2011年01月17日

ユースホステルは甦るのか?7

ユースホステルは甦るのか?7



 東京都が、アニメの表現規制を行い、それに出版社が反発して物議をかもしていますが、規制賛成派も規制反対派も、共通して言えることは、子供たちの意見を無視しているところです。そういう意味では、両者は同じ穴の狢です。反対派も賛成派も、本質的に差はないと言えます。

 ・・・・・と書くと必ず、こんな事を言ってくる人がいます。

「子供たちは規制反対だろ? 規制反対する出版社と子供たちは利害が一致するのでは?」

 なるほど、管理されるのにうんざりしている子供たちなら規制反対になってしまうかもしれません。そのように考えたくなるのも無理はないかもしれません。しかし、多少なりともドイツワンダーフォーゲル運動の歴史を知る者にとっては、多少なりともドイツユースホステル運動の歴史を知る者にとっては、そうとも言い切れないのです。





 第二次大戦の敗戦は、日本の子供たちに強いショックを与えました。ある者は放心し、ある者は米兵のジープを追いかけてはチョコレートをもらい、ある者はパンパンとなって米兵に媚びを売りました。エログロがはびこり、治安は悪くなる一方であり、青少年犯罪は、上昇していきました。

「戦争に負けたのだから仕方ない」
「国中が焦土になったのだから仕方ない」

と当時の日本人の誰もが思いましたが、
そうは思ってなかった敗戦国民もいました。
西ドイツです。

 同じ敗戦国でも日本とドイツでは、その悲惨さにおいて天地ほども違っていました。悲惨なレベルが日本とはケタはずれでした。東からは共産主義の脅威の下に1000万の難民が西ドイツに流れこみました。しかも、この中の500万は少年たちで、大半は両親を失っていました。彼らは、西ドイツの戦争孤児50万の少年たちと合流し、西ドイツ全土を流浪しました。当然のことながら少年の犯罪率は増加しましたが、それでも戦後の日本より低かったのです。これは、どういうことなのでしょうか?

 1947年の厚生省児童局の統計によれば、
 養護施設に入所している少年は4013人、
 街頭の浮浪少年は1472人でした。

 しかし西ドイツでは、550万の戦争孤児が全土を流浪していたのです。
 ケタが違います。
 3つもケタが違うのです。

 「火垂るの墓」のような悲惨な人生をおくる可能性のあった少年たちは、西ドイツ全土に550万もいたのです。もちろん西ドイツ政府とて、手をこまねいているわけではありませんでしたが、占領軍のきびしい統制によって、1949年までは、どうにもなりませんでした。

 しかし、ここに奇跡のような事件がおこるのです。
 奇跡は、少年団と映画館の間におこった各地の争いからはじまります。

 当時ドイツでは映画作製がきびしく制限されていたため、外国映画がドンドン流れ込みました。映画の多くはエログロもの、西部劇など教育の上に悪影響を与えるものが多いことは日本と同じでした。しかし、違っていたのは、少年たちの態度でした。

 エログロもの、西部劇など教育の上に悪影響を与える映画の上映を少年団たちが、実力で阻止したのです。風紀の乱れる映画上映の反対運動を少年たちが率先してデモを行い、そして自分たちを守ろうとする少年たちが、映画館の前で腕を組んで通せんぼうをしたのである。映画館と少年団との間に争いのおこったのは当然で、あるときには暴力ざたに発展したことさえありました。

 当時の日本は逆でした。日本の青少年たちは、いたずらに大人に反発し、昔ながらの教育に対して何でも「封建的」だと批判し、日本の青少年たちは西部劇などの外国映画に夢中になり、当時の基準で、あきらかにエログロとされる映画さえ喜んで見に行きました。それどころか、全国にヤクザ踊りが流行しました。ヤクザの着物姿で刀を差して踊る、見物人はヤンヤの拍手喝采でした。

 そんな時代に、同じ敗戦国でも西ドイツでは、ドイツの風紀を守るため、子供たちの環境を守るために教育の上に悪影響を与える映画の上映を少年団たちが、実力で阻止したのです。しかも、それを指導したのは大人たちではありません。子供たちが、子供たちの判断で立ち上がり、子供たちのリーダーシップによって、子供たちだけで闘いは進められたのです。

 この事実の中には、どうして一時は世界一位の会員数を誇った日本ユースホステル協会が、これほど簡単に衰退していくのに対して、ドイツユースホステル協会は、今なお盤石なのかという疑問に対するヒントが隠されています。西ドイツの少年運動は、大人たちが造ったのではなく子供たちが造ったのです。





 さて、東京都のアニメ規制の話しに戻ります。
 ここまで述べれば、規制賛成派も規制反対派も、
 同じ穴の狢
 と言った意味が分かるかと思います。もっと言うと

「子供たちは規制反対だろ? 規制反対する出版社と子供たちは利害が一致するのでは?」

と言い切った人も、同じ穴の狢です。

 ワンダーフォーゲル運動的に考えると『おかしい』ということになります。
 ワンダーフォーゲル運動的な考えでは逆です。
「子どもたちを守るのは子どもたち自身である」
というのがワンダーフォーゲル運動的ですから、アニメを規制するなら、その委員会に子どもの代表がいないとおかしい。

 本当の意味でのワンダーフォーゲル運動を経験した国であったなら、子供たちに自己管理させるはずです。というのも子供たちがワンダーフォーゲルという自己管理の活動をさせると、子供たちは、実に道徳的になるからです。むしろ大人たちよりも保守的になりやすい。





 だから、子供たちの代表が委員会にはいっていれば、ひょっとしたら、第二次大戦直後の西ドイツの少年たちの奇跡を、現代の日本で見られたかもしれない。大人たちと子供たちが言論で戦う姿が見られたかも知れない。いや、逆にそういう光景は、日本では起きないかも知れない。というのも日本の子供たちに
「俺たちにも発言権がある」
という発想が全くないからです。

 いや、発想がないのではない。
 そういう発想をさせないのが日本社会でなのあると。

 そういう事を考えるのは大人になった後でよい。
 今は勉強しなさい・・・・というのが日本社会であると。

 こういう社会の中で子供たちは、
 いったい誰が旅に出るというのだろうか?
 どうして、ワンダーフォーゲル運動が根付くというのだろうか?
 どうして、ユースホステル運動が根付くというのだろうか?

 日本の子供たちにとって、旅も、ワンダーフォーゲルも、いっさい余計なものであって、単なるレジャーでしかないものであるならば、旅にこだわる必要は無い。ワンダーフォーゲルやユースホステルにこだわる必要は無い。レジャーは他にもある。いろんなレジャーがある。だからユースホステル運動をレジャーの一つと考えるならば、ユースホステル運動の未来は暗いものになる。しかし、別のアプローチで考えてみると、ものすごく明るい未来が見えてくる。


つづく

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2011年01月15日

ユースホステルは甦るのか?6

ユースホステルは甦るのか?6

 教師たちは、生徒たちが非行にはしらないように管理し、注意してきましたが成果をあげなかった。だから監視を強めることになって、教師と生徒の関係がギクシャクしていた。ところがワンダーフォーゲル運動においては、全くそういうことはない。少年が少年を指導することによって、全く健全な子供たちの世界ができあがる。子供たちがワンダーフォーゲルという自己管理の活動をさせると、子供たちは、実に道徳的になる。

 子供たちがワンダーフォーゲルという
 自己管理の活動をさせると、
 どうして彼らは道徳的になるのか? 





 答えは実にシンプルです。
 管理する苦労がわかるからです。

 子供たちは、いつも管理される側であった。そのための管理のための規則を嫌う傾向にある。しかし、ひとたび管理する側になると、管理の難しさに閉口する。そのために時として子供たちは、大人たちより厳しいモラルを、子供どうしで作り上げるのです。それは、時に間違ったモラルであったりもする。そのためにイジメが発生して自殺者をだしたりもする。けれど、子供たちを放置すると、モラルが崩壊するということはない。絶対にない。むしろ子供たちが自主的に作るモラルの縛りは、大人たちの作る縛りよりも、強く残酷であったりする。それがイジメによる自殺に発展することさえある。結果として悪事に手を貸すことさえある。

 しかし、子供たちが作る子供のためのモラルが、間違ってない方向であれば、ドイツのワンダーフォーゲル運動に見られた素晴らしい理想的な子供たちの世界ができあがるのです。初期のドイツワンダーフォーゲル運動を行った子供たちは、12歳から19歳の年齢でした。彼らが、教師が見張っているわけでもないのに、進んで模範的な人間であろうとする。そういう世界ができあがるのです。

 しかし、この単純明快なことを、(一部を除いて)大人たちは、なかなか理解できなかった。ワンダーフォーゲル運動の素晴らしき成果を、肉体運動や健康に求めたり、ドイツの歴史や文化に求めたり、徒歩修行にもとめたり、宗教的背景にもとめたり、教育的効果に求めたり、レジャーによる精神的解放にもとめたりして、見当違いの結論をだしていました。

 当時の日本の識者たちも同じで、ワンダーフォーゲル運動を消極的健康法と認識しています。そのうえで文部省体育課は、東京を中心とする125コースを設定しました。しかも、それらのコースの大半は、登山コースで伝統的な修験道のコースが多々含まれていました。しかし、当時の日本の子供たちが、それらのコースに殺到し、日本にワンダーフォーゲル運動が根付いたかというと、そういう事は、全くありませんでした。



 
 それは、まだまだ貧しかったからか?
 違います。

 第一次大戦直後のドイツは、当時の日本より、遥かに拙かったけれど、さかんにワンダーフォーゲル運動が行われていました。第一、もっともっと貧しかった江戸時代においては、おかげ参りという伊勢参りブームがおきています。ブームは、 260年にわたる江戸時代に15回ほど発生していますが、このブームがなんとも気違いじみた、御祭り騒ぎをひきおこしました。

 ある日、気がつくと村から人間がいなくなる。
 村がからっぽになる。
 それは、もう神隠しのように消えてしまう。
 どこへ消えたのかというと、みんな伊勢参りにでかけてしまった。
 そんな現象が、全国の津々浦々でおきたのです。

 ある村では、6〜10歳くらいの子供たちが消えてしまう。
 ある村では、女性全員が消えてしまう。
 ある村では、老人が全て消えてしまう。

 こんな現象が、全国で同時におきてしまうのです。当然のことながら、みんな旅支度などせずに出かけています。お金も通行手形も持っていません。集団ヒステリーのように発作的に伊勢参りに出かけるのですから、そんなもの誰だって用意していません。じゃあ、どうやって旅をしたのかと言いますと、野宿のためのゴザをかかえ、柄杓を一本手にして沿道で施しを受けながら伊勢に向かったんですね。勝海舟のお父さん(勝小吉)も、そうやって伊勢参りをした口です。





 その中には、親・主人の許可を得ない「ぬけ参り」も多くみられたと言います。
 ぬけ参りというのは、今で言えば、集団家出・集団脱走・集団退職で伊勢参りに向かうことです。

 驚くべきは、6〜10歳くらいの子供たちのグルーブ参拝です。ある日、突然、親にも奉公先の主人にも内緒で家をとび出し伊勢へでかけるんですから凄いものです。少女たちの集団もいました。女性の旅人には、関所もうるさかったのですが、信仰旅行とあれば、堂々と関所を通れたようです。宝永2年の伊勢参りブームの時に、京都所司代が1カ月間、京都を通過する参詣者に関する調査をしました。それによれば、

京都通過総数      51500人のうち、
6〜16歳までの子供が  18500人(35.9%)
また女性が       21000人(40.7%)
成人男子が       12000人(23.3%)

となっています。成人男子より、女子供の方の数の方が圧倒的に多いというこの事実には、ただただ驚かされます。

 また、1705年の宝永2年に4月9日〜5月29日までの50日間、本居宣長がその数を調査し、その著作『玉勝間』に書いています。それによると、50日間で 362万人。ということは、単純計算にして1日当たり約 72000人。これを1日8時間で割ってみると、1時間あたり 9000人、1分間に 150人が通過していったことになります。当時の伊勢街道の道幅は、かなり狭いですから、ラッシュの新宿駅なみに混雑していたことになりますね。第一に50日間で 362万人だなんて、お正月の明治神宮や鶴岡八幡宮より混んでいたことになります。すごいもんです。

 さらに1830年の文政13年の頃には、九州から出羽の国まで全国の人民、 500万人が、突如として伊勢参りにでかけています。500万人といえば、当時の人口の 20パーセントにあたりますが、身体の不自由な老人や、幼い子供、お役目があって移動がままならない武士たちを除けば、人口の半分くらいが伊勢に向かったのではないかと思います。ここまでくるとブームなんて生易しいものではありません。伊勢街道は通勤ラッシュというより、おしよせる人民の津波。まさに民族の大移動です。この現象を世界史的な視点で見てみますと他に類例がありません。日本には、そういった歴史があるのです。これに比べれば、ドイツのワンダーフォーゲル運動なんて、ごくごく小さな運動です。なにしろ最盛期に5万人を越えなかったからです。

 さて、これらの伊勢参り・抜け参りをした江戸時代の少年少女たちのモラルは、どうであったか? きわめて高いモラルをもって旅をしたと言われています。ワンダーフォーゲル運動を行ったドイツ少年たちに匹敵する素晴らしいモラルで自らを律し、模範的な旅人であったことが当時の記録に残されています。ですから関所の役人たちも、幕府の首脳たちも、諸藩の大名たちも、このような伊勢参りを規制することは、決してなかった。

 話しを戻します。

 よーするに当時の文部省は、ドイツのワンダーフォーゲル運動を取り入れようとしたけれど、日本の子供たちは、全く興味をしめさなかった。旅をするかどうかは、貧富の差は関係ない。貧しくとも旅する人は旅をする。金が無くとも旅する人は旅をする。これは少年少女にも言えます。江戸時代の貧しい少年少女たちでさえ、民族大移動のように伊勢参りをした。だから貧しかったからワンダーフォーゲルに興味をもてなかったわけではない。ワンダーフォーゲル運動に何の魅力もなかったから誰も、それを行わなかった。

 昭和8年の日本の少年少女には、ワンダーフォーゲル運動に、これっぽっちの興味も持てなかった。そんなものより、出世とか、青雲の志とか、軍艦とか、映画むとか、御馳走とか、豊かさに憧れていた。わざわざ貧しい身なりで貧乏旅行に行こうとは思ってなかった。それより列車にあこがれ、自動車にあこがれた。ドイツの少年たちが、列車や自動車に反発して徒歩で歩いたのとは、別のベクトルがはたらいていた。

 昭和初期の文部省は、あきらかに見当違いの考えをしていた。
 子供たちを、どのように方向付けるか?
 そればかり考えていた。

 だからドイツの子供たちのように、教師が見張っているわけでもないのに、進んで模範的な人間であろうとする。そういう世界を作ることに失敗してしまった。というか、日本の子供たちは、徒歩旅行にさえそっぽを向いてしまった。親たちに至っては、そんな金にもならんことに、エネルギーを使うことを馬鹿馬鹿しいとさえ思っていたふしがある。そのうえ、文部省も、当時の親たちも、子供を押さえつけることばかり考えていたふしがある。そういう世界に、ドイツのワンダーフォーゲル運動に見られた、子供たちの進化が見られるわけがない。

 ただし、いつの世にも例外はいます。
 当時の日本にも、例外がいた。

つづく 

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2011年01月14日

ユースホステルは甦るのか?5

ユースホステルは甦るのか?5





 リヒャルト・シルマンによって第一次大戦後、一夜にしてドイツ中に大量の格安の宿ができあがると世界中の旅人は、ドイツに殺到しました。これに驚いたヨーロッパ諸国は、ドイツに続けとばかりにユースホステル協会を設立し、昭和7年に国際ユースホステル連盟ができあがったのですが、これの音頭をとったのはドイツではなく、オランダユースホステル協会です。

 イギリスでは、クエーカー教徒の重鎮であるキャッチプールがイギリスユースホステル協会を設立し、政治家たちに広く支援を求め、着々とユースホステルの整備を行いました。彼らは自然を愛し自然を熱心に保護しようとするグループの人たちで、ユースホステルも宿屋というより、日本の山小屋(それも避難小屋)に近いものでしたが、多くの支援者に支えられて整備されていきました。

 ポーランドも国策としてユースホステル運動にとりくみました。国策にするくらいなので、ポーランド政府は、リヒャルト・シルマンの理念を熟知しており、ユースホステル運動の素晴らしさをよく理解していました。国際ユースホステル連盟には、ポーランド教育省体育学校衛生局長と運輸省観光局代表が参加しています。

 オランダは、ドイツのワンダーフォーゲル運動のような団体が、リヒャルト・シルマンの思想をくみとって、世界でも最も質実剛健なユースホステルが作られていきました。多くのボランティアによってユースホステルは、支えられており、規則は厳しく、食事はペアレントと共にお祈りをしてから食べました。ドイツ以外で、一番早くユースホステル運動が定着したのが、このオランダ協会です。オランダが、国際ユースホステル連盟設立の呼びかけ人になったのも、当然のことでした。

 このように、ユースホステル運動は世界中に広まっていきましたが、国によってユースホステル利用の規則が緩やかな国と、厳しい国がありました。規則の厳しい国の代表がオランダでしたが、厳しい国は、たいていワンダーフォーゲル運動が盛んな国でした。なぜそうであったのかは、この文を最後までわかるでしょう。

 このような状況下で日本政府も動き出しました。文部省が調査を行い、民間人もユースホステルを紹介しました。しかし、残念ながら彼らは、ユースホステル運動とワンダーフォーゲル運動をゴッチャにしていました。

 ただし、リヒャルト・シルマンとドイツユースホステル運動の歴史は正しく理解していたようで、これを詳しく紹介しています。当時のドイツユースホステル協会の実態をかなり詳しく調査して、会費から会員証から規則について、実態を調査しています。そしてユースホステルを『青年宿泊所』として紹介しています。にも関わらず、当時の文部省では、ユースホステルよりもワンダーフォーゲルを積極的に取り入れようとしました。

 当時の文部省は、ドイツには二千以上のユースホステルがあり、それが、どのようにして一夜にできあがったか? そして、その事実が、どういう意味をもち、どのように世界史を変える力をもっていたか、全く理解できなかったようです。


 ここで脱線しますが、ドイツには二千以上のユースホステルができることによって、
 どのように世界史が変わったのか、
 少しばかり実例を紹介してみましょう。

 一夜にして二千以上のユースホステルがドイツにできあがって、世界中の旅人がドイツに殺到したことは前にも述べましたが、それらの旅人の中には、アメリカ人も少なからずいました。彼らアメリカ人は、ドイツのユースホステルで、ドイツ人の旅人の親切に出会い感動して帰る人が多かったのです。そういう旅人の多くが、第二次大戦のさなかにドイツ人に対する憎しみに満ちた偏見がでるのを防止してくれました。そして彼らは、第二次大戦後、悪いのはナチスであってドイツ人ではないと動いたからです。

 しかし、こういう動きは、第一次大戦の時には決しておこらなかった。第一次大戦の時にドイツを助けたのは、心ある日本人たちです。明治時代のお雇い外国人にドイツ人が多かったために、その弟子たちである日本人の多くは、民間レベルで第一次大戦後のドイツを積極的に救援しました。星新一のお父さんなんかが、その体表的な例です。そういう意味で民間交流は、とても大切なのです。





 逆にいうと戦前の日本に日本ユースホステル協会があり、全国に二千のユースホステルがあったとしたら、第二次大戦中にアメリカの日系人が収容所に入れられることはなかったかもしれません。というのも、アメリカユースホステル協会は、何度も日本にホステラーを送り込む計画をたてていたからです。で、実際、十名の大学生を昭和11年7月17日のシアトルからの船で日本に派遣しています。ちなみに彼らの小遣いは60ドル。日本円にして210円。当時の大工の日当が2円でした。コロッケ三銭、国鉄五銭、銭湯七銭でした。ユースホステルを使った貧乏旅行に来たとはいえ、アメリカ人学生の懐は、当時の日本人がうらやむほど裕福でした。

 ただ、残念ながら当時の日本には、一軒のユースホステルもありませんでした。仕方なく賀川豊彦が世話をしてYMCAが彼らの宿泊を引き受けたわけですが、もし、この時、ヒトラーユーゲントを大歓迎したようにアメリカのホステラーを大歓迎し、そのうえ日本にユースホステル網が充実していたら、日本史は違った歴史になっていたかもしれません。というのも、西部地区のアメリカ人にとっては、ヨーロッパ旅行より日本旅行の方が近くて便利で格安だったからです。彼らが大量に日本にやってきて、ユースホステルで日本人の若者とふれあっていたら間違いなく日米史は変わったものになっていたでしょう。たとえ戦争を防げなかったとしても、歴史は変わっていたでしょう。

 現に多くの知日アメリカ人が、アメリカ軍による過酷な占領政策を変えさせています。その代表的な例がYMCAの名誉主事であったラッセル・ダーギン氏です。彼は日本で三十年間、キリスト教で布教活動をつづけた人で日本語がペラペラなひとでしたから、占領軍の偏見に満ちた占領政策を次々とひっくりかえしてくれました。幸か不幸か、戦前の日本には信教の自由があり、多くのキリスト教団体が日本で活動していましたから、戦争に負けても彼らが日本の味方をしてくれたのです。ちなみに、このラッセル・ダーギン氏は、日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏の師匠筋にあたる人です。ラッセル・ダーギン氏ぬきには日本ユースホステル運動史は語れませんので、この名前は覚えておくとよいと思います。





 だいぶ話しがはずれました。
 話しを元に戻します。

 ドイツには二千以上のユースホステルができる。これは世界に凄い衝撃を与えました。世界は、これに倣おうとした。日本も倣おうとした。しかし、日本では、ユースホステルの建設よりも、ワンダーフォーゲル運動を進めるほうにベクトルが向いていったのです。

 ワンダーフォーゲル運動は、最盛期であっても五万人をこえることはなかったと言います。ドイツユースホステル運動は、最盛期から落ちぶれたとはいえ現在でも二百万の会員を誇っています。つまりワンダーフォーゲル運動は、ドイツの伝統的エリートである教養市民層の子供たちでした。けれど、この小さな運動は、すごいインパクトをもっていました。

 彼らは、12歳から19歳のメンバーで構成されており、そこには大人がいませんでした。少年が少年を指導していたのです。しかも、酒もタバコも博奕もない。教師が見張っているわけでもないのに誰も悪事に手をそめない。それどころか誰もが進んで模範的な人間であろうとする。

 これはドイツにかぎらず世界中どこでも一緒ですが、教師たちは長い間、生徒たちが非行にはしらないように見張って、時に注意してきましたが、少しも成果をあげなかった。だから生徒への監視を強めることになって、教師と生徒の関係がギクシャクしていた。これは洋の東西を問わず、時代を問わず、いつどこでも起こりうる普遍的な現象ですが、ワンダーフォーゲル運動においては、全くそういうことはない。少年が少年を指導することによって、全く健全な子供たちの世界ができあがる。子供たちがワンダーフォーゲルという自己管理の活動をさせると、子供たちは、実に道徳的になる。





 この事実に世界は驚愕しました。

 そして、この事実に日本の文部省が飛びつきました。
 というのも日本にも似た事例があったからです。
 それは日本青年団の田澤義鋪の青年合宿であり、
 協調会の労働講習会であり、
 修養団の天幕講習会でした。

 また民間でも、のちに日本ユースホステル協会初代会長になる平凡社を創設した下中弥三郎氏が、児童の村小学校を開設し、子供たちが自分の好きなように勉強させるという生活させており、そこから数々の著名人を誕生させていました。

 しかし、当時の文部省は、子供たちがワンダーフォーゲルという自己管理の活動をさせると、どうして彼らは道徳的になるのか? 今ひとつ分かってなかったのかもしれません。もし分かっていたら、すぐに日本にユースホステルを量産していただろうし、そのユースホステルの管理方法も、現在とは変わった形になっていたと思うからです。これは、戦後に発足した日本ユースホステル協会にしても一緒です。


子供たちがワンダーフォーゲルという
自己管理の活動をさせると、
どうして彼らは道徳的になるのか?
 

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2011年01月13日

ユースホステルは甦るのか?4

ユースホステルは甦るのか?4

 ワンダーフォーゲル運動とは、ドイツのエリートの子どもたち近代に対する反発運動なのです。大金持ちの子どもたちが、わざと鉄道に乗ることを拒否して、徒歩で旅行する運動なのです。貴族が聞くクラッシック音楽を拒否して、ドイツの民謡を収集しながら旅する運動なのです。わざと貧しい身なりをし、わざと野宿をする。それがワンダーフォーゲル運動なのです。しかも、そこには大人が存在しない。これがポイントです。大人が子どもを指導するのではなく、子どもたちが子どもたちを律したのがワンダーフォーゲル運動なのですね。

 これに対して、リヒャルト・シルマンがはじめたユースホステル運動は、国民運動であり、旅行なんて考えもしなかった貧しい子どもたちを教室から連れ出して、旅をしながら授業を行うという教育のスタイルでした。一種の移動教室がユースホステル運動のはじまりです。さらに分かりやすいイメージを述べるならば、ミュージカル映画の『サウンド・オブ・ミュージック』のイメージこそが、初期のユースホステル運動の姿でした。

 子どもたちを山野に連れて行くことが、
 ユースホステル運動の始まりだったのです。





 けれど、これで終われば、ユースホステル運動は世界規模の運動にはなりえなかったでしょう。でも、ある事件をきっかけに、ユースホステル運動は世界史を変えるほどの巨大な運動になるのです。それは、たった2つの事です。それだけで歴史が回転しだします。たったの2つのことで。

 一つは、子供たちを泊める宿を大量に作ったこと。
 もう一つは、それを一般の人々に解放したこと。

 これだけです。
 これだけの事で、ドイツユースホステル運動は、世界史を変えてしまったのです。

 では、どうやって子供たちを泊める宿を大量に作ったのか?
 予算は?
 人員は?
 いったい、どうやって?

 リヒャルト・シルマンは、これらの難問をいとも簡単に解決してしまいました。全国の小学校をユースホステルにしてしまったのです。小学校の放課後、ユースホステルに使ったのです。人手は、小学校の管理人に御願いし、費用は宿泊費でまかないました。これだと建設費は、1円もかかりません。おどろくべき発想です。この驚くべき発想を、一番下っ端教師が、言論活動だけで達成してしまった。どうやらドイツには、第一次大戦前から言論によって世界を変える土壌があったようです。

(私もリヒャルト・シルマンの真似をして言論を使っています)





 しかし、これだけでは、ユースホステルが世界史を変えるまでの運動にはなりませんでした。リヒャルト・シルマンは、もう一つ、驚くべき決断を行います。ワンダーフォーゲル運動の団体にユースホステルの使用許可をみとめ、逆にワンダーフォーゲル運動の団体の宿も、バーターでユースホステルとしての使用をさせてもらいました。これによって、ユースホステルには、小学生以外のあらゆる年齢層の人々が使うようになったのです。これが世界史を変えるきっかけとなりました。

 では、どのように世界史が変わったのか?
 ちょっと具体的に述べてみましょう。

 昔、つまり明治時代の頃の話しですが、旅行は、とても贅沢なことでした。ホテルはとても高価な宿泊施設で、お金もちでないと、泊まれませんでした。仮に、お金があったとしても、ホテルの数は限られており、田舎では泊まる宿さえもない。だから野宿したり、馬小屋で寝たりしました。明治時代は、どこの国でも同じようなものでした。当時、世界の富を独占していた、イギリス・フランス・イタリア・アメリカにしても、それは変わりませんでした。

 ところが、ある時、リヒャルト・シルマンというドイツの小学校教師の思いつきによって、一夜にして、ドイツ中に、安くて安全に泊まれる宿が、ドイツ全土にできあがったのです。その宿は、小学生でさえ安全に泊まれて、どんな貧乏人も支払える価格の宿泊費しかとらない。しかも、それがドイツ全土に、どんな田舎町にもあるのです。

 世界中の旅人は、ドイツに殺到しました。

 それはそうです。イギリス人が、一週間イギリス旅行するお金で、1ヶ月もドイツ旅行できるのです。イギリス人は、イギリス旅行なんかせずに、ドイツ旅行するに決まっています。おまけにドイツ人ほど旅人に親切な国民はないですから、みんな喜んでドイツに殺到します。これはイギリスにかぎったことではありません。

 現代日本だって一緒です。海外旅行が、国内旅行より安くて安全だったら、誰も国内旅行なんかしません。みんな海外に行ってしまいます。つまり、そういう状況が、リヒャルト・シルマンによって、一夜にしてドイツにできあがったのです。世界は驚愕し、どの国もドイツに倣えと思うのも無理はありません。

 こうして国際ユースホステル連盟は、できあがったのですが、実は、これを作ったのはリヒャルト・シルマンではありません。オランダユースホステル協会のメイリンク氏が音頭をとって、昭和7年に結成されたのです。つまり、ドイツに倣おうとして世界各国が自国にユースホステル運動を輸入し、ドイツをまきこんで国際ユースホステル連盟を作ったのです。

 もちろん日本も指をくわえて見ていません。さっそく文部省が調査を行い、後に続こうとしており、翌年の昭和8年に文部省体育課が、日本にユースホステル運動をとりいれようとします。しかし、残念なことに、体育課内に組織を作ったために、発展しなかったのです。もし、この時に公益特殊法人をつくっていれば、日本史は変わったものになっていたでしょう。

 最近は、政治家たちによる行政仕分けのショーによって、公益法人叩きがはやりになっていますが、公益法人性悪説には気をつけた方がよいと思います。悪いのは天下りであって、公益法人は絶対悪ではあません。むしろ行政機関が全ての仕事をやろうとする方が、その後に悪い影響を残すことがあります。事業が政治や予算に左右されるからです。戦前のユースホステル運動は、まさに、その悪い影響のために潰されてしまったようなものです。

 しかし、ドイツユースホステル協会は、最初から公益法人として活動しましたから、政治や予算に関係なく大発展していきました。金がないなら無いなりに、魔法の杖を使って、アッという間にドイツ全土にユースホステルを作ってしまった。

 では、日本の文部省は、それらをどう認識していたのでしょうか?
 どうやって日本にドイツのユースホステル運動を取り入れようとしたのでしょうか?
 そして、その結果、何がおきたのでしょうか?
 そして、それが戦後の日本ユースホステル運動の立ち上げに、
 どういう影響をもたらしたのでしょうか?

 それが分かってないと、
 日本のユースホステル運動の再建のためのヒントは見つかりません。
 そのヒントとは・・・・?





つづく

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2011年01月11日

ユースホステルは甦るのか?3

ユースホステルは甦るのか?3

 日本にユースホステル運動を紹介したのは、イギリスユースホステル協会の創設者、キャッチプールです。彼は、キリスト教のクエーカー教徒の重鎮でした。クエーカー教徒は、信者の数こそは少ないですが、英国議員の大多数がクエーカー教徒だったりしましたから、政治的には強い力をもっていました。彼らは、平和・男女同権・民族の平等・質素な生活・誠実などをモットーとし、多くの人々の尊敬もうけていました。その彼らが、世界3大聖人の一人、賀川豊彦にユースホステル運動を紹介したのが、日本における最初のユースホステル運動のはじまりです。

 しかし、この運動は実りませんでした。どういうわけか賀川豊彦は、ユースホステル運動を組織化しなかったからです。事務局を置くとか、ユースホステルを設置するということをしなかったのです。そのために日本最初のユースホステル運動は、かけ声だけで終わってしまった。

 これは、森林浴の発展と似ています。森林浴という概念が日本で発明され、かれこれ三十年もたっていますが、森林浴運動なるものは、どこにも存在していません。事務局もなければ、組織もなく、森林浴のための森もない。しかし、森林浴という言葉は、観光業者や教育関係者に使われてはいる。使われているけれど、爆発的に発展したわけでなく、それが社会現象になったわけでもない。産業として日本に定着したわけでもない。かけ声だけで終わってしまった。もし、森林浴で世の中を変えるとしたら、理念と戦略と組織が必要です。で、科学的・医学的・教育学的な実証も必要でしょう。そして世間にアピールしなければならない。しかし、それがなされてないために、森林浴運動は、かけ声だけで終わってしまった。賀川豊彦がはじめたユースホステル運動が、まさにそのように終わってしまったのです。

 しかし、その数年後に、文部省の体育科が、ユースホステル運動に目をつけました。そして昭和8年4月に正式に組織をたちあげ、日本におけるユースホステル運動をスタートさせたのです。文部省がたちあげたのですから組織力には問題ない。事務局も文部省の体育科内にあるし、予算も付いている。しかし、残念ながら、この運動もアッという間に滅びてしまいます。国家が行う政策というものは、その時の政治状況の変化でアッという間に潰されてしまうからです。

 もし、この時、文部省が『日本青年館』のような、ユースホステル運動の公益特殊法人を作っていれば、この運動は途中で潰れることなく大きく発展したであろうと思いますが、残念ながらそうはいかなかった。戦前のユースホステル運動には、田澤義鋪・下村湖人のようなカリスマ的存在はいなかったし、リヒャルト・シルマンやウィルヘルム・ミュンカーといった創業の人もいなかった。日本にそういう人がでるまで、あと二十年は待たなければならなかった。

 それに親方日の丸の行う運動は、どうしても予算の裏付けがないと大きくならない。これが民間の運動であれば、予算ゼロでも大きくなりうる。借金したり、無償の行為で大きくなり得る。国家は金(予算)で動くが、民間は熱意(理念)で動くからです。そのためには、どうしても田澤義鋪や、リヒャルト・シルマンのようなカリスマ的な存在が必要になってくる。しかし、当時の日本には、そのような人材がいなかった。

 あと、当時の文部省は、致命的な誤りをおかしていました。ユースホステル運動と、ワンダーフォーゲル運動をごっちゃにしていたのです。ユースホステル運動とワンダーフォーゲル運動は全く違う運動であったのに、それらを一緒にして日本に紹介してしまった。

 これは私も、リヒャルト・シルマン伝を書くまでは両者の違いが分からなかった。ユースホステル運動もワンダーフォーゲル運動も同じだと思っていました。しかし、まるで違う運動であったのです。ワンダーフォーゲル運動は、ドイツのエリートたちの運動であったのですが、ユースホステル運動は民衆運動であった。それが分かってなかった。そのためにワンダーフォーゲル運動を江戸時代のお伊勢参りと同列にとらえてしまった。こういう間違いをおかしてしまった。ドイツユースホステル運動を丹念に調査し、ワンダーフォーゲル運動も充分に調査した形跡があるのに、両者をごっちゃにしてしまった。

 ワンダーフォーゲル運動は、幕末の志士たちの旅に近い。
 ユースホステル運動は、おかげ詣り(お伊勢参り)に近い。

 両者は、全く違う運動なのです。
 しかし、両者をごっちゃにしてしまった。

 そのために、当時の文部省は、ユースホステル運動よりも、ワンダーフォーゲル運動に力をいれてしまった。で、大学にワンダーフォーゲル部が続々とできてしまった。そして当時の大学生たちは、ワンダーフォーゲル運動のことがよく分からずに、山岳会の一種であるぐらいに思ってしまい、山岳部に似たようなサークルを作ってしまった。そのためにユースホステル運動は、最後まで戦前の日本に普及しなかった。そのかわりに山岳部のようなサークル(ワンダーフォーゲル部)が次々と生まれてしまった。





 でもまあ、これは仕方ないのかもしれません。ユースホステル運動の創設者であるリヒャルト・シルマンでさえも、ワンダーフォーゲル運動とユースホステル運動の違いをよく理解してなかったのですから。

 ワンダーフォーゲル運動とは、ドイツのエリートの子どもたち近代に対する反発運動なのです。大金持ちの子どもたちが、わざと鉄道に乗ることを拒否して、徒歩で旅行する運動なのです。貴族が聞くクラッシック音楽を拒否して、ドイツの民謡を収集しながら旅する運動なのです。わざと貧しい身なりをし、わざと野宿をする。それがワンダーフォーゲル運動なのです。しかも、そこには大人が存在しない。これがポイントです。大人が子どもを指導するのではなく、子どもたちが子どもたちを律したのがワンダーフォーゲル運動なのですね。

 東京都の知事が、子どもを守るためと称してアニメの規制をはじめましたが、ワンダーフォーゲル運動的に考えると『おかしい』ということになります。ワンダーフォーゲル運動的な考えでは逆です。「子どもたちを守るのは子どもたち自身である」というのがワンダーフォーゲル運動的ですから、アニメを規制するなら、その委員会に子どもの代表がいないとおかしいのです。

 これに対して、リヒャルト・シルマンがはじめたユースホステル運動は、国民運動であり、旅行なんて考えもしなかった貧しい子どもたちを教室から連れ出して、旅をしながら授業を行うという教育のスタイルでした。一種の移動教室がユースホステル運動のはじまりです。さらに分かりやすいイメージを述べるならば、ミュージカル映画の『サウンド・オブ・ミュージック』こそがユースホステル運動の始まりでした。








つづく

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2011年01月10日

ユースホステルは甦るのか?2

「いっそ、会員証を廃止したら」
という人もでてくる。
しかし、こういう事を言ってくるマネージャーの多くは、ユースホステルしか経営してない人なんです。

 ユースホステルから会員証を廃止したら、
 そのへんのペンションや国民宿舎と変わりなくなります。

 全国にペンションが何件あると思っているのでしょうか?
 各県に平均100軒のペンションがあるなら、4700軒のペンションがあることになる。

 言っときますが、北軽井沢と嬬恋村には、100軒以上のペンションがあります。たった2つの町村で、それだけのペンションが存在していますから群馬県全体ではもっとあるでしょう。だから全国に4700軒という数字はありえません。どう少なく見積もっても1万軒以下という数字にはならないと思います。もちろんペンションの少ない県もあるでしょうが、北海道や長野県なんかは、1つの県で千や二千のペンションがあると思われますから、全国のペンションを集めれば1万軒以上はあるはずです。と、同時に民宿だって、それ以上の数はあるはずです。

 問題は、これらの宿泊施設が、ユースホステルと同じように、ふれあい重視のシステムをもち、一人旅を歓迎し、体験プログラムを用意していることです。ユースホステル以上にユースホステルらしい施設を用意している宿があるということです。

 仮に民宿とペンションが全国に2万軒あったとします。それに観光ホテルや旅館を加えて3万件の宿泊施設があったとします。そのうちの1パーセントが、ふれあい重視のシステムをもち、一人旅を歓迎し、体験プログラムを用意しているとしたら、そういう施設は全国に300軒あることになる。2パーセントなら600軒。3パーセントなら900軒になります。それに対して全国のユースホステルが、たったの270軒。しかも、その中でふれあい重視のシステムをもち、一人旅を歓迎し、体験プログラムを用意しているユースホステルらしいユースホステルというと、100軒もないかもしれない。

 現に、嬬恋村には、ユースホステルのように体験プログラムを用意している宿が数軒あります。大きいところでは、鹿沢休暇村・グリーンプラザホテル・チドリーホテル・高峰温泉ホテル。ペンションも何軒かやっています。例えばペンショングリーンフィールドなど。キャンプ場ならスイートグラスといったところが、わが北軽井沢ブルーベリーYGHより豊富な体験プログラムを用意しています。こういった体験プログラムは、もうユースホステルの独壇場ではなくなっています。

 また農家民宿やゲストハウスといった、これまたユースホステルに類似した宿も台頭してきています。北軽井沢ブルーベリーYGHには、毎年、何人かの若い女の子が、ヘルパー(ボランティア)に来てくれますが、彼女らは北軽井沢ブルーベリーYGH(ユースゲストハウス)をゲストハウスと間違えて来る人たちでした。

「どうしてヘルパーしようと思ったの?」
「京都のゲストハウスに泊まったら楽しかったから」
「うちは、ユースゲストハウスというユースホステルなんだけれど」
「ゲストハウスじゃ無かったんですね」
「そうなんだよ。ユースホステルとゲストハウスは、全く別物なんだ」
「びっくりしました」
「で、ゲストハウスは楽しかった?」
「すごく楽しかったです。ドミトリーですが、みんなと仲良くなれて楽しかった。ユースホステルでは、そういうことは無いんですね」
「いや、そういうわけではないんだけれど、昔はね、ユースホステルもゲストハウスと同じでドミトリーだったんだよ。で、みんな、すぐに仲良しになったものさ」
「そうなんですか? 信じられません」
「・・・・・」

 どうやら、いつの間にかゲストハウスは、ユースホステルよりも「ふれあい」の宿になっているらしい。しかも一人旅の若い御客様でいっぱいで、誰もがドミトリーを嫌がらないらしい。というかドミトリーでないと駄目といっている女の子も多い。完全に昔の古き良きユースホステルの特色を盗まれている。逆にユースホステルは、どんどんペンションに近づきつつあり、特色が失われつつある。

 じゃあ、ユースホステルは滅びるしかないのか?
 と言うと、ちょっと違うと言いたい。
 ユースホステルには、どの宿泊施設にも
『絶対に真似できない特色』
 があるからです。

 それは『理念』です。
 そして、その理念を守るために『会員証』があると。

 私は最近、こう思うようになってきました。ユースホステルの入会費用は、寄付金にあたるものではないかと。これは日本ユースホステル運動史を調べてみると、どうしても、そこに辿り着くのです。御存じのとおり日本のユースホステル運動は、昭和26年に発足したことになっています。しかし、それ以前の過去に2回、日本ユースホステル運動があったのは案外知られていません。

 最初は、大正時代です。世界3大聖人の一人、賀川豊彦が中心となってスタートしています。しかし、これはすぐ尻すぼみとなってしまいました。次に昭和初期に文部省が主体となってユースホステル運動をスタートしています。しかし、これも尻すぼみとなって消えてしまいました。どうして消えてしまったのか? それは.....。

つづく

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2011年01月08日

ユースホステルは甦るのか?1

 ユースホステルのマネージャーは、まめに統計をとります。日本ユースホステル協会の本部に報告するためです。で、2010年の統計をとってみて、ある事実に愕然としました。2010年に北軽井沢ブルーベリーYGHで、入会手続きを行った人が、たったの33人でした。

 この数字は、最盛期の十分の一とは言いませんが、激減したことは確かです。
 北軽井沢ブルーベリーYGHがオープンした年は、
 三日で30人ちかく入会したこともありました。
 それが十年後には、年間に33人しか入会しなくなったのです。

 不可解です。

 と言っても、こうなった原因は、ある程度、推測できます。会員が激減したのは、ある時期からです。会員証がキャッシュカード化され、非会員の利用料金が1000円から600円に値下げされてからです。その時から入会希望者は激減したのです。これは、ユースホステル業界の致命的な失策の一つであったかもしれません。

 御客さんの中には、キャッシュカードを作るなら入会しないという人が大勢いました。あと、非会員の利用料金が1000円から600円になったために、ユースホステルに5泊以上しないと元が取れないので入会しないという御客さんも大勢いました。うちの御客さんで入会しなくなった人は、圧倒的に、この理由が多かったものです。普通に考えて、ユースホステルに年間5泊する人は少ないです。私だって去年は、ユースホステルに3泊しかしてない。つまり元がとれてないのです。しかし、ユースホステル運動を支援する立場として、たとえ1泊もしなくても会員になり会費を払っています。

 じゃ、どうして、このような失策が実行されたのか? 日本ユースホステル協会の責任か?というと、そうではないのですね。日本ユースホステル協会に責任があるわけではない。日本ユースホステル協会は、選出された理事と評議員の議決によって運営されているからです。つまり、われわれの代表が日本ユースホステル協会を作っている。

 で、会員証がキャッシュカード化も、非会員の利用料金が1000円から600円に値下げも、民営ユースホステルから出された提案だったりします。少なくとも当時のトップであった理事長の独断で決められたことではありません。われわれ民営ユースホステルのトップが、総会の選挙によって選出されたトップが提案して、それが実行されて、このような結果になったにすぎません。なんのことはない、自分たち自ら蒔いた種なのです。

 この事実は、逆に考えると、個々のユースホステルの努力次第によっては、逆転のチャンスもありうるということです。北軽井沢ブルーベリーYGHで、年間33人しか入会しなかった原因をつきとめ、これを10倍の330人に増やすための作戦を私たちマネージャーは考えなければならない。5年前までは、

「3泊以上するなら入会した方がお得ですよ」

と言って入会してもらいましたが、非会員の利用料金が1000円から600円に値下げしてからは

「5泊以上するなら入会した方がお得ですよ」

と言わなければならなくなった。となると、年間5泊する人は珍しいから入会する人はいなくなる。となると別のセールストークが必要になってきます。しかし、会員になると得することなんか、あまりないんですね。損得で考えると会員証に魅力が薄くなって来つつある。で、民営ユースホステルのマネージャーの一部から

「いっそ、会員証を廃止したら」

という人もでてくる。しかし、こういう事を言ってくるマネージャーの多くは、ユースホステルしか経営してない人です。ユースホステルから会員証を廃止したら、そのへんのペンションや国民宿舎と変わりなくなる。そのへんを分かっているのかどうか? ホステラーは、会員証があるからホステラー。会員証が無くなったらホステラーと言われる人種は確実に滅びます。

 これには根拠があります。

 実は、ユースホステル運動は、戦前にもあり、文部省の後押しである程度広まったにもかかわらず、会員制度をとらなかったために滅びてしまった実態があったからです。このことは、日本ユースホステル協会の発行する年史には書いてありません。つまり関係者は誰も知りません。

つづく

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2010年12月30日

インターネットとユースホステル3

インターネットとユースホステル3

 19世紀まではプロパガンダということばがよく使われました。
 いわゆる宣伝のことです。
 (プロパガンダを訳すと『宣伝』になる)

 しかし、過度な宣伝の弊害に気がついた欧米諸国は
 企業の自己修正のため生まれた宣伝方法、
 つまりPR(広報)を発見します。
 このPR(広報)は、一種の革命思想でした。

 PRとは、相手に行動させるための仕組みでなく、
 自分を修正するための宣伝がPRであり
 それによって、相手を感動させるのがPRなのです。

 では、ユースホステル運動におけるPRとは何か?
 日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏は、

「PRは人生であると考えてもいいです(横山祐吉談)」

 と言いました。つまり、ユースホステル運動とは、自らの人生をもって青少年の生活を豊かにする。青少年の生活を変えていく。考え方を変えていく。よい環境を作っていく。それがユースホステル運動の目的であると、1970年の10月21日に言い切ったのでした。

 もう一回言います。
 1970年の10月21日に言ったのです。

 2010年に言ったのなら、私は別に驚きはしません。そんなこと「当たり前」だからです。しかし、1970年といえば、宿という入れ物を作り、宣伝広告をうてば黙ってでも御客さんがジャンジャンやってきた高度経済成長期ですから。旅行会社と提携し、観光バスを走らせれば、御客さんは殺到したのが1970年でした。そういう時代に「PRは人生であると考えてもいいです(横山祐吉談)」と言って、

「PR担当者は、常に勉強し、想像力を豊かにしていくことが大切で、詩・文学・絵画・社会観など、あらゆる知識を身につけていなければなりません。その教養によって、はじめて、人の心をつかむ適切なPRができることになるのだと思います」

と語った横山祐吉氏の先見の明には、感服せざるをえません。横山祐吉氏は、ユースホステル関係者に変化を求めていたのですね。そして、その変化は人に言われてやるのではなく自らが勉強して体得せよと言っているのです。





 ここで私の体験を述べます。

 北軽井沢ブルーベリーYGHが、日本ユースホステル協会とユースホステル契約を結びユースホステルになった時、年に1回のマネージャー研修会なるものに強制参加させられることになりました。で、何をするかと言いますと、マネージャーどうしが話し合うのです。まあ、それは良いとして、マネージャーどうしが話し合って、有意義な意見がいっぱい出たとします。それで終わるんです。貴重な意見は、本部で実行されるわけではない。どこかで反映されるわけでもない。

 つまり何も変わらない。
 言いっぱなしになる。
 まず、これに驚きました。

 新人マネージャーになればなるほど、ここに不満が爆発していました。みゆきのユースホステルのペアレントさんなんかは、その急先鋒だったと思います。他の新人マネージャーさんたちも、似たり寄ったりでしたし、私も同じく不満でした。で、先輩マネージャーらに
「前からこうなんですか?」
と聞きました。すると
「私が知る限り二十年前からですが、創設以来の伝統でしょう」
と聞いてガックリきたことがあります。

 ところが、創設以来どころか、もっと大昔からそうであったことを知って驚きました。大正時代からの伝統だったのです。日本青年団の伝統でした。横山祐吉氏は、日本青年団の事務局長であり、田澤義鋪・下村湖人・熊谷辰治郎の弟子だったのです。そして、日本青年団を創設した田澤義鋪は、トップダウンを嫌い、下から変えていくことを推奨する人だった。





 しかも田澤義鋪は、本人は自覚してないでしょうが、世界で初めてPRを発明して実践した人でした。自分を修正するための宣伝を発明し実行したのです。具体的に何をしたかと言いますと、青年たちと一緒に暮らして講習会を行い、自分を変え青年たちを変えていった。そして青年たちの団体をつくり大きくしていった。つまり身体をはったPR活動をして、青年団を拡大していったのです。もちろん本人は無自覚でしょうが。

 それを横山祐吉氏は、よく知っていました。だから

「ユースホステルは若人の生活の場です。
 この生活に密着したPR活動でないと効果が上がらない、
 若人の人生観と離れてPRはありません」

 と講演したのです。
 そして

「PRは人生であると考えてもいいです」

 と断言したのですね。

 つまり、上から組織を変えていっては駄目だというのが日本青年団から日本ユースホステル協会に受け継がれていった精神だったわけです。田澤義鋪の系統の思想とは、個人個人が自主的に改革していく。自助の精神で生きていく。そして下から上を支えていく。決してトップダウンではない。むしろトップは御神輿でいいとさえ思っている。そういう日本青年団の精神が、日本ユースホステル協会の屋台骨になっていった。少なくとも横山祐吉氏は、そのつもりでいた。ところが横山祐吉氏は、それを下の者に分かりやすく説明せずに死んでしまった。もしかしたら、わざと説明しなかったのかもしれない。とにかく、下の者に何も言わなかった。

 でも、たまにボカして言うこともあった。
 ユースホステル新聞の内報版に書いてあったりした。
 その一つが
「PRは人生であると考えてもいいです」
という言葉だったりします。

 ここから先は、私たちユースホステルマネージャーが考えるべきことですが、私たちユースホステルはベットを売ることだけを考えては駄目だということです。それでは、ペンションやホテルと何ら変わることがない。これではユースホステルのPRはうまくいかない。

 高度経済成長時代の1970年。
 当時のユースホステルは、若人の生活の場でした。
 当時の学生たちは、田舎から上京して淋しかった。
 情報が少なくて、どっちを見て良いかわからなかった。
 だからサークルに入ったり旅に出たりした。

 旅に出ると、そこには情報があり仲間がいた。
 多くの人生があり、未来があり、過去があった。
 旅は、一種のインターネットでした。

 これは幕末の頃から変わってなかった。維新の志士たちは、全員旅人でしたが、旅というインターネットによって情報を入手していたからこそ、明治維新で主導権を握れたわけです。彼らにとっては、旅は人生でもありました。もちろん明治維新後も旅を続けました。維新の元勲たちは、維新を成功させた後も、日本を留守にして全世界に旅立ちました。いわゆる遣欧使節団です。こういう政府は、世界に一つしかありません。革命後、首脳部全員が旅に出かけるなんて聞いたことがありません。





 しかし、時代が変わって2010年12月30日。
 インターネットの普及によって
 世界は劇的にかわりつつあります。

 良くも悪くもユースホステルが、インターネットであった時代は終わり、逆にユースホステル関係者がインターネットを使って情報発信していく時代になりました。もし、横山祐吉氏が、この時代をみたら何と言ったでしょうか? きっと、こう言ったに違いありません。

「インターネットで自らの人生を語れ」
「インターネットで若者と語りかけなさい」


と。





つづく。

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2010年12月29日

インターネットとユースホステル2

インターネットとユースホステル2

 ユースホステル新聞は、ただものではなかった。
 ユースホステル新聞は、毎月3回発行されていました。

 会員版・PR版・内報版

と、3回発行されていて、ユースホステル関係者は、PR版や、内報版も見るチャンスがあったのです。

 PR版には、ユースホステル業界のことや、新しく設置されたユースホステルについての情報が載っていました。内報版には、日本ユースホステル協会の状況や、ユースホステルの理念や、海外の情報や、トラブルの事例や、御客さんの生々しいクレームなどが掲載されていました。他所には見せることの出来ない関係者限定でみる極秘メモなんかもあったりしました。会長や理事長の講演の要旨なども載っていたりしました。

 これら3種類の新聞によって、私たちユースホステルマネージャーは、全国のユースホステル業界状況を逐一知ることができ、御客さんの口コミと合わせて大きな情報網をもっていたのです。しかし、残念なことにユースホステル新聞は、全て廃止になります。ユースホステル新聞への補助金が認められなくなってしまったからです。

 では、ユースホステル新聞の内報版とは、どういうものであったのか?
 それが『もの凄い新聞』だったのです。
 私は、過去の内報版を読む機会があったのですが、
 目から何度も鱗が落ちたものです。

 2000年以降に流行った最新のマーケッティング理論が、1970年頃にユースホステル新聞内報版に書かれてある。かってのユースホステル新聞は、信じられないほど中身が濃かったのです。昭和40年代に日本ユースホステル協会が、一人勝ちするのも無理ないな。これならありえると思ってしまう。それほどまでに内容のあるユースホステル新聞(内報版)を作っていた時期があった。内報版は、これを読める立場にあるか、無いかによって、あきらかに経営者としての差がつくたぐいの情報誌でした。

 しかし、当時のユースホステルマネージャーたちは、その内報版を真面目に読んでいたでしょうか?
 真面目に読んでいなかった可能性がある。
「へん、ふざけやがって」
「上は、何もわかっちゃいない」
「現場の苦労も知らないで」
と無視していたユースホステルマネージャーが多かったかもしれない。いや、それ以前に、書いてある内容に全く興味が持てなかったかも知れない。というのも、狭い誌面のために、書いてある内容の多くが簡潔すぎて不親切な文になっているからです。





 今回は、そんなユースホステル新聞内報版の一部を紹介してみましょう。

 1970年11月号の内報版です。
 見出しは、こうなっています。

 全国ユースホステル広報担当者会議。
 10月21日−23日甲府ユースホステル
 31都道府県から36名集めて開催

 ユースホステル運動の発展めざし広報活動の推進策を検討。全国ユースホステル協会広報担当者会議は10月21〜23日の二泊三日にわたり、山梨県甲府ユースホステルを会場に、31都道府県から36名の広報担当者を集めて開催された。(略)

 記事には、2泊3日のスケジュールが細かくかかれてあります。初日は、日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉理事長の講義がありました。その講義の内容が、すごいのです。ユースホステル新聞には、要旨しか書いてありませんが、要旨であるのに中身が濃いのですね。ちょっと紹介してみましょう。



横山祐吉講義要旨

 ユースホステル運動のPRは、人間関係の結びつきのある会員仲間を対象として働きかける、すなわち「クチコミ」が最も効果的です。その一方で、難しいと言われるPRは、無関心な者を説得する方法です。PRにはこの二つの異った要素を考えて行われなければなりません。

 ユースホステルは若人の生活の場です。
 この生活に密着したPR活動でないと効果が上がらない、
 若人の人生観と離れてPRはありません。


 PRは人生であると考えてもいいです。

 PRすることによって青少年の生活を豊かにする。
 青少年の生活を変えていく。
 考え方を変えていく。
 よい環境を作っていく。
 それがPRの目的です。

 そのためにはPR担当者は、常に勉強し、想像力を豊かにしていくことが大切で、詩・文学・絵画・社会観など、あらゆる知識を身につけていなければなりません。その教養によって、はじめて、人の心をつかむ適切なPRができることになるのだと思います。(以下・略)





 どうして、横山祐吉氏は、このような事を言ったか?
 実は、彼の師匠である田澤義鋪・熊谷辰治郎・下村湖人の影響がある。
 田澤義鋪・熊谷辰治郎・下村湖人を知るものなら
 横山祐吉氏の意図はすぐにわかる。
 人間の徳をもって世の中を変えていこうというのが、3人の思想ですから。

 しかし、この講義を受けた広報関係者たちは「ぽかーん」と聞いていた可能性がある。「わけの分からんことを言うなあ」と思っていた可能性がある。というのも、横山祐吉氏は、自らの思想の背景を少しも説明したことがないひとだから。だから
「PRは人生であると考えてもいいです」
という彼の発言の意味が受講者に正確に伝わったかどうか疑問なのです。






 しかし、日本ユースホステル協会は、2日目に凄い講師を招待しています。
 博報堂のPR本部の次長・佐藤彰講師です。
 この佐藤彰講師が、PRとは何であるかを分かりやすく解説しています。
 講義要旨の一部を紹介しましょう。





佐藤講師の講演要旨

 PR(Public Relation)のことばは、一九世紀ごろアメリカから起こりました。その頃のアメリカは資本主義の爛熟期を迎え、企業の伸び悩みで、この批判、反省のなかから生まれました。それまでは企業内だけに目を向けていたものが、外部にも目を向ける必要に迫られていました。すなわち消費者の利益をも考え合わせることでPRが重視されるようになりました。

 PRは思想の革命ともいえるわけです。

 PR以前にプロパガンダということばがよく使われました。一八世紀ごろの西欧においてキリスト布教に河いられたことばで、その後戦争宣伝にも使われるようになり、歴史的背景によって、そのことばの意味するところもちがってきました。プロパガンダは、宣伝者の意図するところに相手を導くことが目的で、その手段のためには、誇張・欺瞞(ぎまん)・虚偽の介入も止むを得ないものとされていました。

(著者注−プロパガンダを翻訳すると『宣伝』になる。宣伝とはプロパガンダのことである)

 しかし、プロパガンダに対しPRは
 企業の自己修正のため生まれた宣伝方法
 ですので、
 相手側の利益を度外視することは許されていません。

 とかく一般には、このプロパガンダとPRを混同して使われ勝ちですが、
 その意義は全くちがっていることを理解してほしいのです。

 コミュニケーションの様式からみた場合、従来の宣伝は一方的でしたが、
 PRは二方向的であるといえます。(以下・略)





 佐藤講師は、このあとPRの方法論を説明していますが、
 方法論については、すでに前日に横山祐吉氏が答えをだしています。

「PRは人生であると考えてもいいです(横山祐吉談)」

 つまり、ユースホステル運動とは、自らの人生をもって
 青少年の生活を豊かにする。
 青少年の生活を変えていく。
 考え方を変えていく。
 よい環境を作っていく。
 それがユースホステル運動の目的であると!

 博報堂の佐藤講師は、
「PRとは、企業の自己修正のため生まれた宣伝方法である」
と言いました。

 ならばユースホステル関係者による自己修正とは何であったのか?



つづく。

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2010年12月28日

インターネットとユースホステル1

インターネットとユースホステル。

 いまでこそ盛んなインターネットですが、日本に普及しはじめたのは、阪神大震災ののあった1995年。たかが15年前のことです。しかも、常時接続のブロードバンド化が始まったのは、2000年頃で、一般に普及しはじめたのは、2003年頃でした。それまではインターネットなんかは、無いのも一緒でした。

 で、インターネットの普及と共に、衰退していったものがあります。
 ユースホステルです。
 インターネットとユースホステルには、何らかの競合関係があったのです。

 インターネットが登場する前までは、ユースホステルがインターネットの代わりをしていた時代がありました。ユースホステルは出会い系であり、情報の発信源であり、存在そのものがインターネットでもありました。巨大な口コミサイトであったのです。





 それが証拠にユースホステルくらい栄枯盛衰(えいこせいすい)の激しい業種はありませんでした。日本有数の人気ユースホステルが、たった3年くらいで閑古鳥が鳴くなんてことは、普通にありえました。ユースホステルのネットワークそのものが巨大な口コミサイトであったために、少しでも宿が手を抜くと、アッというまに悪口が広まり御客さんが消えてしまうのです。そのぐらいユースホステルの口コミは凄かったのです。

 各種の観光ガイドの本にしても、ユースホステルが制作したようなものです。古本をさがしてみれば一目瞭然です。昔のガイドブックには、今の1割も情報が載っていないのです。しかし、ユースホステルの御客さんが、観光地を発掘し、ユースホステルの関係者が本にして広めたのです。それをバックアップしたのがヤマケイだったりします。






 しかし、それよりもユースホステル新聞の影響が凄かった。

 ユースホステル新聞とは、昔、日本ユースホステル協会が発行していた新聞なのですが、これがただものではなかった。毎月3回も発行していたのです。と、書くと
「あれ?」
と思う人もいるかもしれません。

 ユースホステル新聞を知っている古いユースホステルの会員の皆さんは、
「俺の所には、毎月1回しか送られてこなかった」
と不思議に思うでしょう。

 でも、違うのです。
 ユースホステル新聞は、毎月3回発行されていました。

・1日に会員版
・11日にPR版
・21日に内報版

と、3回発行されていて、会員(ホステラー)の皆さんは、毎月1日に発行される会員版しか見る機会がなかったのですね。ところがユースホステル関係者は、11日に発行されるPR版や、21日に内報版も見るチャンスがあったのです。

 PR版には、ユースホステル業界のことや、新しく設置されたユースホステルについての情報が載っていました。この誌面で私たちユースホステルマネージャーは、ユースホステル業界について幅広く知ることが出来ました。

 内報版には、日本ユースホステル協会の状況や、ユースホステルの理念や、海外の情報や、トラブルの事例や、御客さんの生々しいクレームなどが掲載されていました。他所には見せることの出来ない関係者限定でみる極秘メモなんかもあったりしました。会長や理事長の講演の要旨なども載っていたりしました。

 これら3種類の新聞によって、私たちユースホステルマネージャーは、全国のユースホステル業界状況を逐一知ることができ、御客さんの口コミと合わせて大きな情報網をもっていたのです。しかし、残念なことにユースホステル新聞は、全て廃止になります。ユースホステル新聞への補助金が認められなくなってしまったからです。

 で、かわりにオフィシャル雑紙の「とらいべる」が発行されることになりました。カラーグラビアたっぷりの「とらいべる」なら補助金が出やすいのですね。実際、「とらいべる」は素晴らしい雑紙なのですが、残念なことは、ユースホステル新聞PR版・ユースホステル新聞内報版が全廃されてしまったことです。これによって一種の口コミネットを形成していたユースホステルの武器の一つが封印されてしまったのです。





つづく。

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2010年12月11日

天草ユースホステルのペアレント辻田政志さんの死を悼む

天草ユースホステルのペアレント辻田政志さんの死を悼む

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 本日、天草ユースホステル(休館中)のペアレント辻田政志さん(享年58歳)が12月6日にご逝去されたとの訃報が届きましたので、お知らせ申し上げます。謹んでお悔やみ申し上げますと共に、故人のご冥福をお祈り致します。

 辻田政志さんの思いで。

 この人ほど個性的なペアレントはいなかったでしょう。一言で言えばダジャレキング。いやダジャレエンペラー、ダジャレカイゼルか。3分に一回はダジャレを言って前進から力を無くしてしまう。しかも絶対零度クラスのスーパーフリーザーダジャレ。くる御客様くる御客様を次々と凍らせていました。そしてユースホステル館内を南極点にしていました。ユースホステルにシロクマやペンギンがいたとしても、カチンカチンに凍っていたに違いありません。

 そのスーパーダジャレが楽しくて、私は、天草ユースホステルがいっぺんで大好きになり、数多くの御客様に天草ユースホステルを紹介してきました。私ほど天草ユースホステルに人間を送り込んだ人もいなかったでしょう。

「九州に行くの? じゃ天草ユースホステルに行きなよ!」
「施設が良いの?」
「良くない。一つ星だし」
「料理がよいの?」
「それほどでもない」
「立地がよいの?」
「うーん」
「じゃ、なんで勧めるの?」
「そりゃ、身も凍るダジャレの連発を聞くためさ! 南国天草で南極の寒さを体験するためよ!」
「はあ?」

 ユースホステルの楽しみは、施設や料理だけではありません。マネージャーの個性を楽しむところに醍醐味があります。ユースホステルのマネージャーには変人が多いのです。その中でも、最もユニークだったのが、天草ユースホステルのペアレント辻田政志さんです。人なつっこくて、ダジャレ好きで、息するよりダジャレの回数が多い人なんて、世の中にそうそういません。

 おまけにペアレントさんは、地震研究家。それもきわもの研究家。科学的な研究ではなく、雲とか動物で地震予知を行う変人でした。話し始めたら1時間でも2時間でも地震と予知を語り始め、内容がキワモノそのもの。それも殆ど当たったことがないというありさま。しかし、それがいいのですよ。私は、そのキワモノぶりが、たまらなく好きだった。

 だから私に騙されて天草ユースホステルに泊まった人はみんな喜んで報告に来ました。そして

「すごいマネージャーさんでした」
「天然記念物的存在ですね」
「あの人は、天草の人間国宝として売り出すべきですよ」
「パワフルなマネージャーだったなあ」
「なんか生きる勇気がわいてきました。もう少しで凍死するところだったけれど」

と大喜びして帰ってきました。みんな九州で一番思いで深かったのが天草ユースホステルでのマネージャーさんとの対話だったと言っていました。

 ユースホステルを使った旅は、こういう観光旅行にない面白さとスリルがあるからやめられません。しかし、その 天草ユースホステルが、休館と聞いたので心配していたのですが、御病気だったのでしょうか?

 それにしても辻田政志さんがお亡くなりになったとは・・・・・・orz
 惜しい人を日本ユースホステル界は失ってしまった。
 残念ですね。




つづく

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posted by マネージャー at 11:58| Comment(5) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月25日

ユースホステルから日本中に広がった歌の伝説

ユースホステルから日本中に広がった歌の伝説


 1960年代の終わり頃のことです。
 大勢の若者がユースホステルを使って旅をしていました。
 若者たちは、旅先でよく歌いました。
 ユースホステルのミーティングで、夜の語らいで、よく歌いました。
 1960年代は、歌の時代でもありました。

 レコードは高価であり、カセットテープも、ラジオも、テレビも高価でした。楽器も安くはなかった。だから人々は、歌を愛したのかもしれません。フォークソングが若者の心をとらえたのも、この時代です。特にユースホステルを使って旅する人たちは、歌を好みました。歌を聴き、自らも歌いました。

 これは日本だけの現象ではなく、ユースホステル運動の本家ドイツでも同じであり、ユースホステル運動を創設したリヒャルト・シルマンも、歌をこよなく愛した一人でした。ヨーロッパのユースホステルでも若者たちは、よく歌ったものでした。

 ところで、1960年代末に、北海道のユースホステルで、
 こんな歌が流行しました。



 ♪白い花ゆれる あの人の胸に
 ♪いとしい人の 口づけにゆれる




 実は、皆さんが良く知っている曲なのですが、
 誰が作った曲か誰も知らなかった。
 作詞も作曲も誰なのか分からない。
 その誰が作った曲かわからない歌が
 全国のユースホステルに広まっていた。

 あまりに旅人の心を揺さぶる曲であったために、
 旅人たちが好んで口ずさむようになったのでした。
 その歌は、いつしか北海道の歌声喫茶や、
 温泉宿に泊まる旅人の間でも歌われるようになりました。

 当時、ユースホステルは、
 いまでいうインターネットのようなものでした。


 その歌を旅先で偶然にも知ったミュージシャンがいました。
 日本を代表するフォークグループ
『赤い鳥』後藤悦治郎です。
 赤い鳥といっても若い人にはピンとこないかもしれませんが、代表作の

「翼をください」
「竹田の子守唄」

を知らない人はいないでしょう。




http://www.youtube.com/watch?v=7in5rpYU584


日本を一世風靡したグループであり、解散後に

『紙風船』
『ハイ・ファイ・セット』
『ハミング・バード』

に3分割されて、それぞれ

「冬が来る前に」
「卒業写真(荒井由実の作詞・作曲)」
「さだまさしのプロデュース・編曲」

と、その後の日本音楽会をひっぱってきたグループでした。

http://www.youtube.com/watch?v=stL-KPx5MNQ&feature=PlayList&p=A1032B0E9946C70B&playnext_from=PL&index=0&playnext=1




 そのグループでギターをやっていた後藤悦治郎が、
 北海道の帯広の奥地、然別湖にある
 山田温泉ユースホステルで旅人たちが歌っていた無名の歌に感動し、
 レコード化し、これが大ヒットしたのです。

 その曲名は後で述べるとして、この歌を作った人は、
 中林三恵さん
 という無名の群馬県の人でした。


 中林三恵さんは、群馬県太田市の人で高校時代に散歩しながら自作の歌をつくりました。その後、群馬大学に進学。1964年秋に大学で「クラブ対抗コーラス大会」が行われ、その大会で中林三恵さんの所属する美術部で、そのを歌ったところ、その曲が群馬大学の学生の間に広まりました。

 そして、その歌は、ユースホステルを使って旅する群馬大学の学生さんによって数年後には北海道の然別湖にある山田温泉ユースホステルにたどり着きます。ひょつとするとユースホステルが、広めた歌の第一号かもしれません。その歌の名は、
「赤い花白い花」
です。

 下の動画をクリックして聞いてみてください。
 感動します。じわーっときます。





 どうですか?
 いい歌ですよねえ。

 実は、歌ってるのは「赤い鳥」の人たちではありません。
 やまがたすみこさんです。

 若い人は知らないでしょうが、やまがたすみこさんは、大杉久美子さんとともに日本の女性歌手の中でも5本の指に入るくらい歌が上手な人だと思いますが、その人が歌うと、本当に心に沁み入ります。


 私は、高校時代に、この歌を聴いて、この美声にメロメロになって、血眼になってレコードなんかを探したのですが、マイナー歌手だったためか田舎の佐渡島にあるわけがなく、インターネットも無かった時代でしたので、いつしか諦めてしまっていました。

 記憶から消えてしまっていたのです。

 それから12年後の1990年。私が、29歳になったときにユースホステルを使って北海道を旅していたときに、然別湖近くの温泉旅館(菅野温泉)で「赤い花白い花」を口ずさむ当時50歳くらいの人と出会いました。メロディーは一緒でしたが、歌詞は、私の知っているのとは、ちょっと違っていました。

「赤い花白い花ですね」
「良く知ってるね、昔、この近くにユースホステルがあって、そこで歌っていたんだよ」
「なんというユースホステルですか?」
「山田温泉ユースホステル」
「ふーーん」

 私は、久しぶりに「やまがたすみこ」さんを思い出し、あの美声を聞きたいと思いながら冬の夜空に輝く満点の星たちを眺めていました。そして、赤い花白い花を50すぎのオヤジさんと合唱していたのです。その日の夜は、歌を歌うことが、こんなにも嬉しいことであることを思い出した夜でした。

 さて「やまがたすみこ」さんとは、どんな人でしょうか?
 ありがたいことに今は、インターネット時代。
 顔も拝めますし、曲も聴けます。
 いい時代になりました。





林寛子とも一緒に歌っています。
「この広い野原いっぱい」ですね。
歌唱力が全然違います。





「この広い野原いっぱい」のカバーもしています。
しみじみと聞き惚れてしまいます。





 で、私が一番好きな歌です。
 NHKのみんなの歌が始まると
 テレビの前に走って聞きました。
 私が中学3年生の頃です。






 この後、結婚してメディアから消えていきますが、
 天才歌手がいるとしたら彼女のことでしょう。
 その彼女が歌う「赤い花白い花」は、まさに名曲でした。



 話しが大きくそれましたが、「赤い花白い花」を作った中林三恵さんは、現在も群馬県にお住まいです。そして北軽井沢にも来られるようで、北軽井沢の歌も何曲か作られています。例えば、こんな歌詞です。

http://www.d6.dion.ne.jp/~nkbmie/poem56.htm 二度上げ峠

 いつか、中林三恵さんにお会いできれば。そして、やまがたすみこさんにも、お会いしたいなあ。まあ、無理だろうけれど。でも、いつか然別湖にある山田温泉ユースホステルの跡地にも訪れてみたいというのが私の夢なのです。

http://505060.blog12.fc2.com/blog-entry-210.html
http://www.h-fukuhara.jp/yamada.html

つづく。

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2010年05月13日

日本ユースホステル協会のマネージャー研修会

5月13日と14日は、日本ユースホステル協会のマネージャー研修会。
去年は嫁さんが参加しましたが、今年は私が久々に参加します。

場所は代々木ユースホステル

 このユースホステルは、事業仕分けで、もうすぐ無くなってしまう可能性のあるユースホステルです。子ども手当の犠牲になったわけですが、なんとかならないかなあ。今回で泊まりおさめになるのかなあ。

 現在、ユースホステル運動は、民主党の事業仕分けなどの、さまざまな逆風に曝されていますが、
「こんなことで負けてたまるか!」
と思いますね。

 たとえ他のマネージャーがあきらめても。私だけでも、なんとかして、それを切り開いていきたいと考えています。ユースホステル側も、もう他をあてにするのは無理がある。そういう時代ですから。その第一弾として、ペンションを売却して北軽井沢ブルーベリーYGHの設備投資を大規模に行いました。そして野鳥の森を北軽井沢ブルーベリーYGHの庭につくり、たくさんの野鳥たちをあつめつつあります。

10-4-9-5.JPG

 第二弾は、ユースホステル運動の本の出版です。
 毎年少しづつ合計10冊の本を出す予定です。
 ドイツから持ち帰った貴重な資料も
 大勢の御客様の力を借りて翻訳中です。

 第三弾は、巨大ホームページの設置です。
 ユースホステルを慣れ親しんでもらうための
 ホームページの設置です。
 これは、うちのユースホステルの宣伝でなくて、
 うち以外のユースホステルに対する賢い利用方法です。

 他にも色々とありますが、それは徐々にやっていきます。
 日本のユースホステル運動の原点を作った田澤義鋪&下村湖人は、
 かって、このように叫びました。

「虚空に矢を射る」

 まさに、そんな気分です。
 では、いってきます。

つづく。

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posted by マネージャー at 05:59| Comment(6) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月03日

日本ユースホステル協会・新理事長に水野事務局長が就任

日本ユースホステル協会・新理事長に水野事務局長が就任

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 去る2月24日(水)開催の理事会において互選の結果、
 水野宰氏が選任されて同日就任しました。

 水野新理事長は、昭和39年に家山理事長と同期に日本ユースホステル協会に入り、一時期定年退職の期間もありましたが、家山前理事長からの要請により嘱託として平成19年7月から事務局長としてやってきましたが、今回、新理事長になりました。

 ユースホステル業界は、事業仕分けにより苦しい立場にありますが、新理事長のもとに各自の努力によって、この難局を乗り越えて行くしかありません。

 さて、日本ユースホステル協会の事業計画が、先日、発表されたのですが、その中にユースホステル運動の本来的目的に沿って、自然の中での子供体験や国際性を活かしたプログラムの提供を行うこととするとあります。

 それから「じゃらん」や「楽天」を通じて「宿泊」を販売しているユースホステルも多いですが、今後は「宿泊」をメインにするのではなく、各YHで行っている「プログラム」をサイトで販売し、併せて宿泊してもらうという計画もあるようです。新しい日本ユースホステル協会の動向にちょっと注目しています。

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つづく。

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2010年02月22日

河野功先生を悼む4(最終回)

河野功先生を悼む4(最終回)

 つづきです。

 群馬県ユースホステルは、河野功先生の努力によって会員9000人、18ユースホステルという急成長を達成しました。県内最大の青少年団体となったのです。昭和39年と昭和42年には、ラリーを開催し、尾瀬に数百人の若者を集めました。この尾瀬ホステリングは定例化されていきました。

 昭和41年には榛名高原でラリーを行いました。この時は、高崎経済大学の大活躍によって、大成功をおさめ、ユースホステル新聞群馬版も発行されるようになりました。
 
D-S-03.JPG

 ただし、暗い要因も見え始めていました。昭和47年をピークに、ユースホステルの会員が減少し始めたことです。これは、群馬県にかぎったことではなく、日本全国でみられた共通の現象でしたが、この原因に、高校生グループ連合会の廃止があります。

 どういう訳か、日本ユースホステル協会は、文部省の指導を受けて高校生のユースホステル活動をやめさせてしまった。これはユースホステルにかぎらず、政治活動も含まれており、現代でも日本の法律では、高校生の政治活動はできないことになっている。ユースホステル協会は、そのアオリを喰ったかたちになるのですが、これがユースホステル運動衰退の第一原因になったのです。

 ユースホステル運動が日本で急速に発展した理由の第一は、高校生の活動にありました。当時は、高校生の旅行などは贅沢なものとして世間から白い目で見られていました。その高校生に『一人旅は教育の一環である』と囁き、金のない高校生たちに格安の宿を提供したのがユースホステルであり、歩きやサイクリングで旅をしなさいとすすめたのがユースホステル運動でした。

 当時の高校生たちは、これに飛びついたのです。そして高校生たちが、やがて大学生や社会人になった後もユースホステルを使い続けたんですね。これを日本ユースホステル協会は、文部省の指導の下に廃止してしまった。具体的に言うと高校生グループ連合会を廃止してしまった。で、ユースホステルの会員数が激減しはじめたのです。これは、当時、高校生だった高校生グループ連合会の人たちから聞いたはなしです。

 しかし、河野功先生をはじめとする群馬県ユースホステル協会の人たちは、これを指をくわえて黙ってみてませんでした。

 昭和五十五年の春、東京都ユースホステル協会と組んで「わんぱく大作戦」と呼ぶイベントを実施しました。東京都協会の少年会員百名が榛名湖に招待し、群馬県ユースホステル協会の少年会員百名が、それを迎えたのです。そして新しい陣取り合戦をくりひろげ、青空の下、歓声を上げ、楽しみを分ち合いました。

 このイベントを皮切りに、アドベンチャー集団DOを設立。
 小学生を対象に「遊び」をテーマにした各種イベントを企画し実施したのです。
 その企画力、行動力は当時のマスコミにも取り上げられたほど新鮮で、しかもユニークなものでした。

 群馬の秘境と云われる多野郡上野村の鐘乳洞探検を試み、子供達に勇気と夢を与え話題を呼びました。少年リーダーとともに「何かをする集いの会」を開き遊びの少年塾(後のガキ大将スクール)を形作って行きました。

 昭和五十六年七月は、これらの経験を基として群馬県観光課が主催する観光宣伝事業をバックアップ。千七百人の「わんぱく大作戦」を榛名湖で実施、大成功を収めました。

 昭和五十七年の夏は、利根川を手作りのイカダで下る「チャレンジ・オブ・トネ」を実施。

 さらに上野村で第一回の「がき大将スクール」の構想が持ち上がりました。

 主催者をどうするか論議がありましたが、結局群馬県ユースホステル協会は支援団体となる事で「アドベンチャー集団DO」がすべての責任を持ちスタートする事となりました。

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 昭和五十八年までの実績は未だ趣旨が徹底されず低調でしたが、翌五十九年には参加者が千人を超え、これにならって本県の少年会員が大きく伸び、協会創立以来の九百二十二人を記録して、本部より表彰を受けました。

 昭和六十年夏、日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故が当スクールのフィールド周辺で発生、これに伴い同スクールイベントが中止を余儀なくされ、以来数年の間その影響を受け低調でしたが、平成に年号が変わった年より同事業も回復、本年十年目には千三百人ほどの参加者を得ています。

 この間冬期間の榛名ユースホステルさらには草津高原ユースホステルを拠点としウインタースクール等を開催、地域イベント作りのリーダー役としてユースホステルの存在をアピールしてきました。

 さらに日本ウォーキング協会と提携し、「全国自然歩道を歩く大会」、さらに県単事業として「赤城に向かって一斉に歩こう大会」などを実施しました。



 また、群馬県ラリーを開催し、
 大勢のユースホステル関係者を集めました。

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 会場は、嬬恋村にあるホテルグリーンプラザ軽井沢です。
 バラギ湖にある群馬県立バラギ高原青少年野外活動センターでも、
 そのときは大々的なイベントを行っています。

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つづく。

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アドベンチャー集団Do!
代表者黛徳男
設立昭和56(1981)年3月
所在地〒370-3348
群馬県高崎市榛名湖町854

電話027-320-5003
FAX027-374-9292
公式サイト
http://gakidai.com/
E-maildo@gakidai.com
スタッフ専従4名非常勤3名キャンプリーダー40名
キャンプフィールド群馬県:旧群馬郡榛名町・多野郡神流町
吾妻郡草津町
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2010年02月20日

河野功先生を悼む3

河野功先生を悼む3
 
 最後に河野功先生が県営観光開発公社で活躍したことについてのお話です。本当は、伝記を書いて本にしたかったのですが、先立たれては、あきらめざるをえません。

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 県営観光開発公社という名前を聞いて、たいていの人は、ピンとくると思いますが、よーするに群馬県の役人の天下り用特殊法人です。ですから、現在は県営観光開発公社は存在していません。しかし、この特殊法人で、じゃんじゃん実績をあげて、税金を吸い上げるどころか、税収に寄与したのが河野功先生でした。こういう特殊法人は、ちょっと珍しいのではないでしょうか?

 河野功先生は、この県営観光開発公社で、最終的に常務取締役にまでのぼりましたが、彼は天下った役人ではなく、平から入った一兵卒でした。その一兵卒が、県営観光開発公社のトップになったのですから、信じがたいことです。凄い実績をあげたためなのです。

 その実績について、ちょっとお話をしてみましょう。
 まず河野功先生とユースホステルの出会いです。
 昭和28年のことです。
 赤城山に、ボロボロの山小屋みたいなロッジがありました。
 青雲荘といいます。
 これが群馬県の第1号ユースホステルでした。
 (昭和43年に廃業しています)
 ちなみに第2号ユースホステルは、水上にある土合山の家です。
 (山屋には有名な宿で、現存しています)
 こちらも、当時は、ボロボロの山小屋みたいなロッジでした。

 当時、赤城山には、ほとんど建物が無く、ボロボロの青雲荘ぐらいでした。そこがユースホステルに加盟したわけですが、河野功先生は、たまたま、そこに泊まることによって、かなりの衝撃を受けました。皿を洗い、布団をたたみ、部屋掃除をしている青年たちが、見返りに格安で泊まっている。そして歌を歌い、ハイキングなどをしている。健康的で素晴らしい活動をしている。聞けば、ユースホステル運動であるという。
「これは素晴らしい」
と感激した河野功先生は、日刊工業新聞社を退職し、赤城山青雲荘で働き始めました。



 この赤城山青雲荘の経営母体は、群馬県観光開発公社でした。群馬県の天下り先であり、税金のかかるという噂の特殊法人であったのです。その特殊法人で河野功先生は、めきめきと頭角をあらわしました。ユースホステル赤城山青雲荘は、施設がボロボロだけに特色を出すしかありませんでした。なにせマイナス20度も気温が下がる真冬に、ろくな暖房もなく、風呂板は、凍り付いて、湯を流さないと歩くこともできないほど、今では、考えられないボロ宿でした。

 交通の便も悪かったし、スキー場もろくになかった。それどころか民家も売店も無かった。そんな立地にあった赤城山青雲荘に大勢の人を呼ぶために、スケートとワカサギ釣りで売り出しました。当時は、スキーはブルジョワでないとできなかった。けれどスケートワカサギ釣りは、貧乏人にもチャンスはあったのです。ユースホステルを使う貧乏人には、ぴったりの企画だった。若い人たちが、赤城山青雲荘にワンサカおしかけました。

 河野功先生は、この若い人たちに何かサービスしたいと思いました。しかし金はない。で、どうしたかといいますと、農家から大量の柿を仕入れてきて、それを凍らせてとっておいた。冷蔵庫はいらなかった。天然の万年雪があった。それを冬に、柿シャーベットとして、ホステラーに出しました。これが好評でした。

 さらに河野功先生は、友人を動員した。遊び友達は大勢いましたから、いろんな人たちがやってきてサポートしました。そして、群馬県ユースホステル協会を立ち上げました。県の社会教育課、体育課、観光課、前橋グループなどが中心となって、関係各団体を集め、昭和34年9月20日に設立総会を開き、県営観光開発公社内において事務局を開きました。そして、次々と県内の宿泊施設をユースホステルとして認可していきました。

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 長野原町に、艮山荘農園YH(現ペンション・上の写真)・萩原YH(現萩原建設)が設立。嬬恋村に、高峯高原ロッジ(高峰温泉)・ヤマタ旅館(バラギ温泉・体育館付で150名収容の旅館)・豊国館(万座温泉)などがユースホステルとなりました。これらは今でも旅館やペンションとして残っています。

 そして六合村にも、尻焼き温泉として有名な関晴館がユースホステルになりました。高崎観音の慈眼院も、伊香保温泉も、妙義山の玉屋旅館もユースホステルになりました。

 さらに、榛名山にも三軒、草津にも二軒、水上に三軒、奥日光・菅沼にも、尾瀬にもユースホステルができました。そして、県内に18軒のユースホステルができあがり、会員数は9000人を超えるほどにもなりました。

 興味深いことは、これらのユースホステルの大半は、後に有名旅館やペンションとして大きく羽ばたいていることです。つまりユースホステルによって資金をかせぎ、その資金をもってワンステップ上の経営形態になったところが多いことです。なかでも高峯高原ロッジ(高峰温泉)などは、今でもユースホステルぽさが残っており、ネイチャーウォッチングを武器として、自然ガイドに力を入れており、その経営形態をもって多くの御客様を集客しています。

 これは群馬県観光開発公社も同様でした。

 ユースホステルの勢いを利用して業績をあげ、国民宿舎・キャンプ場・県営ゴルフ場を次々と建設していきました。嬬恋村にも、バラギ湖に群馬県立バラギ高原青少年野外活動センターを設立し、独自のフォークダンスをつくり、ダンス音楽を作ってレコードまでだしました。その施設は、当時のキャンパーに絶賛されています。残念ながら数年前に閉鎖されてしまいましたが。

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つづく。

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2010年02月18日

河野功先生の告別式

 群馬県ユースホステル協会を立ち上げた河野功先生の告別式が、無事終了しました。弔電をくださいました関係者の皆さん、遠路はるばる御出席いただきました関係者の皆様、また、お通夜に来られました関係者の皆様。日本ユースホステル協会様。ありがとうございました。また、忙しい中、御出席いただきました、衆議院議員中曽根弘文様。ありがとうございました。

117.jpg
http://www.hiro-nakasone.com/index.html

 さて、報告です。
 当日の北軽井沢の風景です。
 スノーシュー日和だなあと思いつつ、北軽井沢を後にしました。

D-S-01.JPG

 これが告別式の風景。
 大勢の人たちが御出席されました。

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 祭壇です。

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 河野功先生。

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 福田元総理と河野功先生。
 現日本ユースホステル協会会長でもあります。

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 森元総理と河野功先生。
 前日本ユースホステル協会でもあります。

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 このように多くの議員の先生方とご親交がありました。

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 話はそれますが、このように、日本ユースホステル協会は、自由民主党と繋がりがあります。その理由は、自由民主党が積極的に日本ユースホステル協会に金を出してきたからです。

 例をあげますと、岸総理。

 日本ユースホステル協会が、国際ユースホステル会議を開いたとき、金がありませんでした。金を工面できなかったのです。そのために外国の要人たちが泊まっているホテル代も出せなかった。そこで中山正男副会長は、時の総理大臣、岸信介に土下座してたのみに行ったのです。

 もちろん政府が出せるわけがない。

 予算というものは、国会の審議によって決められるわけですから、総理大臣といえども出せない。しかし、岸総理は、「ここで日本が恥をかくわけにはいかない」と、官房長官に命じて、内閣官房費から資金援助しました。こうして日本ユースホステル協会は、息をつぎました。

 また、こんなこともありました。
 佐藤栄作総理の時代のことです。

 日本ユースホステル協会の顧問をやっていた大宅壮一氏と、中山正男副会長が、青年の船を企画しましたが、資金難で企画倒れになりそうになりました。そこで二人が、佐藤栄作総理大臣に、明治100年祭の企画として、政府に青年の船を造らせるように働きかけました。そして佐藤栄作総理の英断で、それが実現し、団長に日本ユースホステル協会の横山祐吉理事長が就任するのです。また、これを後押ししてくれた人の中に、福田赳夫元総理がいます。そして、その息子さんである福田康夫元総理大臣が、現日本ユースホステル協会の会長をやっています。

 このようにユースホステル協会と自民党は、深い繋がりがあるわけですが民主党が政権をとるに至って、現在ユースホステル協会は苦境にたたされています。見事に事業仕分けされてしまいました。やんばダムと一緒です。ユースホステルよりも、子共手当なのです。まあ、これ以上は、政治の話になるので差し控えましょう。


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 弔辞は、4人の方が読まれました。
 私の涙腺は、壊れっぱなしでした。


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 御出席されたユースホステル関係者の皆さん、
 本当にありがとうございました。

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 ちなみに群馬県ユースホステル協会は、関係者の努力によって
 なんとか存続の方向でおちつきました。
 私としては、ホッと一息です。


つづく。

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2010年02月17日

河野功先生を悼む2

河野功先生が生前に、私たちユースホステルマネージャーに熱く語っていたことを紹介したいと思います。群馬県ユースホステル協会理事長が、世界に向けてインターネットにて発進していたユースホステル運動論です。

http://kaze3.com/gyh/5-mam/kouno1.htm より紹介します。
2002年に谷川岳ラズベリーユースホステル曽原マネージャーが、
インタビューした時の内容です。

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曽原

 今日は、河野さんのユースホステル運動論を聞かせていただけたらと思います。今後、私たちマネージャーは、ユースホステル運動をどのように考えていけばよいのでしょうか? そのへんのところをズバリ本音で聞かせて頂ければと思います。

河野
 
 あの、ちょっとね、エキスだけちょっとお話しておきますがね・・・・その、三位一体(協会・指導者や施設・会員)という意味を、ちょっと解説しておきますとね。

 まず協会。

 地域協会を含めて、協会とは、ユースホステルの会員になる機会を、できるだけ提供するという事。会員になるためのユースホステルの情報を皆さんに提供すること。これが大きな仕事なんですよ。協会というのはいわゆるPR、ユースホステルを知らしめる、情報発信の場所と考えます。

 そして指導者。

 リーダーを育てるという事、ユースホステル運動のリーダーとは、現場を預かるペアレント、ユースホステルを経営するマネージャーが最大の指導者だと思っております。

 マネージャーは、運動の最大の実践者であると同時に、指導者であるという事。こういう風に理解しております。ですから、ユースホステルというのは施設的にも、ある程度、会員が望むような施設をユースホステルのスピリットに基づいて拡充していきたい。また、拡充してほしい。

 もう一つはペアレントの見識、が兼ね備わってきますと、その両輪が、ユースホステル運動の姿が、キッチリ見えてくると思います。そういう意味で、施設の重大性というのがあるわけです。

 会員というのはどういうものか。
 旅の手法、方法というのは、ありふれるほどある。

 その中で、ハートいわゆるホスピタリティを中心にした仲間意識のようなものもあるし、連帯感もあるし、そういうものを、うんと大事にしていただける旅を好む人たちのよりどころ、それがユースホステル運動に詰まっているような気がします。

 ユースホステルには、物質的には若干、時には、不足するかもしれませんけれど、全体の旅を通じた充足感というのはうんとあると思います。今回の旅行で、あそこで、ああいう人たちと会って、それが、モノより心にズシンと来る。

 見返りみたいなものね、それがこのユースホステル運動の本旨なんだなと思っていただければ、私たちは携わっている人間として、満足そのものですよね。それが、三位一体の仕組みだと思っております。


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曽原

 なるほど、協会・現場・会員を三位一体としているわけですね。


河野

 そこで、どうしてユースホステルは会員制なんだろう?
 という問題が一つあります。

 あまり触れたくないんですけれども、触れておかなければならないと思います。組織というのは何においても、お金が無ければ運営していけない、ホスピタリティ、ボランティアだけでは成り立たない部分ありますよね。その部分を、どこでどういう風に捻出したらいいのでしょうと、それから、無から、有を生じさせていくには、やっぱりある程度必要なお金だってあるわけで、例えば直営ユースホステルだってそうですよね。

 あれは、最終的に補助金や色々いただいていますけれども、
 基本的には皆さんの納める会費がああいう形になって現れています。

 ユースホステルは、日本には350くらいありますが、世界には74ヶ国が加盟しています。日本では12万人。世界では、320万人の会員、仲間がいます。そして全世界に4000のネットワークがあるわけです。それを利用して世界的な、国際的なネットワークのたびをする、そういう規模の団体は、ユースホステルしかないわけです。だから、これを大事にしないといけませんので、ここだけを見てもらっても、大変な存在なんです。

 このネットワークをうまく活用しながら、
 世界中を、若い人たちに見てもらいたいですね。
 それが私どもの一番望む所なんですね。

 で、先ほどの問題で、なぜ、会員制かといいますと、ある程度、負担能力というか、自分の小遣いを我慢すれば、学生さんだって、一年間の会費くらいは払えるでしょうと、ちょっと負担してよと、それで、自分のホスピタリティの一貫でもあると同時に、もう一つは、仲間意識というかね、それともう一つは
「俺たちが参加している」
という自意識が生まれてくるだろうと。

 そのために応分の負担をしてくださいと。

 ところが、子供がいるよね、少年会員。

 その子供たちは、まだお小遣いももらえない世代ですから、この世代、つまり少年会員がどうしても伸びてないんですよね。本来は少年会員にターゲットをもたなきゃいけませんので、これをどうしたらいいかってんで、正直言って私は、日本協会の中に、少年会員を無料にしたらどうでしょう?

 これは、際限なく無料ということではなく、ユースホステルの門を叩いてくれた人は、会費貰わなくてもいいじゃないかと。そうして子供たちがだんだん少年から青年になり、成人になった暁には、正規なメンバーになっていただくとして、いま、子供たちが門を叩いてくれたら、それは無料にして会員と同じようなと同じような待遇をしたらどうだろうと、言うふうに私は運動の方向を考えて、リードしているといったら語弊があるかもしれませんけれども・・・・思い上がりがありますが、私はそういう事を、提唱し始めています。

 私は、近い将来、それが、実を結ぶんじゃないかな?
 と思っております。
 ま、そんな事を、今日は伝えたくてしょうがなかったですね。

 それはね、ユースホステル運動に携わる私たちを、うんと勇気付ける方向なんですよ。なぜかって言うとね、我々が協会の運営の為に、運営費を生み出すために、会員を増やしてる、というふうに受け取られかねないような風潮、世相の中でね、そうじゃないんだと、時代を担う少年たちに夢を持ってほしいと、夢がユースホステルでは叶うんだよと、いうことを教えてあげたい。


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曽原

 小学生は無料入会というアイデアが実現したら素晴らしいことですね。ガキ大将スクールを設立し、日本で最も大勢の少年会員を河野さんならではのお考えですね。


河野

 それからもう一つ、今、学校がご承知のように、荒れ放題。これは教育の批判じゃないけれども、やっぱり、荒れてますよね。中学生がナイフで人を刺したとか、小学校のイジメだとかね。本当の意味の本当の勇気を、真の勇気をもてる、運動というのがこのユースホステルのなかにあるわけです。

 こういうものを、是非、世の中に知っていただき、参加していただくために、我々がやらなければならないもの一つとして、ユースホステルの運動があります。ユースホステルに行けば、それを自分で体感できるわけです。

 で、いま、なんか、会員になってください、といいますと、勢力の拡大かと言う風な見方をされがちですので、それを、やっぱり、どこかで、本当の心を知ってほしいですと、いま、私が申し上げているような、方向なんですね。

 ですから、是非、夢を、地域の協会の関係者、あるいはユースホステル関係者、先輩、現役、そういう自信を持って、今度ユースホステルいってみませんか?と隣の子供たちに声掛けられるような、運動にしていきたいですねと、それが一つの、ターゲットに置いている部分です。それを是非知っていただきたいのです。
 
 それからそれをね、教育関係者だとか、世のお母さん方とかに、ユースホステルを使って人間形成の手段として役立ててもらいたいと、こんな社会的意義を、私は考えています。

 と言っても私たちは教育者だとか何とか、そういうことじゃなく、運動というのはそうあるべきだと、世の中の人たちに訴えたい、また、そういう意味で、ユースホステルの仲間に、元気付けてあげる、そういう方向へ、とにかく今だって潜在しているわけですから、それを掘り起こして、原点に戻れるような、原点に戻って、自分が運動体の一人であると、意識してほしい。ま、そんなことが、わたしは夢として持っております。今日はそんな話ができればと思って・・・・、三位一体とは、そんなふうに考えていたんです。


曽原

 今日は、貴重なお話、ありがとうございました。


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聞き手・谷川岳ラズベリーユースホステルマネージャー 曽原正俊

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つづく。

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2010年02月16日

巨星墜つ1 河野功先生を悼む

巨星墜つ!

 群馬県ユースホステル協会を立ち上げた河野功先生が、
 本日、13時頃に、お亡くなりになりました。

 17日(水)18時から、つや
 18日(木)12時30分から告別式です。
     会場は、メモリード前橋典礼会館



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 河野功先生は、群馬県ユースホステル協会を立ち上げた人ではありますが、それだけの人ではありません。群馬県の観光公社をたちあげ、群馬県の観光開発を大きくすすめた張本人でもあります。

その河野功先生は、軽井沢とも縁のある方でした。終戦後、間もない頃に三笠ホテルのプールで監視員のアルバイトをしたり、軽井沢の観光関係で働いたりしたと聞いています。軽井沢のことは、何から何まで知っていました。私より詳しかったです。その後、日本工業新聞社の記者になり、そして群馬県の観光公社で働きますが、県営ゴルフ場を大量につくり、群馬県のドル箱にしたものでした。

 日本ユースホステル協会の理事も務めました。有名なアドベンチャー集団DOの前身である「ガキ大将スクール」を群馬県ユースホステル協会で立ち上げ、毎年、何千人という子供たちをユースホステルに入会させ、そして、多くの青少年たちを育成させました。これがアドベンチャー集団DOになり、群馬県ユースホステル協会の事務所になっています。

 ちなみに群馬県には、全盛期には、17ヶ所のユースホステルを群馬県に設置しています。現在、ユースホステルを廃業し、ホテルやペンションに転向した施設も多いのですが、それらのオーナーにユースホステルの話をすると、みんな目を輝かせて
「河野さんは元気か?」
「河野さんには、御世話になったんだよ!」
と私に話しかけてきます。あらためて河野功先生の偉大さを知ったものです。

 また、長野県ユースホステル協会でトラブルがあった時、河野功先生が積極的に仲介に動いて感謝されたこととも、長野県ユースホステル協会の関係者からよく耳にしています。某役員の方が
「河野さんは、すばらしい人だ」
「私の恩人だ」
と私にしみじみ語っていました。


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 私がユースホステルを申請するとき、私はまず、河野功先生の面接をうけました。河野功先生は「まず人間をみたい」と言ってきました。施設を見に来たのは、その後でした。

 そして、日本ユースホステル協会の小俣さんが施設検査にやってきて、3日後に、ユースホステルの認可がおりました。異例のスピード認可だったと思います。おそらく3日で認可が下りたのは、北軽井沢ブルーベリーYGHが初めてだったでしょう。当時は、驚きましたが、あとで、河野功先生の根回しがあったことを知って、
「なるほど、そうだったのか」
と感謝したものです。


 このように河野功先生は、これでもか!というくらいに、私どもを贔屓してくださいました。河野功先生のおかげで、日本ユースホステル協会で、のびのびとやってこれました。背後にいつも河野功先生が、あたたかく見守ってくれていました。河野功先生のもとでないと、こんなに自由にユースホステル活動ができたかどうか疑問です。


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 河野功先生は、リベラルな人でした。
 権力が嫌いでした。
 部下を思いやる優しい人でした。
 そのくせ、茶目っ気があり、
 酒とカラオケが大好きでした。
 四国河野水軍の末裔らしく、豪快な人でした。


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 そんな河野功先生は、私を群馬県異業種交流会に入れていただきました。ここでは、いろいろな業界の諸先輩方々にお会いできました。そして、いろいろな勉強をさせていただきました。群馬県知事選挙の応援活動もさせていただきました。今となっては懐かしい思い出です。

 かえすがえすも残念なことは、河野功先生の伝記が書けなかったことです。河野功先生は、ほんとうに面白い人生をおくっておられ、その一生は、波瀾万丈であり、抱腹絶倒な生き様なのですが、それを記録に残せなかったのが残念でなりません。



河野功 プロフィール

 日本ユースホステル協会が創立して間もない頃に群馬県YH協会を創設する。その後、各地のユースホステルのマネージャーをへて県営観光開発公社で取締役として活躍し、群馬県営の観光施設を次々と立ち上げ、群馬県の観光に多大な功績を残す。バブル崩壊後は、膨大な赤字を処理するために、自らの首を切ることによってリストラを決行。県知事ほか大勢の人たちの慰留も断って野に下った。

 柔にして立、剛にして塞、簡にして廉。その人徳は、野に下った無冠の河野氏を世間は放置せず、県知事は、氏を特別表彰して、勇退を惜しみ、また、氏を慕う多くの人々が、自主的に氏のもとに集まって、梁山泊のごとき様相をしめし、氏を慕う者たちによって異業種交流会『きずな』をたちあげるにいたった。また、群馬県ユースホステル協会においては、各種の活動を精力的に行い、何度も日本ユースホステル協会から表彰される。


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追伸
告別式では、受付などの下働きをやらせていただきます。



つづく。

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posted by マネージャー at 22:56| Comment(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月26日

お見舞い

 ユースホステル関係の恩人が、重病と聞いて、すっ飛んで、お見舞いに行ってきました。本当なら花でも買って持っていくところなのですが、なにせ重体とのことなので、水沢観音に寄り道し、病気平癒の願をかけ、御札と御守りを買いました。

「一番大きい、おふだください」
「これが一番大きいものです」
「大きい方が、御利益ありますよね」
「御利益なら護摩を御願いした方が」
「時間かかります?」
「すこし」
「じゃあ、これでいいです」

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と病院に御札と御守りを持ってかけつけてみると、そこには痩せ細った恩人が酸素マスクに点滴をうけて寝ていました。なんというか、胸が詰まりました。元気だった姿を知ってるだけに、やりきれない気持ちになりました。

 そのうち、恩人が、さかんに私に話しかけようとしてくれるのですが、酸素マスクをはずして、かえって病態を悪化させかねないような状態だったので、そうそうに退散せざるをえなかったのです。

 病室には、御親族の方が、交代で番をしていました。私が、訪れたときは、優しそうな姪御さんがおられ恩人の手を握らせていただきました。こんな事なら、もっと早く見舞いにくればよかったと、悔しくてなりませんでした。だって元気満々で、一時は、病気が治ったと思ってましたから。

 実は、この恩人の伝記を書くつもりでいました。恩人は、その昔、群馬県の観光関係の総トップ的存在であり、皇后陛下ともおしりあいであり、北軽井沢や、軽井沢とも深く関わり合いのある人でした。今いちど元気な姿となって、昔の話を聞かせてほしい。

 みなさん。
 みなさんも、健康には気をつけてください。
 金よりも、仕事よりも、健康です。
 健康が一番です。



つづく。

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2010年01月06日

日本ユースホステル協会・家山理事長御逝去

日本ユースホステル協会・家山理事長御逝去


今日、1月6日早朝、
日本ユースホステル協会理事長の家山さんが
お亡くなりになりました。
謹んで、お悔やみを申し上げます。



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 癌だったそうです。
 あまりに急な、あまりに早い死でした。
 まだまだ働き盛りだったのに。

 現職理事長が、任期中に、お亡くなりになるのは、本当に悔しいことです。志なかばで、天に召されるのは、不本意であったかもしれませんが、今は、ただ、安らかに成仏されることを祈ります。

 葬儀は、1月9日。
 金沢で行われるそうです。

 私も葬式に駆けつけたいところですが、あいにくの連休。
 動けません。

 リヒャルト・シルマン伝の推薦文を書いてくれた家山理事長、
 ほんとうにありがとうございました。
 家山理事長のおかげで、
 日本ユースホステル協会の資料を自由に見ることができました。
 おかげで、日本ユースホステル史の本が書けそうです。
 本ができあがったらお墓にもって参ります。

合掌。


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平成22年1月6日
関係各位
      訃報

日本ユースホステル協会理事長 家山勉儀には、病気療養中のところ肺がんのため、1月6日(水)午前8時20分に逝去いたしましたのでご通知申し上げます。(享年75)ここに生前のご交誼を深謝し、謹んでお知らせ申し上げます。なお、葬儀等は家山家及び本協会の合同葬として下記のとおり執り行いますのでお知らせいたします。

1.通夜:1月 8日(金) 19:00から
2.葬儀:1月 9日(土) 10:00から11:00
3.会場:オークス・セレモニーホール金沢
  TEL:076−253−1194
  FAX:076−251−9944

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2009年12月28日

日本ユースホステル史の源流8

日本ユースホステル史の源流8

つづきです。

 明治十八年七月二十日。
 鹿島城の隣の武家屋敷に男の子が生まれました。
 田澤義鋪(たざわよしはる)と名付けられました。

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 田澤義鋪の父、義陳(よしのぶ)は、藩主鍋島直彬に仕えて、明治維新を体験した人でした。鹿島藩の禄高はサバをよんで二万石。実質八千石の小藩であり何度も取りつぶされそうになった藩でしたが、藩政改革により逆転ホームラン。つまり、九州一の富裕藩に変貌し、軍事力をたかめて、庶民を豊かにし、その余勢をかって、佐幕気味だった佐賀本藩の藩論を勤王倒幕に誘導し、薩長土肥連合軍をつくりあげ、一挙に倒幕をはたしました。

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 しかし、この逆転ホームランは、六歳の藩主・鍋島直彬を英才教育し、その人徳をもって藩のパワーを巨大化させるという信じがたいホームランでした。明治政府は、天皇の側近に奉仕して常時補佐する、侍補という官をつくり、人格識見ともにすぐれた人物八人を任命しましたが、真っ先に鍋島直彬を任命しました。鍋島直彬の人徳が、いかに優れていたかが分かるというものです。


 鹿島藩の維新での功績は、佐賀本藩の藩論を勤王にひっくりかえしたことであるし、戊辰戦争での活躍もめざましいものがありましたが、明治政府は、鍋島直彬に、その人徳見識をたよりにしたという点がユニークなところです。そして明治二十年ころ、アメリカ人が、福沢諭吉に、日本の代表的紳士三人の選定をたのんだとき、福沢がまっさきにあげたのは、鍋島直彬でした。

 この鍋島直彬は、維新後、ほとんどの華族が郷里を捨て、東京に移り住んだ中で、鹿島に住みつづけ、地方の文化と産業のために尽しました。そして私財を投じ、郷土の少年たちの中から人材を養成し続けました。鹿城会を設置し、経済的に恵まれない子弟の育成に力を注ぎました。

 その鍋島直彬が、田澤義鋪に目をつけたのです。


つづく。

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2009年08月26日

リヒャルト・シルマンデー

今日は、シルマンデーです。
今日は、ユースホステル百歳の誕生日!


 リヒァルト・シルマンは、1874年5月15日に生まれました。
 父は、教師でした。彼は、学校で遊びながら大きくなりました。

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 17歳の時、ケーニスベルクの近くにある師範学校に通いました。そして、1892年、修学旅行に出発しました。生まれて初めて『山』を見たシルマンは、感激のあまりに、地面に手をあててみたり、岩が本当に石からできているのかと岩肌をたたいたりしました。

 シルマンの生まれた東プロシアには山が無かったのです。そんな青年たちが山を見たときのショックといったらありません。島育ちの私も、生まれて初めて北アルプスを歩いたときに受けたショックがありますから、シルマンの気持ちはわかります。

 シルマンたちは、この徒歩旅行にうけたショックを引きずりました。彼らの人生観は、旅行前と全く変わってしまったのです。もう息苦しい教室の授業には戻れなかったのです。不平不満の声があがり、学生の間に広がり卒業を直前に、デモになり、シルマンは、放校処分になってしまったのです。

 しかし、そんなシルマンに手をさしのべた先生もいました。地理の先生でした。その先生は、シルマンに家庭教師の口を斡旋し、ドレベナウの地主(貴族)の家庭教師になることができました。そしてシルマンは、10人の子供の面倒をみることになり、学習計画の作成も全くの彼の自由にまかされたのです。

 シルマンは、特別なカリキュラムを組みました。家の馬車に乗って遠足にでかけ、歌を歌ったりしました。それは、まるで映画『サウンドオブミュージカル』のような世界で、教師にとってのパラダイスでした。よき時代のドイツには、こんな家庭が、あちこちに存在していました。子供たちに家庭教師を雇い、家庭教師は、子供たちを歌と遠足で、のびのびと育てていたのです。こういう環境が存在する国に、ワンダーフォーゲルとユースホステル運動が生まれ発達したことは、偶然ではありません。

 シルマンは、教員資格の勉強をコツコツと行いました。
 そして、一年後(1895年.明治27年)。教員認可試験に合格。

 シルマンは、マスリアの小学校の先生に任命されました。人びとはスラブ方言を使っていました。生徒60人中、ドイツ語を話すのはわずか4人。全く言葉が通じないのです。

 そこでシルマンは、郊外に出て、子供たちと一緒に遊び、歌をうたい、あるいは郊外の散歩につれだし、ある時は、ドイツ語の授業、ある時は算数の授業を行いました。

 自然物の全てが教材であり、
 全てが教科書であり、
 全てが教室でした。

 こうやってシルマンは、森と湖に恵まれた広大なこの土地に、3年間すごした後、さらに3年間ケーニスベルク近辺の小学校で教師をしました。そして、窮屈な教室から野外へ子供たちをつれだしました。教室では得られない自然の歴史、地理を学びました。これをシルマンは、『移動学校(ワンデルンデ・シュール)』と呼びました。そして、この移動学校から、ユースホステル運動が誕生するのです。

 1901年。シルマン、27歳。
 彼は、ルール地方の中心地ゲルゼンキルヒュンで教職につきました。

 シルマンは、公害の巣窟である都市にすむ子供たちに、ラインを流れる機械の部品のように学校という工場で量産されつつある子供たちに、ワンデルンデ・シュールを実行したいと願ったのです。そして、町からほんの2〜3キロ離れたウェストファリアンの丘まで子供たちを遠足につれていきました。幼ない子供たちの瞳は輝き、よろこびのあまり歓声をあげました。

「わあッ、魚だ」
「ほんと、生きた魚だよ!」

 なんと、ルールの子供たちたちは、これまで生きた魚を見る機会さえ、めったになかったのです。これが明治36年のドイツのルール工業地帯の現状でした。

 1903年。シルマンは、アルテナの学校に転勤しました。

 アルテナは、樹木の豊かな清々しい町でした。今までいたルール工業地帯の都市とは大違いでした。しかし、このような恵まれた環境に住みながら、町から一歩も踏み出したことのない子供が多かったことには驚かされました。
 どんなに緑の豊かな地方においても、産業革命と近代化の進んだドイツでは、子供たちが自然のフィールドで遊ぶということは起こりにくかったようです。
 そして、それは、今日の日本でも同じかもしれません。緑豊かな田舎に住んでいる日本の子供たちでも、自然のなかで遊ぶ子供たちは少なく、むしろ家から一歩も出ないでパソコンゲームばかりしている子供たちが多かったりします。つまり、当時のドイツも、現在の日本も同じようなものであるのかもしれません。

 シルマンは、ドイツの田舎町で、ワンデルンデ・シュールを実施することにしました。

「こんもり繁ったぶな林で歌をうたう方が、教室に閉じこもったままの勉強より二倍もすばらしい。地理や自然の歴史の勉強は、こんなふうに田園地方を探索することで十分だった。それにまた、子供たちのよろこびようは大へんなものでした」
(シルマン談)

 けれど、一つ問題がありました。

当時は、適当な宿泊施設が無かったのです。

 そのためシルマンは、宿泊所の確保に四苦八苦しました。
 あちこちに無料の宿泊施設の提供を求めて手紙を書きました。

「納屋でかまいませんから子供たちに貸してくれませんか?」

 1909年の夏、シルマンは、アルテナを始点にライン川沿いにアーヘンの丘陵地帯を抜ける8泊徒歩旅行を計画しました。

 第一日目、一行は納屋に泊りました。そこは、とても快適で、農家の主人の親切な心くばりで毛布までも用意され、プラムに新鮮なミルクまで出されたのでした。

 第二日目。8月26日。

 一行は、風雨の激しい最中、ブレール・バリィにたどりつきまとた。そしてシルマンは、農家に納屋を利用させてくれるよう頼みましたが、その家の主人は、協力をことわりました。それでもどうにかこうにか、ワラを少しだけもらえないかとたのみ、わずかばかりのワラを携えながら、シルマンと子供たちは、村の学校をたずね、ようやく先生の奥さんの許可を得て、そこに泊ることができました。

 嵐は、一晩中続きました。雷鳴、稲光、強風、豪雨、雲とそれはさながらこの世の最後を思わせるほどでした。もし、村の学校の奥さんに断られていたら、シルマンと子供たちはどうなっていたでしょうか? まさにシルマンの旅は『冒険』そのものでした。

「こんな事は繰り返されてはならない」

 子供たちが眠っている間、シルマンの脳裏に稲妻が走りました。
 そして天空にも稲妻が走っていました。

「そうだ、ドイツ国中の学校が、休暇中、宿舎(ホステル)として提供されれば、こんな危険な目にあわなくてすむ。学校を利用すれば、子供たちのために、安全で簡素で格安な『ユース・ホステル』を作れる! そうだ、ユースホステルを作ろう! ドイツ中の学校に呼びかけて、全国にユースホステルを作るんだ!」

1909年。アーヘンへの旅行第二日目の8月26日の夜。
ブレール・バリィで宿泊所の欠乏に気付いたその日こそ、
ユース・ホステル運動が誕生したのです。


8月26日は、そんなシルマンを忍ぶ、
シルマンデー(ユースホステルの日)として、
ユースホステルの創始者リヒァルト・シルマンを
記念する日となっています。


そして、今日が、ちょうど100年目なんですよ!

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リヒャルト・シルマンを詳しく知りたい人は、
下記サイトをごらんください。

http://www.shiruman.net/


つづく。

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posted by マネージャー at 11:50| Comment(3) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月25日

明日は、ユースホステル百歳の誕生日!

明日は、
ユースホステル百歳の誕生日!
ケーキを作って待ってます。
みんなで御祝いしましょう!


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ユースホステルが誕生してから、
明日で、ちょうど100年になります。

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リヒャルト・シルマンが、
100年前の8月26日に
ユースホステルを思いついたのでした。

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月21日

ユースホステルの役割

アーノルドさんに親切な
北軽井沢ブルーベリーYGHの御客様をみて
思い出したことがあります。
あるエビソートについてです。

以下は、実話です。

 1958年。昭和33年4月。
 オーストラリアから二人の青年が日本へやってきました。
 東京で最初に訪ねたのは日本ユースホステル協会。
 英語の話せる部員が応対して、すぐ日本青年館へ案内。
 その夜は日本の会員が付き添って東京見物などをさせたといいます。

 日本式生活になじんでいない彼らは食事の時、入浴の時、いろいろな場面で、トンチンカンなことをしました。石鹸をつけたまま入浴しようとしたのをとめられたり、箸が持てないで手づかみで料理を食べようとしたのを教えてやったり、日本のホステラーたちがみんな親切にしてあげたのです。

 東京を離れて関西旅行をする時も、心もとないこの旅行者のために道案内役をかってでたホステラーもいました。また支部から支部へ連絡して、それこそホスピタリティー親切にもてなすようにと心を配ったのです。

 彼らが二ヵ月の日本旅行で、何を見て、何を感じたか。
 神戸の港から帰国する時、日本のホステラーたちに
 手を強く振って彼らは約束しました。

「日本という国は、こんな親切な人々の住んでいる国とは思わなかった。毎日毎日の温かいもてなしが私たちの胸にいっぱいたまっている。この日本人の親切心を大きな土産にして故国に帰ります。来年はわが国のメルボルンでオリンピックが開かれる。日本の選手もたくさんこられるでしょう。しかしオーストラリアでは、反日感情が強いので、オーストラリアが、どんな気持ちで日本選手団を迎えるか、あまり期待しないでほしい。ただ、私たち二人だけは必ず日の丸の旗をもって歓迎します」

と、いってオーストラリアへ船で帰りました。

 そして翌年。
 日本選手団がメルボルンに着いた時、
 二本の日の丸だけでなく何千本という日の丸の旗が、
 オーストラリア人によって強く振られていました。
 それは日本のユースホステルで受けた親切を
 青年たちによって語り伝えた反応だったのです。

 この話は、年輩ユースホステルマネージャーなら、たいていの人が知っている話です。昔のユースホステルには、こういうエピソードが、たくさんあったのです。はたして、今のユースホステルには、こんな美談が、いくつ残っているのでしょうか? こんな過去は、もはや夢物語なのでしょうか?

つづく

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2009年01月31日

星マークについて5

星マークについて、つづきです。
今度は、星マーク採点表への評価です。
採点表の良いところを述べます。

【3】インターネット

 北軽井沢ブルーベリーYGHは、日本で最もインターネットに力を入れているユースホステルです。ホームページの数からいっても、観光案内の数からいっても、複数の独自の予約システムを構築していることからも、複数の異なるサーバーを使用していることからも、他にぬきんでていると思います。

 実は、これも、星マークの採点対象になります。

 これなんかは、一見、施設の上下と関係ないかと思いますが、実は重大な意味をもっています。おそらく御客様の利便性の問題を考えて採点基準にしたのでしょう。

 しかし、北軽井沢ブルーベリーYGH が、インターネットに力を入れている理由は、別の処にあります。何のことはない。私の耳がよく聞こえないからと、私自身が愛想が悪くて御客様に誤解をあたえるからです。よーするに
「欠点隠し」
のための方便なんですね。

 とはいうものの、ホームページなどでの情報提供は、どのユースホステルも、どんどんやるべきではないでしょうか? そういうい意味では、この部分が採点基準になることは賛成です。理由は、

1.御客様の利便のためと、
2.宿主の負担軽減のためです。

 1.は分かるとして、2.の意味を説明します。

 ユースホステルは、一人旅が多いために、御客様の質問の数も、問い合わせの数も格段に多くなっています。これがペンションなら客室数の問い合わせのみですが、ユースホステルの場合は、ベット数の問い合わせになります。北軽井沢ブルーベリーYGH を例にたとえると、19ベット分の問い合わせがきます。ペンションなら7室分の問い合わせでおわるのに。

 そうなると、問い合わせの多さに、業務に支障ができるのです。天ぷらを揚げているときに「すいませーん」と聞いてくる人が激増してしまう。そのために、つい、イライラしてしまう。ゆとりをもった接客をするなら、この問い合わせをへらさなけれぱならない。質問を減らさなければならない。

 となると、水際防御しかない!

 つまり、御客様が、問い合わせをしなくてもすむように、ホームページやパンフレットなどで質問事項を全部、答えてあげるのが一番なのです。そうしておけば、天ぷらを揚げているときに電話がきても、
「詳しくはホームページを御覧ください」
で逃げられます。

 アメニティの充実も、インターネット環境も同じ理由でなされています。忙しい時に「■■貸してください」と言われてイライラするくらいなら最初から客室に置いた方がよい。天気の質問をされるくらいならインターネット環境を設置して、御客様みずから調査できるようにした方が、宿主の負担が減るのです。しかもサービスの向上に繋がる。


 ところで話は、変わりますが、問い合わせの電話は、不思議なことに、一番忙しいときに、一番大量にかかってきます。なぜなんでしょうか? 連休で満室で、20人分の食事を作り上げて、さあ、これから御客様に食事のアナウンスをするぞ、というときに大量にかかってくる。逆に、こっちが暇なときには、かかってこないのです。

 不思議です。


まだまだ、つづく

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posted by マネージャー at 11:58| Comment(2) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月30日

星マークについて4

星マーク判定の欠陥。

実は、星マーク判定には難しい問題があります。
調査票を見て、つくづく思いました。
まず、看板の有無について。



【1】看板について

国立公園内では、原則として看板は立てられないのです。
看板は指定業者の作ったもの以外立てられません。
(ちなみに、北軽井沢や嬬恋村には指定業者が存在していません)

色も指定されていて、文字の色さえ指定があります。
場所にも制限があります。それ以外は、違法看板になります。
違反看板は、土木事務所による強制撤去が待っています。

逆に言えば、その規制によって、景観は守られます。
しかし、看板の有無が、星マーク採点に影響を受けます。
で、点数を上げるために、無理に看板を設置すると
地域の景観を悪化させます。
看板を全国のユースホステルで
単一の採点基準にするのには、問題があるのです。



【2】エコに対する取り組みについて

エコに関する対応についても、賛否両論があるでしょう。

 エコに対する考えは、千差万別あります。
 それを書けば、1冊の本になります。
 思想の問題になるからです。
 だから、ここでは触れません。
 ここでは、もっと別の視点からエコを考えてみたいと思います。

 実は、エコに対する取り組みを優先するあまり、サービスがないがしろになったために、苦情が発生している宿がたくさんあります。というのも、エコを大義名分に、宿主が密かに、サービスを低下させることも充分可能だからです。このあたりは、ホステル委員会の人たちに説明したのですが、宿経営をした経験がない人たちに、きちんと理解できたか疑問です。

 この問題は、現役ホステラーである皆さんの方が、切実に体験されているのではないですか? エコを大義名分に、猛暑地域であってもエアコンが無い宿に激怒している御客様の苦情を何回聞いてきたことか。
 コインエアコンの存在に激怒している御客様も少なからずいます。すぐに電気を切られてしまう宿。ブレーカーまで落とされて、携帯の充電もできない宿。みんなエコを大義名分にしています。そして、それに激怒している御客様も存在しています。

 しかし、今の世の中、そんなことをしていたら、ますますユースホステルの会員数は減っていくでしょうね。エコは、御客様に強制するものではなく、御客様みずからが、自発的に行うものでなくてはなりません。宿側は、その選択肢を与えるのが本当だと思います。

 例えば、北軽井沢ブルーベリーYGH では、割り箸をやめて、塗り箸にシフトしていますが、希望者に割り箸も出しています。選択できるようになっています。しかし、結果として誰も割り箸を使いません。これは強制ではなく、選択の結果です。

 使い捨て、歯ブラシも置いてあります。
 しかし、ホームページには、こう書いてあります。

「使い捨ての歯ブラシを使うのは、環境問題を配慮して嫌だという人もいるかもしれません。そういう方は、ぜひ、御自分の歯ブラシをお持ちください。北軽井沢ブルーベリーYGHとしては、どちらを選ぶかの選択肢は、お客さまの判断にお任せしたいと思います」
http://www.kaze3.cc/13-style-kodawari/style3-unei-06-amenity.htm

 そのために大半の方は、使い捨て歯ブラシを使いません。別に強制しているわけではありませんが自分の歯ブラシを使っています。

 あくまでも環境問題への配慮は、御客様自身にまかせる。
 そして、御客様がすすんで配慮してしまうように
 もっていくことが大切だと私は、考えています。


まだまだ、つづく

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posted by マネージャー at 06:33| Comment(2) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

星マークについて3

利用者にとっての星マーク。

では、利用者にとっての星マークは、どういう意味があるでしょか?
北軽井沢ブルーベリーYGH で、アンケートをとったことがあります。
その結果

 利用1年目の人(初心者)−ありがたい/星の数で利用施設を決める
 ヘビーユーザー(上級者)−必要ない/信じない

という、しごく当然な結果がでました。
つまり、利用1年目の人(初心者)にとっては、
星の数が重大な情報源になるようです。

その結果、星の数が多いユースホステルは、
利用1年目の人(初心者)が
たくさんおしかける事になります。

逆に、星の数が少なくとも、頑張っているユースホステルには、
利用1年目の人(初心者)には避けられてしまう。
その代わりに、期待してない人が、たまたま泊まって感激し、
リピーターやヘビーユーザーが増え、
強力な援軍が誕生することになる。


その逆に、星の数が多くとも、手を抜いているユースホステルには、
利用1年目の人(初心者)は、殺到するが、彼らをがっかりさせてしまう。そして、ユースホステル利用者じたいが激減することになる。



まだまだ、つづく

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posted by マネージャー at 00:17| Comment(4) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月28日

星マークについて2

星マーク検査2

宿主にとって星マークは、多ければ多いほど、御客様がおしかけます。
★よりは、★★★★の方が良いに決まっています。

じゃ、星が多ければ、それで良いのかというと、
そういうわけではないんですね。

もし、★でも、実態が★★★★レベルだと、どうなるか?
その存在がサプライズになるんです。

★だと思って予約してみると、
★★★★の待遇に感激してしまう。
感動が大きくなるのです。

その逆に★★★★の宿に予約して
★★★★の待遇を得たらどうなるか?
可も、不可もなく、
予想どうりの結果ということになります。

期待値が低ければ、御客様の感動は大きく、
宿のファンになる可能性がある。

しかし、期待値が低ければ、
そもそも御客様の予約が少ない。
でも、感動を与えてリピートさせる可能性は高くなる。
強力な口コミを産む可能性は高くなる。

つまり、どっちに転んでも市場原理によって
淘汰されていくものです。

だから、採点の結果は、あまり気にしてはだめで、
それよりも、星マークの数に合わせた
集客戦略をとることが、重要になります。

しかし、日本ユースホステル協会ににとっては、
そういうわけにはいかない。
悪い施設が増えれば、会員が減少するので、
施設のレベルを上げるために躍起にならざるをえないでしょうね。


まだ、つづく

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posted by マネージャー at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月27日

星マークについて1

星マーク検査がありました。

星マーク検査とは、ミシュランガイドのようにユースホステルの格付けを行う検査です。
前回は、2004年に行っていますから、わずか5年で見直しがされるわけです。

最高の星マークは、
★★★★
です。

最低は、

です。

★になると、日本ユースホステル協会から指導が入り、
★★以上になるように改善命令が出るのですが、
この改善命令を実行できずに何軒かのユースホステルが
契約解除にふみきっています。

この改革を見直すために、星マーク検査の見直しを行うべく
ホステル委員会が、北軽井沢ブルーベリーYGH に聞き取り調査に
やってきました。

おかげで京都で開催されていた
共和国会議に出られなかったのですが、
ホステル委員会の人たちに、お会いできたので、
私としては面白かったです。

ホステル委員会というのは、ユースホステルの
許認可権をもっている、お偉いさんたちなのですが、
どんな人たちがやってくるんだろうか?
とワクワク・ドキドキと、好奇心いっぱいで待っていましたら、
グリーンツーリズム研究をしている東洋大学教授と、
海外旅行関係の旅行作家にお会いすることになり、
『検査&採点』
という、採点される立場を忘れて旅談義をしてしまった。

相手が、大学教授の先生・旅行作家というのをスッカリ忘れて
自分が採点されているという事実をスッカリ忘れて
旅談義・ユースホステル談義をしてしまいましたよ。

これじゃ宿主失格ですね!

このシリーズ、つづく

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posted by マネージャー at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする