今日は、息子が私の誕生日祝いをしてくれた。ネットで調べて一生懸命、べっこう飴を作っていたが、失敗したらしく、2キロ先のコンビニに行ってケーキを買いにいってきて、小さなロールケーキで祝ってくれました。
それにしても時間が流れるのが早いこと。
あっという間に1年たってしまった。
息子も中学1年生になっている。
それにしても、ついこの間 息子が中学校に入学したかと思ったら、もう夏休みである。全く時間が経つのは早いものだ。期末試験もあって、その結果表も見せて貰った。驚いたことに主要科目の成績は、学年3位だった。男子に限って言えば1位だった。つまり学年1位と2位は女子ということになる。
それはともかくとして、 息子の中学校生活を見ていて驚いたことがある。昔と全く違うのだ。まず 学生カバンというものがない。代わりに巨大なランドセルを背負っている。どうしてかと言うと 教科書が圧倒的に分厚いからである。 そうなのだ、昔に比べて今は圧倒的に難しくなっている。覚える量がめちゃくちゃ多い。だから教科書も分厚いし、副テキスト、学習のための資料も非常に分厚い。おまけに分厚い問題集 までついてきている。学生カバンに入りきらない量なのだ。
だから巨大なランドセルを背負って学校に登校している。というか、あれは ランドセルではなくてリュックサックだ。 登山でいう60 L ザックを背負って学校に通っている。もちろん重い。とてつもなく重い。だから 保健体育 や技術といった副教科にあたる教科書 なんかは学校の机に置きっぱなしになっている。これはどういうことかというと、それだけ覚える量が増えているということなのだ。
もう一つ言うと息子の通っている中学校には中間テストというものがなかった。期末テストしかないのだ。週休2日制になっているためなのか、それとも 覚える量が多いためなのか、中間テストを廃止して代わりに通常の授業を行っていた。おまけにテスト期間中もしっかり 6時間授業をやっていた。
恥ずかしながら私は、こういう状況 を直前まで分かっていなくて、のんきに構えていた。
「あーもう期末テストなのか大変なんだなあ」
と、他人事のように構えていた。
漢字の練習と英単語の暗記だけは毎日やらせていましたけれど、他のことは放置していました。それでいいと思っていた。小学校の頃は、授業を真面目に聞くだけで100点を取ってきたのだから、中学校も 似たようなもんだと勝手に思っていたのだが、これが大間違いであったことが後でわかることになる。
で、テスト直前に、テスト範囲と教科書の中身を読んで愕然としてしまった。
あーこれはまずいと。
絶対に赤点を取ってしまうと確信してしまった。
授業を 真面目に受けた程度では、絶対に100点は取れない内容だった。
例えば 理科。小学校時代の息子は 授業さえ 真面目に受けていれば100点を取れた。息子は幼稚園の頃からE テレやBS プライムの番組をよく見ていたので、基本的な科学知識を持っていたので ちょっと勉強すれば100点を取れた。ところが 中学校ではそうはいかない。顕微鏡の種類や操作の仕方や、顕微鏡の部品の名称を暗記しないと点が取れないようになっていた。 そういったものは E テレ番組や、NHKのBS プライムの番組で学習する機会はないから分かりようが無い。
こいつはまずいと思った私は、学校が使っていた問題集を3部ずつコピーして、間違えたところだけを何回かやらせて赤点を回避する作戦をとった。 この方法は、昭和時代の東大生といった天才たちがよく使っていた勉強方法で、最短時間で資格試験に合格する方法です。天才たちは最も薄いぺらい過去問を3回解くだけで資格試験に合格します。しかも2回目以降は間違えたところしかやりませんから、最短時間で勉強が終了します。
幸か不幸か、それらの学校が使っていた問題集は、すでに宿題でやっていたので、間違えたところが分かっている。つまり息子が覚えるべきところが事前に分かっていた。そのへん運がよかったというか、先生の指導がグッジョブで助かりました。もし学校側が問題集を用意して宿題させて無くて、単なる板書しかさせない受業だったら、息子の奴は確実に赤点をとっていた。覚えるべき量が莫大になっていて、どこから手を付けるべきか途方にくれていたからだ。
これは間違いない。自信をもっていえる。
そう考えると令和時代の学校教育はも非常に進化していると言える。昭和時代の天才たち(東大生たち)がやっていた学習方法が、学校で普通に採用されていたからだ。羨ましいかぎりである。
私が中学生の頃は、ひたすら板書させられるという非常に効率の悪い勉強をさせられていた。おまけに参考書なんか買ってきて、そこに赤線をひくといった非常に無駄な努力をしたものだった。今から考えたら非常頭の悪いことばかりして時間を無駄にしていた。信じがたいくらいに能率が悪い勉強を強制されていた。それからしたら息子たちの時代は、非常恵まれている。最短時間で学習成果が得られるよう工夫されているからだ。
つづく
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2025年07月28日
2025年03月27日
スポーツ教室について語ってみる その4 ワンデルン・シューレ( 移動教室)
映画「男はつらいよ」 のシリーズを見た人はいるだろうか? いわゆる 寅さん映画ですけれど、48 作もあります。このシリーズの最高傑作は 第2作目だと思っています。第2作目がシリーズ 最高傑作だと思っています。2作目のストーリーは簡単で、高校時代の恩師である坪内散歩先生の娘さんに惚れて最後に振られるという ワンパターンな物語展開 なんですが、 これが最高に面白い。
それはともかくも、 今回は私の職業を紹介したいと思います。 私は、ユースホステルという特殊な宿屋をやっています。ユースホステルというのは、 ドイツの小学校の教師が始めた運動で、教室から野外に出て勉強を教えることから始まっています。 これを ワンデルン・シューレ( 移動教室)と言うんですが、 その補助のために全国の小学校を格安の宿にして、子供たちを宿泊させるたのがユースホステルの始まりです。
もっと簡単に言うと、ハイキングしながら勉強しようという運動です。 リヒャルト シルマン先生は、教室で勉強するよりも ハイキングしながら勉強した方が子供たちの勉強がはかどることを発見しました。 これを ドイツの教師たちに訴えると、あっという間に 全国から賛同者が集まり、わずか数年でドイツ 全土にユースホステルが出来上がり、 そのネットワークが全世界に広がったわけです。
実はヨーロッパでは、ギリシャ時代からハイキングすると、学問がはかどることが分かっていました。 机と椅子に腰掛けて勉強するよりも、散歩しながら 学問をした方がはかどるということを彼らは ギリシャ時代から知っていたわけです。特にアリストテレスは、散歩することによって学問がはかどることを実感していて、彼らの授業は散歩とともにありました。 人々はそんな彼らを「 逍遥(散歩)学派」 と言ったぐらいです。
西洋演劇で有名な、坪内逍遥は、アリストテレスを元祖とする逍遥(散歩)学派から、名前を頂いています。
ここで思い出してほしいのが、映画「男はつらいよ」シリーズの最高傑作とも言える第2作「続・男はつらいよ」です。年から年中 散歩 ばかりしているくせに、おバカな寅さんが、 恩師のところに遊びに行くわけですが、その恩師の名前が「 坪内散歩先生」ですから、山田洋次監督も皮肉が効いています。

(寅さんと坪内散歩先生)
皆さんも試して欲しいんですけれど、散歩しながら勉強すると非常に具合がよい。クリエイターならなおさらです。想像力が倍増する。それに人間は1時間机に座っていることが辛いものですが、1時間の散歩は全く辛くない。だから散歩しながら考え事をすると何でもわいてくる。それを ドイツの小学校の先生であるシルマン先生は、体験的によくわかっていたので、 ユースホステル 運動を提唱したわけです。
しかも、それがたったの数年で、全ドイツに伝わって、全ての教師が賛同し、全国にユースホステルが誕生したわけですから、 当時の ドイツ人は、散歩の効用をそれぞれ実感していたわけです。でなければ あっという間に全ドイツに何百軒もユースホステルが誕生するわけがない。全ヨーロッパに広がるわけがない。イギリスでも、フランスでも、先進諸国ならどの国でも、短期間に広がっていった。唯一の例外は日本だけです。日本では、なかなか広がらなかった。なので、ワンデルン・シューレ( 移動教室)も最後まで日本には定着しなかった。
ワンデルン・シューレ( 移動教室)とは、なにかというと映画「サウンドオブミュージック」を イメージしてもらえば良いかもしれません。 あのイメージを日本に定着させようとして、私はユースホステル運動に身を捧げてきました。なので25年前に 北軽井沢にユースホステルをオープンしてから、15年間、毎日のようにネイチャー体験ツアーをやっていました。参加費は保険と実費のみなので、かなり格安だったと思います。
これをやめたのは息子が生まれてからです。
子育てで、それどころではなくなった。息子のために、毎日のように浅間牧場あたりに出かけて、ワンデルン・シューレ( 移動教室)を実行してきました。道中に看板があると、その文字を 2歳か3歳の息子に教えました。だから息子は3歳くらいから、看板にある、ひらがなと漢字が読めるようにはなっていた。なので幼稚園に入れる 気など全くなかった。で、保育園に入れてみたら、そこは「こども園」という名前の幼稚園だった。
なんだか 詐欺にあったような気分でしたが、ガンガン休ませて、今まで通りワンデルン・シューレ( 移動教室)を行うと思ったらそうはいかなかった。幼稚園の先生に休みすぎていると怒られてしまったからです。仕方がないので午前中だけ幼稚園に行かせて、 給食が終わった頃に迎えに行って、午後からハイキングに出かけるという スタイルを取っていたのですが、 それも先生にはご不満だったようで、
「 成長が遅れているので 発達心理学の先生に見てもらいなさい」
と言われてしまう。
確かに息子の成長は遅れていた。でも、それは個性の一部だと思って放置していたのですが、 担任の先生にしてみたら 心配の種だった。で、専門の先生に見てもらうわけですが、専門家は問題ないという。しかし幼稚園の先生は納得してない。毎年、しつこく「成長が遅れているので休まないで」と言われた上に、怪我をしたり、 たんこぶをつくって帰ったり、かまれたあとがあったりして、いじめられているらしいこともわかってきた。おまけに運動能力も低くて、 みんなとかけっこをしたがらない。
こうなると さすがの私も考えざるを得なくなった。
それまでの私は、勉強ができなくても良い。
運動ができなくても良い。
のびのびと育って幸せな人生を 送ってほしい。
そう考えていたのですが、のびのびと育って幸せな人生を送るためには、運動も勉強も多少はできなければ、だめなんですよね。でないといじめられてしまいます。最初は成長が遅れていても、個性 なんだからほっといてくれと思っていたんですけれど、そういうわけにはいかなかった。
仕方がないので、勉強と運動をさせることにしたのですけれど、 まず勉強の方は、 脳科学の先生が監修している「ポピー」を2部づつ買ってきて、あえて同じ問題を繰り返してやらせたわけですが、この繰り返しが効果をあげています。また脳科学者の「脳力道場」というアプリケーションソフトを毎日やらせました。このソフトは ワーキングメモリを増やすのに効果のあるソフトで、ワーキングメモリを増やすことによって、 あらゆる知能が発達することがわかっています。その結果、5歳のときに受けた知能検査(ウイスク)では、100から140の数値がでています。特に知的推理が140と最高レベルで高かった。次に高かったのが言語理解の120。逆に低かったのが処理速度で97。
で、いわゆるギフテット(天才)と言われましたが、これは信じてなかった。どうしてかと言うと、本物のギフテットを見たことがあるからです。甥がギフテットなのですが、本物はレベルが違っている。甥っ子は小学生のうちに高校レベルだった。 自由にプログラミングをくんで遊んでいたし、小学生のうちからメルカリを使って商売をしていたり、株を買っていたりした。こういうのが本物のギフテッドだと思う。
また、嫁さんの姪にも本物のギフテットがいた。中学校の百人一首の大会では、国語の先生数人を相手に戦って簡単になぎ倒したと聞いています。その子は塾もいかずに学校の授業だけで京都大学に現役で入って卒業している。こういうのが本物のギフテットです。
それからしてみたら、うちの息子はハリボテのようなもので、全く才能を感じない。むしろ遅れているように見える。ようするに息子の知能は、努力を重ねた結果の数値でしかない。逆に言うと知能指数というものは後天的な努力でなんとかなるということになる。ただしハリボテなので、努力をやめた途端に消えてしまう。バブルの泡のようなものなのだと思う。
実際うちの息子は、近所の子供たちと比較しても、会話能力が非常に劣って見えてるし、1歳年下の子供達と遊んでいても息子の方が弟分になっているくらいに、ぼーっとしている。だから 小学校に入ったら真っ先に「言葉の教室」にはいっていた。会話能力が低くて、幼いというかバカぽく見えていたと思う。
なので 小学校の3年生ぐらいまでは、知的推理よりも言語理解を中心に勉強させるようにしました。テストの点数などは無視した。授業の点数よりも、その先を目指して、教養番組や、E テレの高校生講座の中で面白そうなやつを選んで見せていた。夏休みの宿題に読書があると知って、1日5冊くらい読ませたし、読み聞かせもした。漫画も読ませました。歴史漫画・科学漫画・伝記漫画なんでも読ませた。
その結果 10歳の時に行った IQ テストでは、言語理解が140と上がって、大人と変わらないというお墨付きをもらいました。逆に知的推理が120に下がっていた。つまり後天的な努力によって言語理解の IQ が高くなっていたということになる。で、ワーキングメモリをアップさせる作業はやらせてなかったので知的推理が下がっていた。ようするに息子はギフテットではない。ないけれど努力でギフテット並みの知能を獲得できたことが、これで証明されてしまったわけです。そして、努力をやめると、 IQ が低下してしまうことも証明されてしまった。
と言うわけで、勉強の方は比較的簡単に解決がついたわけですが問題は運動の方です。こればかりは苦戦した。嬬恋村には、子供達が自由に運動ができる体育館というものはなかったし、スポーツ教室も無かった。インターネットで探しても出てこなかった。 仕方がないので軽井沢の風越公園に出かけて、お金を払って 総合体育館を利用し、サッカーや ドッジボールやバスケットボールをしました。短距離走もやった。
もちろん理論もやった。E テレの「体育ノ介」とか、「すイエんサー」とか、「奇跡のレッスン」なんかを片っ端から見せました。 これらの DVDソフトは、息子の妊娠がわかった時から、 NHK や E テレや 衛星放送されたものを片っ端から録画しておいたので、ネタが切れるということはありませんでした。
しかしなかなか 成果が出なかった。成果が出ないので小遣いをあげることにした。 縄跳び なら10回飛んだら100円。20回 飛んだら200円という感じです。これがいけなかった。
息子は 極度の悔しがりなんです。なにかに失敗してしまうと悔しくて泣いてしまう。上毛かるたでも、負けそうになると わんわん泣いてしまう。テストの点が悪くても泣いてしまう。 友達とゲームをやってても負けそうになると泣いてしまう。
ある時です。風越公園の総合体育館で縄跳びの練習をしていた時、何度も 縄跳びに失敗して、どうしても10回以上とぶことができなかった。 そして わんわん泣きながら縄跳びをしていたら、事情をしらないアメリカ人がやってきて「 児童虐待だ」と言ってきた。そして通報されてしまった。
通報されると何が起きるかというと、嬬恋村の福祉保健課の人が、学校に子供が通学してるかどうかを確認します。その上で事情収集に来ますが、その時は、村の福祉保健課がある体育館に私は息子と一緒に空手教室に出ていました。 村の福祉保健課のすぐそばで息子の運動をみていた。で事情聴取を受けて誤解が解けるわけですが、その時に、保健福祉課の理学療法士・ 作業療法士のかたに、縄跳びが飛べるように手伝ってもらうことになった。
で、1年ぐらい保健福祉課に通って、 縄跳びの練習をすることによって、どんどん上達していきました。で、思ったことは、プロの教え方は、さすがプロだなと。私が教えてもなかなか飛べなかった 縄跳びが、保健福祉課の理学療法士・ 作業療法士の人が教えると 劇的に上達していく。1年後には小学校の縄跳び大会で、学年で2番目に長く連続縄跳びができるようになってしまった。劇的変化もいいところです。
特徴的だったのは、教え方が定型通りでないことです。
相手に合わせて教え方が少しずつ変化していく。
最初に教えたことと、上手になってから教えることが全く違っている。
ある教え方が通用しないとわかると、別の教え方になる。
例えば、うまく飛べないとわかると縄を持たずにジャンプすることから始めたりする。その後に縄を手でぐるぐる回しながらジャンプ練習をしたりする。多少縄跳びができるようになると別の飛び方を教えたりする。相手をよく観察した上で、色々な手法を息子に提案している。
昭和時代なら何事も根性で頑張れというところなんだろうけれど、 令和時代のプロは、そういう指導はしない。もっと科学的な手法を取るし、何々をしろという強制がない。強制の代わりに提案をし、場合によっては選択肢を与える。「どっちがやりやすい?」と聞いてくる。人間を一つの型にはめない。正解をつくらない指導をしている。理学療法士・ 作業療法士だから、そのような指導法を行うのか? それとも今のスポーツ教室界隈は、全てこんな感じなのか?
とにかくプロの教え方というのは、素人の教え方とは全く違っている。なので本格的なスポーツ教室に息子を入れようと決心しました。プロの教え方なら私よりもうまいだろうし、スポーツ教室なら外国人に通報されることもないでしょうから。
つづく
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それはともかくも、 今回は私の職業を紹介したいと思います。 私は、ユースホステルという特殊な宿屋をやっています。ユースホステルというのは、 ドイツの小学校の教師が始めた運動で、教室から野外に出て勉強を教えることから始まっています。 これを ワンデルン・シューレ( 移動教室)と言うんですが、 その補助のために全国の小学校を格安の宿にして、子供たちを宿泊させるたのがユースホステルの始まりです。
もっと簡単に言うと、ハイキングしながら勉強しようという運動です。 リヒャルト シルマン先生は、教室で勉強するよりも ハイキングしながら勉強した方が子供たちの勉強がはかどることを発見しました。 これを ドイツの教師たちに訴えると、あっという間に 全国から賛同者が集まり、わずか数年でドイツ 全土にユースホステルが出来上がり、 そのネットワークが全世界に広がったわけです。
実はヨーロッパでは、ギリシャ時代からハイキングすると、学問がはかどることが分かっていました。 机と椅子に腰掛けて勉強するよりも、散歩しながら 学問をした方がはかどるということを彼らは ギリシャ時代から知っていたわけです。特にアリストテレスは、散歩することによって学問がはかどることを実感していて、彼らの授業は散歩とともにありました。 人々はそんな彼らを「 逍遥(散歩)学派」 と言ったぐらいです。
西洋演劇で有名な、坪内逍遥は、アリストテレスを元祖とする逍遥(散歩)学派から、名前を頂いています。
ここで思い出してほしいのが、映画「男はつらいよ」シリーズの最高傑作とも言える第2作「続・男はつらいよ」です。年から年中 散歩 ばかりしているくせに、おバカな寅さんが、 恩師のところに遊びに行くわけですが、その恩師の名前が「 坪内散歩先生」ですから、山田洋次監督も皮肉が効いています。
(寅さんと坪内散歩先生)
皆さんも試して欲しいんですけれど、散歩しながら勉強すると非常に具合がよい。クリエイターならなおさらです。想像力が倍増する。それに人間は1時間机に座っていることが辛いものですが、1時間の散歩は全く辛くない。だから散歩しながら考え事をすると何でもわいてくる。それを ドイツの小学校の先生であるシルマン先生は、体験的によくわかっていたので、 ユースホステル 運動を提唱したわけです。
しかも、それがたったの数年で、全ドイツに伝わって、全ての教師が賛同し、全国にユースホステルが誕生したわけですから、 当時の ドイツ人は、散歩の効用をそれぞれ実感していたわけです。でなければ あっという間に全ドイツに何百軒もユースホステルが誕生するわけがない。全ヨーロッパに広がるわけがない。イギリスでも、フランスでも、先進諸国ならどの国でも、短期間に広がっていった。唯一の例外は日本だけです。日本では、なかなか広がらなかった。なので、ワンデルン・シューレ( 移動教室)も最後まで日本には定着しなかった。
ワンデルン・シューレ( 移動教室)とは、なにかというと映画「サウンドオブミュージック」を イメージしてもらえば良いかもしれません。 あのイメージを日本に定着させようとして、私はユースホステル運動に身を捧げてきました。なので25年前に 北軽井沢にユースホステルをオープンしてから、15年間、毎日のようにネイチャー体験ツアーをやっていました。参加費は保険と実費のみなので、かなり格安だったと思います。
これをやめたのは息子が生まれてからです。
子育てで、それどころではなくなった。息子のために、毎日のように浅間牧場あたりに出かけて、ワンデルン・シューレ( 移動教室)を実行してきました。道中に看板があると、その文字を 2歳か3歳の息子に教えました。だから息子は3歳くらいから、看板にある、ひらがなと漢字が読めるようにはなっていた。なので幼稚園に入れる 気など全くなかった。で、保育園に入れてみたら、そこは「こども園」という名前の幼稚園だった。
なんだか 詐欺にあったような気分でしたが、ガンガン休ませて、今まで通りワンデルン・シューレ( 移動教室)を行うと思ったらそうはいかなかった。幼稚園の先生に休みすぎていると怒られてしまったからです。仕方がないので午前中だけ幼稚園に行かせて、 給食が終わった頃に迎えに行って、午後からハイキングに出かけるという スタイルを取っていたのですが、 それも先生にはご不満だったようで、
「 成長が遅れているので 発達心理学の先生に見てもらいなさい」
と言われてしまう。
確かに息子の成長は遅れていた。でも、それは個性の一部だと思って放置していたのですが、 担任の先生にしてみたら 心配の種だった。で、専門の先生に見てもらうわけですが、専門家は問題ないという。しかし幼稚園の先生は納得してない。毎年、しつこく「成長が遅れているので休まないで」と言われた上に、怪我をしたり、 たんこぶをつくって帰ったり、かまれたあとがあったりして、いじめられているらしいこともわかってきた。おまけに運動能力も低くて、 みんなとかけっこをしたがらない。
こうなると さすがの私も考えざるを得なくなった。
それまでの私は、勉強ができなくても良い。
運動ができなくても良い。
のびのびと育って幸せな人生を 送ってほしい。
そう考えていたのですが、のびのびと育って幸せな人生を送るためには、運動も勉強も多少はできなければ、だめなんですよね。でないといじめられてしまいます。最初は成長が遅れていても、個性 なんだからほっといてくれと思っていたんですけれど、そういうわけにはいかなかった。
仕方がないので、勉強と運動をさせることにしたのですけれど、 まず勉強の方は、 脳科学の先生が監修している「ポピー」を2部づつ買ってきて、あえて同じ問題を繰り返してやらせたわけですが、この繰り返しが効果をあげています。また脳科学者の「脳力道場」というアプリケーションソフトを毎日やらせました。このソフトは ワーキングメモリを増やすのに効果のあるソフトで、ワーキングメモリを増やすことによって、 あらゆる知能が発達することがわかっています。その結果、5歳のときに受けた知能検査(ウイスク)では、100から140の数値がでています。特に知的推理が140と最高レベルで高かった。次に高かったのが言語理解の120。逆に低かったのが処理速度で97。
で、いわゆるギフテット(天才)と言われましたが、これは信じてなかった。どうしてかと言うと、本物のギフテットを見たことがあるからです。甥がギフテットなのですが、本物はレベルが違っている。甥っ子は小学生のうちに高校レベルだった。 自由にプログラミングをくんで遊んでいたし、小学生のうちからメルカリを使って商売をしていたり、株を買っていたりした。こういうのが本物のギフテッドだと思う。
また、嫁さんの姪にも本物のギフテットがいた。中学校の百人一首の大会では、国語の先生数人を相手に戦って簡単になぎ倒したと聞いています。その子は塾もいかずに学校の授業だけで京都大学に現役で入って卒業している。こういうのが本物のギフテットです。
それからしてみたら、うちの息子はハリボテのようなもので、全く才能を感じない。むしろ遅れているように見える。ようするに息子の知能は、努力を重ねた結果の数値でしかない。逆に言うと知能指数というものは後天的な努力でなんとかなるということになる。ただしハリボテなので、努力をやめた途端に消えてしまう。バブルの泡のようなものなのだと思う。
実際うちの息子は、近所の子供たちと比較しても、会話能力が非常に劣って見えてるし、1歳年下の子供達と遊んでいても息子の方が弟分になっているくらいに、ぼーっとしている。だから 小学校に入ったら真っ先に「言葉の教室」にはいっていた。会話能力が低くて、幼いというかバカぽく見えていたと思う。
なので 小学校の3年生ぐらいまでは、知的推理よりも言語理解を中心に勉強させるようにしました。テストの点数などは無視した。授業の点数よりも、その先を目指して、教養番組や、E テレの高校生講座の中で面白そうなやつを選んで見せていた。夏休みの宿題に読書があると知って、1日5冊くらい読ませたし、読み聞かせもした。漫画も読ませました。歴史漫画・科学漫画・伝記漫画なんでも読ませた。
その結果 10歳の時に行った IQ テストでは、言語理解が140と上がって、大人と変わらないというお墨付きをもらいました。逆に知的推理が120に下がっていた。つまり後天的な努力によって言語理解の IQ が高くなっていたということになる。で、ワーキングメモリをアップさせる作業はやらせてなかったので知的推理が下がっていた。ようするに息子はギフテットではない。ないけれど努力でギフテット並みの知能を獲得できたことが、これで証明されてしまったわけです。そして、努力をやめると、 IQ が低下してしまうことも証明されてしまった。
と言うわけで、勉強の方は比較的簡単に解決がついたわけですが問題は運動の方です。こればかりは苦戦した。嬬恋村には、子供達が自由に運動ができる体育館というものはなかったし、スポーツ教室も無かった。インターネットで探しても出てこなかった。 仕方がないので軽井沢の風越公園に出かけて、お金を払って 総合体育館を利用し、サッカーや ドッジボールやバスケットボールをしました。短距離走もやった。
もちろん理論もやった。E テレの「体育ノ介」とか、「すイエんサー」とか、「奇跡のレッスン」なんかを片っ端から見せました。 これらの DVDソフトは、息子の妊娠がわかった時から、 NHK や E テレや 衛星放送されたものを片っ端から録画しておいたので、ネタが切れるということはありませんでした。
しかしなかなか 成果が出なかった。成果が出ないので小遣いをあげることにした。 縄跳び なら10回飛んだら100円。20回 飛んだら200円という感じです。これがいけなかった。
息子は 極度の悔しがりなんです。なにかに失敗してしまうと悔しくて泣いてしまう。上毛かるたでも、負けそうになると わんわん泣いてしまう。テストの点が悪くても泣いてしまう。 友達とゲームをやってても負けそうになると泣いてしまう。
ある時です。風越公園の総合体育館で縄跳びの練習をしていた時、何度も 縄跳びに失敗して、どうしても10回以上とぶことができなかった。 そして わんわん泣きながら縄跳びをしていたら、事情をしらないアメリカ人がやってきて「 児童虐待だ」と言ってきた。そして通報されてしまった。
通報されると何が起きるかというと、嬬恋村の福祉保健課の人が、学校に子供が通学してるかどうかを確認します。その上で事情収集に来ますが、その時は、村の福祉保健課がある体育館に私は息子と一緒に空手教室に出ていました。 村の福祉保健課のすぐそばで息子の運動をみていた。で事情聴取を受けて誤解が解けるわけですが、その時に、保健福祉課の理学療法士・ 作業療法士のかたに、縄跳びが飛べるように手伝ってもらうことになった。
で、1年ぐらい保健福祉課に通って、 縄跳びの練習をすることによって、どんどん上達していきました。で、思ったことは、プロの教え方は、さすがプロだなと。私が教えてもなかなか飛べなかった 縄跳びが、保健福祉課の理学療法士・ 作業療法士の人が教えると 劇的に上達していく。1年後には小学校の縄跳び大会で、学年で2番目に長く連続縄跳びができるようになってしまった。劇的変化もいいところです。
特徴的だったのは、教え方が定型通りでないことです。
相手に合わせて教え方が少しずつ変化していく。
最初に教えたことと、上手になってから教えることが全く違っている。
ある教え方が通用しないとわかると、別の教え方になる。
例えば、うまく飛べないとわかると縄を持たずにジャンプすることから始めたりする。その後に縄を手でぐるぐる回しながらジャンプ練習をしたりする。多少縄跳びができるようになると別の飛び方を教えたりする。相手をよく観察した上で、色々な手法を息子に提案している。
昭和時代なら何事も根性で頑張れというところなんだろうけれど、 令和時代のプロは、そういう指導はしない。もっと科学的な手法を取るし、何々をしろという強制がない。強制の代わりに提案をし、場合によっては選択肢を与える。「どっちがやりやすい?」と聞いてくる。人間を一つの型にはめない。正解をつくらない指導をしている。理学療法士・ 作業療法士だから、そのような指導法を行うのか? それとも今のスポーツ教室界隈は、全てこんな感じなのか?
とにかくプロの教え方というのは、素人の教え方とは全く違っている。なので本格的なスポーツ教室に息子を入れようと決心しました。プロの教え方なら私よりもうまいだろうし、スポーツ教室なら外国人に通報されることもないでしょうから。
つづく
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2025年03月26日
スポーツ教室について語ってみる その3 息子の卒業式
先日、息子の卒業式がありました。その後に謝恩会があったわけですが、私が子供の頃の謝恩会とだいぶ違っていたので驚いた次第です。どういう点が違ってたかと言うと、私が小学生の頃は、PTAは謝恩会に全く関わってなかった。謝恩会を企画したのは小学校の先生。小学校の先生の指導のもとに謝恩会をやったわけです。
当然のことながら、卒業式の何日か前に行っています。家庭科の先生に家庭科室に来るように言われて、そこで教わりながらサンドイッチを作って、その後にみんなで会場作りをして、改めて担任の先生を呼んで謝恩会をしたわけです。そして小学校の先生にこう言われました。
「中学校卒業する時は、先生たちは教えてくれないから、君たち自身で謝恩会を企画して自分たちだけで謝恩会をやるんだよ」
と。で、中学校の時に謝恩会をやったかと言うと、やった覚えがない。全くその記憶がない。小学校の時は謝恩会をやった記憶があるから、中学校の謝恩会を忘れているということはありえない。だからやってなかったんだと思う。当時はPTAが謝恩会を企画するということもなかったと思うので、生徒にその意思がなければ謝恩会は開かれなかったんだと思う。
じゃあ何をやったかというと、卒業式の直前に中学校の先生一人一人に挨拶に行った記憶はある。高等学校の合格が決まった時に、学校の全ての先生に1人ずつ挨拶に行った。「先生のおかげで合格しました。ありがとうございました。3年間お世話になりました」と全ての先生に挨拶に行った。これは覚えています。
当時の先生にしてみたら、一人一人次から次へとやってくる生徒たちの挨拶が、めんどくさかったと思うんですが、誰もめんどくさがらずに、全ての先生が一人一人に貴重なお言葉をかけてくれたのは覚えています。思えばこういうことをめんどくさがらなかった先生たちだったなあと懐かしく思いました。考えても見てください。百五十人の生徒たちが、いちいち挨拶に来るんですよ。そして一人一人にそれぞれの言葉をかけるわけですから、さぞかし大変だったろうと思います。おまけに先生のうちに遊びに行ったりもした。それを断らなかったわけですから、先生も親切だったと思うし、当時の中学生も、めんどくさい生徒たちだったと思います。
それを考えると謝恩会というシステムは素晴らしいシステムかもしれませんね。謝恩会の拘束時間が長いとは言っても、生徒たちが一人一人先生のところに挨拶に行かれては、先生たちの時間を超長いこと拘束することに比べたら、比較にならないぐらい合理的なんだと思ってしまいました。そういう意味で謝恩会を企画実行してくれた役員の皆様には非常に感謝しています。
感謝といえばもう一つ、面白い感謝がありました。
それは謝恩会で初めて担任の先生の本音が聞けたことです。

実は息子のクラスは、かなり問題の多いクラスでした。学級崩壊も起こしたし、壮絶なイジメ問題も起こしている。これは幼稚園の頃からそうで、幼稚園の年老いた担任の先生が、こんなにキレやすい子供たちが集まったクラスは初めてだと言ってたぐらいで、いわゆる暴力教室で、すごく問題が多かった。
小学校に入学して1年生になった時は、担任のN先生に「大丈夫ですかね」とかなり心配されました。何しろうちの息子は無口で、暴力の被害にあってたりしてて、かばってくれる女の子のところに逃げていたりしたので、ずいぶん心配されました。
とにかく無口で会話能力に乏しく自己主張ができなかったので、それを見かねた担任のN先生が校長先生に進言してくれて、特別な計らいで入学と同時に言葉の教室に入れてもらい、徐々に会話能力が身についていったことで息子の社会性が鍛えられました。

2年生になった時は、新しく担任になったS先生が、よく面倒を見てくれました。私の携帯電話にS先生からよく連絡がはいりました。他の父兄の方々は、ご存知なかったかと思いますが、S先生くらい弱者に寄り添う先生はなかったと思います。だから他の御両親のヒソヒソ話しから漏れ聞こえる
「S先生は怒ると怖い」
は、誤解されてると思ったものです。S先生くらい優しくて弱い者イジメが嫌いな先生はいないし、子供をよく観察している先生はいないと思っていました。問題だらけの子供たちをよくまとめたと思っています。
この頃の私は、息子の運動能力を高めるために毎日1時間かけて嬬恋村の小学校から軽井沢の風越公園に通ってました。そして、料金を払って総合体育館でバスケットやドッジボール、短距離走の練習をしていました。だから毎日、下校時刻になると学校の校門前で、息子が出てくるのを待っていたわけですが、何かの理由で息子が遅れて出てくると、必ずS先生から私の携帯に電話がかかってきた。S先生くらい頻繁に私の携帯に電話をかけてきた先生はいなかった。息子に対して真剣に関わっていたことは、ひしひしと感じていた。

3年生になった時、若いO先生が担任になったわけですが、O先生こそ最大の犠牲者だったかもしれません。この時に学級崩壊と壮絶なイジメ問題がおきたわけですが、要するに先生と児童との相性が悪かった。息子のクラスは、性善説で対処できるようなクラスでは無く、
「S先生は怒ると怖い」
という雰囲気がないと、とても対処できるクラスではないのです。
昭和教師の雰囲気がないと対処できない。
本宮ひろしの漫画ぽくないと対処できない。
そういうクラスが息子のクラスなのですが、O先生は良くも悪くも令和の教師でした。赴任して最初の1週間は、授業をやらずに「自己紹介」をやっていたと息子から聞いた時
「あちゃー」
と頭をかかえて「大丈夫かな」と不安に思いましたが、その悪い予感は後で当たることになります。
それはともかくとして、O先生の授業は、音読を中心にそえた授業形態で、脳科学的に効果的なことをやっていたので、私としては助かりました。おかげで息子の語学能力が、この先生の時に大きく発達したのです。O先生のやろうとしたことは、非常に革新的というか、令和的というか、脳科学的なのでテストの点はともかくとして、言語の成長と人格形成に非常に効果があることは、すぐに理解できました。
現にこの1年後に行った知能検査で息子の言語能力は、140を記録し、発達心理学の先生にいわせると「これ以上は測定不能で、大人と同じ言語知能をもっています」と言われてます。五歳の時に受けた検査では、言語知能は120でしたから、あきらかに効果がでてます。O先生の授業の組み立てが、脳科学的に有効であったことが原因でしょう。
O先生は、音読専用の教科書を自ら作ってきた。それは教科書に準拠して無く、古典にちかい名作の美文を集めてテキストをつくり、それを宿題にした。それらの古典を徹底的に音読させるわけですから、効果が出ないわけが無い。
少なくともうちの息子は、かなり効果が出ていた。私は、息子に何度も音読させたうえに原典の解説をし、原書の読み聞かせもやったし、Eテレで解説している番組も見せた。そして暗記させるくらいに音読をさせた。もちろん私も一緒に車の中で一緒に復唱した。
ただし教科書と全く関係ない古典文学の一節を音読するわけですから、それをしたからと言ってテストの点が良くなるわけではありませんし、通知表か良くなるわけでもない。だから意図を理解しなかった子供たちなら誰も見向きもしなかっただろうし、はなから馬鹿にしていたかもしれません。しかし、この意図さえ理解して、学習させれば絶大な効果がでるはずです。もちろんテスト勉強の点数には反映されない。そういう目的の勉強ではないからです。ゴールは、もっと先にある。
だからO先生の時は、テスト勉強はしなくてもいいから音読だけは徹底的にするようにしました。放課後になると毎日、小学校から軽井沢の風越公園まで1時間かけて移動していたので、音読する時間はたっぷりありました。何度も何度も、先生が作ってきた音読教科書を音読させることによって、息子の会話能力がどんどん発達していたことは確かです。
ただし、それをすることによってテストの点があがるかというと、そんなことはない。音読の効果が理解できてない子供たちににしてみれば、何やってるんだ?ことになるから、そこから学級崩壊に繋がっても不思議は無い。勉強を短期的な効果としてしか考えてなけれすば、つまんない授業・・・ということになる。つまり、先生と児童の相性が悪かったとしか言いようがない。
だけど、この先生の意図を理解して、親が積極的に利用してあげれば、子供の人生において、すごく効果のあるものになったかもしれない。テストの点とは関係の無いことをやることになり、通知表の評価が下がったとしても、1年間、音読を続けることによって。言語知能はかなり発達するはずだし、うちの息子らは絶大な効果となってあらわれている。

そして4年生。さすがに学校側も、学級崩壊を問題として認識してきたのか、O先生とは真逆の昭和系の厳しい先生が担任となりました。昭和系の先生ですから、とりあえず学級崩壊は防げたようです。O先生とは真逆の授業形式に懐かしさを覚えたものです。
ここでちょっと困ったことが起きました。息子の学習態度です。私は、今まで好奇心中心の勉強させていたので、昭和スタイルの授業方針とぶつかってしまったのです。私は今まで息子に対してやってきた好奇心中心の勉強スタイルのために、息子には苦労して覚えると言う経験がありません。
それまでの息子は楽しみながらゲームしてる感覚で勉強していた。具体的に言うとタブレットのアプリでクイズ感覚でゲームをさせてみたり、Eテレの高校生講座の面白そうなところを見せたりしていたわけで、学校から出た宿題に対しては、コツを教えることによって10分ぐらいで全部終わらせてしまい、その後は楽しそうなことばかりやっていた。つまり教科書に沿って勉強するというスタイルを今までやってきてなかったために、大量の宿題を出してくる昭和先生の授業スタイルとぶつかってしまって非常に困ってしまった。
そこでどうしようかなと考えたのですが、社会に出れば、理不尽なことがいくらでも出てくるだろうし、昭和スタイルの上司だっていっぱいいるだろうから、これに合わせることも非常に大切なのではないかと思い直し、あえて合わせてみることにしました。何かの罰則で、ノート三十ページの書き取りの宿題がでれば、必ずやらせたし、どんなに無駄だと思ってもしっかりやらせました。
むしろ合わせにいった。冬休みの宿題で最低1日1ページの書き取りを言われれば、逆に1日3ページ書かせました。それが学力につながるとは到底思えなかったのですが、昭和時代の小学生は、みんなそれを乗り越えてやってきたのですから、そういう体験も必要かなと思った次第です。
ちなみに脳科学の立場から言うと、この方式は現代では否定されています。ではなぜ昭和時代にこの学習スタイルが主流だったかと言うと、昭和36年生まれの私の世代ならその理由を小学校の先生から聞かされています。私が子供の頃に
「先生何でこんなにいっぱい漢字を書かなきゃいけないの?」
と子供たちが質問すると先生はこう答えていました。
「社会に出たら誰もが絶対にやらなければいけないことがあるんだよ。それは文字を書くこと。お願いをしたり、手紙を書いたり、営業の挨拶を書いたり、請求書を書いたり、どんな職業に着いたとしても文字は必ず書かなければならない。その時に綺麗な字を書けてないと相手はどう思うと思う?どんなに文章が素晴らしくても文字が汚かったら読んでさえもれもらえないんだよ。綺麗な文字を書くということはとても大切なことなんだ」
当時はワープロもなければパソコンもなかった。もちろんプリンターなんかあるわけないしコピー機だってない。お知らせのプリントは、ガリ版という手書きの印刷機で印刷するしかなかった。テストだって、ガリ版で作っていた。だから1回しか使えない。今のようにコピーして何度も使い回すことなんかできなかった。毎回手書きで書くしかなかったのだ。
当時は、文字といえば手書きしかなかった。
だから昔は必要以上に文字を書く練習をした。
インクの滲むガリ版すりでは、文字が美しくないと読めなかったのだ。
書道も今より重要視されていた。
廊下や体育館などには毎月のように書道の作品が貼られて金賞 銀賞と言った賞をつけて飾られていたものです。昔は筆を使うことが多かった。年賀状や、お歳暮なんかで筆を使って書くことが多かった。
今となっては考えられないことですが、昔は文字が綺麗だというだけで就職に有利だった。昔の就職試験には文字の綺麗さも考慮に入っていた。だから私が子供の頃は、あらゆる子供向け雑誌に「日ペンの美子ちゃん」の広告が載っていた。
まあそんなことはどうでもいいとして、義務教育を終えた後に就職をする人たちが多かった昔は、テストの点で100点を取るのと同じくらいに、綺麗な字をかけるということが重要視されていたということは覚えておいて良いかもしれません。そういう時代には漢字の書き取りというのは非常に重要視されていたのですが、脳科学が発達した現代では、もっと簡単に漢字を覚える方式が広まっています。いわゆる小テストです。それも寝る直前の小テスト。
それを積極的に行ったのは、5年生6年生の担任となる小野先生の時でした。小野先生は、よく漢字の小テストを行った。「あーこの先生は脳科学を知っている。記憶の法則を使ってるな」と思いました。だから、どんどん利用させてもらった。だから通知表の成績だけはよくなった。毎回百点のテストを持って帰るようになってきた。
それはともかくとして小野先生も令和の先生でした。だから1歩間違えれば、学級崩壊になってもおかしくなかった。息子のクラスは令和の先生には、荷が重かった。その先生が、謝恩会で最後の演説をしたわけですが、こういっちゃ悪いですけれど、すごく面白かった。
短い言葉で終わるはずの挨拶が、とても長い演説となって、子供たちとの邂逅を、過去の不思議な体験として話をしていた。
「僕は怒ったことがないんです。自慢じゃないけれど怒ったことがない。酔っ払った友達にゲロを浴びせられても怒ったりしてなかった。そういう人間なんですが、このクラスの担任となってからは、さすがに怒った・・・」
この言葉を聞いた時に、その風景が目に浮かび笑ってしまった。
あー、ありそうだなあと。
何しろ とんでもないクラスですから。
怒ったことのない人、穏やかな人間を激怒させるのが息子がいたクラスです。
当然と言えば当然。
そこまではいい。
小野先生が不思議に思ったことは、怒られた子供たちが、シュンとすることもなく、ケロリとして
「先生、先生、と馴れ馴れしくしてくる」
ことに驚いたという。
ただそれだけの内容のないことを、延々と大演説していた。文章にすればたったこれだけのことを、長々と長々と話していた。最後の別れの言葉のはずなのに、本当ならここで何か人生のためになるような話をするところなんだろうけれど、そういう言葉は一つも発せずに、2年間に体験した不思議な出来事を思い返していました。
この演説が、息子のいたクラスの日常風景を見事に描いて見せている。要するに息子がいたクラスは、無邪気すぎた。幼すぎた。アホっぽいというか、天然すぎるというか、大人の常識が通じなさすぎた。だから歴代の担任の先生たちが苦労した。どの先生たちも1歩間違えれば、学級崩壊しかねなかった。
それをギリギリ留めたのが、小野先生の趣味が「お笑い」だったことかもしれない。だから子供たちの悪行を「ボケ」と認識して、「ツッコミ」としての激怒した。しかし、天然のボケである子供たちは、シュンとせずに、ボケたおしてくる。それらの日常を、不思議そうに回想していた感じだった。それが、とりとめもなく長い話となっていた。そのとりとめのない演説が、私には非常に面白おかしかった。
現代的な令和系の小野先生にしてみたら、人生がひっくりかえる思いだったのかもしれない。令和時代は、静かで大人しく真面目に授業をきく子供たちが多いと思う。そういう一般的な小学生と比較してみたら息子たちのクラスは、昭和も昭和。ひょっとしたら原始人に近かったかもしれない。先生にしてみたら、嬬恋村に赴任したら、いきなり暴力的な不思議ちゃんばかりいるクラスの担任にされてしまって、さぞ困惑したことと思います。貧乏くじも、いいところだったでしょう。
とにかく、いろんな意味で息子のいたクラスは常識を外れたところがありました。例えば学級委員の選出なんかだと、立候補者が続出してみんなで選挙して勝たなければならなかった。そんなこと考えられます? 学級委員に争って大勢が立候補するクラスがあるなんて信じられますか?
普通なら誰もが嫌がる学級委員にみんななりたがった。だから1学期2学期3学期と学級委員が変化したりもした。何か面白そうだなと思ったら、みんなそれに食いつくし、そうでなければ誰もがそっぽを向く。興味があれば先生にどんどん質問するし、興味がなければ学級崩壊が起こる。静かに授業をしようという選択肢はない。
よくもまあこんなクラスを、現場の先生方が相手したものだと感心します。
長くなりすぎたので、今日はここまで。
つづく
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当然のことながら、卒業式の何日か前に行っています。家庭科の先生に家庭科室に来るように言われて、そこで教わりながらサンドイッチを作って、その後にみんなで会場作りをして、改めて担任の先生を呼んで謝恩会をしたわけです。そして小学校の先生にこう言われました。
「中学校卒業する時は、先生たちは教えてくれないから、君たち自身で謝恩会を企画して自分たちだけで謝恩会をやるんだよ」
と。で、中学校の時に謝恩会をやったかと言うと、やった覚えがない。全くその記憶がない。小学校の時は謝恩会をやった記憶があるから、中学校の謝恩会を忘れているということはありえない。だからやってなかったんだと思う。当時はPTAが謝恩会を企画するということもなかったと思うので、生徒にその意思がなければ謝恩会は開かれなかったんだと思う。
じゃあ何をやったかというと、卒業式の直前に中学校の先生一人一人に挨拶に行った記憶はある。高等学校の合格が決まった時に、学校の全ての先生に1人ずつ挨拶に行った。「先生のおかげで合格しました。ありがとうございました。3年間お世話になりました」と全ての先生に挨拶に行った。これは覚えています。
当時の先生にしてみたら、一人一人次から次へとやってくる生徒たちの挨拶が、めんどくさかったと思うんですが、誰もめんどくさがらずに、全ての先生が一人一人に貴重なお言葉をかけてくれたのは覚えています。思えばこういうことをめんどくさがらなかった先生たちだったなあと懐かしく思いました。考えても見てください。百五十人の生徒たちが、いちいち挨拶に来るんですよ。そして一人一人にそれぞれの言葉をかけるわけですから、さぞかし大変だったろうと思います。おまけに先生のうちに遊びに行ったりもした。それを断らなかったわけですから、先生も親切だったと思うし、当時の中学生も、めんどくさい生徒たちだったと思います。
それを考えると謝恩会というシステムは素晴らしいシステムかもしれませんね。謝恩会の拘束時間が長いとは言っても、生徒たちが一人一人先生のところに挨拶に行かれては、先生たちの時間を超長いこと拘束することに比べたら、比較にならないぐらい合理的なんだと思ってしまいました。そういう意味で謝恩会を企画実行してくれた役員の皆様には非常に感謝しています。
感謝といえばもう一つ、面白い感謝がありました。
それは謝恩会で初めて担任の先生の本音が聞けたことです。
実は息子のクラスは、かなり問題の多いクラスでした。学級崩壊も起こしたし、壮絶なイジメ問題も起こしている。これは幼稚園の頃からそうで、幼稚園の年老いた担任の先生が、こんなにキレやすい子供たちが集まったクラスは初めてだと言ってたぐらいで、いわゆる暴力教室で、すごく問題が多かった。
小学校に入学して1年生になった時は、担任のN先生に「大丈夫ですかね」とかなり心配されました。何しろうちの息子は無口で、暴力の被害にあってたりしてて、かばってくれる女の子のところに逃げていたりしたので、ずいぶん心配されました。
とにかく無口で会話能力に乏しく自己主張ができなかったので、それを見かねた担任のN先生が校長先生に進言してくれて、特別な計らいで入学と同時に言葉の教室に入れてもらい、徐々に会話能力が身についていったことで息子の社会性が鍛えられました。
2年生になった時は、新しく担任になったS先生が、よく面倒を見てくれました。私の携帯電話にS先生からよく連絡がはいりました。他の父兄の方々は、ご存知なかったかと思いますが、S先生くらい弱者に寄り添う先生はなかったと思います。だから他の御両親のヒソヒソ話しから漏れ聞こえる
「S先生は怒ると怖い」
は、誤解されてると思ったものです。S先生くらい優しくて弱い者イジメが嫌いな先生はいないし、子供をよく観察している先生はいないと思っていました。問題だらけの子供たちをよくまとめたと思っています。
この頃の私は、息子の運動能力を高めるために毎日1時間かけて嬬恋村の小学校から軽井沢の風越公園に通ってました。そして、料金を払って総合体育館でバスケットやドッジボール、短距離走の練習をしていました。だから毎日、下校時刻になると学校の校門前で、息子が出てくるのを待っていたわけですが、何かの理由で息子が遅れて出てくると、必ずS先生から私の携帯に電話がかかってきた。S先生くらい頻繁に私の携帯に電話をかけてきた先生はいなかった。息子に対して真剣に関わっていたことは、ひしひしと感じていた。
3年生になった時、若いO先生が担任になったわけですが、O先生こそ最大の犠牲者だったかもしれません。この時に学級崩壊と壮絶なイジメ問題がおきたわけですが、要するに先生と児童との相性が悪かった。息子のクラスは、性善説で対処できるようなクラスでは無く、
「S先生は怒ると怖い」
という雰囲気がないと、とても対処できるクラスではないのです。
昭和教師の雰囲気がないと対処できない。
本宮ひろしの漫画ぽくないと対処できない。
そういうクラスが息子のクラスなのですが、O先生は良くも悪くも令和の教師でした。赴任して最初の1週間は、授業をやらずに「自己紹介」をやっていたと息子から聞いた時
「あちゃー」
と頭をかかえて「大丈夫かな」と不安に思いましたが、その悪い予感は後で当たることになります。
それはともかくとして、O先生の授業は、音読を中心にそえた授業形態で、脳科学的に効果的なことをやっていたので、私としては助かりました。おかげで息子の語学能力が、この先生の時に大きく発達したのです。O先生のやろうとしたことは、非常に革新的というか、令和的というか、脳科学的なのでテストの点はともかくとして、言語の成長と人格形成に非常に効果があることは、すぐに理解できました。
現にこの1年後に行った知能検査で息子の言語能力は、140を記録し、発達心理学の先生にいわせると「これ以上は測定不能で、大人と同じ言語知能をもっています」と言われてます。五歳の時に受けた検査では、言語知能は120でしたから、あきらかに効果がでてます。O先生の授業の組み立てが、脳科学的に有効であったことが原因でしょう。
O先生は、音読専用の教科書を自ら作ってきた。それは教科書に準拠して無く、古典にちかい名作の美文を集めてテキストをつくり、それを宿題にした。それらの古典を徹底的に音読させるわけですから、効果が出ないわけが無い。
少なくともうちの息子は、かなり効果が出ていた。私は、息子に何度も音読させたうえに原典の解説をし、原書の読み聞かせもやったし、Eテレで解説している番組も見せた。そして暗記させるくらいに音読をさせた。もちろん私も一緒に車の中で一緒に復唱した。
ただし教科書と全く関係ない古典文学の一節を音読するわけですから、それをしたからと言ってテストの点が良くなるわけではありませんし、通知表か良くなるわけでもない。だから意図を理解しなかった子供たちなら誰も見向きもしなかっただろうし、はなから馬鹿にしていたかもしれません。しかし、この意図さえ理解して、学習させれば絶大な効果がでるはずです。もちろんテスト勉強の点数には反映されない。そういう目的の勉強ではないからです。ゴールは、もっと先にある。
だからO先生の時は、テスト勉強はしなくてもいいから音読だけは徹底的にするようにしました。放課後になると毎日、小学校から軽井沢の風越公園まで1時間かけて移動していたので、音読する時間はたっぷりありました。何度も何度も、先生が作ってきた音読教科書を音読させることによって、息子の会話能力がどんどん発達していたことは確かです。
ただし、それをすることによってテストの点があがるかというと、そんなことはない。音読の効果が理解できてない子供たちににしてみれば、何やってるんだ?ことになるから、そこから学級崩壊に繋がっても不思議は無い。勉強を短期的な効果としてしか考えてなけれすば、つまんない授業・・・ということになる。つまり、先生と児童の相性が悪かったとしか言いようがない。
だけど、この先生の意図を理解して、親が積極的に利用してあげれば、子供の人生において、すごく効果のあるものになったかもしれない。テストの点とは関係の無いことをやることになり、通知表の評価が下がったとしても、1年間、音読を続けることによって。言語知能はかなり発達するはずだし、うちの息子らは絶大な効果となってあらわれている。
そして4年生。さすがに学校側も、学級崩壊を問題として認識してきたのか、O先生とは真逆の昭和系の厳しい先生が担任となりました。昭和系の先生ですから、とりあえず学級崩壊は防げたようです。O先生とは真逆の授業形式に懐かしさを覚えたものです。
ここでちょっと困ったことが起きました。息子の学習態度です。私は、今まで好奇心中心の勉強させていたので、昭和スタイルの授業方針とぶつかってしまったのです。私は今まで息子に対してやってきた好奇心中心の勉強スタイルのために、息子には苦労して覚えると言う経験がありません。
それまでの息子は楽しみながらゲームしてる感覚で勉強していた。具体的に言うとタブレットのアプリでクイズ感覚でゲームをさせてみたり、Eテレの高校生講座の面白そうなところを見せたりしていたわけで、学校から出た宿題に対しては、コツを教えることによって10分ぐらいで全部終わらせてしまい、その後は楽しそうなことばかりやっていた。つまり教科書に沿って勉強するというスタイルを今までやってきてなかったために、大量の宿題を出してくる昭和先生の授業スタイルとぶつかってしまって非常に困ってしまった。
そこでどうしようかなと考えたのですが、社会に出れば、理不尽なことがいくらでも出てくるだろうし、昭和スタイルの上司だっていっぱいいるだろうから、これに合わせることも非常に大切なのではないかと思い直し、あえて合わせてみることにしました。何かの罰則で、ノート三十ページの書き取りの宿題がでれば、必ずやらせたし、どんなに無駄だと思ってもしっかりやらせました。
むしろ合わせにいった。冬休みの宿題で最低1日1ページの書き取りを言われれば、逆に1日3ページ書かせました。それが学力につながるとは到底思えなかったのですが、昭和時代の小学生は、みんなそれを乗り越えてやってきたのですから、そういう体験も必要かなと思った次第です。
ちなみに脳科学の立場から言うと、この方式は現代では否定されています。ではなぜ昭和時代にこの学習スタイルが主流だったかと言うと、昭和36年生まれの私の世代ならその理由を小学校の先生から聞かされています。私が子供の頃に
「先生何でこんなにいっぱい漢字を書かなきゃいけないの?」
と子供たちが質問すると先生はこう答えていました。
「社会に出たら誰もが絶対にやらなければいけないことがあるんだよ。それは文字を書くこと。お願いをしたり、手紙を書いたり、営業の挨拶を書いたり、請求書を書いたり、どんな職業に着いたとしても文字は必ず書かなければならない。その時に綺麗な字を書けてないと相手はどう思うと思う?どんなに文章が素晴らしくても文字が汚かったら読んでさえもれもらえないんだよ。綺麗な文字を書くということはとても大切なことなんだ」
当時はワープロもなければパソコンもなかった。もちろんプリンターなんかあるわけないしコピー機だってない。お知らせのプリントは、ガリ版という手書きの印刷機で印刷するしかなかった。テストだって、ガリ版で作っていた。だから1回しか使えない。今のようにコピーして何度も使い回すことなんかできなかった。毎回手書きで書くしかなかったのだ。
当時は、文字といえば手書きしかなかった。
だから昔は必要以上に文字を書く練習をした。
インクの滲むガリ版すりでは、文字が美しくないと読めなかったのだ。
書道も今より重要視されていた。
廊下や体育館などには毎月のように書道の作品が貼られて金賞 銀賞と言った賞をつけて飾られていたものです。昔は筆を使うことが多かった。年賀状や、お歳暮なんかで筆を使って書くことが多かった。
今となっては考えられないことですが、昔は文字が綺麗だというだけで就職に有利だった。昔の就職試験には文字の綺麗さも考慮に入っていた。だから私が子供の頃は、あらゆる子供向け雑誌に「日ペンの美子ちゃん」の広告が載っていた。
まあそんなことはどうでもいいとして、義務教育を終えた後に就職をする人たちが多かった昔は、テストの点で100点を取るのと同じくらいに、綺麗な字をかけるということが重要視されていたということは覚えておいて良いかもしれません。そういう時代には漢字の書き取りというのは非常に重要視されていたのですが、脳科学が発達した現代では、もっと簡単に漢字を覚える方式が広まっています。いわゆる小テストです。それも寝る直前の小テスト。
それを積極的に行ったのは、5年生6年生の担任となる小野先生の時でした。小野先生は、よく漢字の小テストを行った。「あーこの先生は脳科学を知っている。記憶の法則を使ってるな」と思いました。だから、どんどん利用させてもらった。だから通知表の成績だけはよくなった。毎回百点のテストを持って帰るようになってきた。
それはともかくとして小野先生も令和の先生でした。だから1歩間違えれば、学級崩壊になってもおかしくなかった。息子のクラスは令和の先生には、荷が重かった。その先生が、謝恩会で最後の演説をしたわけですが、こういっちゃ悪いですけれど、すごく面白かった。
短い言葉で終わるはずの挨拶が、とても長い演説となって、子供たちとの邂逅を、過去の不思議な体験として話をしていた。
「僕は怒ったことがないんです。自慢じゃないけれど怒ったことがない。酔っ払った友達にゲロを浴びせられても怒ったりしてなかった。そういう人間なんですが、このクラスの担任となってからは、さすがに怒った・・・」
この言葉を聞いた時に、その風景が目に浮かび笑ってしまった。
あー、ありそうだなあと。
何しろ とんでもないクラスですから。
怒ったことのない人、穏やかな人間を激怒させるのが息子がいたクラスです。
当然と言えば当然。
そこまではいい。
小野先生が不思議に思ったことは、怒られた子供たちが、シュンとすることもなく、ケロリとして
「先生、先生、と馴れ馴れしくしてくる」
ことに驚いたという。
ただそれだけの内容のないことを、延々と大演説していた。文章にすればたったこれだけのことを、長々と長々と話していた。最後の別れの言葉のはずなのに、本当ならここで何か人生のためになるような話をするところなんだろうけれど、そういう言葉は一つも発せずに、2年間に体験した不思議な出来事を思い返していました。
この演説が、息子のいたクラスの日常風景を見事に描いて見せている。要するに息子がいたクラスは、無邪気すぎた。幼すぎた。アホっぽいというか、天然すぎるというか、大人の常識が通じなさすぎた。だから歴代の担任の先生たちが苦労した。どの先生たちも1歩間違えれば、学級崩壊しかねなかった。
それをギリギリ留めたのが、小野先生の趣味が「お笑い」だったことかもしれない。だから子供たちの悪行を「ボケ」と認識して、「ツッコミ」としての激怒した。しかし、天然のボケである子供たちは、シュンとせずに、ボケたおしてくる。それらの日常を、不思議そうに回想していた感じだった。それが、とりとめもなく長い話となっていた。そのとりとめのない演説が、私には非常に面白おかしかった。
現代的な令和系の小野先生にしてみたら、人生がひっくりかえる思いだったのかもしれない。令和時代は、静かで大人しく真面目に授業をきく子供たちが多いと思う。そういう一般的な小学生と比較してみたら息子たちのクラスは、昭和も昭和。ひょっとしたら原始人に近かったかもしれない。先生にしてみたら、嬬恋村に赴任したら、いきなり暴力的な不思議ちゃんばかりいるクラスの担任にされてしまって、さぞ困惑したことと思います。貧乏くじも、いいところだったでしょう。
とにかく、いろんな意味で息子のいたクラスは常識を外れたところがありました。例えば学級委員の選出なんかだと、立候補者が続出してみんなで選挙して勝たなければならなかった。そんなこと考えられます? 学級委員に争って大勢が立候補するクラスがあるなんて信じられますか?
普通なら誰もが嫌がる学級委員にみんななりたがった。だから1学期2学期3学期と学級委員が変化したりもした。何か面白そうだなと思ったら、みんなそれに食いつくし、そうでなければ誰もがそっぽを向く。興味があれば先生にどんどん質問するし、興味がなければ学級崩壊が起こる。静かに授業をしようという選択肢はない。
よくもまあこんなクラスを、現場の先生方が相手したものだと感心します。
長くなりすぎたので、今日はここまで。
つづく
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2025年03月23日
スポーツ教室について語ってみる その2
スポーツ教室について語ってみる その2
子供が生まれた時に真っ先に考えたことは、勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って、たくさんの友人に囲まれて幸せな人生を送ってほしい。 だから自由奔放に生きていけるように子育てをしようと考えていました。
なので晴れてる日は毎日、浅間牧場で愛犬ころと 散歩して遊んでいました。 幼稚園に入る年齢になると、教育委員会から幼稚園に入る手続きはしないのかという電話が来ましたが、「うちは 保育所に入れるので大丈夫です」と断ったくらいです。文部省の管轄でもあり、学校の延長である幼稚園に入れるつもりはありませんでした。仕事が忙しい時だけに限定して、保育所か託児所に入れるつもりだったのです。 そうでない時は親子で1日中 公園で遊ぶつもりでした。 現に息子が3歳になるまで毎日のように 各地の公園に出かけていました。
ところが私が住んでいる嬬恋村では幼稚園と保育所が合併しており『こども園』 というものになっていました。保育所に預けるつもりで入園手続きをすると、そこは幼稚園だったのです。 保育所の子供も幼稚園でみんなと一緒にお勉強するようになっており、 夏休みや 冬休みで 幼稚園が休みの時だけ、保育所になっているというシステムでした。
なんだか 詐欺にかかったような気にもなりましたか、まあ 仕方ないかと思い、息子を『こども園』という名の保育所と幼稚園が合体した施設に預けたわけですが、私が危惧した通り『こども園』は、幼稚園そのものでした。 幼稚園を休ませて 親子でハイキングに行くと先生に怒られるのです。
私は学校という型枠に息子をはめ込みたくなかったので、あえて保育所を選んだつもりだったのですが、無理やり強制的に幼稚園 スタイルの教育施設に入れられてしまった。私の子育ては映画の『サウンドオブ ミュージック』のような自然の中でのびのびと育てることが目標だったから非常にがっかりしました。幼稚園の先生は非常に熱心に 息子のことを面倒を見てくれたと思います。 しかしそれは私の望むところではなかったわけです。
ところがです。
息子を幼稚園に通わせると、先生が成長が遅れてると言ってくる。確かに遅れていた。 近所に 息子より1歳年下の男の子がいましたけれど、その子と比べて明らかに劣っていた。会話能力と言うか言語能力が劣って見えた。2歳くらい下の子のレベルにみえた。息子は3月26日生まれですが、 それを考えても圧倒的に遅れてるように見えてしまう。なので幼稚園の先生が、
「発達心理学の先生に見てもらってください」
と言ってくる。要するに『学習障害』を 疑ってる感じなのでしょうが、 専門家でもない人間が『学習障害』の可能性を言ってはいけない 規則になってるので、ひたすら「先生に見てもらってください」 と言ってくる。仕方がないので何度も発達心理学の先生のところに連れて行くわけですが、 私自身が、
「何の心配も無い」
という気分でいるので、発達心理学の先生も、
「じゃあ 大丈夫なんじゃないですか」
という雰囲気になって、世間話をしてそれが盛り上がって終わっていました。
「幼稚園の先生は大げさなんだよ」
くらいに思っていてのんびりどっしり構えていました。

しかしそうも言ってられなくなったことが起きたのです。 息子と一緒に風呂に入ると変なところに傷がある。よくよく聞いてみると友達にやられたと言っている。どうやら いじめを受けているようなのだ。幼稚園の先生も「いじめ」という言葉は使わないけれど、明らかに体に傷がついた 状態の場合、個別のトラブルを 報告してきます。おまけに、いじめっ子たちは、4月・5月・6月生まれでした。息子は3月26日生まれで大きなハンデがある上に、成長が遅いと来ている。
そうなってくると
「何の心配も無い」
と言えなくなってくるのです。
子供が生まれた時に真っ先に考えた「勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って、たくさんの友人に囲まれて幸せな人生を 送ってほしい」という考えは甘かったということになる。年配の幼稚園の先生は、
「嬬恋村では子供の数が少なくてクラス替えがないから、自分で強くなければだめ」
と言ってきたのですが、このアドバイスに納得した私は、息子に空手を習わせることにしました。で、スポーツ教室を探したわけですが、車で40分の距離にある『軽井沢風越公園』に空手のスポーツ教室があることを発見しました。そして『軽井沢風越公園』の主催事業である『空手と礼儀教室』に申し込みました。そして週1回の空手教室に通い出したのです。
「勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って欲しい」と考える親御さんは多いと思います。 しかし現実問題として、のびのびと育つためには、ある程度運動ができて勉強ができないといけない。そうしないと、 みんなからいじめられるから、のびのびと育てるという目標を達成できないのです。 勉強はある程度できないとダメだし、 運動もある程度できないと話にならない。 残酷のようなことだけれど、 それが厳しい現実というものでした。
息子とその友達と体育館で一緒に遊んだりするんですけれど、 私が「 みんなで かけっこ やろうか」と 子供たちに提案すると、みんな喜んで賛成するのだけれど、うちの息子だけが嫌がって参加しない。 なぜならば 一番足が遅いからです。それがわかってるから息子のやつは絶対に競争に参加しない。ひねくれて、ぼっちになってしまう。そんな状態で「のびのびと育つ」とは到底思えない。 ある程度運動ができて勉強ができないと、「のびのびと育つ」ことは無理なのだ。
一緒に風呂に入ってると、3歳になったばかりの息子は 涙ながらに「早く走れるようになる薬はないの?」と聞いてくる。幼稚園で肩身の狭い思いをしていることが これだけでよくわかる。私はもう一つ決意しました。 空手が強くなるだけでは問題は解決しない。 運動能力と 学習能力を高めないと 「のびのびと育つ」という目標に達成しないという冷酷な現実があった。

さいわい『軽井沢風越公園』には、プール・フットサル場・体育館もありましたから、そこに毎日のように通ってバケット・サッカー・水泳を教えました。毎日。往復2時間をかけて軽井沢に通ったわけです。送迎中 車内では、スポーツに関する映像作品を見せました。昔と違って今は、スポーツを上達するための素晴らしい映像作品がありますので、それをdvdに焼いて見せました。
うちの息子は、 非常識なくらい好奇心の強い子供だったので、 それらのビデオを熱心に見ていました。例えば E テレに、すイエんサーという科学番組があるのですが、その番組ではどうすればドッジボールで勝つことができるかということを 科学的に実験実証して見せたりします。明らかに運動能力に劣る子供達が、どうやったら 強敵に勝てるようになるかという番組。相手がボールを投げてきた時、 右によけた方が 生存確率が高いか、 左に避けた方が 生存確率が高いか、 そういうことを科学的に検証する番組(すイエんサー)があるわけで、そういう番組を積極的に見せたわけです。
しかしそこまでしても、運動能力は上達しないものです。 いや 上達はしてたのですが、3月生まれというハンデのために相手に追いつけない。息子をいじってくる人たちは、出席番号の最初の人たち。 つまり 4月生まれとか5月生まれなので、相手は1年近く年上。ちょっとやそっとの運動では追いつけない。特に4歳児は5歳児ぐらいの場合は圧倒的な体力差となっていて壁となっている。その壁がいじってくるわけですから始末に悪い。
これでよく登校拒否にならなかったものだなあと感心するわけですが、 息子は非常に好奇心が強いために、 幼稚園や小学校を嫌がることはありませんでした。ありがたいことに息子をかばってくれる女の子や、男の子がいたことも確かで、4歳とか5歳であるにも関わらず、ダメなことはダメと悪いことを注意する素晴らしい お子さんもたくさんいたようで、それに救われたということもあります。
とにかく息子の運動能力が平均値を超えるまで5年ぐらいはかかりました。一部の競技でトップを取るまでは、 それから何年かかかりました。 幼稚園の時は1回も飛べなかった 縄跳びも 小学2年生になる頃は、学年で2番目に長時間 飛べるようになっていましたし、小学3年生の頃にはマラソン大会で2位をとる までになりました。スキーやスケートでもたくさんのメダルを確保しましたし、 スカイランと言う登山マラソンでも毎年上位に入るようになりました。こうなると息子のやつもスポーツが楽しくなるらしく、何かスポーツの大会があると必ず参加したものです。
ちなみに 息子のやつは、 嬬恋村の空手教室・ キックボクシング教室にも通っています。つまり 2つの空手教室に通っていたわけですが、空手には色々な 流派があって 指導の仕方が全く違うわけです。 軽井沢の空手教室は、空手を教えるというよりも 運動させることがメインでした。 とにかく子供に遊びをさせることによって走り回させるのです。 空手を教えるというよりも遊びながら体を鍛える というスタイルです。だから 空手をやってる時間よりも室内サッカーをやってる時間の方が長かった。
嬬恋村の空手教室は、それとは全く違っていわゆる武道を教えてました。礼儀作法とか、精神に重点を置いた 教え方で、空手の方も基本をじっくり教える感じです。いわゆる正統派な教え方でした。これは軽井沢の教え方とは全く違っていました。
不思議なことに、 これはスケートでも同じことが言えて、軽井沢のスケートのスポーツ教室では、 スケートを教えるというよりも 遊びながら 運動させることがメインだったのに対して、 嬬恋村の小学校のスケート部では、スケートを基礎からきっちり 教えるということを実践していました。
嬬恋村の小学校のスケート部では、5つのクラスに分かれていて、 各自のレベルに合わせて教わる内容が違っていたのに対して、 軽井沢のスポーツ教室の場合は、小学生から中学生まで、ほとんど クラス分けがなくて みんなで一緒に滑ってるという感じです。
個人的な感想を言うと、軽井沢と嬬恋村ではゴールが違っている気がする。軽井沢のスポーツ教室では遠くを目指してる。スケートとか空手にこだわってない。子供たちの体力とやる気をあげることに 中心を置いている感じがします。それに対して嬬恋村では、 空手の上達・ スケートの上達を目指してる。 どっちがいいとか悪いとかいうことではなくて、ゴールが違ってるんだ と思います。
話がそれました。
一旦、話を戻します。
私が何を言いたかったかというと、子供に
「のびのびと育って欲しい」
と願う場合、ある程度運動ができて勉強ができないといけない。そうしないと、いじめられる可能性がある。そして、ある程度運動ができるようになる方法があるということであり、あるていど勉強ができる方法もある。決して不可能では無いということです。
つづく
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子供が生まれた時に真っ先に考えたことは、勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って、たくさんの友人に囲まれて幸せな人生を送ってほしい。 だから自由奔放に生きていけるように子育てをしようと考えていました。
なので晴れてる日は毎日、浅間牧場で愛犬ころと 散歩して遊んでいました。 幼稚園に入る年齢になると、教育委員会から幼稚園に入る手続きはしないのかという電話が来ましたが、「うちは 保育所に入れるので大丈夫です」と断ったくらいです。文部省の管轄でもあり、学校の延長である幼稚園に入れるつもりはありませんでした。仕事が忙しい時だけに限定して、保育所か託児所に入れるつもりだったのです。 そうでない時は親子で1日中 公園で遊ぶつもりでした。 現に息子が3歳になるまで毎日のように 各地の公園に出かけていました。
ところが私が住んでいる嬬恋村では幼稚園と保育所が合併しており『こども園』 というものになっていました。保育所に預けるつもりで入園手続きをすると、そこは幼稚園だったのです。 保育所の子供も幼稚園でみんなと一緒にお勉強するようになっており、 夏休みや 冬休みで 幼稚園が休みの時だけ、保育所になっているというシステムでした。
なんだか 詐欺にかかったような気にもなりましたか、まあ 仕方ないかと思い、息子を『こども園』という名の保育所と幼稚園が合体した施設に預けたわけですが、私が危惧した通り『こども園』は、幼稚園そのものでした。 幼稚園を休ませて 親子でハイキングに行くと先生に怒られるのです。
私は学校という型枠に息子をはめ込みたくなかったので、あえて保育所を選んだつもりだったのですが、無理やり強制的に幼稚園 スタイルの教育施設に入れられてしまった。私の子育ては映画の『サウンドオブ ミュージック』のような自然の中でのびのびと育てることが目標だったから非常にがっかりしました。幼稚園の先生は非常に熱心に 息子のことを面倒を見てくれたと思います。 しかしそれは私の望むところではなかったわけです。
ところがです。
息子を幼稚園に通わせると、先生が成長が遅れてると言ってくる。確かに遅れていた。 近所に 息子より1歳年下の男の子がいましたけれど、その子と比べて明らかに劣っていた。会話能力と言うか言語能力が劣って見えた。2歳くらい下の子のレベルにみえた。息子は3月26日生まれですが、 それを考えても圧倒的に遅れてるように見えてしまう。なので幼稚園の先生が、
「発達心理学の先生に見てもらってください」
と言ってくる。要するに『学習障害』を 疑ってる感じなのでしょうが、 専門家でもない人間が『学習障害』の可能性を言ってはいけない 規則になってるので、ひたすら「先生に見てもらってください」 と言ってくる。仕方がないので何度も発達心理学の先生のところに連れて行くわけですが、 私自身が、
「何の心配も無い」
という気分でいるので、発達心理学の先生も、
「じゃあ 大丈夫なんじゃないですか」
という雰囲気になって、世間話をしてそれが盛り上がって終わっていました。
「幼稚園の先生は大げさなんだよ」
くらいに思っていてのんびりどっしり構えていました。
しかしそうも言ってられなくなったことが起きたのです。 息子と一緒に風呂に入ると変なところに傷がある。よくよく聞いてみると友達にやられたと言っている。どうやら いじめを受けているようなのだ。幼稚園の先生も「いじめ」という言葉は使わないけれど、明らかに体に傷がついた 状態の場合、個別のトラブルを 報告してきます。おまけに、いじめっ子たちは、4月・5月・6月生まれでした。息子は3月26日生まれで大きなハンデがある上に、成長が遅いと来ている。
そうなってくると
「何の心配も無い」
と言えなくなってくるのです。
子供が生まれた時に真っ先に考えた「勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って、たくさんの友人に囲まれて幸せな人生を 送ってほしい」という考えは甘かったということになる。年配の幼稚園の先生は、
「嬬恋村では子供の数が少なくてクラス替えがないから、自分で強くなければだめ」
と言ってきたのですが、このアドバイスに納得した私は、息子に空手を習わせることにしました。で、スポーツ教室を探したわけですが、車で40分の距離にある『軽井沢風越公園』に空手のスポーツ教室があることを発見しました。そして『軽井沢風越公園』の主催事業である『空手と礼儀教室』に申し込みました。そして週1回の空手教室に通い出したのです。
「勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って欲しい」と考える親御さんは多いと思います。 しかし現実問題として、のびのびと育つためには、ある程度運動ができて勉強ができないといけない。そうしないと、 みんなからいじめられるから、のびのびと育てるという目標を達成できないのです。 勉強はある程度できないとダメだし、 運動もある程度できないと話にならない。 残酷のようなことだけれど、 それが厳しい現実というものでした。
息子とその友達と体育館で一緒に遊んだりするんですけれど、 私が「 みんなで かけっこ やろうか」と 子供たちに提案すると、みんな喜んで賛成するのだけれど、うちの息子だけが嫌がって参加しない。 なぜならば 一番足が遅いからです。それがわかってるから息子のやつは絶対に競争に参加しない。ひねくれて、ぼっちになってしまう。そんな状態で「のびのびと育つ」とは到底思えない。 ある程度運動ができて勉強ができないと、「のびのびと育つ」ことは無理なのだ。
一緒に風呂に入ってると、3歳になったばかりの息子は 涙ながらに「早く走れるようになる薬はないの?」と聞いてくる。幼稚園で肩身の狭い思いをしていることが これだけでよくわかる。私はもう一つ決意しました。 空手が強くなるだけでは問題は解決しない。 運動能力と 学習能力を高めないと 「のびのびと育つ」という目標に達成しないという冷酷な現実があった。
さいわい『軽井沢風越公園』には、プール・フットサル場・体育館もありましたから、そこに毎日のように通ってバケット・サッカー・水泳を教えました。毎日。往復2時間をかけて軽井沢に通ったわけです。送迎中 車内では、スポーツに関する映像作品を見せました。昔と違って今は、スポーツを上達するための素晴らしい映像作品がありますので、それをdvdに焼いて見せました。
うちの息子は、 非常識なくらい好奇心の強い子供だったので、 それらのビデオを熱心に見ていました。例えば E テレに、すイエんサーという科学番組があるのですが、その番組ではどうすればドッジボールで勝つことができるかということを 科学的に実験実証して見せたりします。明らかに運動能力に劣る子供達が、どうやったら 強敵に勝てるようになるかという番組。相手がボールを投げてきた時、 右によけた方が 生存確率が高いか、 左に避けた方が 生存確率が高いか、 そういうことを科学的に検証する番組(すイエんサー)があるわけで、そういう番組を積極的に見せたわけです。
しかしそこまでしても、運動能力は上達しないものです。 いや 上達はしてたのですが、3月生まれというハンデのために相手に追いつけない。息子をいじってくる人たちは、出席番号の最初の人たち。 つまり 4月生まれとか5月生まれなので、相手は1年近く年上。ちょっとやそっとの運動では追いつけない。特に4歳児は5歳児ぐらいの場合は圧倒的な体力差となっていて壁となっている。その壁がいじってくるわけですから始末に悪い。
これでよく登校拒否にならなかったものだなあと感心するわけですが、 息子は非常に好奇心が強いために、 幼稚園や小学校を嫌がることはありませんでした。ありがたいことに息子をかばってくれる女の子や、男の子がいたことも確かで、4歳とか5歳であるにも関わらず、ダメなことはダメと悪いことを注意する素晴らしい お子さんもたくさんいたようで、それに救われたということもあります。
とにかく息子の運動能力が平均値を超えるまで5年ぐらいはかかりました。一部の競技でトップを取るまでは、 それから何年かかかりました。 幼稚園の時は1回も飛べなかった 縄跳びも 小学2年生になる頃は、学年で2番目に長時間 飛べるようになっていましたし、小学3年生の頃にはマラソン大会で2位をとる までになりました。スキーやスケートでもたくさんのメダルを確保しましたし、 スカイランと言う登山マラソンでも毎年上位に入るようになりました。こうなると息子のやつもスポーツが楽しくなるらしく、何かスポーツの大会があると必ず参加したものです。
ちなみに 息子のやつは、 嬬恋村の空手教室・ キックボクシング教室にも通っています。つまり 2つの空手教室に通っていたわけですが、空手には色々な 流派があって 指導の仕方が全く違うわけです。 軽井沢の空手教室は、空手を教えるというよりも 運動させることがメインでした。 とにかく子供に遊びをさせることによって走り回させるのです。 空手を教えるというよりも遊びながら体を鍛える というスタイルです。だから 空手をやってる時間よりも室内サッカーをやってる時間の方が長かった。
嬬恋村の空手教室は、それとは全く違っていわゆる武道を教えてました。礼儀作法とか、精神に重点を置いた 教え方で、空手の方も基本をじっくり教える感じです。いわゆる正統派な教え方でした。これは軽井沢の教え方とは全く違っていました。
不思議なことに、 これはスケートでも同じことが言えて、軽井沢のスケートのスポーツ教室では、 スケートを教えるというよりも 遊びながら 運動させることがメインだったのに対して、 嬬恋村の小学校のスケート部では、スケートを基礎からきっちり 教えるということを実践していました。
嬬恋村の小学校のスケート部では、5つのクラスに分かれていて、 各自のレベルに合わせて教わる内容が違っていたのに対して、 軽井沢のスポーツ教室の場合は、小学生から中学生まで、ほとんど クラス分けがなくて みんなで一緒に滑ってるという感じです。
個人的な感想を言うと、軽井沢と嬬恋村ではゴールが違っている気がする。軽井沢のスポーツ教室では遠くを目指してる。スケートとか空手にこだわってない。子供たちの体力とやる気をあげることに 中心を置いている感じがします。それに対して嬬恋村では、 空手の上達・ スケートの上達を目指してる。 どっちがいいとか悪いとかいうことではなくて、ゴールが違ってるんだ と思います。
話がそれました。
一旦、話を戻します。
私が何を言いたかったかというと、子供に
「のびのびと育って欲しい」
と願う場合、ある程度運動ができて勉強ができないといけない。そうしないと、いじめられる可能性がある。そして、ある程度運動ができるようになる方法があるということであり、あるていど勉強ができる方法もある。決して不可能では無いということです。
つづく
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2025年03月21日
スポーツ教室について語ってみる その1
今日小学生である 息子の最後の授業が終わりました。あとは 卒業式だけです。というわけで、もう遠慮もいらないと思いますので、なんやかんだで今まで言えなかったことをブログで書くことにします。
小学生時代を通じて 一度 息子は非常に運が良かったと思います。 まず第一に時代に恵まれたこと。それによって色々な体験ができたことです。 今回はその中の一つであるスポーツ教室について少しばかり話しておこうと思います。
うちのお客さんは90%以上が 小さなお子さん連れのお父さんお母さんです。私のブログを読まれる方も そういう方々が大半だと思いますので、 子供がスポーツ教室に通う意義というか、 スポーツ教室とは何であったかということを 私なりの視点から 解説してみたいと思います。というのも、近いうちに全国の小中学校から部活動が消えてしまうからです。
もちろん中学校の全国大会も無くなってしまう。つまり「エースをねらえ」みたいなアニメがもう作られなくなってしまう。「ウォーターボーイ」や「スイングガール」みたいな映画が作られなくなってしまうわけです。全国の小中学校から部活動が消えてしまうわけです。そうなると残るは民間がやってるスポーツクラブしか無い。では、民間のスポーツクラブ・スポーツ教室とは、いったいどういうものだろうか?ということになります。

あれは今から25年前の話です。
25年前に私は北軽井沢で宿屋を始めたわけですが、その時に不思議な現象が起きていました。 夏になると巨大なカメラバッグを持った、 どう見ても プロのカメラマンにしか見えない人たちがうちの宿に泊まりに来るのです。
最初は風景か何かを撮影しに来たのかな と思ったんですが、 どうもそうではないらしい。私もカメラ関係の仕事をしたことがあるので覚えがあるのですが、風景写真家というのは、ものすごい早朝に出かけたり、 雨が降ると一日中 部屋にじっとしていたりするんですが、彼らは規則正しい時間に出かけて 規則正しい時間に帰ってきた。 雨が降っても 台風になっても出発して、定時に帰ってくる。 何か変だなあと思っていたら、 スポーツ教室の専属カメラマンでした。
そうなんです。 スポーツ教室には専属カメラマンがいたりする。ここが小中学校の部活動と全く違うところです。 お子さんを幼稚園 または小学校に入学させると、学校側はカメラに関して非常に ナーバスになります。
うちの息子が幼稚園に入園した時、桜の花があまりにも綺麗だったのでその写真を撮っていたら、園長先生が真っ赤になって走ってきて怒鳴られたことがありました。勝手に子供たちの写真を撮るなというのです。私は桜の花を取っていたと言い返したら謝るどころか「紛らわしいことはするな」と怒鳴られて去って行きました。その時はずいぶん非常識な人たちだなぁと思ったんですが、幼稚園の先生にはそういう人たちが多少なりともいて、とにかく写真に対して神経質だったのです。
これが小学校になると、そこまで神経質ではありませんが、 やはり 似たようなところはあります。
例えば 修学旅行ではカメラの持ち込みが禁止されています。学校から供与されるカメラでしか撮影できません。撮影する場合は全員の集合写真しか許されていません。もちろんスマホの持ち込みも禁止されています。要するに 幼稚園も小学校も写真撮影に対して かなり神経質になっているということだけは知っておいて良いかと思います。
ここまで書くと 私が何を言いたいか分かりますよね。 そうです。子供たちの写真をとても重視しているスポーツ教室のことです。全てのスポーツ教室に専属カメラマンがいるわけではありませんが、 スポーツ教室に入ると子供たちが熱心に スポーツしている姿や、 遊んでいる姿の記録写真が大量に残ります。コーチが息子を撮影してラインで送ってくれたりするのです。
話は変わりますが、 うちの宿の近所にゴミを捨てに行くと、ゴミ捨て場のそばに大きなキャンプ場がありました。キャンプ場と言っても、テントの設営をする キャンプ場ではなくて、ほぼ豪華別荘に近いロッジが何軒も立ち並んでいる豪華なキャンプ場です。安っぽい キャンプ場ではありません。農園付きの豪華なキャンプ場です。なのに不思議なことに、お客さんが入ってる様子がないのです。 もちろん 夏には子供たちの団体さんがいっぱい入っていますが、 それだけです。 ファミリーも入ってなければ ライダーさんが入ってる様子もない。子供たちの団体さんしか入ってない キャンプ場が、 森の中の一等地にドカンとあるわけです。
「こんなんで儲かってるのかな?」
「どう考えても赤字だよな?」
と常々思っていたのですが、私の勘違いでした。 そのキャンプ場は、某少年スポーツクラブの子供たちの夏期合宿に使われる 施設だったのです。つまり私の宿に泊まってみた カメラマンというのは、このキャンプ場に泊まりに来る スポーツクラブの写真を撮りに来たカメラマンだったわけです。
最初は、高いお金を払って夏の合宿に専属カメラマンを雇って子供たちの写真をバシバシ取るなんて、一体どんな金持ち対象のスポーツクラブなんだろうと思ったわけですが、そうではなかった。そのスポーツクラブは金持ちの子供が対象ではなかった。
「 一体これはどういうことなんだろう?」
と当時の私は不思議がっていましたが、今なら分かります。 子供達が元気に遊んでる姿や、自然体験をしてる姿や、 飯ごうすいさんをしている姿の写真が大量に手に入るわけですから、親としては スポーツクラブ ほど ありがたいものはありません。 学校に通わせてるだけでは そういった写真は手に入らないのです。 しかも プロのカメラマンの撮る写真ですから、 その映像の素晴らしいこと 素晴らしいこと。
実はうちの宿に泊る プロのカメラマンさんにこっそり写真を見せてもらったのですが、 やはり プロが取るだけあって素晴らしい写真ばかりでした。 みんな いきいきとしてる。 しかも デジタルデータ なので、何枚でも取れちゃう。 初日に A 君の写真がちょっと足りないなぁと思ったら、2日目に A 君の写真をちょっと多めに撮ったりもできる。 b 君はなかなかな 笑わないなと思ったら B 君の笑顔なんとか見つけ出して写真に撮ったりする。繁盛しているスポーツ教室というのは、プロのカメラマンを雇って、そういうことをするわけです。だからスポーツクラブはFacebook や Instagram に子供たちの画像や動画が じゃんじゃんアップされています。 ここが商売を目的としていない幼稚園や小学校と大きく違うところです。

あと スポーツ教室に通う子供たちの 親御さんの多くが サービス業 だったりする。大金持ちの親が子供をスポーツクラブに入れているわけでは無い。むしろ逆で、貧乏ひまなしで子供にかまってやれない親御さんが、子供をスポーツクラブに入れている。
例えば 宿屋の息子だったり、スーパーやデパートに勤める人の娘だったり、親が床屋さんだったり、 飲食業だったりする。彼らは決して裕福ではないのですが、その裕福でない親御さんたちが子供たちを スポーツ教室に通わせたりする。 どうしてかというと 日曜 祝祭日に仕事を休めない。夏休みに休んで家族旅行に出かけられない人たちだからです。
「 家族でディズニーランドに行ってきた」
とか
「家族で海外旅行に行ってきた」
という体験を子供たちにしてあげられない人たちなんですね。
そういう親御さんにとっては、林間学校に連れて行ってくれたり夏の合宿に連れて行ってくれるスポーツ教室が、神様みたいに見えます。これって、サービス業をやっている人間にとっては、とてもありがたいものなのです。親の代わりに旅行に連れて行ってくれる。こんなにありがたいことは無い。それに、いくらスポーツ教室の月謝が高いと言っても、家族でディズニーランドに行くより滅茶苦茶安い。子供の成長と健康によいし、新しい友達ができる。世界が広がるのです。
(うちの息子は軽井沢スケートクラブで毎年1週間の夏期合宿をしたり、わざわざ新潟まで出かけて砂浜特訓をしたりしまた。ゴミ拾いや林業体験。長野テレビにでたり、マラソン大会、登山なんかを楽しみました。しかも中学3年生から小学1年生という幅広い子供たちとともにです)

もちろん、うちの息子もスポーツ教室に通っていました。 最初は小学校のスケート部に入ってたのですが、 途中からスポーツ教室に変えました。 変えたはいいのですが、 そのスポーツ教室は 隣県にあったので隣県の大会参加基準を満たしてなかったりしていたので、小学校の スケート部を完全にやめることはできませんでした。それについても後で語ってみようと思います。
ではスポーツ教室というのはどういう存在なのでしょうか?
うちの息子は、合計5つのスポーツ教室を体験しました。
それについて述べてみたいと思いますが、文章が長くなったので 続きは明日にします。
つづく
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小学生時代を通じて 一度 息子は非常に運が良かったと思います。 まず第一に時代に恵まれたこと。それによって色々な体験ができたことです。 今回はその中の一つであるスポーツ教室について少しばかり話しておこうと思います。
うちのお客さんは90%以上が 小さなお子さん連れのお父さんお母さんです。私のブログを読まれる方も そういう方々が大半だと思いますので、 子供がスポーツ教室に通う意義というか、 スポーツ教室とは何であったかということを 私なりの視点から 解説してみたいと思います。というのも、近いうちに全国の小中学校から部活動が消えてしまうからです。
もちろん中学校の全国大会も無くなってしまう。つまり「エースをねらえ」みたいなアニメがもう作られなくなってしまう。「ウォーターボーイ」や「スイングガール」みたいな映画が作られなくなってしまうわけです。全国の小中学校から部活動が消えてしまうわけです。そうなると残るは民間がやってるスポーツクラブしか無い。では、民間のスポーツクラブ・スポーツ教室とは、いったいどういうものだろうか?ということになります。
あれは今から25年前の話です。
25年前に私は北軽井沢で宿屋を始めたわけですが、その時に不思議な現象が起きていました。 夏になると巨大なカメラバッグを持った、 どう見ても プロのカメラマンにしか見えない人たちがうちの宿に泊まりに来るのです。
最初は風景か何かを撮影しに来たのかな と思ったんですが、 どうもそうではないらしい。私もカメラ関係の仕事をしたことがあるので覚えがあるのですが、風景写真家というのは、ものすごい早朝に出かけたり、 雨が降ると一日中 部屋にじっとしていたりするんですが、彼らは規則正しい時間に出かけて 規則正しい時間に帰ってきた。 雨が降っても 台風になっても出発して、定時に帰ってくる。 何か変だなあと思っていたら、 スポーツ教室の専属カメラマンでした。
そうなんです。 スポーツ教室には専属カメラマンがいたりする。ここが小中学校の部活動と全く違うところです。 お子さんを幼稚園 または小学校に入学させると、学校側はカメラに関して非常に ナーバスになります。
うちの息子が幼稚園に入園した時、桜の花があまりにも綺麗だったのでその写真を撮っていたら、園長先生が真っ赤になって走ってきて怒鳴られたことがありました。勝手に子供たちの写真を撮るなというのです。私は桜の花を取っていたと言い返したら謝るどころか「紛らわしいことはするな」と怒鳴られて去って行きました。その時はずいぶん非常識な人たちだなぁと思ったんですが、幼稚園の先生にはそういう人たちが多少なりともいて、とにかく写真に対して神経質だったのです。
これが小学校になると、そこまで神経質ではありませんが、 やはり 似たようなところはあります。
例えば 修学旅行ではカメラの持ち込みが禁止されています。学校から供与されるカメラでしか撮影できません。撮影する場合は全員の集合写真しか許されていません。もちろんスマホの持ち込みも禁止されています。要するに 幼稚園も小学校も写真撮影に対して かなり神経質になっているということだけは知っておいて良いかと思います。
ここまで書くと 私が何を言いたいか分かりますよね。 そうです。子供たちの写真をとても重視しているスポーツ教室のことです。全てのスポーツ教室に専属カメラマンがいるわけではありませんが、 スポーツ教室に入ると子供たちが熱心に スポーツしている姿や、 遊んでいる姿の記録写真が大量に残ります。コーチが息子を撮影してラインで送ってくれたりするのです。
話は変わりますが、 うちの宿の近所にゴミを捨てに行くと、ゴミ捨て場のそばに大きなキャンプ場がありました。キャンプ場と言っても、テントの設営をする キャンプ場ではなくて、ほぼ豪華別荘に近いロッジが何軒も立ち並んでいる豪華なキャンプ場です。安っぽい キャンプ場ではありません。農園付きの豪華なキャンプ場です。なのに不思議なことに、お客さんが入ってる様子がないのです。 もちろん 夏には子供たちの団体さんがいっぱい入っていますが、 それだけです。 ファミリーも入ってなければ ライダーさんが入ってる様子もない。子供たちの団体さんしか入ってない キャンプ場が、 森の中の一等地にドカンとあるわけです。
「こんなんで儲かってるのかな?」
「どう考えても赤字だよな?」
と常々思っていたのですが、私の勘違いでした。 そのキャンプ場は、某少年スポーツクラブの子供たちの夏期合宿に使われる 施設だったのです。つまり私の宿に泊まってみた カメラマンというのは、このキャンプ場に泊まりに来る スポーツクラブの写真を撮りに来たカメラマンだったわけです。
最初は、高いお金を払って夏の合宿に専属カメラマンを雇って子供たちの写真をバシバシ取るなんて、一体どんな金持ち対象のスポーツクラブなんだろうと思ったわけですが、そうではなかった。そのスポーツクラブは金持ちの子供が対象ではなかった。
「 一体これはどういうことなんだろう?」
と当時の私は不思議がっていましたが、今なら分かります。 子供達が元気に遊んでる姿や、自然体験をしてる姿や、 飯ごうすいさんをしている姿の写真が大量に手に入るわけですから、親としては スポーツクラブ ほど ありがたいものはありません。 学校に通わせてるだけでは そういった写真は手に入らないのです。 しかも プロのカメラマンの撮る写真ですから、 その映像の素晴らしいこと 素晴らしいこと。
実はうちの宿に泊る プロのカメラマンさんにこっそり写真を見せてもらったのですが、 やはり プロが取るだけあって素晴らしい写真ばかりでした。 みんな いきいきとしてる。 しかも デジタルデータ なので、何枚でも取れちゃう。 初日に A 君の写真がちょっと足りないなぁと思ったら、2日目に A 君の写真をちょっと多めに撮ったりもできる。 b 君はなかなかな 笑わないなと思ったら B 君の笑顔なんとか見つけ出して写真に撮ったりする。繁盛しているスポーツ教室というのは、プロのカメラマンを雇って、そういうことをするわけです。だからスポーツクラブはFacebook や Instagram に子供たちの画像や動画が じゃんじゃんアップされています。 ここが商売を目的としていない幼稚園や小学校と大きく違うところです。
あと スポーツ教室に通う子供たちの 親御さんの多くが サービス業 だったりする。大金持ちの親が子供をスポーツクラブに入れているわけでは無い。むしろ逆で、貧乏ひまなしで子供にかまってやれない親御さんが、子供をスポーツクラブに入れている。
例えば 宿屋の息子だったり、スーパーやデパートに勤める人の娘だったり、親が床屋さんだったり、 飲食業だったりする。彼らは決して裕福ではないのですが、その裕福でない親御さんたちが子供たちを スポーツ教室に通わせたりする。 どうしてかというと 日曜 祝祭日に仕事を休めない。夏休みに休んで家族旅行に出かけられない人たちだからです。
「 家族でディズニーランドに行ってきた」
とか
「家族で海外旅行に行ってきた」
という体験を子供たちにしてあげられない人たちなんですね。
そういう親御さんにとっては、林間学校に連れて行ってくれたり夏の合宿に連れて行ってくれるスポーツ教室が、神様みたいに見えます。これって、サービス業をやっている人間にとっては、とてもありがたいものなのです。親の代わりに旅行に連れて行ってくれる。こんなにありがたいことは無い。それに、いくらスポーツ教室の月謝が高いと言っても、家族でディズニーランドに行くより滅茶苦茶安い。子供の成長と健康によいし、新しい友達ができる。世界が広がるのです。
(うちの息子は軽井沢スケートクラブで毎年1週間の夏期合宿をしたり、わざわざ新潟まで出かけて砂浜特訓をしたりしまた。ゴミ拾いや林業体験。長野テレビにでたり、マラソン大会、登山なんかを楽しみました。しかも中学3年生から小学1年生という幅広い子供たちとともにです)
もちろん、うちの息子もスポーツ教室に通っていました。 最初は小学校のスケート部に入ってたのですが、 途中からスポーツ教室に変えました。 変えたはいいのですが、 そのスポーツ教室は 隣県にあったので隣県の大会参加基準を満たしてなかったりしていたので、小学校の スケート部を完全にやめることはできませんでした。それについても後で語ってみようと思います。
ではスポーツ教室というのはどういう存在なのでしょうか?
うちの息子は、合計5つのスポーツ教室を体験しました。
それについて述べてみたいと思いますが、文章が長くなったので 続きは明日にします。
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2025年01月14日
2025年01月06日
さきほど父(91歳)が亡くなりました。今後は年賀状を、やめます。
さきほど父が亡くなりました。
91歳の大往生でした。
誤嚥性肺炎(食べ物が気管に入って感染する肺炎)とパーキンソン症状をともなう認知症が原因で、半年前から何度も倒れるなどの症状がありましたが、内科の医師(インターン)に診断を御願いしても大したことがないと言われてしまい入院を断られ症状が悪化してしました。仕方が無いので脳神経外科の先生(大ベテラン)に連れて行ってはじめて精密検査をしていただくことになり、病気を認定してしまったしだいです。まあ、いろいろありましたが、ほぼ老衰が原因ということのようです。1年前に母が亡くなったことでパーキンソン症状をともなう認知症が発病したのではかいかと推測しています。
なにしろ頑固でしっかり者の昭和一ケタの人間ですから、超やせ我慢の男で、しかも私生活がきっちりしており、介護認定を受けようとしても、元気すぎるとして中々認定されない状態だった。ヘルパーさんの前や、客人の前では、やせ我慢をしてシャキッとしていたので、なかなか病状が伝わりにくかったようです。一人で失神していたことが何度もあったことを入院の時に白状しています。
父(佐藤正)は、15歳にして父(私の祖父)を癌で失い、遺産争いで負けて学校を退学し、祖母とともに3人の兄弟姉妹の生活の面倒を見る生活をおくりました。15歳で3人の弟妹の保護者となったわけです。といっても就職先はないため、同情してくれた人から小舟を借りて釣をし、それをさばいて干物にし、祖母が行商に出かけて生計をたてていたようです。
こうして弟妹を自立させ後は、佐渡金沢村の正法寺に養子として入り、磯西を名乗り、母と見合い結婚し、警察予備隊の第1期生として入隊しました。それが航空自衛隊に発展するわけですが、佐渡金北に設置したレーダー基地で働いていました。当初の上官は米軍だったようで、昔の写真にはアメリカ軍の軍人たちと仲良く写っています。
このレーダー基地は、第二次大戦中に米軍が使っていたもので、信じられないことですが戦後30年たった昭和50年まで現役でした。昭和50年頃になると戦前設計のレーダーの部品も入手困難となり、最新式の3次元レーダーに変更されました。つまり、その頃まで自衛隊は真空管と格闘していたわけで、修理やメンテに忙しかったようです。真空管はすぐに切れますから。
そのせいか私の父は、電子関係にかなり詳しかったものです。書斎には「ラジオ技術」なとの専門誌がズラリとならんでいました。なので隣近所で故障したテレビ・ラジオ・扇風機・冷蔵庫などの電化製品の修理をジャンジャンやってました。電気工事もたいていのことはやってました。家を改築するときは、業者が行った雑な電気配線を自分で治したりしていました。父の階級は、私が小学校に入学する前にすでに下士官最高位の一曹でした。恐ろしいほど速い出世をしていますが、よほど修理のスキルが高かったと思われます。
しかし家電製品にLSIが入り込むと、それらの修理を一切やらなくなり、かわりにパソコンに熱中するようになります。定年退職後は、LSI工場に17年間勤め惜しまれつつも70歳で退社。その後は、佐渡女子高校で守衛として高校が廃校になるまで働きました。その後は。畑を借りて家庭菜園に精を出します。いわゆる働きムシというやつで、働いてないと死んじゃうタイプの人で、とにかく我慢強く自立心のたかい人でした。
部屋は整理整頓してないと気が済まないタイプで、母が散らかした部屋を常に整理してまわった人間で、教員だった母のもちこみ残業(テストの採点)を常に手伝っていたのは良い想い出です。とにかく動いてないと気が済まないタイプで、夏の間だけ別館のペンションを手伝ってもらったことがあったのですが、その時が、人生で1番いきいきしていたような気がします。自衛隊やLSI工場なんかより、一国一城の自営業の方が向いていた気がしました。

(私が生まれた佐渡・正法寺・保育所が隣接されている)
ちなみに磯西から佐藤に名前を変更して、正法寺から脱出した理由は、異母兄のところで厄介になっている祖母を引き取るためでした。そのために正法寺の養子を解消し、磯西から佐藤にもどしたのです。
兄弟姉妹を一人前にしたあとに残された父の課題は、異母兄のところで肩身を小さくしている実母をひきとることでしたが、それを自分の妻(つまり私の母)に黙って行ったために、祖母と母と父の間には、微妙な空気が流れていました。しかし、母には反対はできませんでした。黙って従うしかなかった。弟が生まれたからです。
祖母がいなければ、母は教師をやめて家庭に入るしかなかった。母の勤め先は、佐渡島でも僻地で有名な外海府であり、そこには託児所も幼稚園も無かったからです。おまけに当時は、出産後2ヶ月で職業に復帰しなければならなかった。
さらに新潟大地震があった。ショックで母の母乳はとまり、生後1ヶ月の弟は、ミルク缶のお世話にならざるえなくなりますが、そのミルク缶の入手が地震で困難になりました。地震で一番不足するのはミルク缶ですが、それはショックで母乳が出なくなるからです。そこで祖母の活躍がはじまります。私は、祖母と父と暮らすことになり、母は生後2ヶ月の弟を連れて佐渡島の僻地に単身赴任しました。
母は、単身赴任先で下宿していました。そこで私は3歳9ヶ月になるまで育っていました。下宿先には男はいませんでした。未亡人と耳の聞こえない娘さんの二人きりでした。そこに近所の婆さまたちが、たむろしていて、いわゆる女ばかりの環境の中で生活していました。そこには男がいなかった。
つまり幼少の頃の私は、父親という存在が、この世に存在することが、わかってなかった。3歳9ヶ月まで父親という存在を知らなかった。そもそも日常生活の中に男がいなかった。そんな世界から、厳格な父親と、口うるさい祖母のいる世界にぽつりと置き去りにされてしまった。

父の躾は厳しかった。
いきなり児童虐待の世界に放り込まれてしまった。
箸の身持ち方が悪いと、物差しで叩かれた。それでもなおらないと天井裏に閉じ込められた。これが条件反射として15歳くらいまで体にしみつきました。誰かが手をあげるたびに『びくっ』とクビをすくめるようになった。背後に誰かが迫ると恐怖のあまり激怒した。しかし昭和時代には、そういう家庭が少なくなかった。
そんな環境下で私はSF小説に熱中した。当時は、NHK少年ドラマシリーズが流行していて『時をかける少女』が大ブームだった。タイムリープ(時間旅行)の話である。で、私には、タイムリープ(時間旅行)の体験があった。だから本気でタイムリープ(時間旅行)の能力が私にあると信じ込んでいた。
しかし、その体験は、単なる記憶の欠落であったことに18歳の頃に指摘されて気がつき、専門医の診察をうけました。3日くらい隔離入院されましたが、短期記憶に多少の問題があるが、生活するにあたっては問題なしということになりました。今で言う学習障害みたいなもので、ひとさまよりもものわすれが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われました。
日記をつけると、書いた覚えのない日記が存在することがわかり、タイムリープ(時間旅行)の体験は、単なる記憶の欠落であったことがわかり、その現実に落ち込みました。ちなみにこの障害は、息子にも遺伝しているらしく、やはり忘れ物がおおく、発達心理の先生から学習障害を疑われています。息子の学力は、昔で言うところのオール5にあたるし、知能検査をしても140の数値(これ以上は測定不能)を出しているのですが、専門家にいわせれば、あきらかに学習障害の可能性が高いらしい。
それはともかくとして、この障害のおかげで良いこともありました。医師から物忘れが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われ、それを実行すると文章力がアップして、人々から文章を賞賛されるようになりました。そこでいろんなコンクールに応募し、いろんな賞をいただくようになったのです。それを良いことにコンクールあらしをして賞金稼ぎでウハウハできるようになったりした。つまり障害も使いどころによっては、武器になるという典型例が私です。
まあ。そんなことは、どうでも良いとして、父は厳格できびしかった。実は、母もかなり躾に厳しかったのですが、厳しさの方向性が全く違っていたのは興味ふかいところです。母は、やたらとぎょうぎょうしい挨拶にこだわっていた。そのかわりに箸の持ち方などは、きにしてなかった。父は箸の持ちかたとか、食事の仕方、勉強とかに細かくこだわった。人間を一つの型にはめるスタイルで、軍隊式というか、すごいスパルタ教育を父は行った。母が拘ったのは、礼儀と挨拶を大げさに徹底させるだけ。あとは自然にまかせるスタイルだった。寝る前に正座して三つ指をついて
「◇◇さん、◆◆さん、おやすみなさいませ」
と無茶な挨拶を2歳児3歳児にさせるけれど、その他の細かいことは、比較的自由だった。父と母では、あきらかに教育スタイルがちがっていた。
私は、唯一、しっかりと母に厳しく教育されていたために田舎の老婆たちに可愛がられた。昭和の田舎では、礼儀正しさのある幼児は非常に可愛がられました。ところが父には、そういう礼儀正しさに関する教育の発想がなかった。それよりも食事マナーや、勉強や、整理整頓や、こまごまなことに激怒して何度も殴られた。泣くことも許されなかった。倒れて泣いたら怒鳴られたし、何度も殴られた。あれは人間を一つの型枠にはめようとする軍隊式の教育だった気がします。
そのためか母は、自分なりの教育をやめてしまった。父があまりに厳しいスパルタだったために自分の拘りを放棄してしまった。だから2人の弟たちは、母は優しい人だと勘違いしていますが、本来は違っています。両方とも厳しいひとなのですが、父のキャラが強すぎるから、自分本来のキャラを消してしまったのです。つまり父と母とで役割分担していたのだと思う。なんだかんだと言って良い夫婦だったのかもしれません。
その良い夫婦が、別れ別れになったのが、1年9ヶ月前です。
母が死んだ。
父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。
あれは、3番目の弟が生まれる前の話です。父と母は、よく喧嘩していました。喧嘩の理由は、母が散らかすということから始まっていました。それに対して父は激怒しながら掃除して整理整頓していきました。父はよく
「いらんものが多すぎる」
「整理整頓できないならモノを買うな」
と怒鳴りながら掃除していました。母は、華麗にスルーしつつ散らかしました。しかし、母にも言い分はありました。仕事をしていたからです。採点をしたり、がり版をつくったり、カット(挿絵)を書く練習をしていた。コピーもパソコンもない当時の教師の仕事はたいへんだったのです。
しかし、父親の言い分もよくわかる。私の母は、いらんものをよく買った。そしてモノが増えていった。そしてモノが増えるごとに家が狭くなり、父のイライラは増した。父は整理整頓ができてないと許せない性分だったのです。結局、家を増築することによって、この問題は解決することになりますが、あれから50年。実家はどんどん増築されてゆき、ものはドンドン増えていきました。母が死んだときは、家の一部がゴミ屋敷になっていました。ものであふれかえっていたのです。
父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。
結局、大半の形見を捨てることになった。
捨てる時に母の愚痴を思い出した。
父の無駄使いのことである。
父は庭に150万の松の木を植えたのだが、
「あんなものに150万払うなんて馬鹿みたいだ」
と母は怒っていました。父が何十万もするボート(船)を買ったときも母は
「馬鹿みたいだ」
と怒っていましたが、
「博打もやらないし、酒にも飲まれないし、まあ、いいんじゃない」
と言ったことがある。
この時、夫婦の趣味が違うと、うまくいかないなあと思ったものです。
なので私は、趣味を同じくした人と結婚しています。
つづく
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91歳の大往生でした。
誤嚥性肺炎(食べ物が気管に入って感染する肺炎)とパーキンソン症状をともなう認知症が原因で、半年前から何度も倒れるなどの症状がありましたが、内科の医師(インターン)に診断を御願いしても大したことがないと言われてしまい入院を断られ症状が悪化してしました。仕方が無いので脳神経外科の先生(大ベテラン)に連れて行ってはじめて精密検査をしていただくことになり、病気を認定してしまったしだいです。まあ、いろいろありましたが、ほぼ老衰が原因ということのようです。1年前に母が亡くなったことでパーキンソン症状をともなう認知症が発病したのではかいかと推測しています。
なにしろ頑固でしっかり者の昭和一ケタの人間ですから、超やせ我慢の男で、しかも私生活がきっちりしており、介護認定を受けようとしても、元気すぎるとして中々認定されない状態だった。ヘルパーさんの前や、客人の前では、やせ我慢をしてシャキッとしていたので、なかなか病状が伝わりにくかったようです。一人で失神していたことが何度もあったことを入院の時に白状しています。
父(佐藤正)は、15歳にして父(私の祖父)を癌で失い、遺産争いで負けて学校を退学し、祖母とともに3人の兄弟姉妹の生活の面倒を見る生活をおくりました。15歳で3人の弟妹の保護者となったわけです。といっても就職先はないため、同情してくれた人から小舟を借りて釣をし、それをさばいて干物にし、祖母が行商に出かけて生計をたてていたようです。
こうして弟妹を自立させ後は、佐渡金沢村の正法寺に養子として入り、磯西を名乗り、母と見合い結婚し、警察予備隊の第1期生として入隊しました。それが航空自衛隊に発展するわけですが、佐渡金北に設置したレーダー基地で働いていました。当初の上官は米軍だったようで、昔の写真にはアメリカ軍の軍人たちと仲良く写っています。
このレーダー基地は、第二次大戦中に米軍が使っていたもので、信じられないことですが戦後30年たった昭和50年まで現役でした。昭和50年頃になると戦前設計のレーダーの部品も入手困難となり、最新式の3次元レーダーに変更されました。つまり、その頃まで自衛隊は真空管と格闘していたわけで、修理やメンテに忙しかったようです。真空管はすぐに切れますから。
そのせいか私の父は、電子関係にかなり詳しかったものです。書斎には「ラジオ技術」なとの専門誌がズラリとならんでいました。なので隣近所で故障したテレビ・ラジオ・扇風機・冷蔵庫などの電化製品の修理をジャンジャンやってました。電気工事もたいていのことはやってました。家を改築するときは、業者が行った雑な電気配線を自分で治したりしていました。父の階級は、私が小学校に入学する前にすでに下士官最高位の一曹でした。恐ろしいほど速い出世をしていますが、よほど修理のスキルが高かったと思われます。
しかし家電製品にLSIが入り込むと、それらの修理を一切やらなくなり、かわりにパソコンに熱中するようになります。定年退職後は、LSI工場に17年間勤め惜しまれつつも70歳で退社。その後は、佐渡女子高校で守衛として高校が廃校になるまで働きました。その後は。畑を借りて家庭菜園に精を出します。いわゆる働きムシというやつで、働いてないと死んじゃうタイプの人で、とにかく我慢強く自立心のたかい人でした。
部屋は整理整頓してないと気が済まないタイプで、母が散らかした部屋を常に整理してまわった人間で、教員だった母のもちこみ残業(テストの採点)を常に手伝っていたのは良い想い出です。とにかく動いてないと気が済まないタイプで、夏の間だけ別館のペンションを手伝ってもらったことがあったのですが、その時が、人生で1番いきいきしていたような気がします。自衛隊やLSI工場なんかより、一国一城の自営業の方が向いていた気がしました。
(私が生まれた佐渡・正法寺・保育所が隣接されている)
ちなみに磯西から佐藤に名前を変更して、正法寺から脱出した理由は、異母兄のところで厄介になっている祖母を引き取るためでした。そのために正法寺の養子を解消し、磯西から佐藤にもどしたのです。
兄弟姉妹を一人前にしたあとに残された父の課題は、異母兄のところで肩身を小さくしている実母をひきとることでしたが、それを自分の妻(つまり私の母)に黙って行ったために、祖母と母と父の間には、微妙な空気が流れていました。しかし、母には反対はできませんでした。黙って従うしかなかった。弟が生まれたからです。
祖母がいなければ、母は教師をやめて家庭に入るしかなかった。母の勤め先は、佐渡島でも僻地で有名な外海府であり、そこには託児所も幼稚園も無かったからです。おまけに当時は、出産後2ヶ月で職業に復帰しなければならなかった。
さらに新潟大地震があった。ショックで母の母乳はとまり、生後1ヶ月の弟は、ミルク缶のお世話にならざるえなくなりますが、そのミルク缶の入手が地震で困難になりました。地震で一番不足するのはミルク缶ですが、それはショックで母乳が出なくなるからです。そこで祖母の活躍がはじまります。私は、祖母と父と暮らすことになり、母は生後2ヶ月の弟を連れて佐渡島の僻地に単身赴任しました。
母は、単身赴任先で下宿していました。そこで私は3歳9ヶ月になるまで育っていました。下宿先には男はいませんでした。未亡人と耳の聞こえない娘さんの二人きりでした。そこに近所の婆さまたちが、たむろしていて、いわゆる女ばかりの環境の中で生活していました。そこには男がいなかった。
つまり幼少の頃の私は、父親という存在が、この世に存在することが、わかってなかった。3歳9ヶ月まで父親という存在を知らなかった。そもそも日常生活の中に男がいなかった。そんな世界から、厳格な父親と、口うるさい祖母のいる世界にぽつりと置き去りにされてしまった。
父の躾は厳しかった。
いきなり児童虐待の世界に放り込まれてしまった。
箸の身持ち方が悪いと、物差しで叩かれた。それでもなおらないと天井裏に閉じ込められた。これが条件反射として15歳くらいまで体にしみつきました。誰かが手をあげるたびに『びくっ』とクビをすくめるようになった。背後に誰かが迫ると恐怖のあまり激怒した。しかし昭和時代には、そういう家庭が少なくなかった。
そんな環境下で私はSF小説に熱中した。当時は、NHK少年ドラマシリーズが流行していて『時をかける少女』が大ブームだった。タイムリープ(時間旅行)の話である。で、私には、タイムリープ(時間旅行)の体験があった。だから本気でタイムリープ(時間旅行)の能力が私にあると信じ込んでいた。
しかし、その体験は、単なる記憶の欠落であったことに18歳の頃に指摘されて気がつき、専門医の診察をうけました。3日くらい隔離入院されましたが、短期記憶に多少の問題があるが、生活するにあたっては問題なしということになりました。今で言う学習障害みたいなもので、ひとさまよりもものわすれが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われました。
日記をつけると、書いた覚えのない日記が存在することがわかり、タイムリープ(時間旅行)の体験は、単なる記憶の欠落であったことがわかり、その現実に落ち込みました。ちなみにこの障害は、息子にも遺伝しているらしく、やはり忘れ物がおおく、発達心理の先生から学習障害を疑われています。息子の学力は、昔で言うところのオール5にあたるし、知能検査をしても140の数値(これ以上は測定不能)を出しているのですが、専門家にいわせれば、あきらかに学習障害の可能性が高いらしい。
それはともかくとして、この障害のおかげで良いこともありました。医師から物忘れが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われ、それを実行すると文章力がアップして、人々から文章を賞賛されるようになりました。そこでいろんなコンクールに応募し、いろんな賞をいただくようになったのです。それを良いことにコンクールあらしをして賞金稼ぎでウハウハできるようになったりした。つまり障害も使いどころによっては、武器になるという典型例が私です。
まあ。そんなことは、どうでも良いとして、父は厳格できびしかった。実は、母もかなり躾に厳しかったのですが、厳しさの方向性が全く違っていたのは興味ふかいところです。母は、やたらとぎょうぎょうしい挨拶にこだわっていた。そのかわりに箸の持ち方などは、きにしてなかった。父は箸の持ちかたとか、食事の仕方、勉強とかに細かくこだわった。人間を一つの型にはめるスタイルで、軍隊式というか、すごいスパルタ教育を父は行った。母が拘ったのは、礼儀と挨拶を大げさに徹底させるだけ。あとは自然にまかせるスタイルだった。寝る前に正座して三つ指をついて
「◇◇さん、◆◆さん、おやすみなさいませ」
と無茶な挨拶を2歳児3歳児にさせるけれど、その他の細かいことは、比較的自由だった。父と母では、あきらかに教育スタイルがちがっていた。
私は、唯一、しっかりと母に厳しく教育されていたために田舎の老婆たちに可愛がられた。昭和の田舎では、礼儀正しさのある幼児は非常に可愛がられました。ところが父には、そういう礼儀正しさに関する教育の発想がなかった。それよりも食事マナーや、勉強や、整理整頓や、こまごまなことに激怒して何度も殴られた。泣くことも許されなかった。倒れて泣いたら怒鳴られたし、何度も殴られた。あれは人間を一つの型枠にはめようとする軍隊式の教育だった気がします。
そのためか母は、自分なりの教育をやめてしまった。父があまりに厳しいスパルタだったために自分の拘りを放棄してしまった。だから2人の弟たちは、母は優しい人だと勘違いしていますが、本来は違っています。両方とも厳しいひとなのですが、父のキャラが強すぎるから、自分本来のキャラを消してしまったのです。つまり父と母とで役割分担していたのだと思う。なんだかんだと言って良い夫婦だったのかもしれません。
その良い夫婦が、別れ別れになったのが、1年9ヶ月前です。
母が死んだ。
父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。
あれは、3番目の弟が生まれる前の話です。父と母は、よく喧嘩していました。喧嘩の理由は、母が散らかすということから始まっていました。それに対して父は激怒しながら掃除して整理整頓していきました。父はよく
「いらんものが多すぎる」
「整理整頓できないならモノを買うな」
と怒鳴りながら掃除していました。母は、華麗にスルーしつつ散らかしました。しかし、母にも言い分はありました。仕事をしていたからです。採点をしたり、がり版をつくったり、カット(挿絵)を書く練習をしていた。コピーもパソコンもない当時の教師の仕事はたいへんだったのです。
しかし、父親の言い分もよくわかる。私の母は、いらんものをよく買った。そしてモノが増えていった。そしてモノが増えるごとに家が狭くなり、父のイライラは増した。父は整理整頓ができてないと許せない性分だったのです。結局、家を増築することによって、この問題は解決することになりますが、あれから50年。実家はどんどん増築されてゆき、ものはドンドン増えていきました。母が死んだときは、家の一部がゴミ屋敷になっていました。ものであふれかえっていたのです。
父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。
結局、大半の形見を捨てることになった。
捨てる時に母の愚痴を思い出した。
父の無駄使いのことである。
父は庭に150万の松の木を植えたのだが、
「あんなものに150万払うなんて馬鹿みたいだ」
と母は怒っていました。父が何十万もするボート(船)を買ったときも母は
「馬鹿みたいだ」
と怒っていましたが、
「博打もやらないし、酒にも飲まれないし、まあ、いいんじゃない」
と言ったことがある。
この時、夫婦の趣味が違うと、うまくいかないなあと思ったものです。
なので私は、趣味を同じくした人と結婚しています。
つづく
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2024年12月23日
2024年06月20日
修学旅行の定番、枕投げは滅びてしまった?
息子が 修学旅行から帰ってきた。車で迎えに行ったら巨大な袋にたくさんのお土産を買ってやってきた。 お小遣いの上限が 7000円だったためか、ずっと雨に降られたためか、 お金を使う時間がなかったために、旅行の最後にドタバタとお金を使うハメになったらしい。 そのために最後の最後に大量のお土産を買うしかなかったようだ。
7000円の小遣い というのは、ちょっと多いように感じるが、実はそうでもない。この 7000円の中には、2回の昼食代と、神社仏閣の拝観料、移動のための電車賃。そして、その他もろもろの費用を含んでいるからだ。鎌倉は暑いだろうから水分補給のための料金も必要だろうし、 チャンスがあれば、けんちん汁や 抹茶をごちそうになったり、 お賽銭や 朱印帳の 費用を考えたら 7000円では足りないのではないかと 思っていた。
ちなみに息子の修学旅行は、班別の自由行動になっている。 5・6人の班で子供達だけで移動することになっている。先生がついてくるわけではない。しかも、GPS付きのキッズ携帯や、デジカメの持ち込みは禁止されている。おやつも持ち込んではいけないし、友達との交換も禁止されている。私の子供の頃とは、かなり違ったルールなのに驚いた。
なかでも面白かったのは、カメラのルールである。自分のカメラの持ち込みは禁止されていた。カメラは、学校から渡され、それしか使用してはいけない。そのうえ集合写真しか撮ってはいけないことになっている。風景写真も、誰か一人を撮影するのも禁止だ。
私の子供の頃は、カメラは高級品でそんなもの持っている子供はいなかった。だから先生が子供たちの写真をバチバチ撮っていた。それを現像したものを廊下にはりだして、各自が写真を注文し、それを先生が、焼き増しをして各自に配った。
先生は、子供たちのアップ写真を大量に撮影した。で、写真にやたらと写る子と、そうでない子がいた。カメラを向けると、だだーっと駆け寄ってくる子供もいれば、カメラから逃げる子供もいるからだ。私は逃げるほうだった。だから私の写真は、一枚もなかったはずだった。
ところが、そんな私を先生は、遠くから望遠レンズで狙って撮影した。それが偶然にも最高の画像となって焼き上がった。その結果、みんなが私が写った写真を競って注文するというハプニングまでおきた。私は、自分の写真に興味が無かったので買ってない。私が買ったのは風景写真だけである。それを先生と友達は不思議そうにしていた。
そんなことは、どうでもいいとして、息子のやつは修学旅行から帰ってすぐに寝た。旅行中、2時間しか寝てなかったらしい。二人部屋なのに寝られなかったそうだ。私が子供の頃は、100人の大部屋だった。枕投げもやったし、布団の引っぺがしもやったし、プロレスもした。ドリフターズの8時だよ全員集合を真似てコントもやった。先生には何度も怒鳴られたものだった。でも、ぐっすり寝れた。
それに対して息子は、プリンスホテルの豪華な二人部屋。にもかかわらず寝られなかった。友達と一晩中、しずかにお喋りしていたらしい。枕投げも無いし、布団の引っぺがしも無いし、プロレスも無い。コントもやってない。先生にも怒鳴られてない。女子風呂をのぞきに行って怒られることもない。なのに寝れなかったとは、それで良いのか?と思ったが、まあ、これが令和時代の修学旅行なのだろうなあ。
つづく
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7000円の小遣い というのは、ちょっと多いように感じるが、実はそうでもない。この 7000円の中には、2回の昼食代と、神社仏閣の拝観料、移動のための電車賃。そして、その他もろもろの費用を含んでいるからだ。鎌倉は暑いだろうから水分補給のための料金も必要だろうし、 チャンスがあれば、けんちん汁や 抹茶をごちそうになったり、 お賽銭や 朱印帳の 費用を考えたら 7000円では足りないのではないかと 思っていた。
ちなみに息子の修学旅行は、班別の自由行動になっている。 5・6人の班で子供達だけで移動することになっている。先生がついてくるわけではない。しかも、GPS付きのキッズ携帯や、デジカメの持ち込みは禁止されている。おやつも持ち込んではいけないし、友達との交換も禁止されている。私の子供の頃とは、かなり違ったルールなのに驚いた。
なかでも面白かったのは、カメラのルールである。自分のカメラの持ち込みは禁止されていた。カメラは、学校から渡され、それしか使用してはいけない。そのうえ集合写真しか撮ってはいけないことになっている。風景写真も、誰か一人を撮影するのも禁止だ。
私の子供の頃は、カメラは高級品でそんなもの持っている子供はいなかった。だから先生が子供たちの写真をバチバチ撮っていた。それを現像したものを廊下にはりだして、各自が写真を注文し、それを先生が、焼き増しをして各自に配った。
先生は、子供たちのアップ写真を大量に撮影した。で、写真にやたらと写る子と、そうでない子がいた。カメラを向けると、だだーっと駆け寄ってくる子供もいれば、カメラから逃げる子供もいるからだ。私は逃げるほうだった。だから私の写真は、一枚もなかったはずだった。
ところが、そんな私を先生は、遠くから望遠レンズで狙って撮影した。それが偶然にも最高の画像となって焼き上がった。その結果、みんなが私が写った写真を競って注文するというハプニングまでおきた。私は、自分の写真に興味が無かったので買ってない。私が買ったのは風景写真だけである。それを先生と友達は不思議そうにしていた。
そんなことは、どうでもいいとして、息子のやつは修学旅行から帰ってすぐに寝た。旅行中、2時間しか寝てなかったらしい。二人部屋なのに寝られなかったそうだ。私が子供の頃は、100人の大部屋だった。枕投げもやったし、布団の引っぺがしもやったし、プロレスもした。ドリフターズの8時だよ全員集合を真似てコントもやった。先生には何度も怒鳴られたものだった。でも、ぐっすり寝れた。
それに対して息子は、プリンスホテルの豪華な二人部屋。にもかかわらず寝られなかった。友達と一晩中、しずかにお喋りしていたらしい。枕投げも無いし、布団の引っぺがしも無いし、プロレスも無い。コントもやってない。先生にも怒鳴られてない。女子風呂をのぞきに行って怒られることもない。なのに寝れなかったとは、それで良いのか?と思ったが、まあ、これが令和時代の修学旅行なのだろうなあ。
つづく
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2024年06月19日
群馬県には水族館が無い?
今日は息子のやつは、 修学旅行 水族館に行ってるはずだ。信じられないことに 群馬県には 水族館がない。そのせいか私の嫁さんも含めて みんな 水族館が大好きだ。特にイルカのショーが好きらしくて、 これには目をキラキラさせて 眺める人が多い。
私は佐渡島 出身なのでイルカは特に珍しくはない。 佐渡島から新潟市につながる航路を 佐渡汽船で何回か乗ると、時々 イルカの大群に出会うことがある。 最初は一匹で出現する。それを見た瞬間、
「あれ?気のせいかな?」
「目の錯覚かな?」
と思うのだが、そのうち二匹くらいが海面から顔を出す。すると誰かが
「イルカだ!」
と叫び出す。その頃になると、イルカたちは、大群で現れて佐渡汽船をぐるりと囲んでいたりする。
佐渡汽船の速度は速い。その速い船を追い越すようにイルカたちは泳いでいくのだ。その泳ぎ方は魚の泳ぎとは違っている。魚雷のような感じで進んでいく。そしてピタッと止まって佐渡汽船を見上げたりする。
こういう光景は、佐渡汽船では、決して珍しくは無い情景である。それを何度か体験している私にとってイルカショーは、あまり興味のもてるものではないが、群馬県民にとっては、すごく楽しいショーになるのだと思う。
しかし誤解してはいけないが、日本海のイルカたちは、イルカショーのように跳んだりはねたりしない。イルカショーのようなイルカの姿は見たことがない。私の知ってる天然イルカのイメージは、魚雷のように進む姿と、100匹以上の大群で佐渡汽船を取り囲むイルカの群れたちである。
跳ぶというならトビウオだろう。
トビウオなら本当に跳ぶ。
佐渡汽船の甲板から何度も見たが、本当に跳ぶ。
いや、飛んでいる。
10メートルといったみみっちい距離では無い。
100メートルくらい飛ぶ。
へたしたら200メートルくらい飛んでしまうかもしれない。
しかもカモメなんかよりも滅茶苦茶はやい。
そのうえ佐渡汽船の舷側のそばをスーっと追い越して飛んでいく。
ものすごい速度で飛んでいくのだ。
まあ、そんなことは、どうでもいい。佐渡島民にとって、そういう光景は少しも珍しくないので、島民たちは船の甲板にあがらない。船が出航したら100円で借りてきた毛布にくるまって睡眠をとる人が大半だ。
しかし、私が小学校に入る前。つまり昭和40年頃の佐渡汽船では、そういうワケにはいかなかった。当時はカーフェリーではなかった。コンテナ船だった。そして船そのものが小さかったために、佐渡汽船に乗る乗客たちは、船室からあふれて甲板で縮こまって乗っていた。もちろん甲板に備え付け椅子にも座れない。だから持参した
ゴザを甲板に敷いて我慢した。
船室は、船室で地獄だった。あちこちにゲロを吐くためのアルマイトの桶が置いてあって、みんなゲーゲー吐いていた。その臭いが室内に充満して、つられてゲロを吐く人たちが続出した。それを嫌う人たちは甲板にゴザを敷いて我慢するのだが、甲板でも吐く人が続出する。吐く時は海に吐いた。そのせいか船の舷側には魚たちがけっこういたし、トビウオも飛んでいた。イルカたちも見かけたが、なんの感想もわかなかったことを覚えている。
当時の佐渡汽船は小さい船(コンテナ船)が多く、よく揺れた。
当時の庶民は、二等の切符を買い、二等船室に入るのだが、これがくせもので、当時の船のディーゼルエンジンの振動が凄くて、床がマッサージ機のように揺れていた。それを避けようと船の先頭にいくと、波の衝撃に震度4くらいの地震が続く客室だった。だから、御客さんは、みんなゲーゲー吐いたのだ。そして密閉された客室に、あの香りが充満する。だったら多少の海水を浴びても甲板でよい・・・ということになる。
そんな佐渡−新潟間を、幼少の頃の私は、母に連れられて何度も往復した。新潟には、母の親戚が大勢いたからだ。だからトビウオも、イルカも、カモメも、ブリ・マグロの大群も少しも珍しくなかった。
ちなみに昭和40年代の佐渡島の北側では、船のことを『トントン』と言った。焼き玉エンジンで動く漁師船ばかりで、トントントン・・・と動いたからだ。しかし昭和40年頃の佐渡汽船ときたら全く違っていた。だから佐渡汽船の船のことを島民は、『トントン』とは言わず、佐渡汽船とよんでいた。佐渡汽船と『トントン』は別物であったのだ。
ちなみに佐渡の南では、船のことを『トントン』とは言わなかった。『たらい船』といっていた。しかし、現在の佐渡では『たらい船』を『ハンギリ』というらしい。昔から『たらい船』のことを『ハンギリ』と言っていたと観光協会が強弁しているが、これはかぎりなく怪しい。そんな話は聞いたことが無い。私は、眉唾だと思っている。
『たらい船』こそは、佐渡小木地方独特の船だと思う。あれこそは、佐渡のオリジナルだろう。で、よくYouTubeなんかに『たらい船』の動画がアップされているが、あれは観光用の姿であって、実際に使われている『たらい船』は、ちょっと違ったりする。
本物のの『たらい船』には大きな竹竿を5本くらい尻尾に付けて船を安定させてある。で、小型のエンジンがついていたりするのだ。と言っても漁をする時は、エンジンは使わない。あくまでも手こぎで移動する。自宅から漁場に移動する長距離移動の時だけ、エンジンを使うのである。で、どうして『たらい』なのかというと、岩に潜んでいるサザエ・アワビ・タコを大量に捕るには、タライこそが最適だからだ。特にタコは金になるので、昔はタコ捕りの名人がいたら、求婚が殺到したという。
最後に誤解のないように言っておくが、現在の佐渡汽船の船は、カーフェリーであるために豪華客船のように静かで揺れない。だから快適な船旅ができることだけは言っておく。
つづく
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私は佐渡島 出身なのでイルカは特に珍しくはない。 佐渡島から新潟市につながる航路を 佐渡汽船で何回か乗ると、時々 イルカの大群に出会うことがある。 最初は一匹で出現する。それを見た瞬間、
「あれ?気のせいかな?」
「目の錯覚かな?」
と思うのだが、そのうち二匹くらいが海面から顔を出す。すると誰かが
「イルカだ!」
と叫び出す。その頃になると、イルカたちは、大群で現れて佐渡汽船をぐるりと囲んでいたりする。
佐渡汽船の速度は速い。その速い船を追い越すようにイルカたちは泳いでいくのだ。その泳ぎ方は魚の泳ぎとは違っている。魚雷のような感じで進んでいく。そしてピタッと止まって佐渡汽船を見上げたりする。
こういう光景は、佐渡汽船では、決して珍しくは無い情景である。それを何度か体験している私にとってイルカショーは、あまり興味のもてるものではないが、群馬県民にとっては、すごく楽しいショーになるのだと思う。
しかし誤解してはいけないが、日本海のイルカたちは、イルカショーのように跳んだりはねたりしない。イルカショーのようなイルカの姿は見たことがない。私の知ってる天然イルカのイメージは、魚雷のように進む姿と、100匹以上の大群で佐渡汽船を取り囲むイルカの群れたちである。
跳ぶというならトビウオだろう。
トビウオなら本当に跳ぶ。
佐渡汽船の甲板から何度も見たが、本当に跳ぶ。
いや、飛んでいる。
10メートルといったみみっちい距離では無い。
100メートルくらい飛ぶ。
へたしたら200メートルくらい飛んでしまうかもしれない。
しかもカモメなんかよりも滅茶苦茶はやい。
そのうえ佐渡汽船の舷側のそばをスーっと追い越して飛んでいく。
ものすごい速度で飛んでいくのだ。
まあ、そんなことは、どうでもいい。佐渡島民にとって、そういう光景は少しも珍しくないので、島民たちは船の甲板にあがらない。船が出航したら100円で借りてきた毛布にくるまって睡眠をとる人が大半だ。
しかし、私が小学校に入る前。つまり昭和40年頃の佐渡汽船では、そういうワケにはいかなかった。当時はカーフェリーではなかった。コンテナ船だった。そして船そのものが小さかったために、佐渡汽船に乗る乗客たちは、船室からあふれて甲板で縮こまって乗っていた。もちろん甲板に備え付け椅子にも座れない。だから持参した
ゴザを甲板に敷いて我慢した。
船室は、船室で地獄だった。あちこちにゲロを吐くためのアルマイトの桶が置いてあって、みんなゲーゲー吐いていた。その臭いが室内に充満して、つられてゲロを吐く人たちが続出した。それを嫌う人たちは甲板にゴザを敷いて我慢するのだが、甲板でも吐く人が続出する。吐く時は海に吐いた。そのせいか船の舷側には魚たちがけっこういたし、トビウオも飛んでいた。イルカたちも見かけたが、なんの感想もわかなかったことを覚えている。
当時の佐渡汽船は小さい船(コンテナ船)が多く、よく揺れた。
当時の庶民は、二等の切符を買い、二等船室に入るのだが、これがくせもので、当時の船のディーゼルエンジンの振動が凄くて、床がマッサージ機のように揺れていた。それを避けようと船の先頭にいくと、波の衝撃に震度4くらいの地震が続く客室だった。だから、御客さんは、みんなゲーゲー吐いたのだ。そして密閉された客室に、あの香りが充満する。だったら多少の海水を浴びても甲板でよい・・・ということになる。
そんな佐渡−新潟間を、幼少の頃の私は、母に連れられて何度も往復した。新潟には、母の親戚が大勢いたからだ。だからトビウオも、イルカも、カモメも、ブリ・マグロの大群も少しも珍しくなかった。
ちなみに昭和40年代の佐渡島の北側では、船のことを『トントン』と言った。焼き玉エンジンで動く漁師船ばかりで、トントントン・・・と動いたからだ。しかし昭和40年頃の佐渡汽船ときたら全く違っていた。だから佐渡汽船の船のことを島民は、『トントン』とは言わず、佐渡汽船とよんでいた。佐渡汽船と『トントン』は別物であったのだ。
ちなみに佐渡の南では、船のことを『トントン』とは言わなかった。『たらい船』といっていた。しかし、現在の佐渡では『たらい船』を『ハンギリ』というらしい。昔から『たらい船』のことを『ハンギリ』と言っていたと観光協会が強弁しているが、これはかぎりなく怪しい。そんな話は聞いたことが無い。私は、眉唾だと思っている。
『たらい船』こそは、佐渡小木地方独特の船だと思う。あれこそは、佐渡のオリジナルだろう。で、よくYouTubeなんかに『たらい船』の動画がアップされているが、あれは観光用の姿であって、実際に使われている『たらい船』は、ちょっと違ったりする。
本物のの『たらい船』には大きな竹竿を5本くらい尻尾に付けて船を安定させてある。で、小型のエンジンがついていたりするのだ。と言っても漁をする時は、エンジンは使わない。あくまでも手こぎで移動する。自宅から漁場に移動する長距離移動の時だけ、エンジンを使うのである。で、どうして『たらい』なのかというと、岩に潜んでいるサザエ・アワビ・タコを大量に捕るには、タライこそが最適だからだ。特にタコは金になるので、昔はタコ捕りの名人がいたら、求婚が殺到したという。
最後に誤解のないように言っておくが、現在の佐渡汽船の船は、カーフェリーであるために豪華客船のように静かで揺れない。だから快適な船旅ができることだけは言っておく。
つづく
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息子の修学旅行
今日は、 小学6年生となった息子が 修学旅行に出かけている。
場所は 鎌倉。 建長寺と鶴岡八幡宮と 源頼朝の墓と大仏を 自由行動で見学をすることになっている。
まあ 無難なチョイスかもしれない。
そこで事前に息子に 見学先のことを詳しく説明しておいた。
まず建長寺の説明をした。
建長寺というのは 禅宗のお寺である。
鎌倉には禅宗のお寺がいっぱいあるけれど、その理由を説明しておいた。
鎌倉時代の武士たちはある悩みを持っていた。 それは自分たち武士が戦いによって殺生することによって極楽に行けないのではないかという悩みである。 その悩みに対して明確な回答を示したのが、 禅であった。禅をすることによって仏になれるという理論は、武士たちにとって強烈な救いになったのだ。 なにしろ人を殺しても仏になれるというのだ。武士にとって、これほどありがたい宗派はない。しかも、ここから剣禅一如という言葉さえ生まれるくらいである。
これを説明すると 息子は多いに唸った。武士たちが戦争という戦いに受ける 殺生に悩んでいたということに衝撃を受けたようだった。 なぜ 衝撃を受けたか、その理由はわかる。薄っぺらな歴史の教科書には、武士たちの悩みなど書いてないからだ。 しかし今も昔も人々は普通に悩むのである。 だから 大きな 宗教施設が世界中に存在するのだ。
ちなみに 建長寺が、けんちん汁の本場だということも教えて、せっかく建長寺に行くのだから、みんなで、けんちん汁を食べたらどうだろうと提案したが、 息子は悲しそうに首を振った。 おそらく 小遣いが限られているためにそういう贅沢はできないのだろうと察した。
建長寺には、 抹茶やお菓子も食べられるコーナーがあったと記憶している。 確か 500円だったと思うのだが、 これも息子の 少ない小遣いでは、 体験することは不可能だろう。 第一、 単独行動が許されないわけだから、一人 抹茶を飲むという体験も難しいかもしれない。
本当なら、本場のけんちん汁を食べてもらいたいし、抹茶を作法によって体験してもらいたい。それは修学旅行では無理だろうというのは理解している。

と、ここまで書いて、 私の小学校時代(昭和48年)の修学旅行を思い出した。 私は佐渡島に生まれて そこで育ったのだが、 小学校の修学旅行は新潟市だった。当時も自由行動の時間はあったが、それはデパート内に限られていた。 そして 当時の小学生の小遣いは、上限が1000円と決められていた。当然のことながら1000円では大したものは買えない。観光地の土産物の温泉饅頭の価格は、当時でも500円していた。つまり物価は今と大差が無いのである。
そういうわけで デパートの中をウロウロしながら、何一つ買えるものがない私たち子供たちは、恨めしそうにデパートの商品を眺めて歩いていた。1000円という上限を決めておいてデパートでウロウロさせる当時の教師の非常識な計画の犠牲者となった子供たちは、何も買えずにショーケースのまえを眺めるしかなかった。私も恨めしそうに 定価 1000円の組み立て式ラジオを見つめていると、 どこかの小学校の修学旅行生が、 定価 1000円の組み立て式ラジオをガンガン買っていた。
彼らは3000円の小遣いをもらっていた。
よくよく聞いてみたら、私と同じ 佐渡島の小学校の修学旅行生だった。
同じ佐渡島民であるにもかかわらず、私の小学校は小遣いの上限が1000円で、彼らの小学校は3000円だった。
この差は天地ほどにも大きかった。
彼らは何でも買えるが、1000円しかもってない私たちは何も買えない。
どうしてそんなに差があったかというと、 3000円の小遣いをもらっていた子供達の学校が超田舎の小学校だった 。彼らは滅多に佐渡島の外に出る機会がないので、 PTA の 強い圧力で小遣いの上限が大幅にアップされていたのである。どうしてそんなことを知ってるかと言うと、私の母親がその小学校の教師だったからである。
で、 偶然にも 私の目の前に私の母親が登場した。
何という偶然だろうか。
そして私が定価 1000円の組み立て式ラジオを買おうかどうか悩んでいることを知った母親は、なんと そのラジオを 買ってくれたのであった。
昭和48年頃の家電製品は、総じて高額であった。 ラジオなんかも1万円以上していた。ただし 例外があって、 組み立てラジオだけは安かったのだ。理由は、物品税がかからなかったからである。昔は消費税というものはなくてその代わりに 物品税 というのがあった。家電製品には30%ぐらいの税金がかかっていたので、 安く手に入れるためには 組み立て式を買うしかなかったのである。 組み立て式 ならば、部品しか入ってないので 物品税がかかってなかったのだ。
そして修学旅行で手に入れた小さなラジオは、私の宝物となった。組み立て式というのがよかった。実家にはラジオ工具がそろっていたので、組み立ては簡単にできた。そして組み立てに熱中した私は、通信販売であらゆる部品を買いあさって、テスターや照度計なんかを作ってはよろこんでいた。当時はネットバンキングなんかなかったので、代金は切手を郵送して支払った。切手だと5パーセント高かったが、小学生の私には、それしか支払う方法が無かった。
話がそれた。
息子の修学旅行のことである。
息子は 建長寺の次は 源頼朝の墓に行くと言った。その後に 鶴岡八幡宮に行くらしい。 そこで 見学のポイントを教えることにした。 源頼朝の墓を見るポイントは墓の大きさである。鎌倉幕府を開いたほどの大物であるのに関わらず、お墓がやたらと小さいのだ。
逆に鶴岡八幡宮はかなり巨大である。 八幡宮といえば 応神天皇を祀っている神社である。 まあ、 応神天皇の、お墓みたいなものだ。もちろん応神天皇陵という巨大な古墳も 大阪方面にある。日本で2番目に大きい古墳である。 エジプトのピラミッドよりもはるかにでかい。 それに比べて 源頼朝の墓 は 何と小さいことか。 ここが 見学のポイントである。
どうしてそんなに小さいのか? 江戸幕府を作った徳川家康の墓に至っては、もっと 巨大なのにも関わらず頼朝の墓は やたらと小さい。 その理由は平家物語を読むとわかる。「源氏と平家」という言葉を理解すればよくわかるのだ。
平家というのは、平の清盛の一族のことを言う。
平氏とは イコールではないのだ。
平氏の中のごく一部の一族を平家というのだ。
では源家という言葉はあるだろうか?
実はないのだ。
源氏はあっても源家という言葉はない。
源頼朝の一族一派というものは存在しないのである。
つまり頼朝の直接の家来というのは、ほぼいないにも等しい。
鎌倉武士団というのは、源氏もいれば平氏もいる。そもそも北条政子からして平氏である。つまり頼朝とは、鎌倉武士団とって単なる神輿みたいなものであって、強力な権力があったわけではなかった。だからお墓が小さいのだ。だから頼朝は、義経を殺さざるを得なかった。そうしないと鎌倉武士団を制御できなかった。頼朝は、ぎりぎりのところの神輿にのっかっていたのである。
この辺を息子は上手にお友達に 解説できたであろうか?
この後に 鶴岡八幡宮に行ってるはずなのだが、この八幡宮 というのは 戦いの神様としてもてはやされていた。何しろ 応神天皇のおじいさんが、ヤマトタケルなのだ。うちの息子はヤマトタケルから、名前を頂いている。結果として佐藤タケルになってしまったが、別に某俳優とは 何ら関係がない。そもそも息子が生まれる頃まで、我が家にはテレビの電波が届かなかった。そんな名前の俳優が、世の中に存在すること自体、 私も嫁さんも全く知らなかったのだ。
まあ、そんなことはどうでも良い。
その後は鎌倉の大仏にいっているらしい。鎌倉の大仏は奈良の大仏と比較するとよくわかる。奈良の大仏が阿弥陀如来像なのに対して、鎌倉の大仏はしっかり座禅を組んでいる。極楽浄土に救いを求めるための奈良の大仏と違って、しっかり座禅をしている姿が、いかにも 鎌倉っぽくて清々しいのが特徴である。まあこの辺は、奈良を旅して両者を比較しないとよくわからないかもしれないが。
息子のやつは今頃、 ホテルでグースか寝てるのだろうか?
明日は、 水族館をみるらしい。
海無し県の群馬では、修学旅行での水族館は欠かせないものらしい。
嫁さんが羨ましがっていた。
つづく
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場所は 鎌倉。 建長寺と鶴岡八幡宮と 源頼朝の墓と大仏を 自由行動で見学をすることになっている。
まあ 無難なチョイスかもしれない。
そこで事前に息子に 見学先のことを詳しく説明しておいた。
まず建長寺の説明をした。
建長寺というのは 禅宗のお寺である。
鎌倉には禅宗のお寺がいっぱいあるけれど、その理由を説明しておいた。
鎌倉時代の武士たちはある悩みを持っていた。 それは自分たち武士が戦いによって殺生することによって極楽に行けないのではないかという悩みである。 その悩みに対して明確な回答を示したのが、 禅であった。禅をすることによって仏になれるという理論は、武士たちにとって強烈な救いになったのだ。 なにしろ人を殺しても仏になれるというのだ。武士にとって、これほどありがたい宗派はない。しかも、ここから剣禅一如という言葉さえ生まれるくらいである。
これを説明すると 息子は多いに唸った。武士たちが戦争という戦いに受ける 殺生に悩んでいたということに衝撃を受けたようだった。 なぜ 衝撃を受けたか、その理由はわかる。薄っぺらな歴史の教科書には、武士たちの悩みなど書いてないからだ。 しかし今も昔も人々は普通に悩むのである。 だから 大きな 宗教施設が世界中に存在するのだ。
ちなみに 建長寺が、けんちん汁の本場だということも教えて、せっかく建長寺に行くのだから、みんなで、けんちん汁を食べたらどうだろうと提案したが、 息子は悲しそうに首を振った。 おそらく 小遣いが限られているためにそういう贅沢はできないのだろうと察した。
建長寺には、 抹茶やお菓子も食べられるコーナーがあったと記憶している。 確か 500円だったと思うのだが、 これも息子の 少ない小遣いでは、 体験することは不可能だろう。 第一、 単独行動が許されないわけだから、一人 抹茶を飲むという体験も難しいかもしれない。
本当なら、本場のけんちん汁を食べてもらいたいし、抹茶を作法によって体験してもらいたい。それは修学旅行では無理だろうというのは理解している。
と、ここまで書いて、 私の小学校時代(昭和48年)の修学旅行を思い出した。 私は佐渡島に生まれて そこで育ったのだが、 小学校の修学旅行は新潟市だった。当時も自由行動の時間はあったが、それはデパート内に限られていた。 そして 当時の小学生の小遣いは、上限が1000円と決められていた。当然のことながら1000円では大したものは買えない。観光地の土産物の温泉饅頭の価格は、当時でも500円していた。つまり物価は今と大差が無いのである。
そういうわけで デパートの中をウロウロしながら、何一つ買えるものがない私たち子供たちは、恨めしそうにデパートの商品を眺めて歩いていた。1000円という上限を決めておいてデパートでウロウロさせる当時の教師の非常識な計画の犠牲者となった子供たちは、何も買えずにショーケースのまえを眺めるしかなかった。私も恨めしそうに 定価 1000円の組み立て式ラジオを見つめていると、 どこかの小学校の修学旅行生が、 定価 1000円の組み立て式ラジオをガンガン買っていた。
彼らは3000円の小遣いをもらっていた。
よくよく聞いてみたら、私と同じ 佐渡島の小学校の修学旅行生だった。
同じ佐渡島民であるにもかかわらず、私の小学校は小遣いの上限が1000円で、彼らの小学校は3000円だった。
この差は天地ほどにも大きかった。
彼らは何でも買えるが、1000円しかもってない私たちは何も買えない。
どうしてそんなに差があったかというと、 3000円の小遣いをもらっていた子供達の学校が超田舎の小学校だった 。彼らは滅多に佐渡島の外に出る機会がないので、 PTA の 強い圧力で小遣いの上限が大幅にアップされていたのである。どうしてそんなことを知ってるかと言うと、私の母親がその小学校の教師だったからである。
で、 偶然にも 私の目の前に私の母親が登場した。
何という偶然だろうか。
そして私が定価 1000円の組み立て式ラジオを買おうかどうか悩んでいることを知った母親は、なんと そのラジオを 買ってくれたのであった。
昭和48年頃の家電製品は、総じて高額であった。 ラジオなんかも1万円以上していた。ただし 例外があって、 組み立てラジオだけは安かったのだ。理由は、物品税がかからなかったからである。昔は消費税というものはなくてその代わりに 物品税 というのがあった。家電製品には30%ぐらいの税金がかかっていたので、 安く手に入れるためには 組み立て式を買うしかなかったのである。 組み立て式 ならば、部品しか入ってないので 物品税がかかってなかったのだ。
そして修学旅行で手に入れた小さなラジオは、私の宝物となった。組み立て式というのがよかった。実家にはラジオ工具がそろっていたので、組み立ては簡単にできた。そして組み立てに熱中した私は、通信販売であらゆる部品を買いあさって、テスターや照度計なんかを作ってはよろこんでいた。当時はネットバンキングなんかなかったので、代金は切手を郵送して支払った。切手だと5パーセント高かったが、小学生の私には、それしか支払う方法が無かった。
話がそれた。
息子の修学旅行のことである。
息子は 建長寺の次は 源頼朝の墓に行くと言った。その後に 鶴岡八幡宮に行くらしい。 そこで 見学のポイントを教えることにした。 源頼朝の墓を見るポイントは墓の大きさである。鎌倉幕府を開いたほどの大物であるのに関わらず、お墓がやたらと小さいのだ。
逆に鶴岡八幡宮はかなり巨大である。 八幡宮といえば 応神天皇を祀っている神社である。 まあ、 応神天皇の、お墓みたいなものだ。もちろん応神天皇陵という巨大な古墳も 大阪方面にある。日本で2番目に大きい古墳である。 エジプトのピラミッドよりもはるかにでかい。 それに比べて 源頼朝の墓 は 何と小さいことか。 ここが 見学のポイントである。
どうしてそんなに小さいのか? 江戸幕府を作った徳川家康の墓に至っては、もっと 巨大なのにも関わらず頼朝の墓は やたらと小さい。 その理由は平家物語を読むとわかる。「源氏と平家」という言葉を理解すればよくわかるのだ。
平家というのは、平の清盛の一族のことを言う。
平氏とは イコールではないのだ。
平氏の中のごく一部の一族を平家というのだ。
では源家という言葉はあるだろうか?
実はないのだ。
源氏はあっても源家という言葉はない。
源頼朝の一族一派というものは存在しないのである。
つまり頼朝の直接の家来というのは、ほぼいないにも等しい。
鎌倉武士団というのは、源氏もいれば平氏もいる。そもそも北条政子からして平氏である。つまり頼朝とは、鎌倉武士団とって単なる神輿みたいなものであって、強力な権力があったわけではなかった。だからお墓が小さいのだ。だから頼朝は、義経を殺さざるを得なかった。そうしないと鎌倉武士団を制御できなかった。頼朝は、ぎりぎりのところの神輿にのっかっていたのである。
この辺を息子は上手にお友達に 解説できたであろうか?
この後に 鶴岡八幡宮に行ってるはずなのだが、この八幡宮 というのは 戦いの神様としてもてはやされていた。何しろ 応神天皇のおじいさんが、ヤマトタケルなのだ。うちの息子はヤマトタケルから、名前を頂いている。結果として佐藤タケルになってしまったが、別に某俳優とは 何ら関係がない。そもそも息子が生まれる頃まで、我が家にはテレビの電波が届かなかった。そんな名前の俳優が、世の中に存在すること自体、 私も嫁さんも全く知らなかったのだ。
まあ、そんなことはどうでも良い。
その後は鎌倉の大仏にいっているらしい。鎌倉の大仏は奈良の大仏と比較するとよくわかる。奈良の大仏が阿弥陀如来像なのに対して、鎌倉の大仏はしっかり座禅を組んでいる。極楽浄土に救いを求めるための奈良の大仏と違って、しっかり座禅をしている姿が、いかにも 鎌倉っぽくて清々しいのが特徴である。まあこの辺は、奈良を旅して両者を比較しないとよくわからないかもしれないが。
息子のやつは今頃、 ホテルでグースか寝てるのだろうか?
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海無し県の群馬では、修学旅行での水族館は欠かせないものらしい。
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2024年01月16日
盟友 土井健次氏の葬式について
14日の午前2時17分に北軽井沢ブルーベリーYGHのスタッフでもあり、30年来の親友であった土井健次君が、お亡くなりました。

お通夜は、1月19日金曜日の18時から行います。
告別式.葬儀は、1月20日土曜日の10時45分から12時になります。
家族葬なので定員も限られており、席も殆どありません。
なので、奥さんと相談の上、簡単な御焼香だけ参加させていただくことになりました。
友人関係の香典は、新生活香典(3000円前後)スタイルとし、精進落としも、香典反しも無しということにさせていただきました。
ただし、『風のたより』と佐藤家だけは、長年の付き合いもありましたので、それなりの金額をつつむ予定です。
ちなみに佐藤家(私)が、参加できるのは、1月19日金曜日の18時から行うお通夜だけです。残念ながら土曜日の告別式・葬式の時は、宿の方に御客様がいるために、参加できません。なのでお通夜に参加した後は、日帰りで帰ります。無念です。
ちなみに、お通夜の手順は、約30分ほど僧侶による読経が行われ、途中で参列者によるお焼香が始まります。お焼香は「喪主→遺族→親族→弔問客」と故人と関係が深い順に行います。この時に御親族の邪魔にならぬように、御焼香が始まるまで外で待機しているのがマナーかなと私は思っていますが、いかがでしょうか?
これは1月20日土曜日の10時45分から12時に行われる葬式・告別式も一緒かなあと思います。家族葬なので、御家族の邪魔にならぬように、外で待機し、御焼香の時に参列させていただく形が無難だと思います。
場所は、与野駅 セレモニー与野ホール
https://www.sougi.info/saitama/saitama-shi/yonohall
〒338-0002 埼玉県さいたま市中央区下落合1064
JR与野駅西口 駅前(与野本町駅より 通夜・無料送迎車運行)
※運行状況はお問い合わせください。運行していない場合もございます。
駐車場 約30台
電話番号 0120-27-8825

あと、これは私の個人的な希望なのですが、土井君の思い出を綴った文集・写真集を『風のたより』で出版するつもりでいます。みなさんの思いでなどがありましたら、佐藤まで届けてくれるとありがたいです。あと、過去に土井君が執筆した文章も採録する予定です。写真や動画も希望者に配布するつもりです。時間はかかるかと思いますが、皆様、御協力のほど宜しくお願いいたします。なお、残された遺族に関しては、今後とも全力で支援してゆきたいと思っています。
つづく
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お通夜は、1月19日金曜日の18時から行います。
告別式.葬儀は、1月20日土曜日の10時45分から12時になります。
家族葬なので定員も限られており、席も殆どありません。
なので、奥さんと相談の上、簡単な御焼香だけ参加させていただくことになりました。
友人関係の香典は、新生活香典(3000円前後)スタイルとし、精進落としも、香典反しも無しということにさせていただきました。
ただし、『風のたより』と佐藤家だけは、長年の付き合いもありましたので、それなりの金額をつつむ予定です。
ちなみに佐藤家(私)が、参加できるのは、1月19日金曜日の18時から行うお通夜だけです。残念ながら土曜日の告別式・葬式の時は、宿の方に御客様がいるために、参加できません。なのでお通夜に参加した後は、日帰りで帰ります。無念です。
ちなみに、お通夜の手順は、約30分ほど僧侶による読経が行われ、途中で参列者によるお焼香が始まります。お焼香は「喪主→遺族→親族→弔問客」と故人と関係が深い順に行います。この時に御親族の邪魔にならぬように、御焼香が始まるまで外で待機しているのがマナーかなと私は思っていますが、いかがでしょうか?
これは1月20日土曜日の10時45分から12時に行われる葬式・告別式も一緒かなあと思います。家族葬なので、御家族の邪魔にならぬように、外で待機し、御焼香の時に参列させていただく形が無難だと思います。
場所は、与野駅 セレモニー与野ホール
https://www.sougi.info/saitama/saitama-shi/yonohall
〒338-0002 埼玉県さいたま市中央区下落合1064
JR与野駅西口 駅前(与野本町駅より 通夜・無料送迎車運行)
※運行状況はお問い合わせください。運行していない場合もございます。
駐車場 約30台
電話番号 0120-27-8825
あと、これは私の個人的な希望なのですが、土井君の思い出を綴った文集・写真集を『風のたより』で出版するつもりでいます。みなさんの思いでなどがありましたら、佐藤まで届けてくれるとありがたいです。あと、過去に土井君が執筆した文章も採録する予定です。写真や動画も希望者に配布するつもりです。時間はかかるかと思いますが、皆様、御協力のほど宜しくお願いいたします。なお、残された遺族に関しては、今後とも全力で支援してゆきたいと思っています。
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2024年01月15日
母の思い出 その6
私が三歳九ヶ月になった時、母が妊娠して弟が生まれたことは、すでに述べた。母は生まれたばかりの弟をつれて佐渡島外海府の漁村に向かい、私は祖母と父と生活することになったことも、すでに述べた。

父親は厳格なために些細なことで物置に閉じ込められ、箸の持ち方一つで良く殴られた。優しい子守に囲まれた生活とは真逆な生活だった。祖母も酷く口うるさい人だったので、三歳までの子守時代とは全く違う環境で毎日不安なまま暮らしていた。子守時代とは天地ほど違う環境だった。
それ以前は、子守に可愛がられた。子守と言っても腰の曲がって杖で歩く老婆なので、二歳から三歳くらいの男の子の方が速く走れる。逃げようと思えば逃げられるが、そういう気持ちは全くなく、むしろ老婆の後を追いかけることの方が多かった。いわゆる後追いとい現象である。
母親に対する後追いとは少しばかり違って、農作業や干芋造りなんかを、じーっと見つめては、時々手伝ったりした。そして御褒美に干し芋をいただいて、うまの美味しさに驚いたりした。
子守といっても、四六時中子供の面倒をみているわけではなく、いろんな作業をしながら合間に世話をするのが子守のパターンである。片手間に仕事をしていた方が、子守をしやすかったのかもしれないし、元来、子守とは、そういうものだったのかもしれない。
幼少期から体が大きく、ジャイアント馬場的な存在で、その巨体うえに、おんぶしながら作業ができなかったということもあっただろう。だから私は、子守におんぶされたことがなかった。いつも子守とともに地べたを歩いて移動した。そして子守たちの片手間の作業をじーっと見て育っていた。そして、作業を手伝いたがった。
母の下宿先では、農作業の合間に洋服の仕立てをしていた。当時は、電気アイロンなどはなく、鉄のアイロンを炭に熱して、指で温度調節しながらアイロンがけをしていた。私はじーっと、それを観察した上で自分でやってみようと思い、自分の顔にアイロンをあてて大火傷したこともあった。
とにかく、周りを観察して、それをやってみようと思って一緒に作業していた。それが、かなりの労働だったようで、昼寝になると私はアッという間に寝てしまった。寝ることによって、ますます身長が伸びたことは言うまでもない。
こうして私は。三歳九ヶ月まで子守たちに可愛がられた。僻地なのに、店が何も無いのに、昭和三十年代に、いったいどこから手配したのか、どういうわけかクリスマスケーキがでてきた。当時としては貴重なホールケーキに対して、私は恐る恐る「どれ食べて良いの?」と聞いたものだった。私の母親は、そこまで甘やかさなかった。
子守たちと分かれてからも、子守の老婆たちは、遠くから私を訪ねてやってきた。何度も遊びにきては、帰り際に泣いてお別れしました。別れ際には必ず
「お父さんの言うことを聞いて、お利口にするんだよ」
と泣きながら帰って行った。子守されていた時には、絶対に言わなかった台詞を言った。それほど可愛がられ。そういう環境から、厳格な父親と口うるさい祖母の元に預けられた。
環境が一変すると、私は放置子ぽくなる。近所の老婆のところに勝手に遊びに行くようになる。知らず知らず以前の環境を求めてのことだったかもしれない。ご近所の人も、さぞかし驚いたことだろうが、不思議なことに私は、近所の見知らぬ老婆たちに可愛がられた。誘拐犯がいたら、いとも簡単に誘拐されたと思っている。
ただ、実家のあった佐渡島の都会(?)には、佐渡の僻地と違うところがあった。保育園があったのである。そして生まれて初めて保育園に入ることになる。
それまでは、別に何か教育されるわけでもなく、プログラムに沿って進行されるわけでもなかった。親と違って子守には強く怒られないので、子守たちの生活習慣が、すんなりと私の中に入ってきた。そして作業を手伝ったりした。干芋を並べたり、仏壇に一緒にお供えしたりした。
ところが厳格な父と暮らすようになると、多くのダメ出しを食らうために、何に対しても拒絶反応が出てきた。いたずら書きをして強く怒られれば、書くことに拒絶反応が起きる。これが絵を画いたり、字を書くことに対しても、拒絶する心理状態になってくる。
これは人間に限らず、どんな生物にもそのような反応がある。そういう反応がなければ、アッという間に天敵に殺されてしまうからである。親が子供に必要以上に強く怒れば、子供は自らの生命保存のために学習して、拒絶の心理が働いてしまう。
幼児が危険な階段を上がろうとしたところを見つけて、それを必要以上に強く怒ってしまうと、それがトラウマとなって高所恐怖症になったりする。それをみこして武家社会では、子供に対して強く叱らない躾をしていたと言われている。もちろん武士なので躾に厳しかったことは確かなのだが、強くは怒らない。
むしろ子供に対してもっぱら暴力的に躾たのは農民階級の方だったといわれている。農民は臆病でも問題ないし、むしろその方が、自己保存のために良い場合もあったのかもしれない。
まあ、そんなことはどうでもいいとして、これだけ環境が変わって、戸惑うと脳に非常に悪い影響が出てもおかしくないのだが、歯止めになったのが、保育園だったかもしれない。保育園が環境の変化を和らげるクッションのような役割があったような気がする。
現在では、どうなっているか分からないが、昔の保育園では、あまり教育的なことはしてなくて、のんびりしていた。運動会・遠足といった行事も無く、それが私にとっては良かった。そのせいかその保育園でおきたことは記憶に残ってる。記憶の法則によると嫌なことは忘れる傾向があるのに対し楽しいことは忘れないという。
この法則は私だけに当てはまったのではなかった。一年後、私は引っ越して、別の保育園に入り、最初の保育園の友達と別れた。それから十二年後に、小学校の合併で彼らと再会するわけですが、お互いに年少組の頃のことを覚えていた。
ところが幼稚園出身だった嫁さんに
「幼稚園時代のことを覚えてる?」
と聞いても全く覚えてないという。
嫁さんは、保育所でも託児所てもなく、幼稚園(二年制)出身だった。幼稚園だから授業もあったかもしれない。そのうえ午前中で帰宅なので友達との縁も薄かったかもしれない。
そのうえ嫁さんの家庭環境が良かった。近所に親戚がいっぱいして、従姉妹どうしで仲良く遊んぶという感じだったらしい。その思い出話は、よく聞かされる。家内にとって楽しいのは、幼稚園では無く家族と大勢の親戚たちだった。
それはともかくとして、母・子守たちと離れて、父・祖母と生活することによって、私にとっては地獄のような毎日が始まるのだが、そんな時に、佐渡島外海府の漁村から私の子守だった老婆や下宿のおばさんたちが、遠方からわざわざ私の顔を見にやってきた。
そして何泊か滞在したあとに、何かを察して、帰り際にボロボロ涙を流しながら
「いいかい、お父さんの言うことを聞いて、おりこうにしているんだよ。お父さんのことを良く聞くんだよ」
と帰って行った。当時の私は、子守の老婆に対して一歳に満たない弟の子守はしなくてよかったのだろうか?と不思議な気持ちで、その言葉を聞いていたものだった。
で、子守の婆さまも、下宿のおばさんも、何度も何度もやってきた。当時は、バスを使って一日がかりでやってきては、私に会いに来て、一泊して帰っていった。
帰った先には、母と小さな弟がいる。生まれたばかりの弟の方が、よほど可愛がいだろうに、何度も私に会いに来た理由は、乳幼児の頃にしつけられた、あの大げさな礼法と無関係でなかったと思う。

そして一年後。
母の単身赴任は終わり、家族そろって一緒に生活するようになると別の問題がおきた。私に対する教育方法をめぐって夫婦喧嘩が絶えなくなった。あと、嫁・姑の問題も出てくるが、それについては後述する。父・母・祖母の三人が、それぞれ全く違う教育をする上に、その愚痴を公言するものだから、子供の頃の私は大変だった。
おまけに私は、厳格な父に何度も家を追い出された。追い出された後は、あちこちを放浪し、それを母と祖母が大声で探し求めるものだから、私の家は、近所でも有名な家になった。
三軒隣に、NHKテレビによく出演していた有名な植物学者がいたが、私が夜中に放浪していると、自転車で追いかけてきた。とは言うものの、私とは距離をとって関わろうとしなかった。遠くから。そっと見守るだけで、私が探しにきた母に見つかるまで見守っていた。私が母や祖母に探し出されると、そっと自転車で去っていった。思えば、変な時代だったように思う。
こうして何年かたつわけだが、その間にも、下宿のおばさんや、子守の老婆は、相変わらず私に会いに来た。そして帰り気際に必ず
「お父さんの言うことを聞いて、おりこうにしているんだよ。お父さんのことを良く聞くんだよ」
と涙ながらに帰って行くのだった。
やがて何年かたって、母の教え子だった小学生が青年になり、自動車免許をとるようになると、軽トラでやってくるようになった。幼児の頃の私の頭をナデナデしてくれた小学生が、たくましくなって颯爽とやってきた。
そして人さらいのように
「外海府に遊びにこないか?」
と誘ってくるのだ。
両親の許可をとって大喜びで私は出かけた。弟は、一緒ではなかった。私だけだった。そして外海府の漁村に到着すると、みんなが出迎えてくれた。それは幸せな瞬間だったが、そこで何日が生活していると、突如として私の中に不安がやってくる。
外海府の下宿のおばさんや、子守の婆さまたちが、
「うちの子供にならないか?」
とささやいてくるのだ。すると私の心の底から無性に。不安や寂しさが込み上げてきて、なんともいえない悲しい気持ちになり、実家に帰りたくなった。

宮本常一という有名な民俗学者は、このように言っている。
「海府の人たちは、冬には雪で閉じ込められてしまうので、夏場の稼ぎだけで一年間の食生活費を稼がなくてはならぬので、村人たちはことのほか、激しく働かねばならず、そのため人出はいくらあっても足りなかった。そこで海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」
(宮本常一・離島の旅より)」
人買船に売られた安寿と厨子王の母が、佐渡の外海府(鹿野浦)に連れて来られてきたと言う話と、宮本常一の「海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」という話は、微妙にリンクしている。海府は、昔から人手を必要とする地域だった。宮本常一が指摘しているように、海府地方では、人出はいくらあっても足りなかった。
「そのような村にも相川から養子をもらう風習があった。相川にはまずしい町家がたくさんあり、そういう家の子をもらってきた。相川や国中の方では子供が泣くと『海府へ牛のケツたたきにやるぞ』と言えば泣きやんだものであるという」
(私の日本地図・宮本常一より)」
この話を裏付けるように、昔の海府の戸籍には、「同居人二人」などと書いてあった。安寿と厨子王の母親は、こういう地域に売られていったのだ。私は、その地域、つまり北片辺で、生後三ヶ月から三歳九ヶ月まで住んでいたのだった。
つづく
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父親は厳格なために些細なことで物置に閉じ込められ、箸の持ち方一つで良く殴られた。優しい子守に囲まれた生活とは真逆な生活だった。祖母も酷く口うるさい人だったので、三歳までの子守時代とは全く違う環境で毎日不安なまま暮らしていた。子守時代とは天地ほど違う環境だった。
それ以前は、子守に可愛がられた。子守と言っても腰の曲がって杖で歩く老婆なので、二歳から三歳くらいの男の子の方が速く走れる。逃げようと思えば逃げられるが、そういう気持ちは全くなく、むしろ老婆の後を追いかけることの方が多かった。いわゆる後追いとい現象である。
母親に対する後追いとは少しばかり違って、農作業や干芋造りなんかを、じーっと見つめては、時々手伝ったりした。そして御褒美に干し芋をいただいて、うまの美味しさに驚いたりした。
子守といっても、四六時中子供の面倒をみているわけではなく、いろんな作業をしながら合間に世話をするのが子守のパターンである。片手間に仕事をしていた方が、子守をしやすかったのかもしれないし、元来、子守とは、そういうものだったのかもしれない。
幼少期から体が大きく、ジャイアント馬場的な存在で、その巨体うえに、おんぶしながら作業ができなかったということもあっただろう。だから私は、子守におんぶされたことがなかった。いつも子守とともに地べたを歩いて移動した。そして子守たちの片手間の作業をじーっと見て育っていた。そして、作業を手伝いたがった。
母の下宿先では、農作業の合間に洋服の仕立てをしていた。当時は、電気アイロンなどはなく、鉄のアイロンを炭に熱して、指で温度調節しながらアイロンがけをしていた。私はじーっと、それを観察した上で自分でやってみようと思い、自分の顔にアイロンをあてて大火傷したこともあった。
とにかく、周りを観察して、それをやってみようと思って一緒に作業していた。それが、かなりの労働だったようで、昼寝になると私はアッという間に寝てしまった。寝ることによって、ますます身長が伸びたことは言うまでもない。
こうして私は。三歳九ヶ月まで子守たちに可愛がられた。僻地なのに、店が何も無いのに、昭和三十年代に、いったいどこから手配したのか、どういうわけかクリスマスケーキがでてきた。当時としては貴重なホールケーキに対して、私は恐る恐る「どれ食べて良いの?」と聞いたものだった。私の母親は、そこまで甘やかさなかった。
子守たちと分かれてからも、子守の老婆たちは、遠くから私を訪ねてやってきた。何度も遊びにきては、帰り際に泣いてお別れしました。別れ際には必ず
「お父さんの言うことを聞いて、お利口にするんだよ」
と泣きながら帰って行った。子守されていた時には、絶対に言わなかった台詞を言った。それほど可愛がられ。そういう環境から、厳格な父親と口うるさい祖母の元に預けられた。
環境が一変すると、私は放置子ぽくなる。近所の老婆のところに勝手に遊びに行くようになる。知らず知らず以前の環境を求めてのことだったかもしれない。ご近所の人も、さぞかし驚いたことだろうが、不思議なことに私は、近所の見知らぬ老婆たちに可愛がられた。誘拐犯がいたら、いとも簡単に誘拐されたと思っている。
ただ、実家のあった佐渡島の都会(?)には、佐渡の僻地と違うところがあった。保育園があったのである。そして生まれて初めて保育園に入ることになる。
それまでは、別に何か教育されるわけでもなく、プログラムに沿って進行されるわけでもなかった。親と違って子守には強く怒られないので、子守たちの生活習慣が、すんなりと私の中に入ってきた。そして作業を手伝ったりした。干芋を並べたり、仏壇に一緒にお供えしたりした。
ところが厳格な父と暮らすようになると、多くのダメ出しを食らうために、何に対しても拒絶反応が出てきた。いたずら書きをして強く怒られれば、書くことに拒絶反応が起きる。これが絵を画いたり、字を書くことに対しても、拒絶する心理状態になってくる。
これは人間に限らず、どんな生物にもそのような反応がある。そういう反応がなければ、アッという間に天敵に殺されてしまうからである。親が子供に必要以上に強く怒れば、子供は自らの生命保存のために学習して、拒絶の心理が働いてしまう。
幼児が危険な階段を上がろうとしたところを見つけて、それを必要以上に強く怒ってしまうと、それがトラウマとなって高所恐怖症になったりする。それをみこして武家社会では、子供に対して強く叱らない躾をしていたと言われている。もちろん武士なので躾に厳しかったことは確かなのだが、強くは怒らない。
むしろ子供に対してもっぱら暴力的に躾たのは農民階級の方だったといわれている。農民は臆病でも問題ないし、むしろその方が、自己保存のために良い場合もあったのかもしれない。
まあ、そんなことはどうでもいいとして、これだけ環境が変わって、戸惑うと脳に非常に悪い影響が出てもおかしくないのだが、歯止めになったのが、保育園だったかもしれない。保育園が環境の変化を和らげるクッションのような役割があったような気がする。
現在では、どうなっているか分からないが、昔の保育園では、あまり教育的なことはしてなくて、のんびりしていた。運動会・遠足といった行事も無く、それが私にとっては良かった。そのせいかその保育園でおきたことは記憶に残ってる。記憶の法則によると嫌なことは忘れる傾向があるのに対し楽しいことは忘れないという。
この法則は私だけに当てはまったのではなかった。一年後、私は引っ越して、別の保育園に入り、最初の保育園の友達と別れた。それから十二年後に、小学校の合併で彼らと再会するわけですが、お互いに年少組の頃のことを覚えていた。
ところが幼稚園出身だった嫁さんに
「幼稚園時代のことを覚えてる?」
と聞いても全く覚えてないという。
嫁さんは、保育所でも託児所てもなく、幼稚園(二年制)出身だった。幼稚園だから授業もあったかもしれない。そのうえ午前中で帰宅なので友達との縁も薄かったかもしれない。
そのうえ嫁さんの家庭環境が良かった。近所に親戚がいっぱいして、従姉妹どうしで仲良く遊んぶという感じだったらしい。その思い出話は、よく聞かされる。家内にとって楽しいのは、幼稚園では無く家族と大勢の親戚たちだった。
それはともかくとして、母・子守たちと離れて、父・祖母と生活することによって、私にとっては地獄のような毎日が始まるのだが、そんな時に、佐渡島外海府の漁村から私の子守だった老婆や下宿のおばさんたちが、遠方からわざわざ私の顔を見にやってきた。
そして何泊か滞在したあとに、何かを察して、帰り際にボロボロ涙を流しながら
「いいかい、お父さんの言うことを聞いて、おりこうにしているんだよ。お父さんのことを良く聞くんだよ」
と帰って行った。当時の私は、子守の老婆に対して一歳に満たない弟の子守はしなくてよかったのだろうか?と不思議な気持ちで、その言葉を聞いていたものだった。
で、子守の婆さまも、下宿のおばさんも、何度も何度もやってきた。当時は、バスを使って一日がかりでやってきては、私に会いに来て、一泊して帰っていった。
帰った先には、母と小さな弟がいる。生まれたばかりの弟の方が、よほど可愛がいだろうに、何度も私に会いに来た理由は、乳幼児の頃にしつけられた、あの大げさな礼法と無関係でなかったと思う。
そして一年後。
母の単身赴任は終わり、家族そろって一緒に生活するようになると別の問題がおきた。私に対する教育方法をめぐって夫婦喧嘩が絶えなくなった。あと、嫁・姑の問題も出てくるが、それについては後述する。父・母・祖母の三人が、それぞれ全く違う教育をする上に、その愚痴を公言するものだから、子供の頃の私は大変だった。
おまけに私は、厳格な父に何度も家を追い出された。追い出された後は、あちこちを放浪し、それを母と祖母が大声で探し求めるものだから、私の家は、近所でも有名な家になった。
三軒隣に、NHKテレビによく出演していた有名な植物学者がいたが、私が夜中に放浪していると、自転車で追いかけてきた。とは言うものの、私とは距離をとって関わろうとしなかった。遠くから。そっと見守るだけで、私が探しにきた母に見つかるまで見守っていた。私が母や祖母に探し出されると、そっと自転車で去っていった。思えば、変な時代だったように思う。
こうして何年かたつわけだが、その間にも、下宿のおばさんや、子守の老婆は、相変わらず私に会いに来た。そして帰り気際に必ず
「お父さんの言うことを聞いて、おりこうにしているんだよ。お父さんのことを良く聞くんだよ」
と涙ながらに帰って行くのだった。
やがて何年かたって、母の教え子だった小学生が青年になり、自動車免許をとるようになると、軽トラでやってくるようになった。幼児の頃の私の頭をナデナデしてくれた小学生が、たくましくなって颯爽とやってきた。
そして人さらいのように
「外海府に遊びにこないか?」
と誘ってくるのだ。
両親の許可をとって大喜びで私は出かけた。弟は、一緒ではなかった。私だけだった。そして外海府の漁村に到着すると、みんなが出迎えてくれた。それは幸せな瞬間だったが、そこで何日が生活していると、突如として私の中に不安がやってくる。
外海府の下宿のおばさんや、子守の婆さまたちが、
「うちの子供にならないか?」
とささやいてくるのだ。すると私の心の底から無性に。不安や寂しさが込み上げてきて、なんともいえない悲しい気持ちになり、実家に帰りたくなった。
宮本常一という有名な民俗学者は、このように言っている。
「海府の人たちは、冬には雪で閉じ込められてしまうので、夏場の稼ぎだけで一年間の食生活費を稼がなくてはならぬので、村人たちはことのほか、激しく働かねばならず、そのため人出はいくらあっても足りなかった。そこで海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」
(宮本常一・離島の旅より)」
人買船に売られた安寿と厨子王の母が、佐渡の外海府(鹿野浦)に連れて来られてきたと言う話と、宮本常一の「海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」という話は、微妙にリンクしている。海府は、昔から人手を必要とする地域だった。宮本常一が指摘しているように、海府地方では、人出はいくらあっても足りなかった。
「そのような村にも相川から養子をもらう風習があった。相川にはまずしい町家がたくさんあり、そういう家の子をもらってきた。相川や国中の方では子供が泣くと『海府へ牛のケツたたきにやるぞ』と言えば泣きやんだものであるという」
(私の日本地図・宮本常一より)」
この話を裏付けるように、昔の海府の戸籍には、「同居人二人」などと書いてあった。安寿と厨子王の母親は、こういう地域に売られていったのだ。私は、その地域、つまり北片辺で、生後三ヶ月から三歳九ヶ月まで住んでいたのだった。
つづく
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2023年12月28日
母の思い出 その5
私が三歳になった頃、母親が妊娠した。そして弟が生まれた。私は、母と別れて、父・祖母と暮らすことになった。母は、生後三ヶ月の弟を連れて、単身赴任で例の漁村に去って行ってしまった。三歳九ヶ月になった私は、厳格な父親と、口うるさい祖母と生活することになり、昼間は、子守では無く保育所の世話になることになった。環境がガラッと変わってしまったのである。
不思議なことに父は、母と違って大げさな礼儀作法を強制せず、最低限のテーブルマナーしか要求しなかった。そのかわりに、それができなかったら殴られた。
箸のもち方がダメだったり、食卓に肘をついてしまうと、遠慮無しに叩かれた。それが連日続いた。そのために父が動く度に条件反射でびくっとした。
母は礼法に厳しかったが、暴力をふるったことが無かったので、この違いに戸惑った。当時の私は、なぜ父親に殴られたかよくわからず、よく分からなかったから何も理解せず、そのためにまた父に殴られた。
父は「なぜ言うことをきかない」と怒ったが、それがどういう意味かもわからなかった。怒られる理由がわからないのだ。だから余計に怒られるという負のスパイラルに陥っていた。
理由も分からずに、ただ父に殴られることが怖くて、毎日びくびくして生活していた。おまけに難聴であったために父親の言っていることの一割も聞き取れなかった。
何も分からずに殴られて、何をして良いわからず、ひたすらビクビク・オドオドする毎日だった。ただ卑屈になっていった。当然のことながら最低限のテーブルマナーは身につかなかった。

母が、教えた難しくも大げさな礼法は、二歳くらいから覚えることができたのに、四歳の私に最低限のテーブルマナーは身につかなかったのは、皮肉である。
教育のプロであった母と、そうでなかった父の教育力の差なのか? それとも先祖代々百姓の家系であった父と、貴族を先祖にもつ母の家系の違いなのか? あきらかに両者には、幼児に対する考え方が違っていた。教育スキルの違いがあった。
母のしつけは、厳しかったが完璧を求めなかった。出来て無くても、行動しようとする意思があれば、褒められた。厳しくとも結果は求められてなかった。頑張ってさえいれば、それでよしという躾(しつけ)だった。
それに対して父のしつけは、最低限を要求するものであったが、出来てなければ、容赦なく怒鳴られた殴られた。そのせいで私は、誰かが何気に手を上げると条件反射でビクッとなって頭をかかえるようになり、これが二十代後半まで抜けなかった。
信じられないことだが、昭和三十年代に生まれ育った子供たちなら、大なり小なり、こういう躾(しつけ)を体験したように思う。ただ、私の父のやり方は、当時の常識から考えても少しばかり度が過ぎていた。しかし、それを小学校の先生に訴えても、先生からの回答は
「立派なお父さんだなあ」
と絶賛するという今から考えると、かなりトンチンカンな反応だった。度は過ぎていても当時の常識の範囲内だった。
ところが母のように大げさな礼法の躾(しつけ)をしている家庭は、みたことがなかった。そういう意味で母の子育ては、みんなと違っていた。それゆえに私は母に反抗するようになる。
「みんなを見習いなさい」
と怒られて、みんなを見習った結果、知らず知らずのうちに母に反抗するようになっていったことは、これも皮肉な現象なのかもしれない。
ここで多少脱線したい。
高校時代に、とある城下町の近くの学校に進学した。そして御先祖様が武士(長岡藩士)であったという家の同級生と友人になり、その友人の家に遊びにいったことがある。
友人の家の門塀には、戊辰戦争の時の銃弾の跡があったりした。そして、その家にお邪魔したときに、何か懐かしい感覚を感じてしまった。
立ち振る舞いから、お茶の入れ方から、廊下の歩き方など、普通と違っていた。その時に記憶の底に隠れていた、私の幼少期のことを思い出してしまっていた。三歳の頃に母親に躾けられた大げさな挨拶のことである。

挨拶ひとつをとっても違っていた。まず襖をあけて、そして閉める。その後に畳に膝をついて仁義をきる。小さい頃に習った礼法そのものだった。襖を開けた瞬間に挨拶するのが一般的というか、大多数だと思うが、元士族の家では、襖を閉めてから挨拶していた。時代劇でよくみる挨拶と同じであるが、現代人は、こういう挨拶をしない。
だから友人の家におじゃましてたら、私が昔、母親から習ったことを思い出してしまった。そして、その挨拶によって、大昔のことを思い出してしまい、条件反射のように私も昔教わった挨拶を返した。すると
「楽にしてください」
「メガネはとらなくていいですよ」
と返ってきたが、友人の御家族たちが、背筋がビシッとして正座しているのに
「ハイそうですか」
と楽に出来るわけもなく、それなりの対応をかえしていると、どういうわけか私は、その友人の御両親に気に入られて、御馳走されたうえに、お土産までもたされ
「また遊びにいらっしゃい」
と再三誘われた。
友人も「親がおまえを気にいったらしく、また連れてこいと言ってるんだ。また遊びに来ないか」と何度か言われたが、二度と行かなかった。
まっぴらゴメンだった。
緊張で肩が凝るからだ。
気にしなければ、どうってことが無いのだが、どうしても気になって億劫になってしまう。
そういえば、こんな光景があった。その友人には、六歳くらいの弟君がいたのだが、その弟君が、なにか行儀の悪いことをしようとすると、その母君が
「あら?」
と、一言言うだけで、弟君は、もとのシャキっとした。注意するわけでもなく、殴られるわけでもないのに、六歳の子供が母親の
「あら?」
の言葉にシャキっとするなんて、当時の私には信じられなかったので、あとでこっそりと
「行儀が悪いと後で殴られるのか?」
聞いてみたが、その私の問い掛けに友人や、その弟君は、不思議そうにしていた。
聞けば、生まれてこの方、親に怒鳴られたり殴られたことがないと信じがたいことを言う。機動戦士ガンダムのアムロじゃあるまいし、最初は信じなかった。しかし、それは本当だったことを後で知った。元士族の家庭で、親に殴られたことのあるという友人は、私の知る限りいなかった。
郷土史家の先生に聞いてみたら、伝統ある士族の家庭では、子供を叱るこことは、あまりしない。
「じゃあ、どうやって教育するんだよ?」
と思うのだが、その謎は、未だにわかってない。どうやら世の中には、科学でわりきれないことが、いっぱいあるらしい。
つづく
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不思議なことに父は、母と違って大げさな礼儀作法を強制せず、最低限のテーブルマナーしか要求しなかった。そのかわりに、それができなかったら殴られた。
箸のもち方がダメだったり、食卓に肘をついてしまうと、遠慮無しに叩かれた。それが連日続いた。そのために父が動く度に条件反射でびくっとした。
母は礼法に厳しかったが、暴力をふるったことが無かったので、この違いに戸惑った。当時の私は、なぜ父親に殴られたかよくわからず、よく分からなかったから何も理解せず、そのためにまた父に殴られた。
父は「なぜ言うことをきかない」と怒ったが、それがどういう意味かもわからなかった。怒られる理由がわからないのだ。だから余計に怒られるという負のスパイラルに陥っていた。
理由も分からずに、ただ父に殴られることが怖くて、毎日びくびくして生活していた。おまけに難聴であったために父親の言っていることの一割も聞き取れなかった。
何も分からずに殴られて、何をして良いわからず、ひたすらビクビク・オドオドする毎日だった。ただ卑屈になっていった。当然のことながら最低限のテーブルマナーは身につかなかった。
母が、教えた難しくも大げさな礼法は、二歳くらいから覚えることができたのに、四歳の私に最低限のテーブルマナーは身につかなかったのは、皮肉である。
教育のプロであった母と、そうでなかった父の教育力の差なのか? それとも先祖代々百姓の家系であった父と、貴族を先祖にもつ母の家系の違いなのか? あきらかに両者には、幼児に対する考え方が違っていた。教育スキルの違いがあった。
母のしつけは、厳しかったが完璧を求めなかった。出来て無くても、行動しようとする意思があれば、褒められた。厳しくとも結果は求められてなかった。頑張ってさえいれば、それでよしという躾(しつけ)だった。
それに対して父のしつけは、最低限を要求するものであったが、出来てなければ、容赦なく怒鳴られた殴られた。そのせいで私は、誰かが何気に手を上げると条件反射でビクッとなって頭をかかえるようになり、これが二十代後半まで抜けなかった。
信じられないことだが、昭和三十年代に生まれ育った子供たちなら、大なり小なり、こういう躾(しつけ)を体験したように思う。ただ、私の父のやり方は、当時の常識から考えても少しばかり度が過ぎていた。しかし、それを小学校の先生に訴えても、先生からの回答は
「立派なお父さんだなあ」
と絶賛するという今から考えると、かなりトンチンカンな反応だった。度は過ぎていても当時の常識の範囲内だった。
ところが母のように大げさな礼法の躾(しつけ)をしている家庭は、みたことがなかった。そういう意味で母の子育ては、みんなと違っていた。それゆえに私は母に反抗するようになる。
「みんなを見習いなさい」
と怒られて、みんなを見習った結果、知らず知らずのうちに母に反抗するようになっていったことは、これも皮肉な現象なのかもしれない。
ここで多少脱線したい。
高校時代に、とある城下町の近くの学校に進学した。そして御先祖様が武士(長岡藩士)であったという家の同級生と友人になり、その友人の家に遊びにいったことがある。
友人の家の門塀には、戊辰戦争の時の銃弾の跡があったりした。そして、その家にお邪魔したときに、何か懐かしい感覚を感じてしまった。
立ち振る舞いから、お茶の入れ方から、廊下の歩き方など、普通と違っていた。その時に記憶の底に隠れていた、私の幼少期のことを思い出してしまっていた。三歳の頃に母親に躾けられた大げさな挨拶のことである。
挨拶ひとつをとっても違っていた。まず襖をあけて、そして閉める。その後に畳に膝をついて仁義をきる。小さい頃に習った礼法そのものだった。襖を開けた瞬間に挨拶するのが一般的というか、大多数だと思うが、元士族の家では、襖を閉めてから挨拶していた。時代劇でよくみる挨拶と同じであるが、現代人は、こういう挨拶をしない。
だから友人の家におじゃましてたら、私が昔、母親から習ったことを思い出してしまった。そして、その挨拶によって、大昔のことを思い出してしまい、条件反射のように私も昔教わった挨拶を返した。すると
「楽にしてください」
「メガネはとらなくていいですよ」
と返ってきたが、友人の御家族たちが、背筋がビシッとして正座しているのに
「ハイそうですか」
と楽に出来るわけもなく、それなりの対応をかえしていると、どういうわけか私は、その友人の御両親に気に入られて、御馳走されたうえに、お土産までもたされ
「また遊びにいらっしゃい」
と再三誘われた。
友人も「親がおまえを気にいったらしく、また連れてこいと言ってるんだ。また遊びに来ないか」と何度か言われたが、二度と行かなかった。
まっぴらゴメンだった。
緊張で肩が凝るからだ。
気にしなければ、どうってことが無いのだが、どうしても気になって億劫になってしまう。
そういえば、こんな光景があった。その友人には、六歳くらいの弟君がいたのだが、その弟君が、なにか行儀の悪いことをしようとすると、その母君が
「あら?」
と、一言言うだけで、弟君は、もとのシャキっとした。注意するわけでもなく、殴られるわけでもないのに、六歳の子供が母親の
「あら?」
の言葉にシャキっとするなんて、当時の私には信じられなかったので、あとでこっそりと
「行儀が悪いと後で殴られるのか?」
聞いてみたが、その私の問い掛けに友人や、その弟君は、不思議そうにしていた。
聞けば、生まれてこの方、親に怒鳴られたり殴られたことがないと信じがたいことを言う。機動戦士ガンダムのアムロじゃあるまいし、最初は信じなかった。しかし、それは本当だったことを後で知った。元士族の家庭で、親に殴られたことのあるという友人は、私の知る限りいなかった。
郷土史家の先生に聞いてみたら、伝統ある士族の家庭では、子供を叱るこことは、あまりしない。
「じゃあ、どうやって教育するんだよ?」
と思うのだが、その謎は、未だにわかってない。どうやら世の中には、科学でわりきれないことが、いっぱいあるらしい。
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2023年12月27日
母の思い出 その4
いろいろ余計なことを書いてしまったが、何が言いたいのかというと、幼児の頃の私は、母親との接点が、かなり薄かったということを言いたかった。一日のほとんど、母と接してない。母と一緒にいる時間がほとんど無い。
今と違って、昔の教師は、九時から五時で帰れなかった。帰っても持ち込みの仕事がたくさんあった。パソコンもコピー機が無いために、毎日のようにガリ版をきっていた。母親と一緒にいるといっても、ただ一緒にいるだけだった。
そんな母親だったが、しつけは厳しかった。単身赴任で父親がいなかったせいもあって、非常に厳しい躾(しつけ)をされた。私の弟たちは、そういう厳しい躾(しつけ)をする母親の姿を知らない。母の単身赴任が無くなっていて、父親と一緒に生活するようになっていたからだ。
弟たちにとってい怖いのは父親であり、母親は優しい存在だったと思う。しかし、私を連れて単身赴任していた頃の母は、怖い存在だった。かなり厳しく躾けられたからだ。
特に礼儀作法にはうるさかった。かなりうるさかったはずなのだが、他に比較相手がいるわけでもなかったので、それが当たり前だと思っていたから、三歳九ヶ月までの私は、特に何の疑いももたずに、大げさで古風な礼法で朝晩の挨拶をした。
寝る前も、朝起きたときも仰々しく正座に三つ指をついて、大げさに下宿先のおばさんに挨拶し、子守の老婆にも挨拶した。歌舞伎役者の子供のように仰々しい挨拶をする毎日だった。
どうして、あのような仰々しい挨拶を強制されたのか、今となっては分かりようがないが、子供の頃に母が
「お母さんの子供の頃は、もっと挨拶にうるさかった」
と聞かされていたので、母の御先祖様が『華族』であったことと何か関係があったのかもしれない。母の親戚には著名な人が多く、戦前には朝鮮王朝にまで関わりがあったので、ことさら礼法にはうるさかったのかもしれない。
挨拶にしても母は「会釈(えしゃく)」を挨拶と認めてなかった。会釈は会釈であって挨拶とは別物と考えていた。母にとって挨拶とは、ヤクザ映画・股旅映画で見られる「仁義をきる」に近いものであったような気がする。ひとつの様式美みたいなものだった。それを二歳にも三歳にもならない私に教えて実行させたわけだから下宿先のおばさんたちや、近所の老婆たちは、顔を崩して喜んだ。

二歳児・三歳児の幼児が、大人顔負けの礼法をする。それだけのことで私は誰からも可愛がられた。信じられないくらいにチヤホヤされた。そして、母親のいないところで、いろんな菓子をいただいた。母は、私に菓子を食べさせない人だったので、
「本当に食べてもいいの?」
と何度も念押ししていただいた。
母親のしつけは厳しかったが、他の人には、さんざん甘やかされた。誕生日には、大きなホールケーキをいただいた。クリスマスにも大きなケーキとプレゼントをいただいた。
今でも不思議に思う。昭和三十年代の佐渡島の僻地で、どうやって大きなホールケーキを調達したのだろうか? 近所にあるのは「よろず屋」が二軒だけの寒村である。
そもそも当時の佐渡にホールケーキを売ってる店なんかあっただろうか? テレビも、冷蔵庫も、洗濯機も無く、電話は防災無線のようなもので、ダイヤル式でさえなかった漁村で、どうやって調達したのか? いったいどこでホールケーキを手に入れたのだろうか?
当時の登山ガイドをみると佐渡外海府は、知床半島と同列に紹介されるほどに辺鄙なところだった。もちろん車が走れる道路も完成してない。場所によっては船でいくしかなかった。そんな僻地で、どうやって豪華なホールケーキを調達したのか未だに不思議でならない。
そもそも佐渡島で最も栄えた場所にある実家にもどっても、ホールケーキなんか見たことが無かったし、実家で食べる機会もなかった。誕生祝いも、誕生プレゼントももらったことがない。ところが四歳ほど若い弟は違っていたから不思議である。弟の世代は、各家庭で誕生会をやり、そこに呼ばれていった。弟もお返しに誕生会を開いて、友人を招待していた。四歳ちがうだけで、これほどに生活環境が、風景が違っていた。たったの3から4年くらいで2倍くらい豊かになっていった高度成長期という時代は、兄弟間に、これほどに差がつくのであるからすごい時代であった。
それはともかくとして私がホールケーキを食べた唯一の記憶は、一歳から三歳にかけて、母親の下宿先で出された誕生ケーキとクリスマスケーキだけだった。昭和三十年から昭和四十年の佐渡島は、まだまだ貧しかった。そういう時代にホールケーキを御馳走になった。高価な玩具を頂いた。支払っている下宿料金みあってないものを色々いただいていた。
つまり幼児だった私は、母の礼法教育によって、ものすごい『得』をしたのである。だから私が、そのまま大人になっていれば、もっとバラ色の別の世界線を生きていたと思うが、そうはならなかった。母親の礼法教育は、失敗するのである。

母がしつけに厳しかったことは、すでに書いた。
そして幼い私が、母と接する時間が少なかったことも、すでに書いた。
そして他の大人たちから可愛がられたことも書いた。
この三つ条件が重なって、小さい頃の私は、母に対して反抗するようになる。
それについて具体的に述べてみる。
昔の小学校教員はひどく忙しかった。
そのせいで母は夜遅くまで帰ってこなかった。
運動会の準備だったり学芸会の準備があると、
夜遅くまで帰ってこなかった。
その結果、ただでさえ母親と接触する機会は少なかった私は、ほとんど母と接触しなくなる。で、学芸会当日になると、下宿のおばさんたちや、子守の老婆さんたちと、みんなで小学校の学芸会を見に行くことになる。そして座席に座って待っていると、教員の母親がステージでいろいろ作業をしているのがみえてくるのだ。
二歳児・三歳児の私は、おもわず母親のところに駆け寄るのだが、それは3歳以下の幼児にとっては、ごく自然な本能だったと思う。しかし私は母から、ひどく怒られてしまう。信じがたいくらいに、ひどく怒鳴られてしまう。
「みんな行儀良く座って待っているのに、どうして、座って待ってないのか?」
やさしく抱きしめてもらえると思っていた私は、激怒する母に、ひどく困惑してしまう。が、公務中の母の追求は厳しいものがあった。
「他の人をみてみなさい。みんなおりこうにしているのに、どうしてそれができないのか? みんなを見習いなさい」
駆け寄れば、優しく対応してくれると思っていた二歳児・三歳児の私は、母親の怒気にみちた声にショックを受けて反省するのだが、その時の
「皆を見習いなさい」
という「しつけ」には、幼心に「なるほど」と納得するものがあったことは確かであった。そして、こういう事は、何度も何度も繰り返された。
母親と接点がないがために、学校で働く母親をみつけると私は駆け寄るが、そのつど激怒されてしまう。そして
「みんなを見習いなさい」
と言われ
「みんなに合わせて行儀良く見学しなければならない」
と言うことを学習していく。そして周辺の人たち手本に生きていくことを自然と学習していく。
もちろん、下宿のおばさんたちも、子守の老婆たちも、同じように諭してくる。同じように言ってくる理由は、私をしつけるためではなくて、私が母に怒られてショックを受けずにすむように、親切で教え諭してくれていた。
「お母さんに怒られるぞ」
と、優しく柔らかに諭してくれていた。それは、躾と言うより、私が母に怒られないように、私が母に叱られショックをうけないように、やさしく導いていたことは、子供心にひしひしと感じることができた。下宿のおばさんたちも、子守の老婆も、私ができるだけ母親に怒られずにすむように、導いてくれていた。そして、ショックをうけている私をとてもやさしく慰めてくれるのだ。慰めつつも教え導いてくれていた。
それが子供心に分かってしまうからこそ、そういう大人たちの優しい忠告を素直に受け入れた。すると、まわりの大人たちは、
「良い子だなあ」
と、褒めてくれ、母にナイショで御菓子を買ってくれたりした。その結果、まわりを伺いながら大人の常識を身につけていき、普通の子供たちと共通した常識を身につけていくことが、できるようになっていくのである。

しかし、そのように学習していき、大人と同じような常識がもてるようになると、逆に自分の母親が、他の一般的な大人と違っていることに気が付いてくる。母親の行動が、ごく普通な大人たちの行動と合ってないのだ。その典型が大時代的な礼儀作法だった。仰々しすぎるのだ。
もちろん仰々しいからこそ人々から尊敬されているのだが、三歳にも満たない幼児には、それは分からない。分かっているのは、まわりと違うという点だけである。
それに気が付いた私は、徐々に仰々しすぎる挨拶をしなくなった。母に強制されても「嫌だ」と反抗するようになった。そして、私が可愛がられる原点であった「幼児らしからぬ礼儀作法」は、徐々に失われていった。母は、当時の私を「反抗期」だと思っていたらしいが、反抗期というより、
「皆を見習いなさい」
という事を単純に実行したにすぎなかった。
これが後日、家族分断のきっかけとなるわけだが、それについては後述するとして、
「皆を見習いなさい」
「他の人を手本にしなさい」
というワードは、かなり危険な言葉だと私は思っている。このワードは、同調圧力とは違う。
当時の私は、同調圧力で皆に合わせているつもりは、これっぽっちも無い。むしろ正しい事と自分なりに素直に納得していた。ごく自然に皆を見習うようになっていた。それが結果として母親に反抗する火種になっていった気がする。
それを考えると「反抗期」って何だろう?と思う。子供としては、反抗しているつもりがないが、外から見ると「反抗期」に見えてしまう。幼児にしてみたら大人たちの教えた通りのことを実行しているだけなのに、「反抗している」と言われてしまっては混乱するしかない。大人からは反抗しているように見えていても、幼児に反抗心は全く無いからだ。
つづく
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今と違って、昔の教師は、九時から五時で帰れなかった。帰っても持ち込みの仕事がたくさんあった。パソコンもコピー機が無いために、毎日のようにガリ版をきっていた。母親と一緒にいるといっても、ただ一緒にいるだけだった。
そんな母親だったが、しつけは厳しかった。単身赴任で父親がいなかったせいもあって、非常に厳しい躾(しつけ)をされた。私の弟たちは、そういう厳しい躾(しつけ)をする母親の姿を知らない。母の単身赴任が無くなっていて、父親と一緒に生活するようになっていたからだ。
弟たちにとってい怖いのは父親であり、母親は優しい存在だったと思う。しかし、私を連れて単身赴任していた頃の母は、怖い存在だった。かなり厳しく躾けられたからだ。
特に礼儀作法にはうるさかった。かなりうるさかったはずなのだが、他に比較相手がいるわけでもなかったので、それが当たり前だと思っていたから、三歳九ヶ月までの私は、特に何の疑いももたずに、大げさで古風な礼法で朝晩の挨拶をした。
寝る前も、朝起きたときも仰々しく正座に三つ指をついて、大げさに下宿先のおばさんに挨拶し、子守の老婆にも挨拶した。歌舞伎役者の子供のように仰々しい挨拶をする毎日だった。
どうして、あのような仰々しい挨拶を強制されたのか、今となっては分かりようがないが、子供の頃に母が
「お母さんの子供の頃は、もっと挨拶にうるさかった」
と聞かされていたので、母の御先祖様が『華族』であったことと何か関係があったのかもしれない。母の親戚には著名な人が多く、戦前には朝鮮王朝にまで関わりがあったので、ことさら礼法にはうるさかったのかもしれない。
挨拶にしても母は「会釈(えしゃく)」を挨拶と認めてなかった。会釈は会釈であって挨拶とは別物と考えていた。母にとって挨拶とは、ヤクザ映画・股旅映画で見られる「仁義をきる」に近いものであったような気がする。ひとつの様式美みたいなものだった。それを二歳にも三歳にもならない私に教えて実行させたわけだから下宿先のおばさんたちや、近所の老婆たちは、顔を崩して喜んだ。
二歳児・三歳児の幼児が、大人顔負けの礼法をする。それだけのことで私は誰からも可愛がられた。信じられないくらいにチヤホヤされた。そして、母親のいないところで、いろんな菓子をいただいた。母は、私に菓子を食べさせない人だったので、
「本当に食べてもいいの?」
と何度も念押ししていただいた。
母親のしつけは厳しかったが、他の人には、さんざん甘やかされた。誕生日には、大きなホールケーキをいただいた。クリスマスにも大きなケーキとプレゼントをいただいた。
今でも不思議に思う。昭和三十年代の佐渡島の僻地で、どうやって大きなホールケーキを調達したのだろうか? 近所にあるのは「よろず屋」が二軒だけの寒村である。
そもそも当時の佐渡にホールケーキを売ってる店なんかあっただろうか? テレビも、冷蔵庫も、洗濯機も無く、電話は防災無線のようなもので、ダイヤル式でさえなかった漁村で、どうやって調達したのか? いったいどこでホールケーキを手に入れたのだろうか?
当時の登山ガイドをみると佐渡外海府は、知床半島と同列に紹介されるほどに辺鄙なところだった。もちろん車が走れる道路も完成してない。場所によっては船でいくしかなかった。そんな僻地で、どうやって豪華なホールケーキを調達したのか未だに不思議でならない。
そもそも佐渡島で最も栄えた場所にある実家にもどっても、ホールケーキなんか見たことが無かったし、実家で食べる機会もなかった。誕生祝いも、誕生プレゼントももらったことがない。ところが四歳ほど若い弟は違っていたから不思議である。弟の世代は、各家庭で誕生会をやり、そこに呼ばれていった。弟もお返しに誕生会を開いて、友人を招待していた。四歳ちがうだけで、これほどに生活環境が、風景が違っていた。たったの3から4年くらいで2倍くらい豊かになっていった高度成長期という時代は、兄弟間に、これほどに差がつくのであるからすごい時代であった。
それはともかくとして私がホールケーキを食べた唯一の記憶は、一歳から三歳にかけて、母親の下宿先で出された誕生ケーキとクリスマスケーキだけだった。昭和三十年から昭和四十年の佐渡島は、まだまだ貧しかった。そういう時代にホールケーキを御馳走になった。高価な玩具を頂いた。支払っている下宿料金みあってないものを色々いただいていた。
つまり幼児だった私は、母の礼法教育によって、ものすごい『得』をしたのである。だから私が、そのまま大人になっていれば、もっとバラ色の別の世界線を生きていたと思うが、そうはならなかった。母親の礼法教育は、失敗するのである。
母がしつけに厳しかったことは、すでに書いた。
そして幼い私が、母と接する時間が少なかったことも、すでに書いた。
そして他の大人たちから可愛がられたことも書いた。
この三つ条件が重なって、小さい頃の私は、母に対して反抗するようになる。
それについて具体的に述べてみる。
昔の小学校教員はひどく忙しかった。
そのせいで母は夜遅くまで帰ってこなかった。
運動会の準備だったり学芸会の準備があると、
夜遅くまで帰ってこなかった。
その結果、ただでさえ母親と接触する機会は少なかった私は、ほとんど母と接触しなくなる。で、学芸会当日になると、下宿のおばさんたちや、子守の老婆さんたちと、みんなで小学校の学芸会を見に行くことになる。そして座席に座って待っていると、教員の母親がステージでいろいろ作業をしているのがみえてくるのだ。
二歳児・三歳児の私は、おもわず母親のところに駆け寄るのだが、それは3歳以下の幼児にとっては、ごく自然な本能だったと思う。しかし私は母から、ひどく怒られてしまう。信じがたいくらいに、ひどく怒鳴られてしまう。
「みんな行儀良く座って待っているのに、どうして、座って待ってないのか?」
やさしく抱きしめてもらえると思っていた私は、激怒する母に、ひどく困惑してしまう。が、公務中の母の追求は厳しいものがあった。
「他の人をみてみなさい。みんなおりこうにしているのに、どうしてそれができないのか? みんなを見習いなさい」
駆け寄れば、優しく対応してくれると思っていた二歳児・三歳児の私は、母親の怒気にみちた声にショックを受けて反省するのだが、その時の
「皆を見習いなさい」
という「しつけ」には、幼心に「なるほど」と納得するものがあったことは確かであった。そして、こういう事は、何度も何度も繰り返された。
母親と接点がないがために、学校で働く母親をみつけると私は駆け寄るが、そのつど激怒されてしまう。そして
「みんなを見習いなさい」
と言われ
「みんなに合わせて行儀良く見学しなければならない」
と言うことを学習していく。そして周辺の人たち手本に生きていくことを自然と学習していく。
もちろん、下宿のおばさんたちも、子守の老婆たちも、同じように諭してくる。同じように言ってくる理由は、私をしつけるためではなくて、私が母に怒られてショックを受けずにすむように、親切で教え諭してくれていた。
「お母さんに怒られるぞ」
と、優しく柔らかに諭してくれていた。それは、躾と言うより、私が母に怒られないように、私が母に叱られショックをうけないように、やさしく導いていたことは、子供心にひしひしと感じることができた。下宿のおばさんたちも、子守の老婆も、私ができるだけ母親に怒られずにすむように、導いてくれていた。そして、ショックをうけている私をとてもやさしく慰めてくれるのだ。慰めつつも教え導いてくれていた。
それが子供心に分かってしまうからこそ、そういう大人たちの優しい忠告を素直に受け入れた。すると、まわりの大人たちは、
「良い子だなあ」
と、褒めてくれ、母にナイショで御菓子を買ってくれたりした。その結果、まわりを伺いながら大人の常識を身につけていき、普通の子供たちと共通した常識を身につけていくことが、できるようになっていくのである。
しかし、そのように学習していき、大人と同じような常識がもてるようになると、逆に自分の母親が、他の一般的な大人と違っていることに気が付いてくる。母親の行動が、ごく普通な大人たちの行動と合ってないのだ。その典型が大時代的な礼儀作法だった。仰々しすぎるのだ。
もちろん仰々しいからこそ人々から尊敬されているのだが、三歳にも満たない幼児には、それは分からない。分かっているのは、まわりと違うという点だけである。
それに気が付いた私は、徐々に仰々しすぎる挨拶をしなくなった。母に強制されても「嫌だ」と反抗するようになった。そして、私が可愛がられる原点であった「幼児らしからぬ礼儀作法」は、徐々に失われていった。母は、当時の私を「反抗期」だと思っていたらしいが、反抗期というより、
「皆を見習いなさい」
という事を単純に実行したにすぎなかった。
これが後日、家族分断のきっかけとなるわけだが、それについては後述するとして、
「皆を見習いなさい」
「他の人を手本にしなさい」
というワードは、かなり危険な言葉だと私は思っている。このワードは、同調圧力とは違う。
当時の私は、同調圧力で皆に合わせているつもりは、これっぽっちも無い。むしろ正しい事と自分なりに素直に納得していた。ごく自然に皆を見習うようになっていた。それが結果として母親に反抗する火種になっていった気がする。
それを考えると「反抗期」って何だろう?と思う。子供としては、反抗しているつもりがないが、外から見ると「反抗期」に見えてしまう。幼児にしてみたら大人たちの教えた通りのことを実行しているだけなのに、「反抗している」と言われてしまっては混乱するしかない。大人からは反抗しているように見えていても、幼児に反抗心は全く無いからだ。
つづく
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2023年12月26日
母の思い出 その3
私の生まれ育ったところは 佐渡島。
昭和三十六年生まれなので、
日本の高度成長をそのまま体験して生きてきた世代。
昔の佐渡島は 経済発展が遅れていたから、母親が洗濯板で私のオムツを洗っている姿を見ていたし、 井戸水を汲んだ体験もある。足踏みミシンを勝手に動かして血を流したこともあるし、炭で加熱して使うアイロンを頬あてて大火傷をしたこともあった。
そういう時代に母親は、学校の教師をしていた。当時、若い教師は佐渡島の僻地で仕事をすることになってい。佐渡島のチベットともいえる外海府という僻地で働いていた。

父親と別れて単身赴任していた。
生まれて三ヶ月の私をひきつれて、車さえ通らぬ辺鄙な漁村の小学校に赴任していた。
生まれて三ヶ月の私は、母が下宿先に出入りしている老婆に預けられた。当時の佐渡島の漁村では、鍵をかける風習がなく、留守だろうが何だろうが、近所の知人が勝手気ままに出入りして、家主が帰ってくるまで昼寝しながら待っているということが日常茶飯事だった。
私は、そういう近所のお婆さんたちに、生後三ヶ月で、あずけられて、三歳になるまで育った。父親と離れて辺鄙な漁村で育った。
今では数年の育児休暇が認められている教職員も、昔は生後三ヶ月から職場復帰を義務づけられていた。だから私は生後三ヶ月で、 いろんな人に預けられて育っていた。
当時は、テレビもなければ、おもちゃも、絵本も無かったので、よく寝かされた。あまりにも寝かされたので、身長がどんどん伸びてしまった。小学校に入る前には、母親と身長差が無くなるくらいに大きくなって、ジャイアント馬場的な存在になっていた。
二番目に背の高い同級生の身長も、私の肩より低かった。そのために、みんながしてもらっていたダッコをしてもらったことがなかった。それが幼児の頃の私の心を閉ざすことにもなった。
まあ、そんなことはどうでもいいとして幼児の頃の私は、ただひたすらに昼寝させられ続けたという事実があった。
母親の下宿先で、朝起きて、朝食を食べたあとは、近所の老婆に預けられて、ひたすらに眠らされる。昔の漁村の屋敷には、ほとんど窓が無かったりするので、室内は薄暗くて寝るしかなかった。
玩具・絵本・テレビなど一切無かったから寝る以外にやることがなかったのだ。それを生後三ヶ月から三歳になるまで続けたわけだから、身長が伸びるのも当然といえば当然だった。
もちろん夜も寝たので、運動なんかしてないし、体力もついてない。三歳までは、寝てばかりなので、知能も体力も、同年代に劣っていたと思う。遊び友達も兄もいなかったから、三歳までは引きこもりの時代だった。
当然のことながら病弱だった。肺炎で一ヶ月学校を休んだこともあるし、遠足の前日に熱を出して、歯ぎしりしながら遠足を断念したこともあった。
けれど寝てばかりいたので、身長だけがぐんぐん伸びた。誰より大きく育って身長が伸びた。そして大きく育ち、佐渡島の四歳児の健康優良児の大会では優勝して、当時としては高価だったブリキでできた車のおもちゃをもらった。それが生まれて初めてのおもちゃだったかもしれない。虫歯が無ければ県大会に出られたとも聞かされた。寝て大きく育ったのだ。
(ただし、大きくなって夜更かしをするようになったとき身長がピタリと止まってしまった)
ちなみに母は、かなりのチビだったから遺伝で私が大きくなったということはない。
もちろん父も背は高くない。
それなのに幼児の頃には、母の身長に追いつくほどに身長が伸びた。

それほど延々と昼寝を強制されてたわけだが、幼児の私が素直に従ったことに驚きを覚える。息子の子育ての経験からして、よく大人しく寝ていたものだと感心する。
そして夕方頃になると、その家の子供たちが小学校から帰ってくる。
すると私は、その小学生に遊んでもらった。
昭和三十年代の佐渡島の漁村では、あちこちに子供たちが溢れており、道路や路地にあふれんばかりにウジャウジャといた。
道路に自動車が走ることはなかった。だから道路こそは子供たちの遊び場だった。で、その子供たちが私の相手をしてくれた。
そして、子供(小学生)たちは、みな母の教え子だったりする。
当時の小学生は、みんな学生服に学帽をかぶっていた。
私は、その姿をみるとダダッと駆けよっていき、頭をなでてもらい、一緒に遊んでもらっていた。
今思えば、うざったかったのではないかと思う。しかし先生の息子ということで、無視できなかったのだろう。紙風船でバレーボールしたり、万華鏡をのぞいたり、石けんで作った手作りシャボン玉で遊んだりした。
絵を描いて遊んだこともある。漁村だったせいか、みんな船の絵を描いてくれた。どういうわけか当時は、船のことを「トントン」と呼んだ。トントントンと航行するからである。当時の漁船は、焼玉エンジンで動いていたからトントントンという音を出しながら波を蹴っていたのだ。だからみんな船のことを「トントン」と言ってた。
私は、「トントン」を画いてというと、みんな自分の家の漁船を画いてくれた。
それがとてもかっこよく見えたものだった。
みんなが画いたトントンは、かっこよかった。
はやく大人になってトントンに乗りたいと思った。

そうこうしているうちに夕暮れになる。すると、みんな自宅へ帰って行った。日没になり、真っ暗になると母親が迎えに来て、下宿先に帰るのだが、その時に闇夜で見えた、お地蔵さんと墓石の不気味さに、なんともいえない霊気を感じたものだった。
両墓制だった佐渡島の漁村の墓は二つある。一つは拝むだけの立派な墓。これはお寺にあった。もう一つは、海岸に転がっている崩れた墓。これは土葬の墓で、死体が土にかえると墓石は自然と崩れていく。
これは死者を埋めるだけの墓なので、何年かたちと墓石が崩れてしまう。にもかかわらず、崩れた墓石を直すこともない。そのかわりにお寺には、立派な墓があって、その墓には立派なもので献花は絶えなかったりする。
それに対して、土葬死者を埋めるだけの墓は、むざんな姿をしていた。で、そばには六地蔵があったりする。お地蔵様のところだけは、手入れが行き届いていた。
それらの崩れた墓石を幼児たった私は、じっと眺めながら夜道を歩いた。二歳から三歳ぐらいだったはずなのだが、今でも、はっきりと記憶がある。記憶があるのは、その瞬間だけが、母と二人っきりの時間であったからだ。
いろいろ余計なことを書いてしまったが、何が言いたいのかというと、幼児の頃の私は、母親との接点が、かなり薄かったということを言いたかった。一日のほとんど、母と接してない。母と一緒にいる時間がほとんど無い。
今と違って、昔の教師は、九時から五時で帰れなかった。帰っても持ち込みの仕事がたくさんあった。パソコンもコピー機が無いために、毎日のようにガリ版をきっていた。母親と一緒にいるといっても、ただ一緒にいるだけだった。
そんな母親だったが、しつけは厳しかった。単身赴任で父親がいなかったせいもあって、非常に厳しい躾(しつけ)をされた。私の弟たちは、そういう厳しい躾(しつけ)をする母親の姿を知らない。母の単身赴任が無くなっていて、父親と一緒に生活するようになっていたからだ。
弟たちにとってい怖いのは父親であり、母親は優しい存在だったと思う。しかし、私を連れて単身赴任していた頃の母は、怖い存在だった。かなり厳しく躾けられたからだ。
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昭和三十六年生まれなので、
日本の高度成長をそのまま体験して生きてきた世代。
昔の佐渡島は 経済発展が遅れていたから、母親が洗濯板で私のオムツを洗っている姿を見ていたし、 井戸水を汲んだ体験もある。足踏みミシンを勝手に動かして血を流したこともあるし、炭で加熱して使うアイロンを頬あてて大火傷をしたこともあった。
そういう時代に母親は、学校の教師をしていた。当時、若い教師は佐渡島の僻地で仕事をすることになってい。佐渡島のチベットともいえる外海府という僻地で働いていた。
父親と別れて単身赴任していた。
生まれて三ヶ月の私をひきつれて、車さえ通らぬ辺鄙な漁村の小学校に赴任していた。
生まれて三ヶ月の私は、母が下宿先に出入りしている老婆に預けられた。当時の佐渡島の漁村では、鍵をかける風習がなく、留守だろうが何だろうが、近所の知人が勝手気ままに出入りして、家主が帰ってくるまで昼寝しながら待っているということが日常茶飯事だった。
私は、そういう近所のお婆さんたちに、生後三ヶ月で、あずけられて、三歳になるまで育った。父親と離れて辺鄙な漁村で育った。
今では数年の育児休暇が認められている教職員も、昔は生後三ヶ月から職場復帰を義務づけられていた。だから私は生後三ヶ月で、 いろんな人に預けられて育っていた。
当時は、テレビもなければ、おもちゃも、絵本も無かったので、よく寝かされた。あまりにも寝かされたので、身長がどんどん伸びてしまった。小学校に入る前には、母親と身長差が無くなるくらいに大きくなって、ジャイアント馬場的な存在になっていた。
二番目に背の高い同級生の身長も、私の肩より低かった。そのために、みんながしてもらっていたダッコをしてもらったことがなかった。それが幼児の頃の私の心を閉ざすことにもなった。
まあ、そんなことはどうでもいいとして幼児の頃の私は、ただひたすらに昼寝させられ続けたという事実があった。
母親の下宿先で、朝起きて、朝食を食べたあとは、近所の老婆に預けられて、ひたすらに眠らされる。昔の漁村の屋敷には、ほとんど窓が無かったりするので、室内は薄暗くて寝るしかなかった。
玩具・絵本・テレビなど一切無かったから寝る以外にやることがなかったのだ。それを生後三ヶ月から三歳になるまで続けたわけだから、身長が伸びるのも当然といえば当然だった。
もちろん夜も寝たので、運動なんかしてないし、体力もついてない。三歳までは、寝てばかりなので、知能も体力も、同年代に劣っていたと思う。遊び友達も兄もいなかったから、三歳までは引きこもりの時代だった。
当然のことながら病弱だった。肺炎で一ヶ月学校を休んだこともあるし、遠足の前日に熱を出して、歯ぎしりしながら遠足を断念したこともあった。
けれど寝てばかりいたので、身長だけがぐんぐん伸びた。誰より大きく育って身長が伸びた。そして大きく育ち、佐渡島の四歳児の健康優良児の大会では優勝して、当時としては高価だったブリキでできた車のおもちゃをもらった。それが生まれて初めてのおもちゃだったかもしれない。虫歯が無ければ県大会に出られたとも聞かされた。寝て大きく育ったのだ。
(ただし、大きくなって夜更かしをするようになったとき身長がピタリと止まってしまった)
ちなみに母は、かなりのチビだったから遺伝で私が大きくなったということはない。
もちろん父も背は高くない。
それなのに幼児の頃には、母の身長に追いつくほどに身長が伸びた。
それほど延々と昼寝を強制されてたわけだが、幼児の私が素直に従ったことに驚きを覚える。息子の子育ての経験からして、よく大人しく寝ていたものだと感心する。
そして夕方頃になると、その家の子供たちが小学校から帰ってくる。
すると私は、その小学生に遊んでもらった。
昭和三十年代の佐渡島の漁村では、あちこちに子供たちが溢れており、道路や路地にあふれんばかりにウジャウジャといた。
道路に自動車が走ることはなかった。だから道路こそは子供たちの遊び場だった。で、その子供たちが私の相手をしてくれた。
そして、子供(小学生)たちは、みな母の教え子だったりする。
当時の小学生は、みんな学生服に学帽をかぶっていた。
私は、その姿をみるとダダッと駆けよっていき、頭をなでてもらい、一緒に遊んでもらっていた。
今思えば、うざったかったのではないかと思う。しかし先生の息子ということで、無視できなかったのだろう。紙風船でバレーボールしたり、万華鏡をのぞいたり、石けんで作った手作りシャボン玉で遊んだりした。
絵を描いて遊んだこともある。漁村だったせいか、みんな船の絵を描いてくれた。どういうわけか当時は、船のことを「トントン」と呼んだ。トントントンと航行するからである。当時の漁船は、焼玉エンジンで動いていたからトントントンという音を出しながら波を蹴っていたのだ。だからみんな船のことを「トントン」と言ってた。
私は、「トントン」を画いてというと、みんな自分の家の漁船を画いてくれた。
それがとてもかっこよく見えたものだった。
みんなが画いたトントンは、かっこよかった。
はやく大人になってトントンに乗りたいと思った。
そうこうしているうちに夕暮れになる。すると、みんな自宅へ帰って行った。日没になり、真っ暗になると母親が迎えに来て、下宿先に帰るのだが、その時に闇夜で見えた、お地蔵さんと墓石の不気味さに、なんともいえない霊気を感じたものだった。
両墓制だった佐渡島の漁村の墓は二つある。一つは拝むだけの立派な墓。これはお寺にあった。もう一つは、海岸に転がっている崩れた墓。これは土葬の墓で、死体が土にかえると墓石は自然と崩れていく。
これは死者を埋めるだけの墓なので、何年かたちと墓石が崩れてしまう。にもかかわらず、崩れた墓石を直すこともない。そのかわりにお寺には、立派な墓があって、その墓には立派なもので献花は絶えなかったりする。
それに対して、土葬死者を埋めるだけの墓は、むざんな姿をしていた。で、そばには六地蔵があったりする。お地蔵様のところだけは、手入れが行き届いていた。
それらの崩れた墓石を幼児たった私は、じっと眺めながら夜道を歩いた。二歳から三歳ぐらいだったはずなのだが、今でも、はっきりと記憶がある。記憶があるのは、その瞬間だけが、母と二人っきりの時間であったからだ。
いろいろ余計なことを書いてしまったが、何が言いたいのかというと、幼児の頃の私は、母親との接点が、かなり薄かったということを言いたかった。一日のほとんど、母と接してない。母と一緒にいる時間がほとんど無い。
今と違って、昔の教師は、九時から五時で帰れなかった。帰っても持ち込みの仕事がたくさんあった。パソコンもコピー機が無いために、毎日のようにガリ版をきっていた。母親と一緒にいるといっても、ただ一緒にいるだけだった。
そんな母親だったが、しつけは厳しかった。単身赴任で父親がいなかったせいもあって、非常に厳しい躾(しつけ)をされた。私の弟たちは、そういう厳しい躾(しつけ)をする母親の姿を知らない。母の単身赴任が無くなっていて、父親と一緒に生活するようになっていたからだ。
弟たちにとってい怖いのは父親であり、母親は優しい存在だったと思う。しかし、私を連れて単身赴任していた頃の母は、怖い存在だった。かなり厳しく躾けられたからだ。
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2023年12月24日
母の思い出 その2
2023年4月24日、私の母が永眠した。
佐渡島に住んでいる弟から連絡があった。
八十八歳だった。
その母について語ってみようと思う。

私の母は、華族・伯爵家(広橋家・藤原氏の一族)の血をひいている。祖父は画家。曾祖父は女学校の校長。その前が広橋家(貴族・華族)の当主だった。朝鮮王族とも関係があったらしいが、よくは知らない。
私が物心ついた頃は、そういう雰囲気は全く見せなかった母だったが、私が幼少の頃には、その面影が少し残っていた。
話はとんでしまうが、昭和時代の田舎の小学校に多数存在していて、平成・令和時代には滅びてしまったものを御存知だろうか? それは
「レーホー室」
である。昭和時代の田舎には、創立八十周年とか、九十周年といった木造校舎の小学校が、まだ沢山あった。その百年近い木造校舎には、かならず「レーホー室」なるものがあった。
レーホー室というのは、百畳くらいの畳部屋のことである。戦前は、この畳の部屋で礼儀作法を小学校の子供たちに教えていた。つまり、レーホー室とは、礼法室であった。分厚くて古い郷土史などを調べると、まれに礼法室で礼儀作法の授業を行っているのを見ることができる。
東京だと、スペースの関係で礼法室が作れなかったのか、外の運動場に畳をずらりと敷いて、礼儀作法の授業を行っている写真があったりする。麻布区史という郷土資料には、笄小学校(こうがいしょうがっこう)での礼儀作法教室の様子が白黒写真に残っている。畳を取り囲むように、数百人という大勢の子供たちが、礼儀作法を習っていた写真が郷土史の資料に残っている。
つまり戦前では礼儀作法が重要視されていたわけで、これができてないと社会で苦労する思われていたわけである。
しかし戦後にそういう教育は無くなってしまった。もちろん私も学校教育で礼儀作法を教わった記憶がない。それで苦労したということはなかったし、そういう話を聞いたこともない。私は昭和三十六年生まれだが、少なくともその世代では、そういう教育を受けてないし、それで困ったこともない。
長い前置きは、このくらいにして本題に入る。
元教員だった母が死んで、まず思い出した記憶は、大げさな挨拶だった。子供心に
「なんて大げさな」
と、こっちが赤面するくらい大げさであった。
たとえば、よその家に出かけたときなど、出会って軽く会釈する。ふつうなら挨拶は、それで終わるはずなのだが、母の場合は違っていた。その後にご自宅にあがらせてもらったあとに、ひざまずき、深々と口上を述べるのである。
いったい、どういう礼儀作法なのだろう?と不思議に思ったものであるが、大人になって見た時代劇の股旅者(ヤクザ)の映画を見て
「これだ!」
と思ってしまった。
この「お控えなすって」と言うシーンを見ることによって全て納得してしまった。母は、仁義をきっていたのではないかと。だから子供心に大げさに見えていたと。で、この大げさな挨拶に、妙に納得したものだった。
僻地の民家に下宿するわけだから、そのつど「お世話になります」と、それなりの仁義をきっていたと思えば納得することが多い。
そして、生まれたばかりの私に、そういう仁義の切り方を教えた理由もわかる。なぜならば、それによって私は、とても可愛がられたからだ。
しかし、父も、二人の弟も、母の大げさな挨拶を見てない。私が六歳くらいになった頃に、母は大げさな挨拶をしなくなっていたからだ。そして、その原因は私にある。私が母に反抗して大げさな挨拶をすることを拒否したからだ。
反抗心で母に逆らったわけではない。自分自身で判断して逆らっていた。と、書くといかにも偉そうな存在に見えるが、そうではない。誰でも陥る罠にはまっただけだった。どの子供にも当てはまる罠が、世の中には存在する。それをこれから説明して、子育てについて考えてみたい。

子育てをして愕然とすることは、男の子と女の子の差である。一般的に言って女の子の方が成長がはやく、挨拶もきちんとできる。
逆に男の子は挨拶ができない。どういう訳かできない子供が多い。うちの息子もその例にもれなく、挨拶ができない一般的な子供であった。
私は、幼児連れ家族をターゲットにした宿を経営しているが、そんな例を飽きるほど見ている。どうしても男の子は、挨拶ができない。もちろん、私も例外では無い。私も小さい頃には挨拶ができなかった。
しかし、そんな私も例外期間があった。
信じられないことだが三歳くらいまでは、大人も驚くような大げさな挨拶ができていた。寝る前には、大人たちの前に出て、正座して三つ指をつき
「お先に失礼いたします。おやすみなさい」
と、深々と挨拶して寝床に入った。
二歳児の頃だったろうか?
三歳児の頃だったろうか?
はっきり私の記憶に残っている。
ちなみに私の生まれ育ったところは 佐渡島。昭和三十六年生まれなので、日本の高度成長をそのまま体験して生きてきた世代。
昔の佐渡島は 経済発展が遅れていたから、母親が洗濯板で私のオムツを洗っている姿を見ていたし、 井戸水を汲んだ体験もある。足踏みミシンを勝手に動かして血を流したこともあるし、炭で加熱して使うアイロンを頬あてて大火傷をしたこともあった。
そういう時代に母親は、学校の教師をしていた。当時、若い教師は佐渡島の僻地で仕事をすることになってい。佐渡島のチベットともいえる外海府という僻地で働いていた。
父親と別れて単身赴任していた。生まれて三ヶ月の私をひきつれて、車さえ通らぬ辺鄙な漁村の小学校に赴任していた。
生まれて三ヶ月の私は、母が下宿先に出入りしている老婆に預けられた。当時の佐渡島の漁村では、鍵をかける風習がなく、留守だろうが何だろうが、近所の知人が勝手気ままに出入りして、家主が帰ってくるまで昼寝しながら待っているということが日常茶飯事だった。
私は、そういう近所のお婆さんたちに、生後三ヶ月で、あずけられて、三歳になるまで育った。父親と離れて辺鄙な漁村で育った。
つづく
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佐渡島に住んでいる弟から連絡があった。
八十八歳だった。
その母について語ってみようと思う。
私の母は、華族・伯爵家(広橋家・藤原氏の一族)の血をひいている。祖父は画家。曾祖父は女学校の校長。その前が広橋家(貴族・華族)の当主だった。朝鮮王族とも関係があったらしいが、よくは知らない。
私が物心ついた頃は、そういう雰囲気は全く見せなかった母だったが、私が幼少の頃には、その面影が少し残っていた。
話はとんでしまうが、昭和時代の田舎の小学校に多数存在していて、平成・令和時代には滅びてしまったものを御存知だろうか? それは
「レーホー室」
である。昭和時代の田舎には、創立八十周年とか、九十周年といった木造校舎の小学校が、まだ沢山あった。その百年近い木造校舎には、かならず「レーホー室」なるものがあった。
レーホー室というのは、百畳くらいの畳部屋のことである。戦前は、この畳の部屋で礼儀作法を小学校の子供たちに教えていた。つまり、レーホー室とは、礼法室であった。分厚くて古い郷土史などを調べると、まれに礼法室で礼儀作法の授業を行っているのを見ることができる。
東京だと、スペースの関係で礼法室が作れなかったのか、外の運動場に畳をずらりと敷いて、礼儀作法の授業を行っている写真があったりする。麻布区史という郷土資料には、笄小学校(こうがいしょうがっこう)での礼儀作法教室の様子が白黒写真に残っている。畳を取り囲むように、数百人という大勢の子供たちが、礼儀作法を習っていた写真が郷土史の資料に残っている。
つまり戦前では礼儀作法が重要視されていたわけで、これができてないと社会で苦労する思われていたわけである。
しかし戦後にそういう教育は無くなってしまった。もちろん私も学校教育で礼儀作法を教わった記憶がない。それで苦労したということはなかったし、そういう話を聞いたこともない。私は昭和三十六年生まれだが、少なくともその世代では、そういう教育を受けてないし、それで困ったこともない。
長い前置きは、このくらいにして本題に入る。
元教員だった母が死んで、まず思い出した記憶は、大げさな挨拶だった。子供心に
「なんて大げさな」
と、こっちが赤面するくらい大げさであった。
たとえば、よその家に出かけたときなど、出会って軽く会釈する。ふつうなら挨拶は、それで終わるはずなのだが、母の場合は違っていた。その後にご自宅にあがらせてもらったあとに、ひざまずき、深々と口上を述べるのである。
いったい、どういう礼儀作法なのだろう?と不思議に思ったものであるが、大人になって見た時代劇の股旅者(ヤクザ)の映画を見て
「これだ!」
と思ってしまった。
この「お控えなすって」と言うシーンを見ることによって全て納得してしまった。母は、仁義をきっていたのではないかと。だから子供心に大げさに見えていたと。で、この大げさな挨拶に、妙に納得したものだった。
僻地の民家に下宿するわけだから、そのつど「お世話になります」と、それなりの仁義をきっていたと思えば納得することが多い。
そして、生まれたばかりの私に、そういう仁義の切り方を教えた理由もわかる。なぜならば、それによって私は、とても可愛がられたからだ。
しかし、父も、二人の弟も、母の大げさな挨拶を見てない。私が六歳くらいになった頃に、母は大げさな挨拶をしなくなっていたからだ。そして、その原因は私にある。私が母に反抗して大げさな挨拶をすることを拒否したからだ。
反抗心で母に逆らったわけではない。自分自身で判断して逆らっていた。と、書くといかにも偉そうな存在に見えるが、そうではない。誰でも陥る罠にはまっただけだった。どの子供にも当てはまる罠が、世の中には存在する。それをこれから説明して、子育てについて考えてみたい。
子育てをして愕然とすることは、男の子と女の子の差である。一般的に言って女の子の方が成長がはやく、挨拶もきちんとできる。
逆に男の子は挨拶ができない。どういう訳かできない子供が多い。うちの息子もその例にもれなく、挨拶ができない一般的な子供であった。
私は、幼児連れ家族をターゲットにした宿を経営しているが、そんな例を飽きるほど見ている。どうしても男の子は、挨拶ができない。もちろん、私も例外では無い。私も小さい頃には挨拶ができなかった。
しかし、そんな私も例外期間があった。
信じられないことだが三歳くらいまでは、大人も驚くような大げさな挨拶ができていた。寝る前には、大人たちの前に出て、正座して三つ指をつき
「お先に失礼いたします。おやすみなさい」
と、深々と挨拶して寝床に入った。
二歳児の頃だったろうか?
三歳児の頃だったろうか?
はっきり私の記憶に残っている。
ちなみに私の生まれ育ったところは 佐渡島。昭和三十六年生まれなので、日本の高度成長をそのまま体験して生きてきた世代。
昔の佐渡島は 経済発展が遅れていたから、母親が洗濯板で私のオムツを洗っている姿を見ていたし、 井戸水を汲んだ体験もある。足踏みミシンを勝手に動かして血を流したこともあるし、炭で加熱して使うアイロンを頬あてて大火傷をしたこともあった。
そういう時代に母親は、学校の教師をしていた。当時、若い教師は佐渡島の僻地で仕事をすることになってい。佐渡島のチベットともいえる外海府という僻地で働いていた。
父親と別れて単身赴任していた。生まれて三ヶ月の私をひきつれて、車さえ通らぬ辺鄙な漁村の小学校に赴任していた。
生まれて三ヶ月の私は、母が下宿先に出入りしている老婆に預けられた。当時の佐渡島の漁村では、鍵をかける風習がなく、留守だろうが何だろうが、近所の知人が勝手気ままに出入りして、家主が帰ってくるまで昼寝しながら待っているということが日常茶飯事だった。
私は、そういう近所のお婆さんたちに、生後三ヶ月で、あずけられて、三歳になるまで育った。父親と離れて辺鄙な漁村で育った。
つづく
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2023年04月24日
母の思い出 その1
昨日、私の母が、お風呂場で 静かに眠ってしまいました。 そのまま 安らかに永眠してしまったらしい。 佐渡島に住んでいる弟から連絡がありました。 88歳 ですから 大往生 とも言いえます。なので 明日、息子を連れて佐渡島に行ってきたいと思っています 。皆さんも、ご健康に気をつけてください。 なので ゴールデンウィーク 直前までは、 これ以上の予約を止めたいと思っています。 お客様にはご迷惑をかけますが、よろしく ご理解のほどをお願いいたします。

ちなみに私の生まれ育ったところは 佐渡島です。 私は 昭和36年生まれなので、日本の高度成長をそのまま体験して生きてきた世代です。 昔の佐渡島は、本州よりも 経済発展が遅れていましたから、母親が洗濯板で私のオムツを洗っている姿を見ていましたし、 井戸水を汲んだ体験もあります。足で動かす ミシンを勝手に動かして血を流したこともありますし、 炭で加熱して使うアイロンを頬あてて大火傷をしたこともありました。 病気になると母親にリンゴを作ったもの食べさせられたものです。



母親は、 学校の教師をしていましたが、昔は生後3ヶ月から職場復帰を義務つけられていたので、 いろんな人に子守で預かってもらいました。 昔はテレビもなければ、おもちゃ もなかったし、絵本さえろくに無かったので、よく寝かされました。あまりにも寝かされたので、身長がどんどん伸びてしまったものです。
夜になると母親が、迎えに来て、下宿先に帰るのですが、その時に、闇夜で見えた、お地蔵さんと墓石の不気味さに、なんともいえない霊気を感じたのは、懐かしい想い出です。当時の私は、2歳ぐらいだったはずですが、はっきりと記憶があるのが不思議といえば不思議です。
つづく。
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ちなみに私の生まれ育ったところは 佐渡島です。 私は 昭和36年生まれなので、日本の高度成長をそのまま体験して生きてきた世代です。 昔の佐渡島は、本州よりも 経済発展が遅れていましたから、母親が洗濯板で私のオムツを洗っている姿を見ていましたし、 井戸水を汲んだ体験もあります。足で動かす ミシンを勝手に動かして血を流したこともありますし、 炭で加熱して使うアイロンを頬あてて大火傷をしたこともありました。 病気になると母親にリンゴを作ったもの食べさせられたものです。
母親は、 学校の教師をしていましたが、昔は生後3ヶ月から職場復帰を義務つけられていたので、 いろんな人に子守で預かってもらいました。 昔はテレビもなければ、おもちゃ もなかったし、絵本さえろくに無かったので、よく寝かされました。あまりにも寝かされたので、身長がどんどん伸びてしまったものです。
夜になると母親が、迎えに来て、下宿先に帰るのですが、その時に、闇夜で見えた、お地蔵さんと墓石の不気味さに、なんともいえない霊気を感じたのは、懐かしい想い出です。当時の私は、2歳ぐらいだったはずですが、はっきりと記憶があるのが不思議といえば不思議です。
つづく。
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2019年04月23日
昭和40年代、とある小学校の話7 小学校の入学式の服装の違い(1969年佐渡島と2019年嬬恋村)
今年、息子の小学校の入学式に出てみて、私の頃と違うなあと思ったことは、男の子の大半がネクタイつきのスーツだったことです。私の頃(1969年)は、七割が学生服でした。残りの三割がスーツでした。女の子は、今と変わりなかったと思いますが、それでも一割くらいはセーラー服だったと思います。
で、学生服・セーラー服の新入生の大半が、兄姉のいる家庭で、お下がりだったようです。つまり、私より世代が上になると、みんな学生服・セーラー服で入学式をしていたということになります。
その世代になると、就職試験も大学入学式も学生服だったと思います。さすがに私の世代では、そういうことはありません。逆に言うと、当時は卒業式に女の子にボタンをプレゼントする習慣がありません。学生服は大学の入学式にも就職試験にも使うからです。
私は、1961年生まれですが、この前後の生まれの場合、年度によってガラッと生活スタイルが代わってきます。1961年生まれだと、小学校の入学式では学生服が大半ですが、私の弟、つまり1964年生まれだと、小学校の入学式で学生服を着用する人は皆無になっています。
その逆に1955年生まれの小学校の入学式では、ほぼ全員が学生服&セーラー服だった思います。もちろん佐渡島での話です。で、その頃は卒業式も学生服でしたし、小学校時代も六年間学生服を着つづける人もいました。ついでにいうと、私より3年くらい年齢が上になると、中学校に入ると全員が坊主頭でした。それが廃止になって三年後に私が中学校に入学してます。

当然のことながら校則も細かく厳しかったのですが、死文化されておりほとんど守られてない状況でした。特に厳しかった所は、服装の項目でしたが、これには訳があります。江戸時代の日本では、年齢によって着るべきスタイルが厳密に決まっていたために、その名残が明治・大正期までのこっていて、その影響で服装のことが厳密になっていたそうです。これは、当時の校長先生に教わっています。
もちろん規則破りは、江戸時代も、明治・大正期も大量にいて、その破天荒さは、昭和時代の不良など、かわいいものだそうです。むしろ年々行儀が良くなってきていると、昭和50年頃の校長先生に聞いています。で、私の感想を言えば、平成時代の子供たちは、昭和時代より、もっと行儀がいいので、江戸期・明治大正の不良たちのスケールの大きさに唖然としますね。
つづく。
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で、学生服・セーラー服の新入生の大半が、兄姉のいる家庭で、お下がりだったようです。つまり、私より世代が上になると、みんな学生服・セーラー服で入学式をしていたということになります。
その世代になると、就職試験も大学入学式も学生服だったと思います。さすがに私の世代では、そういうことはありません。逆に言うと、当時は卒業式に女の子にボタンをプレゼントする習慣がありません。学生服は大学の入学式にも就職試験にも使うからです。
私は、1961年生まれですが、この前後の生まれの場合、年度によってガラッと生活スタイルが代わってきます。1961年生まれだと、小学校の入学式では学生服が大半ですが、私の弟、つまり1964年生まれだと、小学校の入学式で学生服を着用する人は皆無になっています。
その逆に1955年生まれの小学校の入学式では、ほぼ全員が学生服&セーラー服だった思います。もちろん佐渡島での話です。で、その頃は卒業式も学生服でしたし、小学校時代も六年間学生服を着つづける人もいました。ついでにいうと、私より3年くらい年齢が上になると、中学校に入ると全員が坊主頭でした。それが廃止になって三年後に私が中学校に入学してます。
当然のことながら校則も細かく厳しかったのですが、死文化されておりほとんど守られてない状況でした。特に厳しかった所は、服装の項目でしたが、これには訳があります。江戸時代の日本では、年齢によって着るべきスタイルが厳密に決まっていたために、その名残が明治・大正期までのこっていて、その影響で服装のことが厳密になっていたそうです。これは、当時の校長先生に教わっています。
もちろん規則破りは、江戸時代も、明治・大正期も大量にいて、その破天荒さは、昭和時代の不良など、かわいいものだそうです。むしろ年々行儀が良くなってきていると、昭和50年頃の校長先生に聞いています。で、私の感想を言えば、平成時代の子供たちは、昭和時代より、もっと行儀がいいので、江戸期・明治大正の不良たちのスケールの大きさに唖然としますね。
つづく。
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2019年04月22日
昭和40年代、とある小学校の話6 二年間に担任の先生が5回代わった話
私は昔、体が弱くて病気がちでした。保育園児の頃には、病院に長期入院してましたし、遠足前日に熱をだしてよく休みました。すぐに風邪をひいたし、熱で難聴になったりもしました。小学校に入学直後には、肺炎になり1ヶ月も学校を休みました。そして1ヶ月後に登校すると、こんどは担任の先生が肺炎で入院したとのこと。結局、その先生は肺癌でお亡くなりになるのですが、当時は肺炎と聞かされており、すぐに復帰するものだと私たちも教育委員会も思っていました。
で、非常勤(正教員ではない)の先生が、臨時に雇われ担任の先生となりました。そして、代理の先生が臨時に就任するわけですが、二年間に四人も担任の先生が変わりました。つまり、私が小学校入学後の二年間に五人も担任の先生が代わったことになります。平均して、一学期ごとに担任の先生が代わったわけですが、それは肺病で入院された先生が、すぐにでも復帰される可能性があったからだと思います。
現に、その先生とは、町で何度も出会っています。というのも私の自宅が総合病院のそばにあり、総合病院は、子供たちの遊び場だったからです。そのうえ、その先生の御実家は、病院から徒歩十五分くらいの同じ町内にありました。
まあ、そんなことは良いとして、二年間に5回も担任の先生が変わるという体験をすると、クラスが全く別物になることに気づきます。ある先生の時は乱暴な状態になるし、ある先生の時は静かなクラスになる。担任が替わるだけでクラスが全く違ってくる。
ある先生は、「人間に成績をつけるが嫌いなのでテストに点数をつけません」と言って○×だけの答案用紙を返したりしました。当然のことながら通知表にもそれが現れますので、教育熱心な家庭の子供たちは自分の通知表に青ざめます。成績の良い子ほど両親に怒られていたと思います。みんな同じような平均値の成績をつけられていましたから。
こういうことをしたら今なら大問題になるところでしょうが、昔は、こういう個性派教師がいても何の問題もなかった。ただし、この先生は、点数はつけなかったけれど、成績が良くなった子供に対しては、一人一人呼び出して、すごく褒めていました。点数はつけなかったけれど、褒め上手でした。そして親にもわざわざ言っていた。ただし、それが点数になってないので親の方は「?」と首をかしげていたと思います。

別の先生は、運動バカと言ってもいいくらいのスポーツウーマンで、体操ばかりやらせていました。この先生も変わり者で、生徒が「・・・をしたい」と言うと、本当にさせてしまう恐ろしい先生でした。例えば、「学芸会の出し物で何をやりたいですか?」と聞いてきたときに、よせばいいのにクラスの女の子が「バレエ」をやりたいと言う。バレーボールではなく、バレリーナのバレエです。当時、少女漫画でバレエがはやっていた。そんなもの佐渡島の田舎の小学校二年生ができるわけがない。しかし、その先生は
「じゃあ、やろう」
と言ったから大変です。授業をつぶしてバレエの特訓です。基礎も出来てない小学校二年生ができるわけがないのに、勉強そっちのけでバレエの特訓。そして、アホらしいことに何とか「くるみ割り人形」のバレエを上演してしまうのです。
というわけで、教師が替わるとガラリと教室の雰囲気が変わることを体験したことは、非常に貴重な体験でした。そのうえ、どういうわけか校長先生は、全校集会で毎週、2ヶ月で入院してしまった元担任の先生の病状報告を詳しく教えてくれました。
ひょっとしたら元担任の先生は、元ではなくて、正式な担任の先生であって、現在の担任の先生は、仮の担任なのかな?と思わせるような口ぶりでした。この報告が無かったら、2ヶ月しか習ってない私たちは、とっくに忘れてしまっているのに、何度もしつこく報告するので、記憶が消えることは全くなかった。
で、代わりに担任になった先生は、やはり仮だったのか、突然に辞めていきます。そして新しい担任の先生が就任する。そして忘れた頃にジャングルジムか何かが、辞めた担任の先生から寄贈されている。ジャングルジムは、当時も現在も決して安いものでは無いです。車が買えるくらいの値段です。それを寄付した安月給の元担任の先生は、隣町の小学校で正式な先生になったという。
で、手紙が送られてきて、「みんなと出会って本当によかった。これから隣町で正式な先生になって頑張ります・・・・」みたいなことが書いてある。今から思えば、私たちが踏み台になっていたような気もしますが、その先生は、別れ際に涙を流しながら去って行ったわけですし、私も別れ際でギュッと抱きしめられたので、本当に去りがたかったのかなあと思います。
そう言えば、当時の女教師たちは、学校を去るときに良く泣きました。全校集会の別れのあいさつで、感極まって必ず泣いたものです。それも低学年の先生が。しかし、子供というのは残酷なもので、それを何人かがクスクス笑うのです。決してドラマのように感動的な別れになったためしがない。
つづく。
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で、非常勤(正教員ではない)の先生が、臨時に雇われ担任の先生となりました。そして、代理の先生が臨時に就任するわけですが、二年間に四人も担任の先生が変わりました。つまり、私が小学校入学後の二年間に五人も担任の先生が代わったことになります。平均して、一学期ごとに担任の先生が代わったわけですが、それは肺病で入院された先生が、すぐにでも復帰される可能性があったからだと思います。
現に、その先生とは、町で何度も出会っています。というのも私の自宅が総合病院のそばにあり、総合病院は、子供たちの遊び場だったからです。そのうえ、その先生の御実家は、病院から徒歩十五分くらいの同じ町内にありました。
まあ、そんなことは良いとして、二年間に5回も担任の先生が変わるという体験をすると、クラスが全く別物になることに気づきます。ある先生の時は乱暴な状態になるし、ある先生の時は静かなクラスになる。担任が替わるだけでクラスが全く違ってくる。
ある先生は、「人間に成績をつけるが嫌いなのでテストに点数をつけません」と言って○×だけの答案用紙を返したりしました。当然のことながら通知表にもそれが現れますので、教育熱心な家庭の子供たちは自分の通知表に青ざめます。成績の良い子ほど両親に怒られていたと思います。みんな同じような平均値の成績をつけられていましたから。
こういうことをしたら今なら大問題になるところでしょうが、昔は、こういう個性派教師がいても何の問題もなかった。ただし、この先生は、点数はつけなかったけれど、成績が良くなった子供に対しては、一人一人呼び出して、すごく褒めていました。点数はつけなかったけれど、褒め上手でした。そして親にもわざわざ言っていた。ただし、それが点数になってないので親の方は「?」と首をかしげていたと思います。
別の先生は、運動バカと言ってもいいくらいのスポーツウーマンで、体操ばかりやらせていました。この先生も変わり者で、生徒が「・・・をしたい」と言うと、本当にさせてしまう恐ろしい先生でした。例えば、「学芸会の出し物で何をやりたいですか?」と聞いてきたときに、よせばいいのにクラスの女の子が「バレエ」をやりたいと言う。バレーボールではなく、バレリーナのバレエです。当時、少女漫画でバレエがはやっていた。そんなもの佐渡島の田舎の小学校二年生ができるわけがない。しかし、その先生は
「じゃあ、やろう」
と言ったから大変です。授業をつぶしてバレエの特訓です。基礎も出来てない小学校二年生ができるわけがないのに、勉強そっちのけでバレエの特訓。そして、アホらしいことに何とか「くるみ割り人形」のバレエを上演してしまうのです。
というわけで、教師が替わるとガラリと教室の雰囲気が変わることを体験したことは、非常に貴重な体験でした。そのうえ、どういうわけか校長先生は、全校集会で毎週、2ヶ月で入院してしまった元担任の先生の病状報告を詳しく教えてくれました。
ひょっとしたら元担任の先生は、元ではなくて、正式な担任の先生であって、現在の担任の先生は、仮の担任なのかな?と思わせるような口ぶりでした。この報告が無かったら、2ヶ月しか習ってない私たちは、とっくに忘れてしまっているのに、何度もしつこく報告するので、記憶が消えることは全くなかった。
で、代わりに担任になった先生は、やはり仮だったのか、突然に辞めていきます。そして新しい担任の先生が就任する。そして忘れた頃にジャングルジムか何かが、辞めた担任の先生から寄贈されている。ジャングルジムは、当時も現在も決して安いものでは無いです。車が買えるくらいの値段です。それを寄付した安月給の元担任の先生は、隣町の小学校で正式な先生になったという。
で、手紙が送られてきて、「みんなと出会って本当によかった。これから隣町で正式な先生になって頑張ります・・・・」みたいなことが書いてある。今から思えば、私たちが踏み台になっていたような気もしますが、その先生は、別れ際に涙を流しながら去って行ったわけですし、私も別れ際でギュッと抱きしめられたので、本当に去りがたかったのかなあと思います。
そう言えば、当時の女教師たちは、学校を去るときに良く泣きました。全校集会の別れのあいさつで、感極まって必ず泣いたものです。それも低学年の先生が。しかし、子供というのは残酷なもので、それを何人かがクスクス笑うのです。決してドラマのように感動的な別れになったためしがない。
つづく。
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2019年04月21日
昭和40年代、とある小学校の話5 小学校一年生、担任の先生が入院してしまった
昭和40年代、とある小学校の話5 小学校一年生、担任の先生が入院してしまった
今から五十年前、私が小学生一年生(1969年)になると、すばらしい担任の先生に出会いました。その先生は、小学校の先生というより保育士でした。とにかく真面目で熱心で、子供一人一人に丁寧に接していて、そのうえ、いつも子供たちを笑わせていました。授業も遊びの延長で、校庭を散歩しながら教科書を読んだりして毎日がとても楽しかった。もし、完全無欠な先生がいたとしたら、この先生でしたが、それだけに他の先生には、理解できない部分が大きかった。
例えば、誰かが癇癪をおこして暴力を振るったとしたらクラス全員が
「赤ちゃん、赤ちゃんベロベロバー!」
と一斉に大声で囃し立てるのです。先生が、そういう風に仕向けたわけです。そのために授業中に私語は無く、イジメも無ければ暴力も無い。とにかく悪いことが出来ないのです。今思えば、賛否両論なんでしょうが、このおかげで善悪がはっきりし、クラス中が仲良くなって、楽しい毎日が続きました。

とにかく何から何まで破天荒なことをやる先生でした。教科書も順番どうりにやらないし、脱線は多いし、漢字なんかも、いきなり難しいことを教えるし、例えば「目」という字を教えるときなどは、黒板に
「すず目」
と書いて、
「目玉が空を飛んで餌を食べるかな?」
と子供たちを笑わせたりします。その他にも「目し(メシ)」とか「目んこ(メンコ)」とか「と目る(止める)」とか、いろいろ笑い話をする。目という漢字を教える前に、こういう笑い話をさんざんしたうえで漢字の「目」の意味を教えたりする。なので、なんとなく目が分かってくる。その上で目玉焼きとか、目つきとか、目前とかを教えてくれるので、目という字を一つ覚えるうちに、様々なことが分かってくる。
算数にしても、教科書をやるのではなく大きな算盤で、ひたすら遊んでいるうちに自然と足し算引き算を覚えてしまう。そのうえ隣同士で問題を出し合ってクイズ対戦をして遊んだりする。とにかく授業が楽しくて楽しくてしょうがない。
今と違って昔は、先取り学習なんかしなかったので、小学校で初めて文字や計算を学ぶ子供たちが多かったので、それだけに新しい知識が楽しかった。
ところが、この担任の先生とは、たった2ヶ月でお別れになりました。私は、肺炎になり1ヶ月間も学校を休むことになり、毎日、自宅で塩水でうがいする日々を続けたのです。暇すぎて一日中テレビをみていました。当時の私の田舎には、民放は1つしか無く、子供番組もなかったために、1日中、教育テレビを見ていたために、へんに雑学が増えていきました。アポロの月着陸もリアルタイムに自宅でみていました。
そして1ヶ月後、小学校に復帰してみると、担任の先生も肺炎にかかって長期のお休みをとっていた。それが肺癌であったのは、あとで知った事実です。そして、代理の先生が臨時に就任するわけですが、誰かが何かをやらかしてクラス全員が
「赤ちゃん、赤ちゃんベロベロバー!」
と囃し立てた瞬間、代理の先生は真っ赤になって怒って、一人に対して、全員で囃し立てることが、いかに悪いことか説教されました。そして、その日以降、ごく普通の、ありふれた平凡な授業スタイルがはじまりました。そして、ありふれたクラスになり、イジメも暴力もおき、子供たちも行儀が悪くなりました。

ちなみに肺癌になってしまった担任の先生は、その後、四年間も入院を続け、四年後にお亡くなりになったわけですが、当時は肺炎と聞かされており、すぐに復帰するものだと私たちも教育委員会も思っていました。で、非常勤(正教員ではない)の先生が、臨時に雇われ担任の先生となりました。
現在からすると、臨時の非常勤の先生が、担任を受け持つことも常識はずれですが、それが二年も続いて、二年間に五人も担任の先生が代わったことも常識外れです。昭和四十年代の教員の給料は、とても安くて先生のなり手がいなかった時代です。デモシカ先生といわれた時代でした。
中には、教員免許のない先生も多かった。私が中学校の時は、アルバイト教師から正教師になった先生が、知ってるだけで二人いました。一人は、特攻隊の生き残りで、一人は技術者でした。もちろん免許などもってない。ないけれど正規教員で、戦前だと陸軍航空隊の方が、教師の数倍ランク上のエリートだったらしい。校長か教育委員会か知らないけれど、教員をやってくれと、頭を下げてたのまれたらしい。思えば、のんびりした時代でしたね、昭和という時代は・・・。
まあ、そんなことどうでもいいとして、私が小学校一年から二年にかけて、二年間に五人も担任の先生が代わったことによって、すごく貴重な体験をしたわけですが、これについては、次回、つづきを書きます。
つづく。
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今から五十年前、私が小学生一年生(1969年)になると、すばらしい担任の先生に出会いました。その先生は、小学校の先生というより保育士でした。とにかく真面目で熱心で、子供一人一人に丁寧に接していて、そのうえ、いつも子供たちを笑わせていました。授業も遊びの延長で、校庭を散歩しながら教科書を読んだりして毎日がとても楽しかった。もし、完全無欠な先生がいたとしたら、この先生でしたが、それだけに他の先生には、理解できない部分が大きかった。
例えば、誰かが癇癪をおこして暴力を振るったとしたらクラス全員が
「赤ちゃん、赤ちゃんベロベロバー!」
と一斉に大声で囃し立てるのです。先生が、そういう風に仕向けたわけです。そのために授業中に私語は無く、イジメも無ければ暴力も無い。とにかく悪いことが出来ないのです。今思えば、賛否両論なんでしょうが、このおかげで善悪がはっきりし、クラス中が仲良くなって、楽しい毎日が続きました。
とにかく何から何まで破天荒なことをやる先生でした。教科書も順番どうりにやらないし、脱線は多いし、漢字なんかも、いきなり難しいことを教えるし、例えば「目」という字を教えるときなどは、黒板に
「すず目」
と書いて、
「目玉が空を飛んで餌を食べるかな?」
と子供たちを笑わせたりします。その他にも「目し(メシ)」とか「目んこ(メンコ)」とか「と目る(止める)」とか、いろいろ笑い話をする。目という漢字を教える前に、こういう笑い話をさんざんしたうえで漢字の「目」の意味を教えたりする。なので、なんとなく目が分かってくる。その上で目玉焼きとか、目つきとか、目前とかを教えてくれるので、目という字を一つ覚えるうちに、様々なことが分かってくる。
算数にしても、教科書をやるのではなく大きな算盤で、ひたすら遊んでいるうちに自然と足し算引き算を覚えてしまう。そのうえ隣同士で問題を出し合ってクイズ対戦をして遊んだりする。とにかく授業が楽しくて楽しくてしょうがない。
今と違って昔は、先取り学習なんかしなかったので、小学校で初めて文字や計算を学ぶ子供たちが多かったので、それだけに新しい知識が楽しかった。
ところが、この担任の先生とは、たった2ヶ月でお別れになりました。私は、肺炎になり1ヶ月間も学校を休むことになり、毎日、自宅で塩水でうがいする日々を続けたのです。暇すぎて一日中テレビをみていました。当時の私の田舎には、民放は1つしか無く、子供番組もなかったために、1日中、教育テレビを見ていたために、へんに雑学が増えていきました。アポロの月着陸もリアルタイムに自宅でみていました。
そして1ヶ月後、小学校に復帰してみると、担任の先生も肺炎にかかって長期のお休みをとっていた。それが肺癌であったのは、あとで知った事実です。そして、代理の先生が臨時に就任するわけですが、誰かが何かをやらかしてクラス全員が
「赤ちゃん、赤ちゃんベロベロバー!」
と囃し立てた瞬間、代理の先生は真っ赤になって怒って、一人に対して、全員で囃し立てることが、いかに悪いことか説教されました。そして、その日以降、ごく普通の、ありふれた平凡な授業スタイルがはじまりました。そして、ありふれたクラスになり、イジメも暴力もおき、子供たちも行儀が悪くなりました。

ちなみに肺癌になってしまった担任の先生は、その後、四年間も入院を続け、四年後にお亡くなりになったわけですが、当時は肺炎と聞かされており、すぐに復帰するものだと私たちも教育委員会も思っていました。で、非常勤(正教員ではない)の先生が、臨時に雇われ担任の先生となりました。
現在からすると、臨時の非常勤の先生が、担任を受け持つことも常識はずれですが、それが二年も続いて、二年間に五人も担任の先生が代わったことも常識外れです。昭和四十年代の教員の給料は、とても安くて先生のなり手がいなかった時代です。デモシカ先生といわれた時代でした。
中には、教員免許のない先生も多かった。私が中学校の時は、アルバイト教師から正教師になった先生が、知ってるだけで二人いました。一人は、特攻隊の生き残りで、一人は技術者でした。もちろん免許などもってない。ないけれど正規教員で、戦前だと陸軍航空隊の方が、教師の数倍ランク上のエリートだったらしい。校長か教育委員会か知らないけれど、教員をやってくれと、頭を下げてたのまれたらしい。思えば、のんびりした時代でしたね、昭和という時代は・・・。
まあ、そんなことどうでもいいとして、私が小学校一年から二年にかけて、二年間に五人も担任の先生が代わったことによって、すごく貴重な体験をしたわけですが、これについては、次回、つづきを書きます。
つづく。
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2019年04月14日
昭和40年代、とある小学校の話4 用務員さんの話
昭和40年代、とある小学校の話4 用務員さんの話
私が生まれたのは、昭和三十六年の七月です。出身地は新潟県は佐渡島。小学校に入学しますと、そこには薪ストーブがありました。今のおしゃれな薪ストーブをイメージしてはいけません。素朴でボロボロなストーブで、火傷防止のフェンスさえありません。火力の調整もできず、ストーブ前は真夏より暑く、そこから離れると寒くてしょうがなかった。窓は隙間だらけの木製の窓で、すきま風は入り放題。
当時、薪当番というものがあって、朝早くに学校に行って、用務員さんから薪をもらってきました。その薪は、太い針金でぐるぐると巻かれていました。その針金を分解して、新聞紙などの焚きつけて朝ストーブに火をつけるのでが、先生より上手に火をつげる一年生の子供がいました。
ところで、学校が終わると友達の自宅に遊びに行くことになります。そして夕方五時のサイレンが鳴ると家に帰るのですが、たまに友達のお母さんが、風呂を沸かしていました。当時、ボイラーのようなハイカラな風呂釜がある家は少なくて、五右衛門風呂か、巨大な樽風呂がほとんどでした。樽風呂の方が多かった気もします。もちろん薪で風呂を沸かすのですが、薪といってもみかん箱を解体して作った薪です。または、どっかから拾ってきた板を燃やして樽風呂を沸かしていました。それが珍しくて、私は、ずっと見学をしていた。というのも、私の家は当時珍しいボイラー式の風呂釜だったのです。つまり新築の家に住んでいた。そのために薪で風呂を沸かす友人の家の風呂釜が珍しかった。
それはともかく、 九月から一〇月ぐらいになりますと、小学校の校庭で、用務員さんが汗だくになって薪割りをする風景が見られるようになります。 三〇ぐらいある教室の薪ストーブの薪を蓄えなければいけないからです。それも莫大な量。年配の用務員さんが、上半身素っ裸になって、ねじりハチマキで、次から次と薪を割っていました。私と友人たちは、飽きもせずにずっと眺めていました。
用務員さんは何時間も何時間も黙々と薪を割っていました。薪は、校舎の壁に次から次と積み上げられていきますが、何しろ凄い数ですので、校舎の壁をずらっと薪の壁が包み込むようになります。だから校舎の窓を開けますと、すぐそこに薪の束があるという具合です。
ちなみに用務員さんは、とても優しい人でした。事情があって、私が泣きそうにながら学校に行くと、すぐに声をかけてくれて、心温まる対応をしてくれました。そういう用務員さんですから、みんなから好かれていたと思います。用務員さんには奥さんもいました。奥さんと一緒に学校に泊まり込んでいました。というか住んでいたと思います。毎日のように、夜の学校を見回っていました。私の父は、厳格な人間でしたので、私は何度も家を追い出されて街中を放浪したのですが、行き先は必ず小学校の縁の下でした。
父親に殴られ蹴られ何度も追い出されているうちに、子供ながらに知恵がついてきます。家を追い出される時のために、学校の縁の下に、こっそり秘密基地を作っていました。当時は、段ボール箱のようなものはありませんので、用務員さんが割って束ねた薪をせっせと学校の縁の下に運び、それで椅子やらベットを作り、食料や現金や懐中電灯などを隠しておいていました。

小学校二年生位の子供が、そんな不審行動をするものですから、用務員さんが気がつかないわけがありません。縁の下で、いろいろ作業してるのを、用務員さんに見つかってしまいました。怒られるのかな?と、びくびくしていましたが、彼は何も言いませんでした。私は慌てて逃げ出しました。用務員さんが追いかけてくる事はありませんでした。けれど、これで秘密基地はおじゃんになってしまったと観念しました。
しかしである、翌日、その秘密基地に行ってみると、何一つ撤去されてなかった。私が、作ったままそのままの状態で存在していたのです。すると、薪割りの音が聞こえてきました。私は縁の下から出てくると、用務員さんが、盛んに薪を割っていました。目と目が合いましたが、彼は黙々と薪をわっていた。私には何事もなかったように、作業を続けていたのです。今思い出してみると、非常に不思議な気がする。なぜ用務員さんが、何事もなかったようにスルーしてくれたんでしょうか? そして私が使ったために足りなくなった薪を、割り始めたんでしょうか? 今思えば不思議な事だらけです。
ただ思い当たることがあるというすれば、私は、夜の小学校で、よく用務員さんにお世話になっていることです。父親が厳格でしたので、ランドセルに教科書が一冊でも欠けていますと、学校に取りに行ってこいと怒鳴られて、泣きながら何度も学校に取りに行ったことがあります。もちろん、玄関から入るのではなく、窓からこっそり学校に入り込みました。夜は暗いので電気をつけて自分の席の机の中をごそごそとやる。その度に、用務員さんが駆けつけてくるのです。それはそうでしょう。夜の学校で電気をつければ、そこだけ目立つのです。泥棒でも入ったかと、用務員さんが恐る恐る駆けつけてきます。しかしそこには、小学校一年生位の子供が泣きながら、落とし物やプリントを探しているのだから、そういうことが何度も何度も続けば顔見知りになってしまいます。しかし彼は、深入りはしてきませんでした。とても優しい人でしたけれど、ある程度の距離を保って見守ってくれていました。それが良かった。秘密基地のそのままにしてくれていました。今では考えられないことかもしれません。
私は小学校三年生になった時、その用務員さんがいなくなりました。そして学校から薪が消えました。すべて石油ストーブになってしまったのです。日本はその頃から豊かになっていた気がします。ちょうど大阪万博が始まっていました。
つづく。
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私が生まれたのは、昭和三十六年の七月です。出身地は新潟県は佐渡島。小学校に入学しますと、そこには薪ストーブがありました。今のおしゃれな薪ストーブをイメージしてはいけません。素朴でボロボロなストーブで、火傷防止のフェンスさえありません。火力の調整もできず、ストーブ前は真夏より暑く、そこから離れると寒くてしょうがなかった。窓は隙間だらけの木製の窓で、すきま風は入り放題。
当時、薪当番というものがあって、朝早くに学校に行って、用務員さんから薪をもらってきました。その薪は、太い針金でぐるぐると巻かれていました。その針金を分解して、新聞紙などの焚きつけて朝ストーブに火をつけるのでが、先生より上手に火をつげる一年生の子供がいました。
ところで、学校が終わると友達の自宅に遊びに行くことになります。そして夕方五時のサイレンが鳴ると家に帰るのですが、たまに友達のお母さんが、風呂を沸かしていました。当時、ボイラーのようなハイカラな風呂釜がある家は少なくて、五右衛門風呂か、巨大な樽風呂がほとんどでした。樽風呂の方が多かった気もします。もちろん薪で風呂を沸かすのですが、薪といってもみかん箱を解体して作った薪です。または、どっかから拾ってきた板を燃やして樽風呂を沸かしていました。それが珍しくて、私は、ずっと見学をしていた。というのも、私の家は当時珍しいボイラー式の風呂釜だったのです。つまり新築の家に住んでいた。そのために薪で風呂を沸かす友人の家の風呂釜が珍しかった。
それはともかく、 九月から一〇月ぐらいになりますと、小学校の校庭で、用務員さんが汗だくになって薪割りをする風景が見られるようになります。 三〇ぐらいある教室の薪ストーブの薪を蓄えなければいけないからです。それも莫大な量。年配の用務員さんが、上半身素っ裸になって、ねじりハチマキで、次から次と薪を割っていました。私と友人たちは、飽きもせずにずっと眺めていました。
用務員さんは何時間も何時間も黙々と薪を割っていました。薪は、校舎の壁に次から次と積み上げられていきますが、何しろ凄い数ですので、校舎の壁をずらっと薪の壁が包み込むようになります。だから校舎の窓を開けますと、すぐそこに薪の束があるという具合です。
ちなみに用務員さんは、とても優しい人でした。事情があって、私が泣きそうにながら学校に行くと、すぐに声をかけてくれて、心温まる対応をしてくれました。そういう用務員さんですから、みんなから好かれていたと思います。用務員さんには奥さんもいました。奥さんと一緒に学校に泊まり込んでいました。というか住んでいたと思います。毎日のように、夜の学校を見回っていました。私の父は、厳格な人間でしたので、私は何度も家を追い出されて街中を放浪したのですが、行き先は必ず小学校の縁の下でした。
父親に殴られ蹴られ何度も追い出されているうちに、子供ながらに知恵がついてきます。家を追い出される時のために、学校の縁の下に、こっそり秘密基地を作っていました。当時は、段ボール箱のようなものはありませんので、用務員さんが割って束ねた薪をせっせと学校の縁の下に運び、それで椅子やらベットを作り、食料や現金や懐中電灯などを隠しておいていました。

小学校二年生位の子供が、そんな不審行動をするものですから、用務員さんが気がつかないわけがありません。縁の下で、いろいろ作業してるのを、用務員さんに見つかってしまいました。怒られるのかな?と、びくびくしていましたが、彼は何も言いませんでした。私は慌てて逃げ出しました。用務員さんが追いかけてくる事はありませんでした。けれど、これで秘密基地はおじゃんになってしまったと観念しました。
しかしである、翌日、その秘密基地に行ってみると、何一つ撤去されてなかった。私が、作ったままそのままの状態で存在していたのです。すると、薪割りの音が聞こえてきました。私は縁の下から出てくると、用務員さんが、盛んに薪を割っていました。目と目が合いましたが、彼は黙々と薪をわっていた。私には何事もなかったように、作業を続けていたのです。今思い出してみると、非常に不思議な気がする。なぜ用務員さんが、何事もなかったようにスルーしてくれたんでしょうか? そして私が使ったために足りなくなった薪を、割り始めたんでしょうか? 今思えば不思議な事だらけです。
ただ思い当たることがあるというすれば、私は、夜の小学校で、よく用務員さんにお世話になっていることです。父親が厳格でしたので、ランドセルに教科書が一冊でも欠けていますと、学校に取りに行ってこいと怒鳴られて、泣きながら何度も学校に取りに行ったことがあります。もちろん、玄関から入るのではなく、窓からこっそり学校に入り込みました。夜は暗いので電気をつけて自分の席の机の中をごそごそとやる。その度に、用務員さんが駆けつけてくるのです。それはそうでしょう。夜の学校で電気をつければ、そこだけ目立つのです。泥棒でも入ったかと、用務員さんが恐る恐る駆けつけてきます。しかしそこには、小学校一年生位の子供が泣きながら、落とし物やプリントを探しているのだから、そういうことが何度も何度も続けば顔見知りになってしまいます。しかし彼は、深入りはしてきませんでした。とても優しい人でしたけれど、ある程度の距離を保って見守ってくれていました。それが良かった。秘密基地のそのままにしてくれていました。今では考えられないことかもしれません。
私は小学校三年生になった時、その用務員さんがいなくなりました。そして学校から薪が消えました。すべて石油ストーブになってしまったのです。日本はその頃から豊かになっていた気がします。ちょうど大阪万博が始まっていました。
つづく。
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2019年04月13日
昭和40年代、とある小学校の話3 教頭先生の話
昭和40年代、とある小学校の話3 教頭先生の話
今から五十年前、私が小学生の頃に新しい教頭先生が赴任してくると、突然、教育スタイルが変わりました。それまで担任の先生が担当していた図工・音楽を教頭先生が教えるようになりました。この教頭先生は、背が高く筋骨隆々で運動神経もよく、走ればサラブレ等のように早く、プールに入ればイルカのように泳ぎ、声を発すれば雷ように轟き、背筋がピンとして足が長く、そして頭がはげていました。

この教頭先生は、それまでの影の薄かった教頭先生と違って、やたらとはりきっていました。朝には全校生徒が体育館に集り全校集会を行うことになり、しかもその全校集会は、いつも長引いて、毎日二〜三人の子供たちが貧血で倒れ、保健室に連れて行かれました。それでも毎日はりきって全校集会で演説する教頭先生でした。六百人もいる子供たちは体育館で、教頭先生の決めた今月の目標を声を出して読み上げたものです。
こうなると、 六年生はもとより、二年生ぐらいの低学年の子どもたちでさえ、学校の教育スタイルがガラリと変わったことを認識します。それに対する感想は人それぞれだと思いますが、大方の子供たちは『めんどくさい人が教頭先生になったなぁ』と言う感じだと思います。なにしろ突然授業中に教頭先生が入ってきて、授業の見学をするわけですから、こういう先生にあだ名ニックネームがつかないわけがありません。
ハゲ頭先生とか、ツル先生とか、といったニックネームがガンガン生まれます。普通ニックネームは一つなんですが、この教頭先生に限って無限大に増殖していきました。そしていくら増殖しても新しいニックネームが生まれても誰もが教頭先生のことだとわかります。
もちろんハゲ頭の先生は他にもいっぱいいましたが、他のハゲ頭の先生にはニックネームがつきません。単なるハゲではダメなんです。光り輝いてないとニックネームがつくことありません。そういう意味では、この教頭先生は、常に光り輝いていました。その行動力と、その強引さと、その理想に燃える教育熱心さに輝いていた。これが子供たちにとってまぶしかった。
この教頭先生は、スポーツ万能で長身。プールでは、すばらしい泳ぎをみせますが、なぜかこの先生だけは規則で決められている水泳帽をしない。髪の毛がないのでする必要が無いんでしょうが、そのせいで太陽を良く反射する。
教頭先生は、ピアノもプロなみに弾くので音楽教師にもなり、美術教師にもなりました。それまで担任の先生が担当していた図工の授業は、教頭先生が受け持つことになりました。そして図工の時間になると、意気揚々と出現し、図工の時間だというのに例によって演説から始まります。その日は、イメージについて教頭先生は語りました。いかにイメージを持つか、そのイメージが大切だと言うのです。それを延々と語った後に教頭先生は仰いました。
「ではみなさん、私に対するイメージを一人一人聞かせてください」
だれも答えません。
「何でもいいんですよ、どんな些細なことでもいいから教頭先生のイメージを語ってください」
「・・・・」
「じゃあはじから言ってもらおうか、◆◆君、君はどんなイメージを持ってかい?」
「それ言ったら先生が怒るから」
「怒らないよ」
「絶対怒るもん」
「どうして先生が怒ると思うの? 怒らないから」
「いやいや絶対に怒ると思う」
「怒らないよ」
「絶対に怒らない? 」
「怒らない怒らない」
「絶対に? 」
「約束します」
「じゃぁいいます」
「・・・・」
「ハゲ頭」
教室は一気に大爆笑と重なりました。
教頭先生は微動だにせず次の児童を指名しました。
「フラッシュ」
その次も大爆笑。
次の児童もイメージを語りますが、どれもこれもが大爆笑。
「太陽」
「反射鏡」
「まぶしい」
「電球」
「つるっぱげ」
教室は次々と爆笑の渦となって授業になりませんでした。子供は残酷です。教頭先生は苦笑いしながらも少し寂しそうな顔をしていました。そして私のクラスの図工の時間は、再び担任の先生が受け持つようになりました。私も頭が薄くなってきています。あの教頭先生に、今頃になって親近感がわいてきています。
つづく。
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今から五十年前、私が小学生の頃に新しい教頭先生が赴任してくると、突然、教育スタイルが変わりました。それまで担任の先生が担当していた図工・音楽を教頭先生が教えるようになりました。この教頭先生は、背が高く筋骨隆々で運動神経もよく、走ればサラブレ等のように早く、プールに入ればイルカのように泳ぎ、声を発すれば雷ように轟き、背筋がピンとして足が長く、そして頭がはげていました。

この教頭先生は、それまでの影の薄かった教頭先生と違って、やたらとはりきっていました。朝には全校生徒が体育館に集り全校集会を行うことになり、しかもその全校集会は、いつも長引いて、毎日二〜三人の子供たちが貧血で倒れ、保健室に連れて行かれました。それでも毎日はりきって全校集会で演説する教頭先生でした。六百人もいる子供たちは体育館で、教頭先生の決めた今月の目標を声を出して読み上げたものです。
こうなると、 六年生はもとより、二年生ぐらいの低学年の子どもたちでさえ、学校の教育スタイルがガラリと変わったことを認識します。それに対する感想は人それぞれだと思いますが、大方の子供たちは『めんどくさい人が教頭先生になったなぁ』と言う感じだと思います。なにしろ突然授業中に教頭先生が入ってきて、授業の見学をするわけですから、こういう先生にあだ名ニックネームがつかないわけがありません。
ハゲ頭先生とか、ツル先生とか、といったニックネームがガンガン生まれます。普通ニックネームは一つなんですが、この教頭先生に限って無限大に増殖していきました。そしていくら増殖しても新しいニックネームが生まれても誰もが教頭先生のことだとわかります。
もちろんハゲ頭の先生は他にもいっぱいいましたが、他のハゲ頭の先生にはニックネームがつきません。単なるハゲではダメなんです。光り輝いてないとニックネームがつくことありません。そういう意味では、この教頭先生は、常に光り輝いていました。その行動力と、その強引さと、その理想に燃える教育熱心さに輝いていた。これが子供たちにとってまぶしかった。
この教頭先生は、スポーツ万能で長身。プールでは、すばらしい泳ぎをみせますが、なぜかこの先生だけは規則で決められている水泳帽をしない。髪の毛がないのでする必要が無いんでしょうが、そのせいで太陽を良く反射する。
教頭先生は、ピアノもプロなみに弾くので音楽教師にもなり、美術教師にもなりました。それまで担任の先生が担当していた図工の授業は、教頭先生が受け持つことになりました。そして図工の時間になると、意気揚々と出現し、図工の時間だというのに例によって演説から始まります。その日は、イメージについて教頭先生は語りました。いかにイメージを持つか、そのイメージが大切だと言うのです。それを延々と語った後に教頭先生は仰いました。
「ではみなさん、私に対するイメージを一人一人聞かせてください」
だれも答えません。
「何でもいいんですよ、どんな些細なことでもいいから教頭先生のイメージを語ってください」
「・・・・」
「じゃあはじから言ってもらおうか、◆◆君、君はどんなイメージを持ってかい?」
「それ言ったら先生が怒るから」
「怒らないよ」
「絶対怒るもん」
「どうして先生が怒ると思うの? 怒らないから」
「いやいや絶対に怒ると思う」
「怒らないよ」
「絶対に怒らない? 」
「怒らない怒らない」
「絶対に? 」
「約束します」
「じゃぁいいます」
「・・・・」
「ハゲ頭」
教室は一気に大爆笑と重なりました。
教頭先生は微動だにせず次の児童を指名しました。
「フラッシュ」
その次も大爆笑。
次の児童もイメージを語りますが、どれもこれもが大爆笑。
「太陽」
「反射鏡」
「まぶしい」
「電球」
「つるっぱげ」
教室は次々と爆笑の渦となって授業になりませんでした。子供は残酷です。教頭先生は苦笑いしながらも少し寂しそうな顔をしていました。そして私のクラスの図工の時間は、再び担任の先生が受け持つようになりました。私も頭が薄くなってきています。あの教頭先生に、今頃になって親近感がわいてきています。
つづく。
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2019年04月12日
昭和40年代、とある小学校の話2 校長先生の話
昭和40年代、とある小学校の話2 校長先生の話
息子が小学校に入学してから四日目。今日も楽しそうに小学校に通っています。それはともかく今年から嬬恋村小学校では、専門の先生が一教科ずつ教えるのではなく、担任の先生が全てを教えるシステムになったそうです。という事は、去年までは、算数算数の先生。国語は国語の先生が教えていたそうで、このシステムが、あまりよくないということで、今年から担任の先生が全て教えるようになったそうです。
今から五十年前、私が小学生の頃も、ある日突然、授業スタイルが変わることがありました。突然変わる時は、必ず教頭先生が変わった時でした。そしてここが不思議なのですが、校長先生が変わっても授業スタイルが変わることがありませんでした。教頭先生が変わると授業スタイルに変化があったのにです。
では、校長先生が新しくなるとどうなるんでしょう?
校長先生が変わると小学校の何が変わるんでしょうか?
校長先生が新しくなると、授業スタイルではなくて、全く別のものが変わってきます。私が小学生の頃、金井小学校という学校に通っていたんですが、そこの校長先生の名前が原田先生(ハレダ)と言いました。この校長先生がいる時は、遠足でも運動会でも、どんな行事でも必ず晴れたものです。ところが、隣町の両津小学校では、遠足も運動会も全ての行事が全て雨でした。そこの校長先生は、水落(みずおち)と言う名前でした。
金井小学校の先生方も、私たち児童たちも、この原田先生のことを『ハレダ(晴れだ)大明神』と言って、生神様のように敬っていました。原田先生は、背が低くてちょっと小太り気味でしたが、いつもニコニコしていて、とっても優しいお方でした。ほっぺたは赤くて、鼻先はお酒に焼けていましたが、その笑顔を見ると、小学校に入ったばかりの私などは、とても癒されたものです。

(佐渡人名録より借用)
ある時、友人とかくれんぼした時に、校長室に隠れていたら、校長先生がやってきて、青ざめたことがあったのですが、原田先生はニコニコと、頭を撫でてくれて、明日の遠足、晴れるといいねと、ニコニコ話してくれました。
そして当日、ハレダ大明神の力は強烈で、朝から雲一つもない日本晴れ。しかし私は、母親から熱があると注意されて、それが学校に連絡が行き一人学校で留守番する羽目になり、大きな小学校の校舎で一人ポツンと残された。とても寂しかったんですが、晴れだ大明神も、 一人ポツンと校舎の中に残されているのを知って、ちょっとほっとしたことを覚えています。
数年後、原田先生が退職されると、運動会も遠足も天気が不安定になり、校長先生の神通力を思い知ったものです。
つづく。
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息子が小学校に入学してから四日目。今日も楽しそうに小学校に通っています。それはともかく今年から嬬恋村小学校では、専門の先生が一教科ずつ教えるのではなく、担任の先生が全てを教えるシステムになったそうです。という事は、去年までは、算数算数の先生。国語は国語の先生が教えていたそうで、このシステムが、あまりよくないということで、今年から担任の先生が全て教えるようになったそうです。
今から五十年前、私が小学生の頃も、ある日突然、授業スタイルが変わることがありました。突然変わる時は、必ず教頭先生が変わった時でした。そしてここが不思議なのですが、校長先生が変わっても授業スタイルが変わることがありませんでした。教頭先生が変わると授業スタイルに変化があったのにです。
では、校長先生が新しくなるとどうなるんでしょう?
校長先生が変わると小学校の何が変わるんでしょうか?
校長先生が新しくなると、授業スタイルではなくて、全く別のものが変わってきます。私が小学生の頃、金井小学校という学校に通っていたんですが、そこの校長先生の名前が原田先生(ハレダ)と言いました。この校長先生がいる時は、遠足でも運動会でも、どんな行事でも必ず晴れたものです。ところが、隣町の両津小学校では、遠足も運動会も全ての行事が全て雨でした。そこの校長先生は、水落(みずおち)と言う名前でした。
金井小学校の先生方も、私たち児童たちも、この原田先生のことを『ハレダ(晴れだ)大明神』と言って、生神様のように敬っていました。原田先生は、背が低くてちょっと小太り気味でしたが、いつもニコニコしていて、とっても優しいお方でした。ほっぺたは赤くて、鼻先はお酒に焼けていましたが、その笑顔を見ると、小学校に入ったばかりの私などは、とても癒されたものです。

(佐渡人名録より借用)
ある時、友人とかくれんぼした時に、校長室に隠れていたら、校長先生がやってきて、青ざめたことがあったのですが、原田先生はニコニコと、頭を撫でてくれて、明日の遠足、晴れるといいねと、ニコニコ話してくれました。
そして当日、ハレダ大明神の力は強烈で、朝から雲一つもない日本晴れ。しかし私は、母親から熱があると注意されて、それが学校に連絡が行き一人学校で留守番する羽目になり、大きな小学校の校舎で一人ポツンと残された。とても寂しかったんですが、晴れだ大明神も、 一人ポツンと校舎の中に残されているのを知って、ちょっとほっとしたことを覚えています。
数年後、原田先生が退職されると、運動会も遠足も天気が不安定になり、校長先生の神通力を思い知ったものです。
つづく。
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2019年04月11日
昭和40年代、とある小学校の話
息子が小学校に入学してから3日目。小学校は楽しい?と聞いたら、すごく楽しいと答えます。うちの息子は好奇心がとても強いので、新しい環境がいたく気に入ったようです。この辺はうちの嫁さんの性格にそっくり。やたらと好奇心が強い。逆に私の場合は、なかなか小学校に馴染めなかった。授業サボってひとりで小学校の館内を散策したりしてました。
昭和時代の小学校ですから築80周年の校舎で古い。中庭には井戸があり、温室があり、ブランコがあり、動物小屋があったり。縁の下には、何十匹と言うコウモリ。その他にも町の施設(図書館など)が小学校の中にテナントで入っていて、その辺を散策するのも楽しかった。不思議なことに当時の担任の先生は、私が授業サボってぶらぶらしていても、親に通報することもなく、放置してくれました。
そして何日か出すと私の放浪癖は収まって、みんなと一緒に授業を受けるようになった。思えばいい時代だった。今だったら確実に大問題になっていたと思います。しかし、ある程度放置してもらったせいか、私の放浪癖は消えてしまった。そのうち教室でみんなと一緒に真面目に授業を受けていました。そして皆で校外を散歩したりしました。
この時の担任の先生のことをよく思い出します。授業中に何度も咳をして、そして咳が止まらなくなり、苦しそうでした。
私のほうも肺炎にかかり1ヶ月間自宅静養することになり、 1ヶ月後に学校に登校しました。その時は担任の先生は、合いませんでした。代理の先生の話によれば、肺の病気にかかって入院してるとのこと。私も肺炎でしたが、その先生も肺の病気でした。
こうして1年生の時は、 2人の先生に学んでいます。そして2年生になると、1学期ごとに臨時の先生が変わりました。代用教員だったと思います。担任の先生が復帰するまでの臨時教員だったと思いますが、なかなか復帰しなかったので、教育委員会は1学期ごとに1人ずつ代用教員を雇い1年間に3人の先生に習っています。
結局担任の先生は、復帰することもなく、その後癌で亡くなったわけですが、そのために私は、2年間で5人の先生に学んでいます。 2年生で受け持ってもらった3人の代用教員たちは、その後、別の小学校で正式な教員に採用されることになり、感謝のためと言うことで、私が居た小学校に、ジャングルジムとかブランコなんかを寄付してくれたりしています。

それにしても思う事は、昭和時代の佐渡島は本当にのんびりしていた。 平成時代でも、令和時代であっても、ありえないことだと思います。しかし、昔はのんびりしていたので、病気になった担任の先生がいつか復活すると信じて、教育委員会が温情に温情を重ねたんだと思います。2年間に5人もの先生に学ぶという非常に得がたい経験をしました。
つづく。
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昭和時代の小学校ですから築80周年の校舎で古い。中庭には井戸があり、温室があり、ブランコがあり、動物小屋があったり。縁の下には、何十匹と言うコウモリ。その他にも町の施設(図書館など)が小学校の中にテナントで入っていて、その辺を散策するのも楽しかった。不思議なことに当時の担任の先生は、私が授業サボってぶらぶらしていても、親に通報することもなく、放置してくれました。
そして何日か出すと私の放浪癖は収まって、みんなと一緒に授業を受けるようになった。思えばいい時代だった。今だったら確実に大問題になっていたと思います。しかし、ある程度放置してもらったせいか、私の放浪癖は消えてしまった。そのうち教室でみんなと一緒に真面目に授業を受けていました。そして皆で校外を散歩したりしました。
この時の担任の先生のことをよく思い出します。授業中に何度も咳をして、そして咳が止まらなくなり、苦しそうでした。
私のほうも肺炎にかかり1ヶ月間自宅静養することになり、 1ヶ月後に学校に登校しました。その時は担任の先生は、合いませんでした。代理の先生の話によれば、肺の病気にかかって入院してるとのこと。私も肺炎でしたが、その先生も肺の病気でした。
こうして1年生の時は、 2人の先生に学んでいます。そして2年生になると、1学期ごとに臨時の先生が変わりました。代用教員だったと思います。担任の先生が復帰するまでの臨時教員だったと思いますが、なかなか復帰しなかったので、教育委員会は1学期ごとに1人ずつ代用教員を雇い1年間に3人の先生に習っています。
結局担任の先生は、復帰することもなく、その後癌で亡くなったわけですが、そのために私は、2年間で5人の先生に学んでいます。 2年生で受け持ってもらった3人の代用教員たちは、その後、別の小学校で正式な教員に採用されることになり、感謝のためと言うことで、私が居た小学校に、ジャングルジムとかブランコなんかを寄付してくれたりしています。
それにしても思う事は、昭和時代の佐渡島は本当にのんびりしていた。 平成時代でも、令和時代であっても、ありえないことだと思います。しかし、昔はのんびりしていたので、病気になった担任の先生がいつか復活すると信じて、教育委員会が温情に温情を重ねたんだと思います。2年間に5人もの先生に学ぶという非常に得がたい経験をしました。
つづく。
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2018年03月28日
息子を連れて佐渡島へ 18 佐渡汽船・北軽井沢に帰る
人類は名前がついているだけで25種ありますが、みんな次々と絶滅しています。最後に残ったのがネアンデルタール人とホモサピエンス。この両者は、非常に高度な文明をもっていました。しかし、ネアンデルタール人は滅びてホモサピエンスが生き残った。ネアンデルタール人は、私たちより脳も大きく、ガッシリしていたのに何故か滅びてしまった。彼らは、我々と同等の知能があり、体格も優れ、遺伝的な差異が全くなかったにもかかわらず、なぜか滅びたのか? 逆にどうして私たちホモサピエンスが繁栄したのか?
それを解明するために人類交替劇プロジェクトというものが立ち上がっています。世界中の各分野の学者たちが、ネアンデルタール人が滅びた原因をさぐる人類交替劇プロジェクトです。このプロジェクトは、従来の専門家の他に、文化人類学、発達心理学、生体力学、精密工学、認知神経科学、古神経学などの異分野の人たちを巻き込んで、学問の相互乗り入れをしたユニークなプロジェクトでした。
そのプロジェクトの中で、私にとって面白かった研究は、ネアンデルタール人が社会学習を得意としていたのに対し、ホモサピエンスが個体学習を得意としていたというところです。これをまとめると、こうなります。
◆ネアンデルタール→社会学習を得意(他人を模倣して作る)
◆ホモサピエンス →個体学習を得意(個人が創意工夫する)
社会学習を得意とするネアンデルタールは、親や大人が子供に石器の作り方を教えていたわけです。その方法は伝統的に受け継がれ、そのために生息地域もヨーロッパという狭い地域にしかネアンデルタールは定着しなかった。
では、ホモサピエンスはどうだったか?
というと、どうも、そうではなかったらしいのです。
人類交替劇プロジェクトの文化人類学者グループが、人類交代劇が起きた頃のホモサピエンスに最も近いといわれる狩猟採集民を観察することによって、ホモサピエンスの学習行動の特徴を明らかにしたわけですが、未開の奥地に住む狩猟採集民は、子供に何も教えていない。子供は、親のやることを見ているだけで、何一つ教わってないという事がわかった。
母親は、料理を作っている姿を見せるだけ。
父親や、年長の子供たちも動物を捕らえる罠を作ってみせるだけで、
決して教えようとはしない。
狩猟採集民の子供たちは、見てるだけなんです。
学校制度の整った先進諸国の人間からすると、奇異に感じるかもしれませんが、人類交代劇が起きた頃のホモサピエンスは、子供たちに社会学習をさせてなかった。そのためにホモサピエンスは、創意工夫を必要とする個体学習の力を育てる必要があったわけです。その結果、創意工夫する力が育ち全世界のあらゆる地域に対応していった。
逆に言うと、今の学校制度というのは、ホモサピエンス型ではなく、ネアンデルタール型の学習行動に近いんですよね。しかし、社会学習のネアンデルタールは、生存競争でホモサピエンスに負けている。
ここから本題です。
この仮説の正否はともかく、幼児は、徹底的に親の真似をしますね。教えて無くとも親の本能的に真似をする。そして学習する。ホモサピエンスの原型である狩猟採集民と同じです。幼児は、強制しなくともホモサピエンスのように個体学習をする。逆に言うと社会学習を拒否する。
「これこれをしなさい」
と命令すると天邪鬼のように反発する。ネアンデルタールのように素直に社会学習してくれない。
親が口で言ったことに反発し(社会学習を拒否)、
親の日常行動を真似する(進んで個体学習する)。
幼児という存在は、ホモサピエンスの学習行動にそっくりです。
というか、ホモサピエンスの本質そのものです。
逆に言うと、幼児を操るのは簡単で親が手本を示すだけでいい。
私は、脳科学者の本に「子供は親の真似をする」と書いてあったので、半信半疑で、ある脳科学者の実験の真似をしてみました。息子が二歳の時に、毎日一緒に風呂に入って、そのたびに風呂場に貼った「あいうえお表」を読んでみたら、息子も真似をして二週間で平仮名をマスターしてしまった。
二歳の息子は勝手に個体学習してしまった。逆に、その息子に漢字の勉強という社会学習。つまり勉強を強要してみたら拒否されてしまった。そして一年間、漢字を覚えようとしなかった。幼児は、徹底したホモサピエンスタイプなんだなと思ってしまいました。

話は変わりますが、
うちの息子は、字だけは二歳になる前に読めるようになっています。
勝手に個体学習をして読むようになっています。
けれど、字を書くことは、なかなかしなかった。
当たり前のことなんですが、字が書けなくて当然です。
親の私が字を書いてないからです。
パソコンばかり使っている。
だから息子は、個体学習のしようがない。
そして「字を書け」と命令すれば社会学習になるので、
どうしても反発してしまう。
これじゃ一生かかっても字が書けない可能性が高い。
そこで私は、100円ショップなどで迷路の本やパズルを買ってきて、息子と一緒に寝る前に、迷路やパズルをやるようにしました。迷路やパズルで、字を書く握力をつけるためです。息子は、人より成長が遅く、子供園では「落ちこぼれ」だったために、子供園の先生の紹介で専門の先生に指導を受けていたんですが、その先生が
「指の力がつくまで、文字を書かせないように」
「文字よりも前に、指を鍛えなさい」
と言っていたので、そのために迷路なんかを買いました。
もちろん最初は私が迷路で遊びます。鉛筆で迷路に線を書きながらスタートからゴールをめざします。それを見た息子は、すぐに真似をしはじめます。私から迷路を取り上げて熱中する。それを私は側で見てると、息子はますます熱中する。そうやって、指を鍛えたからこそ、私の母親が30分教えるだけで、自分の名前を書けるようになったと思うのですが・・・・。
しかし、ここが面白いところですが、そばで見てないと息子は数分で迷路ゲームをやめてしまう。私が料理の準備をしだすと、そっちに興味がいってしまう。逆に側で見ていると何十分も迷路ゲームをして厭きる様子もない。でも、こっちが厭きてくるから私が本を読み始めると、息子も真似して絵本を読み始める。親の真似をする。親の後を追い、親の真似をしながら勝手に個体学習をはじめる。
しかし私が「そっちじゃなくて、この絵本を読んだら?」と提案すると拒否する。私の提案は社会学習そのものなので、息子の奴は、社会学習を拒否する。けれど個体学習は進んでやる。親の後を追い続け、親のやることを模倣して、親の行動を真似する。やってることはホモサピエンスそのものであり、狩猟採集民の個体学習と同じです。
逆にいうと、幼稚園・保育園に行きたがらない幼児は、本能的に社会学習を拒否しているのかもしれない。母親の側で、個体学習をしたがるホモサピエンスの本能みたいなものかもしれない。そうなると、
幼児という存在は、ホモサピエンスそのもの。
逆に大人は、ネアンデルタールの世界にいる。
そう考えると、ちょっと笑えてきます。ネアンデルタールタイプの教師が、ホモサピエンスタイプの子供と、ぶつかったらどうなるか? 上司と部下の場合はどうなるのか? 監督と選手の場合はどうなのか? 医師と看護師は? 軍人の場合はどうなのか? 大企業の場合は? 自営業者は? それらを空想してみると、ニヤニヤがとまりません。

それはともかくとして、息子は、私の母親(息子にとってお祖母ちゃん)から、「たける」という文字の書き方を学びました。私の母親の教え方は、ネアンデルタールタイプなんですが、息子は、その社会学習を拒否しません。
私の母親は、褒めまくって勉強させるタイプなので、社会学習をしているという感じを受けなかったのか? とにかく素直に学びました。私の母は、褒めて教えるタイプなので、息子本人にしてみたら、勉強をやらされている感じが無かったのかもしれません。なので息子の奴は、勝手に個体学習しているつもりだったのかもしれません。気がついたら三十分くらいで自分の名前が書けるようになっていたのです。
と言うことは、ネアンデルタールタイプの教え方でも、やり方次第では、幼児もそれを受け入れるということかもしれません。だからこそ、子供園・幼稚園・保育所が大好きな子供がいたりするんでしょうね。

その後、私たちは、北軽井沢に帰るために佐渡汽船の『ときわ丸』に乗り込み新潟港に向かいました。そして乗船後、恒例のカモメさんたちへの餌やり体験をしました。写真をみてもわかるとおり、カモメさんたちは、餌をもとめて近くまでやってきます。




その後は、船内の探検です。ときわ丸は新造船で、レストラン・コンビニ・ゲームセンター・劇場・ペット室はもちろんのこと、授乳室からベビールームまであります。どれも昔の船に無かったものばかり。そのうえ全長125メートル・5380トンという大きさ。私が子供の頃に乗った佐渡汽船『おけさ丸』が、たったの919トンですから5倍以上の大きさ。
そのうえコスプレまでできる。
息子も、コスプレして遊んでいました。




ちなみに嫁さんは、船に弱くてダウン。息子は、好奇心の塊で、船内探検しまくっているうちに、船は新潟港に到着してしまいました。こうして三泊四日の佐渡島旅行は終了です。ちなみに、船の料金は片道2,250円。ただし、うちの場合は、軽自動車で島に上陸したので、カーフェリー自動車航送運賃の正規の値段が二万円くらい。そこからインターネットで割引してもらっています。軽自動車なら自動車を航送した方が良いし、大きめの車なら佐渡でレンタカーを借りた方が安いですね。どっちにしても、佐渡観光する場合、自動車が無いと不便です。










つづく。
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それを解明するために人類交替劇プロジェクトというものが立ち上がっています。世界中の各分野の学者たちが、ネアンデルタール人が滅びた原因をさぐる人類交替劇プロジェクトです。このプロジェクトは、従来の専門家の他に、文化人類学、発達心理学、生体力学、精密工学、認知神経科学、古神経学などの異分野の人たちを巻き込んで、学問の相互乗り入れをしたユニークなプロジェクトでした。
そのプロジェクトの中で、私にとって面白かった研究は、ネアンデルタール人が社会学習を得意としていたのに対し、ホモサピエンスが個体学習を得意としていたというところです。これをまとめると、こうなります。
◆ネアンデルタール→社会学習を得意(他人を模倣して作る)
◆ホモサピエンス →個体学習を得意(個人が創意工夫する)
社会学習を得意とするネアンデルタールは、親や大人が子供に石器の作り方を教えていたわけです。その方法は伝統的に受け継がれ、そのために生息地域もヨーロッパという狭い地域にしかネアンデルタールは定着しなかった。
では、ホモサピエンスはどうだったか?
というと、どうも、そうではなかったらしいのです。
人類交替劇プロジェクトの文化人類学者グループが、人類交代劇が起きた頃のホモサピエンスに最も近いといわれる狩猟採集民を観察することによって、ホモサピエンスの学習行動の特徴を明らかにしたわけですが、未開の奥地に住む狩猟採集民は、子供に何も教えていない。子供は、親のやることを見ているだけで、何一つ教わってないという事がわかった。
母親は、料理を作っている姿を見せるだけ。
父親や、年長の子供たちも動物を捕らえる罠を作ってみせるだけで、
決して教えようとはしない。
狩猟採集民の子供たちは、見てるだけなんです。
学校制度の整った先進諸国の人間からすると、奇異に感じるかもしれませんが、人類交代劇が起きた頃のホモサピエンスは、子供たちに社会学習をさせてなかった。そのためにホモサピエンスは、創意工夫を必要とする個体学習の力を育てる必要があったわけです。その結果、創意工夫する力が育ち全世界のあらゆる地域に対応していった。
逆に言うと、今の学校制度というのは、ホモサピエンス型ではなく、ネアンデルタール型の学習行動に近いんですよね。しかし、社会学習のネアンデルタールは、生存競争でホモサピエンスに負けている。
ここから本題です。
この仮説の正否はともかく、幼児は、徹底的に親の真似をしますね。教えて無くとも親の本能的に真似をする。そして学習する。ホモサピエンスの原型である狩猟採集民と同じです。幼児は、強制しなくともホモサピエンスのように個体学習をする。逆に言うと社会学習を拒否する。
「これこれをしなさい」
と命令すると天邪鬼のように反発する。ネアンデルタールのように素直に社会学習してくれない。
親が口で言ったことに反発し(社会学習を拒否)、
親の日常行動を真似する(進んで個体学習する)。
幼児という存在は、ホモサピエンスの学習行動にそっくりです。
というか、ホモサピエンスの本質そのものです。
逆に言うと、幼児を操るのは簡単で親が手本を示すだけでいい。
私は、脳科学者の本に「子供は親の真似をする」と書いてあったので、半信半疑で、ある脳科学者の実験の真似をしてみました。息子が二歳の時に、毎日一緒に風呂に入って、そのたびに風呂場に貼った「あいうえお表」を読んでみたら、息子も真似をして二週間で平仮名をマスターしてしまった。
二歳の息子は勝手に個体学習してしまった。逆に、その息子に漢字の勉強という社会学習。つまり勉強を強要してみたら拒否されてしまった。そして一年間、漢字を覚えようとしなかった。幼児は、徹底したホモサピエンスタイプなんだなと思ってしまいました。
話は変わりますが、
うちの息子は、字だけは二歳になる前に読めるようになっています。
勝手に個体学習をして読むようになっています。
けれど、字を書くことは、なかなかしなかった。
当たり前のことなんですが、字が書けなくて当然です。
親の私が字を書いてないからです。
パソコンばかり使っている。
だから息子は、個体学習のしようがない。
そして「字を書け」と命令すれば社会学習になるので、
どうしても反発してしまう。
これじゃ一生かかっても字が書けない可能性が高い。
そこで私は、100円ショップなどで迷路の本やパズルを買ってきて、息子と一緒に寝る前に、迷路やパズルをやるようにしました。迷路やパズルで、字を書く握力をつけるためです。息子は、人より成長が遅く、子供園では「落ちこぼれ」だったために、子供園の先生の紹介で専門の先生に指導を受けていたんですが、その先生が
「指の力がつくまで、文字を書かせないように」
「文字よりも前に、指を鍛えなさい」
と言っていたので、そのために迷路なんかを買いました。
もちろん最初は私が迷路で遊びます。鉛筆で迷路に線を書きながらスタートからゴールをめざします。それを見た息子は、すぐに真似をしはじめます。私から迷路を取り上げて熱中する。それを私は側で見てると、息子はますます熱中する。そうやって、指を鍛えたからこそ、私の母親が30分教えるだけで、自分の名前を書けるようになったと思うのですが・・・・。
しかし、ここが面白いところですが、そばで見てないと息子は数分で迷路ゲームをやめてしまう。私が料理の準備をしだすと、そっちに興味がいってしまう。逆に側で見ていると何十分も迷路ゲームをして厭きる様子もない。でも、こっちが厭きてくるから私が本を読み始めると、息子も真似して絵本を読み始める。親の真似をする。親の後を追い、親の真似をしながら勝手に個体学習をはじめる。
しかし私が「そっちじゃなくて、この絵本を読んだら?」と提案すると拒否する。私の提案は社会学習そのものなので、息子の奴は、社会学習を拒否する。けれど個体学習は進んでやる。親の後を追い続け、親のやることを模倣して、親の行動を真似する。やってることはホモサピエンスそのものであり、狩猟採集民の個体学習と同じです。
逆にいうと、幼稚園・保育園に行きたがらない幼児は、本能的に社会学習を拒否しているのかもしれない。母親の側で、個体学習をしたがるホモサピエンスの本能みたいなものかもしれない。そうなると、
幼児という存在は、ホモサピエンスそのもの。
逆に大人は、ネアンデルタールの世界にいる。
そう考えると、ちょっと笑えてきます。ネアンデルタールタイプの教師が、ホモサピエンスタイプの子供と、ぶつかったらどうなるか? 上司と部下の場合はどうなるのか? 監督と選手の場合はどうなのか? 医師と看護師は? 軍人の場合はどうなのか? 大企業の場合は? 自営業者は? それらを空想してみると、ニヤニヤがとまりません。
それはともかくとして、息子は、私の母親(息子にとってお祖母ちゃん)から、「たける」という文字の書き方を学びました。私の母親の教え方は、ネアンデルタールタイプなんですが、息子は、その社会学習を拒否しません。
私の母親は、褒めまくって勉強させるタイプなので、社会学習をしているという感じを受けなかったのか? とにかく素直に学びました。私の母は、褒めて教えるタイプなので、息子本人にしてみたら、勉強をやらされている感じが無かったのかもしれません。なので息子の奴は、勝手に個体学習しているつもりだったのかもしれません。気がついたら三十分くらいで自分の名前が書けるようになっていたのです。
と言うことは、ネアンデルタールタイプの教え方でも、やり方次第では、幼児もそれを受け入れるということかもしれません。だからこそ、子供園・幼稚園・保育所が大好きな子供がいたりするんでしょうね。
その後、私たちは、北軽井沢に帰るために佐渡汽船の『ときわ丸』に乗り込み新潟港に向かいました。そして乗船後、恒例のカモメさんたちへの餌やり体験をしました。写真をみてもわかるとおり、カモメさんたちは、餌をもとめて近くまでやってきます。
その後は、船内の探検です。ときわ丸は新造船で、レストラン・コンビニ・ゲームセンター・劇場・ペット室はもちろんのこと、授乳室からベビールームまであります。どれも昔の船に無かったものばかり。そのうえ全長125メートル・5380トンという大きさ。私が子供の頃に乗った佐渡汽船『おけさ丸』が、たったの919トンですから5倍以上の大きさ。
そのうえコスプレまでできる。
息子も、コスプレして遊んでいました。
ちなみに嫁さんは、船に弱くてダウン。息子は、好奇心の塊で、船内探検しまくっているうちに、船は新潟港に到着してしまいました。こうして三泊四日の佐渡島旅行は終了です。ちなみに、船の料金は片道2,250円。ただし、うちの場合は、軽自動車で島に上陸したので、カーフェリー自動車航送運賃の正規の値段が二万円くらい。そこからインターネットで割引してもらっています。軽自動車なら自動車を航送した方が良いし、大きめの車なら佐渡でレンタカーを借りた方が安いですね。どっちにしても、佐渡観光する場合、自動車が無いと不便です。
つづく。
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2018年03月26日
息子を連れて佐渡島へ 17 佐渡島から北軽井沢へ
三泊四日の佐渡旅行。4歳の息子は、私のふるさとである佐渡がとっても気に入ったようです。そして最終日。80歳をこえた両親と、次男の弟・三男の弟と、その家族と食事会をしました。私には、2人の弟がいますが、次男の弟は、もうほとんど子育てが終わりつつあります。三男の弟には、2人の小学生がいます。

で、うちの息子が4歳なのに、まだ字が書けないことや箸をうまく持てないことを話題にすると、中学教師の次男坊が
「小学校の先生は字の書き方を教えてくれない」
「小学校の先生は、箸の持ち方まで教えられない」
と、さかんに言ってきました。暗に、早めに親が教えた方が良いと言わんばかりです。
これは、努力して勉強するタイプである次男の弟らしい発言だなと思いました。ただ、自分が保育園時代に、ほとんど字を書くことをしてなかったことをスッカリ忘れています。それに苦笑していました。
逆に高校教師をしている三男の弟は、こういう話題に無関心。努力して勉強するタイプでない天才肌の三男の弟は、こういう事には無関心です。
ただ、この三男も、保育園時代に字を書く練習してません。それについては覚えてないでしょう。それでも弟たちは中学教師や高校教師になっているので、幼児が字を書けなくても何の問題もないことは、この弟たちを見れば一目瞭然です。しかし、弟たちは、そんな自分の過去を覚えてないらしい。
じゃあ何故、私だけが覚えているかというと、私だけが親から徹底的に字を書く練習をさせられたので不公平感もあって覚えているのですね。正座させられ、べそをかきながら、何度も殴られながら嫌々書かされました。弟たちには、コレが無かったので、よく覚えてないのです。
私の場合は、箸の持ち方も、少しでも間違っていると叩かれました。当然のことながら条件反射で、父親の腕が上がるたびにビクつくようになり、それが条件反射として癖になります。そして友人・先生・他の大人が、少しでも手を動かすと、条件反射でびくつくようになり、その癖(条件反射)が15歳くらいまで抜けませんでした。もちろん弟たちには、こういう経験は無い。無いから分からないでいる。
で、どうなったかというと、小学校1年生の時に私は、先生に字がうまいと何度も褒められています。ただし、それは1学期だけで、2学期からは誰よりも下手になっています。緊張しながら字を書く癖がついたために、筆圧が強すぎて、誰よりも書くのが遅くなっていたために、一緒に遊ぼうとする友達に
「早く書けよ」
と急かされてしまい、結局、乱暴に書くようになり、誰よりも字が下手になってしまいました。ただし、字は下手でもトレースは上手になった。地図や絵を上手にトレース(複写)する能力だけはついた。しかし字は汚いのです。この体験から私は、保育園のうちは、息子は字が書けなくても良いと思っているのです。それより指の筋肉をつけた方が良いと。
あと読めれば、字は書けなくてもいいと思ってる。
箸も使えなくて良いと思ってました。
江戸時代の教育方法が、その方式です。
そして大きな成果を残しています。
なので、息子は2歳で平仮名・片仮名・アルファベット・数字をマスターし、3歳で小学校2年生までの漢字を読めるようになっています。ただし、字は書けない。絵も書けない。小学校に入るまで書けなくてよいと思っている。その代わりに指を使う運動だけしている。指の筋肉を作るゲームを与えて遊ばせている。迷路やパズルで指を鍛えるだけ。それで良いと思っている。
ただし絵が書けなかったのは、私に原因があります。40万もするソファーに油性マジックで落書きされた時に、きつく叱ったために、息子は、落書きをしなくなった。絵を描かなくなってしまった。これを矯正するのに2年もかかってしまった。やはり幼児を強く叱る時は、よほど注意深くやらないと、後で強い後遺症を残すので要注意です。叱っても良いけれど、強く叱ってはならない。これだけは失敗したと思っています。

翌日、佐渡から北軽井沢に帰る直前に、元小学校教師だった私の母が、心配して、30分ほど息子に対して文字を書く練習をさせていました。そして「たける」の名前の書き方だけ教わりました。私の母親は、心配性なので、孫たち(と言っても弟の息子たち)に早くから文字を書く練習をさせていたらしく、そのための教材が実家に残っていました。
私は、それをお土産に持って帰りました。字を書かせるのは小学校に入ってからでいいと思っていたのですが、心配性の私の母親の好意を断るのもなんだなあと思ったので、持って帰ったんですね。さらに北軽井沢にかえった後に、再び佐渡の実家から、教材が送られてきました。これにも「心配性だなあ」と苦笑です。あまり心配させるのも何なので、予定より早いけれど、その教材を使わせてもらいました。
話は変わりますが、今日(2018年3月26日)は、息子の5歳の誕生日です。佐渡島から北軽井沢に帰ってから、ちょうど四ヶ月になりますが、息子は、文字が書けるようになっています。大した練習もせずに、たったの二ヶ月くらいで書けるようになりました。
全く書けなかったのに二ヶ月くらいで文字が書けるようになった原因は、ゲームにあります。
1年前から息子に迷路ゲームをやらせていたのです。
うちの息子は迷路が大好きなので、いろんなカラフルな迷路を百円ショップやヤフオクで買ってきて、入口と出口まで、正しい持ち方で鉛筆で線を引かせました。それを佐渡島に遊びに行く1年前から、さんざん遊ばせていました。その結果、指先の力がついていき、文字を書くのが苦にならなくなっていました。そのかいあって、アッという間に文字が書けるようになっていたんですね。
もちろん字は下手くそです。でも、それで良い。今は、書くのが楽しい・・・という感じで充分だと思っています。江戸時代の寺子屋や藩校では、十二歳までに小学・近視録をマスターさせたと言いますが、読むだけで書かせていたわけではないので、それと同じでいいと思っています。
実は息子は、早生まれのうえに、人よりも成長が遅く、子供園では「落ちこぼれ」だったみたいなので、子供園の紹介で専門の先生に指導を受けていたんですが、その先生が
「文字を書かせるのは早い。早すぎると変な癖がつく。それよりも指を鍛えなさい」
と言っていたので、その先生の指導どうりにしていたんですが、それが良かったようです。

ただ、息子の奴は、相変わらず、成長が遅くて年少さん(三歳)ぽいところが抜けてないんですが、私としては、高齢で得た子供であるために、かえって、その方が得した気分になります。成長の遅い息子は、大人びたところがなく、赤ちゃんぽいところが残ってて、ラッキーな感じがします。
あどけなさ、かわいらしさが、今でも残っていて、順調に成長しているお子さんの家庭よりも、余分に親として楽しめるからです。息子は、散歩や登山で、やたらと手をつなぎたがるし、やたと一緒に宿の仕事をしたがります。文字を書くのだって、親と一緒なら喜んでやります。赤ちゃんすぎて親と一緒イコール遊ぶなんですよ。
それだけに、息子の奴は、煩悩のかたまりのままで、字を書くことを、これっぽっちも勉強と思ってないところが、少しばかり不安です。彼にとっては、迷路ゲームしている感覚で字を書いているわけで、遊びの一種なんですよね。勉強しているなんて、これっぽっちも思ってないので、嫌々ながらやるという体験がない。我慢して何かをやらされる経験が全く無い。だから、これからどうなるんだろう? 小学校に行くようになったらどうするんだろう? という不安もありますが、まあ、その時は、その時に考えれば良いか!
つづく。
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で、うちの息子が4歳なのに、まだ字が書けないことや箸をうまく持てないことを話題にすると、中学教師の次男坊が
「小学校の先生は字の書き方を教えてくれない」
「小学校の先生は、箸の持ち方まで教えられない」
と、さかんに言ってきました。暗に、早めに親が教えた方が良いと言わんばかりです。
これは、努力して勉強するタイプである次男の弟らしい発言だなと思いました。ただ、自分が保育園時代に、ほとんど字を書くことをしてなかったことをスッカリ忘れています。それに苦笑していました。
逆に高校教師をしている三男の弟は、こういう話題に無関心。努力して勉強するタイプでない天才肌の三男の弟は、こういう事には無関心です。
ただ、この三男も、保育園時代に字を書く練習してません。それについては覚えてないでしょう。それでも弟たちは中学教師や高校教師になっているので、幼児が字を書けなくても何の問題もないことは、この弟たちを見れば一目瞭然です。しかし、弟たちは、そんな自分の過去を覚えてないらしい。
じゃあ何故、私だけが覚えているかというと、私だけが親から徹底的に字を書く練習をさせられたので不公平感もあって覚えているのですね。正座させられ、べそをかきながら、何度も殴られながら嫌々書かされました。弟たちには、コレが無かったので、よく覚えてないのです。
私の場合は、箸の持ち方も、少しでも間違っていると叩かれました。当然のことながら条件反射で、父親の腕が上がるたびにビクつくようになり、それが条件反射として癖になります。そして友人・先生・他の大人が、少しでも手を動かすと、条件反射でびくつくようになり、その癖(条件反射)が15歳くらいまで抜けませんでした。もちろん弟たちには、こういう経験は無い。無いから分からないでいる。
で、どうなったかというと、小学校1年生の時に私は、先生に字がうまいと何度も褒められています。ただし、それは1学期だけで、2学期からは誰よりも下手になっています。緊張しながら字を書く癖がついたために、筆圧が強すぎて、誰よりも書くのが遅くなっていたために、一緒に遊ぼうとする友達に
「早く書けよ」
と急かされてしまい、結局、乱暴に書くようになり、誰よりも字が下手になってしまいました。ただし、字は下手でもトレースは上手になった。地図や絵を上手にトレース(複写)する能力だけはついた。しかし字は汚いのです。この体験から私は、保育園のうちは、息子は字が書けなくても良いと思っているのです。それより指の筋肉をつけた方が良いと。
あと読めれば、字は書けなくてもいいと思ってる。
箸も使えなくて良いと思ってました。
江戸時代の教育方法が、その方式です。
そして大きな成果を残しています。
なので、息子は2歳で平仮名・片仮名・アルファベット・数字をマスターし、3歳で小学校2年生までの漢字を読めるようになっています。ただし、字は書けない。絵も書けない。小学校に入るまで書けなくてよいと思っている。その代わりに指を使う運動だけしている。指の筋肉を作るゲームを与えて遊ばせている。迷路やパズルで指を鍛えるだけ。それで良いと思っている。
ただし絵が書けなかったのは、私に原因があります。40万もするソファーに油性マジックで落書きされた時に、きつく叱ったために、息子は、落書きをしなくなった。絵を描かなくなってしまった。これを矯正するのに2年もかかってしまった。やはり幼児を強く叱る時は、よほど注意深くやらないと、後で強い後遺症を残すので要注意です。叱っても良いけれど、強く叱ってはならない。これだけは失敗したと思っています。
翌日、佐渡から北軽井沢に帰る直前に、元小学校教師だった私の母が、心配して、30分ほど息子に対して文字を書く練習をさせていました。そして「たける」の名前の書き方だけ教わりました。私の母親は、心配性なので、孫たち(と言っても弟の息子たち)に早くから文字を書く練習をさせていたらしく、そのための教材が実家に残っていました。
私は、それをお土産に持って帰りました。字を書かせるのは小学校に入ってからでいいと思っていたのですが、心配性の私の母親の好意を断るのもなんだなあと思ったので、持って帰ったんですね。さらに北軽井沢にかえった後に、再び佐渡の実家から、教材が送られてきました。これにも「心配性だなあ」と苦笑です。あまり心配させるのも何なので、予定より早いけれど、その教材を使わせてもらいました。
話は変わりますが、今日(2018年3月26日)は、息子の5歳の誕生日です。佐渡島から北軽井沢に帰ってから、ちょうど四ヶ月になりますが、息子は、文字が書けるようになっています。大した練習もせずに、たったの二ヶ月くらいで書けるようになりました。
全く書けなかったのに二ヶ月くらいで文字が書けるようになった原因は、ゲームにあります。
1年前から息子に迷路ゲームをやらせていたのです。
うちの息子は迷路が大好きなので、いろんなカラフルな迷路を百円ショップやヤフオクで買ってきて、入口と出口まで、正しい持ち方で鉛筆で線を引かせました。それを佐渡島に遊びに行く1年前から、さんざん遊ばせていました。その結果、指先の力がついていき、文字を書くのが苦にならなくなっていました。そのかいあって、アッという間に文字が書けるようになっていたんですね。
もちろん字は下手くそです。でも、それで良い。今は、書くのが楽しい・・・という感じで充分だと思っています。江戸時代の寺子屋や藩校では、十二歳までに小学・近視録をマスターさせたと言いますが、読むだけで書かせていたわけではないので、それと同じでいいと思っています。
実は息子は、早生まれのうえに、人よりも成長が遅く、子供園では「落ちこぼれ」だったみたいなので、子供園の紹介で専門の先生に指導を受けていたんですが、その先生が
「文字を書かせるのは早い。早すぎると変な癖がつく。それよりも指を鍛えなさい」
と言っていたので、その先生の指導どうりにしていたんですが、それが良かったようです。
ただ、息子の奴は、相変わらず、成長が遅くて年少さん(三歳)ぽいところが抜けてないんですが、私としては、高齢で得た子供であるために、かえって、その方が得した気分になります。成長の遅い息子は、大人びたところがなく、赤ちゃんぽいところが残ってて、ラッキーな感じがします。
あどけなさ、かわいらしさが、今でも残っていて、順調に成長しているお子さんの家庭よりも、余分に親として楽しめるからです。息子は、散歩や登山で、やたらと手をつなぎたがるし、やたと一緒に宿の仕事をしたがります。文字を書くのだって、親と一緒なら喜んでやります。赤ちゃんすぎて親と一緒イコール遊ぶなんですよ。
それだけに、息子の奴は、煩悩のかたまりのままで、字を書くことを、これっぽっちも勉強と思ってないところが、少しばかり不安です。彼にとっては、迷路ゲームしている感覚で字を書いているわけで、遊びの一種なんですよね。勉強しているなんて、これっぽっちも思ってないので、嫌々ながらやるという体験がない。我慢して何かをやらされる経験が全く無い。だから、これからどうなるんだろう? 小学校に行くようになったらどうするんだろう? という不安もありますが、まあ、その時は、その時に考えれば良いか!
つづく。
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2018年03月25日
息子を連れて佐渡島へ 16 沢根団子・佐渡乳業・柿酒
高千を出発後、沢根団子を買いに行きました。私は、子供の頃、沢根団子が大好きでした。沢根団子というのは、江戸時代の佐渡島の沢根という港町で、売られて大変好評になり、200年以上、佐渡島で人気が衰えなかった団子です。小さな団子を氷水の中に入れて食べるのが沢根団子。
http://shimaya-sawanedango.co.jp/
2年前に佐渡のスーパーで買って食べた時は、私の知っている沢根団子ではなかったので、今回は、本家製造元に買い出しにきてみたら、しまやと池田屋の二店舗があって、どっちが本家か分からなくなってしまった。しまやは、元祖と書いてあるし、池田屋は本家と書いてある。いったい、どっちが本物なのか? 仕方が無いので、両方を買って食べたわけですが、両方とも冷凍物で、私の知ってる沢根団子ではありませんでした。




私が子供の頃に食べた沢根団子は、もっと小粒で薄皮でした。そして団子の中の餡子は、水ようかんみたいな感じでした。容器の底が薄い板状になっていて、それに団子が張り付いていて、上手にとらないと餡子が漏れてしまうしろものでした。団子の大きさも小さくて、今の沢根団子の半分も無かったと思います。それを楊枝でつついて食べるんですが、どうしても団子が薄板にひっついてとれなかった覚えがあります。それを何とか取り出して、氷水の中に浮かべて食べたものです。
今の沢根団子は、大きくて皮が厚いですね。あと機械で作っているのか製品が均一です。容器もプラスチックになっているし。昔の木と紙の容器が懐かしいです。昔の小さな沢根団子は、もう食べられなくなったのですね。ああ・・・残念。

気をとりなおして、佐渡乳業のミルクスポットに行きました。実は、佐渡乳業に外海府ユースホステルの息子さんが働いているらしいです。もし佐渡乳業に矢部さんという人がいたら、おそらく外海府ユースホステルの息子さんです。
この佐渡乳業は、私の実家から徒歩3分の所にあります。なので私の子供の頃の遊び場だったんですが、その頃は小さな会社でした。それが今や大きな会社に成長し、ここの製品である佐渡バターは、軽井沢の高級レストランで使われるほどの高級ブランドになっています。佐渡バターといえば、その世界では有名です。もちろん私も仕入れました。




あと『柿愛好(かきあいす)』も珍品です。『柿酒』も『柿ワイン』も美味しい。もちろんリキュールでは無く、どちらも柿を使った醸造酒です。特に柿酒は、佐渡特産の「おけさ柿」を熟成醸造した日本で初めての柿酒で、飲みやすいお酒です。



佐渡金井のAコープ・海府屋さんのコメコ焼(米粉を使ったお好み焼き)・米粉クレープも忘れてはならないし、佐渡金井のAコープの海鮮おつまみセットもリーズナブルでいい。こいつを買って、佐渡の地酒をひっかけたら最高ですよ。

佐渡猿八のポッポのパンも美味しいですね。
もちろん中堀のタレカツ丼も忘れてはなりません。
中堀のタレカツ丼
https://tabelog.com/niigata/A1501/A150103/15001094/
佐渡猿八のポッポのパン
https://sado-biyori.com/spot/detail/sb0037/
他にも紹介したいものがたくさんありますが、きりがないのでやめときます。
つづく。
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2年前に佐渡のスーパーで買って食べた時は、私の知っている沢根団子ではなかったので、今回は、本家製造元に買い出しにきてみたら、しまやと池田屋の二店舗があって、どっちが本家か分からなくなってしまった。しまやは、元祖と書いてあるし、池田屋は本家と書いてある。いったい、どっちが本物なのか? 仕方が無いので、両方を買って食べたわけですが、両方とも冷凍物で、私の知ってる沢根団子ではありませんでした。
私が子供の頃に食べた沢根団子は、もっと小粒で薄皮でした。そして団子の中の餡子は、水ようかんみたいな感じでした。容器の底が薄い板状になっていて、それに団子が張り付いていて、上手にとらないと餡子が漏れてしまうしろものでした。団子の大きさも小さくて、今の沢根団子の半分も無かったと思います。それを楊枝でつついて食べるんですが、どうしても団子が薄板にひっついてとれなかった覚えがあります。それを何とか取り出して、氷水の中に浮かべて食べたものです。
今の沢根団子は、大きくて皮が厚いですね。あと機械で作っているのか製品が均一です。容器もプラスチックになっているし。昔の木と紙の容器が懐かしいです。昔の小さな沢根団子は、もう食べられなくなったのですね。ああ・・・残念。
気をとりなおして、佐渡乳業のミルクスポットに行きました。実は、佐渡乳業に外海府ユースホステルの息子さんが働いているらしいです。もし佐渡乳業に矢部さんという人がいたら、おそらく外海府ユースホステルの息子さんです。
この佐渡乳業は、私の実家から徒歩3分の所にあります。なので私の子供の頃の遊び場だったんですが、その頃は小さな会社でした。それが今や大きな会社に成長し、ここの製品である佐渡バターは、軽井沢の高級レストランで使われるほどの高級ブランドになっています。佐渡バターといえば、その世界では有名です。もちろん私も仕入れました。
あと『柿愛好(かきあいす)』も珍品です。『柿酒』も『柿ワイン』も美味しい。もちろんリキュールでは無く、どちらも柿を使った醸造酒です。特に柿酒は、佐渡特産の「おけさ柿」を熟成醸造した日本で初めての柿酒で、飲みやすいお酒です。


佐渡金井のAコープ・海府屋さんのコメコ焼(米粉を使ったお好み焼き)・米粉クレープも忘れてはならないし、佐渡金井のAコープの海鮮おつまみセットもリーズナブルでいい。こいつを買って、佐渡の地酒をひっかけたら最高ですよ。
佐渡猿八のポッポのパンも美味しいですね。
もちろん中堀のタレカツ丼も忘れてはなりません。
中堀のタレカツ丼
https://tabelog.com/niigata/A1501/A150103/15001094/
佐渡猿八のポッポのパン
https://sado-biyori.com/spot/detail/sb0037/
他にも紹介したいものがたくさんありますが、きりがないのでやめときます。
つづく。
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2018年03月22日
息子を連れて佐渡島へ 15 高千・不時着した英国大使館の飛行機
外海府(岩谷口)から内海府(虫崎)とまわり、そして相川に引き返した私たちは、高千というところで御飯を食べることにしました。ドンテン山が荒廃している謎を解明したいのと、終戦直後に英国大使館の飛行機不時着して、その飛行機を高千村民が、人力で滑走路を作って帰してあげた場所を確認したかったからです。
まず、高千村ですが、岩谷口の外海府ユースホステルと、尖閣湾の佐渡ベルメールユースホステルの中間地点にあります。ここは外海府でも人口の多いところで、すこしばかり開けています。あと大昔から牛を放し飼いし、それをドンテン山に放牧することで有名なところです。もちろん牛市場があります。下の写真がそうです。
このあたりでは、その昔、どの家でも二・三頭の牛を飼っていました。外海府では、相川の貧しい家から労働力としての養子をもらって働かせたりしましたが、そういう子供たちにも子牛を与えました。牛は、冬の間は牛舎で飼いますが、春になると放し飼いにします。そうして大きくなると、それを市場で売り小銭を得ます。養子たちの牛が売れれば、その金は養子たちのものになりますから、養子たちは、決して奴隷のような待遇では無く、そこそこの現金を牛で稼いでおり、小遣が無くても少しも困らなかったといいます。これは、次男坊以下の厄介者でも、牛で小遣い稼ぎをしていたそうです。それが可能だった理由は、千年にわたってドンテン山などに放牧する文化があったからです。

高千の牛市場



外海府の牛は、農耕に使われることもなく、牛乳を搾り取られることもなく、ただひたすらに放し飼いさせて大きくし、それを売り飛ばして儲けるだけの存在でした。その存在のために、ドンテン山の美しいシバ地が千年にわたって守られてきたのですが、それが今や崩壊しつつあります。
詳しくは下記サイトを参照
http://kaze3.seesaa.net/article/456611560.html
いったい、どうしてなのか?
どうして放牧をやめてしまったのか?
高千村に知り合いの無い私は、どうやってヒアリングしようかと困っていたら、ちょうどJA佐渡農業協同組合高千出張所が、何かのイベントで豚汁の振る舞いをしていたので、地元民にまざって豚汁を頂くことにしました。そこで七十歳すぎの老婆と知り合い話を聞くと、牛を飼っているといいます。やはり放牧はしてないようです。
「どうして牛の放牧をやめたんですか?」
「ある場所が危険で、そこで牛が怪我したり死んでしまうんだよ」
「危険?」
「そこを行政がなんとかすれば、放牧してもいいんだけれど」
こんな単純な理由で千年続いた放牧が無くなってしまったとは、本当なら馬鹿馬鹿しいにもほどがあります。行政が予算をつければいいことだからです。早くしないと、ドンテン山のシバ地は壊滅しますよ。はやいところ何とかしてください。もう時間がありませんから。もし、予算がつかないなら、行政の方で牛を飼って放牧したらどうですか? 売れれば利益が出るわけですから。




食後、高千村の海岸を散策しました。
このあたりに英国空軍のダグラスDC−3が不時着したと思われます。
なるほど、広く長い海岸沿いなので、DC−3なら不時着できそうな感じです。

終戦から五か月後の1946年1月14日。
佐渡島の外海府・高千村の海岸に飛行機が不時着しました。
不時着した英軍輸送機は、要人専用機で、
上海の英国総領事が東京での連合国会議に出席するために乗っていました。
全長二十メートル、
両翼三十メートル、
重さ六トンもあります。
これが、よりによって冬の日本海。それも佐渡島の奥地である外海府に不時着します。僻地も僻地の外海府。荒波激しい冬の日本海にです。佐渡島でも人を寄せ付けない僻地にです。下の写真のような隧道を通らないと、たどり着けないような僻地にです。

しかも、その飛行機は上海総領事とその秘書を乗せて東京に向かう途中でした。
緊急着陸したイギリス空軍のDC−3ですが、村人たちは、彼らが無事に帰れるように離陸に必要な滑走路建設をし、海岸を地ならしして石を敷き詰めました。真冬の外海府の海岸でです。真冬の日本海。しかも佐渡島・外海府の気候を知ってるものなら「正気か?」てなもんです。その季節に人力で滑走路を作ったのです。ありえない。絶対にありえない。

この実話は、映画化されていますが、残念ながら出来はいまいちです。というか佐渡島民を馬鹿にしてないか?という内容に私は思えました。下手なフィクションを入れず、ドキュメンタリーにした方が、よほど感動できるのになあというのが、私の個人的な感想です。
嘘っぽいドラマなんか必要なかったのに。
勧善懲悪の筋書きなんかいらないのに。
予定調和の感動なんかいらないのに。
真冬の外海府の海岸の作業だけでドラマになるのに。
イギリス人は、高千村のが用意した旅館に土足であがってくつろぎ、それを黙々と這いつくばって床掃除する女子供の姿をどうして映画で見せなかったんだろう? どうして事実を淡々と見せずに、安っぽいドラマにしたんだろう?
真冬の日本海ですよ? 分かりますよね、真冬の日本海の荒波がどういうものなのか? 真冬の日本海の海岸に、しかも佐渡島の外海府、つまり佐渡島でもかなり僻地である海岸で、老人たちが人力で滑走路を作っただけでは駄目だったんですかね?
そもそも1946年1月14日といえば、日本兵は帰還してません。
島には老人と女子供しかいない。
なのに真冬の日本海に、若者がいない中で
たったの四十日で、6トンもある飛行機を飛ばす滑走路を
老人・女性・子供たちが手作業で作ってしまった。
英国空軍のダグラスDC-3を無事、帰してあげた。
米軍基地から派遣されていたアメリカ人整備員たちが驚いたのなんの。整備員は、佐渡島民の親切にカルチャーショックを受けて、アメリカに帰国したあとも息子さんに何度も「佐渡で世話になった。ぜひ一度佐渡に行きたい」と言いながら亡くなったんです。
しかし、アメリカ人整備員の息子さんが佐渡島にやってきて、この美談の礼を言ったんですね。これがきっかけで、この事件が明るみにでて、映画化されるわけですが、なんと佐渡島民は、米人整備員の息子さんが、やってくるまで、この事件を大っぴらにしてなかった。
誰にもいわなかった。
だから米人整備員の息子さんが、佐渡島に来なければ、
詳しく歴史に残らなかったんです。
結局、バレてしまって、映画化の話になり、
嫌がる当事者にお願いして資料を集めて、
かろうじて歴史に残ったんです。
凄い話です。






映画『飛べ!ダコタ』
つづく。
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まず、高千村ですが、岩谷口の外海府ユースホステルと、尖閣湾の佐渡ベルメールユースホステルの中間地点にあります。ここは外海府でも人口の多いところで、すこしばかり開けています。あと大昔から牛を放し飼いし、それをドンテン山に放牧することで有名なところです。もちろん牛市場があります。下の写真がそうです。
このあたりでは、その昔、どの家でも二・三頭の牛を飼っていました。外海府では、相川の貧しい家から労働力としての養子をもらって働かせたりしましたが、そういう子供たちにも子牛を与えました。牛は、冬の間は牛舎で飼いますが、春になると放し飼いにします。そうして大きくなると、それを市場で売り小銭を得ます。養子たちの牛が売れれば、その金は養子たちのものになりますから、養子たちは、決して奴隷のような待遇では無く、そこそこの現金を牛で稼いでおり、小遣が無くても少しも困らなかったといいます。これは、次男坊以下の厄介者でも、牛で小遣い稼ぎをしていたそうです。それが可能だった理由は、千年にわたってドンテン山などに放牧する文化があったからです。
高千の牛市場
外海府の牛は、農耕に使われることもなく、牛乳を搾り取られることもなく、ただひたすらに放し飼いさせて大きくし、それを売り飛ばして儲けるだけの存在でした。その存在のために、ドンテン山の美しいシバ地が千年にわたって守られてきたのですが、それが今や崩壊しつつあります。
詳しくは下記サイトを参照
http://kaze3.seesaa.net/article/456611560.html
いったい、どうしてなのか?
どうして放牧をやめてしまったのか?
高千村に知り合いの無い私は、どうやってヒアリングしようかと困っていたら、ちょうどJA佐渡農業協同組合高千出張所が、何かのイベントで豚汁の振る舞いをしていたので、地元民にまざって豚汁を頂くことにしました。そこで七十歳すぎの老婆と知り合い話を聞くと、牛を飼っているといいます。やはり放牧はしてないようです。
「どうして牛の放牧をやめたんですか?」
「ある場所が危険で、そこで牛が怪我したり死んでしまうんだよ」
「危険?」
「そこを行政がなんとかすれば、放牧してもいいんだけれど」
こんな単純な理由で千年続いた放牧が無くなってしまったとは、本当なら馬鹿馬鹿しいにもほどがあります。行政が予算をつければいいことだからです。早くしないと、ドンテン山のシバ地は壊滅しますよ。はやいところ何とかしてください。もう時間がありませんから。もし、予算がつかないなら、行政の方で牛を飼って放牧したらどうですか? 売れれば利益が出るわけですから。
食後、高千村の海岸を散策しました。
このあたりに英国空軍のダグラスDC−3が不時着したと思われます。
なるほど、広く長い海岸沿いなので、DC−3なら不時着できそうな感じです。
終戦から五か月後の1946年1月14日。
佐渡島の外海府・高千村の海岸に飛行機が不時着しました。
不時着した英軍輸送機は、要人専用機で、
上海の英国総領事が東京での連合国会議に出席するために乗っていました。
全長二十メートル、
両翼三十メートル、
重さ六トンもあります。
これが、よりによって冬の日本海。それも佐渡島の奥地である外海府に不時着します。僻地も僻地の外海府。荒波激しい冬の日本海にです。佐渡島でも人を寄せ付けない僻地にです。下の写真のような隧道を通らないと、たどり着けないような僻地にです。

しかも、その飛行機は上海総領事とその秘書を乗せて東京に向かう途中でした。
緊急着陸したイギリス空軍のDC−3ですが、村人たちは、彼らが無事に帰れるように離陸に必要な滑走路建設をし、海岸を地ならしして石を敷き詰めました。真冬の外海府の海岸でです。真冬の日本海。しかも佐渡島・外海府の気候を知ってるものなら「正気か?」てなもんです。その季節に人力で滑走路を作ったのです。ありえない。絶対にありえない。
この実話は、映画化されていますが、残念ながら出来はいまいちです。というか佐渡島民を馬鹿にしてないか?という内容に私は思えました。下手なフィクションを入れず、ドキュメンタリーにした方が、よほど感動できるのになあというのが、私の個人的な感想です。
嘘っぽいドラマなんか必要なかったのに。
勧善懲悪の筋書きなんかいらないのに。
予定調和の感動なんかいらないのに。
真冬の外海府の海岸の作業だけでドラマになるのに。
イギリス人は、高千村のが用意した旅館に土足であがってくつろぎ、それを黙々と這いつくばって床掃除する女子供の姿をどうして映画で見せなかったんだろう? どうして事実を淡々と見せずに、安っぽいドラマにしたんだろう?
真冬の日本海ですよ? 分かりますよね、真冬の日本海の荒波がどういうものなのか? 真冬の日本海の海岸に、しかも佐渡島の外海府、つまり佐渡島でもかなり僻地である海岸で、老人たちが人力で滑走路を作っただけでは駄目だったんですかね?
そもそも1946年1月14日といえば、日本兵は帰還してません。
島には老人と女子供しかいない。
なのに真冬の日本海に、若者がいない中で
たったの四十日で、6トンもある飛行機を飛ばす滑走路を
老人・女性・子供たちが手作業で作ってしまった。
英国空軍のダグラスDC-3を無事、帰してあげた。
米軍基地から派遣されていたアメリカ人整備員たちが驚いたのなんの。整備員は、佐渡島民の親切にカルチャーショックを受けて、アメリカに帰国したあとも息子さんに何度も「佐渡で世話になった。ぜひ一度佐渡に行きたい」と言いながら亡くなったんです。
しかし、アメリカ人整備員の息子さんが佐渡島にやってきて、この美談の礼を言ったんですね。これがきっかけで、この事件が明るみにでて、映画化されるわけですが、なんと佐渡島民は、米人整備員の息子さんが、やってくるまで、この事件を大っぴらにしてなかった。
誰にもいわなかった。
だから米人整備員の息子さんが、佐渡島に来なければ、
詳しく歴史に残らなかったんです。
結局、バレてしまって、映画化の話になり、
嫌がる当事者にお願いして資料を集めて、
かろうじて歴史に残ったんです。
凄い話です。
映画『飛べ!ダコタ』
つづく。
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2018年03月21日
息子を連れて佐渡島へ 14 登山家中村謙の虫崎から岩谷口までのコース
息子を連れて佐渡島へ 14 登山家中村謙の虫崎から岩谷口までのコース
いまじゃ百名山の深田久弥・花の百名山の田中澄江を知らぬ登山家はいませんなが、昭和40年頃は、圧倒的に中村謙(加茂鹿之助)でした。彼こそは、全国津々浦々まで登山道を調査発表した開拓者です。登山ルートをひたすら調べまくって『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』『ハイカー』『山と高原』『榾木』『日本山岳会会報』などの登山冊子に昭和十年頃から発表しまくった人で、いわゆる日本の大衆登山を牽引し続けた人です。

中村謙氏
彼は昭和九年に出した『東京付近の山』をはじめとして、毎年何冊も登山ガイドを出し続けます。途中、病気で右手が使えなくなるという事態になりますが、左手で渾身の力を振り絞って書いています。最終作ともいえる昭和四十四年の『ふるさとの山』四百二十二ページを出したときは、七十二歳でした。これ以降の著作がないのは、足を痛めて外出ができなくなったためです。また、ヤマケイの『登山地図帳』・昭文社の『エリアマップ』『山と高原地図シリーズ』などの登山マップなどの制作にもかかわっています。こちらも昭和四十四年まで作り続けています。
さて、中村謙渾身の大作である『山小屋の旅(昭和四十一年)・ベスト200コース』には、佐渡島が5コースも大きく取り上げられています。
@金北山から金剛山
A虫崎から外海府
B沢崎めぐり
C岩首から水津
D妙宣寺から真野宮
このうち登山道は@だけで、ABCDは、海岸歩きです。今でこそ道路がありますが、昭和四十一年頃は、道路が無く、岩から岩を飛び乗るように海岸を歩くしかなかったと言います。そういう場所の地元民の交通手段は、船でした。もちろん海が荒れれば、船は使えませんから山道を使います。なので昔の佐渡は、山道(登山道)がよく整備されてて、それが佐渡の里山の特徴であったわけです。
さらにいうと、A虫崎から外海府が、ものすごい人気のコースでした。で、このコース沿いに昭和40年10月に一軒のユースホステルがオープンしました。外海府ユースホステルです。もちろん若者たちが押し寄せました。その中の旅人に新潟市からやってきた一人の美しい女性がいました。それが今の外海府ユースホステルのマネージャーです。
昭和40年頃までは、内海府・虫崎から、外海府・岩谷口のコースは、ろくに道路がなく、海岸を岩づたいに歩いたり、急な岸壁をよじ登ったりの、一泊二日のコースでした。佐渡一週道路が完成している現在なら車で2時間もあれば、回れるコースですが、当時は、北アルプスに登るような猛者たちが、
「大野亀の花畑を見たい」
「外海府の岸壁を見たい」
という一心で、このコースにチャレンジしていました。
内海府の虫崎が、出発点だったのは、ここまでは路線バスがあったからです。その虫崎とは、どんな所かというと、こんな所です。

https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
この写真は、いつのものかわかりませんが、私が保育所か何かの遠足で、この村を通った記憶があります。バスが、崖ギリギリの砂利道を走っていました。この写真は、その道路さえも写っていませんから、かなり前のものでしょうけれど、少なくとも昭和40年頃までは、こんな感じだったと思います。虫崎のある内海府地方は、波が静かなために家の下に船小屋があるつくりになっていたんです。そして村人は漁業で生計をたてていました。その当時は、子供たちも多くて村にも活気がありました。

https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
虫崎の隣村で、宮本常一は、こんな話を聞いています。
「北小浦の宿で大敷の話を聞いた。昭和33年には水あげが1億円もあったそうである。そこで利益の2割を組合員で分けたのだが、一人当たり25万円もあった。また金が使い切れないので関西旅行した。一晩に1万円も取られる宿に泊まったそうだと、大変景気の良い話である(私の日本地図・宮本常一より)」
ちなみに昭和33年の大卒初任給は、1万3500円です。その時代に海府のある漁村では、一晩に1万円も取られる宿に泊まって豪遊したわけですから、どれだけ儲かったのか? 限界集落化しつつある今の海府地方を考えると、想像もできません。
もちろん現在は、虫崎といえども限界集落になってしまっています。
今では、住民が、たったの17人。
そのうち14人が老人です。
限界集落もいいところです。
しかも観光地でさえ無く、ガイドブックにも載ってない集落です。
そこに大学生の力を活かした集落活性化事業をはじめたのが、新潟大学の長尾ゼミの若者たちでした。彼らは、たったの17人の住民。そのうち14人が老人という限界集落に100人を集めた盆踊りを企画しました。
http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/126/692/0922_4_mushizaki_sinndaikeizai,0.pdf
もちろん金は無い。そこで最低限の資金を、クラウドファンディングという形で56万円の資金を集めました。それが
https://camp-fire.jp/updates/view/30998
のサイトになります。
クラウドファンディングは感動の連続だったようで、内海府小学校虫崎分校に勤めていた人もいたりで、そういう人たちが何十年ぶりに虫崎に訪れるなど、知人・縁者を虫崎につなぐことになりました。クラウドファンディングは、最終的に達成率112%という成功を収め、結果として虫崎を大きく宣伝することになりました。
2017年(つまり昨年)の8月13日、盆踊り本番では、果たして来場者数は100名に達するのだろうかと心配しましたが、163名を集めて大盛況。受付にカウントしない幼児も含めると200名以上のが集ったといいます。

https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用

https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
この成功の中には、全国の限界集落を活性化させるヒントがある気がします。17人の住民中、14人が老人という小さな集落も、やり方によっては何とかなるかもしれない。外海府ユースホステルのある岩谷口も、似たような限界集落なのですが、そこだって、やりようによれば、何とかなるかもしれない。虫崎の事例のように、私たちは、もっと若者のパワーを信じてよいのではないかと感じました。
これは、滅びつつあるユースホステル業界にも言えるし、
過疎地になりつつある北軽井沢や嬬恋村にもいえることです。
とにかく、虫崎の皆さん、新潟大学のみなさん、地域支援戦隊の皆さん、虫崎を愛する佐渡の皆さん、お疲れ様でした。今後の虫崎に期待しています。虫崎を紹介した昭和の登山家・中村謙氏が生きていたら、この虫崎の変わりようをどう思うでしょうか? 宮本常一なら、どう感じたでしょうか?
つづく。
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いまじゃ百名山の深田久弥・花の百名山の田中澄江を知らぬ登山家はいませんなが、昭和40年頃は、圧倒的に中村謙(加茂鹿之助)でした。彼こそは、全国津々浦々まで登山道を調査発表した開拓者です。登山ルートをひたすら調べまくって『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』『ハイカー』『山と高原』『榾木』『日本山岳会会報』などの登山冊子に昭和十年頃から発表しまくった人で、いわゆる日本の大衆登山を牽引し続けた人です。
中村謙氏
彼は昭和九年に出した『東京付近の山』をはじめとして、毎年何冊も登山ガイドを出し続けます。途中、病気で右手が使えなくなるという事態になりますが、左手で渾身の力を振り絞って書いています。最終作ともいえる昭和四十四年の『ふるさとの山』四百二十二ページを出したときは、七十二歳でした。これ以降の著作がないのは、足を痛めて外出ができなくなったためです。また、ヤマケイの『登山地図帳』・昭文社の『エリアマップ』『山と高原地図シリーズ』などの登山マップなどの制作にもかかわっています。こちらも昭和四十四年まで作り続けています。
さて、中村謙渾身の大作である『山小屋の旅(昭和四十一年)・ベスト200コース』には、佐渡島が5コースも大きく取り上げられています。
@金北山から金剛山
A虫崎から外海府
B沢崎めぐり
C岩首から水津
D妙宣寺から真野宮
このうち登山道は@だけで、ABCDは、海岸歩きです。今でこそ道路がありますが、昭和四十一年頃は、道路が無く、岩から岩を飛び乗るように海岸を歩くしかなかったと言います。そういう場所の地元民の交通手段は、船でした。もちろん海が荒れれば、船は使えませんから山道を使います。なので昔の佐渡は、山道(登山道)がよく整備されてて、それが佐渡の里山の特徴であったわけです。
さらにいうと、A虫崎から外海府が、ものすごい人気のコースでした。で、このコース沿いに昭和40年10月に一軒のユースホステルがオープンしました。外海府ユースホステルです。もちろん若者たちが押し寄せました。その中の旅人に新潟市からやってきた一人の美しい女性がいました。それが今の外海府ユースホステルのマネージャーです。
昭和40年頃までは、内海府・虫崎から、外海府・岩谷口のコースは、ろくに道路がなく、海岸を岩づたいに歩いたり、急な岸壁をよじ登ったりの、一泊二日のコースでした。佐渡一週道路が完成している現在なら車で2時間もあれば、回れるコースですが、当時は、北アルプスに登るような猛者たちが、
「大野亀の花畑を見たい」
「外海府の岸壁を見たい」
という一心で、このコースにチャレンジしていました。
内海府の虫崎が、出発点だったのは、ここまでは路線バスがあったからです。その虫崎とは、どんな所かというと、こんな所です。
https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
この写真は、いつのものかわかりませんが、私が保育所か何かの遠足で、この村を通った記憶があります。バスが、崖ギリギリの砂利道を走っていました。この写真は、その道路さえも写っていませんから、かなり前のものでしょうけれど、少なくとも昭和40年頃までは、こんな感じだったと思います。虫崎のある内海府地方は、波が静かなために家の下に船小屋があるつくりになっていたんです。そして村人は漁業で生計をたてていました。その当時は、子供たちも多くて村にも活気がありました。
https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
虫崎の隣村で、宮本常一は、こんな話を聞いています。
「北小浦の宿で大敷の話を聞いた。昭和33年には水あげが1億円もあったそうである。そこで利益の2割を組合員で分けたのだが、一人当たり25万円もあった。また金が使い切れないので関西旅行した。一晩に1万円も取られる宿に泊まったそうだと、大変景気の良い話である(私の日本地図・宮本常一より)」
ちなみに昭和33年の大卒初任給は、1万3500円です。その時代に海府のある漁村では、一晩に1万円も取られる宿に泊まって豪遊したわけですから、どれだけ儲かったのか? 限界集落化しつつある今の海府地方を考えると、想像もできません。
もちろん現在は、虫崎といえども限界集落になってしまっています。
今では、住民が、たったの17人。
そのうち14人が老人です。
限界集落もいいところです。
しかも観光地でさえ無く、ガイドブックにも載ってない集落です。
そこに大学生の力を活かした集落活性化事業をはじめたのが、新潟大学の長尾ゼミの若者たちでした。彼らは、たったの17人の住民。そのうち14人が老人という限界集落に100人を集めた盆踊りを企画しました。
http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/126/692/0922_4_mushizaki_sinndaikeizai,0.pdf
もちろん金は無い。そこで最低限の資金を、クラウドファンディングという形で56万円の資金を集めました。それが
https://camp-fire.jp/updates/view/30998
のサイトになります。
クラウドファンディングは感動の連続だったようで、内海府小学校虫崎分校に勤めていた人もいたりで、そういう人たちが何十年ぶりに虫崎に訪れるなど、知人・縁者を虫崎につなぐことになりました。クラウドファンディングは、最終的に達成率112%という成功を収め、結果として虫崎を大きく宣伝することになりました。
2017年(つまり昨年)の8月13日、盆踊り本番では、果たして来場者数は100名に達するのだろうかと心配しましたが、163名を集めて大盛況。受付にカウントしない幼児も含めると200名以上のが集ったといいます。

https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用

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この成功の中には、全国の限界集落を活性化させるヒントがある気がします。17人の住民中、14人が老人という小さな集落も、やり方によっては何とかなるかもしれない。外海府ユースホステルのある岩谷口も、似たような限界集落なのですが、そこだって、やりようによれば、何とかなるかもしれない。虫崎の事例のように、私たちは、もっと若者のパワーを信じてよいのではないかと感じました。
これは、滅びつつあるユースホステル業界にも言えるし、
過疎地になりつつある北軽井沢や嬬恋村にもいえることです。
とにかく、虫崎の皆さん、新潟大学のみなさん、地域支援戦隊の皆さん、虫崎を愛する佐渡の皆さん、お疲れ様でした。今後の虫崎に期待しています。虫崎を紹介した昭和の登山家・中村謙氏が生きていたら、この虫崎の変わりようをどう思うでしょうか? 宮本常一なら、どう感じたでしょうか?
つづく。
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