2024年12月22日

土井健次との邂逅

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 土井健二という男を語る前にバブル時代というものを説明したい。日本という国が狂ったように経済成長をしていって、それこそ世界を制服しかねないような勢いだった。日本が一人勝ちしていた時代であり、日本企業には日の出の勢いがあった。

 当時の会社は卒業予定の学生を確保するために懸命だった。人材がいれば、いくらでも会社が伸びる時代でもあった。就職内定者をハワイとかロサンゼルスに連れて行ってよそに取られないように隔離するという時代でもあった。就職説明会には、数万円もするコース料理がでたりした。

 男たちは恋人のためにクリスマスイブに1泊何十万もするホテルを予約していた。そこら中に金が有り余っていた。

 今から考えると信じられないことなのだが卒業旅行に大学生たちが海外に出かける時代でもあった。3月にフランスのパリなんかを旅すると日本人の学生たちがうじゃうじゃといた。石を投げると日本人に当たるどころか、投げようとした瞬間に手が日本人学生に当たるレベルだった。ヨーロッパのめぼしい観光地は日本人学生に占拠されていた。彼らの旅行資金は、どこから湧いて出たのだろうか?今考えても不思議でならない。

 そんな時代に私は、事業(映画製作)に失敗し、家一軒買えるほどの借金を抱えてしまった。まだ27歳だった。しかし、そんな失敗も簡単に取り返せるのがバブル時代だった。あっという間に借金を返済したうえに、そこそこの貯金を得た。その金で世界放浪の旅にでるのだが、それについては後述する。

 人手不足だった当時は、働く現場に若い人たちが不足していた。日本中の企業が人材確保のために何百万も何千万も使っていたことはすでに述べた。就職説明会に来た学生たちに何万円もする弁当を出したり、高級寿司店に連れて行ったり、研修と称して海外旅行に連れて行ったりしていた。たかだか就職説明会に、そんなことをした時代があったのだ。なぜ私が、それを知ってるかというと、当時、新卒学生の就職に関連する仕事(人材確保に関する映像の仕事)をしていたからである。

 まあ、そんなことは、どうでもいいとして、そういう時代であるからこそ、若者たちは、中小企業や、肉体労働と言った職業に就きたがらなかった。

 そこで困ったのが、どうしても見てくれのよい若者たちを必要とするサービス業だった。特に困ったのが警備員だった。何故ならば昭和天皇の寿命が尽きかけていたからだ。世界中の各国要人たちが昭和天皇の葬儀のために日本に集る必用があったのだ。しかし昭和天皇はしぶとかった。なかなか死ななかった。死ぬのは確実だったのだが、医療チームは懸命に延命治療をしていた。

 しかし死はいつかやってくる。世界中の政府機関は、世界最大の葬儀となる皇室の葬儀のために準備で大わらわとなった。なにしろ当時の日本は世界第二位の経済力と、世界第四位の軍事力をもっていた。ジャパンアズナンバーワンと言われ、世界最古の皇室を誇った皇族の大葬儀が目の前に迫っていたのだ。その準備のために世界中の政府が、都内の一流ホテルを、かたっぱしから貸切った。そしてホテルやボディーガードの警備員の需要が爆増した。しかし昭和天皇は中々死ななかった。都内のホテル業界は、1年近く人材難に苦しんだ。

 当時だって警備員の人材はいた。しかし、VIPが宿泊する予定の高級ホテルとしては、見てくれの良い若い人が必要だった。豪華なホテルには道路工事で日焼けしたオッサン警備員はNGだったのだ。しかし、若い人は一流企業が確保していたので警備会社に若い見てくれの良い人材は集まらなかった。

 で、私のところに話がまわってきていた。で、幸か不幸か私には、そういう人材のアテがあった。役者を目指している見栄えの良い若者(友人)を沢山かかえていたのだ。私は彼らをかき集めて各ホテルに派遣した。当時のホテルなどは、見てくれの良い若者に信じがたい高給を払った。私は、その時にひと山あてた。その金で長期間の海外旅行に出た。あての無いブラリ一人旅だった。

 インターネットの無かった時代の海外旅行は、今より逆に便利だった。列車が駅に着くと、ホームに宿屋の客引きがいたので宿に困ることはなかった。それに駅にはツーリストインフォメーションというものがあって、それが今でいうインターネットの機能をしていた。困ったときはツーリストインフォメーションに行けばなんとかなったのだ。当時は移民問題が無かったために、治安が良かったし、みんな親切だった。だから誰でも簡単に旅ができたし言語の壁も今より低かった。

 ただし、運が良いのか悪いのか、私が海外旅行にでた頃は、世界中でとんでもないことがおきていた。ベルリンの壁が崩れ、東ヨーロッパは内乱状態になっていた。朝ホテルで目覚めると革命がおきていたということも普通に何度も体験したし、あちこちでcnnの車をみかけた。

 もちろん人種差別も嫌というほど体験した。死にそうな目にもあったし、強盗にあったうえに強盗さんと仲良くなったこともあった。旅行中に戦争がおきたこともあった。もちろん戦争になれば外務省によって渡航制限がかかる。つまりパリなんかに卒業旅行にきていたバブル時代の日本人学生たちが根こそぎいなくなる。

 当時、かなり長期化した戦争が発生した。湾岸戦争である。イラクがクウェートを占領し、それを多国籍軍が何ヶ月もかけて包囲した。その結果、ヨーロッパ方面への飛行機が飛ばなくなった。今と違って昔はロシア領内を飛べなかったために中東諸国を通過しないとヨーロッパに行けなかったのだ。

 バブル時代の親たちは、子供たちに気前よく小遣いをわたしていた。けれど戦争中に海外に行かせなかった。困った当時の大学生らは、卒業旅行に北海道を選んだ。当時、倉本聰のテレビ番組『北の国から』がブームで北海道は人気観光地だった。映画も『私をスキーに連れてって』が大当たりして、雪質の良い北海道のスキー場が満杯になっていた。当時の大学生たちは猫も杓子もスキーに行ってた。信じられないことだが当時のスキー場はナンパ場でもあった。



 あれは、1991年の3月頃だったと思う。湾岸戦争によって海外旅行を断念した私は、北海道の美瑛・美馬牛の雪景色を見に旅立った。列車の中にはスキー板をかついだ卒業旅行の学生たちがいっぱいいた。
「こんな遠くまでスキー板を持ってくる奴の気が知れない」
と半ば呆れるように私は眺めていたが、そういう学生たちの一人に土井健次もいた。

 彼らは集団でワイワイ楽しそうにしゃべっていた。列車は私の目的地である美馬牛に到着すると、その学生集団たちも私と一緒に降りて、美馬牛リバティーユースホステルという宿に入っていった。
「ちっ、今日の宿は学生団体さんと一緒かよ」
とガッカリしながら宿でチェックインの手続きをしてた。しかし学生団体と思っていた一団はみんな一人旅だった。前日か前々日に、どこかの宿(ユースホステル)で、たまたま一緒だったために顔見知りだっただけだった。

 私は彼らに声をかけられた。
「どちらの大学ですか?」
 これには戸惑った。

 当時の私は年齢よりも十歳若く見られたので、誰もが私の事を学生と信じて疑わなかった。困った私は、彼らにユースホステルの会員証を見せた。そこには、28歳と書いてあった。ええ?と驚かれ、それ以降は無視された。

 当時、ユースホステルをよく利用する大学生の多くは、高学歴であり、それも国立大学出身や医学部出身が多かった。ふだん生活してて、東大生に出会う確率など、そうめったにあるものではないが、ユースホステルに泊まると必ず一人か二人ぐらい出会ったものだった。定員20名から30名の宿で出会うことを考えたら、ユースホステルがいかに高学歴の学生が泊まる宿で会ったか、わかるというものである。

 そういう連中の会話ときたらテレビや流行歌の話題など全くなくて、三日三晩寝ずにやった実験を失敗した話とかで、一般人が入れる話題では無かった。そこでの私は、異端もいいところだった。なので、すみの方で小さくなっているしかなかった。
「どちらの大学ですか?」
という問いかけもマウントをとられている気がして良い気分にはならなかった。なので彼らとの交流はできるだけ避けた。

 無視された私は、これ幸いと、チェックイン後は、せっせと絵はがきを書きまくっていた。当時は、インターネットもSNSも無かったので、絵はがきと年賀状と宿(ユースホステル)がインターネットの代わりだった。さんざん海外旅行していた私は、旅先で知り合っていた人に、旅の宿で絵葉書を書いていた。

 当時、旅人に出すたよりは、旅先から出すという風習があった。自宅から出さなかった。旅先で大量に出すのが普通だった。長期の外国旅行で知り合っていた人が多かった私は、大量に絵葉書の返事を書かなければならなかった。

 もちろん旅人の住所録なんか持ってない。そんなものは作らない。面倒くさいことはしない。絵葉書をもらった人にしか返事を書かないからだ。旅は一期一会。旅先で出会った人に再び再会する機会などあるわけないと思っていた。

 しかし、異国で出会った日本の旅人たちは、例外なく旅先から絵葉書を送ってきた。私はセッセと返事を返した。礼儀として、こちらも旅先から絵葉書を返す。そのために貰った絵葉書に書いてある相手の住所を書き写して出すのだ。つまり住所録のかわりに、自宅に届いた大量の絵葉書を持って旅していたのだ。

 美馬牛リバティーユースホステルで私は孤立していた。私だけ学生では無かった。会話の内容についていけない。だからセッセと絵葉書を書いていた。当時のユースホステル利用者は、学生が9割だった。なので社会人だった私は、どのユースホステルでも孤立した。だから、どの宿でもセッセと絵葉書を書いていた。だから今までユースホステルで泊まり合った学生たちとは、交流をもってなかった。しかし湾岸戦争があった1991年の3月だけは、ちょっと違った様相になる。

「あれ?」

と大声をあげたのは、当時大学4年生だった土井健次であった。

 彼は、私がもらった絵葉書をみつけてしまった。その絵葉書は、ドイツ・オーストラリア・チェコ・ポーランド・ユーゴ・エジプト・ネパール・インド・タイ・マレーシアといった国々から届いた絵葉書の束だった。そして私が日本から出そうとしている絵葉書の宛先も、それらの国々へのものだった。

 すると今まで無視されていた私は、学生たちに「わっ」と取り囲まれた。彼らは、湾岸戦争で泣く泣く海外卒業旅行をあきらめた人たちだった。湾岸戦争以前なら、必ず無視されていた私だったが、湾岸戦争以降となると全く状況が変わってきていた。急に大学生たちに取り囲まれ質問され、話題の中心となって戸惑った。土井健次のせいで、突然、みんなの人気者になってしまったのだ。

 気が付いたら私は、みんなと一緒にクロカンスキーを楽しむことになっていた。土井健次は、みんなからオーロラ君とよばれていた。知床でレーザー光線で人工的に作られたオーロラショーばかり見ていたから「オーロラ君」とよばれていたらしい。

 彼だけで無く、他の大学生たちも、みんなニックネームをもっていた。北海道を旅する人たちの多くは、こういった「旅人」ネームをもっていた。旅人ネームは、各ユースホステルの主から付けられていたケースが多かったようだ。土井健次は私に聞いてきた。

「佐藤さんの旅人ネームは、何ですか?」
「・・・」

 私には、そんなものは無かった。
 答えようが無かった。
 私は北海道では新参者だった。
 ついでに言うとユースホステル利用者としてもライトユーザーだった。
 さらに土井健次は、私が書いていた外国に出す絵葉書を見ながら聞いてくる。

「いったい佐藤さんは何者なんですか?」
「・・・」
「どんなお仕事をしてるんですか?」

 この時、私は少々ムシの居所が悪かったかもしれない。
 ムッとしながら答えた。

「風(かぜ)です」
「風(かぜ)?」
「バックパッカー(旅人)の世界では、仕事をやめて世界を放浪する人のことを風(かぜ)というんです」
「?」
「関東地方では、風(プー)とも言いますけれどね」

 すると皆が爆笑した。
 土井健次も大笑いした。
 笑いながら出身大学を聞いてきた。
 これだけ旅するからには、どこの外国語大学の人なのか?と聞いてきた。
 私は「キター!」と思いつつにこやかに答えた。

「由緒正しい中卒です」

 またもや爆笑の渦となった。この瞬間から私は、土井健次に追いかけ回されることとなる。彼だけでは無い。他にも私のようなフーテンに纏わり付いてくる人がいた。そして、もう一度東京で再会し同窓会(飲み会)を開きたいと言ってきた。

 一番年齢の高かった私に対して兄貴のように慕って付きまとって、私にオフ会を開くよう言ってくる。仕方が無いので私から皆に声をかけて何度もオフ会を開くようになっていた。その結果、知らず知らずのうちに私のアパートは、彼らのたまり場になり不特定多数の人間が出入りすることになるが、それについては、きりがないので、ここに書かない。

 それより困ったことは、彼らと付き合っていくうちに、私の正体が徐々にバレてくることである。風(プー)でもなければ、中卒でもないことがバレてくると、彼らはますますべっとりとしてきた。そうなると彼らと付き合うことが、ちょっと息苦しくなってきた。旅先で大量の絵葉書を書くのも苦痛になってきた。彼らのために開く飲み会も面倒くさくなってくる。その結果、人間関係を精算したいと思うようになる。

 大学を卒業した彼らは、社会人になったとたん、人間関係が狭まってくる。
 つまり私を通じて、広い人間関係を欲する需要が急に出てくる。
 そこで旅人どうしのオフ会の需要がでてくるのだ。
 当時は、インターネットもsnsも無かった。
 社会人になりたての青年たちは、人恋しがって旅人の世界に集まって来たがった。

 しかも時代は、バブルであった。
 バブルは人材を求めていた。
 各企業は新卒学生の青田刈りに励んでいた。

 旅人の飲み会を開く度に、社会人になったばかりの人たちが、学生たちの飯代飲み代を負担していた。その経費は会社から出ており、会社からは新人をスカウトするよう命令されていた。
 それほどバブル時代は、新卒の学生を確保するのに必死だった。だから会社の説明会の出席するという条件つきで、学生たちの飯代飲み代を負担していた。学生たちも、なんの遠慮もなく飯代飲み代を奢ってもらっていた。それを当然と思っているのがバブル時代の学生たちの風潮だった。
 つまりバブルという時代的要請によって、旅人の集まり(つまり飲み会)をバックアップする社会的な背景ができあがっていたのだ。

「佐藤さん、次の飲み会はいつですか?」

と皆、私をせっついてくる。それは社会人もそうだし、学生側もそうだった。そうなってくると、だんだんこちらもシラケてくる。苦痛になってくる。




 そんな中で、そういう事に全く縁の無い男がいた。
 土井健次である。

 彼は、ある意味で純粋な男であった。純粋に自分が面白いと考えることにしか興味が無かった。だから私が飲み会をしなくなると多くの人たちが消えていったが、土井健次だけは私に纏わり付いた。彼とは飲み会以外のことで盛り上がった。

 私が登山に誘うとホイホイついてきた。普通の登山では面白くないので、海抜ゼロから富士山に登ってみたり、山で浴衣を着てみたり、流しそう麵を流したり、タキシードで正装して清掃登山してみたり、北アルプスの頂上で簡易居酒屋をひらいてみたり、富士山に酒樽(60s)を担いで登って皆に酒をふるまったりした。他にも東海道500qの駅伝をやってみたり、東海道を何回往復走ればママチャリが壊れるかの実験もやってみた。知床山脈を含む数々の秘境も探検した。一緒に韓国旅行にも行ってきたし、飛行機のコックピットにも入れて貰い、機長のサインまでいただいた。思えば、いい時代だった。

 そんな彼が天才であることは、彼と付き合ってすぐ気がついた。

 当時のユースホステルには、東大生などの高学歴者がわんさかいたのだが、そんな東大生たちよりも土井健次の方が、よほどIQが高いことに気がついた。確認のために本人に聞いてみたら140だと白状した。140という数値は一般的なIQ検査で測れる最高値である。それ以上は別の検査が必要になる。私の肌感覚から言わせてもらうと彼のIQは200ぐらいあったと思う。

 彼は四桁のかけ算を暗算でやっていた。算盤をやっていたの?と質問したが、算盤はできないという。小さい頃から公文をやっていたのでそのせいではないかと本人は言っていたが、そんなわけはない。公文では四桁のかけ算を暗算することはできない。そのうえ彼は難しい仕事を次々とこなしていった。専門分野でも無いのにIT関係の作業を次々とこなしていき、大手のIT会社の代理人にもなっていた。本気でやれば事業として大成功していた可能性もあった。

 いつだったか「知床の自然」という何百ページもある学術書のOCR化を頼んでみたことがあったのだが、彼の作業には、1文字の誤字もなかった。何をやらせても完璧だった。そのうえ、どんな無茶な頼みも必ず納期を守った。仕事のできる男であった。

 本人は落ちこぼれと自虐していたが、人間は天才すぎると落ちこぼれる事がある。子供の頃は大して勉強しなくても良い点が取れるために、苦労して覚える経験が少ないからだ。だから超一流の地位からは落ちこぼれるが、超一流から一流に落ちこぼれるというだけで、本当の意味では落ちこぼれてない。ようするに好奇心のまま生きたいたら出世に興味がないだけなのだ。

 私はそんな彼をいろいろ観察してきた。
 実はその観察が自分の子育てに生きている。

 土井健次の仕事術・勉強方法は非常に参考になる。彼は絶対に徹夜をしない。教科書に線を引いたりもしない。メモもとらない。一番うすっぺらい問題集を一冊。それを3回から4回解くだけである。しかも2回目から4回目までは間違えたところしかやらない。つまり間違えたところを探すだけなのだ。だから4回解くと言っても勉強する時間は恐ろしく短い。

 彼は、この方法で、アマチュア無線の免許や、旅行主任資格をとってしまった。専門学校生が2年かけて必死になって勉強してようやくとれる資格を、一番うすっぺらい問題集を数時間だけパラパラとめくって解いてみるだけで合格していた。

 彼は、基本的に小テストしかやらない。それも間違えたところしか勉強せず、あとはひたすら寝るだけなのだ、これは彼に限らず私がユースホステルで知り合った数多くの天才たちは、みんなこんな感じだった。天才たちがガリ勉しているところなど見たことがない。

 登山仲間数十人が、登山仲間全員でアマチュア無線の免許をとろうとしたとき、天才たちは薄っぺらい問題集を3回くらいしかやってないのに全員合格した。それに対して受験勉強と無縁な人生をおくってきた人たちは、分厚い参考書を読んで、必死になって基礎的な物理を理解しようとして頑張ったが全員落第した。

 落第した人が頭が悪かったかというと違う。確かに彼らの勉強の成果はでていた。概念は理解していたし、合格できるスキルはもっていた。なのに落第した。逆に土井健次は、基本的な概念を理解してなかった。理解はできてなかったが合格してた。想定問題集を3回やるだけの最短時間で合格して見せた。

 ようするに土井健次は、必用な回答能力にしぼって学習していた。合格に必用なことを瞬時で見破り、それを最短時間で達成する方法を一瞬で発見する男だった。だから努力も最低限しかしていない。空いた時間で他の仕事をこなすのである。これを天才と言わず何と言おうか?

 それは余談になるが、この方法は、うちの息子の勉強にも使わせてもらっている。効果は絶大で主要科目に限定すれば、昔で言うオール5をとっている。だからうちの息子はガリ勉をしてない。1日10分の小テストと、好奇心を満たせるためのEテレの視聴させているだけである。それも5問以下の小テストだけでいい。それを回数やるだけで驚くほど効果があがるが、それらの手法は、土井健次の学習法を手本にしている。


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 土井健次は、好奇心が強かった。あまりにも好奇心が強いために自分が面白いと思ったことには全力をそそぐ。そのために、お金や出世に興味がないし、それらを捨てていく潔さがあった。そのくせ必用とあらば最短時間で、各種の資格をとっていった。趣味で出版社も立ち上げ事業化もしたし、大手IT会社の代理店もやっていた。『風のたより』という同人誌も総計200号ちかく発行しているし、1000以上の山にも登っている。文章も多く書いていて某出版社からライターのスカウトも受けていた。おまけにピアノが弾けてトロンボーンもやっていた。もちろん絶対音感もある。体力も精神力もすごくて、マラソンと水泳にいたってはプロ並みだった。
 それほどの能力がありながらそれらの力を出世のために使ったことは無かった。「へたに能力を見せると使われてしまうから」と笑って語っていた。

 そんな土井健次ではあるが当然のことながら欠点もあった。それは、私にも、私の息子にも共通する欠点で、彼には学習障害の臭いがあった。と言っても正真正銘の学習障害ではなく、そのような臭いがあったということである。

 天才・土井健次の能力は、バランスを欠いていた。確かに、ある部分では天才ではあったが、別の一部分が、それに追いついてなかった。そのせいで時々、人を怒らせた。だから私は、何度も何度もハラハラした。うちの宿の御客様を怒らせることが多かったからだ。

 誤解の無いように言っておくが、彼は人徳者である。彼を慕う人は多いし、女にもモテる。性格は優しさの塊であるし、子煩悩で愛妻家でもある。困った人もほってはおけない。そのうえ天才なのだが、思い込みが激しく一途な上に頑固者だった。一般的に長所は欠点であると言うが、それもドがすぎると人を怒らせることがある。

 例えば健康に関して例をあげる。かれは思い込みが激しく、絶対にコロナワクチンを打とうとしなかった。一度、反ワクチン派の言説に影響されると、絶対にワクチンを打たず、私のように何度もワクチンを打とうとする人に、データーを示して危険性を訴えるが、余計なお世話であろう。
 しかし彼にしてみれば、親切のつもりである。その余計な親切が、時と場合によっては迷惑になるのだが、普通の人なら、そういう迷惑をしないように心がけるはずなのだが、土井健次には、そのへんの気転がきかないのだ。そして頑固だったりする。

 頑固と言えば、彼が酔っ払って失敗したことがあった。その結果、彼は禁酒を宣言した。そして本当に酒を飲まなくなった。あの酒好きな土井健次が、1年間にわたって一滴も飲まなかったのだ。死ぬ直前には、アル中ではないかという疑惑さえあった、あの大ウワバミの土井健次が、一滴の酒も飲まなかった。若かった頃の私たちは、何かある度に飲み会を開いたものだったが、土井健次は旅先でも居酒屋でも一滴も飲まなかった。それがあまりにも厳格だったために
「どうして飲まないんだ?」
みんなが心配するようになり、しまいにはほとんどの者がキレだすようになったが、彼は頑固にも飲まなかった。結局、最後には禁酒を終了させるわけだが、その切っ掛けについては、ここには書かない。

 そういう頑固さは、勉強や仕事の面で大いに役だったと思う。一旦彼が何かをやり遂げようとした時、彼は頑固さを持って必ずやり遂げた。
 仕事や勉強だけではない。
 例えば ダイエットを決意すると目標体重になるまで極限まで努力した。そして3ヶ月という期限を決めていれば必ず3ヶ月以内にダイエットを完成させた。三日坊主になるとか、決意だけで終わるということは絶対なかった。そういう姿を常日頃から見ていた私は彼に対して

「お前はどうしてそんなキャラクターなんだ?」

と聞いたことがある。彼はじっと考えて答えなかった。そして私が質問をしたことを忘れてしまった3日後ぐらいになって、突然答えてくれた。

「あの時の質問だけれど、多分、家庭環境の影響があるかもしれない」
「どういうこと?」
「土井家では口だけで行動しないことを馬鹿にする風習があるんだよね」
「それで土井君はやると決めたら、とことんやっちまうキャラクターになっちゃったのか?」
「そうかもしれない」

 彼はそう答えたけれど私はその回答を信じてなかった。私は、土井君に対して学習障害の疑いを持っていたからだ。もちろん彼が学習障害だったかどうかは今となっては知るよしもない。単なる性格の問題だったのかもしれない。もしそうだとしたら、かなり頑固な人間だったとも言える。その頑固さについてもう1つ例を挙げてみよう。

 彼は大学を卒業すると東急車両という会社に入社した。それを聞いた私は驚いた。東急車両といえば、海軍航空技術廠を引き継いだ会社でミリタリーオタクにとって聖地ともいえる有名なところだった。ちなみに彼は旧海軍士官学校であった海城高校の出身でもあった。海城高校といえば偏差値70近い超進学校であるが、単なる進学校ではなく海軍の伝統を受けついだ学校で、ガンガンつめこみ学習させたうえに、運動もスパルタ式という、いわゆる海軍式教育で有名なところだった。お世辞にも天才型の土井健次にあう学校では無かった。

 だから土井健次は、この学校で落ちこぼれたと言って笑っていたが、それは納得できる。土井健次のような天才には、麻布高校のような自由な校風が合っている。彼には自由が必用だった。なのに彼は海軍航空技術廠を引き継いだ東急車輌に入ってしまった。
「だいじょうぶだろうか?」
と心配したものだったが、その心配は当たってしまった。と言っても会社で問題を起こしたわけでは無い。会社の寮で問題をおこしてしまった。

 1992年当時、東急車輌は、旧海軍航空技術廠にあった。戦艦三笠が陳列してある横須賀にあったのだ。浦和にあった実家から遠かったために彼は、会社の寮に入った。そして寮の食堂が値段にあってないと思ったらしく、クレームを入れた。そのクレームを寮の食堂側が拒否した。すると土井健次は、寮費のうちの食費の支払いを拒否して自炊をはじめた。ボイコットである。

 といっても寮に自炊設備は無い。当時は食堂もコンビニも近くに無かったので外食もできなかった。それがわかっていて寮側も強気だったのだろうが、そんなことでへこたれる土井健次ではない。登山用ストーブを使って朝晩自室で米を炊きはじめた。
「そんなめんどくさいこと止めたら?」
と私は何度も忠告したが、彼は頑固にやめなかった。せめて炊飯器を買ってはどうか?とアドバイスもしたが、それさえも拒否して、
「登山用ストーブを使って究極に美味い飯を炊く方法を研究するんだ」
と数年間その作業を嬉々と続けた。嬉々として自室の部屋でアウトドアでの米の炊き方を追求していった。

 そのせいで登山する時は、かならず土井健次が御飯を炊いた。いつも美味しい御飯が我々に提供された。あれは全部、土井健次が作っていたのだ。どんな秘境の中でも、どんな嵐の中でも、どんなに疲れたときでも土井健次は美味しい御飯をたいた。みんな倒れていても一人コツコツと御飯を炊き、全員にそれを配り、食後の片付けも一人コツコツと行った。土井健次の頑固さによって、常に私たちは、美味しい御飯を食べられたのだが、その頑固さゆえに土井健次は会社の寮から追い出されてしまっていた。

 頑固といっても、彼を知る人は信じないかもしれない。彼は、ひとあたりがよく優しく親切で気が付く人だからだ。いわゆる人格者と言ってもいい。彼に憧れる人は多かったし、本人は気が付いてなかったが女性にもモテた。味方にしたら、これほど頼もしい人間はないというくらいに親身になってくれた。しかし、いったん敵認定したらこれほど恐ろしい人間もなかった。手が付けられなかった。新型コロナワクチンを敵認定したら、それを徹底的に拒否するのだ。

 彼の韓国嫌いは有名だが、最初から嫌いだったわけでは無く、最初は彼ほどの韓国好きは日本にはいないのではないかというくらいに彼は韓国が好きだった。学生時代から何度も韓国に旅行に行ってて、韓国の友人も多く、韓国にホームステイまでしていた。私と一緒に韓国旅行もした。

 ただし天才だった土井健次は、短期間で韓国語を習得した。だから韓国語も話せるし、ハングルの読み書きもできる。すると嫌でも韓国の反日情報が入ってくる。言語ができるということは、不快な一次情報も目に入ってくるということでもある。最初から興味が無ければ、そんな情報は見向きもしないのだが、天才土井健次は、現地の一次情報を見る能力をみにつけてしまった。なので、どうしても嫌なところが目にはいってしまう。で、嫌韓になっていく。そこまではいい。問題は、いったん嫌韓になると何もかも全て拒否するようになることだ。あれほど大好きだったキムチもマッコリも二度と口にしなくなった。その嫌い方は、非常に徹底していた。

 昔は、よく浅草のユースホステルに泊まったものだったが、そこには多くの韓国人が泊まりに来ていた。国家のトラブルともかく、日本に泊まりに来る韓国人は、非常に親日的でフレンドリーでチャーミングだった。あきらかに、こちらに近づきたいオーラをだしてきて、アッというまに仲良くなれるのだ。ようするに壁が無い。逆に言うと若い女の子でも、男のふところにグイグイ入ってくる。しかし、いったん嫌われると口もきかないし、怒りが激しい。そしてしつこく恨み続ける。それを私は何度も体験したが、これは土井健次のキャラに似ているなあと思っていた。


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 もう一つ頑固のエピソードを語るとしたら、キーボードだろう。彼は、音楽を愛した。そしてピアノとトロンボーンをやっていた。あの不器用な土井健次が、指先をつかうピアノの名人だった。
 ただ、ピアノは持ち運べないので1メートル以上の長さのある巨大なキーボードをもって旅をした。そして、いろんなところでキーボードを弾いた。そして皆で歌った。年末年始になると全国のユースホステルを使って旅をしたものだったが、そのたびに巨大なキーボードを持ってでかけた。
 正直言って邪魔だった。
 みんなの迷惑だった。なので
「重いだろう」
「邪魔だろう」
と言って持ってこさせるのを止めさそうとしたが、無駄だった。彼は宿で、列車で、飛行機で、バスの中で、巨大なキーボードをかかえていた。邪魔だった。おまけに分厚い歌集まで何十冊も持参した。ユースホステルや旅先で出会った人と一緒に歌うためである。
「そんな馬鹿な?」
と思ったが、そんな馬鹿なことが次々と起こり始めた。

 あれは正月に九州旅行していた時だった。私は熊本駅前で何となくラジオ体操をはじめていた。グルメ旅行で運動不足だったので何となくラジオ体操の真似事をしたのだった。すると土井健次は、サッとキーボードを取り出してラジオ体操の音楽をかなでてしまった。
「土井の奴、なにやってるんだろう?」
と不思議がっていると、まわりを歩いていた通勤途中の熊本のサラリーマンたちが、ぴたりと立ち止まって、私と一緒にラジオ体操をしだした。さっきまで駅前の雑踏を通過していたスーツ姿の見ず知らずのオッサンたちがピタリと立ち止まって、ラジオ体操に加わったのである。そして体操が終わると、熊本のサラリーマンたちは、サッと駅中に去って行った。

 翌日、天草の観光地に行ったが、そこでも土井健次は、キーボードでラジオ体操の音楽をかなでた。しかたなく私がラジオ体操をすると、まわりにいた観光客もゲラゲラ笑いながらラジオ体操をはじめた。当時の熊本の人たちはノリがよかった。みんなでラジオ体操をやって楽しんだ。こうして九州のあちこちの観光地でラジオ体操大会が行われた。

 柳川では川舟で観光した。相席に鹿児島からきた若い女子学生がいた。私は
「鹿児島の人は、今でも◇◇でごわすって言うんですか?」
と質問したら
「そんなわけ無いですよ」
とムッと反論した。船内に冷たい空気が流れた。
(あちゃー、やっちまったか?)
と私が反省していると土井健次がキーボードを弾き始めた。武田鉄矢の『思えば遠くにきたもんだ』であった。そのメロディに私が、歌い出すと、ムッとしていた女の子たちも歌い出した。歌は、河をいきかう対向船まで届き、他の船人たちも一緒に歌い出した。船頭さんも歌い始めた。

 宿では知り合った人たちとも一緒に歌を歌った。分厚い歌集を人数分くばってみんなで歌った。旅先で、なにかの募金活動や保護犬に関する活動している団体がいると、そっと彼らのバックでキーボードを弾いてBGMを流してもりあげてあげてたが、時々、それらの団体に怒られもした。

 船旅でも、よく歌った。三月に、伊豆七島に旅したときは、船が島に到着する度に「贈る言葉」とか「切手の亡い贈り物」を歌った。三月の伊豆諸島には、東京に転勤(?)する学校の先生と、それを見送る島の生徒たちが桟橋で溢れていることが多い。その光景を見つけると土井健次は、さっそうとキーボードをとりだすのだ。そしてBGMを流して感動場面をもりあげたりするのだ。

 キーボードは、山の中にも持って行った。私たちのやっていた登山は、山の頂上でおでんを作ったり鍋をつくって食べるスタイルである。もちろん米ももっていくし、二キロの巨大なハムとかも肉のかわりに持って行く。それだけでも重いのに二十リットルの水も持っていく。鍋やおでんに水は欠かせない。さらに日本酒ももっていく。それも紙パックではない、本物の一升瓶である。

 登山家という人種は、少しでも荷物を軽くすることに命をかける。そのために何万もする高価なチタンの小型鍋を買ったりするのだが、若かった私たちには、そういうものには一切ふりむかず、重い厨房寸胴鍋を百リットルザックに入れた。日本酒も水筒に入れては情緒がないということで、純米吟醸「越乃寒梅」のラベルのついた一升瓶を持って登山した。このラベルのついた一升瓶で酒を飲むのが至高の喜びであると土井健次は言っていた。サプライズで大きなスイカを出してくる奴もいた。
「おまえはドラえもんのポケットをもっているのか?」
突っ込んだものだった。

 当然のことながら重量が重くなる。しかも登山が初めてという若い女性を何十人も連れて行ったので、彼女たちの荷物や飲料水も持つ必用があったので、さらに重量が重くなった。私も、他の男たちも、何十キロの荷物を担ぐはめになった。

 ここまではいい。
 問題はこの後である。

 これだけ荷物が重いにもかかわらず、土井健次はキーボードをもってくるのだ。しかも何十冊もの重い歌集とともに。わけがわからない。百歩譲って一升瓶は許したとしても、歌集もキーボードも何の役にたつのだろうか? しかも標高三千メートルの山で歌なんか大合唱したら、空気の薄さで高度障害か高山病になってしまう。そんな心配をよそに、土井健次たちはキャッキャと山に登る。そして標高三千メートルの山頂で歌いはじめ、踊り始めるのだ。そんな空気の薄いところで激しく歌って踊れば、当然のことながら息が切れて
「酸素をくれー」
と倒れる奴が続出する。すると密かに小型酸素ボンベを持ってきた奴がいて、空中にシューとまき散らした。
「馬鹿、それは口に入れるんだよ! 空中にまき散らすやつがあるか!」
みんな腹をかかえて爆笑し、その爆笑のために、ますます酸欠となってバタバタと倒れていった。

 これも富士山とか槍ヶ岳ならわかる。そのレベルならキーボードを持っていくのも理解はできないが、不可能ではないとも思う。しかし剣が岳に持って行くという話を聞いたときは、さすがに引き留めた。
「おまえ死ぬ気か?」
と。しかし、頑固な彼はキーボードを背負って日本百名山で一番の難易度として知られる剣ヶ岳に登った。しかし、ジャンダルムと西穂高縦走のときにキーボードを持っていこうとしたときは、土下座して断った。知床山脈縦走の時も土下座して断った。


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 頑固といえば、彼が私の宿(北軽井沢ブルーベリーYGH)手伝っていた時のことを話したい。私は、彼に受付を御願いしたものだったが、時々、キレていた。御客様が駐車場のとめかたが気に入らなくて常に怒っていた。彼に言わせれば、マナーがなっていないということなのだが、そんなこと御客様にしてみたら知ったことでは無い。空いている場所があれば、そこに駐車するのが自然な行為である。しかし、乱雑に駐車されると、後から来る御客様が駐車するスペースが無くなってしまう。それで土井健次はキレてしまうのだ。

 宿主としては、駐車場のことよりも別の事を優先する場合が多い。いかに御客様に快適に過ごして貰うかが一番の優先事項である。しかし、土井健次にとっては、目の前の駐車場問題が一番の問題になってしまう。たかが駐車場ごときのことでキレてしまうのだが、それでは宿主としては、たまったものではない。仕方が無いので、隣地を購入して駐車場を倍にした。土井健次に俯瞰で全体を見ることを要求しても無駄であることは、長い付き合いでわかっていたので、そういう部分はとっくに諦めていた。

 天才の彼に、そんな些細な事を要求したくは無い。彼には、凡人にない才能があるからだ。彼に何かを御願いすると、アッという間に、その道のプロになってしまうのが土井健次である。ITでも、出版でも、どんな自然科学でも、何でも短期間にマスターして、それを完璧にこなしてしまう。だから野鳥・植物・樹木・天文・宇宙・地質・火山・・・・・何でも短期間にマスターして素晴らしいガイドとして大活躍した。

 しかも老人から小さな子供まで、よく面倒をみた。接客やガイド術に関しても、プロが書いた著書を読み込んで自分なりにマスターした。そのせいか彼のガイドに参加した人たちは、彼の人柄とガイドの素晴らしさに感動した。そして沢山の礼状が届いた。それは彼の人柄もあっただろうが、彼なりの努力というか、その道を究める姿勢があったからこそだと思う。

 そうなのだ。彼は、道を究める『求道者』でもあったのだ。俯瞰でものことを見ることは苦手でも、それぞれの道を究める『宮本武蔵』のような人間だったのだ。ただ、宮本武蔵と違うところは、剣一筋では無く、天才ゆえか何にでも手を出していたことである。

 彼は、あらゆるビジネス書を読破し、大手IT会社と代理店契約し、いろいろなアプリの開発をし、マーケッティングから、経理・簿記までマスターし、個人事業主として税務署に登録し、各種の事業にものりだしていた。それは全て定年退職後に本格的にスタートさせる予定だった。しかし、定年まで10年という期間を残して彼は急死してしまった。

 そんな彼に対して私は急に冷淡になったことがある。というか冷淡な態度を示すようになった。彼に二人の子供が生まれたからだ。私は
「もう宿には来るな」
「娘の面倒をみろ」
と突き放した。戸惑った彼は、うちの嫁さんと話しながら私の顔色をうかがった。しかし、私はあくまでも冷淡に接した。何か一つのことに夢中になりやすい彼のことだから、それが昂じて二人の娘を放置する可能性があったのだ。

 実は私にも息子が生まれていた。私は子育てが大変なのを実感していた。なので土井健次をできるだけ家族のもとにやらないと、とんでもないことがおきる。そう思った。なので本人にしてみたら不服だったかもしれないが、ここはあえて青鬼になるべきと思った。彼には冷淡に接して、できるだけ家族のもとにいるよう仕向けた。

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 最初は、とまどっていたが、すぐに子煩悩な二人の娘の父親に変化した。

 何十万もする最高級の国産ノートパソコンしか買わなかった彼は、中古パソコンしか買わなくなった。そのかわりに家族旅行ばかりするようになった。今まで持っていた、こだわりは全て捨てて、娘たちのために動くようになっていた。そして娘たちに大甘だった。きっと娘の結婚式では大泣きするんだろうなあ・・・・と思えるほど、娘たちを可愛がっていた。

 そんな彼が急死した。
 高血圧だった。

 死ぬ直前の彼は、現代医療にかなりネガティブになっていた。新型コロナワクチンも打ってなかったし、できるだけ薬を使わずに健康でいようとしていた。それに対して私は何度も注意したが、もともと人の注意をきくような奴ではない。

 天才・土井健次にとって、私のような凡才の言う健康論など、ちゃんちゃらおかしかったに違いない。私は政府の言うとおりにワクチンもうつし、村の健康診断も必ず受ける。医者の御高説もありがたく聴く平凡な人間である。だからまだ生きている。土井健次は、なまじ天才であるからこそ、いろいろな情報を得て研究し自分なりの結論を出したに違いない。

 それが彼の寿命を縮めた可能性があるが、それはそれで良かったのだろう。彼が納得して行動した結果なのだから。というのも、キーボードを担いだまま山で死んでいた可能性だってあったのだ。たまたま運が良くて無事に下山していただけで、彼は常に生死ぎりぎりのところで生きていたのだ。偶然にも山では死ななかった。そして偶然にも高血圧で死んでしまった。ただそれだけのことなのだ。

 思えば、彼の人生は、太く短いものであった。
 今後の私は、御遺族を見守っていきたいと考えている。

合掌。



つづく

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posted by マネージャー at 20:18| Comment(1) | TrackBack(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月14日

盟友 土井健次を悼む

今日、午前1時に北軽井沢ブルーベリーYGHのスタッフでもあり、30年来の親友であった土井健次君が、お亡くなりました。

昨日の朝、脳出血で倒れ、緊急入院をしましたが手遅れでした。
葬儀などについては、追って連絡いたします。
とりあえず、しばらくの間は奥さんへの、御連絡を控えてください。
(忙しいので)

どうしても詳しく情報を聞きたい場合は、
佐藤0279-84-3338
まで連絡してください。


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なお、残された遺族に関しては、今後とも全力で支援してゆきたいと思っています。


つづく

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posted by マネージャー at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月17日

懐かしい御客さん

 懐かしい御客さんがやってきました。30年ぶりの再会でした。大昔にユースホステルで出会い、旅人の集まりで何回か遊んだ人が尋ねてきました。懐かしくて、いろいろ話をしたかったんですが、ちょうど原稿の締め切りが迫っていたので、話が出来なかったのが残念でしたね。新型コロナウイルスのこともあるし、どっちにしろ最近は宿で御客さんとの長い会話はできないんですけれどね。

 ちなみに、その御客さんは、このブログにさんざん書いていた、私の昔の旅の話を読んで「懐かしいなあ」と思って尋ねてくれたようです。そういえば、一ヶ月くらい前に昔話をさんざんブログに書いていましたけれど、誰も読んでくれないと思って書き殴った駄文を読んでくれている人がいたので、ちょっと嬉しくなりました。また機会がありましたら、再び昔話をこのブログに書いてみたいと思います。


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 ところで、ここ何日間は、群馬愛郷プロジェクトを使って格安で泊まる人が多くなってます。で、御客さんの中には「こんなに安く泊まって申し訳ない」と言う人がいるんですが、そんなことないです。そりゃ、プランによっては、実質600円で泊まれることになるので、そういう気分になるのは、わからんでもないですが、宿屋にとっては、実質600円でも泊まってくれるのは大変ありがたいことです。申し訳なく思うのでは無く、むしろ宿をたすけるためのボランティアにくるぐらいの気持ちで泊まってくださいと言いたい。実質600円でも、それで宿をたすけるんだと思ってもらいたい。


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 だから近所の人でもいいんですよ。家族で、うちに泊まって、そこから子供さんを学校に送ったっていいと思います。吾妻郡は感染者ゼロなんだから、むしろ宿側は大歓迎なはずです。もちろん私も万座温泉に泊まりにいってます。万座温泉の聚楽に平日限定村民割引で泊まってます。平日に泊まって、朝、息子を学校に送ったりしてます。それが助け合いというものだと、今日、グリーンプラザホテルの営業さんにも意見を述べました。こういう機会だからこそ、近郊の温泉ホテルを見直してもいいと思いますね。

 逆に宿泊施設側も、積極的に村民プランとか、吾妻郡限定プランをつくって、近場の人を開拓していってもいいと思います、



つづく。

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2021年03月28日

中学生一人旅についての思い出【4】

 今から20年前のことです。北軽井沢で中古のペンションを購入して、ペンションブルーベリーをオープンした私は、 日本ユースホステル協会に連絡して
「ユースホステルの認可を取りたいんですけれど」
と言ったんですが、すでに、◇◇と言うユースホステルが存在してるからだめだと言われました。 仕方ないのでペンションの営業を続けていたわけですが、価格帯をユースホステルと同じにしていた。

 すると、どうもおかしい。変だなという感触があった。ペンションなのにユースホステルのユーザーが、うちのペンションに泊まりに来ていた。で、聞いてみたら、近郊にあった◇◇ユースホステルとトラブルがあったらしくて、そこから逃げてきた一人旅のお客さんが、うちの宿に泊まりに来ていると言う。ひょっとして◇◇さんは、日本ユースホステル協会から脱会して、ユースホステルを辞めたのでは無いか?という疑問がわいてきたので、断られてから6ヶ月もたってなかったけれど、もう一度、日本ユースホステル協会に
「ユースホステルの認可を取りたいんですけれど」
と聞いてみたら、今度はすぐに群馬県ユースホステル協会に行って面接をうけてこいと言われました。


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 そして、アッという間にユースホステルの認可をうけたのですが、全室バストイレ付の施設であったために、ユースホステルではなくて、もう1ランク上の設備であるユースゲストハウス(YGH)ということになってしまった。だから、北軽井沢ブルーベリーYGHの『YGH』というのは、ユースゲストハウスの略ということになります。

 ユースホステルが新規でオープンする時は、大勢のヘビーユーザーたちが大量に来るらしいのですが、うちの宿にきた、お客さんは3人だけだった。その後、何ヶ月もユースホステルの会員さんが泊まりにこなかった。ペンション客ばかりだった。どうやら悪い口コミが流れていたということを後で知った。

 そんな状況の中で、最初にユースホステルのお客さんとして現れたのが、高校生や中学生や大学生だった。それも生まれて初めてユースホステルに泊まるようなお客さんで、決してヘビーユーザーというわけではなかった。面白かったのは、小豆島のオリーブユースホステルに泊まった後に、北軽井沢ブルーベリーYGHに泊まりに来た学生さんです。小豆島と北軽井沢ではあまりにも距離が離れすぎていますので、1回の旅行で両方を回るなんてとんでもないことなんですが、どうしてそんな計画を立てたのかと聞いてみたら、

「だって両方とも名前が木の実だから」
「・・・・」

 それだけの理由かい!

 と、突っ込みたい気持ちと、爆笑したい気持ちをグッとこらえるので必死だった。それはともかくとして、ユースホステルをほとんど使ったことがなかった中学生・高校生・大学生たちは、どの宿が、あたりなのか外れなのかわかりませんから、ユニークな動機で宿を選んでいました。ある高校生は、軽井沢から北軽井沢まで歩くとちょうど8時間という理由で、うちの宿を選んでいました。8時間森の中を歩きたかったという理由で選んでいたわけです。吾妻線の行き止まりの終点を見たいという理由で泊まりに来た中学生もいました。

 ヘビーユーザーではない若者たち。つまり一人旅を始めたばかりの若者たちには、「あたりの宿」とか「はずれの宿」という発想は、あまり無くて、大人達の考える物差しとは違うユニークな基準で宿を選んでいました。

 中でも面食らったのは、学校に行ってない不登校の中学生。まず最初に親御さんから必ず電話がかかってきて「息子は不登校なんです」と教えてくれます。でないと家出少年と間違えられるからです。学校のある平日に泊まるわけですから怪しまれないように親から電話があり、その後に公共交通機関を使って一人で泊まりに来ます。

 北軽井沢というところは、車が無いと不便なところなんですが、中学生が運転免許をもっているわけもなく、当時うちの宿にはレンタサイクルもなかったので、こんなところに来てどうするんだろう?と思ったんですが、当時は嫁さんもいなくて一人で仕事していたために、かまってやることもできず、放置(無視)していたんですが、何日も連泊がつづくと、さすがにこっちの良心も痛んできたので、
「今日の夕食は一緒に食べても好いかい?」
と本人の許可をとって一緒に食事をして旅行の目的を聞いてみたら私に会いに来たという。

「へ?」

 世の中には、変な奴もいたもんだなあと思いつつ
「どうして俺に会いに?」
と聞くと、うちの宿のホームページに書いた『旅人的生活の方法』というページを読んで私に会いたくなったという。

 あちゃー、参ったなあ・・・

 と思った私は「旅をしたいの?」と聞いたら、そういうわけでもないらしい。何をしたいか本人にも分かってないらしい。とにかく学校に行きたくなくて、悶々としているうちに、どんどん敷居が高くなって不登校になり、なんとなく生きる目標がなくなってきたときに、暇にまかせてネットサーフィンしてたら私のサイトにたどりついて、うちの宿に泊まりに来たらしい。で、彼は無口になってしまった。ほっとけば、何時間も黙ったままな感じだ。こんなのに付き合ってはダメだと思った私は、

「やめたやめた! もう商売は終わり! 明日から3日間、宿を閉める」
「・・・」
「なので、君は明日から客では無い」
「・・・」
「だから俺につきあえ。明日は浅間山に登るからな。嫌とは言わせないぞ」

 と言うわけで、その中学生を連れて一緒に浅間山に登り、下山後には温泉につかり、次の日は四阿山と根古岳に一緒に登り、その次の日には湯の丸山と烏帽子岳に登った。悲鳴をあげて自宅に帰ってくれたら儲けものだと思ってたのですが、思った以上に彼は根性があった。

「それだけの根性があれば何だってやれるよ。見直したよ!」
「そうでしょうか?」
「自信もてよ。お前が思ってるより、お前はスゴイ奴なんだから。学校なんか行かなくても充分やっていける。ただな、学校には行かなくていいから勉強はしろよ。損するから。特に簿記と、ある種の数学。つまり連立方程式と関数はやってないと損する。利益計算やエクセルが使えないと、カモにされてしまう。つまり損する」
「どう損するんですか?」
「例えば、500万もってる人と、500万の借金をしてる人は、どっちが金持ちだと思う?」
「500万もってる人?」
「不正解。500万の借金をしてる人が、ひよっとしたら金持ちの可能性だってある。例えば、借金があったとしても5000万の株を持ってて、毎年250万の配当をもらって可能がある。だから正解は『そこまで調べないと分からない』になる。そのために簿記の知識が要る。これだけは独学でもいいから勉強した方が良い。学校の勉強をサボっても人生で困らないけれど、簿記の基本が分からないと困ることがあるんだよ。他にも知っておいた方がいい知識は山ほどある。それはな・・・・」

 私は、学校に行かなくても、社会で戦える方法をみっちり教えてあげた。学歴なしでも対抗できて、好き勝手に生きる。やりたいことをやる方法を伝授した。

 その翌日、彼は自宅に帰っていった。そして何日かしたら御両親から「息子が学校に行くようになりました。ありがとうございました」という電話と手紙が届いた。私は「なんだ学校にいったのかよ」とガッカリしてしまった。せっかく学校に行かなくても、社会で戦える方法を教えてあげたのに、結局、私のアドバイスは何一つ聞いてなかったということになる。というか、めんどくさいことに気が付いたのかもしれない。私がやったことは無駄だった。

 そして後日、別の親御さんから「不登校の息子を預けたい」という電話があったが、即座に断ってしまった。どうやら不登校児をもつ親にはネットワークがあったらしく、そういう依頼がジャンジャン来たけれど、全部断ってたのは言うまでも無い。もちろん学校のある平日に泊まろうとする中学生・高校生も全て断った。

 で、不思議なことに週末に泊まりに来る中学生が急増した。けれど、これは大歓迎で受け入れた。彼らは、同世代の中学生たちと仲良くなって、とても楽しんで帰って行った。どうやら新しい友情が芽生えたらしい。大人たちにも可愛がられていた。高齢の御客さんから、お小遣いをもらったり、おごってもらったりもしていた。で、住所交換し、本当に楽しそうに帰って行った。そして二度と、うちの宿にくることはなかった。


つづく。

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posted by マネージャー at 23:25| Comment(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月27日

中学生一人旅についての思い出【3】

 40年ぐらい前に私は、1日あたり2万円ぐらいもらって映像素材をかき集めてくると言う土方作業をやっていました。少ない日給で宿泊費も出さなければいけないので、 一番安い所に泊まるしかなく、ユースホステルにしか泊れなかった。 結局、その仕事からは足を洗ったのですが、その後も旅行などでユースホステルに泊まり続けました。で、数年後に旅先で秋田の山奥にあるユースホステルに泊まって、他の旅人と談笑していると、中学生ぐらいの美少女に話しかけられました。

「お久しぶりです」
「?」

 相手は、私のことをよく知ってるようでしたが、私には全く覚えがない。誰と人違いをしてるんだろうと思っていると、三年ぐらい前に私にお世話になったと本人は言っている。それこそ全く覚えがなかったので
「人違いじゃないんですか?」
と聞き返したんですが、
「池袋に住んでいる佐藤さんですよね」
と聞いてくる。
「はい・・・」

 よくよく聞いてみると、3年ぐらい前に私はその子にお菓子やジュースをあげたりしたうえに、一緒に自転車で田沢湖を回っていたらしい。その子は、国民宿舎に泊まっていたわけですが、私はユースホステルに泊まっていた。その宿は、国民宿舎とユースホステルの両方を経営していて、 その子は親と一緒に国民宿舎に何日か泊まっていた。

 で、私はユースホステルの方に一週間ほど泊まっていて、毎晩のようにお茶会で見知らぬ人々といろんな会話をし、気が向いたら早朝に田沢湖を自転車で回っていたりした。もちろん中学生や小学生も一緒。当時の大人達は、ユースホステルに泊まっている小学生や中学生を非常に可愛がりましたので、国民宿舎に宿泊していたその少女は、それが非常に羨ましかったらしい。

 その少女は、ユースホステルのグループに入りたいけれど、自分は国民宿舎だったので、なんとなく入りづらくて遠くから見ていたらしい。それを察したらしい私が
「君もこっちへ来てお菓子を食べないか?」
と無理やりに連れてきて、みんなに紹介したらしい。その結果、その少女は、他のユースホステルの人達と仲良くなって、それも同年代の女の子たちとも仲良くなって、すぐに打ち解けても一緒に自転車でサイクリングしたり、山に登ったりしたが、それが楽しかったらしく、強烈な思い出として記憶にのこっていたらしい。

 ・・・らしいと書いたのは、私は憶えてなかった。三年前だと私は、仕事で泊まっていたはずなので、記憶に残ってなかったのも無理は無い。しかし、当時小学生だった彼女には、その体験が忘れられなく、毎年、親にねだって田沢湖のユースホステルに泊まりに来て私を探したらしいのだが、もちろん私はいなかった。第一、そんな偶然があるわけがない。普通ならあるわけがないのだが、ホステラーと呼ばれるユースホステルを使って旅する人間だと、そういう偶然がありえるから面白い。





 まあそんなことはどうでもいいとして、 こっちの頭の中には、小学生の女の子の記憶しかないので、成長して中学生になった女の子に「お久しぶりです」 と言われても、「はて?どなたでしたっけ?」ということになる。

 こういうは、度々あって、この子に限らず何人かの小学生たちが、中学生、あるいは高校生になった頃にユースホステルで再会して「お久しぶりです」と言われることになるとですが、その都度「どちら様ですか?」ということになる。

 私の姿が、あまり変化ないのに対して、相手はどんどん成長していくので、何年ぶりかに再会しても、どこの誰だかさっぱり分からない。特に女の子は、劇的に変化するので、分かるはずが無い。

 話は変わりますが、似たような話として、登山中とか、山小屋で女の子と仲良くなって住所交換し、東京で再会したりすると、同じようなことがおきますね。男同士で居酒屋に入って、山で知り合った女の子を待ってると、見たこともない女性(美女)がにこやかに笑って手を振って、こちらに向かってくるので、私たちの後ろに誰かいるのかな?と、後ろを振り向いたら、メニューが書いてある壁しか無かった。「あれ?」と思って、よくよく見たら山で知り合った女性登山家たちだった。昔は、今の山ガールみたいなファッションが無かったうえに、昔の登山女子たちは化粧もしなかったので、東京で再会すると化粧効果なのか、衣装効果なのか、こんな知り合いは俺にはいないはず・・・という先入観から「どちら様ですか?」ということになる。

 話がそれました。

 ユースホステルで可愛がった小学生たちが、中学生・高校生になった頃に再会して、その変わりように驚いてしまう。こういう再会がある宿は、必ずと言っていいほど、旅館(または国民宿舎)と兼業のユースホステル。当時のユースホステルには、旅館(または国民宿舎)と兼業のユースホステルと、そして専業のユースホステルの二種類がありましたが、評判のよいユースホステルは、必ず専業のユースホステル。そんなユースホステルを仕事で使えるわけもなく、私は、旅館(または国民宿舎)と兼業のユースホステルを仕事で使っていた。仕事で使っていたけれど、夜になると、旅人と旅の話でもりあがり、子供たちがいたら可愛がったので、それを遠くから見ていた一般人(小学生)は、それを恨めしそうに見ていたらしい。それに気が付いた私は、そんな子供たちを御菓子で釣るようにして、ユースホステルのイベント(お茶会)に私が誘っていたらしい。

 ・・・らしいと書いたのは、こっちは、憶えてなかった。
 憶えてなかったけれど、相手の方にとっては、
 強烈な思い出だったらしくて、それが忘れられなかったらしい。
 で、親にねだってユースホステルの一人旅に出かけ、いろいろな体験をし
 数年後に、偶然、私と再会したということになる。

 このことは、息子が生まれるまですっかり忘れていたのですが、息子が生まれて大勢のファミリーのお客さんが、うちの宿に泊まりに来るようになると、じんわりと思い出すようになりました。そして、うちの宿を大々的に改造することを思いついたわけです。


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 現在のユースホステル業界は、壊滅的に会員がいなくなっており、 かろうじて会員のまま踏みとどまっている人たちも、六十歳以上の高齢者ばかりになっています。 いずれその人たちも、高齢で旅ができなくなる時が来ますから、ユースホステルの滅亡も秒読み段階となっている状態です。このままではマズイと思った私は、幼児・小学生たちにとって、楽しい思い出になるような宿でないとだめだと思い、息子が生まれた8年前から少しずつファミリー対象にシフトチェンジしています。


つづく。

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2021年03月26日

中学生一人旅についての思い出【2】

 今ではほとんど絶滅していて、昭和時代に多かったのが小学生や中学生の一人旅です。前回は、鉄道マニアの中学生の話をしましたが、今回は自転車で一人旅をしている中学生の話です。1970年代末から1980年代の話ですが、ユースホステルを使って旅行をすると、やたらと自転車で一人旅をしている中学生がいました。

 彼らは他のユースホステルユーザーと違ってて、 夜遅くに到着して朝早くに出かけます。普通ユースホステルを使う人たちは、この逆です。 早めにチェックインして、みんなでご飯を食べて、ミーティングと呼ばれるお茶会に出て、見知らぬ人たちと談笑して、そして仲良くなって翌日に一緒に旅行する。これが一般的なユースホステルユーザーの旅のスタイルですが、自転車で旅する中学生たちは、夜遅くチェックインするために、ユースホステルで食事を食べません。そして朝早く出かけるので、朝食も食べません。ただひたすら自転車で走っている様に見えました。

 自転車が好きなんだなと最初は思っていたんですが、彼らと話をしているうちに、 どうやらそうではないことに気がつきました。 彼らは、漫画家・荘司としおの『サイクル野郎』に影響をうけて自転車で一人旅をしていた。


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 若い人たちにしてみたら、荘司としおと聞いても『?』でしょうが、私の世代だと、荘司としおを知らない人はいません。昭和時代の子供たちが夢中になって読んでいた小学館の『小学◇年生』という漫画雑誌に、いろんな単発読み切り漫画を書いていたし、彼の代表作である『夕焼け番長』は、アニメ化されて子供たちに大人気だった。主人公の赤城忠治には、みんなあこがれた。

 そうそう、『夕焼け番長』の主人公の名前が「赤城忠治」なのだ。群馬県の赤城山の中で生まれ育ったために金太郎のように喧嘩が得意で、スポーツもできる。国定忠治を尊敬し、仁義を重んじるというキャラクターなのだ。彼は、ライバルを次々と倒していくが、その後に必ずライバルと友情が生まれる。そして親友になって、大きな事をなしとげていく壮大な物語となる。

 いわゆる少年漫画のパターンが凝縮されたのが『夕焼け番長』。つまり少年漫画の王道を確立したのが荘司としおの『夕焼け番長』だった。だから本宮ひろしは、絶対に『夕焼け番長』の影響をうけていると思う。ドラゴンボールだって『夕焼け番長』のパターンを踏襲している。


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 ちなみに荘司としおの師匠が、『ゼロ戦行進曲』の貝塚ひろしで、画風が一緒である。というか、そっくりそのまま。なので、子供の頃は、荘司としおと貝塚ひろしは、同一人物だと思っていた。ある世代の人間にとっては、手塚治よりも、荘司としお・貝塚ひろしの絵の方が、なじみが深い気がする。

 話がそれた。

 当時存在した週間漫画雑誌である『週刊少年キング』は、『サイクル野郎』があるから買って読むという人が多かった。だから『サイクル野郎』が最終回で終わってしまうと、あっというまに『週刊少年キング』が休刊になってしまった。『超人ロック』の連載も、『銀河鉄道999』の連載も、『週刊少年キング』の休刊を止められなかった。

 全国のユースホステルのオーナーたちも、その多くが『サイクル野郎』の読者で、『サイクル野郎』によってユースホステルの存在を知り、『サイクル野郎』に影響を受けて自転車で日本一周をし、ユースホステルを体験し、そしてユースホステルのオーナーになったケースも少なからずいたはずだ。それほど『サイクル野郎』は、1970年代の子供たちに影響を与えていたし、その余波は、1980年代にも続いていた。

 前回は、鉄道マニアのこどもたちが親を洗脳して、一人旅をさせてもらう方法を述べましたけれど、 こういう手段を取れるのは、あくまでも鉄道マニアに限られた話で、鉄道マニアではない普通の小中学生が、親の承諾を得て一人旅を行うことは難しかった。昭和の時代であっても非常に難しい。唯一可能性があるとすると、自転車旅行しかない。

 旅行で一番お金がかかるのが交通費なのだから、それが無料になる手っ取り早い手段は、自転車。自転車ならば、大抵の子供たちが持っている。後は宿泊費用だが、野宿をすると言ったら親は絶対に許してくれないので、ユースホステルを使うしかない。昭和時代のユースホステルならば、安ければ1000円ぐらいで泊めてくれるし、当時のユースホステルには自炊設備もあった。だからパンと水筒と自転車さえあれば、中学生のお小遣いで一人旅できた。

 それを教えてくれたのが『サイクル野郎』。そこには、一人旅の具体的方法と、観光名所や、実在する格安な宿泊施設(ユースホステル)が書かれてあった。だから『サイクル野郎』を読んだ小中学生は、必ず一人旅に目覚めた。読んでない人は覚醒しなかった。小中学生が、一人旅できるわけがないと思っていた。思い込んでいた。

 けれど小中学生でも、やりようによっては、自分のこづかいで一人旅が出来るという実例を教えてくれたのが『サイクル野郎』であり、この漫画は一種の啓蒙書だった。つまり、当時のユースホステルには、鉄道派の小中学生と、自転車派の小中学生がいた。

 で、鉄道派の小中学生たちは、すぐに大人たちと混じり合って、可愛がってもらったり、こずかいをもらったり、奢ってもらったりしていたけれど、自転車派の小中学生たちは、ストイックな人たちが多くて、なかなか大人たちに混じらなかった。

 それが何かはがゆかった私は、ロードマンという自転車を購入し、まず手始めに埼玉の山奥にあるユースホステルに行ってみたけれど、そんなところ(山)に自転車派の小中学生が、いるわけもなく、次は、平地を走ろうと思い、茨城にある加波山というところにあるユースホステルに行ってみたら、そこには車できている大学生ばかり泊まっていた。ちょうど筑波万博が開かれていた。

 次は、自転車で東北一周旅行し、その次は北陸を走り、その次は山陰・山陽を走った。気が付いたら自分もストイックになって、自転車派の小中学生たちと出会っても、手を振って挨拶するだけだった。マラソンしている最中に会話を楽しまないのと一緒で、自転車を走らせていると、人との出会いなんぞ、どうでもよくなってくる。ただひたすら走って、時々出会った旅人と、軽い会釈するだけになってしまった。


つづく。

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2021年03月24日

中学生一人旅についての思い出【1】

 昭和時代にユースホステルに泊まると、小学生や中学生が一人旅で泊まっていました。それが私には不思議で、よく親が許したなと思って、一人旅の小学生や中学生に、
「どうやって親の許可を取ったの?」
と聞いてみたら、非常にシンプルな回答が返ってきた。

 彼らは全員が鉄道マニアで、小学校一年生になると隣の駅まで一人で鉄道に乗ることを頼んで、鉄道旅行の一人旅をします。次は二駅の旅行をさせてもらう。その次は三駅の旅行。そういう実績を積み重ねていって、小学校二年生ぐらいになると、100キロぐらい先まで旅行するようになっている。三年生になると、これが200キロぐらいになって、四年生になるとユースホステルというものの存在を知って、一人で予約して一泊の旅をする。最初は親も不安で心配なので、色々と手配したり、一緒についてきたりするんですが、宿泊だけは一人で行う。そうやって実績を積んで行って、小学校五年生ぐらいになると三泊四日の鉄道旅行を許されるようになり、小学校六年生ぐらいになれば、一人で九州旅行とか、北海道旅行に行ったりする。
「こうやって着々と親を洗脳してきたんですw」
と、小学生や中学生は言っていました。
「なるほどなー」
と、私は感心したものです。

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 今では考えられないことですけれど、昔は、こうやって親を納得させた、小学生や中学生がユースホステルにたくさんいた。そのせいか、山と渓谷社が「ユースホステルと旅」という本(ベストセラー)を出していて、そこのトップページにユースホステルに宿泊する方法が写真で紹介されているのですが、そのモデルは小学生の女の子でした。つまり昭和時代には、小学生の女の子が、普通にユースホステルを使って旅をしていたわけで、特段珍しいことではなかった。


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 うちのリピーターさんたちならご存知だと思いますが、スタッフの土井くんも小学生の時の卒業旅行に東京から九州まで一人で旅行しています。彼は、鉄道マニアではなかったのですが、ご両親が昔ユースホステルを使って旅行していたので、ユースホステルには小学生が宿泊していることも知っていたのかもしれません。

 それはともかくとして、どうして当時20歳くらいだった、いい大人の私がユースホステルで小学生・中学生たちと仲良くやっていたかと言うと、彼らがとても親切だったからです。今の時代では、分からないかもしれませんが、昔はスマホもなければ、パソコンもないし、インターネットもなかったので、鉄道旅行をするには、分厚いJR時刻表を持参してたりするしかなかったんですが、これがやたらと重かったりする。その上、読み方が非常に難しい。普通の素人には読めない代物だったりする。だから普通の旅行者は、事前に計画を立てて、列車のダイヤなどを調べて計画通りに旅行するんですが、私のような行き当たりばったりの旅行をする無計画な人間には、鉄道旅行は非常に難易度が高かった。

 それで困ってユースホステルで分厚いJR時刻表を睨んでいるわけですが、そんな時に神様のように手助けしてくれるのが、中学生の鉄道マニアたちです。彼らは本当に親切で、当時20歳だった私のために、色々な計画を立ててくれたりする。それも分厚いJR時刻表ではなくて、ダイヤと呼ばれる折りたたみ式の、JRの職員さんたちが使っているようなプロ向けの時刻表で一瞬で調べてくれて、計画を立ててくれたりする。まるでコンピューターのようなその作業に私は感動して
「(鉄道の)師匠と呼ばせてください」
と崇め奉りました。そして、その師匠にいろいろ質問をし、別れて別の目的地に行くんですが、そこにも偶然、前日に親切にされた鉄道の師匠が宿泊していました。

「おお、(鉄道の)師匠じゃないですか!」

と再会を喜んだ私は、またもや旅の計画に関して色々お世話になって、翌日分かれます。そして、次のユースホステルで、またもやバッタリと宿泊予定のユースホステルで師匠に出会います。これが何日か続くと「あれ?」ということになる。今だったら「怪しいな」と思うところなんですが、生まれつきのんきの私は、「まあ良いか」と思ってその疑問を放置することにしました。

 で、何日間か旅行計画でお世話になった御礼に中学一年生の師匠に対して「ご馳走してやる」と言うことになり、大阪の立ち飲み屋で串カツを食べさせました。私はビールを飲んだわけですが、だんだん酔いが回ってくると、大阪のサラリーマンたちが、中学一年生の(鉄道の)師匠に色々と尋ねてきて、見知らぬ人間同士が知り合って旅行中だということがばれてしまうと、見ず知らずのおっちゃんが
「お好み焼きをおごってやる」
と言い出して、知らないおっちゃんとお好み焼き屋に入って行きました。

 そこでもビールかなんかを飲んで、酔いが回ってきたので、今日はサウナに泊まろうということになって、中学一年生の師匠とサウナに宿泊。それが失敗の元だった。オーナーが不審がって通報したらしくて、翌朝、警察がやってきて、事情聴取を受けてしまった。よくよく考えてみたら、その日は一月十日前後の平日で、本来なら学校に行ってる時期なのに、大人と中学一年生が、サウナに泊まってるのは怪しいということだった。その時つくづく思ったのは、やはり子供の一人旅はユースホステルでないと駄目だなあということです。

 ちなみにその師匠は、元々、何年も学校には通ってなかったらしくて、当時は珍しい不登校児でした。もちろん親の公認で旅行をしており、毎晩親元に電話連絡をしていたのを私も、この目で見て知っていましたから、まさか不登校児だとは夢にも思ってなかった。というのも、私はその親と電話で話しており、
「息子をよろしくお願いします」
と何度も頼まれていたからです。

 しかし実際は、よろしくお願いしていたのは私の方で、中学生の師匠のアドバイスで旅行していたからむしろ保護者は、師匠の方であって、私ではなかった。ユースホステルの宿泊数も、師匠の方が十倍ぐらい泊まっていたし、それに比べれば私の旅行者としてのレベルはずいぶん低かったと思う。

 今では廃止になってしまっていますが、昔は、ユースホステルに泊まると会員証にスタンプをしてくれ、スタンプがどんどん増えていくと会員証が分厚くなっていきます。私の会員証はペラペラでしたが、師匠の会員証は、十三歳なのにかなり分厚買った。おまけに五十泊以上宿泊するともらえる銀バッチまで持っていた。当時は日本ユースホステル協会の銀バッチを持っていると、それだけで仰ぎ見られるステータスだったので、それだけで
「こいつは、ただものではない!」
ということになり、その人から鉄道旅行についていろいろ親切に教わると
「師匠と呼ばせてください」
ということになる。

 まあそんなことはどうでもいいとして、中学生が私の後を追いかけるように、私と一緒に旅行したがった理由は、警察に通報されるからだと気がついた。学校が始まってるのに一人旅してたら怪しまれる。だからユースホステルを使っていたのだし、私にも親切にしていたということ気がついた私は、その子は将来大物にになることを確信した。不登校だけれど、頭はすごくいいと感心した。私は、旅を終えることにした。

「警察に通報されてしまうから、もう俺たちは別れよう」

と提案し、私は新幹線で自宅に帰ることにしました。すると師匠は残念そうに新幹線のホームまで見送りに来てくれて、
「これは有名な肉まんだから」
と言って土産まで買ってくれた。そして最後に
「どうして僕のことを『鉄道の師匠』って呼ぶの? 普通は先生じゃないの?」
と聞いてくるので
「教師でもないやつを『先生』という呼び方は蔑称だったりするんだよ。特に飲み会の席なんかで『大先生』と言う場合は、たいていの場合は小馬鹿にした言い方。だから失礼の無いように『師匠』と言ったわけさ」
と言ったら、
「そういえば、癖のつよい酔っ払いに『大先生』と言いながら酒をついでいましたね」
と笑ってました。私もつられて笑い、新幹線が発車すると、それっきりで、師匠とは、音信不通となって会っていません。

 後日、その親御さんから「息子が学校に通うようになりましたありがとうございます」と言う丁寧な礼状と、大量のリンゴが送られてきました(彼の実家はリンゴ農家だった)。どうやら師匠は、ろくに学校も行かずに、ふらふらしている私の姿を見て、それを反面教師にして、真面目に学校に行く気になったらしく、その後に某国立大学の農学部に入学したことだけは、親御さんから聞いている。


つづく。

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2021年03月22日

愛郷ぐんまプロジェクトに登録完了しました

群馬県民の皆さん
愛郷ぐんまプロジェクトに登録完了しました。

一人あたり6600円以上の金額ならば、
5000円のキャッシュバックになります。


予約は、下記サイトからどうぞ。
6600円(税込)以上のプランならば、5000円の返金対象になります!

楽天トラベル
https://www.mytrip.net/HOTEL/6054/6054.html

じゃらんネット
https://www.jalan.net/yad337566/


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もし、6600円以下のプランで、キャッシュバックを受けたい方は、うちの宿に直接予約をして、うちの宿で、酒類・ビール・ジャムなど買うことによって、6600円以上になれば、5000円のキャッシュバックの対象になります。素泊まり5000円で泊まり、ビール(220円)3本と、ワイン(1000円)を買えば、6640円になるので、5000円が返金されます。


直接予約
http://kaze3.com/reserve.htm


つづく。

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2021年03月21日

あと一週間で息子は8歳

 早いもので、あと一週間で息子は8歳になります。もう8年も子育てをしているのだと思うと誠に感慨深いものです。8歳に近づくにつれ、どんどん大人になっていくのが分かります。もう子供ではない。昔なら、同じぐらいの歳の子供がお客さんでやってこないと
「なんだ大人ばかりか」
と、不満を漏らしていたものですが、今では
「今日もお客さんがいないの?」
と不安そうに予約表を眺めたりするようになりました。

 宿のことを心配するようになり、電話がかかってくると「予約?」と聞いてくるようになり、そうでないとガッカリした様子をみせます。もちろん贅沢も言わなくなりましたし、密かに、うちの宿屋の売上げを小学2年生の息子が、自分なりに計算していて、心配そうに親の顔を伺っている。で、自分なりの経営のプレゼン(もちろん内容はダメダメですが)を私にしてきたりする。そういう姿を見ると、ずいぶん大人びたと思ってしまう。

 勉強も、以前より出来るようになりました。特に算数は、親が宿業をやっている関係で、絶対に必要だと思ってるらしくて、積極的にとりくんでいる。Eテレの『算数デカゼロ』なんかも面白そうに見ているし、高校生を対象としたEテレ番組の『ベーシック数学』も面白そうに見ている。中身を理解してるかどうかは別として面白そうに見てる。


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 また、うちの宿には、小学1年生から小学6年生までの算数のDVDがあったりするんですが、それも面白そうに見ている。内容を理解しているかどうかは別にして、面白そうに見ていて、目が悪くなるので、途中でやめさせるのですが、親のいないところでこっそり見ていたりする。

 ポイントは、九九にあったとおもう。九九さえマスターしていれば、それ以降の算数は、そんなに難しくないようだ。幸いうちの息子は、小学校に入学する前から九九を暗記していたので、2年生になって九九を覚える段になった時に、スムーズに覚えられたと思う。

 で、2年生の宿題は、ほとんど九九に費やされていた。これは担任の先生の戦略だと思うんですが、九九を徹底してマスターさせる学習方針だったようだ。9月から3月の6ヶ月にわたって、九九の宿題を徹底的にやらせていた。

 その宿題というのが、これまたすごくて、
  1.最初から九九の暗唱
  2.全部終わったら後ろから九九を暗唱
  3.そのあとにランダムに九九の問題を出して正解させる
というもので、よくできたら◎。そうでなかったら〇・△・✕と書いて、それを親が先生に提出することになっていた。これを半年間、みっちりと宿題に出た。冬休みの宿題も毎日この宿題だった。

 正直言って、これに付き合わされた御両親たちは、大変だったと思うが、その成果はあったと思う。うちの息子は、小学校に入る前から九九を暗記していたけれど、暗記してたといっても、九九の歌の歌詞を覚えただけで、九九をマスターしているわけではなかった。「あいうえお」を話すレベルで九九を言えるわけでは無かったので、6ヶ月にわたる九九の宿題づけによって、九九を徹底的にマスターすることによって、計算が速くなった。

 そのせいか、3年生以上の算数がパッと分かるようになったのは意外だった。九九の訓練によって算数頭脳が鍛えられたためか、分数や小数の掛け算・割り算を面白がるようになってきたし、ナンプレなどの数字パズルも出来るようになり、苦戦している母親にヒントを教えるまでになってきた。これはうちの息子だけでなくて、息子の同級生全員に似たような影響が出ていると思う。あの6ヶ月間の宿題によって算数頭脳が鍛えられたと思う。

 じゃあ、どんどん算数の先取りができるかどうかと言うと、そんなことはない。理解できたのは計算のみ。計算は分かるけれど、実際に算数の文章問題が解けない。国語力が小学2年生のレベルなので文章問題につまずいてしまう。つまり国語力がないと算数は解けない。

 例えば、『原価100円のノートを120円で販売ししているものを2割引で売ったとします』という問題が出た時に、「原価」や「販売」や「割引」の意味が良く分かってないので問題が解けない。問題の意図を読み解いて図に表して書いて考えることができない。結局、6年生の数学は、6年生で学ぶべきだろうなと思いました。


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 それから驚いたのは、今の小学校の算数は、昔に比べて難しくなっています。私が小学校のころは、文字式を習ってなかった。XとかYの代わりに、□とか△を使っていたけれど、今の小学校の算数では、XとかYを使っている。つまり文字式を習っている。その上、連立方程式でないと解けない問題(いわゆる鶴亀算)まである。こういう問題は、いくら算数頭脳があったとしても小学2年生には絶対に無理。

 一応、連立方程式を教えてみて、それなりに解けるようになったけれど、どう考えても息子には早すぎる。混乱する恐れがある。なので教えるのをやめました。もう少し国語の力が、ついてからにします。

 と、ここまで書いて気が付いたのですが、国語力というのは、語彙の力ですね。大昔、現代国語を勉強していた時には、「それは何をさすのか?」という問題が多かったので、指示語が示す内容を正確に読解することが国語力だと思っていましたけれど、そうではない。語彙力です。語彙力が無いと問題が解けませんから。そういう意味では、算数も、理科も、社会も、国語の勉強をしているようなものだと思いました。


つづく。

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2021年03月18日

徒歩旅行の思い出【7】知床

徒歩旅行の思い出【7】

 今から30年ぐらい前の話なんですが、知床岬まで歩いて行こうかと、メンバーを募集したら10人ぐらい集まった。 当時は知床岬までの定期連絡船があったので、行きだけ歩いて行き、帰りには定期連絡船で帰るというスケジュール。羅臼町の相泊というところから歩いていくわけですが、早朝に出発しても岬まで一泊二日の日程が必要でした。 途中すごい難所がいくつかあったわけですが、なんだかんだと岬に到着。そして連絡船で帰ったわけですが、その時の感動が忘れられなくて、四年後にもう1回知床岬にチャレンジしたことがあります。

 どうせ行くなら1ヶ月くらいかけて、斜里ウトロから知床岳に登って羅臼の相泊まで縦走し、その後に知床岬にぐるっと回って、できれば知床半島を一周し、最終的には知床岳から知床岬までの知床連山縦走を行うところまでやろうということになりました。 そしてなんだかんだと頑張って全部の目標を達成したわけですが、 大自然の中を1か月ぐらいうろつき回るとどうなるかと言うと、嗅覚が異常に発達します。

 具体的に言うと、 鹿の匂いとか、熊の匂いがわかるようになる。100 M ぐらい離れていても熊の臭いならわかるようになってしまう。これは私だけではなくて、参加者30人のほぼ全員が、一週間ぐらい山の中に入ると、嗅覚が発達して、熊や鹿の臭いが分かってくる。 かなり遠くにいても臭い気がつくようになる。しかも、今まで山なんかに登ったことがないという二十歳ぐらいの若い女の子まで嗅覚が発達してくる。もちろん人間の嗅覚なんて、熊や犬の嗅覚に比べたら、まるっきりレベルが低いんでしょうけれど、それでも分かるようになることが不思議でした。

 嗅覚だけではありません。聴覚も発達してくる。と言っても私は生まれつきの難聴なんですが、難聴である私の聴覚が発達してくる。これは普段よりも音が大きく聞こえるということではなくて、普段の私たちは、音に鈍感なんだと思う。聞こえてても聞こえないふりをしているということだと思う。けれど 一週間以上も登山道ではないジャングルのような山の中に徘徊していると、聴覚と嗅覚に過敏なほど敏感になってくる。と言うか、他に情報がないので、そういう情報に敏感にならざる得ないのかもしれない。

 何しろ当時は、スマホといった便利なものはなくて、あってもせいぜいラジオだし、そのラジオも気象通報の情報を仕入れるためのものだったので、電池の無駄遣いを下げて夜の8時にしかつけてない。だから極端に情報を遮断していた。活字を見ることもなければ、お金を使う所もない。一回に10日ぶんの食料を背中に担いでジャングルの中を歩くわけですから、荷物は極限まで減らしても40キロ装備だったので、読書のための本を持っていくこともなかった。途中人間に会うこともないので、言葉を発することもない。 けれどヒグマには37回もあって、そのうち2回は3メートルくらい近くまで接近している。だから余計に嗅覚と聴覚に敏感になったんだと思う。



(1996年の探検記録です)


 知床連山縦走した時は、仲間の一人が、4 L ペットボトルのキャップをなくしてしまって水不足になってしまったけれど、なんとか無事に縦走できたのは、泥水をろ過するポンプを持っていたからで、その水を沸騰させてペットボトルに移す作業が大変だった。私は仲間が寝静まった後に、その作業をコツコツとやっていたわけですが、2 L の水を作るのに4時間ぐらいかかってしまった。普通なら気が狂いそうになるところなのですが、情報遮断されていると、意外に苦にならない。むしろ時間を潰すのにちょうど良かった。

 頭に来たのは、縦走が終わった後にペットボトルのキャップを無くした張本人が「水不足になったのは事前計画がなってなかったからだ」 と、いちゃもんつけて来たことですが、人間というのは、自分に都合の悪い事実は、ポカッと忘れてしまうらしい。あまりに苦しい思いをすると、 記憶が塗り替えられるとがある。これに気がついたことは、私には大きな収穫だった。

 結局、三回ほど、知床連山を経由して岬まで縦走したのですが、登山道の無いハイマツ帯を縦走するコツは、遠回りしてでもハイマツ帯を迂回することだという結論になり、二回目にそれを行ったら一回目の労力の半分しか使わなかったし、三回目はもっと楽勝だった。原生的自然の探検は、けっきょくの所は頭脳戦になる。

 そして、メンバーは、むしろ何も知らない素人の方が、まとまりやすく簡単に目的を達成できることがわかった。なまじ知識のある奴だと、その人の人格に問題があると、かえって足を引っ張って混乱するからです。一回目は男ばかりの三人だったので、非常に苦労したけれど、二回目は素人の女の子十人を連れて行っても、なんの苦労も無かった。というか、素人の女の子十人が大活躍してくれた。あと、女の子がいると男は醜態をさらさなくなる。男らしくなる。

  そう言えば知床岳に登る時は、岩場でビバークしたこともあった。急な斜面だったので、ハイマツにロープを縛り、自分たちの体をつなげて岩場で眠ったものですが、 そのメンバーの中には、長野県黒姫のペンション『ふふはり亭』のオーナーもいる。彼は、その後、渡米してヘリパイロットになり、その後、嬬恋村のシャクナゲ園のサカイさんのところで働き、長野原町の町長選挙の参謀となったり、自然ガイドになり、南極越冬隊の隊員となって、ペンション『ふふはり亭』のオーナーとなり、現在は環境省で働いてます。

 まあそんなことはどうでもいいとして、 1ヶ月間文字のない世界にいる。人間と出会わない世界にいる。風呂に入れない世界にいる。お金を使えない世界にいる。熊と隣り合わせの世界にいるということが、 どういうことであるか・・・を知ったことは、非常に貴重な体験だったと思います。

  面白かったのは、斜里町や羅臼町で事前調査した時に、偉そうにベラベラと知床を語っていた人たちが、知床に潜って1ヶ月後に帰ってきた時に、盛んに私たちに接触してきて、知床の情報を仕入れようとしたことです。あれには笑ってしまいました。あと、知床に行ったこともないような人たちが、デタラメな情報を私たちに話してくるのに閉口しました。当時一番知床の現実を知ってる私たちとしては、デタラメ情報を訂正してあげるわけにもいかないし、とにかくそういう人が現れると逃げました。なにせ有名人だったりするので、間違いを訂正するわけにもいかず、本当に困った。逃げるしか無かった。

 特に多かったのは熊に関する間違った情報を持ってる人達(しかも有名人だったり・研究者だったり・宿屋のオーナーだったりする)で、すごい上から目線で話しかけてくるんですが、そういう人たちに出会うと、とっとと逃げました。その時は、狂ったように攘夷を叫んで刀をふりまわす奴から逃げた高杉晋作が、決して彼らを説得しようとしなかったことが良く分かった。ある種の宗教家に反抗してもしょうがない。

 それと面白かったのは、1年かけて行った事前調査の大半が間違っていたこと。例えば「標高600メートルを超えると鹿はいない」という報告があったりしたけれど、1000メートル地点にウジャウジャいてハイマツの実を食べていた。ヒグマに関することも、事前調査と実際は違っていた。不思議なことに江戸時代の記録である松浦武四郎の記録だけが正確で、彼の記録によって水を得られたことがある。唯一、松浦武四郎の記録で間違っていたのは、当時は貝類がわんさかとれていたけれど、現在はとれないこと。しかし、これには訳があって、番屋(漁師たちの倉庫)から環境ホルモンの薬剤が大量に流れていて、ところによってゴキブリホイホイみたいになっていたりしているので、これだと貝類は全滅してもおかしくなかった。

 大きな腫瘍をかかえたアザラシの死体も何体か海岸に流れ着いていて、クマのエサになっていたけれど、あの腫瘍の意味も恐ろしくて調べられなかった。当時は、ソ連が崩壊した直後だったので、極東の海に何があってもおかしくなかった。





 まあ、そんなことはどうでもいいとして、知床にいた間の私は、みんなをテントの中に寝かせて、私だけテントの外で焚き火をしながら寝ていました。自分ではぐっすり寝ているつもりなんですが、不思議なことにクマの匂いがすると目が覚めます。その都度、立ち上がって茂みの中に
「ウオー!」
と雄叫びをあげるんですが、もちろん何の音もしません。5分ぐらい叫んだ後に、またうとうとするんですが、すると茂みがゆさゆさと揺れだす。そしてその音が、だんだん遠ざかっていくのです。

 ちなみに普段の私は、目覚まし時計を3個ぐらいかけても起きなかったりするんですが、不思議なことに知床のジャングルの中では、熊の嗅いだけで目覚めるし、ちょっとした茂みの揺れる音でも目覚めてしまう。この辺が不思議です。でも、もっと不思議なのは、全てのスケジュールが終わって、人間のいるところに戻ってくると、急に全身が動かなくなる。それまでピンピンしてるのに、ゴールにたどり着いたとたんに体がおかしくなってくる。これが不思議だった。



(相泊温泉)

 で、ゴール後の何に感動するかと言うと、久しぶりに人間に出会うことと、ものが買えるということ。お金が使えるということ。文字があるということ。トイレがあるということ。風呂に入れるということ。そういうことにとても感動する。そして食べたラーメンとアイスの美味しかったこと。その後に、みんなで一緒に相泊の温泉の露天風呂に入ると、加山雄三の歌が出てくる。『いつまでも』が出てくる。
「幸せだな・・・僕は風呂に入るのが一番幸せなんだ♪」
「僕は、死ぬまで風呂を離さない♪」
風呂には入ることが、こんなにも幸せだったことはなかった。横井さんも、小野田さんも、みんな凄いと思いましたね。



つづく。

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2021年03月17日

徒歩旅行の思い出【6】鎌倉・大船・江ノ島

徒歩旅行の思い出【6】鎌倉・大船・江ノ島

 これも30年から40前ぐらい前の話です。私は歴史が大好きだったので京都の街の中をよく徒歩で旅をしました。でもそのブームは、5年ぐらいで終わってしまいました。鎌倉を見つけてしまったからです。京都というところはお金がかかるんです。神社仏閣に5・6ヶ所回ると何千円もかかってしまう。

 ところが鎌倉のお寺は、30年ぐらい前だと100円とか150円の拝観料でした。それもかなり有名どころで、それほど有名でないお寺だったら無料で入れたりしました。つまりやすいんです。安いけれど神社仏閣は京都並みに古かったりする。そして雰囲気がいいん。鎌倉というのは武家政権の本拠地ですから、座禅をメインとする宗派が多くて、そういうお寺はなんとなく親しみやすい。その上、実際に座禅会があったりする。今はどうか分かりませんが、30年以上前の鎌倉は、お寺が経営する飲食店も安かった。抹茶とお菓子を頼んでも500円以上は取られたことがないし、元祖けんちん汁などでも安かった。何より人通りが少なかった。

 でも一番気に入ったのは、自然が多いことです。
 鎌倉には鎌倉アルプスと言う登山道もあって、
 そのルートが、素晴らしい。
 切り通しとかもある。
 おまけにちょっと歩けば海があるし、
 江ノ島まで歩いても大して遠いわけでもない。





 まず北鎌倉の駅に降りて建長寺に向かいます。気が向いたらけんちん汁(建長寺汁)を食べて建長寺を散策し、お寺の中にある甘み所で抹茶を注文するとお菓子もついてくる。それを頂きながら森林浴にひたる。たまに煮しめを注文したりしてもいい。初めて行った時には、あたり一面にリスだらけなのに感動したものですが、1時間もいると、雀の数よりもリースの数の方が多いのに閉口する。下手したらゴキブリの数よりも多い。しかもそのリストきたら、集団になってうじゃうじゃといるからたまりません。

 そして建長寺から鎌倉アルプスを縦走する。このルートがとてもいい。幼稚園児の年少さんでも楽勝で歩けるこのルートは、標高150メートル前後の山の尾根歩きで、高尾山と並んで私の好きなルートの一つです。相模湾を望む展望。石仏や緑が爽やかなハイキングコースで、銭洗い弁天経由で大仏に行っても良いし、建長寺経由で瑞泉寺に行ってもよい。適度に運動できて、適度に森林浴がたのしめる。それでいて、お金がかからない。なので私はこのルートをかれこれ30回ぐらい歩いています。

 北海道や九州のユースホステルで知り合った人達と、東京で再会する時は、新宿や池袋で合流するのではなくて、北鎌倉で合流することが多かった。ユースホステルで旅をする人たちは、居酒屋に入って5000円ぐらい使うよりも、北鎌倉で散策しながら抹茶を飲んだり座禅をしたりするのが好きな人たちが多かったので、飲み会に行くよりも北鎌倉で合流することの方が多かった。

 そうそう、旅をするようになってからの私は、居酒屋などの飲み屋に行くことが全くなくなりました。それよりも鎌倉を歩いたり、高尾山を歩いたり、奥武蔵を散策したり、奥多摩を散策することが多かった。久しぶりの友人との再会も、居酒屋ではなく、北鎌倉の駅で合流することが多かった。

 当時は携帯電話というものがなかったので、駅に必ず伝言板というものがあって、何かあったらそこに伝言を残して相手に伝えたものです。何しろ携帯というものがなかったので、ハプニングが起きて合流できなかったこともあったので、15分待って来なかった場合は伝言板に、「銭洗弁天の方に向かってます」とチョークで書いて先に出発したものです。そのままの合流できなくても、その時はその時とあっさりしたものでした。で、のんびりと銭洗弁天方面へ散策してると後ろの方から遅れてきた友人がやってきたりする。昭和という時代はそういう時代でした。


 そういえば正月も鎌倉を散策したものです。鎌倉の隣にある大船に住んでる友人が多かったので、その友人たちと一緒に鶴岡八幡宮に行ったり、大船観音に行ったりしました。意外に知られてないんですが、大船観音は鎌倉の大仏より大きい。あと関係ないですけれど大船観音のそばで笠智衆さんと何回かで会ったことがあります。あの人は映画で出てくる人そのもので、全く一緒でした。スクリーンから飛び出したような人です。関係ないけれど、上野公園で渥美清さんに何度も会ってますが、渥美清さんはスクリーンの人と違ってジャンパーなんかで変装というか、違うかっこうしてましたね。でも顔は隠しようが無く、通行人に見つかると、一挙に寅さんに変身して挨拶し、そそくさと去って行きました。

 それはともかくお参りが終わった後は、由比ヶ浜に必ず向かいます。今はどうなってるかわかりませんが、当時は正月のお参りが終わった後の深夜に由比ヶ浜に行くと、焚き火がズラッと並んでいて、なんとなくそこに人が集まってくる。見ず知らずの人たちが焚き火を囲んで海の彼方を並べるわけです。もちろん流れ星が流れたりもする。そのうちどんどん人が多くなってくるので、江ノ島方面に歩いて行く。ちょっとだるいなと思ったら江ノ電に乗って江の島に向かうんですが、正月だけ24時間営業の江ノ電の中にはカップルしかいないので、一駅だけ取って降りてしまったりする。





 そして、江ノ島までぶらぶらと歩くわけですか、江ノ島に渡るのが目的ではない。江ノ島に架かる橋があるんですが、その橋にずらーっと屋台が並んでいます。今はどうなってるか知りませんが、30年ぐらい前は江の島大橋に屋台がずらっと並んでいて、そこの赤ちょうちんで一杯ひっかけながら、屋台のオヤジと世間話する。居酒屋には行かないくせに、徒歩でぶらぶら歩いて赤ちょうちんに入るのは喜んで入っていたので、このへんは矛盾していたのかもしれない。


つづく。

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2021年03月15日

徒歩旅行の思い出【5】東京・京都・大阪

徒歩旅行の思い出【5】

 これも30年から40前ぐらい前の話です。私は歴史が大好きだったので京都の街の中をよく徒歩で旅をしました。と言うか、 京都を散策するのは徒歩が一番なんです。京都でバスなんかに乗ろうものなら、とんでもない所に連れて行かれる。 京都のバスくらい難しい乗り物はない。これに乗ればあっち方面に行けるのかなと思ったら、とんでもない遠回りなったりする。京都の住民でさえも難しいと言われる京都のバスを旅行に使えるわけがない。

 というわけで最初の頃は、レンタサイクルで回っていたりしたんですが、京都に限って言うと歩いて回るほうがいいということに途中で気がつきました。ちょっとした通りがものすごく風情があったりするし、何気に入った店がすごく美味しかったりする。今はもうないんですが、昔は東山ユースホステルというのがあって、それこそ京都の中心部にあったので、そこを拠点としてあちこち回りました。

 特に幕末が好きな私は、何度も維新の志士たちの墓(京都霊山護国神社)に行って感動したものですが、その度に坂本龍馬の墓ばかりに色紙やら何やらが大量に置いてあって、高杉晋作とか久坂玄瑞とかの墓には何もないのにがっかりしたものです。それにしても龍馬ファンの多いこと多いこと。東山ユースホステルで、歴史談義をすると8割が龍馬ファン。いわゆるファン。尊敬してるというよりもアイドルを崇拝するファンのような人たちが多い。それに対して吉田松陰派の人間は、ファンと言うよりも『師匠』として仰ぎ見ている人が多い。高杉晋作派は、高杉晋作を師匠とは見ていないけれど、ファンというほどでもない。憧れの人という感じですかね。 だから幕末好きの人間が集まって酒を飲みながら議論をすると収拾がつかない。そのくせ 、翌日には仲良く京都を歩いて回るわけですから 歴史に興味のない人間にしてみたら、変な人間だろうと思ったかもしれません。





 話は変わりますが、徒歩旅行に一番適している町は京都ではないかと思います。街が碁盤の目のようになっているので、非常にわかりやすい。自分がどの位置にいるのかが 僕でわかる 一目瞭然でわかる。

 その逆が東京です。私くらい東京を歩いて回った人間はないと自負してるんですが、東京は本当に分かりにくい。例えば 大塚あったりからサンシャイン60に向かって歩いて行っても、なかなかたどり着かない。 いつのまにか遠回りしてしまっている。道がくねくねと曲がっているので、遠くに見えるサンシャイン60に向かって歩いてるはずなのに、いつのまにかどんどん遠ざかってしまっている。スカイツリーに向かって歩いていても、 気がついたら逆方向に歩いていたりする。街が碁盤の目になってないので、磁石が地図がないととんでもない方向に向かっていたりするんです。

 ちなみに東京は非常に緑が多い。公園が意外に多いのです。それに東京には神社仏閣がとても多い。東京大仏というのもあれば、その近くに赤塚城跡なんてのもある。護国神社・明治神宮・靖国神社・鬼子母神・浅草寺・帝釈天・祐天寺・寛永寺など寺社は京都並みに多い。

 美術館や博物館もやたらと多い。小さいものばかりですけれど、世界一多い。だから歩いているうに、とんでもない博物館に出会ったりする。国立博物館・科学博物館・郵政博物館・科学技術館・江戸東京博物館・紙の博物館・たばこと塩の博物館・地下鉄博物館・先端技術館・競馬博物館・下町風俗資料館・印刷博物館・昭和レトロ商品博物館・NHK放送博物館・ガスの科学館・船の科学館・日本文具資料館・切手の博物館・刀剣博物館・カメラ博物館・相撲博物館・消防博物館・昭和のくらし博物館・物流博物館・古代オリエント博物館などなど・・・・。おすすめなのは、日本銀行の貨幣博物館。あと寄生虫博物館。 漫画博物館。

 もちろん美術館も多いし、ギャラリーも多い。数え切れないくらいある。だから東京をちょっと歩けば、あちこちに美術館がある。石を投げればミュージアムに当たるくらいにある。決して規模が大きいわけではないんですけれど、ものすごい数がある。 だから東京ぶらぶらと歩くと、思わぬ発見があるのです。 東京くらい面白いところはないと思うのです。

 今はどうか知りませんが、 30年以上の前の東京には立ち飲み屋がいっぱいありました。千円札が1枚もあれば、かなり飲める立ち飲み屋があった。店によって飲むスタイルが違うところがよかった。例えば自販機がずらりと置いてあって、酒は自販機で買う。酒の肴だけをカウンターで買うスタイルの立ち飲み屋がありますが、その立ち飲み屋は、昼間は酒屋をやっている。そうかと思うと、居酒屋スタイルの立ち飲み屋もある。居酒屋と違うところは、カウンターに100円玉を置いて、セルフサービスで小鉢を取るところ。 小鉢はみんな100円均一。酒も200円均一だったり、400円均一だったりする。かと思えば、焼き鳥屋で立ち飲みもある。街によって色々な立ち飲みがあったりして、 そんな立ち飲みで1000円ぶんだけ飲んで帰るのがちょっとした贅沢だったりする。

 私は悪い大人だったので、 そういった立ち飲みに20代前半の若い女の子達をよく連れて行きました。ひどい時になると20人ぐらい連れて行ったりしたので、 普段はサラリーマンしかいない立ち飲み屋が一気に華やかになったりしました。新橋あたりの立ち飲みによく連れて行ったので、 それがテレビで紹介されて『おやじギャル』 という言葉がブームになったりして驚いたこともあります。ちょうどバブルの頃だったと思います。





 立ち飲みといえば、大阪の立ち飲みもよかった。大阪の立ち飲みは、たいていが串カツ屋でウスターソースに串カツを突っ込んで飲むスタイルでした。混み合ってくると、小さく前へ習えみたいに体を横にして飲んでいました。 会計のスタイルが独特で、回転寿司の皿の数みたいに、串の数で料金を払っていました。やはり大阪でも飲んでるのは、中年男性ばかりだったので、大阪の若い女の子を連れて行った時には、大阪のおっちゃんに珍しがられたものですが、 令和時代はどうなってるんでしょうか?

 30年ぐらい前の大阪の商店街には、お好み焼き屋・たこ焼き屋がが、屋台のようにありました。そこに大阪の友人とその店でたこ焼きを食べて、おばちゃんと盛り上がったんですが、近くのお好み焼きを持ってきて一緒に食べようとしたら、おばちゃんに怒られました。
「他の店のテイクアウトなら文句はないけれど、あのお好み焼きだけはおばちゃんところで食べるのは許さん」
「どうして?」
「あのお好み焼き屋の親父は偉そうだから」
「偉そう?」
「わしはな、ここで30年たこ焼き屋をやっている。あいつはな、5年前から始めた新参者や。普通なら挨拶があってもおかしくないのに、挨拶がない。人の道に外れてる」
 私がぽかんと聞いていると、大阪の友人たちはそこで大爆笑!
「そらかんな、挨拶は大事や!」
「30年の先輩に挨拶なしは、あかんわ」
 大阪の友人はおばちゃんを煽る煽る!
 たこ焼き屋のおばちゃんは得意になって息巻く!
「5年ぐらいの新参者が、ねじりはちまきなんて10年早いわ!」
 これに大阪の友人たちは大爆笑!
「そりゃそうや、10年早いわ!」
「おばちゃん、いっぱいやろうや!」
 いつのまにか、大阪の友人は、どこからかビールを仕入れてきて、おばちゃんに差し出す。おばあちゃんは断るのかなと思ったら、 断りもせずに飲み出す。それを見た私は、 恐ろしい町だとつくづく思ったんですが、これも30年前の話なので、今はどうなってるのかわかりません。

 そういえば、 25年ぐらい前に、だんじりで有名な岸和田の友人の結婚式に出席したことがあったんですが、お客さんが結婚式場の仲居さんに酒を進めていて、仲居さんも断らずに飲んでいたのを見て唖然としたことがありますが、 あの時は本当に驚きました。

 一番驚いたのは、友人代表の私と土井君を、新郎新婦の目の前の席にされていたことです。普通なら会社の社長とか、もっと偉い人が座る位置に私たちの席があったので青ざめた。普通友人というのは、一番奥の目立たない席ですよね。それが一番目立つ席に座らされて、余興に嘉門達夫の歌を披露したわけですから、焦ったのなんの・・・。 新郎はそんな私たちを見て笑っていましたが。



つづく。

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2021年03月13日

徒歩旅行の思い出【4】伊豆大島

 これも30年前の話です。砂漠のど真ん中で魚を焼きながら日本酒を飲みたいと思ったのは、日本にも砂漠があることを知ってからです。もちろん砂丘ではありません砂漠です。場所は伊豆大島です。伊豆大島は、火山活動が活発で、島全体に火山灰を撒き散らすために、大島の中央部がほとんど砂漠と化しているのです。そのためか日本離れした風景がありました。もし日本映画で砂漠で映画の撮影をしたいと思ったら大島に行けばいいなと思ったくらいです。それで友達を誘って伊豆大島に行くことになったんですが、それを職場で話したら50代ぐらいの上司が

「佐藤もイカレポンチの島に行くようになったか」

と軽蔑されました。イカレポンチと言っても若い人は知らないのでしょうけれど、大昔はよく使われた言葉で若者に対する蔑称です。それはともかくとして、伊豆大島に行くとどうしていかれぽんちなのかさっぱり分からなかったので、それを友人達に聞いてみたら

「ああ、それは新島あたりのことだよ」
「新島あたり?」
「あの辺は高校生のナンパ場で、25歳以上の人間が行くと浮いてしまうんだ。25歳以上だと男はおっさんで女はババアになってしまう」
「えええええええええええええええええええええええええ」
「でも心配いらないよ、伊豆大島にはそういう海岸はないので、そこにはオッサンとババアしかいない。下手したら旅行者の大半が50代から60代という年齢構成になる」
「どうして?」
「伊豆大島といえば、都はるみの『アンコ椿は恋の花』だし、そこには八丈島のキョンいるからね」
「八丈島のキョン? 大島なのに八丈島のキョン?」
「ガキデカって漫画知らない?」
「知らない」
「知らないならいいや。八丈島のキョンという、豚と鹿のあいのこみたいな動物がいるんだよ」
「?」





 話を戻します。

 私は友達を二人誘って、伊豆大島に向かいました。夜の7時頃に船に乗ると東京湾にずっと停泊しています。どうして出航しないんだろうと思ったら、早朝に伊豆大島に到着するためにわざと東京湾に停泊してるんだそうです。夜中に船が到着しても、離島の大島ではどこも開いてないからです。

 それはともかく船の甲板に出ると東京湾の夜景が美しかった。とにかく睡眠をとろうということになって船で仮眠をとっていると深夜になると船が動き出しました。そして早朝に伊豆大島に到着。早速、火口の方に向かって歩いて行きます。小さな離島こそ徒歩旅行に最適です。道に迷ったところで大したことありませんし、島を一周すれば船着き場にたどり着くから、どこをブラブラ歩いても良い。

 そのうち広大な砂漠が見え始めると、その絶景にうっとりしながら写真撮影を始めました。すると後ろから女の子が一人自転車でやってきます。気軽に声をかけると向こうも気軽に挨拶をしてきたので、途中まで一緒に歩くことになりました。

 女の子は、すごく怒っていました。生まれて初めて一人旅をして、伊豆大島にやってきたらしいんですが、宿の予約もなしに到着したら早朝すぎて観光協会がやってない。やっと観光協会が開いたかと思ったら、宿の予約が取れない。女一人だと断られる。今では考えられないことですが、今から30年前は、女の一人旅を受け付けない宿が多かったのです。だから当時は女性の大半が、一人旅の専用の宿とも言えるユースホステルに泊まったわけですが、そういう知識無しで初めて一人旅をしたわけですから、どの旅館や民宿でも片っ端から宿泊を断られるとは思ってもみなかったようで怒っていました。

「結局どうしたの?」
「タクシーの運転手に相談して、その運転手の親戚がやってる宿に無理言って泊めてもらいました」
「良かったですね」
「それが良くなかったんです」
「え?」

 泊めてもらうのは泊めてもらったらしいんですが、彼女以外が全員カップルだったらしくて、大勢のラブラブなカップルの中で一人寂しく食事をとるのは非常に苦痛だったと。非常に寂しくて気分を害したらしい。そして最悪な気分の状況で自転車を借りて火山の火口の方に向かう途中に、私たちに声をかけられたらしい。

「そういう時はユースホステルに泊まるといいです」
「当日予約でも泊まれるんですか?」
「当日でも電話をかければ空いてることが多いですよ。私たちはこれから火山を見学した後に伊豆大島のユースホステルに泊まります」
「そうなんですか」
 
 こんな感じで仲良く同行することになりました。私は途中で一人だけ別行動をとったんですが、後で聞いてみたら、その後に友人と女の子はカップルになったらしいので、めでたしめでたしです。





 まあそんなことはどうでもいいとして、伊豆大島の魅力にすっかりはまってしまった私たちは、その後何度も尋ねることになります。次は火山の河口から、砂漠地帯を通って島の反対側に向かって、野生の八丈島のキョンを見つけることを計画。その計画では、途中でくさやの干物を買って砂漠のど真ん中で焼いて日本酒をくらうという企画でした。ご存知の通り、くさやの干物は非常に臭いので、人が誰も来ない砂漠で食べるのが一番です。早速実行にうつしたわけですが、これがすごくいい。一見すると火星じゃないかと思えるような砂漠地帯で、くさやを炙って日本酒をかっくらうわけですから、いい気分になります。

 何と言っても伊豆七島は、くさやの本場ですから、うまいのなんの。日本酒が進む進む。あんまり進みすぎて、ぐでんぐでんに酔っ払って伊豆大島を縦断するわけですが、誰も見てないので、どんな醜態でもさらせます。おまけに野生の八丈島のキョンまで出現する。確かに豚と鹿のあいのこみたいな動物でした。
「こりゃいいわ」
と思った私は、それから何度も伊豆大島に出かけるようになり、それが飽きてくると神津島とか三宅島とか八丈島とかに出かけるようになりました。もちろん目当ては、徒歩旅行しながら本場のくさやで酒を飲むことです。

 そのうち一緒についていきたいという友人もどんどん増えてきて、最終的には、20人とか30人の大所帯になりましたが、若い男女が、離島を歩いて一周しながら、くさやを肴に日本酒を飲んでる姿は、さぞ滑稽だったと思います。おまけに一人はギターを持ってて、もう一人はキーボードを持っていたので、歌っては踊ったりする。人数が多いからかなりの迫力です。

 そのうち各自で別行動をとるようになって、釣りをするグループと、離島を歩いて一周するグループとか、テントを張るグループとか別々の活動するようになりました。人数が増えるとどうしてもそうなりますね。そのうち仲間内で結婚する人たちが出てきたりする。まあ良い時代だった。


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(30年前の写真です。さて、私は何処にいるでしょうか?)


 面白かったのは、3月末頃に伊豆七島に旅した時の帰りです。私たちは神津島から船で東京に戻る時だったんですが、学校の先生らしき人を見送る生徒たちが、港で別れを惜しんでいる。東京から赴任してきた先生が、東京に戻るので、生徒達が見送りにきていた。そのシーンがあまりにも感動的だったので、私はオカリナ、友人がギターとかキーボードで、『蛍の光』とか『贈る言葉』とか『切手のない贈りもの』とかをBGMで演奏して別れを盛り上げてやりました。

 神津島を出港した船は式根島に到着するんですが、そこでも赴任が終わって東京に帰ろうとする先生を見送りにきている生徒たちがいました。子供達はみんな涙していましたので、余計なお節介とは思いましたが、『蛍の光』とか『贈る言葉』とか『切手のない贈りもの』とかを演奏して盛り上げました。そのうち船が出港すると、男子生徒が堤防まで走って、その先で組体操を始めました。防波堤の先で組み体操をして、去りゆく先生に自らの体で表現している。
「おお! 組体操だ!」
と感動した私たちは、それをバッチリビデオで撮影しています。

 その後、船は、新島・利島・大島と接岸するのですが、やはり先生と生徒たちの別れのシーンを見ることになり、そのつどオカリナ、ギター、キーボードで盛り上げて、子供たちとの別れのシーンにBGMを流し、さまざまな別れを目撃したのは、よい思い出です。各島ごとに別れぎわに見せた子供たちのパフォーマンスが違ってて面白かった。

 これが30年前の子供たちの姿なんですが、今でも伊豆七島では、先生と生徒の間に、こんな別れがあるんだろうかと疑問に思っています。島を去りゆく先生に大勢の子供達が港に集まっている光景は、果たして令和時代にもあるんでしょうか? もし令和時代に、おなじような光景を目撃した人がいたら教えてください。



つづく。

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2021年03月12日

徒歩旅行の思い出【3】摩周湖

 今から30年ぐらい前の話。私は北海道の摩周湖を観光してました。摩周湖は国立公園なので、湖から4km以内に建物を建てることができません。なので宿泊施設は摩周湖からかなり離れたところにあります。唯一の例外が摩周湖ユースホステルで、そこだけが摩周湖から4キロのところにあります。

 どういうわけか私が宿泊した時の摩周湖ユースホステルには、中学生や高校生が大勢いました。今では考えられませんが、昔は中学生や高校生の一人旅が大勢いたのです。ユースホステルだったら安心だということで親御さんも、積極的に一人旅をさせていました。彼らの親御さんも若い頃にはカニ族としてユースホステルを使って旅をした口です。

 中学生や高校生ですから車を持っていません。もちろん私も車で旅をしていませんから、そういう点では彼らと一緒です。たまには電車を使って旅をしますけれど、大半は徒歩旅行です。だから徒歩旅行どうしとして、私は中学生や高校生と仲良く話をしていました。仲良くなった原因は、3回ぐらい同じ宿に泊まり合わせたためです。北海道旅行者は、大雪山系を中心に反時計回りに電車で回る人が多かったので、どうしても泊まる宿が一緒になります。特に徒歩旅行がメインの人たちは、訪れる場所も似たり寄ったりとなるので、宿が重なったりすることが多いのです。
「明日はどこへ行くんですか?」
と聞かれて
「気の向くままだな」
と答えて、宿屋で別れるんですが、翌日同じ宿で鉢合わせしてしまうことだって何度もありました。

 これは徒歩旅行だけでなくて、北アルプスを縦走するときも同じような体験をします。1日に歩ける距離に大差がないので、どうしても山小屋が一緒になってしまうのです。それと同じで、徒歩旅行でも同じ宿に鉢合わせすることがよくありました。たまたま摩周湖ユースホステルで、大勢の中学生や高校生と鉢合わせした理由です。





 そういったわけですから彼ら彼女らは、私の所に寄ってきて
「明日はどうするんですか?」
と聞いてくる。
「太陽が上がる前、つまり朝3時に起きて摩周湖まで歩こうと思う。朝日に輝く摩周湖を見たいんだよね」
「一緒に行ってもいいですか?」
「いいけど朝の3時だよ。起きられる?」
「起きます」
というわけで、朝の3時から30人ぐらいを引率して摩周湖まで向かうことになりました。

 そして朝3時に出発するのですが、参加者のほとんどは中学生と高校生。大学生も少し混じっていました。男女比で言うとほとんどが女の子達。一緒に行くと約束していた男の子たちは、起きてこなかった。

 で、みんなで歩き始めて摩周湖に向かって2kmほど歩いた時、後ろからどんどん車が追いかけてきます。そして高校生の女の子達をナンパするように「乗って行かない?」と誘うわけです。女の子達も私に「乗ろうよ」と言ってくるんですが、
「俺は乗らない! 歩いていってこそ感動が生まれるんだ!」
と、強めに怒りました。しかし、ナンパしてくる車が、何台もガンガンよってくる。そのつど追い払うのですが、それを恨めしそうにみる女の子たちも多かった。そのうち一番しつこい車が現れて「乗らない?」と言ってくる。彼女らは、私に「乗せてもらおうよ」と言うのですが、私は断固拒否。
「30人はいるんだぞ! 全員乗れるわけでもなし、私は歩いて行く」
私が怒ったためか、ドライバーの人もうなだれて
「ごめんなさい」
と言ってきました。後で聞いてみたら高校の先生だったみたいなので、その時は親切心で誘ったのかもしれません。ただ、私はそういうナンパぽい行為が大嫌いだったのと、高校生中学生が多かったので必要以上に防衛的だったかもしれません。

 結局30人は摩周湖まで歩いて美しい湖面を見学し、感動に酔いしれ、その後にユースホステルにまで歩いて帰って、朝食をとりチェックアウトしました。みんなとはすっかり仲良くなったので住所交換をしてユースホステルでわかりました。高校生や中学生たちは、知床の方に向かうらしい。私はもう一度摩周湖に歩いて行き、摩周岳にのぼるつもりだった。

 その時に「一緒に摩周岳に登りませんか?」と言ってくる人がいた。車で早朝に追いかけてきた人だった。実は彼が車で旅行するのには理由があった。余命10年と言われた一級障害者で週に3回透析をしないと死んでしまう人間だった。透析しながら旅行しないといけないために、車が絶対必要だったのだ。

 まあそんなことはどうでもいいとして、二人で摩周岳に登った。「ナンパなやつ」という勘違いをしていた私は、一般人には追いつけないスピードで容赦なく山に登ったんですが、ホイホイついてきた。彼も相当に足が速かった。よくよく聞いてみたら学生時代に長距離を走っていて、腎臓さえダメにならなければ、国体かなんかで大活躍していた人だと知って納得してしまった。よくよく話をしてみたら硬派な人間だった。その後、彼とは別れたんですが、またどこかでばったり会って、それから30年間の付き合いになっています。

 その彼は、余命10年と言われた一級障害者で週に3回透析をしないと死んでしまう人間なのに300名山を制覇して、新聞の一面にカラーで紹介され、群馬テレビでもゴールデンタイムで紹介されてます。現在は、とある高校で社会の先生をやっています。

 実は私が宿(ユースホステル)をやることになったのは、彼の後押しがあったからです。「金はいくらでも貸すから北軽井沢で宿をやれ」と言われて北軽井沢でユースホステルを始めましたが、金は借りていません。余命10年と言われた人間に金は借りれない。でも、お金以外では色々と力になってもらっています。


つづく。

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2021年03月11日

徒歩旅行の思い出【2】利尻島

 今から30年ぐらい前の話です。私は北海道の礼文島から利尻島に渡りました。目的は一つ。利尻山に登ることです。利尻山は百名山の一つで、1番目に登る山として有名です。標高は1721メートルで、海抜ゼロから登ったとしたら、日本最大クラスの標高差になります。日帰り登山で登る標高差としては1721Mは最高の標高差になります。なので百名山の中で、一番キツいと言われてます。富士山みたいに途中に山小屋がないからです。

 ちなみに30年前の利尻島の宿泊費は異常に高くて、夏のシーズンであれば一泊1万円から2万円はしていました。百名山の第1番目の山ですから、百名山を目指す人なら一番最初に登る山です。だから全国の登山家たちが利尻島に集まる傾向があって、そのために宿泊費が高騰していました。

 こんな時にありがたいのが、ユースホステルです。今ではちょっと違いますけれど、当時はユースホステルの料金が契約で決められていて、一泊二食で4000円ぐらいで泊まれました。そして利尻島には、利尻グリーンヒルというユースホステルがあったので、当然のことながらそこに宿泊しました。

 利尻グリーンヒルユースホステルは、大勢のお客さんでぎっしり詰まっていました。布団をひくと荷物の置き場もない状態。なのでリュックサックなどの大きな荷物は廊下に置くことになります。受付を済まして荷物置いて、食事を済ませミーティングに出ます。

 ミーティングでは、利尻登山の案内とか、利尻島一周徒歩旅行の案内と手続きをします。私は利尻登山が目的だったので、登山グループの中に入って打ち合わせをするわけですが、登山グループにも二つのグループがありました。夜間登山をするグループと、早朝登山をするグループです。

 夜間登山をするグループは、ユースホステルの布団で寝ずに登山をするグループです。布団に寝ないにもかかわらず、料金はしっかり一泊ぶんを取られます。『そんなバカな』と思う人たちは、朝5時に起きて早朝登山のグループに入ります。

 寝ないで登山する?
 そんなバカなことあるか!

 そう思った私は、皆に「少しでも寝た方がいいよ」と説得したのですが、誰も聞き入れません。ほとんどの人達は寝ないで登るグループに参加する。何しろ往復12時間のコースタイムですから、朝5時に登ったとしても休憩を入れたら宿に到着するのは夜の7時になります。人によっては、船に乗って利尻から去っていく人たちもいますから、夜中の12時に出発したい人の気持ちも分からないではありませんが、夜間登山は、登山家はやりません。危険すぎるのでベテランほどやらない。それを若い人は知らない。



(利尻登山・百名山の中で一番キツい山です)



 で、私は、早朝登山のリーダーとなって15人ほど率いて、朝4時に出発して利尻山に登ったわけですが、途中で夜間登山組と合流しました。たっぷりと睡眠をとった私たちが、夜間登山組に追いついてしまった。で、よくみたら夜間登山組の何人かは高度障害にやられている。唇が紫になっていて、爪もどす黒くなっている。そして、3割くらいの人が九合目で撤退していった。

 早朝登山組は、全員が頂上まで登りきり、遠くに見える礼文島を眺めました。昨日まで礼文島にいた私は、感慨深い。礼文島では、ただひたすら愛を求めて何連泊もしながら『愛とロマンの8時間コース』を何度も歩く男がいましたが、今日も彼は『愛とロマンの8時間コース』を歩いているのだろうか? そして愛が生まれたのだろうか?と思いつつ利尻山を下山してユースホステルに到着したのが夕方5時頃でした。

 で、ユースホステルに到着しても「おかえりなさい」と軽く挨拶されるだけ。日本一キツい利尻山から帰ってもなにごとも無かったように軽くスルーされてしまう。けれど、利尻島一周55キロの道のりを徒歩で回った人が、ユースホステルに到着すると
「完歩組が帰ったぞ!」
という叫びとともに、宿から五十人くらいの人たちが玄関に集まって、ギターを片手に『風来坊』を歌い始める。利尻島一周55キロの道のりを徒歩で回った栄光をスタッフから御客さんまで絶賛する。



(『風来坊』の曲で出迎えてくれた)


この空 どこまで高いのか 
青い空 お前と見上げたかった
飛行機雲のかかる空  
風来坊 サヨナラがよく似合う

歩き疲れて立ち止まり  
振り向き振り向き来たけれど
雲がちぎれ消えるだけ 
空は高く 高く

この風どこまで強いのか 
北の風 お前と防ぎたかった
ピューピュー体を刺す風  
風来坊 うつむきがよく似合う

歩き疲れて立ち止まり  
振り向き振り向き来たけれど
背中丸め直すだけ 
風は強く 強く



 日本一キツい日帰り登山で有名な利尻山登山組には、そういう出迎えは無いのに、利尻島一周55キロを徒歩で回っる完歩組には、盛大な出迎えがある。この差は何だろう?と思った私は、翌日、55キロを徒歩で回る完歩に挑戦しました。

 で、利尻島一周55キロの道のりを徒歩であるいてみたら、しんどかった。40キロくらいまでは、普通に歩けるのですが、それをすぎると地獄の三丁目で、足を引きずって歩くようになる。なので身も心もボロボロになってユースホステルにゴール。

 するとユースホステルの中から
「完歩組が帰ったぞ!」
と声が上がり、全員が玄関に集まって『風来坊』を合唱する!
それに感動する完歩組のメンバーは、感極まって涙する人もいた。
女の子たちは全員が泣いていた。



(利尻グリーンヒルユースホステル)

この道どこまで遠いのか 
恋の道 お前と暮らしたかった
振られ捨てられ気づく道 
風来坊 強がりがよく似合う

歩き疲れて立ち止まり 
振り向き振り向き来たけれど
瞳熱くうるむだけ 
道は遠く 遠く
.


 「愛とロマンの8時間コースより感動する」と思った私は、もう一度、完歩をしたいと思いましたが、さすがに2日続けて完歩は難しいと思ったので、リハビリをかねて、次の日は利尻山に登りました。利尻山は、百名山の中で一番キツい山なんですが、地獄の完歩にくらべれば、なんてことはない。リハビリに丁度良い。

 それに登山希望者の大半が、素人なので、道を間違えそうになったり、ペース配分を間違えそうになったりで、あぶなかしくて見てられなかったので、荷物持ちついでに、登山ガイドしようと思ったわけです。

 で、翌日、2回目の利尻山に登り、次の日に2回目の完歩を達成! 2回目の完歩では、体が慣れていたのか、余裕のよっちゃんでした。しかし、同行者はボロボロになり、足を引きずりながらのゴールで、ユースホステルの玄関に到着すると
「完歩組が帰ったぞ!」
と全員が玄関に集まって『風来坊』を大合唱!

この坂どこまで続くのか 
上り坂 お前と歩きたかった
誰でも一度は昇る坂 
風来坊 独りがよく似合う

歩き疲れて立ち止まり 
振り向き振り向き来たけれど
影が長く伸びるだけ 
坂は続く 続く...
坂は続く 続く..

みんな泣いてましたね。みんなの泣き顔をみたら、もう一回完歩したいと思いました。でも、連続しての完歩だと足を壊す可能性があるので、次の日は、リハビリもかねて3回目の利尻登山すると、ユースホステルのスタッフも呆れていました。こうなると、だんだん私も目立ってきて、礼文島で何回も愛とロマンの8時間コースを歩く奴より目立ってくる。そうなると、もっと目立とうという奴も現れて、カニ歩きで24時間かけて完歩する奴がでてきました。

 こうなると私も普通の完歩じゃ物足りない。それで3回目の完歩は、延々と歌い続ける歌完歩にしようということになり、ギターを弾けるやつを誘って、ギターとともに、12時間歌い続けて3回目の完歩をゴール。途中で、ギターの弦が切れるけれど、チャリでまわるユースホステルの御客さんに頼んで、弦を買ってきてもらったりした。最後には、声がカラカラになってしまったけれど、『風来坊』の合唱では、ユースホステルの皆と一緒に歌った。

 その翌日は、一人行動。
 隣のポンモシリ島まで泳いで渡り、
 海抜ゼロの沓掛から利尻山五合目までママチャリで足をつかずにゴール!
 その翌日は、利尻島を去ることになります。

 9月だというのに、ユースホステルも満室つづきだったので、これ以上、長居をしても御迷惑をかけるので、去っていきました。そして(今は無き)塩狩温泉ユースホステルで、疲れを癒やして帰路につきましたが、徒歩旅行の面白さを満喫した旅でした。



つづく。

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2021年03月10日

徒歩旅行の思い出【1】礼文島

 今から30年ぐらい前の話です。私は北海道の礼文島を旅しました。そこには愛とロマンの8時間コースと言う海岸の岩場を歩くルートがあって、高山植物のお花畑がとても綺麗な場所でした。 そういう場所を8時間かけて歩くのですが、若い男女が8時間かけて歩けば、そのうちに愛が生まれるらしい・・・と言う噂があり、それを『愛とロマンの8時間コース』と言いい、若者が集まってきていました。いわゆる昭和時代の出会い系です。

 当時、 礼文島には、礼文ユースホステル。桃岩ユースホステル。船泊ユースホステルの3件があって、それぞれ特色を出していました。桃岩ユースホステルは、どんちゃん騒ぎで有名でしたし、カップルが生まれることで有名なのが船泊ユースホステルでした。何も特徴のないのが礼文ユースホステルでした。





 そんなことも知らなかった私は、カップル伝説の船泊ユースホステルに泊まったわけですが、船泊ユースホステルの食堂には、そこでカップルになった人たちの写真が食堂にずらりと並んでいました。少なくとも50組くらいあったと思いますが、下手したら100組ぐらいあったのかもしれません。それだけの数のカップルの写真が食堂の壁にずらりと並んでいて、しかもカップルになったご夫婦が何組も毎日やってきていました。

「こりゃまた、偉いところにきたな」

と驚いた私は、早速、愛とロマンの8時間コースを同じ宿に泊まっている30人ぐらいの若者たちと一緒に歩いたんですが、 当然のことながら、そんなに簡単に愛が生まれるわけもなく、翌日は海驢島という無人島に渡ってバーベキューを楽しみました。次の日は礼文岳に登り、その次の日は船泊の街を散策したり、一週間ぐらいにわたって、のんびりと過ごしたものです。

  ところが、毎日休まずに、ただひたすら愛を求めて何連泊もしながら『愛とロマンの8時間コース』を歩く男がいました。真剣に愛を探していた男がいた。その人に対してみんなは「愛が生まれたかい?」 と冷やかしのですが、毎日悲しそうに首を振っていました。それをネタに酒を飲んでは「そんなに簡単に愛が生まれるかよ」と、酒の肴にしてからかったものですが、その人はそれでもめげずに、何日も愛とロマンの8時間コースを歩いていました。

「馬鹿な奴だなあ」

と、みんなは陰口を叩いていたんですが、その人は雨が降ったときも愛とロマンの8時間コースに出かけた。その時は誰も参加者がいなくなって、男一人で出かけていった。それを聞いた私たちは

「男だ!」
「奴こそは本物の男だ!」

と褒め称えるようになり、 みんな彼を応援するようになっていました。 私はその後に利尻島に移動したんですが、その利尻島でも彼の情報は届いており

「10日連続して愛とロマンの8時間コースを歩いた奴がいる」
とか
「20日連続して愛とロマンの8時間コースを歩いた奴がいる」
とか
「30日たっても愛が生まれなかった奴がいる」
といった噂が北海道中に流れてていました。その噂が本当だったのか? 単なる噂だったのかは、定かではありません。

 話は変わります。8時間かけて歩くのも大変なんですが 、 礼文島には愛とロマンの24時間コースというのもあって、それを企画している宿がありました。確か星観荘という宿でした。

 私は、24時間コースというのに惹かれて星観荘に泊まりたかったんですが、 そこには女の子しか泊まってないと言う噂も聞いていました。女の子ばっかりだったら、ちょっといづらいなーと思った私は、どうしようか迷っていた。

 男ばかりの宿に、女性が一人の場合は、男はみんな女性に優しくします。けれど女性ばかりの宿に男が一人入っていくと、警戒されて男一人が孤立することが多い。数が多い女性はそんなに優しくありません。この法則は、旅行者の間では有名な都市伝説ですが、旅する女性たちに訴えたことがあるんですが、彼女たちはこう言いました。
「それを乗り越えるのが男というものや」
なるほど納得です。

 それはともかく船泊港を散策していたら、ちょうど船が出港する時で、20人ぐらいの若い女の子たちが、島を出て行く旅人の見送りで「落陽」の踊りを踊っていたのを目撃してしまった。星観荘の御客さんたちだった。その姿にビビった私は、星観荘に泊まるのはあきらめて利尻島に向かった。あの星観荘は、いまでも存在しているのだろうか? 地獄の24時間コースは、いまでもやってるんだろうか?



つづく。

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2021年03月09日

自転車旅行の思い出【5】花巻・遠野

 二週間かけて自転車で東北地方を一周してみて、はたと気がついたんですが、 体をボロボロにしながら走るばかりで、全く観光してなかった。これではいかんと思って反省した私は、電車旅行に切り替えて、自転車は現地で借りることにしました。





 これを実際にやってみると、すごくいい。当時存在していた花巻ユースホステルに泊まって自転車を借りて、花巻をゆっくり回ってみるとこれがすごくいいのです。時間にゆとりがあるし、疲れてないので、とても楽しい。

 当時の花巻ユースホステル(山奥にあった公営ユースホステル・鉛温泉の場所)では、けんちゃんツアーと言う宮沢賢治のツアーがあって、マネージャーが10人乗りハイエースで案内してくれました。それがとても楽しそうにみえた。コースも、とことん賢ちゃん・なっとく賢ちゃん・初めて賢ちゃんと、3種類あって初心者用から上級者用まで宮沢賢治を案内するツアーがありました。

 宮沢賢治のツアー ということもあって、それに参加希望するピチピチの若い女の子がいっぱいいたのですが、さんざん迷った挙句に私はパスしました。宮沢賢治を団体さんで回っると、自由がきかない。それに宮沢賢治の事なら大抵知ってる私が、今さら人から解説を受けるのもなんだなぁと思ったからです。

 なのでバスで花巻の観光協会まで行って、そこでレンタサイクルを借りて宮沢賢治ゆかりの地を回りました。回ってみて失敗したなぁと思ったのは、行く先々で、花巻ユースホステルの賢ちゃんツアーの団体さんと合流してしまうことです。考えてみたら当たり前と言えば当たり前の事なんですけれど、目的地が一緒なのでどうしても合流してしまいます。私としては静かに宮沢賢治について瞑想しながら考えたかったことがあったんですけれど、その度にけんちゃんツアーの団体さんに見つかって
「また会ったね」
「一緒に写真を撮ろう」
と言ってきて、 集合写真を撮らされました。結局、一緒に回っているのと差が無くなってしまった。

 こういう失敗があったので、翌日に遠野ユースホステルに泊まった時は、宿に泊まった人達と一緒に自転車で回ることにしました。最初は団体で自転車で回ることに抵抗があったんですが、一緒に回ってみたら、これはこれで楽しいし、色々便利であることがわかりました。

 若い男女が集団で遠野を自転車で回ると、「ユースホステルの人たちかい?」と聞いてきて、地元の人たちが何かと親切にしてくれるのです。志村けんではないですが、変なおじさんたちが、色々と解説してくれる。今では考えられないことですけれど、旅人のバリアを破壊して私たちの内部にズカズカと入ってきて、色んな所を案内してくる。例えば、いきなり現れてカッパの話をするおじさんとか、民話の話をするおじさんとか、当時の遠野には『変なおじさん』がいっぱいいて、そういう人たちに旅人が捕まって困惑していた。





 私が茅葺き屋根の民家の撮影をしていると、通りがかりの『変なおじさん』が、突然話しかけてきて「この家はすごいんだよ」と言ってきます。 何がすごいんだかさっぱり分からないので、どう答えていいか迷っていると
「入ってみるかい?」
と言ってきます。
「この家の人ですか?」
「違うよ」
「・・・・」
「まあ入ってみようや」
と変なおじさんは、戸惑う私達をどんどん連れて 知らない民家に入っていきます。すると奥から人が出てきて、変なおじさんは
「若いもんが家の見学に来たんだよ」
と私たちを紹介します。そして変なおじさんは、私たちを勝手に他人の家の中に入れるわけですが、入ってみてその内装に驚愕することになります。その民家は昭和36年ぐらいで時間が止まっていたからです。壁にデビューしたての吉永小百合のポスターが貼ってあったり、若い頃の石原裕次郎のカレンダーが貼ってあったりして、それがいい具合に日焼けしてて、時間が止まっている。その状況に目をぱちくりさせていると、その家の家主が
「この部屋は息子の部屋だったんだわ」
「・・・・」
「30年ぐらい前に東京に行ったまま、それっきりだから、部屋がそのままなんだ」
と言ってお茶を差し出されました。集団就職でみんな出て行って、それっきりの人もいる。部屋はそのままタイムスリップしたように残されているわけです。 そういう家が当時の遠野には、いくつか残っていて、そういう所に案内されたわけです。そういう家には、不自然なところに茶碗とかタライが置いてあって
「どうして茶碗がここに?」
と質問すると
「雨漏りさ」
と笑っていました。茅葺き屋根には寿命がありますが、茅の吹き替えはもうできない。そういう話を聞かされ、家の寿命について聞かされ、土壁に昭和30年代の週刊誌が貼られて、すきま風を防止している壁があったりする。そんな家でお茶を御馳走になって世間話をする。こういう旅は、ロードマン(自転車)で、走るだけの旅行では体験できなない。現地でレンタサイクルを借りて、のんびり旅しないと、こういう出会いは無い。だから、そんな自転車旅行もあってもいいかなと思ったりもする。


つづく。

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2021年03月08日

自転車旅行の思い出【4】東北一周

 今から四十年前にロードマンというスポーツ自転車を買った私は、それを使って東北一周したことがあります。その思い出を語ろうと思いますが、四十年前の話なので、現代とはかなり違っていますので、そこを注意して読んでみてください。

 1980年代、テレビのCMでさかんにロードマンという自転車の宣伝をしていました。私はそれを買って東北旅行を思い立ったんですが、今と違って当時は、コンビニというものが、なかった。





 けれど東京には、あちこちにコンビニがあって、腹が減ったら夜中の12時でも弁当を買いに行けたし、24時間営業の喫茶店も、吉野家の牛丼もあった。そういうところに住んでいたので、田舎の生活というものを忘れてしまっていた。それを自転車旅行をすることによって思い知らされることになります。

 四十年前に自転車で東北旅行したことのある人なら、分かると思いますが、東北は田舎だった。なので夕方の六時を過ぎると店がほとんど閉まってしまう。さすがに定食屋は営業していましたが、そもそも定食屋が多くない。東海道と違って国道四号線沿いに店は少なく、食料を調達するのが重要になってくる。

 また当時はペットボトルという便利なものがなかったので、途中で水を調達するのに苦労した。今だったら麦茶のペットボトルが、簡単に手に入るんですけれど、昔はその麦茶でさえ売ってなかった。だから公園を見つけたら必ず立ち寄って水筒に水を補給するんですが、40年前の東北には公園というものが少なかった。仕方がないので定食屋に入ってご飯を食べたついでに水筒に水を入れてもらったりしたんですが、そもそも定食屋が少ない。もう少し走ってから御飯にしようと思っても、延々と走らないとレストランがあらわれない。

 あと驚いたのがトラックの多さ。当時も東北自動車道はあったと思うんですけれど、国道四号線は異常にトラックが多い。東海道(国道一号線)と違って、やたらとトラックが多い。しかも十トンの大型トラックが多い。そのトラックが走行する自転車を追い抜かすと、トラックのおこす竜巻に巻き込まれるような感じで自転車が吸い込まれていく。危なくて仕方がない。今はどうなっているのかわかりませんが、四十年前の国道四号線は、トラック道路だった。

 話を変えます。

 自転車旅行を計画したのは、旅行費用を安くするためだったんですが、結論から言うと安くはならなかった。自転車旅行したことのある人なら分かると思いますが、一番安く旅行しようと思ったら鉄道旅行。それも特急か新幹線が一番安いと思う(鈍行は、別の意味で金がかかる)。チケット代は、燃費よりかからない。

 自転車旅行には、燃費がかかる。やたらとカロリーを使ってしまうので五杯飯を食べても腹がすく。コンビニのなかった当時は、定食屋に入るしかご飯を食べる手段がなかったが、定食屋で五杯飯を食ったらすぐに金がなくなってしまう。つまり食費という燃料代がかかってしまうのです。

 仕方がないのでユースホステルに泊まって、そこでご飯を五杯ぐらいおかわりしようと思ったんですが、残念なことに当時の国道四号線沿いには、ユースホステルはなかった。当時はビジネスホテルもなかった。ラブホテルはあったけれど、さすがに男一人でそこに入るわけにもいかず、とある定食屋で困っていると、そこでご飯を食べていたトラックの運ちゃんが、定食屋ホテルというもの教えてくれました。当時は、ご飯を食べると無料で泊めてくれる定食屋が四号線沿いにかなりあった。それをトラックの運ちゃん達は定食屋ホテルと言ってたらしくて、要するに定食屋の二階が座敷になっていて、そこで仮眠ができると言うシステムだった。

 そういう定食屋は、大盛を頼めば、まんが日本昔ばなしに出てくるような、てんこ盛りの大盛が出てくる。しかもそれをガツガツ食べていると、無料でおかわりしてもらったりする。私の喰いぷりがあまりにも良かったせいか、どんどんおかわりが出てくるし、たくあんなんかも無料で出してもらいました。当時の東北には、そういう定食屋がいっぱいあったんですが、今でもあるのだろうか?

 そんなことはどうでもいいとして、東京を出発して四号線を自転車で走るわけですが、走っても走っても延々と続く都市部に「果たして前進してるのだろうか?」と疑問が湧いてくる。同じところをぐるぐる回っているんじゃないだろうかと心配になって地図を出して信号機を見て位置を確認するわけですが、確かに北に向かっている。少しずつ東北に向かっているのは確かなんですけれど、一向に風景が変わらない。都市部を延々と走ってる感じです。とにかく関東平野が広いということだけは、実感できます。

 とにかく栃木県の広いこと。どこまで行っても栃木県。どんなに走っても栃木県。栃木県が地球の半分を占めてるんじゃないかと思うくらい栃木県が広かった。地図で見るとそんな感じはしないんですけれど、栃木県はやたらに広い。それでも関東地方を走っているうちは、楽勝だと思っていたんですが、宇都宮を過ぎたあたりからちょっと勝手が違ってくる。宇都宮を過ぎると地獄の山登りが始まる。しかし、ママチャリと違ってロードマンには変速ギアがあった。構造も簡単なので、パンクの修理も難しくない。

 で、福島県に入るんですけれど、これがまた広い。栃木県より広い。しかも山ばかり。ずっと登ったと思えば、いきなり降ってしまう。そしてまた登りと、とんでもないアップダウンが続く。福島県は、県全体が山。そして、この辺に来ると明らかに言葉が違っていた。食料の調達も難しくなってきた。寝るところも確保できなくて土手の芝生で一泊するしかなかった。で、眠っていると朝方にホッペタを棒で突くやつがいるので、目覚めると大勢の小学生の顔があり、みんな「ワーッ」と驚いて逃げていった。

 その後に宮城県に入るわけですが、宮城県はもっと広かった。信じられないかもしれないけれど、福島県よりも広かった。どこまで行っても宮城県。どんなに走っても宮城県。この辺に来ると大型トラックも倍ぐらいに増えて道路をびゅんびゅん走ってる。どうして東北地方は、こんなにトラックが多いんだろうと不思議に思いつつ、延々と宮城県を走る。

 次に岩手県に入るわけですが、もう気が遠くなるくらいに岩手県は広い。もうこのころになると限界で体が自由に動かなくなっていました。さすがに無理をし過ぎた。仕方がないので宮沢賢治ファンだった私は花巻で一泊。一日ぼーっとして、わんこそばを百五十杯くらい食べて体力を回復させ、夜に居酒屋に入って色々注文するんですが、見たこともない料理がメニューにずらりと並ぶ。岩手料理は、奥が深くて食べたことのないような郷土料理がワンサカありました。気に入ったのが「ひっつみ」と「とんぶり」で、珍しい料理を食べながら、マタタビ酒といった珍しい岩手の酒を飲んで元気をとりもどし、翌日にスタート。

 なんとか岩手県を通過して青森県に入る。青森市は遠かった。その後は日本海沿いをゆっくり南下したわけですが、途中で自転車ごとトラックに乗せてもらったりしましたけれど、海沿いを走ったので風とアップダウンに少しずつ体が動かなくなっていった。皮膚に塩がこびりついていて、黒のTシャツも塩で白くなっていたので、
「さすが日本海」
と思っていたけれど、それは私の勘違いだった。海の潮風でTシャツが塩だらけになったのではなかった。それが私の汗の塩だと気がつくのは、足がつって動けなくなってからだった。

 動けなくなる。仕方が無いのでラーメン屋でラーメンを食べたら異常に美味しい。大盛を三杯おかわりした。もちろん汁も残さず飲んでいる。確かに秋田のラーメンは美味しいのだけれど、原因はそこではなく塩分不足にあった。体の調子が悪くなる時、ラーメンの汁も残さず食べると復活するので、塩分不足が原因で間違いなかった。

 ちなみに東北を自転車一周すると、タイヤがツルツルになります。これを交換すると一万円ぐらいかかる。そして、燃費(つまり食費)が、一日四千円。二週間で六万円近くかかる。そのくらい食べないと自転車で一日二百キロは走れない。おまけに途中で何度もパンクしてますから、その費用もかかる。なんだかんだ色々計算してみた結果、電車旅行の方が圧倒的に安いことが分かって、それ以降は、電車旅行ばかりです。ちなみに旅行中は五杯飯を食べていましたが、旅行が終わったら七キロ痩せていました。




つづく。

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2021年03月07日

自転車旅行の思い出【3】東海道

 当時はバブルの余韻が残っていた。
 そんな時代にちょっと反抗して見たかった。
 そこで私は友人達にこんな手紙を書きました。

「宝物というのは、大抵の場合はキラキラと光る宝石であったり、新しくて綺麗なものだったり、誰もが羨むような高価なものであったりするんですけれど、そうではなくて、ボロボロになればなるほど価値が出てくる。そんな宝物が、あってもいいと思います。ボロボロのママチャリを使って、東海道を何回も往復すれば、もっとボロボロになります。どんどんどんどんボロボロになっていく。けれどボロになれば頃になるほど宝物としての価値が出てくる。そんな宝物を作るには、みんなの協力がいるのです」

 この手紙に大勢の人たち(当時二十代の若者)が賛同して、ボロボロのママチャリは東海道を何往復もすることになるのですが、私の計算はちょっと外れてしまいます。東海道を何回も往復すればママチャリは、相当ボロになると思ったんですが、そんなことはなかった。当時の日本製品は、信じがたいぐらいに丈夫で、びくともしなかった。それどころか、かなりボロかったママチャリは、少しずつ皆の手入れがされてしまってピカピカになっていった。私はボロボロにやることによって貴重な宝物を手に入れるはずだったんですが、それは逆になっていく。

 まあそんなことはどうでもいいとして、ママチャリは東海道を何往復もします。例えば大阪から東京にママチャリで走って来る。それと東京の連中はそれをたたえて青少年会館かなんかに集まって歓迎します。旅先のエピソードなんかを聞いて盛り上がるわけです。

 そして東京に着いたばかりなのに、夜行バスに乗って帰ったり、新幹線で大阪まで帰ったりする。一週間ぐらいかけてママチャリで東海道五十三次を走って東京に来たにも関わらず、東京に着いた途端に新幹線で帰ってしまう。こんな話を今の人たちが聞いたら「馬鹿じゃなかろうか」と思うでしょうけれど、こういう馬鹿なことに熱中する人間がいた時代があった。

 到着してすぐ帰る。
 いったい何のため?

と思うでしょうけれど、ママチャリで五十三次を走るのが目的なので終わったら帰るのが当然です。けれどそれを他の人に説明するときに困った。どう説明したらいいのか、ちょっと説明しにくい。しかも乗ってきた本人と初対面だったりする。友達の友達がチャレンジしたりするので、私の知らない人がママチャリに乗ってくる。向こうだって、こっちのことは知らないけれど、
「面白そうだな」
と、この企画にのってやってくる。

 もちろん、みんな社会人。
 休暇をとってチャレンジしている。





 そういうママチャリの猛者が大阪に帰るとなると、大勢で見送りに行きます。入場券を買って新幹線のホームに集まって、見送るのですが、歓迎会で、たった数時間一緒にいただけなのに、初対面だったにも関わらず、もう何年も前から友達だったような気になって離れがたくなっている。

 だから出発する新幹線と一緒に列車のホームを走ったりするんですけれど、それが毎週のように続くものですから、東京駅の駅員さん達も分かっていていたらしくて、私たちがホームに現れると「来たぞ!」という合図とともに十人ぐらい駅員さんが増えていて事故のないように警備される。完全にマークされていました。

 この辺はいかにも東京という感じですが、関西の駅ではちょっと違います。関西人は私たちの想像の斜め上を行く過激さを見せます。東京よりも派手な見送りをします。例えば駅のホームで踊ったりするんですが、どんなにどんちゃん騒ぎをしても関西では駅員さんが警備することはありません。その代わり
「ホーム踊られているお客様、危険なので踊らないでください」
と放送されて、他のお客さんは大爆笑して、写真に撮られたりします。よく見たら駅員さんも笑っていました。

 そういえば京都の鴨川(有名なデートスポット・いつもカップルが座っている)で、飲み会の帰りに歌ったり踊ったりしたことがあったんですが、いつのまにか知らない人たちが一緒に踊ったりしていました。で踊りが終わったら何人かの知らない人たちが、恋人のいる自分の席に戻っていくわけですが、恋人を放置して踊りに参加するあたりは、すごいなあと感心したことがあります。

 これは飲み会でも東西の差がはっきり現れていました。関東で居酒屋の飲み会をやると、皿にひとつ残ります。 例えば唐揚げが十個ぐらいある皿があったとして、 九個まではみんな遠慮なく食べるんですが、最後の一個になると誰も手をつけなくなる。これを関東の一つ残しと言うらしいんですが、大阪ではちょっと違っていて、最後の一個を誰か食べるかじゃんけんしていました。それを関東の人間、それも江戸っ子たちが、嫌な顔しるんですが、そんなのお構いなしにジャンケン。

 もちろん私も参加。「意地汚い」と嫌がる江戸っ子たちを尻目にジャンケンして誰かが勝つと、その唐揚げにみんなで ラー油とか唐辛子をガンガンかけてジャンケンの勝利者に食べさせるわけですが、そういう文化を徐々に理解しだすと、江戸っ子たちも面白がって参加するようになりました。

 話を戻します。ママチャリで東京に行ってきて、大阪に帰る時は。もちろん見送りをしました。出発する時だって見送ります。東京から出発する場合は、当時市ヶ谷にあった東京都青少年センターの前から出発します。万歳三唱してママチャリで大阪に向かう友人を送り出すだけですが、その十分後に
「佐藤さん、助けて!」
と友人が戻ってきた。その友人は、手足が動きづらい障害者だった。その友人が「助けて!」とママチャリで逃げてきたので驚いていると、後ろから警官が何人か走ってきている。まるで犯人の逃亡劇のように逃げてきて、私の後ろに隠れて震えている。何事かと聞いてみたら、職務質問をされたので逃げてきたらしい。

 逃げれば、おまりさんとしては追いかけますよね。

 どうして逃げるのかなあ・・・と思ったら、障害者の彼は、その見た目のために過去に警察官からの職務質問でひどい目にあった事があったらしくて、基本的に警官を嫌っていて逃げてきたらしい。まあ気持ちは分かります。自分の持ち物でないママチャリに乗って旅するわけですから、変な警官に捕まってしまったら面倒なことになることは分かっている。彼はそれを説明するよりも、私のところまで逃げてきて、私から説明する方がベターだと思ったらしい。

 結局私から説明したら警官の方は納得したんですが、自分の無実を証明されたということがわかったとたんに、友人は警官たちに対して高圧的になってきた。
「もういいじゃないかお仕事なんだから」
「警官から逃げるのも良くないんだぞ」
となんとか仲裁してその場を切り抜けました。私の友人には警官も多かったので、余計な揉め事は勘弁です。警官の友人とは言っても旅先で知り合った人間なので、交番で出会うと旅の話で盛り上がります。別れ際に記念撮影をしようという話になって、交番の前ではまずいから、どこか別のところに移動しようかと言うと、友人の警官は
「別に構わないよ」
と言って交番で記念撮影をしました。
「交番の前で撮影するのってダメなんじゃないの?」
「いいんだよ、いいんだよ!」
と一緒に撮影するわけですから、 これにはびっくりです。昔映画の撮影をやっていた時は、少しでも交番にカメラが向かっていたら警官から厳重に注意されたことが何度もありましたので、交番前でも撮影にびっくりしたものです。 知り合いがいれば、ゆるいんだなぁと驚いた記憶があります。

 あと、チャリに乗って大阪に向かった一人に、うちの宿で長いことスタッフをやってくれている土井君がいます。信じられないことに彼は、一月上旬にママチャリで東海道を走るという。私も台風シーズンに走ったので人のことは言いませんが、真冬の一月に東海道を走るなんて、どんな罰ゲームだと思ったんですが、本人がやりたいと言うので止めるわけにもいかずに出発を見送ったわけですが、そんな彼もなんとか無事に大阪についてみんなの歓迎を受けた夜、阪神大震災が起きてしまった。彼は死ぬ思いで東京まで戻ってきたけれど、今となっては懐かしい思い出かもしれない。




つづく。

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2021年03月06日

自転車旅行の思い出【2】東海道

 自転車旅行の一番の大敵は、お尻の皮がむけることです。こうなると座って走ることができない。大阪までずっと立ち漕ぎするしかなくなってくる。これじゃやばいので浜松あたりで座布団を買ってそれをサドルにガムテープでぐるぐる巻きにしてかろうじて座れるように改造しました。でも、やはりお尻は痛い。しょうがないので立ち漕ぎをしながら前進するのですが、台風のせいでものすごい向かい風に、なかなか前進しない。

 初日は池袋から清水まで。初日に距離を稼げなかったのは、箱根の山と台風のせいです。 あと安物すぎて変速ギアが無かったのも原因です。当初は公園で仮眠する予定だったのでホテルに泊まるつもりはなかったんですけれど、 雨風がやまなかったので清水のカプセルホテルで一泊しました。

 カプセルホテルは快適でした。寝るところ以外は全て豪華。泊まってみて分かったんですが、常連さんがいっぱいいた。風呂場で常連さんと会話をしてみると、工事関係の人達。ママチャリで大阪まで行くという話をしたら、いろんな人たちからビールやらをご馳走になってしまいました。浴びるほどビールを飲んだんですが、不思議なことに全く酔いません。酔わないけれど、睡魔に襲われてバタン!

 ママチャリはスピードがでません。箱根の坂は別として、どんなに頑張っても時速15キロぐらいです。10時間走っても150キロメートルぐらい。だから600 km を三日間で ママチャリで走るには1日に200 km は走らなければならない。そうすると1日16時間ぐらいは走り続けなければ到達できない。けれど初日は、150 km ぐらいでダウンしていますから、次の日は250 km を 走るつもりで、朝4時ぐらいにスタート。

 けれど、どこまで行っても静岡県。浜松を通り過ぎて、やっと愛知県に入ったかと思うと、今度はアップダウンの多い山道を走る。こういう時に変速ギアのない安物のママチャリを恨めしくを思います。でもまぁマウンテンバイクよりはましかなと思って走り続けるんですが、こうへいあたりから国道1号線は自動車専用道路に変化します。自転車が走れる道が少なくなる。それでも何とか名古屋を抜けて三重県に入る と、なだらかな坂が続くようになります。気がついたら鈴鹿峠に入っていました。その頃には真っ暗。

 体もヘトヘトなので自転車を押して歩いていたら、どういうわけか全輪が外れてしまった。呆然としていたら親切な軽トラのおじさんが止まってくれたので工具を貸してもらい、なんとか修理して鈴鹿トンネルの中で一泊。と言ってもトンネルの中は排気ガスだらけで死ぬかと思ったんですが、台風の雨の中に寝るわけもいかなないので、そこで一晩を過ごしました。今から思えば狂気じみていますが、若い頃は、自分が何をやってるとか、わかってないんですよ。

 翌日、鈴鹿トンネルから京都に向かいます。延々とアップダウンを繰り返しながら京都に到着。このころになると1号線が自動車専用道路になっていても気にせず自転車でゆうゆうと走っていました。よく警察に見つからなかったものだと思います。この頃からサークルk がなくなってローソンが突然あらわれる。セブンイレブンも、ファミリーマートも当時は見かけなかった。今はどうなっているんだろうか?





  京都に着いたら大阪はすぐに到着すると思ったら大間違い。そこからが遠かった。今はどうなってるのかは知りませんが、昔の1号線は、京都から枚方市を通って大阪に到着するんですが 、田んぼが延々と続く。あれ? 大阪の郊外って、こんなに田んぼが多いの?と首をかしげたものですが、今はどうなってるんでしょう?

 京都も大阪も大都市だと思ってた私は、あまりにも延々と続く田んぼに呆然とした記憶があります。そして以外にないのが、コンビニでした。それまでは1号線沿いにコンビニやドライブスルーの吉野家中がいっぱいあったんですが、京都から大阪までの1号線には当時は、あまりなかったんです。今は違ってると思いますけれど。そして大阪にゴール。

 我ながら無茶をしたもんだと思いますけれど、当時は無茶だと思わなかったのは、新潟に実家があった私の従兄弟(かなり年上)が、東京の学校に通っていて、帰省するたびに、東京から新潟市の実家まで自転車で1日で帰っていたという話を中学生の時に聞いていたので
「ふーん、そんなもんか」
と思っていて、 それが当たり前だと大きな勘違いをしていたのです。

 実際は、従兄弟がバケモノだっただけで、普通の人間にそんなことができるわけがない。それを真に受けていた私も、かなりおバカだった。無知というのは恐ろしいもんです。この歳になって過去を振り返るとつくづく思います。 命知らずにも程がある。ちなみに、これを行った頃の私の年齢は30歳。

 その10年前には、ロードマンという自転車で日本各地を旅行したこともあります。このロードマンと言う自転車は、ブリヂストンから販売されていたスポーツ自転車で、ママチャリと違って変速ギアがあったので、さほど苦労せずに日本一周しています。

 自転車は、タイヤが細ければ細いほどスピードが出ます。だから楽に走れる。ママチャリはそうではない。タイヤが太いために時速15キロがいいところ。平均時速は12キロぐらいでしょうか。10時間走っても120キロしかすみません。 途中で何度も、これがロードマンだったらなあとつぶやきました。

 そんなことはどうでもいいとして、大阪に到着したから3日ぐらい友人の家に泊めてもらって毎日のように電車で六甲山に向かってロックガーデンなどの山登りをして遊んでいました。するとまたもや大型台風が大阪に直撃。昼の3時ぐらいに全ての電車がストップしてしまった。関東では、どんなに巨大な台風が来てもすべての電車がストップすることがなかったので非常に驚きました。

 仕方がないので、神戸から梅田まで歩いたのですが、途中で飯を食おうと思ってもコンビニを含めて全ての店が閉まっているので何も買えなかった。こういうところも東京とは違うなぁと変に感心した記憶があります。その日はすごい台風だったらしいんですが、風は全くなくて雨も降ってなかったので、どうして店が全部閉まってるんだろうと不思議に思いつつ街中を歩いたのですが、きっと私は、台風の目とともに東に移動してたんだと思います。結局、最初から最後まで台風ざんまいでした。これも懐かしい思い出です。

 そして日曜日。

 こういうバカをやっている私に会うために、全国から友人たちが大阪まで集まってきました。みんな暇だなあと思いながら私は、
「誰か、このママチャリで大阪から東京に行かない?」
と私が提案すると、
「じゃあ、俺が行く!」
と提案にのる奴がいた。こうして、ママチャリは、壊れるまで東京−大阪間を何往復もすることになります。昔は、こういうバカなことに夢中になる奴らが大勢いた。そして、大阪からママチャリでやってくる関西人。東京から大阪に向かう関東人。そのつど集まって酒を飲み交わす。これが延々と続いたのです。チャレンジャーの男女比は半々だったかな? 若い女の子が、よくこんなバカなことをやったと感心します。



つづく。

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2021年03月05日

自転車旅行の思い出【1】東海道

 北軽井沢も徐々に雪が溶けてきました。そのせいか自転車で道路を走っている人を何人か見かけるようになってきました。 すごいなと思ってしまいます。私の宿でもマウンテンバイクをお客様に貸し出しているんですが、あまりおすすめしていません。この辺一帯は山だからです。とてもじゃないけれど、普通の人には自転車が使えません。どこを走っても坂道だから、とてつもないエネルギーを使います。北軽井沢の観光協会にも無料のレンタサイクルがあったりしますけれど、北軽井沢を自転車で観光するのは狂気の沙汰だと思います。

 こんなことを書くと、古い友人から「じゃあお前は何なんだ」と言われるかもしれませんね。なぜならば私は、自転車で全国あちこちを回った過去があるからです。自転車で日本一周したこともあれば、ママチャリで東海道五十三次を走ったこともあります。





 若気の至りと言うか何と言うか、今から30年ぐらい前の話になりますが、友人達ととある実験を行ったことがあります。ママチャリの耐久性を調べたことがあるんです。どのくらい走るとママチャリが壊れるか、調査したことがあるんですね。使ったママチャリは、すでに家庭で10年以上使ったボロボロのママチャリ。

 とりあえず私が第一号となって、東京池袋から大阪までの500 km を走りました。大雑把に言って500 km ですけれど、600 km ぐらいあったと思います。 国道1号線は自転車に優しくないからです。国道1号線は、いつのまにか自動車専用道路になってしまうので、自転車だと大きく迂回する必要性がありますから、 500 km の距離で大阪には到達しません。なんだかんだと言って600 km ぐらい走る羽目になります。

 それはともかくとして、ママチャリがどのぐらい走ったら壊れるのかの実験なんですが、 結論を先に言うと
『壊れない』
ということになりました。もっとも30年前のママチャリなので、中国が多い今のママチャリだと違った結論になるかもしれません。30年前のママチャリに限って言えば、 どんなに走っても壊れないということを証明してしまった。

  じゃあ永久にママチャリは壊れないのか? と言うと、それはちょっと違っていて、ママチャリが壊れる前にタイヤが坊主になってしまうのです。 具体的に言うと700 km を越えたあたりからタイヤが坊主になってしまって、まずはブレーキが効かなくなり、すぐにパンクするようになる。1500 km を越えたあたりからタイヤの中のゴムチューブが劣化してやはりパンクしやすくなる。つまり700 km を越えた辺りにゴムタイヤを変えて、1500 km 越えた辺りでタイヤのチューブを交換することになる。その都度に8000円ぐらい支払うことになるので、新品のママチャリを買った方が安いという結論になってしまった。新品なら1万円ぐらいで買えますけれど、旅先の途中でその辺の自転車屋でゴムタイヤを交換すると8000円ぐらい取られてしまう。 だったら新品のママチャリを買った方がいいんじゃないかということになってしまう。

 あと自転車で東街道を大したことならわかると思いますが、静岡県がやたらと長い。どこまで行っても静岡県。最初に驚いたのは伊豆半島が静岡県ということ。箱根を越えたら延々と静岡県。今でもそうかどうかはわかりませんが、静岡県に入るとコンビニはサークルk しかなかった。愛知県に入ってもサークルk しかなかった。だからコンビニ弁当は、しばらくの間ずっとサークルk のコンビニ弁当ばかり食べることになる。それだと飽きるので、国道1号線沿いにある吉野家のドライブスルーにママチャリで入って牛丼を注文するんですけれど、 この吉野家が融通が利かなくて、店内で食べてくださいの一点張り。こっちはママチャリで東海道五十三次を3日で走らなければならないという事情があったので、ドライブスルーで頼むと言うんですけれど頑固で聞き入れてくれない。仕方がないので、ドライブスルーをスルーして、やっぱりサークルk でコンビニ弁当を買うはめになる。

 あと 、東京から大阪に向かう時に気がついたんですが、 最初から最後まで向かい風だった。考えてみれば当たり前といえば当たり前なんですが、風は西から東に行きますから、東京から大阪方面に自転車で走るということは、風の抵抗を受けながら走ることになる。

 そうそう、箱根をママチャリで超える時が一番つらかった。鈴鹿峠はあれに比べれば屁みたいなもんだった。箱根の山は本当につらかったんですが、ここをマラソンで走る奴がいるということを思うと信じられない。箱根マラソンする人たちを私は本気で尊敬します。

 怖かったのが箱根の山を越えた後のことです。ものすごい下りが待っています。どのくらいすごいかと言うと、普通に走っててママチャリが自動車を追い抜かすんだから始末に負えない。もちろんブレーキなんか効きません。前方に信号があって泊まる時は、ブレーキだけでは止められなくて、足で地面をズリズリすることになる。おかげで靴の寿命が縮まってしまった。だから箱根の山から沼津まではあっという間に到着してしまった。 

 こうやって静岡県に入った訳ですけれど、静岡県に入って衝撃を受けます。東京や神奈川県だと交差点あたりに交番がありますけれど、静岡県に入ると交番というものがない。 交番や駐在所は町のはずれにあるので、旅先で道を聞くということができない。仕方がないので地元民に聞いたりコンビニで聞いたりする。そして、いよいよ困るのが、 静岡県に入ってからで、これは愛知県でも一緒なんですけれど、道路がいきなり自転車に優しくなくなってくるのです。国道1号線がいつのまにか自動車専用道路になってしまうからです。そういう箇所が何箇所かある。

 そして、 どこまで走っても静岡県。どんなに走っても静岡県。長い長い静岡県。やっと着いた愛知県と思いきや、今まで海沿いだった道が急に山道になってしまう。 そして自転車では走りにくい名古屋を通過した頃には、お尻の皮が剥けている。

 自転車旅行の一番の大敵は、お尻の皮がむけることなんです。
 こうなると座って走ることができない。
 大阪までずっと立ち漕ぎするしかなくなってくる。
 ちなみに私の荷物は、10リットルのデイバック1個。
 財布と歯ブラシと下着とタオルしかないので荷物は最低限。
 なので軽いのですが、台風直撃の日に出発したので、ひどい向かい風で、初日にぼろぼろになっていた。
 自転車は風の有無で大きく違ってくる。
 逆に言うと、大阪から東京へくる場合は楽なんですよね。

 長くなったので今日はこの辺で筆を置きます。


つづく。

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2021年03月02日

大河ドラマについて【4】

 5歳の子供や、小学2年生がNHKの大河ドラマに夢中になるという光景は、今では考えられないことです。しかし、昭和36年に佐渡島に生まれたという私の環境では、どの家庭でも起こりうる普通の光景でした。

 当時はテレビが高級品で、一家に何台もあるという状況ではありません。私が小学校2年生の時(1969年)に、担任の先生が「自宅にテレビがある人手を上げて」とアンケートをとったことがありますが、昭和44年当時においても、テレビのない家庭が2割ぐらいありました。といってもテレビのない家庭が決して貧乏だったわけではなく、テレビにより優先するものがあった。農家だったら耕運機や軽トラックを優先して買わなければいけないので、テレビが後回しになっていただけです。それが証拠に遅くテレビを買った家は、当時は驚くほど高価なカラーテレビになっていた。

 それはともかく、当時はどの家でもテレビが1台しかなくて、それを家族全員で見ていました。親が大河ドラマを見れば、子供も一緒に見ます。チャンネル決定権は親にありますから「もう寝なさい」と言われない限り一緒に見ることになる。だから私が小学校2年生の時に放映された『天と地と(1969)』を親と一緒に夢中になって見ていることは、新潟県民にとっては、少しも珍しくないことだった。だから小学校の2年生が、学校でNHKの大河ドラマを語るということが普通にあったのです。

 ところが、日本がどんどん豊かになっていくと、状況が少し変わってきます。まず新潟県に一つしかなかった民放が、二つになってチャンネルの選択肢が増えてきます。テレビも一家に一台ではなくて、二台になる。カラーテレビが普及して、今まで使っていた白黒テレビが予備のテレビになって、どの家庭でもテレビが2台以上になる。つまり大河ドラマの裏番組を見れるようになる。親と違う番組を見るようになる。大河ドラマを見る子供たちがどんどん減っていってしまう。

 そして学校での話題が、大河ドラマから青春ドラマに変わっていく。
 徐々にクラスの友達から大河ドラマの話題がなくなっていき、
 日テレの青春ドラマを見る人たちがどんどん増えていく。



(俺は男だ!/日テレの青春学園ドラマ復活の起爆剤となった)


 『俺は男だ』から始まって、『飛び出せ青春』『われら青春』と、どんどん面白い青春ドラマが出てきた。私の友人たちは、ほぼ全員が、それらのドラマに熱中していました。大河ドラマを見る人間は、クラスの中で私一人しかいなかった。だから私は日テレの青春ドラマをリアルタイムで見ていません。大河ドラマを優先していたので、これらの青春ドラマは全て再放送で見ています。

 『俺は男だ』の時は、『新・平家物語』だったし、
 『飛び出せ青春』の時は『国盗り物語』で、
 『われら青春』の時は『勝海舟』だったので日テレの青春ドラマには見てない。

 ところが中学生になって、中学校で運動会が開かれると愕然とします。運動会といえば応援合戦がつきものですが、応援合戦をする時に歌う歌は、たいてい『太陽学園』の歌。つまり布施明の『貴様と俺』だった。これは日テレの青春ドラマを見ていれば、必ず覚えてしまう歌で、クラスメイトは全員知っていたのですが、私一人が知らなかった。



(布施明の『貴様と俺』は、当時の運動会の応援歌の定番だった)


 『貴様と俺』という歌は、1965年に日本テレビで放送された『青春とはなんだ』という学園ドラマにでてくる歌で、以降、日テレの青春学園ドラマでは、かならず劇中歌として歌われていました。その裏番組が、NHKの大河ドラマだった。大河ドラマを見ていたら、それについて無知になる。で、無知なのは私一人だった。

 みんな大河ドラマなど見ず、日テレの青春学園ドラマに夢中になっていた。運動会の応援歌は、まだあった。『太陽がくれた季節』とか『帰らざる日のために』を運動会で歌っていた。運動会のフォークダンスは、中村雅俊の『青春貴族』で踊っていた。この曲も『われら青春』で使われた曲で、大河ドラマしか見てなかった私は知らなかった。

 ただし、こういった青春学園ドラマは、夕方5時台にジャンジャン再放送されたので、そこで見るようになり、やっとみんなの話題に追いつくようになりました。学園ドラマで使われた音楽の知識も吸収できるようになった。

 中学校や高等学校時代に、友人とテレビドラマで会話が合わないというのは非常に辛いものがあります。だから放課後に自宅で青春学園ドラマの再放送を何度も見た。つまり、NHKの大河ドラマを見るということは、友人関係にブレーキがかかる。みんなの趣味と合わなくなる。

 私は、みんなと一緒に遊んだりふざけたりもしますが、そういう賑やかな友人たちとの付き合いから、こっそり抜け出して一人図書館で司馬遼太郎の本を読みふけることも多かった。

 それと似たような人間が、私の他にも何人かいて、その人たちもやはり図書館でこっそり本を読んでいました。もちろん同じ趣味だと思われるので、そういう人たちと話しあえば、歴史仲間として一緒につるむこともできたんでしょうが、どういう訳か、お互いにそういうことはしません。お互いに趣味を語り合うよりも、時間の許す限り読みたい本を読むことを優先していたのだと思う。

 ここから大河ドラマについてのべます。

 倉本聰の名作『勝海舟(1974)』の後に始まったのが『元禄太平記(1975)』です。これが非常に面白かったのですが、裏番組が中村雅俊の『俺たちの旅』で、当時全国の若者が、このドラマに熱中しました。私の同級生も全員見てましたけれど、私は『元禄太平記(1975)』を見ていたので話題にはいれなかった。ちょうど中学2年生だった。





 その頃の中学生のお決まりのパターンとして、誰も彼もがギターをひきながら、ビートルズやフォークソングを歌っていましたが、そういう中に入っていけなかった。仕方がないので、そういう話題になった時は、こっそり図書館に行って歴史本を読んでいました。

 その次が『風と雲と虹と(1976)』です。相変わらず裏番組は『俺たちの旅』で、中村雅俊は超人気スターとして、ものすごいスポットを浴びていました。彼はラジオ番組でDJをやっていて当時の若者たちは夢中になって聞いていました。そのうち『俺たちの旅』の番組が終わると『俺たちの朝』という青春ドラマが始まって、どういうわけかその番組には、中村雅俊はいなかった。変だなぁと思っていたら、翌年の大河ドラマの主役(高杉晋作)の一人に抜擢されていました。次の青春ドラマから、中村雅俊が消えるということで、話題になっていた。



(俺たちの朝・中村雅俊ぬきで、大ヒットした青春ドラマ)


 半沢直樹で大人気になって、半沢直樹パート2に期待されていた堺雅人が、NHKの大河ドラマ『真田丸』の主役に抜擢されたために、半沢直樹パート2が作られず、全国民がイライラしたことがありましたが、あれと同じような状況が、1977年にもおきたのです。

 最初の頃は、中村雅俊が『俺たちの朝』に出ないので、青春ドラマは失敗するのではないか?と言われましたが、これが大ヒットしました。特に松崎しげるが歌った「俺たちの朝」がヒット。作詞が谷川俊太郎。作曲が小室等という爽やかな曲が秀逸で、ラジオ番組のリクエストで何度も流れていた。そして若者たちが、江ノ島海岸にロケ地(聖地)めぐりで殺到しました。

 私は、NHKの大河ドラマの『花神』を見終わった後に、チャンネルを変えたものですが、まだ『俺たちの朝』は放送中で、ちょうどエンディングで、この曲が流れてて、銭湯から主役の三人がでてくるシーンでした。それを見るたびに、この青春ドラマを見たいと思ったものですが、そういう訳にはいかなかった。当時、司馬遼太郎ファンだった私は、司馬遼太郎原作の『花神(1977)』を見ないわけにはいかなかった。

 司馬遼太郎の原作を映像化するのは難しい。
 このことは、前回の『国盗り物語』の解説で述べました。

 NHKは、この難問を、群像ドラマにすることらよって解決させたことも前回述べました。『国盗り物語』の中に『功名が辻』『尻啖え孫市』『梟の城』『新史太閤記』を入れて、司馬遼太郎の余談の代わりにした。

 この手法は、『花神(1977)』でも取り入れられ、『花神』をベースに『世に棲む日日』『十一番目の志士』『峠』『酔って候』『燃えよ剣』を挿入し、群像劇にしてしまった。これが最高に面白かった。おまけにシナリオは『国盗り物語』の時と同じ大野靖子なので、『国盗り物語』のような作品になった。

 音楽も『国盗り物語』と同じ林光なのだが、天才・林光は『国盗り物語』と違う感じの音楽を作り込んだ。『国盗り物語』では、死肉を求めて飛び回るトビの鳴き声を思わせる出だしから合戦シーンを思わせる重厚な音楽となり戦国時代らしい音楽だったけれど、『花神』の音楽は日本の夜明けを思わせる音楽で、幕末維新にピッタリの音楽だった。



(花神・司馬遼太郎が、唯一大絶賛したドラマでもある)


 ドラマの方も最高だった。それは私の個人的な感想だけの話では無く、原作者の司馬遼太郎本人が、当時大絶賛していたことからもわかると思う。大河ドラマとしては、視聴率は低かったけれど、当時のコアな司馬遼太郎ファンは、涙を流して喜んでいたことを私は知っている。裏番組が若者たちがこぞって視聴した『俺たちの朝』だったわりには善戦したと思う。

 おしむらくはタイトルを『花神』にしたことだ。『世に棲む日日』をタイトルにして、中村雅俊の高杉俊作をメインにして、『花神』『十一番目の志士』『峠』『酔って候』『燃えよ剣』を挿入していたら視聴率は、19パーセントでは無く、40パーセントになっていただろう。しかし、あえてそれをせずに、中村梅之助の大村益次郎にしたところが、NHKの意地かもしれない。

 男前でかっこいい主人公(中村雅俊の高杉俊作)をサブにもっていって、ドジで不細工な三枚目(中村梅之助の大村益次郎)をメインにしたからこそ、司馬遼太郎が大絶賛したのかもしれない。

 人を怒らせる天才で、ドジで不細工な三枚目で、運動音痴で馬にも乗れず、刀の抜き方も知らない司令官という、どうしようもない最低な人間を主人公にした大河ドラマは、この『花神』が最初で最後の大河ドラマである。そういう意味では、三谷幸喜の『真田丸』と真逆な大河ドラマなのだが、面白いことに三谷幸喜は、この『花神』を大絶賛している。

 私は『花神』が最終回となった後、大河ドラマをほとんどみてない。『花神』より面白い大河ドラマがあるとは思えなかった。その後は、裏番組の日テレ青春ドラマ『青春ド真中!』を見ていた。当時、私は高校2年生で『青春ド真中!』の設定も高校2年生だった。シナリオは鎌田敏夫で、彼が全盛期を迎えていた頃なので面白さは歴代学園ドラマの中でも最高クラスだった。






つづく。

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2021年03月01日

大河ドラマについて【3】

 司馬遼太郎の作品を原作にドラマを作ると失敗する可能性が高くなる。視聴率が取れないとか、ドラマの出来が悪いという話ではなくて、司馬遼太郎の持ち味のことです。

 これは本人も言っていることなんですか、司馬遼太郎は、火星人が地球を見ているような感じで歴史を見ようとしている。だから彼は、冷めた目で主人公を見ている。上から目線で俯瞰して主人公を観察し、主人公の敵に対しても俯瞰して見ている。

 つまり、作者本人が主人公に対して感情移入してない。それでいて主人公の魅力を最大限に引き出すのが司馬遼太郎の得意技。冷めた目で主人公を見て、冷めた目で主人公の行動を評価して、その上で主人公を魅力的に見せる。こういう作品をドラマにした時に、一番困るのは脚本家でしょう。

 司馬遼太郎の小説には、主人公が二人いる。一人は本当の主人公で、もう一人は司馬遼太郎本人です。そして司馬遼太郎自身が、小説の中で小説の主人公と会話したりする。こういう作品をどうやって映像化すれば良いのか? 忠実に映像化することなど絶対に無理なのだ。そもそも作者が主人公に感情移入してない作品を、どうやって映像化すればいいのか?

 1968年に『竜馬がゆく』という大河ドラマを作って失敗している。当時の大ベストセラーである司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が、最低視聴率(平均視聴率14.5%)で大河ドラマは打ち切り寸前だったという。それを『天と地と』の大成功で盛り返したわけだが、司馬遼太郎の小説は、それほど映像化が難しいのだ。

 なにしろ司馬遼太郎は、主人公の内面を追求しない。いつも主人公と距離をとっている。だから感情移入しにくいうえに、司馬遼太郎の魅力ともいえる作者の脱線話、つまり彼がストーリーの間に挟んでくる「余談」を映像化することが難しいのである。けれど「余談」を削れば、司馬遼太郎の魅力は半減する。かといってナレーションとして「余談」を入れると、物語が散漫になってしまう。例えば、ラブシーンの途中に(アクションシーンの途中に)ナレーションが入ったらどうなるだろう? 一気に視聴者は幻滅してしまう。そもそもナレーションを多用するドラマは、失敗作というのが、映像作家なら誰でも知っていることなのだ。

 以上、前置きを終わる。
 本題に入る。
 NHKの大河ドラマは、

 花の生涯(1963)
 赤穂浪士(1964)
 太閤記(1965)
 源義経(1966)
 三姉妹(1967)
 竜馬がゆく(1968)
 天と地と(1969)
 樅ノ木は残った(1970)
 春の坂道(1971)
 新・平家物語(1972)

 と続いた。新・平家物語(1972)にいたっては、映像化すればヒットまちがいなしといわれた吉川英治の原作を採用し、脚本家は元祖ライトノベル作家である平岩弓枝を起用し、当時の豪華メンバーをずらりと配役にして、ホームドラマのように役者の顔アップをテレビに流し続け、平均視聴率21.4パーセントをかせぎました。

 で、その次の年が、司馬遼太郎の『国盗り物語(1973)』でした。『国盗り物語』のあらすじを簡単に言うと、前半が斎藤道三の話。後半が、織田信長と明智光秀の話です。織田信長と明智光秀は、斎藤道三の義理の息子で、ライバルだったという話です。『麒麟がくる』のあらすじにそっくりですが、かって『国盗り物語』に熱中した私は、『国盗り物語』の劣化版にみえてしまう『麒麟がくる』を冷静に受け止めることはできない。

 それはともかくとして、司馬遼太郎の作品を原作にドラマを作ると失敗する可能性が高くなる。司馬遼太郎の筆法では、主人公に感情移入しにくい。彼の魅力は脱線話の面白さだが、それをドラマに入れにくいので司馬遼太郎の持ち味が死んでしまう。どうするんだろう?と思っていたら、NHKは非常に巧妙な手法をとってきた。

 どうせ感情移入しにくいなら群像ドラマにしてしまえと、複数の主人公登場させる方法を取りいれた。具体的に言うと『国盗り物語』の中に『功名が辻』『尻啖え孫市』『梟の城』『新史太閤記』を入れて、司馬遼太郎の余談の代わりにした。ナレーションで司馬遼太郎の余談を語るのでは無く、群像劇をみせて、司馬遼太郎の余談を味合わせる工夫をした。これは私の勝手な分析ではなく、当時のプロデューサーが告白していることである。だから『国盗り物語』という題ではあっても、中身は違っている。



(『国盗り物語』林光の音楽は、歴代の大河ドラマの中で最も美しい)


 ところで、この『国盗り物語』、歴代の大河ドラマでも最高傑作に近いくらいに面白かった。当時、私は小学校6年生だったのに、今でも全話記憶に残っているくらい面白く見ていた。私は、その後に司馬遼太郎の原作を読んだのですが、ドラマと原作がピッタリと一致していた。だから難しいと思った原作が、スラスラと頭に入っていった。

 司馬遼太郎というドラマ化が不可能に近い作品なのに、原作に忠実にドラマ化している。原作の難しい所やダラダラとしたところをバッサリとカットして、原作の一番良いところにスポットライトを当てて見せていた。それぞれ一番美味しいところを抜き出して、それを毎週これでもかと提供していた。つまり一話完結の連続ドラマを見せられていた。朝ドラとは違う作りだった。『功名が辻』なんか、たったの一話で終わらせていた。それが小学生には分かりやすかったのかもしれないし、歴史音痴の人間にもとりつきやすかった。

 逆に言うと、全体に淡泊だったかもしれない。金のかかりそうな合戦シーンの一部をナレーションだけで終わらせたり、チャンバラアクションも省略することが多く、そのかわりに『功名が辻』のような戦国の面白エピソードを盛り込んでいた。『国盗り物語』なのにチャンバラをあっさりと省略している珍しい大河ドラマだった。

 もっとも、これだけの原作を詰め込んだ群像劇ならば、合戦を一々撮影などしてられなかっただろう。どこかで切り捨てる必要がでてくる。そういうときは、屏風絵の合戦シーンの絵ををみせてナレーションでお茶を濁している。脚本家は、チャンバラよりも、司馬遼太郎の歴史観を紹介することを優先していた。

 主人公も、一話ごとに違っていた。群像劇なので、当たり前と言えば当たり前なのだけれど、これが歴史知識の無い人間にはありがたかった。そのうえ斎藤道三から、明智光秀・織田信長・豊臣秀吉・才賀孫一・山内一豊・黒田官兵衛・伊賀忍者と、戦国オールスターをいっぺんに学習できる大河ドラマというのも珍しかったと思う。

 林光の音楽も素晴らしかった。冨田勲ばかりを使うNHKにしては、林光という大御所の採用は、ちょっと珍しいが、この人は、やはり天才だと思う。後に大河ドラマ『花神』の音楽も担当しているが、こっちも素晴らしい音楽だった。その後、NHK少年ドラマシリーズ『星の牧場』で素晴らしい音楽を披露し、『星の牧場』に役者として出演していた千住弘(音楽家)・千住真理子(バイオリニスト)が音楽家の道に進むきっかけを与えている。

 そして『国盗り物語』の後に放映されたのが、倉本聰の『勝海舟(1974)』だったが、この『勝海舟』でNHKに大事件が起きる。NHKの組合が倉本聰をつるし上げたのである。倉本聰は、大勢のNHK社員に囲まれて罵声をあび、気がついたら北へ向かう列車に乗っていた。北海道でふらふらとし、北海道民に癒やされて、シナリオ界から消えてしまった。倉本聰の失踪は業界を震撼させた。倉本聰の才能を惜しんで、倉本聰を探し出した人がいて、彼は札幌で発見された。そして、彼に仕事をさせて『北の国から』が始まる。一方、倉本聰を追い出したNHKの人たちは、その後、ぱっとせずに数年で消えてしまうことになる。

 まあ、そんなことは、どうでもいいとして、倉本聰の『勝海舟』は凄かった。
 登場人物に『うそ』を言わせる。
 登場人物に『うそ』を行動させる。
 それがスリルにみちて、視聴者を慌てさせるのです。
 例えば、こんな感じです。

 勝海舟を暗殺にくる人斬り牢人がくる。
 牢人は、勝海舟に何も反論しない。
「勝先生のおっしゃるとうりです」
と勝海舟を全て肯定しているが、目は笑っていない。
 勝海舟は、牢人の刀をみる。
 牢人はぴくりとも動かない。
 勝海舟にお世辞ばかり言う。
 焦った勝海舟は、ますます時局をとき、鎖国の無意味さを話す。
 牢人は「そのとおりです」と相づちをうつ。
 決して反論などしない。
 牢人の刀が、大きくみえてくる。
 冷や汗を流す勝海舟は、ますます多弁になり、
 勝海舟を暗殺しようとする牢人は、勝海舟をほめる。
 牢人の刀。
 勝海舟の焦り・・・。



(『勝海舟(1974)』藤岡弘の坂本龍馬・ショーケンの人斬り以蔵)


 私は、倉本聰のシナリオの最高傑作は、『北の国から』ではなく、『勝海舟(1974)』ではないかと考えている。惜しむらくは、この大河ドラマは、NHKが倉本聰に罵声をあびせて追い出した結果、大化けしなかった。ただ、幕末ものとしては、当時の過去最高の視聴率をとっている。



つづく。

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2021年02月28日

大河ドラマについて【2】

 私は5歳ぐらいの頃から、親と一緒に大河ドラマを見続けていて、その影響で歴史が大好きになっています。5歳の人間に大河ドラマはハードルが高いのですが、偶然にも私が初めて見た大河ドラマは『源義経(1966年)』だった。

 私が子供の頃は、源義経は、牛若丸として絵本や紙芝居で何度も見ていたし、保育園で牛若丸の歌を歌っていた。なので『源義経(1966年)』は五歳児にも親しみがあり、毎週楽しみに見ていて、土曜日の再放送さえみていた。最終回の弁慶の立死のシーンは、夢に出てきてうなされるほどの衝撃で、60歳になる今でも脳裏に光景がきざまれています。

 ただし、次の年の『三姉妹(1967)』には全く興味が持てなかった。私の記憶には残ってない。次の年の『竜馬がゆく(1968)』は、面白がって見ていた記憶があるんですが、内容は思い出せません。当時、私は小学校1年生だった。一年生には、坂本龍馬は難しかったのかもしれない。

 私を大河ドラマにのめり込ませた決定打は、上杉謙信を主人公にした『天と地と(1969)』だったと思う。この作品は、NHKのドラマとして、当時の最高予算を使ったドラマだった。合戦シーンに大勢のエキストラを使っただけでなく、それをヘリコプターを使って空中撮影までしていた。





 私の育ったところは、上杉謙信の地元である新潟県なので、近所中が『天と地と(1969)』を見ていた。新潟県民で、この大河ドラマを見てない人はいなかったと思う。新潟中の人間が、『天と地と(1969)』に熱中した。当然のことながら子供たちも、巻き込まれて見るようになる。

 私も例外では無い。
 小学二年生だったけれど、この大河ドラマに熱中した。
 これは私だけではなく、同じ年齢の同級生たちも見ていた。
 ゲームがはびこる今では考えられないけれど、
 当時の子供の遊びはチャンバラだった。
 
 そもそも上杉謙信という奇跡的な人物を主人公にしているのだから、面白くないわけがない。上杉謙信くらい劇的な人生なら、誰がシナリオを書いても面白くなるのだが、脚本を書いたのが、新潟県出身の杉山義法だった。彼の脚本には、上杉謙信がのりうつっていた。新潟県民でないと書けないシナリオだった。

 そもそも原作が面白かった。司馬遼太郎の師匠筋にあたる海音寺潮五郎なので、面白くないわけがない。そのうえ海音寺潮五郎は、フィクションを控える。だから余計に海音寺潮五郎の上杉謙信が本物にみえる。そもそも海音寺潮五郎(薩摩隼人)には、上杉謙信的なところがある。だから面白さが増していたのかもしれない。

 で、私は親に「今まで一番面白かった大河ドラマは?」と聞いたことがある。『天と地と(1969)』という答えが返ってくるかと思いきや、大河ドラマの第一作である『花の生涯(1963)』という解答に驚いた記憶がある。幕末の時代劇では、悪役として登場する井伊直弼が主人公にした大河ドラマなので、非常に驚いた。

 以上、ここまでが前置きである。
 これ以降は、私が20歳になってからの話になる。

 二十歳になった私は、映像系統の学校に通っていた。そこで映画『キューポラのある街』の監督である浦山桐朗氏の講義を受けた。その浦山桐朗氏が、講義中にNHK大河ドラマについて強烈なダメだしをしていた。

 当時のNHK大河ドラマは、『おんな太閤記』を放映しており、平均視聴率31.8%という化け物番組の数字をだしており、多くの人々が熱中して見ていた。大河ドラマの時間は、銭湯が空っぽになっていた。だから浦山桐朗氏のNHK大河ドラマ批判に違和感を持ってしまった私は、
「あんなのは大河ドラマではない」
という浦山桐朗氏に
「どのへんが大河ドラマではないのでしょうか?」
と質問してしまった。すると浦山桐朗氏は
「テレビをよく見てみなさい。八割が人物のアップになっている。ほとんど顔しか写ってない。顔ばかり見せている。まるでホームドラマだ・・・。昔の大河ドラマはね、例えば『花の生涯(1963)』なんかは・・・」

 ここで『花の生涯(1963)』という固有名詞を聞いて、昔、親から聞いた一番面白かった大河ドラマが『花の生涯』という事を思い出し、いろいろ伝手をたどって『花の生涯』のビデオを見てみて驚いた。テレビだというのにモンタージュを多用しており、クローズアップまで使われている。そうえカットバックまで使っている。カットバックとは、異なる場所で同時に起きている複数シーンのショットを交互につなぐ演出のことで、テレビでは滅多に使われない手法です。つまり、この作品はテレビの手法で作られてなかった。あきらかに映画の手法で作られていた。特に井伊直弼を暗殺するするシーンは、リアルで凄かった。


 雪の中、水戸浪士が斬りかかる。
 護衛の者は、刀が抜けない。
 刀は、金ピカの刀袋に包まれており、
 その紐を解こうとするが、
 雪の寒さで指が思うように動かない。
 (江戸城に入る武士は刀を豪華な刀袋に入れていた)

 水戸浪士が、ジワジワと井伊直弼の駕籠を囲んでいく・・・・。
 そしてカットバック!





 まさに映画! 大河ドラマというより映画。しかし、この作りをみて感じたことは、私もこういう作品(大河ドラマ)を見たことがあるというデジャブー感でした。もちろん『花の生涯』の事では無い。そうではなくて倉本聰の大河ドラマ『勝海舟(1974)』を思い出してしまった。『勝海舟(1974)』も、すごい大河ドラマだった。倉本聰の最高傑作は、『北の国から』ではなくて『勝海舟(1974)』だと私は思っています。

 それはともかくとして、大河ドラマのスタートを切った『花の生涯(1963)』が、映画的な手法で作られていることに驚き、当時、最高視聴率をとっていた『おんな太閤記』が、非常にテレビ的に作られていることに妙に感心したものです。

 で、いつから大河ドラマが、映画的なものからテレビ的なものに変化していったかというと、『天と地と(1969)』が分水嶺だったかもしれない。『天と地と(1969)』までは映画的な香りがしていた。その後の『樅ノ木は残った(山本周五郎・1970)』あたりになるとテレビ的になっていて、『春の坂道(1971)』になると、今の大河ドラマと同じように完全無欠のテレビ番組になっていた。

 そして次の『新・平家物語(1972)』になると、平岩弓枝のシナリオということもあって、完全無欠なテレビであり、『おんな太閤記』のように役者のアップが目立つようになり、当然のことながらほとんどスタジオ撮影だった。だから絵巻物のような美しい画面が、これでもか!と出てきた。ロケが多いと、こうはいかない。

 若い人にはわかりにくいかもしれませんが、昔のテレビでは、ロケになると16mmフィルムで撮影していて、スタジオの場合はテレビカメラで撮影していたので、ロケシーンになると、画像が変わっていました。16ミリの画像は粗かったのです。なので、視聴者は、このシーンはロケで撮影しているか、スタジオで撮影しているかがはっきり分かったのです。ロケでもテレビカメラで撮影できるようになるのは、もう少し後のことです。

 それにしても、推理小説家であり、ライトノベルの元祖的存在でもある平岩弓枝を大河ドラマの脚本担当にしたNHKも大したものです。吉川英治の『新・平家物語』を、元祖ライトノベル作家の平岩弓枝に脚本を書かせるという組み合わせがすごい。おまけに新日本紀行のテーマ曲で有名な冨田勲が、『新・平家物語』の音楽担当だったので、作品全体が艶やかになっていました。

 平岩弓枝にしても、プロの脚本家でも無いのに、『肝っ玉かあさんシリーズ』と『ありがとうシリーズ』の人気ドラマをかかえながら、よく『新・平家物語』の脚本を引き受けたなあと感心します。パソコンもワープロも無い時代に、いったいどうやって、大ヒット作品を量産したのだろう?と不思議でなりません。



つづく。

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2021年02月26日

大河ドラマについて【1】

 うちの嫁さんは、ここ2・3年、ようやく歴史に興味を持ったらしくて、毎週大河ドラマを見ています。きっかけは、何年か前にあった『真田丸』を見てはまったことから始まります。それ以前は、歴史に対してまったく無関心でした。というか、織田信長が何をした人なのかも知らないし、豊臣秀吉がいつの時代の人かも知りません。江戸時代と鎌倉時代が、どっちが古いとかも知らない。下手したら江戸時代の次に平安時代が来てその次に奈良時代が来るぐらいに思っていましたから、嫁さんの歴史の知識は、小学校1年生にも劣るレベルだったことは間違いありません。





 それが大河ドラマの真田丸を見てから、歴史好きになってそれ以降の大河ドラマを欠かさず観ています。とはいうものの、小学校1年生レベルの知識ですから、大河ドラマを見た後に、わざわざ私に、史実を確認してきます。私が何度も
『大河ドラマは史実と違うから、見ようとは思わない』
と言うから、大河ドラマを見終わった後に、本当の史実どうだったとか、大河ドラマを見ても色々分からない点を質問してきます。それがあまりにもうざったいので、適当にあしらっていると、自分でインターネットで検索して調べている。

 現代はありがたいもので、大河ドラマを色々と解説してくれるYouTube動画がいっぱいあって、タブレットを仕事場に落ち込んで、仕事をしながら大河ドラマを解説するYouTube動画を一生懸命見ています。

 その変わりように疑問を抱いた私は、あれほど嫌っていた歴史を、どうしてこんなに好きになったのか質問してみました。また、どうして昔は、日本の歴史が嫌いだったのかとも質問しました。すると驚くべき答えが返ってきました。嫁さんの日本史嫌いは、親譲りだったらしいのです。

 嫁さんの母親は、女系家族だったらしくて、姉妹ばかりだったらしい。そのためか、やたらとチャンバラを見せる時代劇が大嫌いだったらしい。なので嫁さんが物心ついてから時代劇や大河ドラマを見る機会は全くなかった。その影響を受けてか日本の歴史が嫌いになったらしい。

 これは嫁さんの母親が戦後の世代ということもあって、GHQ(占領軍)の影響で自虐史観を植え付けるれたということも考えられます。とにかく嫁さんの実家では、時代劇や日本の歴史に関するドラマがテレビから流れることはなかった。そういう影響を受けて育った嫁さんは、当然のことながら高校時代は世界史を専攻。日本史を学ぶ機会が全くなかった。

 もちろん私が毎回のようにブログに書いている歴史に関する文章も読んだことがない。私が持っている数千冊の歴史関係の本も、結婚して以降一度だって見たことがない。それが歴史好きになってしまった原因は、NHKの大河ドラマの『真田丸』です。真田丸が放映されると地元としてはお客さんから質問があってはマズいと思ったのか、毎週欠かさず見ていました。そして日本史が面白い事に気が付いて、それからは大河ドラマの熱狂的なファンになっていた。歴女になっていた。今では息子のために買い与えた『漫画日本歴史』を嫁さんも一緒に読んでいます。

 この事を考えると、親が子供に与える影響は想像以上に大きいです。

 私の場合は逆で、私の親が大河ドラマが大好きだったために、5歳ぐらいの頃から、親と一緒に大河ドラマを見続けて、その影響で歴史が大好きになって、歴史書を読みあさる子供時代だった。そうやって、あるていど歴史に詳しくなると、フィクションだらけの大河ドラマには、全く興味が持てなくなっている。まあ、そんなことはどうでもいいとして、親の影響で、歴史に対する好き嫌いは、大きく違ってくる。これは事実だと思います。

 あと私の場合、5歳の時に最初にみた大河ドラマが『源義経(1966年)』だったことが良かったかもしれない。本来なら5歳の人間に大河ドラマはハードルが高いのですが、5歳児でも源義経は、牛若丸として絵本や紙芝居で何度も見ていたし、保育園で牛若丸の歌を歌っていましたから、『源義経(1966年)』の大河ドラマは五歳の私にとっては難しくなかった。むしろ毎週楽しみに見ていた。毎週どころか土曜日の再放送さえみていた。保育園の年中組だったにもかかわらず、食い入るように見ていた。



(最終回の弁慶の立ち死にのシーン)


 特に最終回の弁慶(緒形拳)の立ち死にのシーンは、夢に出てくるほどの衝撃で、あのシーンは、60歳になる今でも脳裏にきざまれています。だから私には歴史好きになる素養があったけれど、嫁さんの場合は、そういう出会いが無かった。無かったので歴史音痴だったわけですが、今では立派な歴女になりつつあります。環境というものは、恐ろしいものです。子供の将来は、間接的には親が決めているのでは無いかと思えるくらいです。

 ちなみに嫁さんの母親は、チャンバラが大嫌いなうえに、沢田研二とミュージカルが大好きだったために、うちの嫁さんも芝居がすきになり、演劇系統の大学に進学しています。もし、私と出会ってなかったら歴史と一生縁が無かったでしょう。そして、うちの息子は歴史が大好きで、Eテレの高校日本史を見たり、Eテレの歴デリを好んで見ています。時々、歴史秘話なんかも見ていますが、大河ドラマには見向きもしてません。私が大河ドラマを見ないので、その影響も大きいと思われます。



つづく。

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2021年02月25日

カニ族の青春

 このブログを読んでいる人だと思うんですが、ある人から『カニ族の青春』という本を送ってもらいました。ありがとうございました。

 カニ族と言っても、若い人たちには何のことかさっぱり分からないと思いますが、昔は旅をする時に、キスリングというリュックサックを背負って旅をしたのですが、このキスリングでさえ今では死語となっています。


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 キスリングというのは、横に長いリュックサックのことです。キスリングと現代のザックと、どこが違っているかと言うと、横幅が長い。現在のザックが縦に細長いのに対して、キスリングは横幅がある。どうしてかというと、フレームがないから、縦長にできない。饅頭のような形・巾着のような形にしかできない。で、両サイドに大きなポケットを作った。そのほうが、安定するからです。

 しかし、これは非常に担ぎにくかった。
 全部の重量が、肩に食い込むからです。
 だから昔の山岳会では、腕を組んで猫背になって山を登るように指導していた。

 ちなみに、このキスリングは、私が中学生だった1970年代の半ばまで、日本の登山家たちは、みんな担いでいました。1975年頃から日本にも現在のようなフレームザックがでてきます。

 ユースホステル運動・ワンダーフォーゲル運動の盛んなドイツでは、ザックの性能が著しく進化しました。その結果、ドイツでは、ザックにフレームを入れて縦長にして、肩ではなく腰で担ぐようにしました。それが現代のザックです。なのでキスリングは、もう滅びてしまって、どの店にも売っていません。

 理由は疲れるからです。逆に言うと縦長のザックの方は、疲れません。バランスも取りやすいし、腰で背負うので荷物も軽くなります。キスリングはそういうわけにはいきません。肩だけで背負うので、肩が痛くなるし、歩くとふらふらする。

 まあそんなことはどうでもいいんですが、昔の人たちは、キスリングを背負って旅行したわけですが、大きなキスリングから手足が出ていて、その姿が蟹のように見えたので『カニ族』と言われました。そしてカニ族が日本全国を席巻していたのが、1960年代末から1970年代のことです。そして彼らの大半は、鉄道旅行社でした。当時若者で、車やバイクを持ってる人は、よほど裕福でもない限り難しかったので、鉄道旅行をするしかなかったわけです。もちろん鉄道会社も積極的にカニ族を応援しました。

 カニ族を対象としたイメージソングまで作られていました。
 みんなも知っている有名な歌です。
 『遠くへ行きたい』
 『いい日旅立ち(山口百恵)』
 『思えば遠くへ来たもんだ(武田鉄矢)』
 『旅人よ(加山雄三)』
 などです。

 この他に『風来坊』『遠い世界』『岬めぐり』『風』なんてものもありましたけれど、やはり『遠くへ行きたい』『いい日旅立ち(山口百恵)』『思えば遠くへ来たもんだ(武田鉄矢)』『旅人よ(加山雄三)』の4曲が有名ですね。


 『遠くへ行きたい』は、1970年に国鉄が一社提供として作った番組で、そのテーマ曲になった曲です。当時、国鉄は大阪万博のために製造した車両の有効活用を考え「DISCOVERJAPAN」という旅行誘致キャンペーンを開始して、駅スタンプを各駅に設置し、周遊券を新設するなどして、若者に旅行ブームを煽り『遠くへ行きたい』のテレビ番組を作ってもりあげ、DiscoverJapanというCMをじゃんじゃん流していました。



 『遠くへ行きたい』


 『いい日旅立ち』も、国鉄による旅行誘致キャンペーンソングで、「DISCOVERJAPAN2」として1978年11月に山口百恵で歌われています。この曲も大ヒットして、多くの若者たちが、この曲を歌いながら旅に出ました。



『いい日旅立ち』


 『思えば遠くへ来たもんだ』は、武田鉄矢の曲で、国鉄による旅行誘致キャンペーンソングに採用されかかった曲で、山口百恵の『いい日旅立ち』と最後まで争った曲です。結局、国鉄は、山口百恵の『いい日旅立ち』を採用したわけですが、『思えば遠くへ来たもんだ』も素晴らしい曲なので、もし、これが選ばれていたら男の旅人が増えていたでしょうね。そして駅寝がもっと爆発していた可能性がある。なので山口百恵の『いい日旅立ち』だからこそ、女性一人旅が大勢現れて、ユースホステルに女性の旅人が多かったのだと思います。



 『思えば遠くへ来たもんだ』


 そして加山雄三の『 旅人よ』も同時期に大ヒットとなった歌ですね。


『 旅人よ』


 残念ながら、この後、国鉄はJRになって急行列車・夜行列車・周遊券を廃止します。
 そして、「DISCOVERJAPAN」のキャンペーンは無くなり、
 新幹線の宣伝ばかりになり、JR東海 X'masExpress みたいな宣伝ばかりになる。
 キスリング・カニ族の時代は終わりを告げるのです。





 この時代になると、鉄道は旅の道具と言うより、
 便利な交通機関という感じになって、哀愁が無くなってしました。


つづく。

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2021年02月18日

昔、急行八甲田があった頃、北海道は夢のようなところだった【5】

 鉄道マニアではないのですが、私の北海道旅行は、ほとんど鉄道旅行でした。鉄道好んだ理由は単純明快で、とにかく移動手段が格安であることと、鉄道旅行中に地元民を含めていろんな人に知り合えることです。

 これはヨーロッパ旅行でもそうで、東ヨーロッパでは大勢の人と知り合いになりました。逆に西ヨーロッパでは、プライバシーが完璧に守られていて、知り合いになる機会はありませんでした。

 けれど1989年頃の東ヨーロッパでは、人々は皆フレンドリーで、列車の中ですぐ仲良くなりました。仲良くなったと言っても言葉が通じるわけではありません。当時の彼らは英語は喋れませんし、私よりも下手くそな片言の英語で会話をしてこようとしてきましたので、こっちは彼らの言葉を片言でしゃべりました。

 そしてよくワインを差し出されました。昔は、ペットボトルがなかったですから、水を買うにもワインを買うにも重たい瓶で買うしかなくて、しかも水の方が高かった。なので列車の中ではみんなワインを飲んでいました。ワインを回し飲みしていた。牛乳もあることはあったんですが、東ヨーロッパの牛乳はみんな酸っぱかった。と言うか、どう考えてもヨーグルトだったと思う。絞りたての頃は牛乳だったのでしょうけれど、店頭に並ぶ頃にはヨーグルトになっていた。

 列車が駅に到着すると、いかにも怪しそうな民宿の親父が営業にやってきます。もちろん言葉は通じませんが、彼らは『地球の歩き方』と、千羽鶴の折り紙と、日本の五円玉を手に持って、『1泊5ドル』と書かれた怪しい日本語の紙を見せて、民宿に泊まらないかと言ってきます。怪しさ満載なんですが、騙されたつもりでついていくと、十階建てぐらいのマンションに連れて行かれて、ここが民宿だよと連れて行かれるわけですが、民宿なわけがなくて、空き部屋を旅人に貸して生計を立てている貧乏人のオヤジでした。





 話を戻します。今回は鉄道の話ではなく、外国の話でもなく、バイクの話です。北海道旅行しているうちに気がついたことは、バイクで旅行してる人たちがやたらと多いことです。そして彼らはどういうわけか全員が、
『セーフティードライブ北海道』
という旗を持っていました。
私が
「その旗は何?」
と尋ねると
「ホクレンで給油するともらえるんだよ」
と言ってました。

 そして、とある旅先でライダーさんと仲良くなり、一緒に登山して、そして別れることになった時に、駅の更衣室と言うか待合室で着替える時、そのライダーさんが、仮面ライダーに変身したことがありました。

「え?どういうこと?」

と当時の私は驚きましたが、昔の北海道では、ありがちな話で、コスプレしながら旅をする人たちがたくさんいたのです。2021年の話ではありません。1985年から1990年頃の話です。

 ちなみに私がユースホステルの経営を始めて間もない2006年頃、全国でアニメブームが起きていて、秋葉原では、ハルヒダンスが流行っていた。それをみて、「歴史は繰り返すんだな」と当時は思っていました。





 これを見たときに、1980年代から1990年代に蔓延したユースホステルの歌と踊りを思い出していました。そしてコスプレライダーのことも思い出していました。昔の北海道には、コスプレライダーが、わんさかいたのです。仮面ライダーなどは可愛いほうで、バットマンとか、キカイダーとか、ちびまる子ちゃんライダーとか、エプロンライダーとかいました。

 私が知っている限り一番有名なのが、忍者ライダーです。忍者ライダーというのは、忍者の姿をしたライダーのことで、背中に刀を差しています。そして忍者ライダーに挨拶すると背中の刀を抜いてくれるのです。

 ちなみに当時の北海道のライダー達は、ライダー同士が道路で出会うたびにお互いに手を振りあったりしました。それがだんだん過激になっていって、ライダー同士が出会うたびにスペシウム光線の格好してみたりして、年度によっては全てのライダーが、スペシウム光線で挨拶をすることがあったりしました。忍者ライダーは、スペシウム光線ではなくて、背中に背負った日本刀を抜いて挨拶をしたわけです。

 しかし、日本刀をかっこよく抜ける忍者ライダーでも、それを再びかっこよく背中に刺すことは不可能だったらしくて、日本刀を抜いて挨拶した忍者ライダーは、わざわざバイクを停車して刀に入れなおしたと言われてます。残念ながら、私はこの忍者ライダーに出会ったことはありませんが、水戸黄門ライダーだったら目撃しました。それは3台のバイクが走っていて、バイクのヘルメットにちょんまげのようなものが、くっついており、一人は水戸黄門様で羽織を着ていて、後の二人は助さん格さんのようでした。私が手を振って挨拶をすると、角さんらしきライダーが、黄門様の印籠を差し出していました。





 話は変わりますが、 この時代に知り合った女性の旅人の一人で、 自宅から北軽井沢のうちの宿ので、忍者の姿で泊まりに来たことがあります。 もうその人は、大きな子供さんもおられるので、 ここに写真をアップするのはやめておきますが、忍者のコスプレで軽井沢の駅前を降りて、 その姿で草軽交通バスに乗り、うちの宿まで歩いてきたわけですから、その心臓たるや大したものです。

 翌日は、その忍者の姿で草津温泉に行って、観光客や群馬の地元民に囲まれ、みんなから写真を撮り捲くられて、大人気だったらしく、意気揚々と宿まで帰ってきたんですが、次の日に軽井沢を見学したら、みんなから哀れな者を見る目つきで、スルーされて、針のムシロにいるようだったようで、落ち込んでいました。で、こんな雄叫びが・・・・

「軽井沢なんて嫌いだ! 群馬は大好き!」

 いやいや、そこは分かってたでしょう。
 予想しなかったのかい!

 ちなみに彼女の部屋に掃除に入ったら、布団を使った形跡がない。思わず私は
「屋根裏で寝たのか?」
と聞いたら
「どうしてわかった?」
と手裏剣を出してきました。 そんな彼女も、今ではお母さんになって社会的な地位を確立していますので、このネタはこれ以上は封印しておきます。 ただし、このブログのどこかに過去の写真と記事が残っているかもしれません。



つづく。

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2021年02月16日

昔、急行八甲田があった頃、北海道は夢のようなところだった【4】

 私が二十歳ぐらいの頃の話です。
 飲み会になると妙な踊りを踊る奴がいました。
 彼は、こんな歌を歌いながら踊っていました。

かっこいいやつが、かっこいいやつが、
汽車でやってきた。
止める女を振り切って、
縋る女を振り切って・・・。


 飲み会になると、こんな変な歌を歌い踊り出すのです。彼からユースホステルとか、北海道とか、利尻島とかの単語を聞いたような気がするんですが、そもそもそんなものに興味がなかったので、そういう話は全く覚えていません。ただ、歌と踊りだけは非常に印象に残っていたので今でも覚えています。何しろ飲み会があるたびに変な歌と変な踊りを見せられるので、忘れろと言われても忘れることができるわけがない。



(復活された『かっこいいやつが』)


 そして仕事を始めて何年か経った後に、とある居酒屋で飲んでいると奥の座敷からどこかで聞いたことのあるような歌と踊りが聞こえてきました。あの歌です。

かっこいいやつが、かっこいいやつが、
船でやってきた。
止める女を振り切って、
縋る女を振り切って・・・。


 思わず私は、見ず知らずの団体に「その歌はどういう歌なの?」と聞いてしまいました。
 するとその団体は、それには答えず、
「お兄さんも一緒に踊りましょうよ」
と見ず知らずの私を輪の中に入れて呆然とする私を尻目に踊りだしたのです。

かっこいいやつが、かっこいいやつが、
飛行機でやってきた。
止める女を振り切って、
縋る女を振り切って・・・。


 気がついたら一緒に酒を飲んでいて東京池袋の街中で一緒に踊っていました。彼らは最後まで正体を明かすことをせずに、いつのまにか消えてしまっていました。それはともかくこの事件から歌と踊りを覚えてしまった私は、飲み会の席で無理やり宴会芸を披露をさせられそうになると、この歌と踊りで乗り切るようになりました。というのも、この歌で踊ると妙に盛り上がるからです。そして数年後、とある会社の飲み会で、この歌と踊りで押しつけられた宴会芸で踊っていると、見ず知らずの人間が乱入してきて一緒に歌って踊り始めました。

 この時初めて、北海道の利尻島にある鴛泊ユースホステルと言う宿の歌と踊りであることが判明し、長年の謎が解明され、北海道に行ってみようという気になったわけです。で、ユースホステルの会員になって北海道に向かったのですが、利尻島鴛泊ユースホステルという宿はもうなくなっていました。

 なくなっていましたが、それに代わって、隣の礼文島に桃岩ユースホステルと言う宿ができて、ギンギンギラギラ夕日が落ちる・・・という歌と踊りが有名になっていました。そのユースホステルは今でもあるんですが、北海道で一番どんちゃん騒ぎの激しいところとして有名です。私も目にして驚いたものですが、事情を知っているユースホステルのヘビーユーザーによれば、桃岩ユースなどは、鴛泊ユースホステルのパワーに比べたら、まだまだ恥を捨てきれてない坊やみたいなものだと言ってましたから、全盛期の鴛泊ユースホステルの破天荒ぶりがどんなものだったのか想像もできません。



(桃岩ユースホステルの踊り)


 1970年代から1990年にかけてのユースホステルでは、このような狂った歌と踊りが蔓延していました。摩周湖ユースホステルでは、『カブトムシ踊り』や『クワガタ踊り』と言う踊りを踊っていましたし、今は無き斜里ユースホステルでは、『円盤音頭』という踊りを踊りまくっていました。現在でも存在する積丹ユースホステルでは、北島三郎の『函館の女』を歌いながら踊っていました。

 実はこれらの踊りに、当時の学校の教員たちが一枚加わっていました。その昔、北海道は斜里町に存在したユースホステルで、三十周記念の行事があり、宿のスタッフ達が屋根に上って、例のごとく円盤音頭と言う踊りを踊ったわけですが、その時にその宿に泊まっていた高校生達が凍り付いていた。私は不思議に思って
「どうしたの?」
聞いてみたら、彼女たちは驚いた顔でこう答えました。
「この踊り、私たちの学校で体育でやっているんです」
「えええええええええ?」

 こういう話は、この一回限りではなくて、何度も何度も各地のユースホステルで、高校生から聞かされました。当時は高校生・中学生の一人旅が、ユースホステルにゴロゴロいた時代でした。携帯料金が無かった時代だったので、親も旅行代金を出せたと思うし、そもそも宿泊費が安かった。ユースホステルを使う限り、べらぼうに安かった。安い宿だと1990年でも二食付1400円くらいで泊まれた。高いなと思っても3000円くらいだった。

 話を戻します。ユースホステルでの歌と踊りのことです。これらの踊りに驚いたのは高校生だけでは無く、なりたての教師も驚いていました。私が「どうしたの?」と聞いてみたら、東京都の教員研修所で摩周湖ユースのカブトムシ踊りとか、クワガタ踊りとか、山梨県清里ユースホステルのゴキブリ踊りとか、レナウン娘とかを教員研修の場で教わったというのです。

 一体どういうことなんだろう?と当時は不思議に思っていたんですが、自分がユースホステルを経営して、その歴史を調べてみたら、ユースホステルの創設に各都道府県の教育委員会がかなり関わっていたことを知ってなるほどなと思った次第です。

 これは群馬県のユースホステル協会でも同じで、最初は県の教育委員会が音頭を取って設立しています。当時は、GHQ(占領軍)の民生局(ice)の影響が残っていて、それらの影響とユースホステルの創設に密接な関係があったのです。

 占領軍は、旧日本軍の強さを、封建主義的な教育制度にあると思い込んでいましたから、封建主義的な思想を消滅させるために、盛んにレクリエーションを普及させました。特にGHQ(占領軍)が力を入れたのがスクエアダンスです。スクエアダンスというのは、フォークダンスの御先祖様みたいなものですが、そういうレクリエーションを普及させて日本人を骨抜きにしようとした。ところが日本人は、これを過激に進化させていき、GHQ(占領軍)の意図とは真逆に、ユースホステル業界では超絶運動部系・体育会系に進化させていくのですが、それについては最後に述べます。

 とにかくGHQ(占領軍)によって、数々のレクリエーション団体が生まれ、日本レクリエーション協会ができ、その配下に社交ダンス協会とか、スクエアダンス協会とか、ハイキング協会とか、様々な協会が設立されたわけですが、群馬県も例外で無く、各種のレクリエーション団体が戦後に雨後の竹の子のように乱立し、群馬県リクレーション協会に加盟していきました。もちろん群馬県ユースホステル協会も例外ではありません。


 ちなみに群馬県のリクリエーション協会とユースホステル協会は、嬬恋村と縁のある団体です。今はもう無くなってしまいましたが、嬬恋村のバラギ湖に県立バラギキャンプ場というものがありましたが、このキャンプ場を作ったのが、群馬県ユースホステル協会のバックに存在していた、群馬県観光公社の河野さんです。群馬県ユースホステル協会を立ち上げた河野さんです。


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 今はもう存在してない群馬県観光公社は、GHQ(占領軍)が使っていた館林のゴルフ場を活用することによって大収益をあげ、バブル崩壊までは儲かって儲かって仕方がないくらいに急成長した群馬県の公社です。なので税務署が何度も査察に入っています。この群馬県観光公社が、収益を上げた資金で群馬県各地に、キャンプ場などの教育施設を大量に作っていました。

 その一つがバラギ湖にあった県立バラギキャンプ場です。
 昭和四十一年に作られました。

 完成したその年には、群馬県のスポーツ少年団が、650人も集めてイベントを開いています。このキャンプ場を作ったのは長年にわたり群馬県ユース協会のトップで活躍し続けた河野さんです。そして、バラギキャンプ場の歌『みどりの牧野』を製作してレコードにして販売し、フォークダンスの振り付けまでして、それを全国に宣伝しています。いわば嬬恋村の恩人でもあります。


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 ただ、残念なことに、私が嬬恋村でユースホステルを開業して間もない頃に、バラギキャンプ場が閉鎖されることになりました。その時に、私は群馬県ユースホステル協会の理事会で河野さんの前で他の理事さん(デパート経営者で、社交ダンス協会の理事)から
「嬬恋村は何をやってるんだ」
と責められたことを思い出します。

 その場には、群馬県リクリエーション協会の副会長でもあった飯塚ツヤ子さんがいましたが、この飯塚さんこそは、レコード化されたバラギキャンプ場の歌『みどりの牧野』のフォークダンスの振り付けを担当した人です。彼女は、『みどりの牧野』のレコード化された昭和四十二年当時、群馬県体育課で活躍されていた方でした。

 また『みどりの牧野』の作詞は、群馬県青少年室の小林富夫さん。作曲は、群馬県社会教育課の北爪幸作さんで、三人とも群馬県ユースホステル協会の理事として活躍された方で、私が嬬恋村の代表として叱責されていた時に、同じ理事として名前を連ねて会議に参加されていた方です。

 雑談が長くなりましたが、要するにユースホステル協会の創設には多くの県の教育機関が関わっていたし、群馬県も例外でなかったということが言いたかったわけです。もしバラギ高原の近くに、ユースホステル活動に熱心なマネージャーがいたとしたら、『みどりの牧野』でお客さんに『みどりの牧野』のダンスを踊らせて全国で有名になっていたはずです。北海道の桃岩ユースホステルのギンギンギラギラにも対抗できるほどの踊りになったと思いますし、利尻島の鴛泊ユースホステルの『かっこいいやつが』の踊りのように、知る人ぞ知る踊りになった可能性もないとも言えません。残念ながら、嬬恋村にはそういうユースホステルが存在していなかったということです。


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 話は変わりますが、私が北海道に行く時に、絶対に宿泊するつもりがなかったのが、鴛泊ユースホステルのようなどんちゃん騒ぎ系のユースホステルでした。怖いもの見たさで遠くから眺めようとは思っていましたが、泊まりたいとは思いませんでした。泊まるなら静かなところがいいと思っていました。ですから、たくさんのユースホステルに宿泊しているくせに、北海道で一番どんちゃん騒ぎをする宿として知られている桃岩ユースホステルには未だに泊まったことがありません。

 それはともかくとして、北海道に旅しようと思い、生まれて初めて急行八甲田に乗って北海道にやってきた時に、とにかく静かなユースホステルに泊まろうと思って、いろいろ情報を集めて静かな宿を中心に泊まれるように旅の計画を立てたわけですが、そんな計画は無意味だったようで、襟裳岬ユースホステルに泊まったさいに、とんでもないどんちゃん騒ぎに遭遇してしまいます。

 驚いたのはそこのマネージャーが女性だったことです。女性マネージャーが先頭切ってどんちゃん騒ぎを始め盆踊り状態。気がついたら私もどんちゃん騒ぎの中に入って踊っていました。どんな騒ぎにも巻き込まれないようにしようとしても無駄。
『みさきめぐり』
『リンダ、リンダ』
『ちびまる子ちゃん』
と踊りまくって、せっかくのお風呂上がりだというのに、みんな汗まみれになって、汗で雫がしたたり落ち、床がズブ濡れになりかねないほどに危険な状態になり、下着を替えなければ寝られないような状態になってしまっていました。誰かが
「入浴が無駄になったな」
「高校時代の部活動でもこんなに運動しなかったぞ」
と言い出すしまつ。GHQ(占領軍)も、一生懸命に普及させようとした、お上品なスクエアダンスのようなチャラチャラしたものが日本に普及せずに、こんな状態。つまり武骨な応援団のノリになってしまっているとは夢にも思ってなかったでしょう。





「森進一がレコード大賞を取った襟裳岬と言う歌があったけれど、あの歌に『襟裳の春は何もない・・・』というのは嘘だな」
「襟裳岬は、毎日が運動会だもんな!」
と、皆で文句を言い合ってました。あれも良い思い出です。


つづく。



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2021年02月15日

昔、急行八甲田があった頃、北海道は夢のようなところだった【3】

 今は何でもネットで予約できますが、昔は電話でないと宿泊所(ユースホステル)に予約できませんでした。もっと大昔になると往復はがきで予約しました。電話料金が異常に高かったからです。今でこそ全国どこに電話をかけてもたいした値段ではありませんが、1970年代に北海道に電話をかけたら、宿泊費代ぐらいの値段がとんでいきました。なのでどうしても予約したい場合は往復はがきを利用したわけですが、その往復はがきが面倒くさい人は、北海道に到着してから電話予約しました。

 ただし例外もあります。信じられないことですが、昔は宿泊費を浮かすために駅舎(駅の待合室)に寝る人たちが大勢いました。駅の方も鷹揚な感じで、駅の待合室で一晩明かす人たちを黙認していましたし、駅によってはトレインと言う五百円で泊まれる古い列車の車両を置いてあるところもありました。これを昭和時代には駅寝と言っていました。平成時代に入るとステーションビバーク(STB)と洒落た感じの横文字を使っていましたが、現代ではそういう駅舎はありません。時間になると大抵のところは閉鎖されてしまいます。





 その他にキャンパーという人たちもいて、キャンプ道具を背負って旅する人たちもいました。彼らはいろんなところにテントを張ってそこで生活していました。マイナス20度ぐらいになる真冬の旭川や美瑛でテントを張る猛者も少なからずいました。彼らはあまり移動しません。キャンプ場でもない美瑛にある神社なんかにテントを張って怒られないのかなーと質問したこともあるんですが、逆に北海道民から差し入れが入ってくると言っていました。そんなバカなと思った私も仲間に入ってテント生活をしたことがあるんですが、確かに地元民から差し入れが届いたりします。

 どうしてだろうと不思議に思いつつ、差し入れしてくれる人に疑問をぶつけたんですが、その人も元々キャンパーだったそうです。キャンプ生活をしながら冬景色を撮影しているうちに、農家の人たちから声がかかって、近くの農場でアルバイトしているうちに、そこの農家に婿に入ったと言う。そういう人たちは、その人以外にも多かったようで、ふらりとやって来るキャンパーたちは、人手不足で困っている農家の人たちの貴重な戦力だったようです。そういう人たちが今では外国人にとってかわってしまった。

 そうそう、外国人労働者で思い出したのか、沖縄の石垣島や西表島の話です。1980年代後半に、これらの八重山諸島で仕事をしたり旅行をしたりしていたんですが、これらの島々でもキャンパーたちが地元の労働に大いに貢献していました。キャンプ場でキャンプをしていると、夜になると「人買い」という求人募集の人たちがやってきて、日給一万円ぐらいで労働者を募集します。その労働は非常に厳しいものだったんですが、日給一万円の魅力には勝てず、キャンパーたちは次々と労働に応じていました。1980年代当時のを日給一万円は、かなりの高給です。





 労働場所は製糖工場であったりサトウキビ刈りであったりするんですが、一万円ももらえばキャンパーたちは一週間以上暮らしていけるので、大喜びで働きに行きました。私も働いたことがあるんですが、珍しいこともあって非常に面白かった記憶があります。そして、案の定と言うか、やっぱりと言うか、
「お前は働きもんだなあ」
と言われてしまい
「家に住み込み、一か月ぐらい働かないか」
と熱心に口説かれました。もちろん断りましたが、飯でも食って行けと言われて、ごちそう責めにあい、酒を次々と注がれて気が付いたら朝になっていて、もう一日働くことになってしまったいしました。その次もごちそう責めにあって、また一日働くことになり、その次の日も御馳走責めにあいそうになったんですが、さすがにこのままではやばいと思って辞退したのは良い思い出です。当時は、そのようにズルズルと言って、その家の娘の婿となって農家を継ぐ人たちが多かったようです。

 そんな見ず知らずの流れ者を婿さんにしていいのかと聞いたこともあるんですが、そもそも石垣島の住民の大半が流れ者の開拓者だったそうで、そういうものに対してのアレルギーはないと言っていました。石垣島や西表島は先祖代々沖縄に住んでる人が多いのかなという漠然としたイメージを持っていたんですが、そういう人はむしろ珍しくて、ほとんどが大阪あたりからの開拓民だそうです。どうりで沖縄なのに関西弁が話されていると思いました。

 面白かったことは、当時の島の人たちは、キャンパーたちはみんな働き者だと思っていたことです。私から見たらどう見ても働き者には見えなかったんですが、南国の島の基準でいうと働き者であるらしい。時間が止まった世界に生きているキャンパーたちが働き者に見えるということは、南国はもっと時間が止まっていたということになります。

 そういえば、キャンパーたちを雇う前は、八重山諸島に大量の台湾人が出稼ぎに来ていたそうですが、1980年当時でさえ、すでに台湾人はお金持ちになっていて出稼ぎに来る人はいなかったそうです。台湾人は、かなり昔から裕福だった。

 他にも面白い話があります。八重山諸島のキャンプ場に郵便物が届いたことです。石垣島◆◆キャンプ場・熊さんというはがきを書いて送っても郵便局の人がキャンプ場まで届けてくれた。こんなことは今では考えられないかもしれません。

 ちなみに、この「熊さん」というのはキャンパーネームのことで本名ではありません。本名でなくてもキャンプ場に郵便局は届いたというのはすごいことですが、それ以前にそのキャンプ場は、キャンプ場とは名ばかりの管理者も誰もいないいわゆる、単なる砂浜ですので、そういうところに郵便物が届いたことが昭和時代の凄いところです。ちなみに、そのキャンプ場にキャンプしてる人たちは決して定住してるわけではなくて、冬場だけ存在していて春になると本州を北上して北海道を目指します。そして夏は北海道で農家とか漁師のところで働く人たちでした。

 話が大きく逸れました。
 北海道の話でした。

 昔は長期北海道する人たちの大半はユースホステルなどの安い宿泊施設を使っていましたが、男性に限って言えば、テントで旅をしたり、駅寝で旅をしたり、寝台列車で宿泊しながら旅をしたりで、旅行費用を節約していました。それができたのは北海道だけで、北海道民は、そういう貧乏旅行をする人たちを生温かい目で見ていて何かしらサポートしていました。今では考えられない話ですが、そういうことが実際にあったのです。

 どうしてそういうことが可能だったかと言うと、北海道の歴史に関係あります。昭和三十年代に北海道には季節労働者が大量にいたらしい。彼らのことを北海道では芋掘りさんと言っていて、二・三週間おきに地域を転々とした人たちが少なからずいたらしいのです。

 別に芋ばっかり掘っていたわけではなくて、いろんな農場で転々と働いて季節移動した人たちがいて、そういう文化がしっかり根付いていたらしい。もちろんそういう人たちの子供たちも大量にいて、二・三週間ぐらいで転校して行く子供たちが大量に存在したらしく学校では、そういう子供たちのサポートも行っていたらしい。

 こう書くと彼らのことを底辺労働者のように現代人は思うかもしれませんが、そうでもなかったらしくて、そういう季節労働者は、衣食住を保障されて、かなりの高給をもらっていたらしく、来年も来てもらうために酒をじゃんじゃんふるまわれ、子供には絵本やお菓子を買い与えたと言われています。

 これは芋掘りさんを実際に雇っていた農家さんから聞いた話で、その人は子供の頃に、お菓子や絵本を買ってもらえる芋掘りさんの子供たちを羨ましがっていたらしい。ついでに言うと、私はその農家さんにヒッチハイクで拾われて、ご馳走責めにあって、気がついたら一週間ぐらい農家の手伝いをしていた口です。

 まあそんなことはどうでもいいとして、本題に戻します。駅で寝たり、夜行列車で寝たり、テントを張って寝たりしているうちに、さすがに体が汚れてきます。そろそろ体を綺麗にしなければいけないなと思っら、ユースホステルに予約を入れて宿泊しました。

 昔の北海道(特に道東)にはコインランドリーというものがありませんでしたので、洗濯をしようと思ったらユースホステルに泊まるしかなかった。インターネットがなかった昔は、コインランドリーを探す場合はタウンページしかなくて、道東のタウンページを開いてみても、コインランドリーがない。信じられないことですが、あの広大な関東平野にも匹敵する面積をもつ道東にコインランドリーが数えるほどしか無かった。だから洗濯しようと思った旅人はユースホステルに泊まるしかなかった。

 当時ユースホステルには必ずコインランドリーがありましたので、早めにチェックインをして衣類をどんどん洗濯しました。そのうちお客さんが次々とチェックインしてくるんですが、みんな女の子たちでした。男は駅で寝たりテントを張ったりできても女性には敷居が高かったのか、ユースホステルに泊まると女性ばっかりでした・今と違って昔のユースホステルは、女性が多くて、その女性たちの存在が眩しかった。





 私は久々に見る十代の女性の姿に目がクラクラし、何かいい匂いがしたなとか、目がまぶしすぎると顔を背けたことを思い出します。そして
「やっぱりユースホステルは私がくるべきところではないな」
と再認識して食堂のすみで気配を消していたわけですが、何日も山の中なんかに潜んでいてヒグマと絶叫を聞いて生きてきた人間が、都会から来たばかりの若い女性たちには、よほど目立っていたのか、どんなに気配を消しても彼女たちは近寄ってきます。そして
「どこから来たんですか」
と言われるので面倒くさそうに
「山の中」
などと答えると、彼女たちの好奇心に火をつけるらしくて次々と質問をしてきます。面倒くさいのと、姿が眩しいのと、女性独特な匂いが熊・鹿たちの匂いとあまりにも違いすぎるので、ぶっきらぼうに適当に答えているうちに、どんどん女性が寄ってくる。で、ますます嫌気がさして、石垣のキャンプ場に出す絵はがきを書いて無視したりするんですが、彼女たちは『石垣島』という文字を見逃さない。そのうちに沖縄諸島のキャンプ場の話や製糖工場の話なんかを話す羽目になって、気がついたら消灯時間になっているということがよくありました。
「明日も聞かせてください」
と言われるのですが、私は朝四時ぐらいに出発することが多かったので、
「それは無理だ」
と答えることが毎回のパターンで住所交換もせずに消えて行くことが多かったんですが、唯一朝四時に起きてきた十九歳の女の子がいました。それが今のうちの嫁さんです。


つづく。

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posted by マネージャー at 08:40| Comment(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月12日

昔、急行八甲田があった頃、北海道は夢のようなところだった【2】

 今は無き周遊券という切符を使って北海道一周旅行をした時の事です。周遊券というのは、三万円から四万円ぐらいで、二十日間にわたって北海道中の鉄道に乗り放題と言う恐ろしく安いチケットのことです。二十代の頃に、このチケットを使って東京から北海道旅行に行ったんですが、そのためには、一日一本しかなかった急行八甲田に乗ることになります。それは、夜の八時に上野駅を出発する一本だけです。昔津軽海峡冬景色という演歌がありましたが、その歌詞に
「上野発の夜行列車乗った時から」
というくだりがありますが、それです。その上野発の夜行列車が急行八甲田です。一日に一本しか存在しない急行八甲田。

 ということは、周遊券を使って旅する人達は、ほぼ全員がその列車に乗るわけですから、ずっと同じ時刻の中に入るということになります。どういうことかと言うと、北海道に上陸してから最初の宿泊先が同じになる可能性が高い。

 二十日もかけて北海道一周するとなると、そんなに高い宿には泊まれません。値段が安いユースホステルに泊まるしかないわけです。男性ならば、駅寝という手段をとって一泊の宿泊費を抑えることもできます。ただし駅でなんか屁でもないわと思っている猛者であっても、初日だけはユースホステルに泊まります。夜行列車である急行八甲田で体力を使い切っているからです。そうなると、北海道南部のユースホステルが宿泊の選択肢になるわけですが、函館に泊まるか、大沼に泊まるか、登別に泊まるか、頑張って札幌まで行って札幌で泊まるかという選択肢になります。

 そんなことを全く知らなかった私は、札幌に向かう特急列車の中で、ホステリングガイドを開いて「どの宿に泊まろうか?」と思案していると、大きなザックを背負った女の子がやってきて「会員ですか?」と聞いてきました。生まれて初めての逆ナンパに出会った私はしどろもどろになりますが、この「会員ですか?」という言葉は、「ユースホステルの会員ですよね?」という意味で、「YES」と答えると、十年ぶりに出会った親友のようにすぐに仲良くになってしまいます。そして「今日はどこに泊まるんですか?」と聞いてきます。

「今それを考えているところなんです。何しろ北海道は初めてなんで・・・」

と私が答えると、その女性は笑って、

「それなら登別のあかしや荘がいいです。私はそこの常連なんです。絶対に面白い宿ですから一緒に行きましょう」

とずるずると引っ張られて結局、一緒に泊まりに行くことになりました。当時はこういう特定のユースホステルを贔屓にしていて、そのユースホステルのために営業活動している人がたくさんいて、北海道の初心者である私はそれに引っかかったというわけです。





 こうして私は登別のあかしや荘というユースホステルに泊まりました。そのユースホステルには、どういうわけか温泉があって、長旅の疲れを癒すことができて感動しました。料理も北海道名物ジンギスカンが美味しかった。それよりも驚いたことは、ヘルパーと言う二十五歳ぐらいのボランティアの女の子がいて、見知らぬ人同士を顔見しにするように、色々気遣いをしてくれたことです。

 新型コロナが発生してからは考えられないことですが、当時のユースホステルでは、宿泊する人たちは全員が一人旅で、知らない人同士が同じテーブルで一緒にジンギスカン鍋をつついていました。最初はみんなもじもじしていたんですが、みんな一緒に鍋をつついているうちに、少しずつ打ち解けてきて、楽しい旅の話題で盛り上がります。つい数分前までは、見ず知らずの他人だったにも関わらず、十年来の親友のように楽しい旅の話題で盛り上がるのです。

「ユースホステルって何て素晴らしいとこなんだろう」

と思ったものです。そういう私は、その二十年後に北軽井沢でユースホステルを経営するわけですが、当時はそんなことになるとは夢にも思っていません。とにかく何もかもが新鮮で驚いてばかりです。知らない人間と一緒にジンギスカン鍋を食べるということ自体がびっくりですし、食べた後に一緒に食器を洗うというのも楽しかった。そして、その後にお茶会が開かれ、皆で夜のナイトハイクに出かけ、星空をみんなで眺めました。楽しかった。なので、うちの宿でも星空観察会だけは行っています。

 ちなみに今でこそ、食器をお客さんに洗わせるという行為は保健所の指導でNGになっていますが、当時のユースホステルでは普通に行われていました。その代わり安く泊まれたわけですが、この食器洗いによって、ますます他人と仲良くなれるシステムでした。ユースホステルによっては、お客さんに館内の掃除をさせるところもありましたが、これも嫌ではなかったです。それによって宿泊者同士の連帯感が生まれたからです。逆に言うと、そういう作業を嫌がる人たちはユースホステルに二度と泊まりませんでした。それによって、人間が選別されて言ったことは確かです。

 見知らぬ他人と仲良くなりたい人達はユースホステルに泊まり、プライベートが欲しい人達は多少高くてもペンションに宿泊しました。こういう選別の結果、ユースホステルには、妙に人懐っこい人たちが集まるようになり、電車の中でホステリングガイドをチラチラさせるだけで
「あの人は、ユースホステルの会員だな。じゃあ話しかけてやろう」
ということになってしまうわけです。

 その結果ユースホステルには、ますます人懐っこい人達が集まって、みんなどんどん社交的になっていって、旅先の一期一会の出会いに魂を燃やし、瞬間に一瞬にして大親友のようになり、翌日には何事もなく赤の他人としてバラバラに去っていく。それを体験した私は

「昨日一晩であんなに盛り上がって、あんなに仲良くになったのにも、もう他人になってしまうのか。本当に一期一会だな」

と思ったのですが、一期一会だからいいのかもしれないと思いました。もう出会うことがないからこそ、思いっきり楽しめるんだろうと思いました。しかしその考えは大きな間違いでした。確かに一期一会なんですが、またすぐどこかで再開するとは夢にも思っていませんでしたから。

 どういうことかと言うと、この後みんなとりあえず札幌まで行きます。札幌で泊まる人もいれば、札幌から時計回りに北海道一周する人もいれば、反時計回りで北海道一周する人もいます。ここで別れ別れになるわけですが、北海道一周する人たちにしてみたら、ある程度パターンが決められているのです。

 大抵の人たちは、反時計回りに北海道を一周します。つまり札幌から襟裳岬の方に向かって、それから帯広・釧路根室に向かって知床半島に行きます。その後に網走や旭川に行って、そして宗谷岬に行き利尻島礼文島にわたって、その後に南下して、札幌を経由して小樽に向かい、積丹半島を見学した後に、奥尻島あたりにわたって、最後に函館を経由して帰るというパターンが一般的です。つまり登別で別れたとしても、そのパターンに従って鉄道旅行をしている限り、いつかどこかのユースホステルで再会する可能性が高いのです。

 また、旅先で知り合った人が増えるにつれて、その人の友人関係が、私の知ってる友人関係と重なっていることに気づき、知らず知らずのうちに巨大ギルドの所属しているような感じになり、そのうちに初対面の人から
「あなたが佐藤さんですね、噂は聞いてました」
と言われるようになります。私の知らないところで私の噂が流れている。そのうちに私の偽物が出現したりする。私そっくりな人間が私を語っていたりする。こうなると訳が分からない。ひょっとして巨大な陰謀に巻き込まれているのか?と錯覚したくなりますが、そんなわけはなく、インターネットが無かった当時のユースホステルにおける口コミ力が凄かったということになります。

 要するに1970年代から1992年頃までは、ユースホステル業界そのものが、疑似インターネットであったわけで、逆に言うと、本物のインターネットが出現するとともに、インターネット的であったユースホステル業界が、徐々に廃れていったとも言えます。





 話をもどします。北海道で鉄道旅行をしていると、地元民から色々と話しかけられて、色々なハプニングに出会います。地元民どころかJRの車掌さんにも話しかけられ、鉄道マニアか何かと勘違いされたのか、昔の切符をいらないかと話しかけられます。別に欲しいわけではなかったですけれど、せっかくだから記念に一枚買ってみると、車掌さんと仲良くなって談笑していると、それまで赤の他人だった鉄道マニアの人たちが私のところによってきて、色々話しかけてきたりもします。当時は彼らのことを「鉄ちゃん」と言ってました。その当時は、鉄道オタクという言葉がなくて、鉄道マニアを鉄ちゃんと言い、そうではないけれどJRを使って旅行する人たちのことを「JRらー(JRer)」と言ってました。

 このように北海道旅行者にはいろんな種類の旅人の人たちがいて「チャリダー」もいれば「サイクリスト」もいる。「徒歩だー」もいれば、「歩き」もいる。

 「チャリダー」は、あくまでも自転車を移動の手段として使って旅する人たちのことで、「サイクリスト」は自転車移動が目的そのものの人です。要するに「JRらー(JRer)」と「鉄ちゃん」の違いみたいなものです。だから「サイクリスト」に、うっかり「チャリダーですか?」と聞いたら彼らは激怒します。彼らは誇り高きサイクリストで、チャリダーなんかと一緒にされてはたまらないと思っていますが、そんな違いは、素人に分かるわけが無い。

 「徒歩だー(徒歩だer)」も「JRらー(JRer)」みたいなもので、疲れたら電車に乗りますが、「歩き」の人は歩き専門で歩いて日本一周する人たちです。「歩き」の人に「徒歩だーですか?」と言わないように気をつけていました。この「歩き」の人にも、色々な種類があって、下駄とか、唐傘とか、リアカーとか、自転車とか、千差万別でした。自転車というのは、あくまでも自転車を担いで歩いている人で、決して自転車に乗らない人です。こういうおもしろい人が当時はいて、自転車に乗らずに担いで歩くだけでも大変珍しいのに、その自転車を担いで北海道中の山を登山していたから驚きます。ちなみに担いでいる自転車にはゴムタイヤはついていません。その人が生きていれば、七十歳近いと思うんですが、若い頃の写真をSNSにアップしてないかと、調べてはみたんですが、未だに見つけていません。当時は、ギネスブックに載せるという発想も無くて、ただ好きでバカなことをやっていたので、今後もSNSにアップしないかもしれません。

 こういう馬鹿なことをしている人は、実は私の身近にもいて、余命十年と言われ、一週間に二回とか三回入院しなければ死んでしまうくせに、三百名山を登り切って上毛新聞にデカデカと報道され、群馬テレビで特集された人もいます。その人は、時々フルマラソンしていて国体選手並みの記録ももっていたりする。医者が聞いたら呆れ返るような人間が私の友人にいます。


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 その人は今、群馬県のとある高等学校で教師をしていますが、こういう人間を雇った学校も大したもんだと思いますが、ある意味先見の明があったかもしれません。というのも彼はその学校の陸上部の部員のトレーナーをしているわけですが、陸上部員のメンタル指導に大活躍すること間違いないと思いますから。そういう彼も、私が北海道で出会った一人で、一期一会の出会いのもとに一緒に摩周岳に登った仲です。もちろん再び再会することになるとは当時は夢にも思っていません。


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 ユースホステルで一期一会の出会いの瞬間に魂を燃やして翌日は赤の他人として去っていく。そしてもう二度と出会うことはないんだろうなあと思いつつ、次のユースホステルで新しい一期一会の出会いに魂を燃やす。そういう旅に私は感激しながら北海道旅行を続けるわけですが、結局のところ、一期一会ではなかったです。またすぐに再会して、 そしてなんだかんだと20年30年の友人付き合いになるから、これだからユースホステルの旅はやめられません。 結局私は、北軽井沢でユースホステルを経営する立場になるわけですが、残念ながら現在ではそういうことはありえません。 ユースホステルとペンションの違いは全くなくなりました。うちの宿もペンションと何ら変わりがありません。

 で、北軽井沢で営業してから何十年もペンション客を迎入れてるわけですが、ある日何気なく昔の写真を眺めていたら、どこかで見たことのある顔が大量にある。 昔の写真というのは、北海道のユースホステルの玄関前で 撮影した集合写真のことですが、当時二十代だった人たちの顔に見覚えがある。変だなあと思ってよくよく考えてみたら、北軽井沢ブルーベリーYGHに家族連れで泊まりに来るペンション客の常連さんでした。





 このことをご本人に話してみたら、向こうも驚いていました。確かに大昔に◇◇ユースホステルで集合写真の写真撮影をしたことがある。その時は赤の他人だったけれど、巡り巡って北軽井沢ブルーベリーYGHに泊まって家族連れでペンション客の常連さんになっていたわけですから、これこそ巡る因果の糸車です。 だからこそ 一期一会の出会いに魂を燃やすことは素晴らしいことであったと言えます。時代劇の三匹の侍のような出会いと別れが、八犬伝のような出会いと別れが昔のユースホステルにはあったわけです。



つづく。

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