宿業は、休日が一番いそがしい。つまり息子が休みの日に遊びにいけない。特に土曜日は絶対に出かけることができない。ただし抜け穴もある。金曜日です。小学校が週休二日制なので、 金曜日の放課後から出かけることが可能。もちろん土曜日の朝には、朝早くから帰らなければならない。金曜日の午後三時に息子を小学校に迎えに行って、そのまま近場の温泉ホテルに泊まる。または、嫁さんの実家に遊びに行って土曜日の朝に戻ってくる。 これなら宿屋の私も息子と一緒に旅行ができる。
話は変わりますが、台風十九号の影響で、じゃらんや楽天で、復興割クーポンというもの発行されました。宿泊費の半額で泊まれるクーポンです。このクーポンは、それほど人気がなかったのか、何日すぎても売れ残っていたので、私たちが勉強のために使うことにしました。クーポンの期限は、二月二十八日(金)までです。で、二月二十八日に万座温泉聚楽にクーポンを使って予約したわけです。
ところが後日、二月二十八日(金)に、息子が入ってるスケート部の食事会を行うことになった。ダブルブッキングになった。私は、 最初に決まっていた万座温泉宿泊を優先するつもりでしたが、嫁さんは、スケート部の食事会を優先したいと言う。あれほどスケート部に息子を入れることに反対していたくせに、スケート部の食事会&六年生のお別れ会に出たいと言う。
観光協会の理事をやっている私としては、同業者の宿をキャンセルしたくない。しかし嫁さんは、スケート部の方を優先したいと言う。私にしたら、ありえないくらい非常識な発言をする。あまりに無茶苦茶な発言に私は激怒したのですが、とりあえず息子の意見を聞いてみたら、息子は万座温泉に泊まりたいと言う。けれどスケート部の部長(六年生)さんをとても尊敬しているという。あんな先輩になりたい とも言っている。
仕方ないと思った私は、万座温泉のホテル聚楽に理由を言って、宿泊日程を二週間前の二月十四日(金曜日)のバレンタインデーに変更してもらえないかとお願いしました。この日しか、都合がつけかなかったからです。ホテル側は快く変更のお願いを聞いてくれました。バレンタインデーですから、価格設定も違っているはずなのに、快く OK してくれたホテル聚楽には感謝です。
こうして二月十四日(金曜日)のバレンタインデーに、万座温泉聚楽に泊まったわけですが、私たちにはホテル聚楽に泊まるべく理由がありました 。何をかくそうホテル聚楽グループは、日本の温泉ホテル業のシステムをパターンを最初に作ったホテルだからです。夕食をバイキングにして、ダンスショーやマジックショーなどのイベントを取り入れて、
「遊びきれない温泉ホテル」
という・・・ホテルの中で娯楽が完結する昭和スタイルのホテルの先駆けを作ったのがホテル聚楽です。ホテル聚楽が最初であってその他のホテルは、その真似(まね)をしたと言っても過言ではありません。昭和の温泉ホテルのスタイルは、ホテル聚楽が開発したスタイル です。なので、この業界の人間ならホテル聚楽を知らない人はいないくらい有名です。
それともう一つ。ホテル聚楽グループを創設した社長は、県外に住む新潟県民なら知らない人はいません。私の出身地は新潟県なのですが、ホテル聚楽グループを作り上げた加藤清二郎は、長い間新潟県人会の代表を勤めており、三波春夫や小林幸子といった新潟県出身の歌手の後援者でもあります。
新潟県人会は、ホテルオークラ・大成建設・帝国劇場などを率いる大倉財閥の創設者、大倉喜八郎(新潟県新発田市出身)が作った組織です。歴代の会長は、大倉財閥の関係者たちでしたが、昭和三十九年から昭和五五年までの間は、ホテル聚楽グループを作った加藤清二郎が会長として活躍していました。
大正十三年、東京神田須田町に「須田町食堂」という洋食レストラン立ち上げた加藤清二郎は、戦前に一大外食チェーンを作った人で外食王と呼ばれたほどの有名人です。大正時代における日本の外食産業は屋台に毛の生えたような粗末なもので、みすぼらしい建物で食事を出しているところが多かったのですが、加藤清二郎は、あえてレストランを豪華な作りにし、当時としては、格安の値段で、カレー・シチュー・カツレツといった西洋料理を提供しました。
豪華なレストランなのに、徹底した薄利多売で頑張った。そのために大人気となり、人々が押し寄せました。 そして、あれよあれよという間に八十九店舗という大外食チェーンを展開しました。 その上、大学・デパート・官公庁などの給食事業にも手を出しました。しかし、第二次世界大戦の米軍の B 29による無差別爆撃によって、日本は焼け野原になり、所有していたレストランの大半が消失してしまいました。戦後に残ったのは、たったの五軒だったといいます。
昭和三十一年(1956)、水上温泉旅館湯原荘を買収して水上聚楽として開業。ホテル聚楽はここから始まりますが、本格的なスタートは、昭和三十七年(1962)に 飯坂温泉旅館角屋を買収してからです。飯坂ホテル聚楽・水上ホテル聚楽の二看板がそろってから本格的なリゾートホテルとしてスタート。
食事のバイキング方式や、外国人ダンサーによるショーや、世界各地のマジックなどの興業をスタートさせました。これらは、全て聚楽が業界初ではじめたことです。上越線上野〜新潟間にて「列車食堂」開業。 また、上野駅の目の前(今は無き西郷会館)にレストラン聚楽第(じゅらくだい)をオープンさせ、旅のスタートから列車の中。そして終点まで聚楽づくめというラインまで作ってしまった。
もちろんお金がたくさんかかります。その資金の大半は地方銀行から調達しなければならない。地方銀行(または地方に支店のある都市銀行)でないと金を貸してくれ無いからです。当然のことながら事業計画を銀行に提出するわけですが、 その事業計画は稼働率70%をもとにたてられていた。そうしないと資金が集まらない。
しかし、そんな事業計画が通るわけがない。稼働率70%にするためには、週末どころか平日も満室にしなければいけない。けれど、そんなことは不可能です。不可能だから銀行はうんと言わなかった。しかし、聚楽グループは、その銀行にうんと言わしてしまった。そのからくりはこうです。
昭和三十年から昭和五十年頃までは、日本には大型のディスカウントショップがありませんでした。カラーテレビにしても農機具にしても傘下の販売店に入って買わなければならなかった。東芝なら東芝の販売店。松下の販売店。そこでないと 買えなかった。で、それらの販売店が、激烈に競争していた。メーカー側は、それらの販売店に対して、マージンをつけた。例えばからテレビを一台売ると、 どこそこの温泉旅館に招待した。ホテル聚楽グループは、ここに目をつけた。それらの招待客を取り込めば平日が満室になる。問題はどうやって取り込むかですが、聚楽グループは、第二次世界大戦中のアメリカ軍を真似した。
加藤清二郎は、米軍が B 29を使って行った無差別爆撃によって東京が焦土となり、自分の外食チェーンを壊滅させられたわけですが、その方法に感心していた。戦争に勝つには空爆が必要。地上軍の戦いだけでは勝てない。空からの支援がないと勝てない。だから徹底した空爆を行ってから地上軍を前進させなければ負ける。空爆が足りないと、いくら地上軍が頑張っても勝てない・・・と考えた。
ホテルの営業にしても一緒ではないかと考えた。
ホテル業にも空爆が必要であると・・・。
ホテル業界において空爆とは、宣伝のことです。
いくら営業が頑張っても知名度がなければ、お客さんは取れない。
なので徹底した空爆。
つまり宣伝を行う。
それがあって初めて営業成績が上がるというわけです。
若い人は知らないかもしれませんが、四十代以上の年代であれば、 ホテル聚楽の テレビコマーシャルを知らない人はいません。マリリンモンローのそっくりさんが
「聚楽よ」
とカメラ目線で叫んでいた テレビコマーシャルを何度聞かされたことか。
昭和時代の宣伝
平成・令和時代の宣伝
当時、このCMに喜んだのは、大人たちよりも子供たちです。マリリンモンローのそっくりさんが、 下から吹き上げる風にスカートをひらひらさせて「聚楽よ」と色っぽくささやく姿を、子供たちが学校でものまねを良くしたことです。聚楽の CM は、まず子供たちから広まっていきました。農村から漁村そして山村。どんな僻地にも、聚楽の CM が届いていた。
そんな田舎に聚楽グループの営業がくると、 漁業組合・農協・青年団・地元商工会などの反応がいい。営業取りやすいのです。また、農機具メーカー・家電メーカーなども、 田舎の販売店が行きたがってるらしいと聞いて「聚楽を使ってみるか」ということになる。 こうしてホテル聚楽グループの売り上げはどんどん上がっていくわけです。
これが昭和時代に一世風靡(ふうび)したホテル聚楽グループの営業スタイルです。この聚楽スタイルは、草津・鬼怒川・伊豆など全国の温泉ホテルで真似され、昭和の温泉ホテルのスタンダードとなりました。
前置きがずいぶん長くなりましたが、ここから本題に入ります。
私の知る限り万座温泉のホテル聚楽は、いわゆるホテル聚楽グループと全く違うスタイルだと聞いていました。一体どんなスタイルなんだろう?という疑問は、ずっと昔から思っていました。万座温泉には、日進館という温泉ホテルがありますが、 こちらの方が、むしろホテル聚楽グループの営業スタイルに近いと聞いています。
万座のホテル聚楽は、ネイチャーウォッチングをしていたり高山植物や野鳥の観察・スノーシューツアーを行ったり、ファミリーに優しい対応していると聞いています。ホテル聚楽グループと言うより、むしろうちの宿(北軽井沢ブルーベリーYGH)のスタイルに近い風の噂で聞いている。
一体どんなスタイルなんだろう?
たくさんの噂を聞いているうちに、実際に泊まってみたくなった。それで、色々あって、二月の十四日(金曜日)のバレンタインデーに家族で泊まってみました。そして実際に宿泊してみると、色々なことに驚かされました。
まず最初に驚いたのは、客室にタブレットが置いてあること。 wi-fi が繋がるというのは、どこのホテルでも当たり前のことですが、タブレットまで置いてある。それが無料で使えるというのは珍しいのではないでしょうか?
客室は和室ですけれど、ベッドも置いてある。布団で寝ることもできるし、ベッドで寝ることもできる。浴衣も客室に置いてありますが、廊下にも予備の浴衣が置いてあります。サイズが合わなければ、廊下に置いてある予備の浴衣を自由に使えます。風呂場は、とてもいい眺めになっています。万座温泉で一番の展望でしょう。
ありがたいことに、お風呂場にカメラを持って撮影できる時間帯があります。インスタやフェイスブックに画像アップしたい人たちは、その時間帯にカメラを持って見学に行くことができます。 この万座温泉ホテル聚楽では、外人によるダンスショーとか、マジックショーみたいなものはありません。その代わりに、温泉でゆっくりくつろげるような気配りが、色々とあります。
この手の温泉ホテルにありがちな、 コインマッサージ機が、全て無料なことや、 湯上りにのんびりできるようなリクライニングチェアや血圧計や図書室もあります。星空観察のための星図形も置いてありました。日本酒の利き酒もやっているようです。
料理はバイキングでしたが、全体的に味が薄めで美味しかったです。四十歳以上の人間が喜ぶような味付けでした。お酒は千六百円で飲み放題だったので飲み放題にしたのですが、元が取れませんでした。大ジョッキ二杯飲んだら、もうフラフラになってしまった。五十九歳ともなると、めっきりアルコールに弱くなってくる。
なので、食後は、何度も何度も温泉に入りました。万座温泉は、世界で一番硫黄分 のおおい温泉でメタボに効くと言われていますが、その中でもホテル聚楽の源泉が一番硫黄分多いことで有名です。地上最強の温泉です。
地元嬬恋村の人たちは、草津温泉よりも万座温泉をこよなく愛します。万座温泉に通って、病気を治したという人が数多くいるからです。名前を伏せておきますが、近郊のとあるユースホステルのオーナーが、 万座温泉に通いつめて癌を克服した と言ってました。その方は、 某大学の医学部の元教授だったと聞いています。 そういう実例を数多く耳にしてきたわけですから、私は温泉に入っては出て、温泉に入っては出ました。
そのたびに睡魔が襲ってきます。
これは万座温泉の特徴です。
とても眠くなる。
眠くなるたびに、マッサージ室で無料のマッサージを受け、目が冴えてきたら温泉に入りました。満天の星空のもとに、冬のダイヤモンドを眺め、シリウスとオリオンの移動を確かめながら、温泉に入っては出て入っては出るの繰り返しをしました。とても贅沢な一日でした。 おかげで硫黄の匂いが一週間ぐらい体から取れなかった。
けれど、すごくリフレッシュされた。
体の調子がよくなった。
やはり万座温泉はいい。
温泉そのものがいい。
こういう温泉には、外国人ダンサーによるショーや、世界各地のマジックなどの興業なんかいらないなあ・・・。
酒もほどほどでいい。
満天の星と、無料のマッサージ器があれば、それでいいや・・・・。
つづく。
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