録画してあったブラタモリをようやく見ることができました。今回のは、なかなか良かったと思います。ただし、もう少し踏み込んだ解説が欲しかったような気もしますが、時間の制約があって、できなかったんでしょうね。今回は、碓井峠とアプト式鉄道の2つを紹介したわけですが、碓井峠に中山道と言うメインの街道を作った理由について述べていました。
碓井峠経由の中山道は、火砕流の上を経路にしているんです。火砕流というのは、気体と固体粒子からなる熱された土煙みたいなもので1000度もある高温の噴出物です。当然のことながら、冷えて固まってしまえば、地面はコンクリートのようになってしまいます。という事は、とても歩きやすいということなんですね。その火砕流でできあがった尾根を歩くルートを江戸時代に整備された中山道で採用されたわけです。それをブラタモリでは、わかりやすく解説していました。
ここまでは良いとして、これからは時間がなかったために、番組で解説できなかったところを、少し私が付け足しておこうと思います。
実は、江戸時代以前においては、碓井峠経由のルートではなかったんですよね。今の国道18号線を通行する、入山峠がメインの道路だったんです。アプトの道と並行に走っている国道18号です。平安時代に整備された東山道は、この国道18号線、つまり入山峠をメインのドールにしていたんです。そうすれば高低差のほとんどない楽な道のりで関東から信州に入れたわけです。このほかにも、さらに傾斜が緩やかな和美峠のルートも古くからありました。この2つは、中山道とは別に物流のルートとしてよく使われました。群馬県ではなかなかコメが取れなかったので、信州から米を輸入したのですが、そのときに使われたのが入山峠と和美峠でした。
では、江戸幕府は、なぜ、傾斜の緩い和美峠や、標高差もなく平安時代の昔からあった最短ルートの入山峠を中山道のメインルートとして採用しなかったかというと、防衛庁の理由があったと思われます。関ヶ原のトラウマからわざわざ標高の高い碓井峠越えを選んだと思われます。
和美峠も入山峠も谷の中をくねくねと曲がりながら通過するわけですが、これは常に崖崩れなどの災害のリスクを抱えてるわけです。当然のことながら、災害が起きたら関ヶ原の合戦のように、天下分け目の戦いに間に合わなくなる可能性があります。それ以前に、真田軍団のようなゲリラ部隊の攻撃を受けて、大軍が各個撃破される可能性も出てきます。なので、江戸幕府が作った中山道は、ほとんどが碓氷峠のような尾根歩きになっているわけです。
しかし、その他の裏街道は、谷を通っていたりします。和美峠も、入山峠も、田口峠も、ほとんどの峠が谷を使って最短ルートで移動しているわけです。民間人にとっては、その方が便利だったのでしょう。しかし、素早い軍隊の移動には不向きだったと思われます。そのために、大名行列でも問題ないルートに中山道を作ったわけです。ブラタモリでは、このへんに触れてなかったので、あえて付け加えてみました。
つづく。
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posted by マネージャー at 13:33|
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横川・妙義山
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