2019年02月15日

幼稚園の先生「好きな人5人ずつチームを作って」 → 必ずあぶれてしまう子

 私は、昔から無愛想で有名な人間です。宿をオープンした時などは、あまりにも無愛想であったために、それがお客さんの間では有名になり、口コミで広がって、その結果、どんなマネージャーなんだろうと、好奇心が強いお客さんが増えたくらいです。もちろん観光関係者の間でも無愛想で通していました。そうしないと仕事が増えてしまう。なるべく余計な仕事はしたくない。しかし、いくら無愛想にしていても、いつの間にか顔が広がって仕事も増えてきます。いろいろな仕事を仰せつかってしまう。

 話は変わりますが、子供が生まれて、その息子が幼稚園に行くようになると、村人と一挙に距離が縮まります。目立たないように息を殺して生活していても、息子の父親であることがすぐに分かってしまう。原因は幼稚園(保育園)が指定する帽子にあります。学年別に色分けされた帽子を必ず被らされるからです。そんな息子をこども園まで迎えに行って、帰り際に買い出しなんかしようものなら、
「息子の同級生の父親がいる」
「娘の同級生の父親がいる」
とばれてしまいます。つまり学年別に色分けされた幼稚園が指定する帽子というのは、個人情報そのものなんですね。ガソリンスタンドにガソリンを入れるだけで、いつも無愛想な職員が、気さくに話しかけてくる。変だなと思っていたら、息子の同級生の関係者でした。幼稚園が指定する帽子を息子がかぶっていたために、私と息子の正体がばれてしまったわけです。

 こっちが村人に関わらない様に気配を消してひっそりと生きていても、どうしても息子の父親であることがばれてしまう。ばれてしまえば、いろんな情報が入ってくる。で、入ってきた情報に驚愕する。

 嬬恋村の子供たちの双子率が、いとこ率が、親戚率が、異常に高い。そうでなかったとしても、おばあちゃん同士が親友とか、何らかの遠縁関係の同級生たちがうじゃうじゃといる。そのうえ親どうしが同級生とか、先輩後輩とか、近所同士とか、もう無茶苦茶。つまり、息子の同級生たちの多くは、生まれてすぐに大勢の顔見知りの中にいたということなんです。なので、近所同士で遊ぶという事はあまりなくて、いとこが祖父母の元に集まって遊ぶとか、何らかの親戚のところに集まるといったことが起きてくる。この辺が東京などの都会と全く違うんです。みんな顔見知りで、どこかで繋がっている。繋がりの中で生きているので、生まれて直ぐに地域のネットワークの中に溶け込んでいる。

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 しかし、よくよく考えてみたら、私もそうでした。私は佐渡島という離島出身ですが、やはり子供の頃、同じクラスに親戚が2人ほどいました。これは、田舎「あるある」なんですよね。田舎じゃよくある。で、自分の体験からしたら、非常に嫌なことなので、かわいそうだなぁと思っていたんです。同じクラスに親戚がいるのは、親としては気にならないかもしれないけれど、子供としては嫌だった。体験者としては非常に嫌悪。その点、息子は、どこにも親戚がいない。完全無欠のよそ者ですから、気が楽でよかったなあ〜めでたしめでたしと思っていました。

 逆に言えば、息子は、ものすごい濃密に仲良くなれる友達ができにくいといえば出来にくい。0歳児の頃から一緒に遊んでいる従兄弟同士とか、仲良し老人の孫同士と比べたら入園の段階でハンデがある。多くの田舎の幼児たちが、入園前から友達だったのにたいして、息子はそうではなかったからです。

 逆に言うと、息子は、誰とでも仲良くなれるスキルを身につけてしまっている。軽井沢でも、高崎でも、前橋でも、公園で遊ばせると見知らぬ子供とすぐに仲良くなる。で、どんなに仲良くなってもアッサリさよならできる。息子にとって一期一会は日常にさえなってる。ところが、嬬恋村の特に女の子の親友同士は、三歳にして帰宅時間に涙を浮かべながら別れを惜しんでいる。息子には、全く、そういうところはない。

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 話は変わりますが、先日、幼稚園でソリ滑り大会がありました。家族が参加しないとダメなので私が息子を連れてパルコールスキー場に行ってきました。そこでソリ滑り競争のチーム分けするために、幼稚園の先生がこんな一言いました。

「好きな人5人ずつチームを作ってください」

 こういう風に言われると、
 必ずあぶれてしまうのが息子である・・・
 と、私は嫁さんから聞かされていました。

 みんなそれぞれに特定な親友がいる訳ですから、好きな子を探して五人のチームを作るわけです。息子は必ずあぶれてしまう。去年もそうだったし一昨年もそうだった・・・と嫁さんは心配していました。それを見てるのが辛かったせいか、今年は私に「ソリ大会に行ってくれ」と言ってきたんですよね。そして、いよいよ
「好きな人5人ずつチームを作ってください」
という先生の指示があったのです。

 さて今年はどうなんだろうと、
 じっと見ていたら、
 多くの幼児たちが友達を探しているのに対して、
 息子のやつは、次々とできあがってくるグループの数を数えてばかり。
 そして4人しか集まらなかったところに、ちゃっかり入ってしまいました。
 おもわず

「それでいいんかい?」

というツッコみを入れたくなりましたが黙っていました。

 自宅に帰ると嫁さんが家の中から出てきて、今年はグループの中に入れた?と、こっそり聞いてきたので、真相を話したら嫁さんは大爆笑していました。


つづく。

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2019年02月14日

五歳児のバレンタインデー

 子供を幼稚園に通わせている親御さんなら、理解していただけるかと思いますが、朝が大変です。忘れ物がないように、ハンカチ・ティッシュ・濡れタオル・歯ブラシといったものを持たせたりしなければならないからです。で、ある日、息子の幼稚園バックの中を整理していたら何やら見慣れないポケットティッシュが入っていました。かなりオシャレなポケットティッシュで、明らかに我が家の財布で買ったものではありません。

「タケちゃん、このポケットティッシュどうしたの? 」

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 今日はバレンタインデー ですけれど、今時の幼児は、まだたったの5歳だというのに、好きだのなんだのと言って、女の子がプレゼントを渡してするんですね。もちろん5歳児に恋愛感情なんかあるわけありませんから、 1種の遊びなんでしょうけれど。ちなみに嬬恋村は、広大な面積に子供たちがポツンポツンと点在しているために、隣近所で一緒に遊ぶということもありません。

 幼稚園から帰ったら、自宅でポツンと1人で遊ぶしかないのです。つまり同級生と出会えるのは、幼稚園の中だけです。好きな子に告白するのもプレゼントを渡すのも、幼稚園でしかチャンスありません。しかし、この幼稚園と言う場所が、渡すべきプレゼントの足かせになってしまいます。幼稚園に私物を持っていくことができないからです。

 しかし、成長の早い女の子たちには、男の子には及びもつかない知恵がありました。おしゃれなポケットティッシュです。これなら堂々と幼稚園に持っていけます。
「タケルくん大好きだからこれあげる」
もちろん息子も、ものをあげるもの大好きなので、プレゼントのお返しをします。

 しかし、これがまた、全くセンスがないんですよ。

 男の子と女の子の違いというか、そもそもうちの息子に、人にあげて良い息子の所有物があるわけでもなく、プレゼントを買いに行こうにも半径2キロ以内に店舗が全くないところに住んでいる訳ですから、ものを買う体験さえしたことがありません。なので、自宅に帰ったらJAFが発行している雑誌に付いている吉野家の割引券をハサミで切ってそれをお返しに上げているらしいのです。
「相手は喜んだの?」
と聞いてみたら、全く喜んでないらしい。

 どうやら嬬恋村の父兄のみなさんは、育ちが良いらしく、吉野家の牛丼をおいしく食べる人種では無いようで、それだけに割引チケットを貰った女の子たちもさぞかし困った顔をしただろうと思うと、笑いがこみ上げてきて、腹筋が崩壊してしょうがなかったです。

 仕方がないので、息子と一緒に100円ショップに行き、首からかけるタイプの財布を買ってあげました。そしてその中におばあちゃんからもらったお年玉を入れてあげて、買い物の練習をさせました。もちろん、女の子にプレゼントできるようなポケットティッシュを買いにです。で、準備が終わった昨日の2月13日。息子は、インフルエンザにかかってしまいました。これで1週間、幼稚園のお友達とは会うことができません。もちろん、うちの宿も1週間の閉鎖です。お客さんに理由を言って、キャンセルしてもらいました。今一生懸命、館内の消毒をしています。


つづく。

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2018年12月28日

北軽井沢は雪です【粉雪・積雪3pから5pぐらい】

北軽井沢は雪です。粉雪で、積雪3pから5pぐらいです。
危険なのでスタットレスタイヤか、チェーンを持参してきてください。
特に、日没以降は危険です。
なので、日のあるうちに到着するようにお願いします。

また、温泉ツアーは、1130ホテル側が入れてくれないので、
年末年始は行なっていません。
他の温泉に自力で行かれる方は、割引券をお渡ししていますので、問い合わせてください。
おもちゃ王国の割引券もご用意しております。





つづく。

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2018年12月20日

息子の七五三

息子の名前は、倭健(やまとたける)からとっています。
なので、七五三は、倭健(やまとたける)を祭神とする
碓氷峠の熊野神社にお参りしてきました。

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お参りの後は、宮司さんが経営している、しげのやで力餅を食べます。

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これが名物の力餅。
甘くなくて美味しいです。
碓氷峠の名物です。
ぜひ一度食べてみてください。

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これは、あん入りミルク。

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息子はペロリと力餅を平らげました。
力餅は、500円。

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その後、自宅そばの牧の宮神社でお参り。
土地神様にも御挨拶。

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つづく。

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2018年04月26日

何も教えてないのに勝手にルールブックを読んで将棋を覚えようとする五歳児

 はやいもので息子も5歳1ヶ月となり、年長組です。
 来年には、小学生です。
 5歳ともなると、ある日、突然、何かが出来るようになりますから驚きます。

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 今年は、雪が少なかったために息子を連れて雪山に登ることが、ほとんどできなかったためと、消防法の改定のために自力で警報装置などの装着工事を行なうために忙しすぎて、冬の間の4ヶ月間、息子に運動させることができませんでした。冬の間の4ヶ月間、ほぼインドア生活をさせてしまったわけです。

 これには、さすがに息子の体力が落ちただろうと予測していたのですが、4月になって雪が溶けたので山に連れて行ってみたら、全く体力が衰えてないんです。むしろ以前より体力があるんですよ。変だなあ?と思いつつ、五歳児検診をうけると、体重は変わらないのに身長が4ヶ月で5センチも伸びていました。インドア生活していたのに5センチ伸びてるんです。そのうえ体力が全く衰えてないんです。

 また、背丈ほどある鉄棒に飛び乗り、前回りが出来るようになったのには、本当に驚きました。教えても無いのに、ある日、突然、できるようになったんです。さかんに運動させていた時には、出来なかったのに、雪で全く運動できなかった4ヶ月の間に、次々といろんな事が出来るようになった。しかも身長が劇的に伸びて成長曲線にぴったりハマるようになってきた。これは、どういうことなんでしょうか? 幼児には、運動させないで放置しておく期間が、ある程度は必要なんでしょうか? このへんは、専門家の意見を聞いてみたいところです。

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 運動だけではありません。頭脳の発達も著しいようです。音楽ビデオを見たり聴いたりするときは、歌詞カードを読むようになってきたし、誰も教えてないのにお客さんと将棋をやりはじめています。もちろん、ルールなんか分からないので、子供用将棋板に付属しているルールブックを読みながら指している。誰かに教えてもらっているのでは無く、自分で取説を読みながら、自分で将棋のルールを研究している。

 雪が降る前には、私が、もっと簡単な別のゲームを教えようとしたんですが、こっちが教えようとすると反発して覚えなかった。なのに、ちょっと忙しくて息子を放置していたら、勝手にルールブックを読んで、自力で将棋を覚えてお客さんとやろうとしている。

「さすが五歳児ともなると凄いなあ」

と感心したわけですが、よくよく観察してみると・・・ちょっと違っている。息子は、将棋に興味があるのでは無くて、お客さんの関心を買おうとしているのに気づいたからです。最近、お客さんが少なかったので、相手してくれるお客さんに、好意をもってもらいたいために将棋を覚えようとしていたみたいなんです。お客さんがいると分かると、本当に嬉しそうなんです。そして、一緒に遊べないかなあと言っている。そしてお客さんが、将棋をやろうとすると、それにあわせて覚えようとするんです。5歳になったばかりなのに。

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 将棋だけじゃありません。子供雑誌の付録についている腕時計(紙製品)の工作を一生懸命につくっているなあと思っていたら、その完成品をお客さんにプレゼントしていました。親にも触らせないものをお客さんにプレゼントする。これは知能が発達したというより、他人に好意を寄せるようになった。他人のために何かをしてあげたいと思うようになった。それが、自力で将棋のルールを覚えようとする行為に繋がったみたいなんですよね。

 五歳児ともなると、他人に対しての接し方が、今までよりも分かってきたんでしょうね。思いやりの心が育ってきて、それが結果として、五歳児の知能を高めることに繋がったんだと思います。

 なぜならば、ここ数ヶ月間、親の私は、消防施設工事と、その関連の資格習得などの勉強で、息子に対して放置気味だったんです。なにもしてやれなかった。しかし、結果として、それが息子の心と知能の成長に繋がっているわけですから、あえて息子を放置する期間というものもあってよいかもしれません。

 急激に5センチも身長が伸びたという結果を考えてみると、運動させない期間というのもあってもよいのかもしれない。親が手出ししない放置の期間というものも、あってもよいかもしれません。その間にも、自然と体力はついているし、知能も、思いやりの心も育っているみたいですから。


つづく。

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2018年03月28日

息子を連れて佐渡島へ 18 佐渡汽船・北軽井沢に帰る

 人類は名前がついているだけで25種ありますが、みんな次々と絶滅しています。最後に残ったのがネアンデルタール人とホモサピエンス。この両者は、非常に高度な文明をもっていました。しかし、ネアンデルタール人は滅びてホモサピエンスが生き残った。ネアンデルタール人は、私たちより脳も大きく、ガッシリしていたのに何故か滅びてしまった。彼らは、我々と同等の知能があり、体格も優れ、遺伝的な差異が全くなかったにもかかわらず、なぜか滅びたのか? 逆にどうして私たちホモサピエンスが繁栄したのか?

 それを解明するために人類交替劇プロジェクトというものが立ち上がっています。世界中の各分野の学者たちが、ネアンデルタール人が滅びた原因をさぐる人類交替劇プロジェクトです。このプロジェクトは、従来の専門家の他に、文化人類学、発達心理学、生体力学、精密工学、認知神経科学、古神経学などの異分野の人たちを巻き込んで、学問の相互乗り入れをしたユニークなプロジェクトでした。

 そのプロジェクトの中で、私にとって面白かった研究は、ネアンデルタール人が社会学習を得意としていたのに対し、ホモサピエンスが個体学習を得意としていたというところです。これをまとめると、こうなります。

◆ネアンデルタール→社会学習を得意(他人を模倣して作る)
◆ホモサピエンス →個体学習を得意(個人が創意工夫する)

 社会学習を得意とするネアンデルタールは、親や大人が子供に石器の作り方を教えていたわけです。その方法は伝統的に受け継がれ、そのために生息地域もヨーロッパという狭い地域にしかネアンデルタールは定着しなかった。

 では、ホモサピエンスはどうだったか?
 というと、どうも、そうではなかったらしいのです。

 人類交替劇プロジェクトの文化人類学者グループが、人類交代劇が起きた頃のホモサピエンスに最も近いといわれる狩猟採集民を観察することによって、ホモサピエンスの学習行動の特徴を明らかにしたわけですが、未開の奥地に住む狩猟採集民は、子供に何も教えていない。子供は、親のやることを見ているだけで、何一つ教わってないという事がわかった。

 母親は、料理を作っている姿を見せるだけ。
 父親や、年長の子供たちも動物を捕らえる罠を作ってみせるだけで、
 決して教えようとはしない。
 狩猟採集民の子供たちは、見てるだけなんです。

 学校制度の整った先進諸国の人間からすると、奇異に感じるかもしれませんが、人類交代劇が起きた頃のホモサピエンスは、子供たちに社会学習をさせてなかった。そのためにホモサピエンスは、創意工夫を必要とする個体学習の力を育てる必要があったわけです。その結果、創意工夫する力が育ち全世界のあらゆる地域に対応していった。

 逆に言うと、今の学校制度というのは、ホモサピエンス型ではなく、ネアンデルタール型の学習行動に近いんですよね。しかし、社会学習のネアンデルタールは、生存競争でホモサピエンスに負けている。

 ここから本題です。

 この仮説の正否はともかく、幼児は、徹底的に親の真似をしますね。教えて無くとも親の本能的に真似をする。そして学習する。ホモサピエンスの原型である狩猟採集民と同じです。幼児は、強制しなくともホモサピエンスのように個体学習をする。逆に言うと社会学習を拒否する。
「これこれをしなさい」
と命令すると天邪鬼のように反発する。ネアンデルタールのように素直に社会学習してくれない。

 親が口で言ったことに反発し(社会学習を拒否)、
 親の日常行動を真似する(進んで個体学習する)。

 幼児という存在は、ホモサピエンスの学習行動にそっくりです。
 というか、ホモサピエンスの本質そのものです。
 逆に言うと、幼児を操るのは簡単で親が手本を示すだけでいい。

 私は、脳科学者の本に「子供は親の真似をする」と書いてあったので、半信半疑で、ある脳科学者の実験の真似をしてみました。息子が二歳の時に、毎日一緒に風呂に入って、そのたびに風呂場に貼った「あいうえお表」を読んでみたら、息子も真似をして二週間で平仮名をマスターしてしまった。

 二歳の息子は勝手に個体学習してしまった。逆に、その息子に漢字の勉強という社会学習。つまり勉強を強要してみたら拒否されてしまった。そして一年間、漢字を覚えようとしなかった。幼児は、徹底したホモサピエンスタイプなんだなと思ってしまいました。

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 話は変わりますが、
 うちの息子は、字だけは二歳になる前に読めるようになっています。
 勝手に個体学習をして読むようになっています。
 けれど、字を書くことは、なかなかしなかった。

 当たり前のことなんですが、字が書けなくて当然です。
 親の私が字を書いてないからです。
 パソコンばかり使っている。
 だから息子は、個体学習のしようがない。
 そして「字を書け」と命令すれば社会学習になるので、
 どうしても反発してしまう。
 これじゃ一生かかっても字が書けない可能性が高い。

 そこで私は、100円ショップなどで迷路の本やパズルを買ってきて、息子と一緒に寝る前に、迷路やパズルをやるようにしました。迷路やパズルで、字を書く握力をつけるためです。息子は、人より成長が遅く、子供園では「落ちこぼれ」だったために、子供園の先生の紹介で専門の先生に指導を受けていたんですが、その先生が
「指の力がつくまで、文字を書かせないように」
「文字よりも前に、指を鍛えなさい」
と言っていたので、そのために迷路なんかを買いました。

 もちろん最初は私が迷路で遊びます。鉛筆で迷路に線を書きながらスタートからゴールをめざします。それを見た息子は、すぐに真似をしはじめます。私から迷路を取り上げて熱中する。それを私は側で見てると、息子はますます熱中する。そうやって、指を鍛えたからこそ、私の母親が30分教えるだけで、自分の名前を書けるようになったと思うのですが・・・・。

 しかし、ここが面白いところですが、そばで見てないと息子は数分で迷路ゲームをやめてしまう。私が料理の準備をしだすと、そっちに興味がいってしまう。逆に側で見ていると何十分も迷路ゲームをして厭きる様子もない。でも、こっちが厭きてくるから私が本を読み始めると、息子も真似して絵本を読み始める。親の真似をする。親の後を追い、親の真似をしながら勝手に個体学習をはじめる。

 しかし私が「そっちじゃなくて、この絵本を読んだら?」と提案すると拒否する。私の提案は社会学習そのものなので、息子の奴は、社会学習を拒否する。けれど個体学習は進んでやる。親の後を追い続け、親のやることを模倣して、親の行動を真似する。やってることはホモサピエンスそのものであり、狩猟採集民の個体学習と同じです。

 逆にいうと、幼稚園・保育園に行きたがらない幼児は、本能的に社会学習を拒否しているのかもしれない。母親の側で、個体学習をしたがるホモサピエンスの本能みたいなものかもしれない。そうなると、

 幼児という存在は、ホモサピエンスそのもの。
 逆に大人は、ネアンデルタールの世界にいる。


 そう考えると、ちょっと笑えてきます。ネアンデルタールタイプの教師が、ホモサピエンスタイプの子供と、ぶつかったらどうなるか? 上司と部下の場合はどうなるのか? 監督と選手の場合はどうなのか? 医師と看護師は? 軍人の場合はどうなのか? 大企業の場合は? 自営業者は? それらを空想してみると、ニヤニヤがとまりません。

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 それはともかくとして、息子は、私の母親(息子にとってお祖母ちゃん)から、「たける」という文字の書き方を学びました。私の母親の教え方は、ネアンデルタールタイプなんですが、息子は、その社会学習を拒否しません。

 私の母親は、褒めまくって勉強させるタイプなので、社会学習をしているという感じを受けなかったのか? とにかく素直に学びました。私の母は、褒めて教えるタイプなので、息子本人にしてみたら、勉強をやらされている感じが無かったのかもしれません。なので息子の奴は、勝手に個体学習しているつもりだったのかもしれません。気がついたら三十分くらいで自分の名前が書けるようになっていたのです。

 と言うことは、ネアンデルタールタイプの教え方でも、やり方次第では、幼児もそれを受け入れるということかもしれません。だからこそ、子供園・幼稚園・保育所が大好きな子供がいたりするんでしょうね。

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 その後、私たちは、北軽井沢に帰るために佐渡汽船の『ときわ丸』に乗り込み新潟港に向かいました。そして乗船後、恒例のカモメさんたちへの餌やり体験をしました。写真をみてもわかるとおり、カモメさんたちは、餌をもとめて近くまでやってきます。

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 その後は、船内の探検です。ときわ丸は新造船で、レストラン・コンビニ・ゲームセンター・劇場・ペット室はもちろんのこと、授乳室からベビールームまであります。どれも昔の船に無かったものばかり。そのうえ全長125メートル・5380トンという大きさ。私が子供の頃に乗った佐渡汽船『おけさ丸』が、たったの919トンですから5倍以上の大きさ。

 そのうえコスプレまでできる。
 息子も、コスプレして遊んでいました。

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 ちなみに嫁さんは、船に弱くてダウン。息子は、好奇心の塊で、船内探検しまくっているうちに、船は新潟港に到着してしまいました。こうして三泊四日の佐渡島旅行は終了です。ちなみに、船の料金は片道2,250円。ただし、うちの場合は、軽自動車で島に上陸したので、カーフェリー自動車航送運賃の正規の値段が二万円くらい。そこからインターネットで割引してもらっています。軽自動車なら自動車を航送した方が良いし、大きめの車なら佐渡でレンタカーを借りた方が安いですね。どっちにしても、佐渡観光する場合、自動車が無いと不便です。

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つづく。

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2018年03月26日

息子を連れて佐渡島へ 17 佐渡島から北軽井沢へ

 三泊四日の佐渡旅行。4歳の息子は、私のふるさとである佐渡がとっても気に入ったようです。そして最終日。80歳をこえた両親と、次男の弟・三男の弟と、その家族と食事会をしました。私には、2人の弟がいますが、次男の弟は、もうほとんど子育てが終わりつつあります。三男の弟には、2人の小学生がいます。

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 で、うちの息子が4歳なのに、まだ字が書けないことや箸をうまく持てないことを話題にすると、中学教師の次男坊が
「小学校の先生は字の書き方を教えてくれない」
「小学校の先生は、箸の持ち方まで教えられない」
と、さかんに言ってきました。暗に、早めに親が教えた方が良いと言わんばかりです。

 これは、努力して勉強するタイプである次男の弟らしい発言だなと思いました。ただ、自分が保育園時代に、ほとんど字を書くことをしてなかったことをスッカリ忘れています。それに苦笑していました。

 逆に高校教師をしている三男の弟は、こういう話題に無関心。努力して勉強するタイプでない天才肌の三男の弟は、こういう事には無関心です。

 ただ、この三男も、保育園時代に字を書く練習してません。それについては覚えてないでしょう。それでも弟たちは中学教師や高校教師になっているので、幼児が字を書けなくても何の問題もないことは、この弟たちを見れば一目瞭然です。しかし、弟たちは、そんな自分の過去を覚えてないらしい。

 じゃあ何故、私だけが覚えているかというと、私だけが親から徹底的に字を書く練習をさせられたので不公平感もあって覚えているのですね。正座させられ、べそをかきながら、何度も殴られながら嫌々書かされました。弟たちには、コレが無かったので、よく覚えてないのです。

 私の場合は、箸の持ち方も、少しでも間違っていると叩かれました。当然のことながら条件反射で、父親の腕が上がるたびにビクつくようになり、それが条件反射として癖になります。そして友人・先生・他の大人が、少しでも手を動かすと、条件反射でびくつくようになり、その癖(条件反射)が15歳くらいまで抜けませんでした。もちろん弟たちには、こういう経験は無い。無いから分からないでいる。

 で、どうなったかというと、小学校1年生の時に私は、先生に字がうまいと何度も褒められています。ただし、それは1学期だけで、2学期からは誰よりも下手になっています。緊張しながら字を書く癖がついたために、筆圧が強すぎて、誰よりも書くのが遅くなっていたために、一緒に遊ぼうとする友達に
「早く書けよ」
と急かされてしまい、結局、乱暴に書くようになり、誰よりも字が下手になってしまいました。ただし、字は下手でもトレースは上手になった。地図や絵を上手にトレース(複写)する能力だけはついた。しかし字は汚いのです。この体験から私は、保育園のうちは、息子は字が書けなくても良いと思っているのです。それより指の筋肉をつけた方が良いと。

 あと読めれば、字は書けなくてもいいと思ってる。
 箸も使えなくて良いと思ってました。
 江戸時代の教育方法が、その方式です。
 そして大きな成果を残しています。

 なので、息子は2歳で平仮名・片仮名・アルファベット・数字をマスターし、3歳で小学校2年生までの漢字を読めるようになっています。ただし、字は書けない。絵も書けない。小学校に入るまで書けなくてよいと思っている。その代わりに指を使う運動だけしている。指の筋肉を作るゲームを与えて遊ばせている。迷路やパズルで指を鍛えるだけ。それで良いと思っている。

 ただし絵が書けなかったのは、私に原因があります。40万もするソファーに油性マジックで落書きされた時に、きつく叱ったために、息子は、落書きをしなくなった。絵を描かなくなってしまった。これを矯正するのに2年もかかってしまった。やはり幼児を強く叱る時は、よほど注意深くやらないと、後で強い後遺症を残すので要注意です。叱っても良いけれど、強く叱ってはならない。これだけは失敗したと思っています。

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 翌日、佐渡から北軽井沢に帰る直前に、元小学校教師だった私の母が、心配して、30分ほど息子に対して文字を書く練習をさせていました。そして「たける」の名前の書き方だけ教わりました。私の母親は、心配性なので、孫たち(と言っても弟の息子たち)に早くから文字を書く練習をさせていたらしく、そのための教材が実家に残っていました。

 私は、それをお土産に持って帰りました。字を書かせるのは小学校に入ってからでいいと思っていたのですが、心配性の私の母親の好意を断るのもなんだなあと思ったので、持って帰ったんですね。さらに北軽井沢にかえった後に、再び佐渡の実家から、教材が送られてきました。これにも「心配性だなあ」と苦笑です。あまり心配させるのも何なので、予定より早いけれど、その教材を使わせてもらいました。

 話は変わりますが、今日(2018年3月26日)は、息子の5歳の誕生日です。佐渡島から北軽井沢に帰ってから、ちょうど四ヶ月になりますが、息子は、文字が書けるようになっています。大した練習もせずに、たったの二ヶ月くらいで書けるようになりました。

 全く書けなかったのに二ヶ月くらいで文字が書けるようになった原因は、ゲームにあります。
 1年前から息子に迷路ゲームをやらせていたのです。

 うちの息子は迷路が大好きなので、いろんなカラフルな迷路を百円ショップやヤフオクで買ってきて、入口と出口まで、正しい持ち方で鉛筆で線を引かせました。それを佐渡島に遊びに行く1年前から、さんざん遊ばせていました。その結果、指先の力がついていき、文字を書くのが苦にならなくなっていました。そのかいあって、アッという間に文字が書けるようになっていたんですね。

 もちろん字は下手くそです。でも、それで良い。今は、書くのが楽しい・・・という感じで充分だと思っています。江戸時代の寺子屋や藩校では、十二歳までに小学・近視録をマスターさせたと言いますが、読むだけで書かせていたわけではないので、それと同じでいいと思っています。

 実は息子は、早生まれのうえに、人よりも成長が遅く、子供園では「落ちこぼれ」だったみたいなので、子供園の紹介で専門の先生に指導を受けていたんですが、その先生が
「文字を書かせるのは早い。早すぎると変な癖がつく。それよりも指を鍛えなさい」
と言っていたので、その先生の指導どうりにしていたんですが、それが良かったようです。

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 ただ、息子の奴は、相変わらず、成長が遅くて年少さん(三歳)ぽいところが抜けてないんですが、私としては、高齢で得た子供であるために、かえって、その方が得した気分になります。成長の遅い息子は、大人びたところがなく、赤ちゃんぽいところが残ってて、ラッキーな感じがします。

 あどけなさ、かわいらしさが、今でも残っていて、順調に成長しているお子さんの家庭よりも、余分に親として楽しめるからです。息子は、散歩や登山で、やたらと手をつなぎたがるし、やたと一緒に宿の仕事をしたがります。文字を書くのだって、親と一緒なら喜んでやります。赤ちゃんすぎて親と一緒イコール遊ぶなんですよ。

 それだけに、息子の奴は、煩悩のかたまりのままで、字を書くことを、これっぽっちも勉強と思ってないところが、少しばかり不安です。彼にとっては、迷路ゲームしている感覚で字を書いているわけで、遊びの一種なんですよね。勉強しているなんて、これっぽっちも思ってないので、嫌々ながらやるという体験がない。我慢して何かをやらされる経験が全く無い。だから、これからどうなるんだろう? 小学校に行くようになったらどうするんだろう? という不安もありますが、まあ、その時は、その時に考えれば良いか!


つづく。

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2018年03月25日

息子を連れて佐渡島へ 16 沢根団子・佐渡乳業・柿酒

 高千を出発後、沢根団子を買いに行きました。私は、子供の頃、沢根団子が大好きでした。沢根団子というのは、江戸時代の佐渡島の沢根という港町で、売られて大変好評になり、200年以上、佐渡島で人気が衰えなかった団子です。小さな団子を氷水の中に入れて食べるのが沢根団子。

http://shimaya-sawanedango.co.jp/

 2年前に佐渡のスーパーで買って食べた時は、私の知っている沢根団子ではなかったので、今回は、本家製造元に買い出しにきてみたら、しまやと池田屋の二店舗があって、どっちが本家か分からなくなってしまった。しまやは、元祖と書いてあるし、池田屋は本家と書いてある。いったい、どっちが本物なのか? 仕方が無いので、両方を買って食べたわけですが、両方とも冷凍物で、私の知ってる沢根団子ではありませんでした。

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 私が子供の頃に食べた沢根団子は、もっと小粒で薄皮でした。そして団子の中の餡子は、水ようかんみたいな感じでした。容器の底が薄い板状になっていて、それに団子が張り付いていて、上手にとらないと餡子が漏れてしまうしろものでした。団子の大きさも小さくて、今の沢根団子の半分も無かったと思います。それを楊枝でつついて食べるんですが、どうしても団子が薄板にひっついてとれなかった覚えがあります。それを何とか取り出して、氷水の中に浮かべて食べたものです。

 今の沢根団子は、大きくて皮が厚いですね。あと機械で作っているのか製品が均一です。容器もプラスチックになっているし。昔の木と紙の容器が懐かしいです。昔の小さな沢根団子は、もう食べられなくなったのですね。ああ・・・残念。

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 気をとりなおして、佐渡乳業のミルクスポットに行きました。実は、佐渡乳業に外海府ユースホステルの息子さんが働いているらしいです。もし佐渡乳業に矢部さんという人がいたら、おそらく外海府ユースホステルの息子さんです。

 この佐渡乳業は、私の実家から徒歩3分の所にあります。なので私の子供の頃の遊び場だったんですが、その頃は小さな会社でした。それが今や大きな会社に成長し、ここの製品である佐渡バターは、軽井沢の高級レストランで使われるほどの高級ブランドになっています。佐渡バターといえば、その世界では有名です。もちろん私も仕入れました。

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 あと『柿愛好(かきあいす)』も珍品です。『柿酒』も『柿ワイン』も美味しい。もちろんリキュールでは無く、どちらも柿を使った醸造酒です。特に柿酒は、佐渡特産の「おけさ柿」を熟成醸造した日本で初めての柿酒で、飲みやすいお酒です。

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 佐渡金井のAコープ・海府屋さんのコメコ焼(米粉を使ったお好み焼き)・米粉クレープも忘れてはならないし、佐渡金井のAコープの海鮮おつまみセットもリーズナブルでいい。こいつを買って、佐渡の地酒をひっかけたら最高ですよ。

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 佐渡猿八のポッポのパンも美味しいですね。
 もちろん中堀のタレカツ丼も忘れてはなりません。

中堀のタレカツ丼
https://tabelog.com/niigata/A1501/A150103/15001094/

佐渡猿八のポッポのパン
https://sado-biyori.com/spot/detail/sb0037/

 他にも紹介したいものがたくさんありますが、きりがないのでやめときます。



つづく。

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2018年03月22日

息子を連れて佐渡島へ 15 高千・不時着した英国大使館の飛行機

 外海府(岩谷口)から内海府(虫崎)とまわり、そして相川に引き返した私たちは、高千というところで御飯を食べることにしました。ドンテン山が荒廃している謎を解明したいのと、終戦直後に英国大使館の飛行機不時着して、その飛行機を高千村民が、人力で滑走路を作って帰してあげた場所を確認したかったからです。

 まず、高千村ですが、岩谷口の外海府ユースホステルと、尖閣湾の佐渡ベルメールユースホステルの中間地点にあります。ここは外海府でも人口の多いところで、すこしばかり開けています。あと大昔から牛を放し飼いし、それをドンテン山に放牧することで有名なところです。もちろん牛市場があります。下の写真がそうです。

 このあたりでは、その昔、どの家でも二・三頭の牛を飼っていました。外海府では、相川の貧しい家から労働力としての養子をもらって働かせたりしましたが、そういう子供たちにも子牛を与えました。牛は、冬の間は牛舎で飼いますが、春になると放し飼いにします。そうして大きくなると、それを市場で売り小銭を得ます。養子たちの牛が売れれば、その金は養子たちのものになりますから、養子たちは、決して奴隷のような待遇では無く、そこそこの現金を牛で稼いでおり、小遣が無くても少しも困らなかったといいます。これは、次男坊以下の厄介者でも、牛で小遣い稼ぎをしていたそうです。それが可能だった理由は、千年にわたってドンテン山などに放牧する文化があったからです。

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高千の牛市場
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 外海府の牛は、農耕に使われることもなく、牛乳を搾り取られることもなく、ただひたすらに放し飼いさせて大きくし、それを売り飛ばして儲けるだけの存在でした。その存在のために、ドンテン山の美しいシバ地が千年にわたって守られてきたのですが、それが今や崩壊しつつあります。

詳しくは下記サイトを参照
http://kaze3.seesaa.net/article/456611560.html

 いったい、どうしてなのか?
 どうして放牧をやめてしまったのか?

 高千村に知り合いの無い私は、どうやってヒアリングしようかと困っていたら、ちょうどJA佐渡農業協同組合高千出張所が、何かのイベントで豚汁の振る舞いをしていたので、地元民にまざって豚汁を頂くことにしました。そこで七十歳すぎの老婆と知り合い話を聞くと、牛を飼っているといいます。やはり放牧はしてないようです。

「どうして牛の放牧をやめたんですか?」
「ある場所が危険で、そこで牛が怪我したり死んでしまうんだよ」
「危険?」
「そこを行政がなんとかすれば、放牧してもいいんだけれど」

 こんな単純な理由で千年続いた放牧が無くなってしまったとは、本当なら馬鹿馬鹿しいにもほどがあります。行政が予算をつければいいことだからです。早くしないと、ドンテン山のシバ地は壊滅しますよ。はやいところ何とかしてください。もう時間がありませんから。もし、予算がつかないなら、行政の方で牛を飼って放牧したらどうですか? 売れれば利益が出るわけですから。

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 食後、高千村の海岸を散策しました。
 このあたりに英国空軍のダグラスDC−3が不時着したと思われます。
 なるほど、広く長い海岸沿いなので、DC−3なら不時着できそうな感じです。

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 終戦から五か月後の1946年1月14日。
 佐渡島の外海府・高千村の海岸に飛行機が不時着しました。

 不時着した英軍輸送機は、要人専用機で、
 上海の英国総領事が東京での連合国会議に出席するために乗っていました。

 全長二十メートル、
 両翼三十メートル、
 重さ六トンもあります。

 これが、よりによって冬の日本海。それも佐渡島の奥地である外海府に不時着します。僻地も僻地の外海府。荒波激しい冬の日本海にです。佐渡島でも人を寄せ付けない僻地にです。下の写真のような隧道を通らないと、たどり着けないような僻地にです。

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 しかも、その飛行機は上海総領事とその秘書を乗せて東京に向かう途中でした。

 緊急着陸したイギリス空軍のDC−3ですが、村人たちは、彼らが無事に帰れるように離陸に必要な滑走路建設をし、海岸を地ならしして石を敷き詰めました。真冬の外海府の海岸でです。真冬の日本海。しかも佐渡島・外海府の気候を知ってるものなら「正気か?」てなもんです。その季節に人力で滑走路を作ったのです。ありえない。絶対にありえない。

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 この実話は、映画化されていますが、残念ながら出来はいまいちです。というか佐渡島民を馬鹿にしてないか?という内容に私は思えました。下手なフィクションを入れず、ドキュメンタリーにした方が、よほど感動できるのになあというのが、私の個人的な感想です。

 嘘っぽいドラマなんか必要なかったのに。
 勧善懲悪の筋書きなんかいらないのに。
 予定調和の感動なんかいらないのに。
 真冬の外海府の海岸の作業だけでドラマになるのに。

 イギリス人は、高千村のが用意した旅館に土足であがってくつろぎ、それを黙々と這いつくばって床掃除する女子供の姿をどうして映画で見せなかったんだろう? どうして事実を淡々と見せずに、安っぽいドラマにしたんだろう?

 真冬の日本海ですよ? 分かりますよね、真冬の日本海の荒波がどういうものなのか? 真冬の日本海の海岸に、しかも佐渡島の外海府、つまり佐渡島でもかなり僻地である海岸で、老人たちが人力で滑走路を作っただけでは駄目だったんですかね? 

 そもそも1946年1月14日といえば、日本兵は帰還してません。
 島には老人と女子供しかいない。
 なのに真冬の日本海に、若者がいない中で
 たったの四十日で、6トンもある飛行機を飛ばす滑走路を
 老人・女性・子供たちが手作業で作ってしまった。
 英国空軍のダグラスDC-3を無事、帰してあげた。

 米軍基地から派遣されていたアメリカ人整備員たちが驚いたのなんの。整備員は、佐渡島民の親切にカルチャーショックを受けて、アメリカに帰国したあとも息子さんに何度も「佐渡で世話になった。ぜひ一度佐渡に行きたい」と言いながら亡くなったんです。

 しかし、アメリカ人整備員の息子さんが佐渡島にやってきて、この美談の礼を言ったんですね。これがきっかけで、この事件が明るみにでて、映画化されるわけですが、なんと佐渡島民は、米人整備員の息子さんが、やってくるまで、この事件を大っぴらにしてなかった。

 誰にもいわなかった。

 だから米人整備員の息子さんが、佐渡島に来なければ、
 詳しく歴史に残らなかったんです。
 結局、バレてしまって、映画化の話になり、
 嫌がる当事者にお願いして資料を集めて、
 かろうじて歴史に残ったんです。
 凄い話です。

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映画『飛べ!ダコタ』



つづく。

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2018年03月21日

息子を連れて佐渡島へ 14 登山家中村謙の虫崎から岩谷口までのコース

息子を連れて佐渡島へ 14 登山家中村謙の虫崎から岩谷口までのコース

 いまじゃ百名山の深田久弥・花の百名山の田中澄江を知らぬ登山家はいませんなが、昭和40年頃は、圧倒的に中村謙(加茂鹿之助)でした。彼こそは、全国津々浦々まで登山道を調査発表した開拓者です。登山ルートをひたすら調べまくって『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』『ハイカー』『山と高原』『榾木』『日本山岳会会報』などの登山冊子に昭和十年頃から発表しまくった人で、いわゆる日本の大衆登山を牽引し続けた人です。

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 中村謙氏

 彼は昭和九年に出した『東京付近の山』をはじめとして、毎年何冊も登山ガイドを出し続けます。途中、病気で右手が使えなくなるという事態になりますが、左手で渾身の力を振り絞って書いています。最終作ともいえる昭和四十四年の『ふるさとの山』四百二十二ページを出したときは、七十二歳でした。これ以降の著作がないのは、足を痛めて外出ができなくなったためです。また、ヤマケイの『登山地図帳』・昭文社の『エリアマップ』『山と高原地図シリーズ』などの登山マップなどの制作にもかかわっています。こちらも昭和四十四年まで作り続けています。

 さて、中村謙渾身の大作である『山小屋の旅(昭和四十一年)・ベスト200コース』には、佐渡島が5コースも大きく取り上げられています。

@金北山から金剛山
A虫崎から外海府
B沢崎めぐり
C岩首から水津
D妙宣寺から真野宮

このうち登山道は@だけで、ABCDは、海岸歩きです。今でこそ道路がありますが、昭和四十一年頃は、道路が無く、岩から岩を飛び乗るように海岸を歩くしかなかったと言います。そういう場所の地元民の交通手段は、船でした。もちろん海が荒れれば、船は使えませんから山道を使います。なので昔の佐渡は、山道(登山道)がよく整備されてて、それが佐渡の里山の特徴であったわけです。

 さらにいうと、A虫崎から外海府が、ものすごい人気のコースでした。で、このコース沿いに昭和40年10月に一軒のユースホステルがオープンしました。外海府ユースホステルです。もちろん若者たちが押し寄せました。その中の旅人に新潟市からやってきた一人の美しい女性がいました。それが今の外海府ユースホステルのマネージャーです。

 昭和40年頃までは、内海府・虫崎から、外海府・岩谷口のコースは、ろくに道路がなく、海岸を岩づたいに歩いたり、急な岸壁をよじ登ったりの、一泊二日のコースでした。佐渡一週道路が完成している現在なら車で2時間もあれば、回れるコースですが、当時は、北アルプスに登るような猛者たちが、
「大野亀の花畑を見たい」
「外海府の岸壁を見たい」
という一心で、このコースにチャレンジしていました。

 内海府の虫崎が、出発点だったのは、ここまでは路線バスがあったからです。その虫崎とは、どんな所かというと、こんな所です。
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https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用

この写真は、いつのものかわかりませんが、私が保育所か何かの遠足で、この村を通った記憶があります。バスが、崖ギリギリの砂利道を走っていました。この写真は、その道路さえも写っていませんから、かなり前のものでしょうけれど、少なくとも昭和40年頃までは、こんな感じだったと思います。虫崎のある内海府地方は、波が静かなために家の下に船小屋があるつくりになっていたんです。そして村人は漁業で生計をたてていました。その当時は、子供たちも多くて村にも活気がありました。

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https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用

 虫崎の隣村で、宮本常一は、こんな話を聞いています。

「北小浦の宿で大敷の話を聞いた。昭和33年には水あげが1億円もあったそうである。そこで利益の2割を組合員で分けたのだが、一人当たり25万円もあった。また金が使い切れないので関西旅行した。一晩に1万円も取られる宿に泊まったそうだと、大変景気の良い話である(私の日本地図・宮本常一より)」

 ちなみに昭和33年の大卒初任給は、1万3500円です。その時代に海府のある漁村では、一晩に1万円も取られる宿に泊まって豪遊したわけですから、どれだけ儲かったのか? 限界集落化しつつある今の海府地方を考えると、想像もできません。

 もちろん現在は、虫崎といえども限界集落になってしまっています。
 今では、住民が、たったの17人。
 そのうち14人が老人です。
 限界集落もいいところです。
 しかも観光地でさえ無く、ガイドブックにも載ってない集落です。

 そこに大学生の力を活かした集落活性化事業をはじめたのが、新潟大学の長尾ゼミの若者たちでした。彼らは、たったの17人の住民。そのうち14人が老人という限界集落に100人を集めた盆踊りを企画しました。

http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/126/692/0922_4_mushizaki_sinndaikeizai,0.pdf

 もちろん金は無い。そこで最低限の資金を、クラウドファンディングという形で56万円の資金を集めました。それが

https://camp-fire.jp/updates/view/30998

のサイトになります。

クラウドファンディングは感動の連続だったようで、内海府小学校虫崎分校に勤めていた人もいたりで、そういう人たちが何十年ぶりに虫崎に訪れるなど、知人・縁者を虫崎につなぐことになりました。クラウドファンディングは、最終的に達成率112%という成功を収め、結果として虫崎を大きく宣伝することになりました。

 2017年(つまり昨年)の8月13日、盆踊り本番では、果たして来場者数は100名に達するのだろうかと心配しましたが、163名を集めて大盛況。受付にカウントしない幼児も含めると200名以上のが集ったといいます。

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https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用

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https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用

 この成功の中には、全国の限界集落を活性化させるヒントがある気がします。17人の住民中、14人が老人という小さな集落も、やり方によっては何とかなるかもしれない。外海府ユースホステルのある岩谷口も、似たような限界集落なのですが、そこだって、やりようによれば、何とかなるかもしれない。虫崎の事例のように、私たちは、もっと若者のパワーを信じてよいのではないかと感じました。

 これは、滅びつつあるユースホステル業界にも言えるし、
 過疎地になりつつある北軽井沢や嬬恋村にもいえることです。

 とにかく、虫崎の皆さん、新潟大学のみなさん、地域支援戦隊の皆さん、虫崎を愛する佐渡の皆さん、お疲れ様でした。今後の虫崎に期待しています。虫崎を紹介した昭和の登山家・中村謙氏が生きていたら、この虫崎の変わりようをどう思うでしょうか? 宮本常一なら、どう感じたでしょうか?


つづく。

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2018年03月20日

息子を連れて佐渡島へ 13 願・犀の川原・北軽井沢と佐渡島の共通点

 外海府ユースホステルのある岩谷口を出発した私たちは、真更川・北鵜島・願と向かいました。佐渡島の最北端にある『願(ねがい)』という名前の村へです。まず海府大橋を通ります。この大橋の下に、公式には佐渡最大の大滝(50メートルちかい)、大ザレの滝がありますが、それを観光客がみることはできません。この橋を降りることができないからです。

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 しかし、私は何回も降りています。降り方は、今は亡き外海府ユースホステルの矢部のおじいちゃんに聞きました。あえて、ここには公表しません。降りると、巨大な大滝があるのに加えて、おくに巨大洞窟がありますが、それも佐渡島のどの資料にも載っていません。

 次に向かったのが大野亀。

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 この大野亀。昔は登れたんですが、いまは禁止されています。頂上には、昔の灯台らしきものがあります。このへんは佐渡でも最も美しい場所で、北海道の礼文島に似ています。春にはカンゾウが咲き乱れ、人々でごったがえします。佐渡一週道路ができる前までは、秘境として、全国の登山家が訪れたルートでもあります。登山家・中村謙の登山ガイド『山小屋の旅』にも詳しく紹介されており、そのコースの魅力を絶賛しています。願村は、ここからすぐそばです。

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 これが願村です。
 松浦武四郎によれば、ここにも砲台があったようです。

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 願と書いて『ねがい』と読みます。全国から、いろんなねがいをもった人々が、この村の石動神社に訪れて願い事をしました。

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 この村に何を願う人々が多かったのでしょうか?
 その願をこれから訪ねてみます。

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 下の写真は、賽の河原です。
 ここに人々の願いがあります。

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 松浦武四郎の佐渡日誌によれば、「岩が多く並んでいる浜に、小石がたくさん積まれている。土地の人によれば、夕方にそれを崩しておいても次の朝に必ず元通りになっている。そばに洞窟があり、地蔵が安置されている」とあります。写真のとおり、無数の地蔵が安置されています。

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 内田康夫の浅見光彦を主人公とした推理小説の最高傑作『佐渡伝説殺人事件』は、ここを舞台としていますが、内田康夫は軽井沢の住人なんです。実は、この願村は、軽井沢&北軽井沢と佐渡島をつなげる重要な場所でもあります。

 一つは内田康夫の浅見光彦シリーズ。
 もう一つは、満州引き揚げ者の開拓地としての共通点です。

 軽井沢も北軽井沢も嬬恋村も、満州から多くの引き揚げ者を受け入れていますが、佐渡島の願村も同じでした。願村には、山の方に二重平という大地があるのですが、そこに満州からの引き揚げ者の入植者が、かなりの数入りました。入植者たちは非常に苦労して開墾を行ないましたが、このあたりは佐渡島でも指折りの自然が厳しいところだったので、餓えと寒さと山ヒルなどの天敵に苦しみました。もちろん子供たちも大勢居て餓えながら開墾を手伝いました。

 あまりに酷い状況に願村の人たちは同情して魚などを分け与え、外海府村も掘っ立て小屋を建てて、海府小学校・中学校の分校を作りました。しかし開墾生活で食べてはいけず、次々と出稼ぎにでるようになり、高度経済成長時代となると、食料があまりはじめ、国は離農する人に、離農資金を出すようになり、次々と離農者がでて、最終的には一軒の家も無くなってしまいました。

 私は、25年前に、大佐渡山脈縦走のついでに、この二重平の跡地を探検したことがあったのですが、かっての開拓地は森の中に沈んでしまい、道路も無くなっており、人の気配さえありませんでした。北軽井沢・軽井沢の入植地とは大違いです。ただし、二重平の開拓者たちは、その後、東京などに上京し、それぞれ立派に成功したと聞いています。

 犀の川原からさらに進むと、二つ亀です。
 このあたりは、縄文遺跡がたくさん出土しています。
 二重平にもです。
 二重平の開拓で、縄文土器が出土したのです。

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 二つ亀は、干潮ならわたれるのですが、満潮のためにわたれませんでした。どのガイドブックにも、郷土資料にも、インターネットにも載っていませんか、二つ亀の反対側には、非常に面白いものがあるのに、それを画面で紹介できないのが残念です。現在の佐渡島の情報は、観光ガイドにしても、インターネットにしても、非常に浅いものばかりです。北軽井沢に住んでる私にしてみれば、
「何をやってるんだ?」
という感じで歯がゆいばかりですが、外海府ユースホステルの矢部のおじいちゃんのように、わざと情報を隠しているケースもあるので、やはり訳があるんでしょうね。ディープな情報を知りたい人は、島民に信頼されないと、教えてくれないかもしれません。しかし、情報を隠し持つあまり、その人が他界してしまったら、どうするんだろう?と私などは、思ってしまいますが、そのへんは大丈夫なんでしょうか?


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つづく。

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2018年03月19日

息子を連れて佐渡島へ 12 岩谷山洞・海鳴山・竜眼の池の伝説

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 翌朝も、外海府ユースホステルのマネージャーさんのお話を伺いました。ユースホステルの会員減についてや、ユースホステルの未来についてや、御客様の変化などです。やはり会員さんは減っていて、大半が一般客だそうです。といっても御客様が減ってるわけではなく、一般の御客様が増えただけのようです。源兵衛さんが店じまいしてからは、そちらのリピーターさんも外海府ユースホステルに合流したようです。やはりリピーターさんが多く、佐渡の外海府にしかこないという御客様が多いようです。

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 まあ、そうでしょう。立地と言い、施設レベル・食事レベルと言い、秘境さといい、ハマる人には、ハマります。鮭みたいなイワナが釣れるところなんて、この岩谷口ぐらいでしょうし、光明寺・山居池までの旧参拝道や、笠取峠の旧道歩きも魅力だし、観光ガイドに載ってない(つまりネットや本や郷土資料にも掲載されてない)滝や洞窟や石仏がワンサカありますからね。佐渡島民も知らない、佐渡博士も知らないところがワンサカある。それを源兵衛の御主人や、今は亡き外海府ユースホステルのお爺ちゃんに私は教わったわけですが、それだって私が全部知ってるわけではない。私の知ってるところなんて、1000分の1くらいでしょうけれど、それでも、その1000分の1だって、ネットにも、本にも、郷土資料にもないんですから。

 ただ残念なことは、それを知ってる生き証人たちが、次々と他界している現実です。これだけは残念でならない。今回は、四歳の幼児連れなので仕方ないけれど、息子が大きくなったら近いうちにもう一度、外海府ユースホステルに来たいと思いました。

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 その後、外海府ユースホステルのマネージャーに御挨拶して、岩谷山洞・岩谷観音・岩谷山洞窟に向かいました。といっても外海府ユースホステルのすぐそばで、ユースホステルから百メートルのところです。なにしろ掃除などかかさずに管理しているのが、外海府ユースホステルのマネージャーさんですから。もちろんマネージャーさんの御先祖様のお墓もそこにあります。墓も大小ありますが、昔の大きい立派な墓は、その頃、相川金山に物資を運んで大儲けした御先祖様だとか。

 民俗学者の宮本常一によると、佐渡・外海府の墓の特徴として火葬にしていることらしい。墓も海に突き出た岬に集中して固まっているだそうです。岩谷口も例外でなく、岩谷観音付近に墓が集中しています。昭和34年に宮本常一が岩谷口に訪れたとき、岩谷山洞には古くからの焼き場があったらしく「ここで多くの人が焼かれたことであろう」と言っています。

 一般的に言って土葬の地方は墓が集中することはありません。死体が腐って墓石が倒れてくるからです。しかし外海府地方は、薪炭に困らない地域なので墓を集中させるためにも火葬の方が都合がかったのでしょう。

 ちなみに岩谷山洞窟の天井には「南無阿弥陀仏」が書かれており、弘法大師が筆を投げ上げてスラスラ書いたと言う伝説があります。しかし、さすがにこれは眉唾で、佐渡島の歴史に詳しい田中圭一氏によれば

「その文字と、文字の下に彫られた花押はいずれも弾誓上人の筆跡である。しかし、弾誓上人は石を刻むことはしなかったらしいから、・・・これは、天保期、この地にとどまって多くの石造品を残した木食浄厳の製作にかかるものであろう」

と述べています。

 ちなみに弾誓上人とは、密教や修験道を極めた人で、山中の洞窟に籠って持戒・念仏・木食の修行をされた人です。彼は、いわゆる肉類や、人間が栽培した米野菜も食べない人で、木の実や草だけで修行した僧です。木の実や草しかたべないことを木食(もくじき)と言いましたから、木食弾誓上人とも言います。こうした苦行をすることで神仏の力を持つと言われ、佐渡には修験者が多くいたようです。

 また洞窟の奥には、竜眼の池があり、

「昔、母竜が、我が子の眼球をこの池で洗っていた。ある日、人の気配を察して逃げる際に、誤って眼球を池の中に落としてしまった。この眼球を拾った老人がこれを岩谷薬師に差し出すと、薬師は大変に哀れんで、眼球をきれいに洗った後に、池に戻してやった。だが、母竜が再び人間界に姿を現すことはなく、置き去られた眼球は、今でも夜中になると母竜を探して青白い光を発しながら池の中を泳ぐ」

という伝説を伝えています。また岩谷口観音の後ろにも洞窟があり、南佐渡・小木の岩屋山洞窟にまで繋がっているという伝説もあります。

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 松浦武四郎の佐渡日誌には、

「高さ100メートルほどある崖の下に洞窟がある。そこから200メートルほど離れた海岸から叫んでみると、その洞窟が何か答えてくれるような気がする。私も初めは気がつかず、海の波音が洞窟にこだましているのかと思ったが、 12回声を出して叫んでみると、そのこだまが帰ってきた。そこで家に腰をかけて色々叫んでみたら、伊勢の国度会郡度会村一ノ瀬にある鸚鵡岩よりもいっそうよくだまして聞こえた。すぐそばに岩谷明神神社があって、松が二から三株。いずれの上を纏ってあるのだろうか、村人もこの洞窟を崇拝しているらしく、しめ縄を張ってある」

とあります。これは、いわゆる『海鳴山』なのでしょう。詳しくは下記サイトを御覧ください。

(海鳴岩を解説したサイト)
http://henro.gozaru.jp/travel/sado/06-densetu/06-densetu.html
http://www.sado-kouryu.jp/sadonpo/area/iwayaguchi2016/

参考
https://blog.goo.ne.jp/i-epman/e/a8da8fe101ae506a4fa99c3409f20208
(度会郡度会町南中村の「鸚鵡石」)

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 この岩谷観音からしばらく歩くと滝があります。

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 この滝の横から笠取峠にいたる旧道があります。とんでもない難所で、写真の滝の近くにある登山道を上って山を越え、暗い松林を抜けて大ザレ川が流れる谷におります。そこからまた急な登りで笠取峠に到着。そして、そこを下ると真更川に到着します。半日のコースです。昔は、隣の部落に行くのに半日もかかっていました。いまは、海府大橋と佐渡一週道路ができたおかげで、30分もかかりません。

 しかし、昭和44年までは、陸路だと隣の村まで半日もかかるために、船で行き来していました。昭和45年の観光マップにもその航路が掲載されていますし、小学生だった私も見て知っていました。このへんが分からないと、外海府・内海府がどんなに不便なところだったか、若い佐渡島民にも分からないでしょう。宮本常一も松浦武四郎も、この不便な道を通って岩谷口から真更川まで歩いています。

 その真更川ですが、松浦武四郎の佐渡日誌には、

「海岸より300メートルほど沖に離岩という岩礁がある(略)。皆岩石ばかりで岸深く蚫(アワビ)が多い。弁天社あり、鳥居を建てたり(略)。またこれに並んで、前に鴨島という島がある(略)。諸国の廻船、大島と村の間に風町をするという。台場あり 50匁(五円玉50枚分の重さの砲弾の)大砲一門 3匁5分小筒2丁あり」

とありますから、この北の辺鄙なところに諸国の廻船が通過・または風待ちで避難していたことがわかります。廻船といえば、小木をイメージしている佐渡島民が多いですが、そのイメージは、そろそろ捨てた方が良いかもしれません。

 また、注目すべきは、ここにも台場(砲台)があったことです。この他にも松浦武四郎の佐渡日誌では、あちこちに砲台があったことを記録してますが、松浦武四郎がこれを記録したのは、ペリーが来航する五年前ですから、幕府は早くから、海防に対して対策をとっていたことがわかります。

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つづく。

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2018年03月16日

息子を連れて佐渡島へ 11 外海府ユースホステルのマネージャーさんたち

息子を連れて佐渡島へ 11 外海府ユースホステルのマネージャーさん

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 いまから25年くらい前、私は五年間にわたって佐渡島の自然調査をしたことがあります。その時に、地元の旧家の方たちから、いろいろ情報をいただいたりしたのですが、外海府・岩谷口の旧家の方々にも、たいへんお世話になりました。一つは、源兵衛(屋号の名前です)さん。もう一つ源四郎(これも屋号の名前です)さんです。

 そして源兵衛さんは、民宿「源兵衛」を営業していて、源四郎さんは、外海府ユースホステルです。この二つの旧家に大量の古文書が残されていることから、民俗学者の宮本常一氏も両家に訪れているようです。

 実は、この岩谷口。土船衆と岩屋衆に分かれています。北半分が、岩屋衆で、外海府ユースホステルの矢部源四郎が草分け衆の一人です。古くから農地を開墾し、多くの山林を所有して、薪炭を相川金山に送って大もうけした人たちです。

 南半分が、船登源兵衛を中心とする土船衆です。民宿「源兵衛」の御先祖様である船登源兵衛が、土船衆の草分け衆です。土船衆は、日本海から瀬戸内海にかけて回船問屋として大活躍したと言われています。

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 二十五年前のことになりますが、私は、この民宿「源兵衛」さんのところにお邪魔して、岩谷口の文化・歴史・そして民俗について詳しく教えていただきました。そして、廃道となっていた岩谷口から光明仏寺までの参拝ルートの発掘調査などを行なったりしました。

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 また、外海府ユースホステルに行って、源四郎当主の矢部さんから、岩谷口や外海府の地理を教えてもらい、巨大な七段の滝・大ザレの滝・各種の洞窟・各旧道・壇徳山・大佐渡山脈の縦走路などを調査しました。当主の矢部さんは、御高齢であったにもかかわらず、国勢調査などで山道をガンガン歩いておられ、佐渡の山を隅々まで知っておられました。

 また、聞くところによれば、息子さんは、新潟大学の農学部をご卒業され、その縁で、大佐渡山脈にある新潟大学の演習林の管理をまかされており、佐渡の山や自然林についてもかなり詳しいと聞きました。ようするに外海府ユースホステルの矢部さん親子は、佐渡における山のスペシャリストだったんですね。
「大佐渡山脈のことなら外海府ユースホステルの矢部さん親子に聞け」
という感じで、民宿「源兵衛」さんと、外海府ユースホステルの矢部さん親子は、佐渡岩谷口の人間国宝なのです。「彼らからヒアリングしないで、誰から聞くんだ?」てなもんです。

 で、外海府ユースホステルに泊まってみたら、矢部のお爺ちゃんは亡くなっており、その息子さんも三年前に亡くなって、今は奥さんのみだという。奥さんといっても、七十歳をとおにこえているんですけれどね。

 生前の矢部のおじいちゃんは、本当にいい人で、いろいろ親切に教えてくれたうえに、泊まり客でもないのに、私が率いた調査登山隊二十名近くに越乃寒梅をさんざん振舞った上に、土産に越乃寒梅の一升瓶まで持たせてくれたひとです。その息子さんも(と言っても、私より二十歳も年上だが)、本当にいい人で、若者に親切でした。

 宿には、全国からやってきたユースホステルの会員が、楽しそうにマネージャーさんたちを囲んで集まっており、こんな辺鄙なところに外国人も少なからずいました。そして賑やかで温かいユースホステルに見えました。二十五年前の当時は、日本で最もアットホームなユースホステルだったと思います。

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 しかし、時間の流れは残酷でした。
 おじいちゃんも、御主人も亡くなってしまっていたとは。
 ああ、困った。
 外海府の生き字引が、もう居ないなんて。

「源兵衛さんは、どうしてるんですか?」
「もうお年なので、宿を辞めてしまいました」
「もう一人の生き字引、源兵衛さんも引退か」

 源兵衛さんところに泊まることもできないなんて。
 時間は待ってはくれない。

「御主人の死因は、なんだったんでしょうか? まだまだ若かったと思いますけれど」
「心労がたたったようです」

 奥さんが言いました。
 佐渡島の田舎のことです。
 いろいろな文化風習があります。 
 心の病むこともあるでしょう。

 しかし、よくもまあ宿をまわしているものです。御主人に先立たれ、外海府ユースホステルという大きな建物を、一人残された70歳すぎの奥さん一人でまわすことができるのか? 息子さんたちは、都会に就職してしまっています。

「よく一人で宿をまわせますね?」
「でも楽しいの」
「楽しい・・・って」
「最近、田んぼも始めたのよ」
「えええええええええええええええええええええええええええええええ?」

 外海府ユースホステルは、山も持っているし、山で椎茸もやっていたし、田畑ももっています。宿をやっている70すぎの奥さんのに、田んぼはきつい。田んぼといっても、棚田です。大きな田んぼではないから苦労はひとしおです。そもそも、ここの奥さんは佐渡出身ではありません。新潟県一の都会である新潟市からお嫁に来た元ホステラー(旅人)さんです。外海府ユースホステルが気に入って入り浸るうちに、旦那さんに見初められて嫁さんなった人です。農家のことなど分かるはずもありません。

 そもそも奥さんが外海府に嫁さんに来た頃は、佐渡の岩谷口は、秘境も秘境。知床や西表島と何ら変わることのなかった場所です。本州に比べれば、十年は遅れていた地域に嫁にやってきたわけですから、ずいぶん苦労しただろうし、宿の仕事で手一杯だったと思います。文明の地・新潟市からやってきたんですから。

「田んぼなんかはじめて、宿の方は大丈夫なんですか?」
「裏がすぐ棚田でしょ? もし田んぼをやめたらモグラに土手をやられて危ないのよ」
「なるほど、田んぼは水害などに対して安全保障も兼ねているんですね」
「そうです」
「じゃあ、このお米は、自家製ですか。どうりで美味しいと思った」

 実際、佐渡米の中でも海府地方の米は、美味しいので有名です。しかし、七十歳すぎて農業をはじめるとは、普通の感覚ではありません。

「でも、大変じゃないですか?」
「それが楽しいのよ」
「え?」
「この歳ではじめて言うのもなんだけれど、作る楽しみに味をしめちゃって・・・。お客さんも手伝ってくれるし」
「へえ」

 やはりそうでしたか。この宿も、よい御客様に恵まれている。きっとマネージャーの人格に感銘した御客様でいっぱいなんでしょう。でなければ、農業やりながら宿をまわせるわけがありません。ようするにユースホステルというより農家民宿なんでしょうね。とはいうものの、奥さんの料理は、かなりモダンです。佐渡地域観光交流ネットワークのホームページに、こんなメニューが載っていました。

http://www.sado-kouryu.jp/sadonpo/area/iwayaguchi2016/(佐渡地域観光交流ネットワーク)

「つけどめおにぎり・漬物」 300円
佐渡で昔から食べられていたサンマやイカの保存食。取り出す時は匂いが強烈で勇気が必要?!知る人ぞ知る人気メニュー。〈提供:外海府ユースホステル〉
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「夏野菜のごはんピザ」 700円
生地は、お米をおやき風に焼いたもの。具材は夏野菜、シソ、魚介類の入った南蛮味噌。〈提供:外海府ユースホステル〉
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 ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌によると、岩谷口について、こう記録しています。

「岩谷口村には25軒の民家があり、碇のかかりのよい浜である。そして村には観音堂・薬師堂があり、村を流れる川には土船大明神というものがあると。土地の人に聞いた話では、ここに住む団三郎狸が色々の悪さをして農民を苦しめた時に、ここにいたウサギが土の船を作ってその団三郎狸を乗せて大いにタヌキを苦しめたと言う話である。それからは狸も農民に悪事を働くことはなく、これよりこのウサギを土船大明神として崇拝し、秋と春に2回の祭りをしているそうである」

とあります。

 ようするに民話『カチカチ山』のことです。『カチカチ山』は、佐渡・岩谷口の民話なのです。岩谷口には、岩屋衆と土船衆がいると、前に書きましたが、この土船衆の守護神が、ウサギなんですよ。そして、それを祭ったのが土船神社。しかし、土船神社は、明治時代に他の神社と合併して、両宮神社となっていました。

両宮神社・Googleマップより借用
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 ここだけではありません。岩谷口以外にも、民話『カチカチ山』に関する地名があります。佐渡・佐和田にある土船林という山があったりします。

つづく。

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2018年03月15日

息子を連れて佐渡島へ 10 岩谷口・外海府ユースホステル

息子を連れて佐渡島へ 10 岩谷口・外海府ユースホステル

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 私たちは、佐渡島の北の果てにある岩谷口に向かいました。

 岩谷口はバスの終点です。そこから先も道があることはありますが、その道も昭和44年まで完成しませんでした。それまでは岩谷口から鷲崎まで一日二便の船が交通手段であり、そこから両津までも船が出ていました。つまり佐渡島で一番の僻地が岩谷口だったのです。

 しかし、この岩谷口には、江戸時代から200年以上もつづいた旅館がありました。これが後の外海府ユースホステルとなる外海府旅館です。こんな辺鄙なところに、200年も前から、何故?大きな旅館があったのか? という疑問が、佐渡島民なら思うことでしょう。しかし、あって当然なのです。

 今でこそ寂れている岩谷口も、江戸時代初期から中期にかけて大量の船が出入りする一大貿易拠点だったからです。取引先は、津軽・秋田・新潟・敦賀・下関・瀬戸内・大阪と広範囲に及び、岩谷口は大商業地帯になっていた時期があったのです。もちろん相川金山へ、資材・農産物・日用品などを送るためです。外海府ユースホステルの御先祖様も、大量の薪炭を相川金山に供給するために大もうけした口で、自宅を旅籠にして、おとずれる商人たちを宿泊させたりしています。それが外海府旅館です。

 登山家・中村謙も、渾身の力作『山小屋の旅(昭和41年発行)』で彼は、内海府の虫崎から外海府の岩谷口までの海岸歩きコースを、

「怒濤が岩をかんで作り出した大自然の芸術は、まさに壮美というほかはない」

と手放しで絶賛して、ハイキングコースとして多くのページを割いて紹介しています。そして外海府旅館を紹介しています。それによると昭和41年当時で700円とあります。

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 ところで、この外海府ユースホステル。このユースホステルこそ日本で一番素晴らしいユースホステルかもしれません。部屋にしても料理にしてもいろいろなところが素晴らしいのですが、このユースホステルの魅力は、まだ観光化されてない秘密の穴場を大量にかかえているからです。もちろん、ここには書きません。心ない人たちに外海府の穴場を荒らしてほしくないからです。

 建物は、2000年に建築された比較的新しい建物ですが、古民家風で宿全体がバリアフリーになっています。もともとこのユースホステルは、築200年以上の佐渡島でも最も古い古民家でした。しかし、2000年に火災で燃えてしまい、再建されたのが、今の外海府ユースホステルになります。

 設計士は、稲田信之さんといって、この宿のリピーターさんだったか、元ヘルパーさんだったかの人で、外海府とユースホステルを知り抜いている方だったようです。で、御客様が使いよいような設計をしたようです。

http://atelier-baku.com/index.html

 廊下は広いですが、これは200年前の古い建物だったときから、こういう建築でした。囲炉裏があったり、ピアノがあったりします。このピアノで、海外の有名なピアニストが、コンサートを開くこともあるそうです。当然のことながら、この宿を愛してやまない外国の方も大勢いらっしゃるようです。トイレも、お風呂もすばらしく、佐渡の郷土史なんかも充実しています。なにより徒歩一分で砂浜の海岸にでられます。

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 圧巻だったのは、その食事でした。

「いや、これじゃ赤字だろ!」

と叫びたくなる内容です。まずカニの大きさにびっくり。マネージャーさんは「安物です」と言ってましたが、東京の料亭でこれを食べたら、それだけで外海府ユースホステルの宿泊代を越えてしまいます。おまけにサザエ御飯の美味しいこと美味しいこと。なんと贅沢な食事なんだろうと思ってしまいました。もちろん息子も大喜び。

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このブリが美味しいこと。
佐渡のブリは、ひと味違う。
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カニは、季節ものなので、漁の時期でないと食べられない。
佐渡でカニを食べるなら秋が良いかもしれない。

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そして食後、私はマネージャーさんにお話をうかがいました。
で、驚愕の真実を知ることになります。


つづく。

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2018年03月14日

息子を連れて佐渡島へ 9 外海府をドライブ・鹿野浦・安寿と厨子王

息子を連れて佐渡島へ 9 外海府をドライブ

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 相川奉行所を出発した私たちは、外海府ユースホステルのある外海府に向かいました。外海府とは、佐渡島の北側で、最果ての地です。今でこそ佐渡島1周道路があり、簡単に行けるところなのですが、昭和40年頃(つまり私が4歳くらいの頃)までは、まさにサイハテの地で、知床半島と何ら変わるところのなかった場所です。

 村から村に向かう交通手段は、登山道使うか、船を使うしかなかったのです。それでも、私が生まれた57年前は、多少は便利になっていて、外海府ユースホステルまでは、路線バスが繋がるようにはなっていました。

 とはいうものの、道路は舗装されてなく、マイクロバスのようなボンネットバスが、やっと1台通れるくらいの道路で、対向車がやってこようものなら、どちらかがバックして道を譲るしかなかったような道路でした。その当時のことを思い出す外海府の佐渡島民は、

「新潟交通のバスの運転手は天才だったよね」
「あんな細い道を擦らずに抜けたんだものね」
「あと30センチで海に落っこちるような道を、よく運転したものだわ」
「しかも反対側は、崖だったよね」

と語っていました。私も激しく同意です。

 しかし、今の佐渡島は、海側を埋め立て、巨大な橋をつくり、大規模なトンネルを掘削し、道路を整備したために、小一時間で相川奉行所から外海府に到着できます。しかし、昔は、バスで半日がかりでした。道が悪く、くねくね曲がってて、対向車のたびにバックしたからです。

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 年齢の若い佐渡島人には、想像がつかないかもしれませんが、昔の佐渡島には、トンネルが1つしかなかったんです。昔は、佐渡島でトンネルといえば、中山トンネル一つで、他のものは、隧道と言っていました。

 隧道と言うくらいですから、戦前に掘られたらしく手彫りで崖を掘削したようなトンネルで、途中で海側に穴が空いていたりします。海からの海蝕洞窟とぶつかって、隧道と交差していたんです。時化のときは、バスの窓を開けていると、隧道の中にある海蝕洞窟の窓から、霧状の塩水が浸入してきたものです。しかし、そういう悪路も今は廃道となって、佐渡も便利な道路が走っています。

 ここで脱線します。皮肉なことに佐渡島は、便利になると同時に、一部のマニアから注目をあびるようになってきました。立派な道が出来ると、旧道は廃道になります。そのために佐渡島は、廃道・廃線・廃隧道マニアのかっこうの餌食となってしまっています。

http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main.html
http://hazami.jugem.jp/?eid=580
http://blog.livedoor.jp/mt_kinpoku1172/archives/51924960.html
http://sado2008.jugem.jp/?cid=34
http://yamaiga.com/koneta/koneta_186.html

 上記のホームページを見てもわかるとおり、佐渡島の廃道・廃隧道は、とても怪しく、とても魅力的です。私には土地勘があるので、時間があれば、探検したかったのですが、時間が無いのと4歳の息子を連れて行ける場所ではないので、今回は新しく出来た道路から廃道・廃隧道を眺めるだけにしました。

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戸中隧道 http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main2.htmlより借用

 ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌の記録を読んでみると、相川を出発し、下相川・小川村・達者村・姫津村(佐渡ベルメールユースホステルのある場所)・北狄村(尖閣湾のある場所)・戸地村・戸中村・平根岬・鹿の浦・南片辺村・南片辺村・石花村と歩いて、石花村に一泊しています。

 注目すべきは、戸地村から戸中村の途中にあった二つの洞窟の記述です。深さ75メートルもある、この洞窟は、明治43年に開通した戸中隧道と交差します。私が幼児の頃に、戸中隧道の中で浴びた霧の塩水は、松浦武四郎が記録した深さ75メートルもあった海蝕洞窟が原因だったようです。

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戸中隧道 http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main2.htmlより借用

 また、松浦武四郎は、戸地村の海に温泉が湧き出ていることも記録しています。
 おそらく黒島あたりにわき出ているはずなんですが、
 現在、それを利用している形跡はありません。

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 さらに松浦武四郎は、鹿の浦で、山椒大夫の伝説にもふれています。

 この「鹿野浦」には昔、農地がありました。しかし、どういうわけか民家が無いんですよ。民家が無い理由は、安寿と厨子王の呪いのせいだと言われています。安寿と厨子王の話は、誰もが知っていると思います。映画にもアニメにもなっていますからね。映画やアニメでは、立身出世した厨子王が、佐渡でめくらになった母親と涙の再会をして、めでたし、めでたしでおわるのですが、「鹿野浦」につたわる安寿と厨子王の話は、悲劇的です。

 安寿姫と厨子王丸は、越後の直江津で人買船に売られた。母は佐渡の島の鹿野浦に連れて来られ、虐待のはて盲目になってしまった。

 安寿恋しや ほうやらほう
 厨子王恋しや ほうやらほう

 と、毎日唄いながら鳥追いをしていた。安寿と厨子王は出世して母を迎えるため佐渡へ渡って来た。そして鹿野浦にいる母を探し出した。しかし盲目の母は、いつも村の悪童どもに、おれは厨子王だ、安寿姫だと、だまされていたので、実際の安寿があらわれても嘘だと言って信じず、持っている杖で殺してしまった。それから鹿の浦の川は、安寿の涙のために毒が流れるようになった。その後、この鹿野浦は、その祟りで一軒も住む者もなくなり、村人は全部片辺村の北に移住してしまった。これが、現在の北片辺村であるという。

現在の鹿野浦
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安寿塚
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 ここで、民俗学者である宮本常一を紹介したいと思います。宮本常一は、明治40生まれの民俗学者で、私の祖母と同年代です。そして1981年1月30日に73歳で亡くなりました。

 その時、私は二十歳でした。
 私は、四十回も佐渡に調査に来ている宮本常一氏が
 死んだという何かのニュースで知りました。

「宮本常一? 誰だ?」

と思った私は、国会図書館で彼の著作(もちろん佐渡に関する著作)を読んでみました。すると、これが非常に衝撃的で、元佐渡島民であった私の常識をひっくり返す内容だったのです。その一部を紹介しますと

「実は相川の町などは、外海府の人たちに支えられていると言ってよかった。相川は長い間全く労働者の街であり、商人の町であった。はなやかに生きている者の間に貧しく暮らしているものは多かった。そして貧乏人には子供が多かった。その子をもらって育てたのは海府の人たちである(宮本常一・離島の旅より)」

 つまり外海府は、相川なんかより裕福であったというのです。
 三歳まで外海府に住んでいたことがある私には「そんな馬鹿な?」という記述です。

 昔の外海府といえば、車の走れる道路は無く、今の知床半島と大差ない辺鄙なところであり、テレビの電波もろくに届かない未開地と言ってよかったので、この記述は間違っていると思いました。しかし、よくよく考えてみると、確かに養子をもらう家は多かったし、四歳以降に住んだ私の実家の家なんかより、三歳まで下宿していた外海府の家の方が大きくて立派だったことを思い出しました。毎日の食事にしても今思えば御馳走だった気がする。

 あれは誕生日だったか、クリスマスだったか、あるいは両方だったか、記憶ははっきりしてませんが、当時三歳だった私は、下宿のおばさんに二十センチ以上ある巨大なホールケーキを食べさせてもらっていました。昭和三十年代にそういうものを食べることができた家は、全国でも珍しかったと思います。

 もちろん私の実家でも食べたことはないし、そもそも親に誕生日を祝ったことは無い。せいぜい母親と一緒にパン屋のショーウインドに飾ってあったケーキを眺めたことしかない。いや、それ以前に昭和三十年代当時の外海府にケーキ屋なんかなかったし、せいぜい、よろず屋ていどの店が、寒村に一軒あるかないかですから、どうやって大きなホールケーキを手に入れたか疑問だらけです。

 宮本常一は、言います。
 
「海府の人たちは磯でアワビ・ワカメを取り、沖でイカを釣り、また田畑を耕して暮らしを立てていた。冬には雪で閉じ込められてしまうので、夏場の稼ぎだけで1年間の食生活費を稼がなくてはならぬので、村人たちはことのほか、激しく働かねばならず、そのため人出はいくらあっても足りなかった。そこで海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである。(宮本常一・離島の旅より)」

 さて安寿と厨子王の話です。

http://artkuusatu.blog.fc2.com/img/20140216204942396.jpg/

 人買船に売られた安寿と厨子王の母が、佐渡の外海府(鹿野浦)に連れて来られてきたと言う話と、宮本常一の「海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」という話は、微妙にリンクします。海府は、昔から人手を必要とする地域だった。宮本常一が指摘しているように、海府地方では、人出はいくらあっても足りなかった。

「海府は米どころであった。(略)それらの米は相川に供給せられたのである。また山の雑木は切られて町として船で相川に送られた。一方から言えばこれらの村々は相川があったからこそ西北の海に面しつつもたくましく生き継いできたといえるのだが、それだけにまた自然におしひしがれそうな人生がそこに長く続いてきたのであったある(宮本常一・離島の旅より)」

 これは外海府ユースホステルのマネージャーも、同じ事を言っていました。外海府ユースホステルの御先祖の墓の中には、大きなものがあり、その大きな墓の時代は、山の雑木を相川に売って大もうけした時代であったということでした。外海府の古くて大きな屋敷の大半は、そういう家系だったということです。

「北小浦の宿で大敷の話を聞いた。昭和33年には水あげが1億円もあったそうである。そこで利益の2割を組合員で分けたのだが、一人当たり25万円もあった。また金が使い切れないので関西旅行した。一晩に1万円も取られる宿に泊まったそうだと、大変景気の良い話である(私の日本地図・宮本常一より)」

http://artkuusatu.blog.fc2.com/img/201312161606001ec.jpg/

 北小浦といえば、海府地方の中でも、限界集落もいいところですが、昭和33年頃は違っていたようです。ちなみに昭和33年の大卒初任給は、1万3500円です。その時代に海府のある漁村では、一晩に1万円も取られる宿に泊まって豪遊したわけですから、どれだけ儲かったのか? どうりで相川から人買いのように養子をもらいにくるわけです。限界集落化しつつある今の海府地方を考えると、想像もできません。

 残念ながら宮本常一氏は、この記録を残した昭和34年以降、海府地方を訪れてないので、その後、海府地方が、どう寂れていったか分からなくなっていますが、現在、限界集落であっても昔は違っていたということは確かなようです。

 再び鹿野浦の話にもどします。

「そのような村にも相川から養子をもらう風習があった。相川にはまずしい町家がたくさんあり、そういう家の子をもらってきた。相川や国中の方では子供が泣くと『海府へ牛のケツたたきにやるぞ』と言えば泣きやんだものであるという(私の日本地図・宮本常一より)」


「たいていの家に2、3人いたという。その子たちを土間の隅に藁を敷き、莚(むしろ)をしいてねかせた。・・・そして25歳になるまで家におき、その春一人前になった祝をしてやってフクギモノという晴着をつくってやる。それからさきは働いて得たものはすべて自分のものになる。そして婿にいくものも多かった。中には相川へかえっていくものも少なくない。妻をもらって分家したものもある(私の日本地図・宮本常一より)」


 この話を裏付けるように、昔の海府の戸籍には、「同居人二人」などと書いてあったらしい。安寿の母親は、こういう地域に売られていったのです。そして鹿野浦で鳥追いをしていた。そこに悲劇がおき、鹿野浦に毒水が流れ、そこに住めなくなった住民たちは、そこから隣村の北片辺に移住していったらしい。この北片辺に私は、〇歳から三歳まで住んでいました。そしてこの北片辺で有名な民話が夕鶴で有名な『鶴女房』です。

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つづく。

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2018年03月10日

息子を連れて佐渡島へ 8 相川奉行所・川路聖謨・根岸鎮衛の耳袋

息子を連れて佐渡島へ 8 相川奉行所

 松浦武四郎の佐渡日誌の話です。佐渡の両津に到着した松浦武四郎は、役人の取り調べを受けています。そして、相川奉行所に上陸の許可を貰うために飛脚を出しています。そして相川奉行所から許可証をもらって初めて上陸し、加茂・三瀬川・吉井・新保・中奥・泉村・佐渡最大の名刹であった真光寺により、河原田・沢根・二つ岩神社をへて相川に到着。
 奉行所へは、翌日の早朝に奉行所に出頭しています。三十日の滞在願を出しています。その費用は、格安だったようですが、朝早く奉行所に行ったにもかかわらず、夕方三時まで待たされた上に白州に呼び出されて吟味をうけています。

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 この時、松浦武四郎の身元引受人は、宿泊している旅籠(旅館)の主(讃岐屋武右衛門)にお願いしていますが、当時の旅籠は、こういうこともしていたようです。おそらく旅籠の主は、宿泊しているうちに松浦武四郎の人物を確かめて、身元引受人となり、一緒に相川奉行所に付き添ったのでしょう。

 と言うわけで、今回は、相川奉行所跡地の見学を行ないました。

 昔、相川奉行所には相川中学校があって、古ぼけた看板に『相川奉行所跡地』とあっただけでしたが、国指定の史跡となって7億円もかけて相川奉行所が復元されたようです。少なくとも私が佐渡にいた四十年前には無かった施設です。

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 実は、相川奉行所は、幕府からも重要視されていた所で、長崎奉行所とならんで最も重要な施設でした。なので佐渡奉行には、幕府でも最高級のエリートが送られています。、ロシア使節プチャーチンと交渉した川路聖謨なども佐渡奉行を務めています。『佐渡日記』を著した久須美祐明も佐渡奉行です。アメリカ総領事ハリスと交渉をした中村時万も佐渡奉行を務めています。

 しかし、なんといっても一番有名な佐渡奉行は、『耳袋』を書いた根岸鎮衛(やすもり)でしょう。耳袋とは、彼が三十年間に書き続けた随筆集で、歴史の素人が読んでも圧倒的に面白い本です。岩波文庫で注釈つきで読めますが、古文はちょっと・・・と言う人は、平岩弓枝の「はやぶさ新八御用帳」・宮部みゆきの「霊験お初捕物控」・風野真知雄の「耳袋秘帖」を読むとよいと思います。

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 ちなみに桜吹雪といえば、遠山の金さんですが、あれは嘘で、本当は、耳袋の根岸鎮衛の方だったという説もあります。根岸鎮衛は富裕な町家か豪農出身で、根岸家の御家人株を買収して根岸家の家督を継いでいるからです。

 そう言う人が佐渡奉行になり、江戸町奉行になって、『耳袋』を書いたわけですが、本物の武士ならば朱子学でコチコチなのでオカルトは絶対に口にしません。しかし耳袋にはオカルトが満載されているので、根岸鎮衛は豪商の出自ではないか?といわれているんですよね。しかも入れ墨疑惑もある。

 その根岸鎮衛が、耳袋を書くきっかけとなったのは、佐渡奉行になって佐渡に着任し、佐渡の異文化にふれて驚愕したためです。まず彼は、佐渡に狐がいないことに驚き、ムジナ(タヌキ)の多さに驚き、ムジナに騙されたとか、ムジナによって繁盛したとか、ムジナの神社がたくさんあるとか、そういうことに驚いたり、佐渡の文化風習の違いに驚いたことが、耳袋を書きはじめたきっかけです。

 同じ佐渡奉行でも、川路聖謨は、佐渡の異文化を軽蔑しまくっていますから、根岸鎮衛の思想は相対的で、科学者のようでもあります。また、文章にヒューマニズムがあふれていて、他の佐渡奉行たちと全く違っていますから、彼こそは『本物の遠山の金さん』だったはずです。逆にいうと佐渡を貶しまくっている川路聖謨を佐渡島民は嫌っています。誰も川路聖謨の「島根のすさみ」を読もうとしません。

 さて、復元された相川奉行所ですが、よくできています。復元ですから写真はとりほうだい。幼児をつれて入っても何の問題もありません。嬉しいのは、学芸員さんがマンツーマンで解説してくれるところです。

学芸員さんの解説
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釘隠し
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復元なので、どの部屋にも自由に出入りできる
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精錬に使われた鉛の解説
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 ところで相川奉行所の面白いところは、奉行所内に金山関係の工場があったことです。その施設についても復元されていて解説を聞かせてもらえますし、それらを手で触る事もできます。息子は、いろいろな体験をさせてもらいました。

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 ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌よると、相川町は人家五千軒で神社仏閣が多く、みな土地相応以上に豪華であると書かれています。江戸時代において相川は、江戸・大坂・京都・名古屋・金沢についでの大都市であったことがわかります。松浦武四郎は、金鉱石から金を取り出すセリ場や金の精錬を見学しています。相川の町並みの美しさにもふれていますが、川路聖謨は逆に「見苦し」と言っていますから、それぞれの立場から正反対のことを述べています。

 とにかく川路聖謨は、何かと佐渡をこき下ろしていますが、これは川路聖謨が佐渡奉行に赴任するきっかけとなった天保の佐渡一揆と無関係ではないでしょう。

 天保の佐渡一揆によって、川路聖謨の同僚である鳥居正房は失脚するわけですが、かっての同僚が、一揆のために病気になっているさまをみて、川路聖謨の涙が止まらなかったと言います。もちろん鳥居正房も涙しています。だから川路聖謨は、佐渡を憎んだとしても仕方なかったのかもしれません。そもそも天保の佐渡一揆の原因は、鳥居正房と関係なかった。

 鳥居正房は、一揆の首謀者である善兵衛を召喚して事情をただそうとしたけれど、善兵衛が応じないので逮捕して相川まで連れてきて取り調べたが黙秘しているのでやむなく投獄しています。しかも一揆側を恐れて善兵衛を釈放しています。

 にもかかわらず一揆側は、各地で暴動をおこしていますから、奉行の鳥居正房は泣きっ面に蜂で、その同僚だった川路聖謨にしてみたら、佐渡島民は憎き天敵のようなものだったかもしれません。鳥居正房は、年貢米を蔵からだして飢える島民に支給するなど善政を行なっていたので、川路聖謨にしてみれば、なおさら島民が憎かったでしょう。

 そもそも江戸時代を通して佐渡のような天領(幕府直轄地)では年貢が低く、そのうえ代官や奉行たちも善政を行なうことが多かったのですが、それが領民にわかっていたかどうか? そのために江戸幕府は慢性の赤字に悩むくらいですから。

 ただし、善兵衛が奉行所で黙秘した理由もわかります。
 今回、相川奉行所を見学してわかったことなのですが、
 相川奉行所では、お白州が2つあって、
 1つは奉行が直々に取り調べる場所で、
 もうひとつは小役人が取り調べる場所になっています。
 このへんは、高山陣屋などの代官所と違っていて、お白州が二つなんです。

奉行が使ったお白州
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奉行が使ったお白州
(ほとんど使われることは無かったらしい)
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小役人が使ったお白州
(ほとんど、こちらが使われていた)
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 そうなると善兵衛を取り調べたのは、小役人のお白州であったに違いなく、そうなると小役人の不正を訴える善兵衛としては黙秘せざるをえません。だからもし、鳥居正房が直々に取り調べをしていたら、結果は違ったものとなっていたと思いますが、残念ながら佐渡相川奉行所は、規模が大きく(100メートル四方)仕事量も多かったために、そうはいかなかったと思います。ここに悲劇があったのかもしれません。

 逆にいうと佐渡島民は、あまり島外のことに興味がありませんから、お白州が二つあることに疑問をもってないかもしれません。で、善兵衛を英雄視するあまり、鳥居正房や川路聖謨について冷淡で、奉行所のことや内情に詳しく調べることをしてなかったかもしれません。このあたりは、後世の冷静な研究者に期待したいところです。

参考1
高山陣屋
http://kmimu.html.xdomain.jp/castle/tokai/takajin_madori.html

参考2
相川奉行所
http://kaze3.seesaa.net/upload/detail/image/ttygv-thumbnail2.jpg.html
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つづく。


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二つ岩神社
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2018年03月09日

息子を連れて佐渡島へ 7 二つ岩神社と松浦武四郎の佐渡日誌

息子を連れて佐渡島へ 7

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 妙見山を下山して、次に向かったのが佐渡の旧道(笠取峠)です。昔は、佐渡島の妙見山から金山のある相川に続くメインの道路として、笠取経由の道路と金山経由の2つ道路がありました。今回、佐渡に帰省するに当たってグーグルマップで調べてみたら、金山経由の道路は、はっきりしているのに笠取峠の道路が出てきません。

「へんだな?」

と思いつつ車で現地にいってみたら、笠取峠の道路は途中から廃道寸前になっていました。軽自動車に雑木の枝で傷つけながら前進していると、二つ岩神社に到着。四十年ぶりに訪れた二つ岩神社は、崩壊寸前でした。

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 私が高校生の頃、この神社は、伏見稲荷のようなところで、鳥居がズラーリと並んでいたものでしたが、その鳥居たちの大半が腐ってくずれており、参道に横に朽ちた鳥居の残骸が捨てられていて、かろうじて立っている鳥居さえも、指先で押したら倒れかねない状態です。社殿も崩壊寸前。見る影も無いようになっています。写真をみても分かるとおり、目も当てられない状態でした。

 佐渡の皆さん、これでいいんですかね?
 これ、放置していいんですか?

 二つ岩神社といえば、佐渡の伏見稲荷ですよね。佐渡ムジナ(タヌキ)の大親分じゃないですか。ジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』でも紹介された日本最強のタヌキを祭る神社じゃないですか。

 ここで解説します。
 二つ岩神社とは何か?
 看板には

『古い昔山中に団三郎という老狸が住んでいたといいます。昔の有名な作家 滝沢馬琴の『燕石雑志』にも病気をして町の医者を呼びに行ったり困った人にお金を貸せた(今から400年前)話も出ている。佐渡狸の頭領と言われて島内に百以上の部下(諸神)を持っていたという。関の寒戸(さぶと)や赤泊の禅達などと昔は山伏の祈祷所だったらしく安産家内安全消除諸災のご利益があると、参詣者が多い。毎月12日が縁日である。春、4月12日大祭を行う。』

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とあります。参詣者が多いと看板にはありますが、この荒れようは、とてもじゃないけれど参詣者がいるとは思えません。私が高校生の30年前には、もっと荘厳でしたけれど。

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 ちなみに、二つ岩神社は、江戸時代には相川奉行所に向かう交通の要路で、途中、何軒もの茶店があって、いきかう旅人の咽を潤したと言います。幕末に佐渡を訪れた探検家松浦武四郎も、この二つ岩神社でお参りしており、佐渡日誌に記録があります。

 松浦武四郎というのは、幕末の志士であり、海防家であり、日本を代表する探検家であり、北海道の名付け親です。彼は、ペリーが来航する以前の1847年9月3日に佐渡に渡っています。この時、新潟港には船が50ー60艘も入ってくれば一斉に出港したそうです。松浦武四郎は、佐渡にスルメを買い付けに行く船に乗って佐渡にわたっていますが、その時の費用は、現代のお金にして2,500円位でした。平成時代のカーフェリーの代金とほぼ同じです。

 佐渡に到着した松浦武四郎は、宿屋で山盛りのご飯、焼き魚、イカの汁、焼き鮭、鮑の酢の物などのごちそうを食べています。そしてその宿代は、たったの158文(860円)という値段に驚愕しています。当時の佐渡島の物価は相当安かったようです。ちなみに、松浦武四郎が佐渡に上陸すると役人がやってきて取り調べを受けています。そして、相川奉行所に上陸の許可を貰うために飛脚を出しています。料金は往復700文(3500円)。許可が下りるまでは常に寝泊まりしていました。

 松浦武四郎によると、ベリーが来航する5年前にもかかわらず、両津港に砲台があり大砲があったといいます。実は、江戸幕府は海外の情勢に非常に詳しく、ペリーが来航する何年も前から日本各地の海岸に砲台を築きた大砲を設置していました。松浦武四郎の佐渡日誌によれば、佐渡島の例に漏れず、あちこちに大砲があったようです。

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 相川奉行所から飛脚が許可証をもらって両津港に到着すると、松浦武四郎は、加茂・歌代・三瀬川・吉井・新保・中奥と進んで、本間西蓮寺(私の小学校の担任の先生が下宿していたところでした)に寄っています。そして泉村(私が生まれたところです)に到着。旧知である根岸与右衛門のところで昼食を食べています。松浦武四郎は、佐渡島に多くの知り合いがいたようで、あちこちに寄り道をしています。つまり、佐渡島にも幕末の志士たちが大勢だということになります。

 その後は、佐渡最大の名刹であった真光寺によっていますが、この寺は、明治元年(1868)の神仏分離令により廃寺となっています。明治政府も馬鹿なことをしたものです。松浦武四郎は、この真光寺で、佐渡で最も有名な乙羽池伝説について聞き取っています。

 乙羽池伝説については、こちらを参照
 http://kaze3.seesaa.net/article/428880928.html

 そして河原田・沢根・二つ岩神社をへて相川に到着。

 二つ岩神社について『佐渡には獣がいなかったが、富山からタヌキをもってきて、それを増やして、その毛皮を金の精錬の鞴につかった』と書いています。ようするにタヌキを繁殖させて儲けた人がいて、その男が団三郎だったわけですが、それがいつの間にか、タヌキの皇帝の名前に変っていたわけです。

 佐渡では、二つ岩の団三郎がタヌキの大将。その配下に四天王(関の寒戸・禅達・才喜坊・重屋の源助)がいて、その配下に何百何千というタヌキがいたといわれています。その総元締めが二つ岩の団三郎。ちなみに昔の島民は、タヌキのことをムジナあるいはトンチボーと言っていました。で、ムジナといえば、タヌキをイメージし、トンチボーというと、もっと怖いドロドロしたイメージです。

 松浦武四郎の佐渡日誌の話です。松浦武四郎は。二つ岩神社を通って相川の旅籠に宿泊。その日では無く、翌日の早朝に奉行所に出頭しています。三十日の滞在願を出しています。その費用は、格安だったようですが、朝早く奉行所に行ったにもかかわらず、夕方三時まで待たされた上に白州に呼び出されて吟味をうけています。

 この時、松浦武四郎の身元引受人は、宿泊している旅籠の主(讃岐屋武右衛門)にお願いしていますが、当時の旅籠は、こういうこともしていたようです。おそらく旅籠の主は、宿泊しているうちに松浦武四郎のようすを伺っていたのでしょう。



つづく。

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2018年03月01日

息子を連れて佐渡島へ 6 佐渡と登山・日本のシルマン中村謙

息子を連れて佐渡島へ 6佐渡と登山・日本のシルマン中村謙

 翌日、息子と嫁さんと三人で妙見山に登りに来ました。まず白雲台まで車で行きます。この白雲台には、その昔、白雲荘という国民宿舎があったのですが、今は壊されてしまってもうありません。私は子供の頃、親に連れられて白雲荘の展望デッキから、佐渡全体を眺めました。望遠鏡で自宅を見たりしました。

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 ただ子供の頃は、白雲荘という国民宿舎にいったい誰が泊まるんだろう?と不思議に思っていたものですが、今ならわかります。眺めはいいし、高山植物は豊富にあるし、大佐渡山脈縦走の出発点として絶好の場所だったからです。現に、昔は白雲荘という国民宿舎があって、多くの登山家が縦走のためのベース基地として重宝していました。

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http://sadokoi.com/blog/?p=1568 より借用

 昭和三十年代から四十年代の登山ガイドブックにも、人気コースとして詳細に説明文が載っています。と、こう書くと佐渡島の住人は驚かれるかもしれません。しかし知らぬは佐渡島民ばかりで、戦前から昭和三十年代にかけては、大佐渡山脈の縦走路は、多くの登山家たちで賑わっていたんです。

 これは元島民の私も全然知らなかったし、佐渡の地元民も知らないと思います。しかし、昭和三十年代の登山家たちにとっては、有名なコースで、白雲荘という国民宿舎からドンテン山の大佐渡ロッジまでのコースを多くの人たちが歩いていました。昭和四十年頃の白雲荘行きの終バスは、金沢発十六時五十五分で、朝、東京から電車で出発しても白雲荘宿泊に間に合うようになっていました。

 この白雲荘からドンテン山の大佐渡ロッジまでは、七時間三十分のコースで紹介されていますが、私も三回ほど縦走していますが、そんなものです。ちなみに昭和四十一年における白雲荘の宿泊料金は、二食付き千円です。消費者物価指数でみると、昭和四十年の一万円は平成二十八年の約四万円に相当する計算になりますから、現在の物価でいうと二食付き四千円。ずいぶん安かったようです。

https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/

 当時の登山家に愛された理由もわかります。
 では、このルートを誰が全国に紹介したかというと、
 中村謙(加茂鹿之助)という偉大な登山家でした。

 中村謙は、私が最も尊敬する登山家であり
 忘れ去られつつある登山家です。

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 百名山ブームのおかげで、百名山の深田久弥・花の百名山の田中澄江を知らぬ登山家はモグリと言われる時代になってしまいましたが、いったいどれだけの人が、中村謙(加茂鹿之助)を知っているでしょうか? 彼こそは、全国津々浦々まで登山道を調査発表した開拓者なのです。

 彼を一言で言うと、日本のリヒャルト・シルマンです。昭和の松浦武四郎と言ってもいい。登山ルートをひたすら調べまくって『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』『ハイカー』『山と高原』『榾木』『日本山岳会会報』などの登山冊子に、昭和十年頃から発表しまくったひとで、いわゆる日本の大衆登山を牽引し続けた人です。しかし忘れ去られて誰にも知られてない。ネットで検索しても全く出てこない。せいぜいペンネームの加茂鹿之助の名前がでてくるだけです。昔なら中村謙の名を知らないのは「もぐり」というほど有名だった人なのに、今ではネットにもでてこない。もちろん私も知らなかった。

 私が、この人を知ったのは偶然です。

 知床探検の準備作業で、松浦武四郎に興味をもった私は、三重県の松浦武四郎記念館の学芸員だった武馬さんという人に知り合い、その人の紹介で、見知らぬ人から大昔の登山本をいただいたことから大昔(戦前から昭和四十年頃)の登山本を三百冊ほど読む機会があり、そこで中村謙という人を知りました。

 彼は、明治三十年に新潟県高田市に生まれ、東京外国語大学英文科を卒業し、伊藤忠に勤めた後、群馬県桐生中学校に勤めた後、東京府立第一商業学校で教員を続けつつ、同校山岳部の顧問をやりつつ、日本中の山という山を登りまくって、調査した登山道を昭和五年頃から発表しまくっています。

 そのうえ都立興亜商業学校・日本橋女子商業学校の校長にも就任しており、戦後は極東空軍資材司令部で働き、その後は警察予備隊米国顧問団特殊翻訳官として働いています。その後には京北学園高等学校教員として活躍しながら、多くの著作本を出しています。

 また、東京中等学校山岳連盟会長・全日本徒歩連盟理事・日本山岳会会報編集委員・東京都キャンプ協会顧問といった登山関係に関する無数の役職にもついており、各地の観光協会の理事や顧問にもついており、山に関することに一生を捧げた人でもあります。

 彼は昭和九年に出した『東京付近の山』をはじめとして、毎年何冊も登山ガイドを出し続けます。途中、病気で右手が使えなくなるという事態になりますが、左手で渾身の力を振り絞って書いています。最終作ともいえる昭和四十四年の『ふるさとの山』四百二十二ページを出したときは、七十二歳でした。これ以降の著作がないのは、足を痛めて外出ができなくなったためです。また、ヤマケイの『登山地図帳』・昭文社の『エリアマップ』『山と高原地図シリーズ』などの登山マップなどの制作にもかかわっています。こちらも昭和四十四年まで作り続けています。

 さて、中村謙渾身の大作である『山小屋の旅(昭和四十一年)・ベスト200コース』には、佐渡島が5コースも大きく取り上げられています。

@金北山から金剛山
A虫崎から外海府
B沢崎めぐり
C岩首から水津
D妙宣寺から真野宮

このうち登山道は@だけで、ABCDは、海岸歩きです。今でこそ道路がありますが、昭和四十一年頃は、道路が無く、岩から岩を飛び乗るように海岸を歩くしかなかったと言います。そういう場所の地元民の交通手段は、船でした。もちろん海が荒れれば、船は使えませんから山道を使います。なので昔の佐渡は、山道(登山道)がよく整備されてて、それが佐渡の里山の特徴であったわけです。

 さらにいうと、A虫崎から外海府も人気のコースでした。で、このコース沿いに昭和40年10月に一軒のユースホステルがオープンしました。外海府ユースホステルです。もちろん若者たちが押し寄せました。その中の旅人に新潟市からやってきた一人の美しい女性がいました。それが今の外海府ユースホステルのマネージャーです。これについては、また後日書きます。

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 私たちは、妙見山に登りました。この山には、息子が2歳の頃にも登っているのですが、二歳児の頃はヨチヨチ歩きでした。しかとし4歳ともなると、親より速く歩きます。というか息子の奴は、先頭で無いと機嫌が悪くなる。親より速く歩こうとする。そして徒競走になるのですが、こっちは息子の写真を正面から撮りたいから負けられないのですが、そうすると機嫌が悪くなるので困ったものです。

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 それにしても妙見山は、何度来ても素晴らしいところです。これで自衛隊の基地が無かったらもっといいんですけれど、北朝鮮からミサイルが飛んでくるわけですかすら仕方ないですね。佐渡に来たら絶対に訪れたい絶景ポイントです。つつじが多いので、花の季節は美しいこと間違いないでしょう。

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つづく。

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2018年02月25日

息子を連れて佐渡島へ 5 佐渡に行ったら入りたい店

 東京から嬬恋村に引っ越してきて20年近くなります。子供も生まれて毎日のように保育園(子供園)に息子を送迎しているのですが、自分で送迎してみて嫌でも気づくことは、送迎する人たちの9割が祖父母なんです。嬬恋村には祖父母・曾祖父母が多くて、どの子供たちも、おじいちゃん・お祖母ちゃんと一緒に帰っていくんですよ。そんな村のなかで、みじかに祖父母がいない、うちの息子のケースは珍しいんです。

 嬬恋村の保育園(子供園)では、父兄会の他に祖父母会というものがあり、祖父母のために、わざわざ運動会を二回やります。これに出ないと息子が寂しい思いをするので、父兄会には嫁さんがでで、祖父母会には私がでるようにしています。

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 このように祖父母に囲まれて暮らしている子供が圧倒的に多い村というのは珍しいみたいです。それが原因で嬬恋村の子供たちには、深刻な問題があります。幼児の肥満・糖尿病予備軍・低身長が、全国のトップクラスなんです。その原因は、御菓子のたべさせすぎと、必要量のカルシウムの不足と言われています。ようするに『孫を可愛がりすぎる祖父母に原因がある?』と勘ぐっているわけです。なぜなら親を対象に、そういう事を言わないからです。祖父母に対してだけ言ってくるんです。祖父母会では、くどいくらい言ってくるけれど、父兄会では、そういう話題は出てこない。

 これには理由もあります。

 2歳までの嬬恋村の幼児は、全国平均と変わりない。しかし母親の手から離れて、祖父母に預けられる3歳からは、身長の伸びが遅くなって肥満率が高くなって全国のトップクラスになる。急に虫歯も増える。祖父母に原因があると言われても仕方が無いような統計数値がある。

 なので、これに慌てた嬬恋村や子供園では、わざわざ祖父母のみを対象としたて運動会を開いて人を集め、講演会をひらいて祖父母に対して啓蒙活動をするわけです。栄養学をたたき込み、祖父母が孫に御菓子を食べさせすぎないように指導します。

 以上、前置きを終わります。
 これからが本題です。

 このように祖父母の多い嬬恋村の保育園児なのですが、身近に祖父母がいないうちの息子は日々寂しい思いをしていたようです。

 時々、
「おりこうにしていたら、おばあちゃんの所に行ける?」
と私に聞いてくるからです。

 なので月に一度は、嫁さんの実家に帰らせて、母方の祖母の所に行かせて甘えさせてやっています。そして甘えまくって甘いものをいっぱいいただいてくる。うちでは子供園の指導とは真逆なことをしているわけです。本当は良くないことなんですが、

「早く、おばあちゃんの所に行きたいなあ」

とか、庭先でドングリやヤマボウシの実みを拾ってなんかを拾って「これをおばあちゃんに持っていこうかな」なんて言って、と楽しみにしている息子を見ていると、月に1回くらいは、そういう事があってもいいんじゃないかと思ってしまう。

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 もちろん嬬恋村に帰ってきたら毎日のように小浅間山や浅間牧場に散歩に行ってダイエットです。げんに昨日も一昨日も雪山の小浅間山に一緒に登ってきました。これで良いと思っていたら、そうはいかなかった。

「タケルには、おじいちゃんは居ないの?」

と言ってくる。嬬恋村の幼児は、おじいちゃんにも恵まれている。しかし、息子の母方の祖父は、この世にはいません。若い頃に脳腫瘍で亡くなっています。しかし、私の父ならまだ生きています。

「タケルには、おじいちゃんは居ないの?」
「いるよ」
「どこにいるの?」
「おばあちゃんだって、もう一人いるんだよ。タケちゃんには、おばあちゃんが二人いるんだ」
「ちがうよ、おばあちゃんは一人だけ」
「いやいや、二人いるんだ」
「えええええええええええええ、違う違う」

どうも息子には、おばあちゃんが二人いると言うことが理解できなかったらしく、これは私の実家に連れて行って対面させるしか無いなあと思った次第です。考えてみたら私の親は85歳くらい。いつ死んでもおかしくない年齢なので、生きている今のうちに会わせないとと思って、実家の佐渡に連れてきたわけです。

 で、実家に帰って、私の両親と対面させたわけですが、ほとんど会ったことがなかったために息子の奴は緊張しまくっていました。

「この人が、おじいちゃんだよ」

と言っても実感がわかなかったようでした。しかし、佐渡で一番美味しい寿司屋「まるいし本店」で一緒に寿司を食べると少しずつ慣れてきたようでした。そして、息子の奴は、ガンガン寿司を食べ始めました。ワサビもショウガも大好きなので、どんどん食べます。

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 ちなみに寿司屋「まるいし本店」は、回転寿司で安いのに凄く美味しい店です。ネタがすごくいい。水産会社直営の店だけあって回転寿司と思えない味。しかも安い。といっても一皿120円から360円なんだけれど、ネタの良さを考えたら安い。高級魚のどぐろが360円。地方の回転寿司は、クオリティーが高いところが多いわけですが、この「まるいし本店」もその一つ。佐渡島に来たら、是非おとずれて食べにいきたい店の一つです。

https://www.visitsado.com/spot/detail0301/
新潟県佐渡市泉1031-1
0259-63-3066
口コミサイト
https://www.tripadvisor.jp/Restaurant_Review-g1021355-d5037286-Reviews-Sushiya_Maruishi-Sado_Niigata_Prefecture_Chubu.html#REVIEWS

 あと、佐渡に行ったら是非食べておきたい店を紹介すると『中堀』のカツ丼です。東京で言うところのタレカツ丼。 ひみつの県民ショーというテレビで、新潟のタレカツ丼が紹介されて有名になりましたが、正直言って、あれは美味しくはない。佐渡の『中堀』のカツ丼の方が美味しいですから騙されたと思って食べてほしいですね。


つづく。

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2018年02月23日

息子を連れて佐渡島へ 4 幻の朱鷺の話

幻の朱鷺の話

 二月二日のことです。息子がこども園から帰ってくると、「お父さんちょっと」と私の腕を引っ張ります。何事かと思っていると、こども園で作ってきた鬼のお面を取り出しました。ああ、節分か。と理解した私は、息子に豆を持たせて、私は息子が作った鬼の面を被って「ガオー」と叫んだのですが、息子はキョトンとしています。何をしていいかわからないのです。仕方がないので、鬼の役はやめて、一緒に豆まきだけをすることにしました。しかし、息子のやつは、どうやって豆まきをしていいのかわからない様子です。なので、手本を見せるわけですが、これで初めて豆まきができるようになりました。

 うちの息子は一事が万事、すべてがこういう調子です。手本を示すと、その通りやるのですが、手本がないとなかなか動こうとしません。どうやっていいか分からないんだと思います。そのかわり、親の真似はよくします。私がベットメイクや部屋掃除をすると、一生懸命手伝おうとします。私が外で雪かきをすると、自分も雪かきをし出します。除雪機を動かして息を飛ばしていると、さすがにそれだけは真似ができないので、小さなスコップを持ち出して、小さな四歳の体で一生懸命雪かきをします。別に強制されているわけでもないのに、自発的に動くんです。子供は親の鏡とはよく言ったものです。

 トイレに行く時は、それがよく現れます。私はトイレから出るときにスリッパを揃えないという悪い癖があるのですが、息子もそれを真似します。息子のトイレのスリッパが乱雑に放り投げられてしまうのです。これはまずいなーと思った私は、反省して、トイレのスリッパをそろえるようになるのですが、それを一週間ぐらい続けると、今度は息子も、トイレから出てくるときに、トイレのスリッパをきれいにそろえるようになります。こどもは、実に親の姿をよく見ているし、よく真似をします。

 しかし、親というものは、案外見られていることに気がつかないものです。しかし子供の性格の大半は、親が作っているのも事実です。私は宿屋をやっていますが、もし別の職業に就いていたら、今の息子の性格は、絶対違うものになっていたはずです。息子は、宿屋として接客業をしている姿を見ているわけですから、それが今の息子の性格に影響しないわけがありません。もし私がサラリーマンだったとしたら、そして会社の愚痴を家庭でこぼしていたとしたら、息子は別の性格になっていたと思います。しかし、その別の性格になった原因が、自分にあるとは夢にも思ってないでしょう。なぜならば、普通の会社員であれば、息子をじっくり観察する機会に恵まれなかったからです。

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 実は私は、四歳から五歳位の時に歴史オタクになっています。原因は親の影響です。私の親や祖母は、好んでNHKの歴史大河ドラマと、を見ていました。親が見るテレビ番組をただ何となく漠然と見ていたわけですが、太閤記・源義経という子供の絵本に出てくる素材であったこともあって、土曜日の昼間に祖母と一緒に大河ドラマの再放送を見ては、絵本の『豊臣秀吉』『牛若丸』を読んでもらっていました。祖母は、文盲で文字が読めない人だったんですが、絵本を上手に解説していました。もちろん、書いてあることと、祖母の解説は、全く違いますので、どうして違うんだろうと、自分で調べるようになり、その時に何でも自分で調べる癖がついています。これは親と言うより祖母の影響です。

 小学校に入ると、私は動物オタクになっています。これも両親が、マーリン・パーキンスの『野生の王国』と言う動物ドキュメンタリー番組を好んで見ていたからです。最初は、全く動物に興味がありませんでしたが、何度か番組を見ているうちに、自然と頭の中に入ってきます。そして、小学校の図書館に入り込んでは、動物図鑑を眺めながら、名前や生態を片っ端から暗記しました。もちろん恐竜やウルトラマンの怪獣も含めてですが、図鑑にある動物は全部暗記していましたから、かなりの動物博士になっていました。だから私にとってディズニーといえば、ミッキーマウスで無く、動物ドキュメンタリー映画のことでした。ディズニーは、数々の傑作ドキュメンタリーを製作していたのです。もちろん当時から難しい本も読んでいます。

 あと、子供の頃に『野生のエルザ』と言う映画を観て感動したと言うこともあります。映画『野生のエルザ』は、実話を元にしたドラマです。主人公たちは、親を失った三匹のライオンの子供を見つけるわけですが、そのうちの二匹を動物園に手渡し、一匹だけを自分でペットとして飼うわけですが、これがエルザです。エルザは、元気に大人になっていくんですが、発情期になり、それを持て余して苦しんでいる。そこで飼い主は、エルザを野生に戻すようにがんばり、ついに野生に帰っていくというハッピーエンドの物語でした。この映画に感動した私は、将来は動物園の飼育員になるか、犬の訓練士になりたいと思ったくらいです。

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 そして三十年後、私は宿屋を始めて自然ガイドなどをしていました。もちろん動物についての知識も格段にアップしています。で、なんとなく気になったので、野生のエルザのビデオを購入して、三十年ぶりに見てみたわけです。で、愕然としてしまいました。これはやばい映画だ。エルザは、あの後すぐ死んでいるはずだと容易に想像できるからです。

 で、原作本を読んでみたら、案の定、すぐに死んでいました。詳しい解説は、やめときますが、主人公たちは、致命的なミスを犯していたからです。しかし、これは動物学が進歩した現代の視点から言えることであって、1956年当時の知識水準からしたら、しょうがない事だったとも言えます。それほど現代の動物学は進歩しています。

 あと、昔の佐渡島には、見世物小屋やってきました。大蛇や象なんかがやってきたのです。もちろん親とで見に行きます。そのつど食い入るように見たものです。親が、鶏・猫・ウサギ・鳩・犬・金魚などを飼っていたということもあって、身近に動物がいたというのも私が動物好きになった原因の一つです。

 また実家の近所に豚・牛の飼育小屋があって、子牛や子豚とふれあえたんですよね。みかんの皮やリンゴの皮・芯などの食べ残しなんかを持って行くと、豚は喜んで食べていました。牛には藁をもっていって食べさせました。牛たちは、角を切られており、縄でつながれていました。現代では、口蹄疫のこともあって勝手に入れませんが、四十五年も前だと簡単に動物とふれあえるいい時代だったんです。

 前置きはこのくらいにして本題に入ります。

 動物オタクだった子供の頃の私の悲願は、朱鷺を見ることです。しかし、昭和四十年代の佐渡島では、島民といえども朱鷺を見ることは先ず不可能でした。見たことがあるという人も希でした。たまに、食べたことがあるという老人の話を聞きましたが、肉が赤すぎて気味が悪いので、暗い夜にしか食べられなかったという話しでした。今でこそ、大量の朱鷺が放鳥されていますが、昔は、本当に幻の鳥でした。

 ドンテン山から下山した私たちは、佐渡にある『トキの森公園』に向かいました。息子と嫁さんに朱鷺を見せてあげるためです。もちろん私も初めて見ます。

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 私は、できるだけ息子に動物との距離を縮めさせたいと思っています。だから犬も飼っているし、動物園にも牧場にも連れて行ってます。登山中には野鳥の観察もしていますし、庭木には鳥小屋もあるし、鳥の餌もおいてあります。

 嫁さんは、何度も息子を猫カフェに連れて行ってます。それもすごく厳しいルールのある猫カフェです。猫の権利が強くて、これでもサービス業なの? サービス業としてはまずいんじゃ無いの? 詐欺じゃないの? というくらいに厳しいルールのある猫カフェなんですが、あえて連れて行っています。動物をおもちゃのように扱わない子供に育てると言う意味では、効果のあることだからです。佐渡にある『トキの森公園』も、きっと厳しいルールのもとに見学が許される場所ではないかと期待して、出かけてみました。

 トキの森公園は、昔、新穂村といわれた地区にあります。私が子供の頃には、佐渡島は十の市町村に分かれていました。その中の一つである新穂村といえば朱鷺のイメージでした。朱鷺は、新穂村に住んでいたのです。

 いまでこそ絶滅が危惧されている朱鷺ですが、かっては日本全土で普通に見られる鳥で、害鳥のナンバー三と言われた時期もありました。鳥追い歌に、

 一番にくい鳥はスズメ。
 二番目がサギ。
 三番目がドウ(朱鷺)。

とあるとおり、昔は田んぼに大量の朱鷺がいたんですよね。田んぼに住んでるドジョウなんかを食べていたんです。しかし、明治維新後の政策によって輸出用の羽毛(ダウン)の需要が急増し、朱鷺が乱獲されます。朱鷺の羽毛布団は柔らかく生産が間に合わないほどで、ヨーロッパで流行した婦人帽の飾りとして輸出されました。

 そのために明治末期には絶滅の危機となり、大正末期には新潟県でも絶滅したと報告されています。そこで新潟県は、懸賞金をつけて絶滅したといわれる朱鷺をさがしたわけですが、昭和五年に佐渡で目撃したという報告がありました。そして、大々的に調査が行われた結果、60〜100羽ほど朱鷺が生息していたことがわかりました。

 世紀の大発見でした。

 すぐさま朱鷺は、国の天然記念物に指定されるわけですが、朱鷺は年々数が少なくなっていきました。原因は、第二次世界大戦で薪炭用に大量の木が山から切り出され、山が丸坊主になったため冬に餌場になる沢が雪で埋まって、餌が取れなくなったためです。雪国の人ならわかるかと思いますが、森の中の雪は早く溶けますが、丸坊主では溶けません。朱鷺たちの冬の餌場が無くなってしまいます。見かねた地元民は、サワガニやカエルを集めて水田に放しました。そのおかげで、朱鷺は細々と生きながらえました。

 それが再び絶滅しかかったのは、農薬汚染のせいです。ドジョウやカエルなどが農薬汚染され、それを食べた朱鷺も農薬汚染となり、生殖しなくなってしまったのです。朱鷺は、里山の樹に巣をつくり、田んぼの中のドジョウなどを食べていたので、農薬汚染によって生殖能力を失ってしまったのです。

 で、1952年「特別天然記念物」に1960年「国際保護鳥」に指定されるんですが、農薬の使用などで、田んぼにいたドジョウなんかが死滅すると激減し、佐渡と能登半島にしかいなくなるんです。私が、小学生の頃には、そういう状態でした。そして17〜18羽の群れがいた能登半島の朱鷺がろくに保護されないまま壊滅するわけですが、壊滅の理由が能登半島のゴルフ場ではないか? 能登半島では朱鷺よりもゴルフ場をとって朱鷺が壊滅したらしい・・・とは、当時から良く言われていました(なので私はゴルフが嫌いでやったことがありません)。

 幸か不幸か佐渡にはゴルフ場が無かった。
 おまけに天敵も少なかった。
 佐渡にはキツネはいなく、テン・イタチくらいしかない。

 しかし、佐渡の朱鷺は、何度も孵化に失敗し、1981年には野生のトキを捕まえて人工飼育をしたけれど失敗を続け2003年まで続けられたが成功せず日本産トキは絶滅してしまったんです。ところが1999年中国から贈呈されたトキの人工繁殖が成功。成功した理由は、無農薬の水で育ったドジョウを餌にあげたことらしい。やはり農薬と環境破壊が朱鷺絶滅の理由だったわけです。

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 以上、ここまでは佐渡島民なら誰でも知っている常識です。私は子供の頃、朱鷺の書籍を読んで朱鷺に詳しいわけですが、これは私だけではなく佐渡島民ならみんな知っていたと思います。なぜならばどの家庭にも朱鷺の本が置いてあったからです。それほど佐渡島民は、朱鷺に愛着あったということをここに記録しておきます。

 小学校の授業の脱線などで朱鷺の話を良く聞きました。昭和何年にどこそこで見たことがあると。それは美しかったと。そういう話を学校の先生なんかがするわけです。それを羨ましく聞くわけですが、佐渡島民であっても朱鷺を見ることなど99.9パーセント不可能な話なんです。保護されているために、朱鷺を見るチャンスはほぼないわけです。昔見たことがあると言う人の話を聞いて、想像するしかないんですね。

 ところが、現在では朱鷺を簡単に見ることができます。皮肉なものですが、佐渡島の朱鷺が絶滅することが決定したことによって、島民は初めて朱鷺を見ることができるようになったんです。で、佐渡の朱鷺は、2003年のキンの死亡によって絶滅します。

 現在佐渡島にいる朱鷺は、1998年に中国から貸してもらった朱鷺の子孫たちです。貸してもらった朱鷺ですから、子孫の半数は中国に返しています(そういう約束で借りている)。現在は、環境省によって朱鷺の野生化プロジェクトをすすめています。

 このプロジェクトは、トキが生息できるのために、自然環境・社会環境を変えていくプロジェクトで、水田や湿地に、ドジョウ・雨蛙・バッタが大量にいるような地域にする。そして、それらの近くにアカマツ・コナラなどの営巣に適した高木を保全するといった、人とトキが共生できる社会づくりです。

 朱鷺の場合は、生息環境だけ整えても成功しにくいんですよね。というのも朱鷺は里山の鳥だからです。人との関わりの中で生息しているからです。と言うわけで、『トキの森公園』は、朱鷺のことを地元民に知ってもらうための啓蒙施設でもあります。もちろん観光施設でもありますが、どちらかというと環境教育施設なんですよ。佐渡に行ったらぜひ訪れてほしい施設なんです。

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住所〒952-0101 新潟県佐渡市新穂長畝383-2
電話番号0259-22-4123
開館時間午前八時三十分〜午後五時(入館締切 午後四時三十分)
休館日毎週月曜日(三月〜十一月までは無休)、年末年始
大人:一人四百円
小人:一人百円
http://tokinotayori.com/

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望遠鏡で朱鷺をのぞける

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本当は、このくらいの距離

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ケージに飼われている朱鷺は、エネルギーを消耗しないためか1日に一回くらい。ドジョウを一匹くらいしか食べないらしい。下手したら2日間餌を食べないこともあるらしいので、餌を食べている姿を見られたらラッキーなことらしい。

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ちなみに職員さんは、とても親切に朱鷺について解説してくれます。

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つづく。

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2018年02月02日

息子を連れて佐渡島へ 3 ドンテン高原が壊滅の危機に!

息子を連れて佐渡島へ 3 

ドンテン高原が壊滅の危機的に!

 で、私がどうしてドンテン山で宿をやりたかったかというと、この山から眺める夜景が、函館の夜景にそっくりなんですよね。おまけに植生がすごい。高山植物の宝庫で、シラネアオイなんかがワンサカ咲いている。シラネアオイといっても、ピンとこない人が多いかもしれませんが、北軽井沢でシラネアオイを買うと一鉢一万円です。それほど希少な高山植物です。

 五月の登山道はカタクリでいっぱい。花を踏まないで歩くことは不可能でした。今は、どうか知りませんけれど、二〇年前。つまり二〇世紀のドンテン山付近の山々は、花の島・礼文島なんかより、よほど花が咲いていたのです。それに目をつけた私は、佐渡に山小屋があったら凄いことになると思ったのです。

 では、なぜドンテン山付近に花が多かったのか?
 それには理由があります。
 牛の放牧に原因があります。

 実は佐渡の放牧の歴史は古いんです。最も古い記録は大同年間(806−810)。そしてこの頃に山師が、さかんに佐渡島内に寺社を勧進しています。つまり、たたら製鉄を行なったする山の民たちが見え隠れしたころに、すでに放牧がはじまっています。しかし、なにぶん古い時代であるために、詳しい記録が残っていません。

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 比較的記録が残っている江戸時代だと、佐渡島内における牛馬の飼育数は600〜7000頭で、その中で放牧頭数は2000頭くらいと言われています。ちなみに1990年頃には、400頭までに減少しています。つまり九世紀から二十一世紀までの1200年間にわたる長期間、放牧を行なわれていたということになります。これが大佐渡山脈における高山植物の植生に大きな影響を与え、日本一花の多い山に変えてしまっています。

 この事実を知ったのは、今から三〇年前のことです。旅の仲間と大佐渡山脈の縦走を企画して、大佐渡山脈について調べるために国会図書館に通い詰めたことがありました。そのときに見つけたのが『源四郎文書』『佐渡の植物シリーズ(6巻)』などです。その他にも、いろいろ面白い資料がたくさんあったのですが、この二つは私に縁がありました。

 まず『源四郎文書』を所蔵している外海府の矢部家に行ってみると、そこは外海府ユースホステルでした。私は、そこの当主・矢部さんにいろいろ教えを請うことになり、貴重な資料についてや、民族風習や、地理と古道についてヒアリング(聞き取り調査)して、それにもとづいて調査しています。

 そして『佐渡の植物シリーズ』(非売品)ですが、手書きで書かれて自費出版された同人誌のような本ですが、900ページ以上もあって、それが6冊です。中身は濃くて、どう考えても一流の学者。いや佐渡最大の植物学者。いや日本を代表する植物学者といっても言いすぎではないと思いました。読んだ私は、ただただ驚愕して言葉も出ませんでした。

 この著者は、超有名な植物学者にちがいない。
 いったい誰なんだ?
 どこの大学教授なのか?と
 著者を調べてみたら伊藤邦男とある。
 はて?
 どこかで聞いた名前だな?

 と思いつつ奥付にある著者の住所を調べてみたら私の実家の三軒隣だった。

「えええええええええええええええええええええええええええええええええ」

と腰をぬかさんばかり驚きました。
私のよく知っている人だったからです。

 私の父親は、長男の私だけに厳格な人で、母親に口答えしようものなら風呂の中や池などに放り投げられたり、コンセントでムチのように叩かれたり、家から追い出されるのも日常茶飯事でした。追い出されて家に入れずにウロウロしていると、三軒隣の家から必ずおじさんが自転車で出てくる。そしてニコニコしながら私の周りを通り過ぎます。

 一時間に三回ほど通ります。

 家の周りにいても仕方ないので、どこかにフラリと出かけると、母親や祖母が名前を叫びながら探しに来るわけで、それが日常茶飯事だったので、それが近所に伝わらないわけがなく、超有名になっていたようです。しかし、他人のうちの家庭にお節介する人などはいません。けれど三軒となりのおじさんは、20分おきにニコニコしながら必ず私の前を自転車で通り過ぎる。

 なのでよく覚えていたのです。

 で、母親が弟を妊娠したり盲腸なんかで入院すると、父親との間をとりなす人がなくなるので、放浪の旅にでかけるわけですが、そういうときに三軒となりのおじさんは、自転車で遠くからついてくるんです。しかし、声をかけたりはしない。しばらくついてきて何もしない。祖母が私を呼ぶ声がしたら、ササーッといなくなる。しかしいつまでも祖母の声が止まないと、またサササーッと現れる。しかし、決して何もしない。

 そのくせ私は、このおじさんと一度も口をきいたことが無い。息子さんとは、近所だったこともあって、小さい頃に遊んだことはあったし、集団登校で一緒に学校に通った仲だったのですが、おじさんとは、ほぼ他人でした。この人が『佐渡の植物シリーズ6集』を書いた伊藤邦男先生でした。

 国会図書館で佐渡島の植生について調べていたら、感心する論文の大半が伊藤邦男という名前。この人は、凄い人だ。世間はもっと注目していい凄い人なのに、どうして無名なんだろう?思っていたら、私の実家の三軒隣のおっちゃんだった。
「えええええええええええええ?」
ですよ。そのおっちゃんも、すでに亡くなっています。ちなみに、このおっちゃんと、外海府ユースホステルの御当主は、同じ大学の同じ学部の同窓です。おそらく知り合いのはずです。著作をみると外海府ユースホステルの所有している土地の調査もしていますから。

◆伊藤邦男
昭和3年新潟県佐渡に生まれる
昭和22年新潟大学農学部卒業
以後、佐渡島内で高校教員として活躍

◆著述
植物とくらし : 佐渡草木ノ−ト 1976
金井町の名木・巨木・美林 金井町教育委員会 1988
佐渡 原書房 1988
佐渡植物民俗誌 1987
佐渡植物誌 1987
佐渡植物歳時記 1990
佐渡植物風土記 1990
佐渡の植物シリーズ全6集
南佐渡小木の花・名木・美林 1990
佐渡山菜風土記 1991
佐渡花の風土記 : 花・薬草・巨木・美林 1992
佐渡薬草風土記 1992
佐渡の花 春 1995
佐渡の花 秋 1995
佐渡の花 夏 1995
佐渡巨木と美林の島 1998
佐渡花の民俗 2000
佐渡山野植物ノ−ト 2001
佐渡 自然と草木と人間と 2003

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 話をもどします。
 なぜドンテン山付近に花が多かったのか?
 伊藤邦男先生によれば、牛の放牧に原因があったという。

 佐渡の放牧の歴史は古く、大同年間(806−810)から始まり江戸時代には2000頭も放牧されたと言います。1200年間にわたる長期間、放牧を行なわれていたということになります。つまり牛馬による一千年以上の喫食の歴史で、それが花畑ほこるドンテン山の植生を変えてしまっています。嬬恋村の天然記念物・湯の丸高原のレンゲツツジのようにです。

 もちろんドンテン山も、レンゲツツジ・ホツツジなどの有毒のツツジ科が多いです。牛たちは、毒をもっているツツジ科の植物を食べません。他の植物が食べられても、ツツジ科だけが残るようになるからです。

 1980年代に私の実家のすぐそばにある農業技術センターでは、ドンテン山のシバ草原の一角をフェンスで囲んで牛たちが食べられないようにした実験を行ないました。6ケ月後には、さまざまな植物を交えたススキ原となり、2年後はススキ原に芽生えたハナヒリノキ、レンゲツツジ、ヤマモミジなどが繁茂し、ススキ草原は低木林に遷移しています。つまりドンテン山のシバ草原は、牛に支えられているわけです

 で、ドンテン山の花は、放牧牛の糞とかかわっているという。伊藤邦男氏は、『糞跡(ふんあと)群落』と言っています。牛の糞跡に生育するシバは、濃い緑でよく繁殖しているのですが、糞の成分が残っているかぎり牛は食べようとしない。糞の成分も少なくなるとシバの繁殖力は弱くなり、シロツメクサ・ツリガネニンジン・ウツボ草・ノコンギク・オトギリソウなどが生育し花を咲かせますが、糞の成分が残っている限り、これらの植物は牛に食われずに数年間、花をさかせるのです。糞成分とともに出没し、糞成分の消失とともに消えていくのです。

 今から二〇年前に『風のたより』という団体で、これらの糞跡群落を調査しながら大佐渡山脈を縦走したことがあります。そのときは花畑に参加者はみなうっとりしたものでした。

 驚くべきはハマナスです。海岸植物のハマナスが、ドンテン山付近の高原にみられる。私たちは、ありえないことに驚いていると、野鳥を得意とする地元山岳会と出会って彼らの解説を聞きました。

「海岸で野鳥がハマナスを食べて、その種を野鳥がドンテン山に落としたんだよ」
「へえー」

 その時は、なるほどなあと思ったものです。しかし、伊藤邦男先生の説は違います。

「海岸でハマナスの実を食べた牛が、ドンデンに放牧される。動物の腸管をとおったハマナスの種子は発芽率が高まる。ハマナスの実は目然条件下ではほとんど発芽しない。鳥や牛の腸管をとおり、糞の中で発酵すると発芽する。牛伝播によるハマナス群落が、ドンデンのハマナスである」

 野鳥説。牛伝播説。どちらが正解かわかりませんが、野鳥説をとなえる地元山岳会と仲良くなった私たちは、ドンテン山荘に泊まり、一緒に酒を酌み交わしました。

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 で、地元山岳会の中に佐渡金井町図書館館長がいました。佐渡金井町図書館は子供の頃からよく利用していたので、それを伝えると、私の名前を聞いてくる。で、私が名乗ると
「あなたとは何度か会ってる」
という。しかし、こっちには見覚えが無い。で、よく聞いてみると
「福祉課にいた頃に、あなたの祖母に、支援事業を行なっていた」
という。そのときに会っているというのです。

 そう言えば、そんなことがあった事を思い出しました。祖母は、働き者で、毎日せっせと竹細工を作っては役場におさめていたことを。私は、学校から帰ってから、それを何時間も眺めていたし、一緒に納めに行ったこともありました。

 昭和40年代前半の佐渡は、まだ豊かとは言えず、内職しながら子育てしている母子家庭もおおく、そういう同級生も何人かいたものです。彼らの家に遊びに行くと、たった四畳半の町営の母子寮に親子で住んでいました。しかし、彼らが貧乏には見えなかった。小学生の持ち物に大差なかった。差があったのは親の方で、子供たち貧富は無かった。金持ちの子供がいたとしても、子供には贅沢させてなかったからです。ただし、これが四歳下の弟の世代になると、そうでもなくなってきます。高度経済成長時代は、急激に世の風習を変えていきます。

 おっと回りくどい話をしてしまいました。
 これから本題に入ります。

 私たち親子は、ドンテン山荘からドンテン高原に向かいました。タダラ峰・尻立山・芝尻山・論天山の四つを合わせてドンテン高原というのですが、それら一面がシバ草原で、面積800ヘクタールもあります。北軽井沢にある広大な浅間牧場と同じ面積といえば、どれだけ広いかわかるかと思います。

 実は、大佐渡山脈には、このような広大なシバ草原が19ケ所余もあり、総面積は8200ヘクタール。浅間牧場の10倍。釧路湿原と同じ面積にもなります。その草原のシバは牛馬の喫食に強く、地下茎は地下5ミリほどもあり、成長点も地表すれすれのところにあります。牛馬に食べられてもすぐ新芽をだして伸びます。1200年にわたる放牧によって喫食に弱い植物は消え、喫食に強いシバの純度が高まっていったわけで、きわめて珍しい植生となっていきました。

 かって私は、佐渡金山から北端の鷲崎岬まで縦走したことが何度かあるのですが、苦戦を予想しながらも、これらのシバ地のおかげで楽に縦走できています。知床山脈から知床岬までの縦走に比べたら何と楽な縦走であったことか。そして、花の多さにどれほど驚愕したことか。

 私が佐渡島に住んでいるときには、それに気がついて無かったです。島を出て上京し、ほぼ全国の山々を登り切ったあとで、佐渡島の山に入って、その事実に愕然としたのです。花が多いなんてものではなくて、花がありすぎて何処を踏んで良いのかわからなかったからです。

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 しかし、11月のドンテン高原に花があるわけが無く、枯れたススキの草原をひたすら歩きました。で、気がつきました。

「あれ? ススキだなあ?」
「・・・・」
「あれ? あれあれ?」

 息子と嫁さんが怪訝そうに聞いてきます。

「どうしたの?」
「あれれれれれれれれれれれ?」
「・・・・」
「ススキだ。ススキの草原になっている。シバ地がススキに変っている」

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 写真をみてもわかるとおり、
 シバ地がススキの植生に変異しています。
 私は青ざめてしまった。

 農業技術センターの実験を思い出してしまった。シバ草原の一角をフェンスで囲んだ実験です。牛の喫食をたたれると、ススキ草原となり、ブッシュ(低木林)に遷移したという実験を。で、足下をみてみたら牛のウンチが無い。どこにもない。


 いったい、どうなってるんだ?
 ドンテン高原に、
 大佐渡山脈に、
 いったい何が起きているのか?

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 あとで調べてみたら、今は佐渡島で放牧が行なわれなくなったらしい。20年前に縦走したときは、どこを見渡しても牛だらけだったのに、今は放牧がされなくなっているらしい。そのために1200年かけてできたドンテン高原のシバ地が壊滅的な状況になっているようなのです。

 ヤバいですよ。
 佐渡の皆さん、本当にヤバいですよ。
 いますぐ手をうたないと、とんでもないことになりますよ。
 特に行政の方、わかってますよね?


 登山家の皆さんも、
 観光関係者の皆さんも、
 いつまでもドンテン高原に花があると思ったら
 大間違いですよ。
 このままだと佐渡の山は死にますよ!
 1200年かけて育てた景観は無くなりますよ!


 農業技術センターの実験では、2年後にススキ原。その後、低木林に遷移していますからね

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 とにかく明日は外海府ユースホステルに行こう。外海府ユースホステルの御主人は、佐渡の山林地主だし、新潟大学演習林の管理者なので、詳しい状況を教えてくれるかもしれないからです。矢部文書についても聞きたいし・・・・。




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2018年02月01日

息子を連れて佐渡島へ 2

息子を連れて佐渡島へ 2

 船はやがて両津港に到着しました。実は、佐渡の両津港こそは、日本最初の鉄船建造をしたところです。ここで、日本で初めて船体構造に鉄材を使用した船が造られたのです。その船の名前は『新潟丸』で、明治四年のことです。

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 安政5年(1858)、江戸幕府はアメリカなどと通商条約を結び、横浜、長崎、函館・神戸・新潟の開港を約束しました。そして、明治元年11月19日に正式に新潟が開港となります。そのときに両津が補助港となり、港湾工事が着工され、それが完成されると、新潟と両津を結ぶ、蒸気船を建造して外国人の旅客や貨物を運送することとなりました。

 そして英国造船技師マクニホールを雇い、造船場を建設し、鉄船を建造しました。明治四年のことです。それが日本最初の鉄船「新潟丸」です。意外に思えるかもしれませんが、明治以前の佐渡は、金山のために日本有数の工業地帯でもありました。製鉄に使われる木炭も豊富であり、砂鉄も多かったために、鉄の生産も豊かで、製鉄に関連する山の名前「ドンテン山(タダラ峰)」もあるくらいで、日本最初の鉄船を建造するのに適した土地であったわけです。

 新潟丸は、相川町北沢町(金山の北沢浮遊選鉱場跡あたり)に溶鉱炉を作り、ここで精錬した鉄材で両津で建造されています。つまり、金山の施設を利用して鉄が作られ、それを両津に運んで鉄船を建造したわけです。

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 子供のころ私は、大きな磁石を紐で結んで家の周りを引きずり歩いたことがあります。ものの10メートルも歩いてみると、磁石は砂鉄だらけになりました。さらに何十メートル歩いてみると、磁石は砂鉄で真っ黒になって驚いた記憶があります。

 子供ながらに調べてみると佐渡島は、特に砂鉄が多いところで、日本海の沿岸・関東地方に次いで砂鉄の多い地域でした。その影響は、佐渡島の水にも表れていたらしく、佐渡島の井戸水は鉄分多いために、昔は濾過をして飲んでいたと聞きました。実際、私が通っていた小学校の中庭には井戸があったのですが、それを飲むのは鉄分が多いからと禁止されていました。

 当然のことながら、佐渡島には赤土が多く取れます。鉄分が含まれているからです。そして、この赤土を使って有名な焼物『無名異焼(国指定重要無形文化財)』があり、その伝統を受け継ぐ伊藤赤水は人間国宝でもあります。無名異とは酸化鉄を含有する赤土で、止血のための漢方薬でもあります。松浦武四郎の「按北扈従」で紹介した『土殷けつ』と同じものであり、松浦武四郎記念館が所蔵するコレクションの中に武四郎が雲出川で収集した狐火吹き竹をひもで連結した標本がありますが、あれと同じです。

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http://www.tok2.com/home/moguramoti/doinketu/tkhp10.htm

 赤土といえば関東ローム層ですが、関東地方の大地も鉄分を多く含んでいるために、土が赤いですね。そして、佐渡島も関東地方も砂鉄多い地域なんです。ただ違うところは、関東地方では製鉄で必要な木炭が十分に取れなかったということです。

 江戸時代の大都市江戸では、どんな貧しい庶民でも白米を食べていました。しかし、佐渡島のような木炭が豊富にある地域では、富裕層でも稗粟などの雑穀を食べています。木炭などの燃料が安いからです。稗粟は、燃料が安くないと食べられません。それに対して白米は、燃料が高くても食べられる食材なんですね。コンビニのおにぎりのように、朝に炊くだけで晩までもつんです。なので炊きたてを「御飯」といい、それ以外を「飯」と言ったわけです。

 つまり何が言いたいかといいますと、関東地方には、砂鉄があってもそれを製鉄するための燃料が高かったということ。しかし佐渡では、砂鉄も木炭も豊富にありました。そして、たたら製鉄の技術も高かった故に、佐渡の両津にて日本最初の鉄船建造が行われる素地があったんですね。

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 佐渡島の両津港についた私たちは、そのまま車に乗ってドンテン山に直行しました。ちょうど紅葉の時期だったのと、ドンテン山が佐渡のたたら製鉄の聖地(元祖)だったので、それを再確認するためです。ドンテン山の正式名はタダラ峰です。古代たたら製鉄の一族が、ここを根城にしていたと言われています。そうです、アニメ『もののけ姫』の元祖がドンテン山だったりするのです。

 そのちょっと北東に足をのばすと壇特山という山伏の聖地があります。また、佐渡には多くの神社仏閣がありますが、その多くが奈良時代から平安初期に山師によって創建させられています。山師・山伏も親戚みたいなものですから、古代から佐渡は、たたら製鉄・山師・山伏が活躍する場所だったのかもしれません。まさにアニメ『もののけ姫』の島です。

 ちなみに佐渡島にも、古墳があります。1502-8.jpg
http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/27405/1/017_14_1-32.pdf

 その中でも古い二見半島古墳群(台ヶ鼻古墳)は、6世紀はじめ(西暦510〜550年頃)のものですが、そこから鉄刀・鉄片・刀・鏃・鍬・鎌・小刀といった鉄製品が出土しています。しかも、その近くには製鉄遺跡も発見されています。当然のことながら古墳の造成前に鉄器が使われていたことになり、全国的に見ても、かなり早くから佐渡で製鉄が行われていたようです。

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 ところでドンテン山には、私にとっては少なからず因縁があります。

 ここには昔、ドンテン山荘という国民宿舎があったのですが、一時期そこで支配人をやってた人に、Mさんという人がいました。このMさんは、北海道出身の人で、ユース民宿と言われている『とほ宿』グループの創設にかかわった人でした。もちろんドンテン山荘も短期間ですが一時期、『とほ宿』グループに加わった時期があります。とほ宿というのは、いまでいうとゲストハウスみたいなものなのですが、昔は、ゲストハウスの方が無名で、『とほ宿』の方が圧倒的にメジャーだったんですよね。

『とほ宿』のホームページ
https://www.toho.net/map/

 それはともかくMさんですが、この人は、ちょっと変わった人で、いろんなものを作るんです。佐渡島版の『とほ』である『されど』を作ったり、朱鷺を守る民間団体『ジューンネットワーク』をつくったり、佐渡の限界集落・猿八の再開発をしたりしますが、絶対にトップになろうとしない。すぐに陰に隠れてしまう。で、勝手に潰したりもする。私の知らないところでも、きっといろいろ活動しているはずです。高杉晋作や坂本龍馬みたいな人です。

 まあ、一種の変人奇人で、突然現れては消えたりするパワフルで迷惑な人なんですが、それでいて生死にかかわる難病をかかえていたりする。もちろん自然にも詳しくて樹木や植物はおろか、佐渡の山を知り尽くしている。ツリーハウスを作ったり、大佐渡山脈を縦走したりしていますけれど、いつ死んでもおかしくない難病をかかえているんですよ。この人が、

「佐藤さん閉鎖された国民宿舎ドンテン山を買い取ってそこで宿をやらない?」

と言ってきたので動いたんですが相手にされず、私は北軽井沢でユースホステルをオープンさせたわけです。その後、ドンテン山の国民宿舎は、あたらしくドンテン山荘として、すばらしい山小屋によみがえりました。

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 で、私がどうしてドンテン山で宿をやりたかったかといいますと、この山から眺める夜景が、函館の夜景にそっくりなんですよね。おまけに植生がすごい。高山植物の宝庫で、シラネアオイなんかがワンサカ咲いている。シラネアオイといっても、ピンとこない人が多いかもしれませんが、北軽井沢でシラネアオイを買うと一鉢一万円です。それほど希少な高山植物です。

 五月の登山道はカタクリでいっぱい。花を踏まないで歩くことは不可能でした。今は、どうか知りませんけれど、二〇年前。つまり二〇世紀のドンテン山付近の山々は、花の島・礼文島なんかより、よほど花が咲いていたのです。それに目をつけた私は、佐渡に山小屋があったら凄いことになると思ったのです。

 では、なぜドンテン山付近に花が多かったのか?
 それには理由があります。
 牛の放牧に原因があります。

 実は佐渡の放牧の歴史は古いんです。最も古い記録は大同年間(806−810)。そしてこの頃に山師が、さかんに佐渡島内に寺社を勧進しています。つまり、たたら製鉄を行なったする山の民たちが見え隠れしたころに、すでに放牧がはじまっています。しかし、なにぶん古い時代であるために、詳しい記録が残っていません。

 比較的記録が残っている江戸時代だと、佐渡島内における牛馬の飼育数は6000〜7000頭で、その中で放牧頭数は2000頭だったと言われています。ちなみに1990年頃には、400頭までに減少しています。つまり九世紀から二十一世紀までの1200年間にわたる長期間、放牧を行なわれていたということになります。これが大佐渡山脈における高山植物の植生に大きな影響を与え、日本一花の多い山に変えてしまっています。

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つづく。

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2017年12月28日

息子を連れて佐渡島へ 1

 うちの嫁さんは、毎月一回は息子を連れて里帰りをしています。おばあちゃんに息子を会わせるためです。私も「行ってきな。親孝行してきなよ」と、嫁さんに推奨しています。親が親孝行しないで、息子が親孝行な人間に育つ訳がないからです。

 そういうわけで、うちの息子はすっかりおばあちゃん子です。明日はおばあちゃんの家に行くんだよと言うと、非常に嬉しそうな顔します。夜寝る時も、明日はおばあちゃんの家行くんだよね、と何度も念を押します。そして、庭先でドングリやヤマボウシの実みを拾ってなんかを拾って「これをおばあちゃんに持っていこうかな」なんて言ってます。その光景が、とっても微笑ましかったんですが、ある時、息子がこんなこと言ってきました。

「タケルには、おじいちゃんは居ないの?」

 実は、嫁さんの父親は、かなり若くして脳腫瘍で亡くなっています。なので、息子の母方の祖父は、この世にはいません。しかし、私の父ならまだ生きています。ただし、85歳ぐらいなので、いつ仏様になってもおかしくない年齢です。

「タケルには、おじいちゃんは居ないの?」
「いるよ」
「どこにいるの?」
「佐渡島と言うところだよ」
「佐渡島?」
「タケちゃんは、 2年前に佐渡島に行っておじいちゃんになっているんだけれどね、それは2歳の頃だから覚えてないのかな? 」
「うーん」
「おばあちゃんだって、もう一人いるんだよ。タケちゃんには、おばあちゃんが二人いるんだ」
「ちがうよ、おばあちゃんは一人だけ」
「いやいや、二人いるんだ」
「えええええええええええええ、違う違う」
「本当だよ、二人いる。一人は館林に、もう一人は佐渡島に」
「違う違う違う違う」

 このような言い合いになったわけですが、息子は親と同じく、祖母は一人だけだと思っているらしい。なので、その誤解をとくように何度か説明するのですが、いまいちピンとこないようなのです。ああ、これは、実際に会わせなければ理解できないんだな・・・と、久しぶりに私の故郷・佐渡島に里帰りしなければならないと思うようになってきました。

「そうか、たまには佐渡島に帰ってみるか。いつまでも佐渡島のおじいちゃん・おばあちゃんが生きているとは限らないからね」

 というわけで、息子のために2年ぶりに佐渡島に帰ることにしました。今のうちに父方の祖父母にも会わせておいて、息子に思い出を作ってあげないと思ったからです。

 出発は11月6日。前日から準備して、朝の5時に車に乗って出かけました。新潟港9時20分出発のカーフェリーに乗るためです。車ごとカーフェリーに乗りますから、往復チケットをインターネットでカード決済で予約。これによって乗船料金がかなり安くなります。本当なら北軽井沢からだと、直江津まで行ってそこから佐渡島に行った方が早いのですが、 11月から直江津航路は閉鎖になっていました。なので、北軽井沢から新潟港まで高速道路を使って3時間で到着。カーフェリー「おけさ丸」に乗り込みました。

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 「おけさ丸」は、 5,860トンと大きな船で、授乳室・喫煙室・ゲームセンター・ペットコーナー・スナック・食堂・売店・イベントプラザ・コインロッカーとなんでもあります。私が子供の頃には、佐渡汽船の船はもっと小さくて海が時化ると、船酔いで大変でした。みんなゲロを吐くために、船のあちらこちらにアルミのオケがおいてありました。

 だから佐渡島の人間は船の乗り方をよくしています。窓側なんかに行かずに船の中央部に場所を取ります。そして進行方向に対して前すぎてもだめだし、後ろすぎてもダメです。前過ぎると波にぶつかって船が揺れて気持ち歩くなるし、後ろすぎるとディーゼルエンジンの振動で、これまた気分が悪くなります。

 あと島民は必ず場所取りの意味も含めて100円で毛布を借ります。毛布を広げれば、そこが自分の領土になります。で、元島民として毛布を借りに行って帰ってきたら、嫁さんと息子は窓際を占拠していました。
「窓際は酔うぞ」
と思ったんですが、まぁせっかくの船旅だし、白波も経ってなかったので、好きなようにさせることにしました。

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 毛布で場所取りをした後は、船内の探検です。なにしろ嫁さんも息子も海無しの群馬県民ですから、海の上に浮かんでいる船に乗っているだけでハイテンション。群馬県民は、海を見るだけで幸せになると言う変わった人種ですから安いものです。
 これが夏だったら、航行中にトビウオが飛んでいたり、船がイルカの大群に囲まれたりするんですが、今は11月なので、それは期待できそうもありません。

 代わりに売店で「かっぱえびせん」を買って、それをカモメたちに放り投げました。そしてアッという間にカモメたちは集まってきました。息子は、そんなカモメたちに大喜びです。

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 で、次は、息子の船内探検。
 疲れ知らずの息子は、二時間ちかく船内をウロウロ。
 全くもって休む気がありません。
 嫁さんは、三十分でダウン。

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 私も、いい加減嫌になってきたので、
 息子をレストランに誘ってアイスなどを食べてつつ休憩しました。
 ちなみに下の画像は、佐渡乳業の看板。

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 佐渡の牛乳・バターは、ここで作られますが、実は私の実家から徒歩1分のところに工場があって、小学生の頃に学校で見学にいったりしています。それが縁で学校帰りによく遊びに行ったものです。そして賞味期限切れの牛乳をもらったりしました。

 今からしたら信じられないことですが、昔は仕事している現場に近所の小学生が乱入できたんですよね。追い払われなかったんです。それで牛乳をもらったんですよ。で、学校の給食で牛乳を残していた奴が、「おっちゃん、牛乳クレー」と強請っていたんです。まあ、迷惑もいいところなんですが、そういう事が許された昭和時代という、のんびりした時代があったんです。

 ちなみに実家では、牛乳を取っていて、毎日6時頃に牛乳配達のおじさんがやってきました。その時の牛乳瓶のガチャガチャいう音に目覚めて、牛乳をとりにいったものです。私は、実家で牛乳を飲んで、学校給食で飲んで、工場で飲んだりしましたから、一日3本も飲んだことになります。

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 実は、この佐渡乳業の牛乳やバターは、知る人ぞ知る有名ブランドで、特に佐渡バターは軽井沢の高級レストランでもよく使われています。佐渡乳業の企画力・商品力は本当にすばらしいもので、北軽井沢も見習ってほしいものですが、残念ながら北軽井沢の「みるく村」は、よそに買収されてしまって、北軽井沢ブランドは無くなって、みるく村も今では見る影もありません。
 ちなみに現在の佐渡乳業は、規模が拡大して、佐渡島でも大きな会社になっており、ここに外海府ユースホステルの息子さんが就職しているそうです。話は変りますが、今回は外海府ユースホステルに泊まるのも目的の一つです。そして外海府ユースホステルを、ここを読んでる皆さんに紹介する予定です。おっと話がそれました。

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 上の写真はジェットホイルという高速船です。
 私は、一度も乗ったことがありません。
 値段が高いし、船はのんびりの方が好きなので。
 下の写真は、佐渡おけさを歌った村田文三です。
 ロビーに飾ってありました。

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 村田文三は、佐渡おけさや相川音頭を全国的な民謡にした功労者で、彼の節回しによって、佐渡おけさが日本を代表する名曲になったと言われています。もともとの佐渡おけさは、もっとテンポの速い曲で、誰にでも歌えるものでしたが、彼の歌が有名になって、現在の佐渡おけさになったと言われています。つまり、今の佐渡おけさは「村田文三さどおけさ」なんですね。

 ちなみに私が、ヨーロッパに行ったときに佐渡おけさを歌ったら、口の悪いドイツ人が「雑音にしか聞こえない」と言ってきたので、「こきりこ節」や「谷茶前節(たんちゃめぶし)」を歌ったら、大喜びで「すばらしい民謡だ」と絶賛。彼らは手拍子したり、踊り出したりしたので、おもしろいなあと思ったものです。

 こきりこ節も谷茶前節も、テンポの良い曲ですから、ヨーロッパ人に受けたのかもしれません。しかし、佐渡おけさは、ヨーロッパのどこで歌っても
「?」
という感じで、シーンとなります。彼らには、音楽に聞こえてないようです。雑音にしか聞こえてないんですよね。しかし、これが日本になると、逆で、佐渡おけさの方が、メジャーで、こきりこ節も谷茶前節もマイナー民謡ですからおもしろいですね。

(ただし西洋化された平成時代の日本では、こきりこ節や谷茶前節の方が、メジャーかもしれない。しかし昭和では、佐渡おけさの威力が凄く、私が上京した頃は、宴会の席で、佐渡おけさを踊れとか歌えとか良く言われたものでした)





 ようするに村田文三の節回しを理解できるのは、日本人だけがもつ右脳のせいかもしれません。世界で日本人だけが、特殊な右脳をもっていて、虫の音を言語や音楽として認識できることと関係あるかもしれません。このあたりは、脳科学がもっと進歩すると、分かってくるかもしれません。若い脳科学者に、佐渡おけさを使って、ヨーロッパと日本人の脳の反応実験をしてもらいたいものです。

 もっとも村田文三以前の佐渡おけさは、独特の節回しも無く、テンポの良い曲なので、これだったらヨーロッパ人に受けたかもしれません。しかし、それでは佐渡おけさが日本で大ヒットすることもなかったでしょう。やはり佐渡おけさは、村田文三あっての佐渡おけさなんでしょう。

 限に、村田文三の節回しは、民謡界の伝説であり、過去に聞いた人の話によると、体が震えるほどの芸術であったといいますから、村田文三の存在が佐渡おけさを有名にしたので間違いないと思います。

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 これは船内で食べた海鮮丼。
 息子が、休むこと無く2時間以上船を歩き回るので休憩です。
 息子の奴は疲れ知らず。
 嫁さんは船酔いでダウン。

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 そして、佐渡に到着。

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 船はやがて両津港に到着しました。実は、佐渡の両津港こそは、日本最初の鉄船建造をしたところです。ここで、日本で初めて船体構造に鉄材を使用した船が作られたのです。その船の名前は『新潟丸』で、明治四年のことです。

 安政5年(1858)、江戸幕府はアメリカなどと通商条約を結び、横浜、長崎、函館・神戸・新潟の開港を約束しました。そして、明治元年11月19日に正式に新潟が開港となります。そのときに両津が補助港となり、港湾工事が着工され、それが完成されると、新潟と両津を結ぶ、蒸気船を建造して外国人の旅客や貨物を運送することとなりました。

 そして英国造船技師マクニホールを雇い、造船場を建設し、鉄船を建造しました。明治四年のことです。それが日本最初の鉄船「新潟丸」です。意外に思えるかもしれませんが、明治以前の佐渡は、金山のために日本有数の工業地帯でもありました。製鉄に使われる木炭も豊富であり、砂鉄も多かったために、鉄の生産も豊かで、製鉄に関連する山の名前「ドンテン山」もあるくらいで、ドンテンロッジという山小屋もあります。なので、日本最初の鉄船を建造するのに適した土地であったわけです。

 そのうえ新潟港は、信濃川が土砂を運んでくるので浅瀬が多く、大型船の入港には無理があり、小型船でも他所から来た船は現地での水先案内人を付けないと座礁の危険がありました。そこで佐渡の両津港に陸揚げして、それから小型船で新潟に輸送するようになり、そのために両津の湊が繁栄しました。港としての機能は新潟よりも両津港の方がすぐれており、特に冬場は両津の方が積荷も多かったと言います。

 また、佐渡島民は、その巧みな操船技術によって、江戸時代から新潟に薪炭や魚を輸出して儲けていました。その代表格が、外海府ユースホステルの御先祖様たちです。今回の旅は、その外海府ユースホステルに泊まってマネージャーと話をすることも目的の一つです。で、すごい収穫があったわけですが、それについては、後日、ここにアップしましょう。

 佐渡島民は、江戸時代の佐渡は、奉行所の命令で鎖国体制をとっており、他藩と交流が無かったと思っているようですが、それはとんでもない勘違いなんですよね。松浦武四郎の佐渡日誌を読めば分かるとおり、鎖国どころか、その逆なんですよ。佐渡の資料しか読んでないから、そういう勘違いが起きるんです。他地域の資料を読んだら全く違ってくる。それについては、また後日。

つづく。

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2017年12月15日

四歳児を連れて槍ヶ岳に登ってきた その2

 日没後、私は外に出ました。風は相変わらずでしたが満天の星空。このぶんなら明日の早朝は、すばらしい御来光がおがめそうでした。しかし、山小屋に戻ったら外国人の団体と一緒の部屋にされてしまって、その外国人たちがうるさいうるさい。

 マナーを守らないことで定評のある国の若い団体さんたちと一緒にされるということは、「どうせ子連れ客の幼児(四歳)もマナーを守れんだろう」という偏見が、山小屋側あったのかなと疑いました。というのも他の日本人客の部屋は、ガラガラに空いていたからです。

 そもそも私たちは最初から隔離されるように、部屋を個室のように使っていました。後から次々とチェックインしてくる人たちは、他の部屋に行く。隔離感がはんぱなかった。

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 うちの息子は、どの山小屋に行っても、誰からも絶賛されるほどマナーがよい。絶対に騒がないので驚かれる。これは息子自慢ではなく、そういうお子さんは多いのではないかと思います。自力で三千メートル級の山に登る幼児ならば、そういう躾はできてると思う。

 ところが、うるさかった外国人の団体たちは、九時前には就寝。で、私たちが寝ている部屋はどの部屋よりも静かになってしまった。

「あれ? この部屋、あたりかも!」

 外国人の若い団体たちは、いびきをかかなかった。
 彼らの年齢は若かった。

 しかし、日本人の登山客は高齢者が多くて、いびきでうるさい。
 宿屋である私たちが山小屋利用するのは必ず平日なので、若い人たちなんかいやしない。
 九割が高齢者で酒飲み。
 だから必ずいびきの大合唱になる。

 山小屋は、二十人くらいの相部屋が多いので、その中には、五人くらいの睡眠時無呼吸症候群の人がいる。ましてや空気の薄い三千メートル級の山なら確実に症状が出る。おまけに彼らは山小屋で酒を飲んで寝る習慣があるので、よけいにいびきがうるさい。

 しかし、若い人にはそれがないのです。
 若者でいびきをかく人は少ない。

 私が、十七年前にユースホステルを開業した頃は、若い人たちばかりでした。なので相部屋スタイルのユースホステルでも何の問題もなかった。しかし、団塊の世代が定年退職しだした2006年以降は、急に中高年のユースホステル利用が増え出して、いびきの苦情が若い人たちから出始めてきた。そこで2006年以降は、耳栓を格安で販売するなどの対応をしたり、予約のアンケートでいびきをかくかどうかを教えてもらい、いびきをかく人の部屋を一般人と区別隔離したりした。それでも中々いびき問題は解決しないでいた。

 そのうち若い人たちが個室予約するようになり、いびき問題はユースホステルから自然消滅したわけですが、個室のない山小屋には、いびき問題がいまだに残っていた。そして、これだけは仕方が無いと私も諦めていたのです。

 ところが外国の団体さんは、多少マナーが悪いといえど、二十歳前後の人たちばかりですから、いびきはかきません。夜九時の消灯時間を過ぎたら、爆睡して無音の状態になる。私たちの相部屋は、どの部屋より静かで寝やすくなっている。ああ、この部屋割りは山小屋側の親切だったんだなと思うことにしました。

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 翌朝、さわやかな目覚め。

 そして朝食。またもや山小屋スタッフさんから御菓子をもらう息子は、とても嬉しそうでハイテンションでした。朝食を食べ終わると見事な御来光が登りました。私たち親子は、しばし朝日を眺めながら、うっとりです。

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「頂上だけれど、どうする?」
「風が強いなあ、四歳が登れる状態かどうか偵察に行ってくる。それまでパッキング(かたづけ)の準備していてくれる?」
「わかった」

 で、10分ばかりかけて、大急ぎで偵察に山頂まで登ってみたけれど、やはり強風。風速二十メートル近くもあります。この強風さえなければ、時間さえかければ四歳児でも登れるんですが、風が強すぎて息がしにくい。おまけに、低気圧が近づいており、明日は雨。もし、ここで無理して息子と登ってしまったら今日は確実に下山中に山小屋泊まり。そして明日は雨の中を何時間も歩かなければならない。


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 駄目だ、撤退しよう。

 撤退して今日中に上高地まで行って自宅に帰ってしまおう。今日中に帰ってしまえば、明日の幼稚園行事『芋掘り』に間に合う。息子が楽しみにしていたけれど、欠席させる予定だった行事に間に合う。ただし、そのためには、十二時間のコースタイムを歩かなければならない。しかも、終バスは十七時で時間制限がある。少なくとも十二時間で上高地に到着していなければならない。

 どうするべきか?

 槍ヶ岳の山頂で一分間迷ったあげく、少々無謀だけれど上高地までの下山を決意しました。息子の体力はわかっている。奴は想像以上にパワフルだ。登山中も槍ヶ岳山頂小屋付近では走って登っていた。私や嫁さんよりも元気だった。十二時間くらいの山道なら歩けるはずだ。

 それに万が一、終バスに乗り遅れたらタクシーがある。そのタクシーも十九時に釜トンネルが封鎖されるので、それ以降は使えないけれど、その時は一時間よぶんに歩いて釜トンネル前まで行ってからタクシーを呼べば良い。それなら勝機はある。そう判断しました。

 そして下山を決意したのです。

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 案の定、息子はハイテンションで下山。
 しかも下山ルートの紅葉は、逆光気味で美しい。

 ここを十二時間で降りるのはもったいなすぎるけれど、明日の天候を考えると仕方が無い。十月中旬ということを考えると下手したら雪の可能性もあるから、のんびりもしてられない。

 こういう親の気持ちは、子供にも感染するらしく、息子の足も速くなります。そして調子にのった息子は、途中、崖から滑落しかかかりました。私は、危ない! と絶叫しましたが、その時、奇跡がおきました。息子は自ら側転して身を守り怪我一つしなかったのです。

 私は息子に、前転、バク転、側転、逆上がり、逆立ち、受け身も教えていることはいるんですが、息子は一度も成功したことがありません。だから私は、息子の運動神経の無さに時々、絶望していたんですが、イザという時に側転を成功させて自分の身を守りました。この時ばかりは、教えておいてよかったと思いました。

 芸は身を助けると言いますが、身のこなしに関することは、たとえできなくても根気強く教え続ければ、それが役に立つ時がくるんですね。だから今後も教え続けることにします。

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 四時間かけて十一時に槍沢ロッジに到着。
 コースタイムどおりです。
 上高地まであと、五時間弱の距離。

 休憩一時間を含めても終バスまで六時間あります。なので昼御飯をとりました。息子は嬉しそうに、ビスケット・ソーセージ・サラミなどをほおばります。そして、あと五時間ほど歩いて上高地に十六時三十分に到着。これほどのハードスケジュールは、二十代の若者がメインの山岳会でも『風のたより』でもやったことがありません。それにもかかわらず、楽しそうに登山していた息子は大したものです。

 これは、うちの息子が凄いと言うより、幼児にはそれだけの潜在能力があるということでしょう。きちんと訓練し、疲れないように工夫し、装備と準備を万全にし、楽しいと思わせながら科学的に登山させれば、決して無謀なことではないと思います。

 また登山を行うと、NK細胞が増加して免疫力をあげてると言われています。厚生労働省のホームページに書いてあります。また登山によって足の筋肉を発達させると病気に対する抵抗力も増やします。筋肉は免疫力を上げて『がん』まで撃退してくれます。

 最新の研究で筋肉の健康効果が次々と明らかになっています。 筋肉から生まれる「グルタミン」という物質は、人間の免疫力の源である「リンパ球」を増やす事が分っています。これによって人間の免疫力が高まり、がん細胞をやっつけたり様々な病気になりにくくなります。

 なので息子は病気をしません。インフルエンザをうつされても一晩寝るだけで治ってしまいます。親は一週間も寝込むのにです。


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 話を戻します。

 槍沢ロッジから、横尾まで二時間。そして、横尾・徳沢園・明神と、徒歩一時間おきに山小屋があります。つまり一時間おきに山小屋で休みながら飲み食いするわけですから息子も大喜び。先を急ぎたいのは山々でしたが、息子を喜ばせることも忘れてはいけないので、山小屋で、ふだんできない贅沢もさせなければなりません。

 十六時三十分。上高地バスターミナルに到着。なんとか終バスに間に合いました。けれど、疲れたので私が
「タクシーで帰らない?」
と提案するも嫁さんは却下です。お金がもったいないと言います。もったいないも糞も三人分の差額は、たったの八百円なんですが、うちの嫁さんは、節約家なので露骨に嫌な顔をします。仕方が無いのでバスに乗ることにしました。

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 上高地からバスで沢渡の駐車場に到着。あとは北軽井沢に帰るだけでしたが、せっかくなので松本の日帰り温泉に立ち寄りました。息子は疲れ知らずで、温泉で大喜び。非日常を大いに楽しんでいました。そして回転寿司で久しぶりの魚を食べて帰宅。翌日は、幼稚園の芋掘りイベントに参加して、息子は大量のサツマイモを収穫してきました。

 子供園(幼稚園)を三日間もお休みしていたので、園の先生が、「どこに行ってきたの?」と聞いたらしいのですが、息子は「温泉に行ってきた」と答えたらしく、園の先生方は
「温泉に行ってきたんですねえ」
と私に言ってきました。私自身も「はあ」と曖昧に返事をしてしまいました。今さら槍ヶ岳といっても山を知らない人には「?」ということでしょうし、いちいち説明するのもかったるいので温泉に行ってきたということにしておこうかと。

 ようするに息子にとっては、槍ヶ岳よりも、温泉の方が印象深かったし楽しかったんでしょう。そして、よくよく考え見たら私も、そうたったかもしれないと思い返しました。登山後の温泉と寿司とビール。これが一番最高だったかもしれません。


つづく。

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2017年10月20日

四歳児を連れて槍ヶ岳に登ってきた その1

 久しぶりにブログを更新します。 十月に入ってから、雨ばかり降っていて憂鬱になってしまいますね。今年は、宿を大胆に休館して息子連れて登山ばかりする予定だったのですが、雨ばかりで大幅に予定が狂ってしまいました。今日も雨が降っていますが、気分直しに、 十日前に登った槍ヶ岳の話でもしようかと思います。

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 十日前といえば、ちょうど十月の連休があった時ですが、珍しく晴天に恵まれた連休でした。お客様が出発したあと、大急ぎで部屋掃除をして、十一時頃に、上高地に向かいました。連休最終日と言うこともあって道路が混雑しており、上高地に到着したのは十五時三十分でした。日没まで二時間を切っていたのです。

 四歳児を連れて上高地から槍ヶ岳に登る方法は、一種類しかありません。
 上高地・・明神池・・徳沢・・横尾・・槍沢ロッジ・・槍ヶ岳山荘のコースです。
 大人が普通に歩けば 往復二十四時間。
 やや健脚向きのコースで三泊四日のコースです。
 予備日を入れれば四泊五日でしょう。
 なので幼稚園にも一週間のお休みの電話をしました。
 息子が楽しみにしていた幼稚園行事もお休みです。
 宿屋も月曜日から金曜日まで休館にしてしまいました。

 上高地に到着したのが十五時過ぎ三十分。普通なら上高地で宿泊です。山小屋は、一般の宿と違って、チェックインの締め切りが早いのです。十七時を過ぎてチェックインしようものなら怒られます。山小屋によっては怒鳴られることもあります。

(もっとも現在ではそういうことも少なくなっているかもしれませんが、昔は「山をなめるな」と怒られていました)

 なので普通なら上高地で宿泊なのですが、天気予報を見ると、 三日後に雨が降る予報。急がないわけにはいかなかった。なにしろこっちは四歳の子供連れです。岩場の多い槍ヶ岳のルートを四歳児に歩かせるわけにはいかない。岩が濡れると非常に危険なのです。

 さらに低気圧が近づくと、空気が薄くなって高度障害(高山病みたいなもの)がおこりやすくなります。 四歳児にそれが起きると、それが原因で他の病気を併発することもあります。それらを考えると、少しでも先に進みたかった。なので、 三時間かけて横尾山荘まで歩くことにしました。

 もちろん山小屋の御主人に「非常識すぎる」と怒鳴られないように観光協会を通して予約を入れようとしたんですが、観光協会は「熊が出るから」と受け付けません。夜間に登山道を歩く行為は危険なので、私だってお客さんにお勧めしません。しかたがないのでパンフレットだけもらって、歩きながら自分で交渉をすることにしました。

「もしもし、横尾山荘ですか? 今日泊まりたいんですけど」
「今どちらですか?」
「明神の手前です」

 この答えは正確ではありません。
 まだ上高地にいたからです。
 でも上高地だって、明神の手前です。 四キロほど手前。
 そういう屁理屈で、相手をだまして予約の電話をいれました。

「明神からだと、到着時刻には真っ暗になりますけれどヘッドランプを持っていますか? 」
「もちろん持っています」
「何名様ですか? 」
「大人二人と子供が一人です」
「お子さんは何歳ですか?」
「年中組です」

 四歳と答えると、宿泊を断られる可能性があったので、あえて年中組と答えたんですが、それでも幼児連れとあって電話の相手は急に渋り出しました。

「明神で宿泊されたらどうですか?」
「どうしても今日中に横尾山荘まで行きたいんですよね」
「うちに泊まったことありますか? 山小屋ですよ」
「もちろん何度も泊まったことあります。何十回も止まっています。息子も山小屋に何度も泊まったことがありますので大丈夫です」
「でも幼児ですよね」
「三歳の頃から自分の足で三千メートル級の山に登っていますので素人ではありません。御心配をおかけすることはないと思います」
「・・・・」

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 こうして粘り強く交渉した結果、なんとか宿泊予約が取れたのですが、冷や汗ものでした。もし上高地から電話していることがバレたら確実に断られていたでしょう。だから「明神の手前」と嘘も方便をつかったわけです。

 ちなみに一般的な山小屋は十七時に夕食です。
 そして二十時頃に消灯となります。

 しかし横尾山荘は、十九時までに食事を取ればいいと言ってくれる。ずいぶんのんびりしてるなぁと思ったのですが、その理由が後で分かりました。私たちと同じように遅く到着する旅行会社の登山パーティーの予約が入っていたからです。関西からバスに乗って上高地に来る登山系旅行会社(◆◆旅行社)の団体さんが、私たち親子の前を歩いていたからです。

「うわー、ガイド付きとはいえ、これはありえんわ」

と、自分たちのことは棚に上げて呆れながら後をついていきました。歩く速度も速くて、駆け足に近い速度です。もちろん私たち親子も、ほぼ駆け足に近い速度で歩かないと、日没となって危険になるので急ぎ足です。途中、団体さんを追い抜いて、横尾山荘に到着したのが十八時前。辺りは真っ暗でした。

 横尾山荘の御主人は、非常に優しい方で、ベットは添い寝・食事は取り分けにしてくれました。おかげで安く泊まれました。この山小屋は、幼児連れに対するサービスが良く、風呂も豪華でした。日本一豪華な風呂がある山小屋だと思います。

http://www.yokoo-sanso.co.jp/
http://www.yokoo-sanso.co.jp/information

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息子は久しぶりの山小屋泊に大喜びで、はしゃぎまくっていましたが、なんとか他人に御迷惑をかけずにすみました。ここで息子は山小屋式トイレを経験し、大きなウンチを排泄。消灯は二十一時。朝食は五時の山小屋式タイムスケジュールも体験します。

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 翌朝、私たちは槍ヶ岳を目指しました。四歳児連れの槍ヶ岳方面の出発は、かなり目立ったようで、大勢の登山客が息子を応援してくれます。息子の方も調子に乗って、先頭を歩きたがります。そして槍ヶ岳から降りてくるお客さんを見つけると大きな声で
「こんにちわ!」
と挨拶をします。するとお客さんから

「すごいなぁ」
「何歳かな?」
「がんばれよ」

と応援してくれるので、それが非常に嬉しかったようです。私が息子を追い抜いて先頭に出ようとしようものなら、烈火のごとく怒り出して、ブロックしてきます。自分が先頭を歩かないと気が済まないようです。そして、大勢の登山客に挨拶します。

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 と、このように書くと、うちの息子はさぞかし運動神経が良いだろうと思われがちですが、そういうわけではありません。運動会のかけっこでは、いつもビリです。 十メートルくらいは普通にはなされてしまいます。キャッチボールも五メートルまでで、それ以上の距離が離れるとボールが届きません。バク転も、逆立ちも、逆上がりも、教えてはいるのですが、まだ無理です。 三月生まれのハンデを考慮したとしても、決して運動神経が良いとは言えません。

 要するに息子の運動能力は登山に特化したものなんです。

 かけっこが遅い理由も、登山に特化したためです。私は何度も、山道を走る息子を叱っています。登山道を走ると大怪我するからです。そのために息子は、いつも五割の力でしか走らなくなりました。唯一の例外が浅間牧場で、一面芝生だらけなので、浅間牧場では全力疾走を許しているので、この場所だけでは親よりも速く走ります。けれど、他の登山道では走ると私に怒られるので、ゆっくりとしか走らなくなりました。なので、幼稚園でかけっこをすれば、必ずビリです。

 また、登山という世界は、楽しみながら歩くのがメインですから、競争するという考えもありません。私たちの登山スタイルは、疲れたら休む。そしておやつを食べる。だから息を切らして山に登ることはないんです。

 そもそも四歳児の幼児が息を切らしてまで登山道上ることなんてありません。もちろん親の私は重い荷物を背負っているので、ハァハァーゼーゼー言いながら登りますけれど、息子は息を切らしてまで登りません。疲れたら
「疲れた」
と言って立ち止まります。

 だから、息子が疲れないように、長年培ったテクニックを使います。アミノバイタルゼリーやアミノ酸系ドリンクを飲ませるんです。そうすると疲れないし、水分もとれます。案内表示ごとに写真を撮ったり、おやつを食べたりしてやる気を出させます。

 パブロフの条件反射のように「山を歩くイコールおやつを食べる」というのを徹底的に脳に植え付けるんです。そうすると嫌でも登山好きになってしまいます。また、下山後は、かならず温泉に入って、息子の好物を与えています。最後が楽しければ、楽しかった思い出しかのこりませんので、こうやって簡単に洗脳します。そのために登山すると逆に体重が増えるという逆転現象がおこります。

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 実は、この方法は、登山に限らず、いろんなことに有効でした。 二歳〇ヶ月の時は、この方法によってひらがなカタカナ数字アルファベットなどを二週間ぐらいでマスターさせています。三歳〇ヶ月の頃は、漢字を読めるようにしました。ただし、書けるようにはなっていません。指の力がないうちに文字を書かせるのは危険なので、これは五歳になるまでやらないようにしています。

 話がそれました。
 槍ヶ岳登山の話です。

 横尾山荘から槍ヶ岳までは、普通に歩くと八時間ぐらいかかります。この八時間時間というのが、くせ者で、どんなになだらかなコースでも八時間以上歩き続けると、急激に体に負荷がかかるんです。だから八時間で槍ヶ岳に到着しなければいけません。

 昔、『風のたより』という旅人の集まりで、二十代の若者を数十人連れて、横尾山荘から槍ヶ岳山荘を目指したことがあるんですが、残念ながら到着しませんでした。槍ヶ岳の手前の殺生ヒュツテと言う山小屋までしか到着できなかったんです。

 距離が長かったこともありますが、標高が高くて空気が薄いために体調崩した初心者が多かったために、八時間で殺生ヒュツテまでしかいけなかったんです。あと一時間かければ、槍ヶ岳山荘に行けなくもなかったんですが、その一時間オーバーが、命取りになることが多いんですよね。だから八時間以上の登山になると、
『残業タイムに入った』
と言って、登山リーダーは要注意で、メンバーの様子を見るわけです。

 必要以上に息を切らしてないかとか、靴擦れをしてないかとか聞いた上で、唇を見たり、手の爪を見たりするわけです。そして、極端に紫色の唇をしてる人がいたら要注意なんです。その人は、それ以上歩かせたら、高度障害になる可能性が出てくる。そのあたりは三十年間の登山ガイド経験で、嫌と言うほど体験しているので、四歳児をコースタイムどおりに登らせなければならない。

 で、息子と嫁さんに、後先を考えずに、アミノバイタルやアミノ酸飲料を断続的に与えました。最初は、三十分ごとに休憩して与え、終盤には十分おきに休憩して与えました。休憩時間は一分。それ以上休むと筋肉が固まるから、終盤は小刻みに休憩で、おやつを食べてるんだか、山を登ってるんだか分からなくなるような登山になります。

 私は、もっぱら写真撮影。
 槍沢カールの紅葉は、それは美しかったです。

 みんな紅葉を目指して涸沢とか天狗原の方に行きますけれど、槍沢だって決して負けてはいません。もちろん穂高連峰の魅力も捨てがたいものがありますが、あそこは四歳児には、ちょっと岩場の難易度が高すぎるんです。槍ヶ岳なら、頂上付近を除いて四歳児でも充分に登れるコースですから、穂高連峰は息子は五歳になるまでとっておきます。登るなら来年以降です。

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 十四時。槍ヶ岳山荘に八時間かけて到着。直ちに槍ヶ岳山頂に登ろうかと思ったんですが、稜線上は風速二十メートル近い強風。頂上への登り口に行ってみたら強風のあまり息子は立っているのがやっと。息するのさえ苦しそうで今にも泣き出しそうでした。
「これは無理だな」
と思ったので、頂上アタックは、翌朝に変更して山小屋でゆっくり休むことにしました。

 ちなみに槍ヶ岳山荘では、幼児の添い寝というシステムはなく、四千円くらいの幼児料金が取られます。取り分けのシステムもなくて、取り皿も出してもらえません。ここが八ヶ岳の赤岳山頂小屋と違うところです。

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 しかし山小屋自体は豪華な建物で、料理も美味しいです。うちの息子は、スタッフの人から御褒美のおやつをもらっていました。きっとお子さんがおられるスタッフさんだったのでしょう。四歳児が標高三千メートルの山小屋まで八時間かけて自力で登るということが、どれだけ苦労するのか、どれだけ凄いことなのか自分が子育てしてみて分かっているんだと思います。それが証拠に、若い登山家には、四歳の息子をみても無反応ですからね。

 ちなみに息子は、よほど腹が減っていたのか、御飯が美味しかったのか親の御飯の大半をペロリと食べちゃいました。こんなことなら取り分けにしなければよかった。食事を三人前注文すべきだったと後悔しました。それだけ御飯が美味しかった。

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 ただし、一部の登山家には大変不評でした。というのも山小屋でビールを売ってなかったからです。

「ホームページに山小屋で飲むビールは最高に美味しいと書いてあるから、それを期待して登ったのに、次のヘリの便でも送ってこないなんて詐欺だ」

と怒っていました。うちの嫁さんは「なんでそんなことで怒るんだろう?」と、そういう人たちをクレーマー扱いしていましたが、これは文句を言う人の言い分が正しいと私は思います。ビールは売り切れて、その補充を今後しないんであれば、ホームページにそれを書くべきだったでしょう。
「山小屋の終了が近いのでビールの補充ありません」
と書いてあれば、登山家の連中は自分でビールを持参して登山したと思います。それを書かずに「山小屋で飲むビールは最高」とホームページで宣伝して、欠品してもビールの補充をしたいのであれば、ビール党に言わせれば詐欺師に騙されたも同じです。うちのスタッフの土井くんだったら怒り狂っていたかもしれません。

 ただし、私ならビールなどのお酒は飲みません。高度障害にかかりやすくなるからです。ましてや低気圧が接近してるなら尚更です。念のために息子の体調を確認してみたら全く異常ありませんでした。相変わらず健康そのもので、ハイテンションになって談話室のクライミング練習用の壁を登って遊んでいます。
「こいつは、どんだけ元気なんだ!」
と呆れかえりました。

 それに対して嫁さんは唇が紫色。高度障害になる可能性がありました。無理もありません。出発直前まで連休で満室の宿をきりもりしていたからです。睡眠不足で高度障害にかかりやすくなっていたのです。しかし心配してませんでした。薬も与えているし、対策も伝授しているからです。第一、私たち夫婦は、槍ヶ岳に十数回登っているからです。

 私は、みんなが寝静まったあと、こっそり外に出ました。
 風はあいかわらずでしたが満点の星空でした。
 このぶんなら明日の早朝は、すばらしい御来光がおがめそうなかんじでした。

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つづく。

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2017年09月20日

汚れ無き悪戯 その5・イタズラといえば

汚れ無き悪戯 その5・イタズラといえば

 息子が2歳になって、自分で歩けるようになると、親はイタズラに悩まされます。これはしょうがない事なんですよね。子供は親の真似をするからです。まず最初に行う悪戯は、何から何までスイッチを見つけたら押すことです。子供が生まれるまで気がつかなかったことですが、我々の日常にはスイッチというものもたくさんあるんです。

 電動モーターでストーブに灯油入れてる時に、予約の電話か何かがかかってきて、ちょっと席を外すと、電動モーターのスイッチ入れられて、辺り一面が灯油だらけになっていることが何度あったことか。それも大抵が、チェックインの直前だったりします。もうこうなると時間との勝負ですから、ありったけのバスタオルを床一面に放り投げて灯油を吸い取ります。もちろんバスタオルは二度と使えなくなります。

 私も人間ですから、トイレに行くこともあります。息子のイタズラは、その時におきます。いろんなところにあるスイッチを押しまくるわけです。テレビ・ビデオ・電気・エアコン・パソコン・ストーブ・電子レンジ・トースター・換気扇・・・・。ありとあらゆるスイッチを押しまくります。夏に暖房のスイッチ。冬に冷房のスイッチ。ボイラーのスイッチを切られて、風呂に入ってた日には・・・・。

 でもこれは、まだまだかわいい方で、 三歳くらいになるともっと高度な悪戯を始めます。スイッチを回すということを覚えるんです。こうなってくると、非常に危険です。電子レンジに物を入れて、スイッチを回転させて実際に動かせるようになるからです。そうなると、電子レンジの中に入れるものによっては、電子レンジが爆発物になってしまうから厄介です。この前も、レンジの中に電球入れて動かそうとする息子を寸前で止めて事なきを得たばかりですから。もちろん料理中にガスの元栓を閉められたりもする。

 三歳くらいになると食洗機も使えるようになりました。脚立を使って、何でも洗ってくれます。けっこう操作方法が難しい物でも使えるようになり、カバンでも携帯でも洗ってくれます。さすがに四歳になると、洗うのは食器だけだと理解するようになっていますけれど。

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 私の仕事は宿屋ですから、当然のことながらパソコンで予約の管理をしています。 数万にのぼる膨大なデータが、パソコンの中に入っていて、予約および顧客管理をしているのですが、ちょっとしたことで席を外すと、息子にいじられてデータを消去されそうになることがあります。息子は私の仕事ぶりを、ニコニコしながらじーっと見ているわけですが、最初は
「かわいいなぁ」
と思っていたのですが、これがとんでもない。

 ニコニコしながらじーっと見てる時は、私の作業を観察しているわけです。
 操作方法を研究しているんです。
 だからそういう時こそ要注意なんです。
 三歳だからと言って油断なりません。
 もうアルファベットも数字も覚えているのでパスワードなんかすぐに見破ってしまいます。
 親が考えているよりも子供というのは、頭がいいんですよね。

 四歳ぐらいになると、呆れる位に悪知恵が働くようになります。
 つまり大人の真似が出来るようになってしまうんです。

 例えば目覚まし時計。
 目覚まし時計が止まってしまうと朝起きれません。宿屋というのは大抵は、慢性の睡眠不足に苦しんでいますので、目覚まし時計なしでは起きれないんです。もちろん寝坊したら、お客さんの食事が作れません。ですので、用心のために二つ以上の目覚ましをセットしています。それが二つ同時に故障してしまうことがあります。よく目覚まし時計が壊れていましたので、
「最近の目覚まし時計はよく壊れるなぁ」
「電波時計なのに、どうして時刻が狂ってしまうんだろう? 」
と疑問に思いながら、次から次へと新品を買い足していたのですが、気がついたら10個ぐらいに増えてしまった。

 その増えてしまった目覚まし時計を、息子はずらりと並べてしまう。どれが壊れてて、どれが正しく動作するのかさっぱり分からなくなってしまう。壊れた目覚まし時計を、どこかに隠しておいても、鼻のきく息子は必ず見つけ出して、コレクションのように窓際にずらりと並べてしまう。そして、どの目覚ましが正確に作動するのか分からなくなってしまう。

 仕方がないので、すべての目覚ましをセットしておくと、朝、10個の目覚ましがすべてが正常に動いて、大音響に飛び起きてしまった。調べてみたら、どの目覚まし時計も壊れてなかった。息子が勝手に、時間を狂わせていたんですね。もちろん電波時計ですから、 四歳ぐらいの幼児が簡単にはセットできない目覚まし時計なんですけれど、息子はいともやすやすと、それを狂わせてしまう。親が操作してるのをじっと見ているからです。

 つまり、おとなしそうにじーっと見ていたら、
 もうその時点で要注意なんですね。


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 ある日、嫁さんが私に、「大河ドラマの録画できてないんですけれど」文句を言ってきました。嫁さんは、超がつくほどの歴史オンチなんですけれど、真田丸を見て以来、歴史に興味を持ったらしく、大河ドラマだけはどんなに忙しくても見ているんです。で、夏の忙しい時に録画できてない回が何回かありました。で、調べてみたら本当に録画できていない。というかそれ以前にテレビが写ってない。

「アンテナケーブルが、はずれているのかな」

と調べたけれど問題は無い。機械が故障したのかなと思うと、それも問題なさそう。とにかく電波が入ってない事は確かなので、いったいどうしたんだろうと、数時間ほどさんざん頭を悩ました上に、休憩のためにテラスのソファーで休んでいると、息子がニコニコと何枚ものB-CASカードを持ってトランプのように遊んでるのが見えました。これじゃTVは録画できません。というか、全部のテレビのB-CASカードを抜いたのかよ!

 これなんかまだましな方で、 CDやDVDともなると無惨なものです。勝手に取り出され、鉛筆の中に串刺しにして入れて遊ばれてしまいます。大量のCDやDVDの穴にヒモを通してあそんでる。買ってきたCDが3日もたたないうちに破壊されていることが何度あったことか。

 子供は穴が好きなんですよ。穴があるとそこに何か入れたくなる。CDやDVDには穴があるので、鉛筆を差し込みたくなるわけです。もちろん、おでんのちくわなんかにも穴があるために、食べる前にちくわの穴に指を入れる。5本指に竹輪が5個。ドーナツなんかも穴から覗くことをする。そして目の周りが油だらけになってしまう。とにかく穴があるとそこに何かを入れたがる。

 宿屋やってる関係上、お客さんのゴミを片付けることが多いために、私たちはゴミ箱の中に物をぽんぽん入りてしまいますが、それを見ていた息子は、やはり真似をしてしまいます。
 財布がない、
 sdカードがない、
 クレカがない、書類がない・・・・と思ったら、事務所のゴミ箱に入れられていたということが何度かありました。さすがに四歳になると、そういう所と分別はついてきていますが、 2歳位の時は、それで青ざめたことが何度もありましたので、ゴミ箱のゴミを捨てるときはかなり慎重になったものです。

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 息子も今月26日で四歳六ヶ月なので、ものの善悪はだいぶ分かってきています。そういう意味では、安心なのですが、今度は別の系統のイタズラが目立つようになってきました。倉庫から大量のコンセントを持ってきてそれを次々とつなげて、アート作品を作り上げたりします。うちには、予備の電源タップが30個くらいありますので、それをタコ足にタコ足をつなげて100本足のタコを作って見たり、長ーくつなげてソファーを使って縄張りを作ってみたりです。それを御客様のチェックイン直前に発見したときは、超焦ります。まあ、床が灯油だらけになるよりはマシなんですけれどね。

 あれ? カメラが無いぞ?

 と思った時も、大抵は息子が持っていることが多いですね。そして何百枚も写真を撮っている。その写真が、かなりのアートです。自分の指紋だったり、親の禿頭のつむじだったり、愛犬コロの耳の中だったりする。その無駄な写真を後で消去するのは本当にめんどくさいですので、最近は古いカメラを息子に与えています。そしてsdカードがいっぱいになるたびに、フォーマットをかけています。

 これもおそらく親の真似なんでしょうね。宿屋の人間は、すきあらば観光地の写真を撮って、使える写真ストックしておくものなので、その姿を見た息子は盛んに真似をしているんだと思われます。

 真似といえば、料理もやりたがって困っています。もちろん賄い料理くらいなら一緒に作ったりするんですが、お客さんに出すものを料理させるのはさすがに衛生上まずいですので、なんとか説得してやめさせています。すると息子は、せめて配膳をしたいと言い出します。これも絶対に無理ですので、なんとか説得して止めさせました。すると息子なりに考えたのか、みんなが食べ終わったとの醤油(しょうゆ)・ソース・ドレッシングを集めて持ってくるようになりました。

 まあこのぐらいならいいか

 と、この範囲なら大目に見ています。


つづく。

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2017年09月16日

汚れ無き悪戯 その4・知らないうちに英才教育を受けていた息子

 私も今年で55歳。このぐらいの年齢になると、古くからの友人も色々と出世して、各方面で大活躍しています。企業に勧めているしがないサラリーマンだった友人も多くは、部長や取締役になって、社会に影響力を持つ人間になっています。

 なかには、南極大陸で活躍している人もいます。実は半年ぐらい前に、南極の昭和基地から絵はがきが届きました。もちろん我が家の家宝です。昭和基地の消印のついた絵はがきを持っている人間は、そう多くないと思いますから。

 漫画家として活躍している女性もいます。彼女と知り合ったのは、今は亡き毛越寺ユースホステルというところです。早朝に一緒に座禅をした事は懐かしい思い出です。そんな彼女も、素敵なご主人と出会い、結婚され、男の子の息子さんを出産しています。ちょうどその時、私は、ユースホステルの生みの親であるドイツ人教師リヒャルトシルマンの伝記を出版していて、日本ユースホステル協会からついでにリヒャルトシルマンの漫画を作る計画もあって、その漫画を彼女に書かないかと彼女に打診したこともありましたが、ご長男の出産が間近だということで、断念したこともありました。

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 その数年後に、我が家で子供が生まれたわけですが男の子でした。今の息子です。男の子同士ということで、しばらくすると漫画家の友人から、大量のベビー用品のお下がりが送られてきました。どれもこれもブランドもので、洗濯してもピシャッとしています。量販店で買ったベビー用品は、すぐに毛玉になったり、サイズが小さくなっちゃうんですが、ありがたいことにいただいたブランド物のベビー用品は、全くそんなことありません。感謝感謝です。私は漫画家の彼女に頭が上がりませんでした。もちろんお礼にジャムやら何やらを送りましたが、お下がりとは言え買えば何万円もするベビー用品ですから、ありがたくてありがたくて、申し訳なかったです。

 しかも1回や2回ではありません。何度も何度も、お洋服やら、オモチャ・こどもチャレンジなんかがどっさりと送られてきました。おかげで、おもちゃなんかほとんど買わずに済みました。買わなくても全く困らない。とにかく大量のおもちゃが送られてきていたのです。しかもみんな高価なものばかり。本当にありがたく使わせて頂きました。

 話は、かわりますが、うちの息子は、どういうわけか鉄道好きです。物心ついた頃から鉄道マニアになってしまっています。うちの息子は、鉄道好きです。親子で一緒に登山する時も、電車ごっこで登る位です。おもちゃ王国に行くと、将来に機関車トーマスに乗りたいと言ってきます。

 なぜだろう?

 と、常々不思議に思っていました。実は、我が家の近所には駅がありません。鉄道だってないのです。なのにどういうわけか、鉄道好きになっています。最初は男の子というものは、そういうもんなのかなあと思っていましたが、鉄道のない田舎からやってきたお客さんの話によると、

「近所に鉄道がないから、うちの息子は鉄道に全く興味がないんだよね」
「鉄道に乗った経験がないから、息子は自動車好きなんです」
「鉄道を見たことがないから、ピンと来ないみたい」

と言う事。
 つまり、身近に鉄道がないと、鉄道に興味を持てないみたいなんです。
 そういうお子さんは、自動車に興味を持つらしいんです。
 そうなると、ますます
「どうしてうちの息子に限って鉄道好きなんだろう?」
と言う疑問が湧いてきました。

 確かにうちの息子は、あまり鉄道に乗ったことがありません。 2回か3回ぐらいしか載っていません。ほとんどが自動車で移動です。こういう場合、たいていのお子さんは、鉄道好きにはならず、自動車が好きになるものらしいですね。ところが、うちの息子は鉄道好きなんです。どうして、かなぁ?と疑問が湧いてきて、嫁さんに
「うちの息子はどうして鉄道好きなんだろう?」
と尋ねたことがいました。嫁さんはあきれ顔で答えました。

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「鉄道好きなのは、当たり前」
「え? どうして」
「今までどこに目をつけていたの?」
「はあ?」
「あの大量のおもちゃは、一体何? 」
「?」
「いただいた大量のお洋服を、よく見て」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! そうか、そうだったのか?」

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 よく見てみたら、息子が普段から着ていたお洋服は、すべて鉄道関係のものでした。プラレールのTシャツだったり、機関車トーマスのTシャツだったり、どれもこれも鉄道関係のお洋服ばかり。おまけにおもちゃまで、すべて鉄道関係です。自動車はほぼゼロ。つまり息子は、生まれたときから、鉄道のTシャツと、鉄道のおもちゃで、鉄道の英才教育を受けていたんですね。よくよく考えてみたら、漫画家の彼女のご主人は、バリバリの鉄道マニアだった。すっかり忘れていました。



つづく。

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2017年09月12日

汚れ無き悪戯 その3・文字を使ったイタズラ

 夏休み中、息子は、いつも保育園で私を待っていました。私は、決まって13時に息子を迎えに行ってたのですが、時々 、遅れることがあります。そんな時、息子は玄関先で椅子に座って絵本を読みながら私を待っていました。息子は私の姿を見つけると、とたんに笑顔となって絵本を教室に戻して駆け寄ってきます。

 息子は、保育園に通っています。
 といっても、子供園という施設です。

 子供園というのは、基本的に幼稚園なんですが、幼稚園が終わると、延長保育という形で保育園になります。もちろん延長保育を受けるには、保育園児と言う形で入園します。幼稚園に入園した子供たちは、延長保育を受けることありません。うちの息子は、幼稚園には入っていません。保育園児として、子供園に入園しています。けれど、幼稚園児と一緒に幼稚園教育を受けるわけです。ただし、幼稚園は午前中で終わってしまうので、幼稚園児は給食を食べたらすぐ帰ってしまいます。そして残された保育園児が、延長保育を受けるわけです。これが子供園のシステムです。

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 ところで、幼稚園には、長期間の夏休みがあります。保育園には基本的にそういうものはありません。夏の間、幼稚園が夏休みに入ると、子供園は、朝から晩まで保育園になってしまいます。もちろん息子も保育園に預けます。保育園ですから送迎バスはありません。幼稚園にはスクールバスがあるのですが、保育園にはスクールバスありません。親が連れていくしかないのです。当然のことながら、その役目は父親である私の仕事となります。私が買い出しに出かけるからです。

 夏休みは、 1年で1番お客さんが来る時期で、死ぬほど忙しいので、買い出しのついでに息子を子供園に預けます。そして大急ぎで、宿に戻って掃除洗濯をし、庭や家のメンテナンスをし、ベットメイクを終わらせ、大量のゴミを捨て、昼飯を食らって、ペットの犬を散歩させて、 13時頃に息子が待っている保育園に向かうわけです。毎日忙しさで死にそうなくらいです。本当ならば、 16時頃まで息子を預けておきたいのですが、そういうわけにはいきません。お客さんが、チェックインしてくるからです。電車バスでやってくるお客さんの送迎もあります。 13時までに息子を家に連れ帰って、風呂に入れなければいけません。

 宿屋の人間は、たいてい14時前に風呂に入ります。 15時からは食事の準備があるので、体を清潔にしておかないとならないからです。なので、13時に息子を連れて帰り、一緒に風呂に入るのですが、これがまた一苦労なんですね。小さな子供が、 13時におとなしく風呂に入ってくれるわけがないからです。もちろん風呂から上がったら昼寝をさせるわけですが、これもまたおとなしく昼寝をしてくれるとは限りません。

 そこで役立つのが、絵本とビデオです。私は息子に2歳になる前に、文字を覚えさせたので、息子は暇があれば自分で絵本を読むようになりました。嬉しいことに、子供園のほうでも絵本の貸し出しをしてくれます。息子は毎日、いろんな絵本を借りて持ってきます。そして、私に読んでくれとせがんできます。 2歳で文字を覚え、もう4歳5ヶ月になっているので、かなりすらすらと自分だけで絵本を読めるようになっています。それでも、親に読んでくれと言ってきます。

 まず母親に読ませて、次に父親の私に読ませます。 2人とも読み方が違うので、 2つの読み方を楽しんでいるようです。そして、そろそろ寝てくれないかなーとこちらが思っていると、
「今度はタケちゃんが読むね」
と、お気に入りの絵本を持ってきて、私に読んで聞かせます。私は、日頃の睡眠不足のせいか、息子が絵本を読んでくれると、ウトウトと寝込んでしまいます。気がついたら御客様のチェックイン開始時間の15時頃ということがままありました。

 で、息子のほうは昼寝してくれたかというと、これがまた寝てないんですよ。 1人で他の絵本を読んでたりする。仕方がないので、録画したビデオを見せて、こちらは夕食の準備をします。そうしないと、仕事の邪魔をしにくるんです。

「タケちゃんも料理を作りたい!」
「タケちゃんもゴミ袋のセットする!」
「タケちゃんも皿洗いする!」
「タケちゃんも皿を運ぶ!」

 幼児を育てているお母さんなら分かるかと思いますが、こうなってしまうと、もう仕事どころではありませんから、このような状態にならないように、息子が好きそうなEテレの幼児番組を大量に録画しておいてみせるわけです。

 ここで不思議なことがおきます。大量の幼児番組を録画してあるので、ストックはいくらでもあります。 1回見た番組はもう見ないだろうと思って、別の日付の番組を見せようとするんですが、そうすると息子は怒り出します。気に入った番組を何度も何度も見たがるのです。それこそ何十回と同じ番組を見ようとします。そして同じところでケラケラと笑っているんです。

「この番組、前に見たよね、別の日付のものを見ようか」

といっても、受け付けません。同じ番組だけを何度も何度も見ようとします。

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 これは絵本においても同じで、気に絵本を何度も何度も繰り返し声を出して読みます。もちろん借りてきた新しい本も読むんですが、どちらかというと親に読んでもらうことのほうが多く、自分が自主的に読む本は、やはりお気に入りの本に限られてきます。お気に入りの本だと親にも読んで聞かせます。何度も聞かされる私は、悪いと思いつつも、寝てしまう。

 これじゃ、どっちが親か分からない展開です。

 話は変わりますが、息子が通ってる子供園では、積極的に絵本の貸し出しをしてくれます。なので息子は毎日、いろんな絵本を持って帰ります。最初は庭先の木陰でお母さんに読んでもらい、次に、風呂上がりに、または寝る前に、布団の上で父親の私に読んでもらいます。

 そこで気がついたんですが、息子が借りてくる絵本に1つの傾向がありました。毎回同じ作者なんです。いつも作者が一緒なんです。もちろん、その作者の絵本を一通り読破すると、別の作者の絵本に移ります。どうやら息子は、絵本の作風を理解している様なんですね。一時期は、アニメ「はなかっぱ」の作者である「あきやまただし」の絵本ばかり借りていました。

 こう書くと、息子は「あきやまただし」のファンになっていたみたいに聞こえますが、本人にそういう意図があったとは思えません。たくさんの絵本を読んでいるうちに、知らず知らずのうちに自分の好みが出来上がったんだと思われます。もちろん、息子は「あきやまただし」なんて人に興味を持ってないし、名前も知らないと思います。しかし一時期に、その作者の本ばかり借りていたことは確かなんです。もっとも、現在は別の絵本作家の本ばかり借りています。ブームは一過性だったようです。

 これも子供園に大量の絵本の蔵書があったからで、それを毎日1冊ずつ借りられるから、 3歳から4歳の間に濃密な読書力が備わったのではないかと思われます。それと、子供園にある大量の蔵書は、もう一つ別の効果を息子にもたらしています。絵本のなかには、読んでもらいたい絵本と、自分の声に出して読みたい本の2種類あるということです。これは大量の絵本が身近にないと、幼児には気づけないのです。

 読んでもらいたい絵本というのは、ストーリーのある絵本です。そういう絵本は、借りてきてすぐに、
「お父さん読んで」
と言ってきます。それに対して、自分で読みたい絵本には、ほぼストーリーがありません。擬音がほとんどだったり、童謡の歌詞だったり、単純な単語の羅列だったりします。例えば「お弁当箱の歌」の歌詞をそのまま絵本にしたような本は、大のお気に入りで、 1日に5回も6回も読みます。というか、私に読んで聞かせてくれます。よくもまあ飽きないものだなぁと感心しますが、これも子供園に大量の蔵書があったために、読んでもらう絵本と、自分が読む絵本を使い分けるようになったんだと思います。

 この息子の読書好きは、2歳になる前に、ひらがなカタカナを覚えさせたことと無関係ではないでしょう。また、 3歳以降に漢字を覚えさせたこととも無関係ないと思われます。

 私はよく息子とスーパーに買い出しに行きますが、その時に文字を読むと得するということを学習しています。例えば御菓子売り場に行くと、息子は片っ端からラベルを読み始めます。そして大好きな煎餅という文字を見つけると、
「お父さん煎餅があるよ」
と、私に煎餅をおねだりしてくるわけですが、私は苦笑しながら買ってあげます。すると、それに味をしめて、息子はいろんな商品のラベルを次々と読み始め、自分の好物が入っていたら盛んにおねだりします。私もついつい、買ってあげるものですから、息子にとって文字を読むという行為は、「得をする」とイコールなんです。こうなると絵本に限らず、様々な文字を読もうとします。

 また、自動車で移動している時に、牛丼の吉野家の看板・カツ丼のカツ屋の看板を見つけたりすると
「お父さん、吉野家があるよ 。あそこでご飯を食べようか」
「カツ丼のカツ屋があるよ」
「スシローだ、お寿司屋さんがあるよ、お寿司を食べよう」
なんて言ってきます。

 これがもし、オフシーズンだったら、喜んで、吉野家・カツ屋・スシロー・サイゼリアなんかに入って、親子で食事をするんですが、夏休みの忙しい時は、とてもそんな暇ありません。大急ぎで買い物をして、車の中でサンドイッチをほおばりながら、宿に向かわなければなりません。なぜならば、夏の軽井沢は、ものすごく渋滞するからです。のんびり買い物をしている暇なんかありませんし、外食なんてもってのほかです。気がついたら食事をしてないことなんかザラで、うちの息子も夜の9時ぐらいまで夕食が食べられないことが何度もあります。

 どんなに息子がねだったとしても
 外食なんてできるわけがないのです!
 マックのドライブスルーにも行けないし、
 吉野家に入る時間も無い!


 うちの宿の食事は、品数が多いので、作るのも大変ならば、皿を洗うのも大変で、 3台の食洗機をフル稼働しても夜の9時ぐらいまでかかってしまいます。息子の食事を作るどころではありません。それは息子も分かっているようで、駄々をこねることもなく、じっと腹を空かして我慢をしているのですが、それも少しずつ不満になってきたんでしょう。絵本では無く、大人のよむ雑誌を読み始めるようになってきました。そしてJAFの機関紙である「JAFメイト」という雑誌なんかを読んでいる。

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 ある日の夕方のことです。
「お父さんハサミをください」
と言ってきました。なんだろうと思ってハサミを渡すと、息子は何かを盛んに切り取っていました。それもきれいに切り取っていました。そして切り取った紙の破片を私に渡してきたのです。

「こ、これは・・・・」

 渡された紙の破片は、毎月送られてくるJAFの機関紙である「JAFメイト」という雑誌に付録で付いている提携割引施設の割引券でした。それも、吉野家・カツ屋・・・・。

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 無言の圧力に私の心は、折れそうになりました。
 それにしても綺麗に切ったものだ。
 漢字が読めると、こういう技を使ってくるんだなあ・・・・。
 いや、参った。
 しかし、古い雑誌から切り取ったので、期限が切れているんだよなあ。


つづく。

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2017年09月07日

汚れ無き悪戯 その2・森の中からやってきた少年

 小さなお子さんを連れた御客様が、うちの宿に到着すると、大きな庭にいっぱいある遊具に大はしゃぎします。特に3歳から6歳位のお子さんが大喜びで、滑り台・トランポリン・ゴルフなんかに夢中になって遊びます。すると、どこからともなく4歳位の子供がやってきて、それぞれの遊具について解説したりします。その4歳児はとても人懐っこくて、気がついたら一緒になって遊んだりします。しかし、夢中になって遊んでいると、いつの間にか消えてしまうのです。

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 話が変りますが、うちの宿では、夏の間(6月から9月)にファミリーの御客様に花火のサービスをしています。子供に限って花火が無料でできるんです。費用も一切かかりません。どうしてこういう事を始めたかと言うと、東京では条例があって公園などで一切の花火を禁止している。つまり東京では事実上花火はできないと聞いたからです。だから、東京の子供たちにとって花火というのは、花火大会で見るものであって、ほとんど自分で花火を体験する機会がないと聞いたからです。

 なので、せめて旅先だけにでも花火を楽しんでもらおうと思ったわけです。それで無料で花火を配ることにしました。もちろん、どのご家族も食後に花火を楽しみます。するとどこからともなく、 4歳児がやってきます。そして花火を見ています。お客さんは
「いったい誰だろう? 」
と思いつつ、
「一緒に花火やる? 」
と誘ってくれます。すると、正体不明の4歳児は目を輝かせて一緒に花火をします。

それにしても、いったい誰なんだろう?
迷子なんだろうか?

そう考えた御客様は、正体不明の4歳児に質問をします。

「どこからきたの?」
「森の中から」

えええええええええええええ?
森の中から?
本物の迷子か?
と、御客様は困惑します。

「名前は?」
「ルケタ」
「ルケタ???」

もちろんそんな名前の子供は、泊まり客にも、宿の家族にもいません。ますます不審に思った御客様は、不思議な子供に年齢を聞きます。

「ルケタ君は、何歳なの? 」
「天才」
「・・・・」

思わぬ返答に周りから笑い声が漏れました。そして気がつくと、その子はどこかに消えてしまうのです。まるで座敷わらしのような4歳児ですが、実はこれが私の息子です。

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 一見すると、御客様の質問に対して、酷いデタラメを言っているような感じに見えますが、彼の中では、決してデタラメなんかではありません。大人にとってはデタラメのように見えても、幼児にとっては、ちゃんと筋が通っているんです。息子の正しい名前は、ヤマトタケルからとった「健(タケル)」ですけれど、彼はこれを逆さまに読んで「ルケタ」と自分のことを言っています。彼にとっては、一緒のペンネームみたいなものなのですが、一時期、息子は文字を逆さまに読むことが、ブームになっていました。それで、タケルをルケタと呼んだわけです。

 息子は2歳になる前からひらがなカタカナをマスターしていたので、文字を読むのが大好きなんです。毎日のように、子供園から本を借りてきて、お母さんに読んでもらっていますし、その後に自分も何度も読んでいます。どうして、文字を読むのが好きになったかと言うと、これにも訳があります。

 私はよく息子とスーパーに買い出しに行きますが、その時に文字を読むと得するということを学習しているからです。例えばヨーグルトのコーナーに行くと、息子は片っ端からヨーグルトのラベルを読み始めます。そして大好きなマンゴー入りヨーグルトがあることがわかると、
「お父さんマンゴーのヨーグルトがあるよ」
「このヨーグルトにマンゴーが入っているよ」
と、私にマンゴー入りヨーグルトをおねだりしてくるわけですが、私は苦笑しながら買ってあげます。すると、それに味をしめて、息子はいろんな商品のラベルを次々と読み始め、自分の好物が入っていたら盛んにおねだりします。私もついつい、買ってあげるものですから、息子にとって文字を読むという行為は、快楽を得られる手段になっているわけですね。つまり

 文字を読むこと=得をする

という公式が息子の頭脳にインプットされているわけで、こうなると絵本に限らず、様々な文字を読もうとします。下から読んだり逆さまに読んだりして、自分の名前を「タケル」ではなくて「ルケタ」と御客様に紹介するんですね。

 また御客様の
「何歳なの? 」
と言う質問に
「天才」
と答えたのにも訳があります。うちの宿には毎日たくさんの御客様がやってきますが、その都度彼は何度も何度も同じ質問をされているわけです。同じように4歳と答えるのに、次第に飽きてきます。そうなると少しばかり頭をひねって「 4歳」ではなく「天才」と答えたくなるのものです。

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 一事が万事こんな調子ですから、この夏家に泊まりに来た御客様には、ずいぶん不思議な4歳児に見えたことでしょう。なにしろ変なことを言って笑わしたかと思うと、すぐに消えてしまう。側に親がいるようにも見えない。迷子のように見えるけれど、不安がってる様子はない。子供たちが遊んでいると自然と仲良くなって一緒に遊んでいる。けれどいつの間にか消えていることも多い。どこからきたのと聞いてみたら、
「森の中から」
と答えるだけ。まるで座敷わらしのような、雲をつかむような存在だったので、御客様をずいぶんと、まどわしてしまったと思います。息子の読む絵本の多くには、森の中からやってくる話がいっぱいあるのです。息子はその影響受けて「森の中から」やってきたとか、山の中からやってきたとか、洞窟に住んでるんだよなんて答えたりしたんです。

 いつだったか、子供園の先生に、こんなことを聞かれました。

「浅間牧場にキリンさんがいるって本当ですか? 」
「え?」
「タケルくんが、浅間牧場に行ってキリンさんや象さんあったって言ってたんです」
「・・・・」

 もちろん浅間牧場にキリンさんがいるわけはありません。
 これにも訳があります。

 私は御客様の希望があると、夜に星空案内のツアーを出します。夜の牧場を車で散策しながら、星空を観察したり、流れ星を数えたり、キャベツ畑を案内したり、近くの牧場に連れて行って、草むらに寝そべっている牛たちを見せたりします。その時に行った解説の中にキリンの話が出ることもあります。もちろん息子もお客さんと一緒に付いてきたりします。そして私の解説を一緒に聞いたりします。息子は、その時のことを先生に伝えたんだと思いますが、それが浅間牧場に行ってキリンさんにあったと言う話になったんでしょう。

 ところで星空案内のツアーですが、私は夜の牧場にビームライトを照らして、寝ている牛たちを探します。すると牧場の遥か彼方に光る目玉があったりします。牛たちの体は真っ黒なので、暗闇の中ではなかなか見えません。けれど、牛の目玉だけが光ります。ビームライトを反射して光るんです。もちろん牛の姿は見えません。目玉だけです。その目玉は、キリンに見えたかもしれないし、象に見えたかもしれない。毎日何冊もの絵本を読んでいる息子には、そういう想像力が沸いたって不思議はありません。その想像力を、大人は馬鹿にすることなく大切にしてあげたいものです。


つづく。

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posted by マネージャー at 14:30| Comment(2) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月03日

汚れ無き悪戯 その1・父親のメガネを持ち出す

汚れ無き悪戯 その1・父親のメガネを持ち出す

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 今年の夏はファミリーの御客様が多かったです。
 今までで最高かもしれません。
 喜んだのは4歳5ヶ月になる息子です。毎日のように
「今日はお友達きてる?」
と聞いてきます。もちろん
「たくさん来てるよ」
と答えてやると目をキラキラさせながら御客様のいるロビーに向かいます。そして少しばかり仲良くなると、ドドドーっと走って戻ってきて、おもちゃや絵本を抱えて、御客様のお子さんの所に向かいます。私と家内が御客様の食べ終わった食器を回収しつつ、皿を洗っていると、4歳の息子が何かをもってドドドーッと走っていくわけですが、皿を洗う頃なら御客様のところに行っても怒られないんだなあと理解しているわけです。

 感心するのは、相手の年齢にあわせて持っていくものが違っていることです。

 1歳児には、ぬいぐるみを持っていき、2歳児にはオモチャを、3歳児以上には、工作の材料や折り紙なんかを持っていきます。たまたま幼児が、いなくて大人しかいなかったりしても、相手してくれる大人が居たら子供園(幼稚園)の写真アルバムを持っていって写真を見せて解説したりします。相手の年齢をみつつ、何をもっていったら良いのか良く見ているんですよね。

 最初は、
「どうして、このような対処ができるのかなあ?」
「兄弟がいないのに、どうして対応を変えられるんだろう?」
と不思議に思っていましたが、息子が通っている子供園が、夏休みで幼稚園モードから保育園モードに切り替わっているためだったためでした。

 子供園が幼稚園モードの時は、学年別のクラス分けになっていますが、その幼稚園が夏休みになり、保育園モードになると、年少組から年長組まで一緒のクラスになります。各種の年齢の子供たちが一緒にあそぶことによって、年齢によって対処が違うことを、そこで学んでいるんですね。その結果、宿屋の御客様にも応用できているようなのです。

 だから、年齢によって相手が喜ぶ物が違うということが理解できたんですね。もちろん幼稚園には幼稚園の良さがあるんですが、託児所の親戚関係にある保育園には幼稚園にない良さがあるんですね。幅広い年齢の子供たちと一緒にいることで、非常に貴重なものを学べるからです。

 話を戻します。
 私が夕食後の皿を洗っていると、そのわきを息子がドドドーッと走っていきます。
 その姿をみると御客様のお子さんの年齢が分かります。

「今日は、ままごとセットか! 4歳児の女の子と仲良くなったな?」
「今日は、ミニカーか! 4歳児の男の子と仲良くなったのか」
「今日は、幼稚園のアルバムか! 大人と仲良くなったな」
「今日は、ぬいぐるみか!さては、1歳児か2歳児と仲良くなったな?」

 こんなふうに、息子の行動を尻目に私と家内は、せっせと皿を洗う毎日でした。うちの料理は、最低でも10皿はでます。デザートを合わせれば13皿。御客様が20人なら460皿を洗うことになります。息子なんかかまってられません。なので息子は、御客様のところに、いろんな物を持ってドドドーッと走っていきます。折り紙だったり、アルバムだったり、オモチャだったり・・・・。いろんなものを持って走っていきます。

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 ところがある日、息子が、しなりしなりと歩いている時がありました。良く見ると、私のメガネをかけて御客様のところに行こうとしています。私のド近眼メガネでは歩きにくくてしょうがないだろうに、フラフラになりながら御客様のところに向かったのでした。その姿に私は、ただ笑ってみていました。

 翌日、初老の御客様から、こんな話がありました。

「本を読もうとしたんだけれど、老眼鏡が無くて読めなかったんですよ。それをタケル君(息子の名前)の前で話したら、翌日の夕方に、タケル君がメガネをしてやってきたんですよね。前日の私の話を覚えてたんですね。で、マネージャーのメガネを持ってきたんだと思います」

 そうか、そういうことか!
 やっと謎が解けた。
 老眼鏡の御客様に、私の近眼メガネをもっていったのだ。


つづく。

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posted by マネージャー at 20:48| Comment(3) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする