輝いている。

「けれど、その太陽は、
 どのくらい、そこにいるのだろうか?」

 地平線から日が昇る。
 大地は、日光を食べ尽くす。
 一瞬で食べ尽くす。
 そして太陽は西の方に沈んでいく。



作曲:Yukihide Takekawa
作詞:Yoko Narahashi

The land of the rising sun
Has come to see the day 
The sun is overhead
But how long will this sun stay

The sun rose over the horizon
And the land ate up its rays
It ate too much too fast
And it took on western ways

It's burning bright above
But it's burning up all the land
And the sun will set in time
And rise on a vast new land

The sun is setting on the West
The sun is rising on the East


YouTubeで、その曲を聞いてみてください。



ゴダイゴの曲でした。

「太陽は、いつまでも頭上に無い。
 いつか西に沈んでいく」

この歌詞の本質を一番わかっているのが老人たちかもしれません。
「少年老いやすく、学なりがたし」
とは、よく言ったものなのです。

 それはともかくとして、1979年11月に私は『男たちの旅路/車輪の一歩』というドラマをみました。まだ見たことがない人は、ぜひ見ていただきたいです。私の友人の多くは、私に無理矢理に見させられています。昔は、定期的に上映会をひらいていたからです。

 『男たちの旅路』とは、どんなドラマかと言いますと、過去を背負った特攻隊の生き残り(鶴田浩二)と、チャラチャラした若者(水谷豊)のぶつかり合いのドラマです。特攻隊の生き残り(鶴田浩二)は、戦争を知らない若者が大嫌い。逆に若者(水谷豊)は、特攻隊くずれの高圧的な男(鶴田浩二)に反発する。そういうドラマなのです。





 まあ、そんなことはいいとして、このドラマに感動した私は、上京してすぐに警備会社のアルバイトをはじめました。警備会社には、このドラマにでてくるような吉岡指令補(鶴田浩二)のような人間がいるのではないかと思ったからです。今にして思うと、我ながら、ずいぶん単細胞な頭だなあと思いますが、驚くべき事に、ドラマに出てくるような警備員に、吉岡指令補(鶴田浩二)のような警備員に会うことができました。

 当時、不況でしたから警備会社には、いろんな人たちがいました。会社の重役だった人までいました。40万円の失業保険をもらっていた人もいたんです。しかし、会社が倒産して働き口が無く、警備会社に入ってきた元大企業の重役さんなんかがいたりしました。大工さんとか、元特攻隊員の生き残りとか、いろんな人たちがいました。私は、そういう人たちから、敬礼の仕方や、答礼のしかたを習い、ビル警備のアルバイトをしました。深夜のビルを守る仕事です。

 当然のことながら夜は長いですから、世間話に花が咲きます。まだ世間知らずの18歳だった私は、年輩の警備員さんのお話が面白くて、いろいろな人生のお話を伺いました。もちろん私が、聞き役です。なにせ、私には語る人生が無い。しかし、諸先輩には、まぶしいくらいの人生経験がある。だから、話が面白くてたまらない。だから話を聞いてばかりいました。







 しだいに私は、みんなから可愛がられるようになり、
 居心地のよい職場になってきました。
 ここで一生を暮らすのもいいなと。

 しかし、ある日のこと。
 諸先輩一同が、ズラリとあらわれて私に、こう言いました。

「警備員をやめなさい」
「いい若い者がする仕事では無い」

 これには参った。私は、この警備会社に就職してもいいかなと思ってた矢先だったからです。しかし、私を可愛がってくれた諸先輩達は、真剣に私のことを心配してくれてるようなのです。

「お前は、何かやりたいことはないのか?」
「警備会社に入って、いろんな人生をみたいんです」
「どうして、そう思った?」
「『男たちの旅路』というドラマを見て感動したからです」
「あれは、ドラマだぞ。フィクションだ。作り話に感動してどうなる?」
「でも感動したんです」
「・・・・・」
「・・・・・」
「あのなあ、お前を感動させたのは、警備会社じゃない。山田太一という作家が、考え出した脚本だ」
「山田太一?」
「なんだ、そんなことも知らなかったのか? 日本で最も有名なシナリオライターだよ。この人が作った警備員の話が、大勢の視聴者を感動させたんであって、実際の警備会社は何一つ関わってないんだよ。お前は、警備会社に感動したんでは無くて、山田太一に感動したんだ」
「・・・・・・」
「お前には、将来がある。いい若いもんが、最初から警備員をめざしてはだめだ。もっと可能性にチャレンジしろ。真面目に学校に行って、たかみをめざせ。警備員になるのは会社が倒産してからかも事業に失敗してからで良い」

 特に倒産した製紙会社の元重役だった人が、熱弁をふるって私の警備会社就職に反対しました。私は、この人を尊敬していましたから、その忠告を聞き入れました。そして図書館に行き、山田太一氏の本(脚本)をかたっぱしから読破することにしました。で、読み始めたとたんに体内に電流が走りました。どのドラマも私が大好きだったドラマだったからです。





 当時はインターネットもパソコンもありません。そのうえ私は田舎に住んでましたから、テレビ局は民放が一局しかなかった。テレビを見るにしても、脚本家の名前なんか一々調べはしなかったから、山田太一なんて名前は知らなかった。にもかかわらず、私が好きだったテレビドラマの大半が山田太一さんの作品だった。私は自分でも知らないうちに山田太一ワールドを好んでいたのです。

 特に『高原へいらっしゃい』が好きだった。

 中学2年生の時に見て感動し、将来、自分もホテルマンになりたいと思っていました。中学校の時は、山田太一さんのドラマでホテルマンになりたいと思ったし、高校の時は、山田太一さんのドラマで警備員になりたいと思って上京しました。いまにしてみれば、えらい単細胞な話ですが、結果として私は、ユースホステルのマネージャーになっています。『男たちの旅路』の世界ではなく、『高原へいらっしゃい』の世界を選んだわけです。



つづく

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2011年05月30日

老人たちの話し 3

老人たちの話し 3

 先日、1年ぶりに友人が、北軽井沢ブルーベリーYGHに遊びに来てくれました。
 彼女は、ワーキングビザで1年間フランスに滞在していました。
 仕事は、ベビーシッターです。
 これは、その彼女との会話

「ベビーシッターか、いい制度だね。日本も、その制度を活用すれば良いのに」
「いや、フランスだってベビーシッターを雇える家は少ないです。フランスでも、お金持ちでないとベビーシッターなんか

、とてもじゃないけど雇えません」
「はあ? それ変だよ」
「?」
「言っちゃなんだけれど、俺は幼児の頃にベビーシッターの御世話になって育ったんだから」
「あ!」

 古いつきあいなので、彼女は私の幼少の頃を知っています。私がベビーシッター(村の老人たち)の御世話になって育ったことを知っていたので「あ!」と声をあげたのです。私は、今年で五十歳になりますが、私の世代の佐渡島の人間は、多かれ少なかれベビーシッターの御世話になっています。子供を近所どうしで預けあったりしているのです。そして、その時の話題が、ずーっと後になってでてくるのです。





 例えば、私の弟は、近所に預けると、ワンワン泣いて手におえなかった。
 だから、こっそり逃げるように去って行った。
 それが、数年後に茶の間の話題になる。

 私の場合は、逆に近所の人と馴染んでしまい、
 嫌がることが少なかった。
 それが、数年後に茶の間の話題になる。

 私も弟も、こんなぐあいにベビーシッターを体験している。
 しかし、当時の私のうちの家庭は、
 金持ちどころか貧乏人もいいところだった。

 いや日本中が貧乏だった。
 だからベビーシッターといっても、
 時給を払ったかどうかは知らない。
 払ってなかったかもしれない。
 払う代わりに、店の品物を買ったりしたのかもしれない。
 これは今じゃ考えられないことかもしれない。

 あと、ベビーシッターの多くは老人だった。
 それも、よく話しをする老人だった。
 しかし、体力は無かったと思う。
 みんな、杖をついていた。

 今じゃ、杖をついている老人なんか見たことが無いけれど、
 昔は、老人の大半は腰が曲がっていた。
 杖無しでは歩けなかった。

 子供の頃から田畑で働いていたから四十歳を過ぎた頃から腰が曲がってしまっていたのだ。で、農閑期に温泉に行っていた。春までに温泉で曲がった腰を元に戻さないと、身体が壊れてしまうのだ。そういう次第なので、六十過ぎの老人たちは、みんな腰が曲がっていた。だからベビーシッターできるような体力は無い。腕力で子供を押さえつけることなど不可能なのです。

 で、彼らは、どういう技を使って子守をしたかというと、話術で子供たちを惹きつけるしか無かった。昔話・民話なんかがそうで、いくらでも「話」をもっていました。とはいっても、無限に話があるわけでは無い。同じような話を何度もするようになる。しかし、これが飽きない。古典落語のように飽きない。

 話は、昔話だけでは無い。「ひとりごと」も言う。つまり自分の人生のお話し。実は、これが一番面白かった。昔話よりも面白い。なにせ語り手が興奮して語るので、その熱気が伝わってくる。もちろん幼児には意味は分からない。でも何度も聞いているので、全て暗記してしまう。だから今でも全部覚えている。というか忘れられないのだ。

 例えば、シベリアの秘境の話。家を建てたら夏になると泥の中に沈んでしまった話。河で魚を捕るときに、爆弾を使って魚を気絶させて手づかみで捕まえた話。青森市の話。青森の床屋で働いていたら「父危篤」の電報がきて、大急ぎで佐渡に帰ったら嘘電報だったうえに見合い相手が待っていた話。そんな話を毎日のように聞かされた。というか、意味も分からずに面白がって聞いていた。





 年老いたベビーシッターたちは、こういう話をしながら私の子守をしつつ、
 竹細工なんかを作っていました。

 ちなみに、その竹細工は、役場の人が老人たちに作らせていた。
 役場が老人たちに竹細工を作らせて、どこかで販売していた。
 生活に困った老人たちを助けるためです。

 その役場の人と、四十年後(2003年)に佐渡島のドンテン山の
 山小屋(ドンテン山荘)でバッタリあったりもした。
 もちろん私は覚えてないし、初対面もいいところだったけれど、
 相手は私を知っていた。
 その時には、佐渡の図書館の館長だった。
 しかし、昔は、老人に竹細工を作らせる役場の担当者だった。


http://www.ryotsu.sado.jp/donden/


 話は脱線するが、佐渡島のドンテン山の山小屋は、日本一人気のある山小屋で、泊まることさえ難しい山小屋だった。私は地元のコネで泊めてもらった。客室ではなく、ピカピカの天文観測室に泊めてもらった。ちょうど、土井君も一緒だったが、彼は、例によってアルコール中毒の悪い癖がでてしまい、酒を飲み過ぎた土井君は、ピカピカの天文観測室でゲロを吐いた。

 偉大だったのは、ペンション「歩゚風里」のオーナーの三苫さん。
 すかさず、自分の手で土井君のゲロを受け止めた。

「宿がゲロまみれにしては、翌日に泊まる御客さんに迷惑がかかる」

と咄嗟にとった宿主らしい行動だった。
「歩゚風里」のオーナーの三苫さんは、私たちの間で英雄になった。
逆に地に落ちたのが土井君の評判。
しかし土井君の悪い癖は、あいかわらず治ってない。


つづく

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posted by マネージャー at 23:48| Comment(3) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月29日

老人たちの話し 2

老人たちの話し 2

 1970年(昭和45年)頃に母親と上京し東大病院で難聴の診察をうけました。
 私が小学2年生の時です。
 私は、この東大の大学病院の耳鼻科で嫌な体験をしました。





 東大病院は大きかった。
 患者も大勢いました。
 行列も凄かった。
 最初は、母親の付き添いで診察を受けましたが、検査は一人で受けさせられました。
 大勢が順番待ちで、部外者は列に並べなかったからです。

 で、一人で検査を受けるはめになりましたが、検査前に説明書を読まされました。
 しかし、読めない。
 難しい漢字が、いっぱい書いてあって読めない。
 せめてルビが振ってあれば、意味がつかめるのですが、それもないから読めない。
 小学2年生になったばかりの子供には

「高音」「低音」
「聴く」
「致します」
「御願いします」
「下さい」

という文字は強敵なのです。まだ習ってない。

http://www.jfecr.or.jp/kanji/sakuin.html

 例え文字を習っていても「致します」は読めない。
 読めたとしても意味を理解するのは難しい。
 どうして良いか、オロオロしているうちに、
 自分の番が来てしまった。
 そして病院の人が事務的に

「説明書は読みましたか?」

と怖い顔で聞いてくる。私は恐る恐る

「(読んだけれど)分かりませんでした」

と答えました。すると

「駄目じゃ無いの! 大勢の人が待ってるんだから無駄な時間をつかわせないで」

と、とりつくしまもなく

「きちんと読んでから来なさい」

と怒られて、もう一度、一番後に並ばせられました。

 もう反論というか、言い訳できる感じでは無かったです。
 私は列の最後でボーゼンとするしかなかった。
「きちんと読んでから来なさい」
と言われても、そもそも小学2年生に理解できる説明書でないわけですから、どうしようもない。

 しかし、そうこうしているうちに、また自分の番が近づいてくるんですが、分からないものは分からないですから、自分の番が近づいてくると、だんだん恐怖をおぼえてくる。幼かった自分は、怒られるのが嫌で、また最後尾にまわってしまった。で、超能力を使って説明書を解読しようとしていたのですが、解読できるわけが無い。どんな念力を使ったところで分からないものは分からない。





 これが大人なら隣の人に聞くなどの知恵が働くのですが、佐渡島の田舎から上京したばかりの小学2年生には無理な相談。だいたい昨日まで2階以上の建物を見たこともない子供なんです。エスカレーターも、エレベーターも、自動ドアも知らない土人として育った子供ですから、まわりにいる背広を着た東京の大人たちなんて、エイリアンぐらいにしか見えない。

 第一、私が困っていても、みんな無視している。
 こんな時、佐渡島の老人たちなら困っている子供がいたら
「どうしたの?」
 と聞いてくれるけれど、東京大学の病院に来ている大人たちは
 エイリアンみたいにムスッとしている。
 だから怖い。

 で、何時間も、もじもじしているうちに母親が
「遅いぞ、変だな」
と気がついて見に来ました。

 そして、母親の助けを借りて、ようやく説明書の意味を解読することができたんです。

 当時の東大病院は、一事が万事、こんな感じですから、いまだに私は東大医学部というものを信用していません。患者よりも、病院の都合を優先してできているという体験を小学2年生の時に刷り込まれてしまったからです。こういう病院が、正しい診療が出来るはずがないと、いまだに偏見をもっています。幼い頃に刷り込まれた体験は、この歳になっても残っている。


つづく

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posted by マネージャー at 00:20| Comment(3) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする