シルマン伝までの経緯2 難航する調査
私は、日本ユースホステル協会の事務所に飛び込み、日本ユースホステル協会にある資料をかたっぱしから借りてコピーしました。また買えるものは全部買いました。
『日本ユースホステル運動五十年史』
を編纂した磯野氏にも、お話を伺いました。
また、日本ユースホステル協会の事務局の小俣さんに一九六三年に協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』をホームーページなどに公開して良いかと打診したところ、営利活動でなければかまわないと、好意的な御返事をいただきました。この方もシルマン伝の必要性を感じているのかと思いました。
さっそく自宅に帰って『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』テキスト文字に変換し、ホームーページに公開しようと思ってみたら、ヨーロッパの歴史的な知識が不足している日本人には、理解しにくい部分があることに気がつき、その作業を中止しました。
この本を日本で出版しても良いのだろうか?
という素朴な疑問が湧いてきたのです。
この本の著者は、リヒャルト・シルマンについて、ある種の距離を置いているなという雰囲気を漂わせていました。それからドイツ史に対するある種の偏見があるというか、イギリス的な見方があるというか、シルマンの業績について、ドイツ史的な視点立って書かれていないのが、ものすごく気になりました。
つまり、イギリス人のフィルターがかかっているのです。
それは、ドイツ史に無知な私にも充分に察知できました。
それから、この本には、日付などの間違いがあったり、著者または訳者の勘違いと思われるところもありました。
例えば、昭和19年5月にシルマンたちがアルテナ城に結集したのが、ノルマンディー上陸1ヶ月後と書いてありましたが、1ヶ月前の間違い(または誤訳)であることは、多少戦史を知っている者なら誰にでもわかることですが、これを復刻出版したばあい、間違いを直して復刻すべきか、それとも、そのまま出版して、注釈に間違いであることを正すのか、迷いました。
前者なら資料の改ざんになるし、
後者の場合、読者のポテンシャルに水を差します。
他にもモンロー・スミスとシルマンが出会った年月を数年も間違えていたり、ドイツの歴史的事情を無視して評価を書いたり、クリスマス休暇事件の背景を無視していたり、プロイセンについてふれてなかったり、ドイツの教育システムについて、最低限のことを抑えてないことに不満がありました。
そこで、復刻出版を中止し、シルマンについて、もう一度、自分で調べ直すことにしました。しかし、これが、ものすごく難航しました。というのもシルマンに関して日本語に翻訳された資料が極端に少なかったからであり、私自身が、ドイツ語も英語もできなかったからです。
例えば、シルマンの生まれたハイリゲンバイル郡のグルネンフェルトと言っても、さっぱり分かりません。地図をあたってみても場所が特定できないのです。というのも、その土地は、東プロイセンからポーランド領になっており、現在はポーランド名である Gronowko に変更されているからです。
こんなことも語学ができないために調べ上げるのに何日もかかりました。ようやく位置を確認し、やっとシルマンの生まれた土地が、内陸なのか、海のそばなのか、平均気温は何度なのかということが分かりました。
それからシルマンが生きた時代のプロイセンの文化や民俗、そして教育制度も、ある程度理解するまで時間がかかりました。
とにかく資料がありませんでした。最初は、あたりをつけてインターネット書店で購入しましたが、これでは駄目だと観念して、北軽井沢から東京に上京し、財布と相談しながらかたっぱしから買い集めました。絶版になった本は古本屋にたのむか、国会図書館に日参してコピーをとり続けました。
インターネットによる調査も難航しました。ドイツの人名・地名は、マイナーすぎて検索に出てきません。時間がとれたら私が、ドイツ関連の資料を整理してホームーページに公開したいと思ったくらいです。幸いなことに私は昔、ドイツを旅したことがありましたので、その時の記憶だけがたよりでした。
2006年10月02日
2006年10月01日
シルマン伝までの経緯1 伝記が無い?
シルマン伝までの経緯1 伝記が無い?
出版までの経緯を述べるのは、簡単ではありません。しかし、一部のユースホステル関係者、およびユースホステルマネージャーには、5年前からの周知のことであったと思います。
そうです。
あれは5年前のことです。
私が北軽井沢ブルーベリーYGHを開業した年は、日本ユースホステル協会五十周年記念の年でした。そして、東京の国立オリンピック記念青少年総合センターでラリーが開催されていました。
ユースホステルの経営者は、ラリーへの参加義務がありました。私は、ユースホステル運動の研究部会に参加しました。その部会は、上田まほろばユースホステルのマネージャーである斉藤さんと五十年史編集委員の磯野さんが中心になってやっておられました。
そこには、今回、シルマン出版を応援してくれている、遠野ユースホステルのマネージャーや、トイピルカ北帯広ユースホステルのマネージャーさんも一緒に議論されておりました。お二方は、覚えておられるでしょうか?
議長は、今回のシルマン伝の出版において大変御世話になりました、日本ユースホステル協会の五十年史編集委員の磯野さんでした。ところが、その部会で磯野さんが、
「日本にはユースホステル運動を提唱したリヒャルト・シルマンの伝記が売られていません」
とおっしゃいました。正確に言えば、一九六三年に日本ユースホステル協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』だけで、それも日本ユースホステル協会に数冊残っているだけだと聞きました。正直申しますと、その時の私は、
『リヒャルト・シルマンって、いったい誰よ?』
とシルマンについて全くもって無知だったのですが、それはともかく、
『仮にも世界の80ヶ国に約5500ヶ所の施設がある世界最大の宿泊ネットワークを作ったユースホステル運動の創始者の伝記が無い』
という状態が、本当に、ありえるんだろうかと思いました。落ちぶれつつあるとはいえ、2001年当時国内に13万の会員があり、国内に300以上の施設があるのです。その創業者の伝記がないと聞いて驚くなという方が無理です。
ショックを受けた私は、磯野さんに、自腹を切って一九六三年に日本ユースホステル協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』を復刻出版したい。それをユースホステル協会に寄付したいと申し出ました。
すると磯野さんは、あとで事務所にいらっしゃいとおっしゃいました。
出版までの経緯を述べるのは、簡単ではありません。しかし、一部のユースホステル関係者、およびユースホステルマネージャーには、5年前からの周知のことであったと思います。
そうです。
あれは5年前のことです。
私が北軽井沢ブルーベリーYGHを開業した年は、日本ユースホステル協会五十周年記念の年でした。そして、東京の国立オリンピック記念青少年総合センターでラリーが開催されていました。
ユースホステルの経営者は、ラリーへの参加義務がありました。私は、ユースホステル運動の研究部会に参加しました。その部会は、上田まほろばユースホステルのマネージャーである斉藤さんと五十年史編集委員の磯野さんが中心になってやっておられました。
そこには、今回、シルマン出版を応援してくれている、遠野ユースホステルのマネージャーや、トイピルカ北帯広ユースホステルのマネージャーさんも一緒に議論されておりました。お二方は、覚えておられるでしょうか?
議長は、今回のシルマン伝の出版において大変御世話になりました、日本ユースホステル協会の五十年史編集委員の磯野さんでした。ところが、その部会で磯野さんが、
「日本にはユースホステル運動を提唱したリヒャルト・シルマンの伝記が売られていません」
とおっしゃいました。正確に言えば、一九六三年に日本ユースホステル協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』だけで、それも日本ユースホステル協会に数冊残っているだけだと聞きました。正直申しますと、その時の私は、
『リヒャルト・シルマンって、いったい誰よ?』
とシルマンについて全くもって無知だったのですが、それはともかく、
『仮にも世界の80ヶ国に約5500ヶ所の施設がある世界最大の宿泊ネットワークを作ったユースホステル運動の創始者の伝記が無い』
という状態が、本当に、ありえるんだろうかと思いました。落ちぶれつつあるとはいえ、2001年当時国内に13万の会員があり、国内に300以上の施設があるのです。その創業者の伝記がないと聞いて驚くなという方が無理です。
ショックを受けた私は、磯野さんに、自腹を切って一九六三年に日本ユースホステル協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』を復刻出版したい。それをユースホステル協会に寄付したいと申し出ました。
すると磯野さんは、あとで事務所にいらっしゃいとおっしゃいました。