『生きる』に思うこと 黒沢明監督の『生きる』という映画が、あります。それは、こんな御話しです。
癌を宣告され、死を目前にした男がいました。男は、死を前にして、残された短い人生を精一杯、有意義に生きようとしました。具体的に言えば、酒を飲み、女と遊び、歌って踊るといった享楽的な生活をしたのです。
だれだって、そうです。自分の命が、幾日しかないと解ってたら、老後のためにあくせく働きません。将来のために蓄えなどしません。残された日々に、やりたい事をしたくなるものです。『生きる』の主人公に限らず、誰だって享楽的な生活を送りたくなるものです。
しかし、『生きる』の主人公は、それでは、もの足りなかった。何も満たされる事がなかった。享楽的な生活が、『生きる』こととは思えなかった。『生きる』とは、そういう事ではないと思った・・・。黒沢明監督の『生きる』という映画は、ここで終っていました。いや、正確に言えば、主人公が物語の途中で死んでしまっていたのです。
主人公が、物語の途中で死んでしまう事は、およそ考えられない事です。主人公は、感動的なラストシーンまで登場してこそ主人公と言えるからです。しかし、黒沢明監督は、あえて『生きる』の主人公を物語の途中で死なせてしまった・・・。しかし、天才黒沢明監督は、死んだ後にも映画の中に、主人公を登場させつづけたのです。
死んだ後に登場し続けたといっても、幽霊になって現われたと言うわけではありません。黒沢明監督は、そんなきわもの映画を撮るような人ではありません。『生きる』の主人公は、幽霊としてではなく、人々の記憶として登場したのです。
『生きる』という映画は、前編と後編に分れています。
前編は、主人公が、癌を宣告され、享楽的な生活をしたが、何も満たされず、悩んだあげく、『生きる』事を決意する場面で終っています。そして、後編は、なんと主人公の葬式シーンです。主人公が死んでしまった後の物語です。葬式に集まった人々は、故人の『生きざま』をしのび、故人が、いかに『生きる』ことに情熱をあげてきたか語る物語です。
私は、この『生きる』という映画を見た時、涙を止める事ができませんでした。それは、ただ単に映画に感動したと言う事ではなく、本当の意味で『生きる』と言うことを知ることができたからです。『生きる』とは、どういうことでしょうか? 『生きる』の主人公は、どのように『生きる』ことを決意したのでしょうか? その問題を解く鍵は、『生きる』という映画の後編部分にあります。
『生きる』の後編部分が、主人公の葬式シーンである事は、既に述べました。生物学的に言えば、主人公は、この世には存在していないのです。しかし、主人公は、立派に生きていました。映画の中では、輝かしいくらいに生きていました。生物学的には生きていませんでしたが、人々の記憶の中に生きていました。そうです! 『生きる』という事は、必ずしも生物学的に『生きる』こととは限らないのです。人の心の中に『生きる』ことだって、ありうるのです。
『生きる』の主人公は、死を宣告された時、最初は、享楽的な生活にふけりました。しかし、それでは、何も満たされる事はなかった。享楽的な生活とは、生物学的な満足を満たす生活と言ってもいいかもしれません。しかし、『生きる』の主人公は、それだけでは、何も満たされなかった・・・。それで、人の心の中に『生きる』ことを決意したのです。
享楽的な人生を送る生活は、『生きる』とは言えない!
自分だけが満足する生活は、『生きる』とは言えない!
機械のように、ただ、事務的な生活は、『生きる』とは言えない!
それらは、『生きる』とは言えない。
俺は生きていたのではない、死んでいたんだ!
今の今まで死んでいたんだ!
生きるぞ、これから本当に『生きる』んだ!
『生きる』という言葉の裏には、二つの側面があります。
一つは生物学的意味での『生きる』ということ。
そして、もう一つは社会的意味での『生きる』ということ。
つまり、人々の心の中に『生きる』と言うことです。
人は、生物である限り、いつか死にます。誰だって、生物学的な死を迎える時がきます。問題は、その後です。『生きる』の主人公のように、人の心に生き続けるか、全く死んでしまうかです。日本には、生物学的に生きている人たちが一億人もいますが、人の心の中に生き続けることを意識している人は、いったい何人いるでしょうか?
良い悪いは別です。昔に比べれば、今の人たちの方が、遥かに享楽的な生活を送っているわけですし、他人のためよりも自分のために生きている人たちが多いことは確かです。つまり、人の心の中に生き続けようと思わない人たちが多いわけです。そして、本当に、それが幸せならば、それはそれでいいわけです。けれど、本当に、それで、皆が皆、満足しているのでしょうか? 『生きる』の主人公のように、何も満たされないでいるのでは、ないでしょうか?
一人旅をしていて、こんな思いをした事はありませんか? 景色は素晴らしい、料理はうまい、宿は素敵だ、温泉もいい湯だ、でも、何か足りない。何か満たされない。いったい、それは何だろう? 全てが満たされた旅の中に、何か足りないと感じたことは、ありませんか? ふれあいを求めて旅する旅人は、どんなに物質的に恵まれた旅を送っても不満が残るものです。それは、享楽的な生活に満たされない人の悩みに似ているかもしれません。
ふれあいを求めて旅する旅人は、旅人に対して、とても優しい心をもっています。本来、他人である見知らぬ旅人に、とても親切です。これは、人の心に生き続けることと言えるかもしれません。
『生きる』の主人公のように、「人の心に生き続ける」ということは、他人に対して優しい心をもつという事でもあります。優しい心がなければ、人の心に生き続けるなんて、不可能だからです。誤解のないように付加えておけば、私は、道徳論で「優しい心」と言ってるのではありません。人の心に残る人生を送ろう! 人の心に残る旅をしよう! と言ってるのです。そして、人の心に残る旅(人生)と言うものは、自分が優しい心を持つことによって、初めて、優しい心にふれあう事ができると言うことです。これは、建前や道徳論で「優しい心」と言ってるのではなく、きわめて現実的な日常的な事を言ってるのです。
人は、一人では生きていけません。もちろん例外はありますが、多くの人たちは、ふれあいを求めて生きているはずです。たまに、自分だけの世界の中に生き続ける人がいますが、人間というものは、とても弱い存在です。自己満足の世界だけに満足して死ねる、そんな人は、そう多くはないはずです。享楽的な生活だけに満足できる人は、そう多くはないはずです。「いや、満足できる」と、仮に思ってる人がいたとしても、明日までしか命がないと宣告たれた場合、本当に満足して死ねるものだろうか・・・?
死を迎えた人間が、どんなに贅沢をしても、どんなに享楽的な生活を送っても満たされることはありません。しかし、社会的な意味で『生きる』ことが、できた場合、生物学的な意味での死を克服できるのではないでしょうか?
人は、誰でも何時かは死ぬ運命にあります。生物学的な死を迎える時がきます。問題は、一人淋しく死んでいくか、大勢の人たちの心に生き続けていくかです。どちらを選ぶかは、その人の人生観に及ぶことですから、私には何も言えませんが、少なくとも私は、「人の心に生き続ける」人生を選びたいと思っています。そして、「人の心に生き続ける」旅をしたいと思っています。
自分一人だけで美味しいものを食べ、自己満足の世界に浸るより、みんなで食べたい、みんなに知らせたい、みんなに御馳走したい! そんな気持ちで、旅をしたいと思っています。人間は、享楽的な生活で幸せになれるほど単純ではありませんし、損得で生き続けられるほど強くもありません。
『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり(論語より)』
二千年以上も昔の人間が語った言葉です。別に難しい事を言ってるわけではありません。本当の意味での『生きる』ことの喜びを知った者なら、生物学的な意味での死さえ恐れずにすむと、いう意味です。人は、享楽的な生活によって、死の恐怖から逃れる事はできません。しかし、本当の意味での『生きる』ことの喜びを知れば、死をのりこえる事はできるはずです。たとえ生物学的な死をむかえることになったとしても、永遠に人々の心の中に生き続けるに違いないからです。
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