2015年03月18日

元伊豆臼井YH・修善寺YHペアレントの高梨和夫さんがお亡くなりになってしまった

 いつだったか、嫁さんがダウンジャケットを水で洗った事をこのブログに書いた。一般的に言ってダウンジャケットを水で洗う事はしない。水洗いができないのがダウンなのだ。昔なら、嫁さんがダウンを水で洗うのを止めたものだが、この年になると、水で洗ったらどうなるかという好奇心が強くなってしまい、黙って見ていた。その結果が分かったのでここに報告する。結論から言うと、見た目は全く問題ないように見える。もちろん、本来の防寒性能が落ちているかどうかはわからない。ただ見た目で言うならば、水洗い前と水洗い後では全く変化が見られない。後は防寒性能を確認したかったのだが、残念なことに北軽井沢は、だんだん暖かくなっている。なので本当のところはどうかわからない。

 まぁそんな事はどうでもいいとして、昨日今日と嫁さんと息子が実家の館林に里帰りしていたので、久々に愛犬コロを連れて10キロ近く散歩をした。そして帰ってからメールを確認していたら、日本ユースホステル協会から訃報の連絡が入っていた。

 元伊豆臼井YH・修善寺YHペアレントの高梨和夫さんが、平成27年3月8日(日)午後12時17分、入院先の伊豆長岡の病院にて誤嚥性肺炎外傷性小腸損傷のため逝去された(享年84)とのことであった。葬儀、告別式は近親者のみにて執り行われたとの事。後日関係者による“偲ぶ会”が開催される予定であるらしい。

 謹んでご冥福をお祈りいたします。

 高梨さんは、伝説的なペアレントである。ユースホステルのペアレントというのは、癖のある人が多い。見方も多ければ敵も多いというタイプの人が多い。そういう中で、高梨さんの悪口を言う人を聞いたことがない。誰からも慕われる人格者である。かといって、極端に親切だとか優しいということではなく、飄々として空気のような存在である。言葉を静かに語り、癖を感じさせない老子のような人であった。

 実は私は、この高梨さんに2回しか会ってない。 1回目は修善寺ユースホステルで開かれたペアレント教室で、一緒にホスティングの実習を行っている。その時は、伝説的なペアレントであった事を知らなかったために、誰だろうこのおじさんはと、思っていた。その頃の高梨さんは、日本ユースホステル協会を退職され、修善寺ユースホステルの近所で、鍼灸師として第二の人生を送っていた。たまたま、修善寺ユースのペアレント教室に遊びにきていた時に、私と出会っていたのだ。ただ、私はその人がどんな人物かわからなかったので、ろくに会話を交わしていない。けれど、高梨さんの印象だけは、いつまでも心に残っていた。

 その10年後、私は日本ユースホステル協会を設立した横山祐吉氏を調べていた。調べていくうちに、高梨和夫と言う人間に合わなければならなくなった。高梨さんは、横山祐吉氏をよく知っているのである。私は、 2泊3日の予定で伊豆の修善寺に向かった。そして高梨さんにお会いした。お会いした時に、修善寺ユースのペアレント教室で1度会ったことがあることを思い出した。

 私は高梨さんが、自費出版していた高梨さんの詩集を持っていた。『死んでたまるか、生きろ』という詩集であった。その本のあとがきには、壮絶な彼の人生が書かれてある。それにサインをしてた高梨さんの姿が懐かしい。無口な高梨さんは、横山祐吉氏のことをいろいろ話してくれた。ぽつりぽつりと、断片的なことではあったが、なんでも知っていた。高梨さんと横山さんは大変仲が良かったようだ。横山さんは、時々高梨さんのところにやってきては、鍼灸の治療をお願いしていたようなのである。だから色々なことを高梨さんは知る立場にあったのである。

 その高梨さんがお亡くなりになったと聞いて、私は愕然としてしまった。また1つ日本ユースホステル史を調べる手がかりを失ってしまったのだ。もう時間との競争である。歴史の証言者たちは次々となくなりつつある。時よ止まれと叫びたい。


つづく。

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posted by マネージャー at 23:37| Comment(5) | TrackBack(0) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月09日

日本ユースホステル史の源流17 蓮沼門三

日本ユースホステル史の源流17 蓮沼門三

 日本最初の天幕講習をはじめたのは、田澤義鋪でした。この田澤義鋪が、日本青年館、つまり日本で最初のユースホステルをつくる基礎を造るのですが、この田澤義鋪は、天幕講習を通じて、ある男と出会い、日本を大改革していくのです。私たちは、その大改革の遺産を有形無形にうけついでおり、この豊かな日本で生きているのですが、その遺産の原点が何であるかを、みんな知らないでいると思います。

 イエローハットの鍵山秀三郎氏は、その遺産の後継者でもありますが、鍵山秀三郎氏も、自分がセッセと行っている掃除という『行』および『修養』の原点が、どこにあるか分かっていないかもしれません。だから掃除行を日本の文化と言っているのだと思います。しかし、本当に掃除が、かっての日本の文化であったのでしょうか? 文化であったとしたら、いつ、どこで生まれたのでしょうか?


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 蓮沼門三という男がいました。
 掃除という修養によって革命を起こした男です。

 蓮沼門三は、福島県会津地方の小村の雪の舞う道ばたで生まれた。父は、熊の胆の販売で関西へ出かけ、同業者の手で金品を奪われ殺されました。そのうえ祖父は、詐欺にかかって財産を全て奪われ、北海道へ夜逃げしました。乳飲み子を抱えた母と門三は、洗濯、針仕事、走り使い、田畑の手伝いなどで、なんとか親子二人の命をつなぎました。門三が三歳のとき、母子は、会津喜多方の岩月村に住む蓮沼家の住み込みのお手伝いになり、やがて蓮沼家に嫁ぎ、門三は蓮沼家の養子になりました。

 蓮沼門三は、小さな妹たちのお守りをしながら小学校に通いました。彼には人徳があり、子供たちは蓮沼門三のところに集まりました。蓮沼門三は、小さいときから子守や飯炊きをしながら遊ぶので、
「飯を見てくるから」
「子どもが泣いているから」
「風呂を見てくるから」
などと言っては、遊びの場から離れたりした。それを良く思ってない子供たちの親たちは
「貰い子のくせに生意気な」
と言い、我が子には
「貰い子に使われる意気地なし」
と言うこともありました。

 しかし、蓮沼門三は、それにくじけることもなく、彼の発案で村道の美化を行いました。村は、神道を信仰する村だったので、村の美化は、信仰篤い村民に喜ばれました。神道は、清浄を尊ぶからです。また、仲間に呼びかけ、氷を切り出して町に届けて収入を得、幻灯機を買ったりしました。そうやって村一番の模範少年と言われるようになり、「貰い子のくせに生意気な」と母親に肩身の狭い思いをさせないようにしました。

 こうして成長した蓮沼門三は、独学で教員試験を受けて合格し、山村の小学校の先生となって活躍しました。そして福島の師範学校へ受験し、二度落第しました。筆記ではなく面接で落とされました。三度目は、東京府師範学校(東京学芸大学の前身)を受け、今度は合格。二十一歳のときでした。

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 そして東京師範学校に入学。
 寄宿舎に入りました。
 その寄宿舎は汚れ放題で不潔極まりなかった。
 当時は、バンカラがはやっていた。
 みんな
「大事業を成就しようとする者は、ささいなことにはこだわらない」
と言って泥靴で寄宿舎内を歩き、掃除など一切しない。汚れ放題になってしました。

 蓮沼門三は、舎監に清掃美化を呼びかけましたが、
「学生たちが言うことをきかない」
とあきらめていました。

「この学校は教師、いや聖職者を養成する学校です。いわば聖人をつくる場所でもあります。なのに、その寄宿舎を荒れ放題にして、汚しまくる学生たちを放置し、平然とする神経がわかりません」
「しかしなあ」
「私は、極貧の山村で生まれ育ちました。私の友や兄弟は、金がないために学校にも行けずに苦労している者も多いです。彼ら極貧の者たちが、学費無料の師範学校で、そして税金で造られた立派な寄宿舎を、このように粗末に使っているのをみたら何というでしょうか?」
「・・・・」

 蓮沼門三は、同室の学友に寄宿舎美化の協力を呼びかけましたが、協力する者はゼロでした。当時の日本国民は、日清戦争・日露戦争に勝利し、酔っていました。学生たちは、星雲の志を抱いて上京しており、清掃する時間があったら時局を談じ、西洋の学問をわれさきに学ばんとする時代でした。

 蓮沼門三は、他人をあてにしてはダメだと悟りました。
 そして彼は、黙々と唯一人で部屋と廊下を拭きはじめました。
 それは入学した翌年の四月のことでした。
 しかし、まわりは冷たかった。

「学校のご機嫌とりを始めた」
「偽善者め」

 憎悪をむき出しにする者も現れ、わざと泥靴で汚して妨害したりしました。
 イジメは、大昔の師範学校にも存在していました。

 それでも寄宿舎は、少しづつ綺麗になっていきました。
 冬は、朝夕に水仕事をするので、
 門三の手の甲は全面にひび割れができました。

 剣道の寒稽古のときには、
 門三のことをよく思っていない者たちが
 彼の小手を狙って打ちました。
 彼の手と腕は腫れ上がりました。

 ある朝、汲み置きしていたバケツの薄氷を割って雑巾を絞ったとき、腫れ上がった手の甲が破れ、鮮血が噴き出してバケツの水を染めました。それでも彼は雑巾がけをつづけました。それを見た同室の一人が、鮮血をぬぐいつつひたむきに美化奉仕を行う彼を見ているうちに、胸の中からどうしようもなく熱いものがこみ上げてきた。そして、友は門三に駆け寄り、手をしっかりと握って言った。

「蓮沼君、許してくれ。君の尊い心が今分かった。明日から手伝わせてくれ」
「ありがとう、ありがとう」

 蓮沼門三の手に友の涙が流れた、その血と涙が混じり合いました。

 その後、少しづつ賛同者が広がっていき、いつしか寮生の大半が、蓮沼門三の掃除を手伝うようになりました。こうなると泥靴で寄宿舎にあがる者はいなくなりました。わざと汚す者もいなくなり、みんなが住処をきれいにするようになりました。トイレも清潔になり、部屋に花を活けたり、額をかざるようになりました。

 さらに蓮沼門三は、仲間をつのって師範学校内に風紀革正会を作って、学校内でさまざまな改革を行いました。学生たちの手で校内売店の経営、食堂の改革、花壇の造成などが行われ、東京師範学校は日本一美しいキャンパスとなりました。

 そして三年生の秋、二つの論文
「修養団設立の趣旨」
「人格修養の急務」
を同志に示しました。

 一、師範の学生は教職を神聖なものと自覚すること、
 二、社会改革の先導者になるという意識に目覚めること、
 三、それらのために「修養団」を設立すること。

 そして蓮沼門三は、修養団を旗揚げすべく準備をすすめました。

 明治三十九年二月十一日、東京師範学校の食堂において、修養団の発会式が行われました。同志の師範生四百名。師範学校長・滝沢菊太郎の祝辞のあと、発起人の蓮沼門三は、壇上に立ちました。門三は誠と情熱をこめて、修養団創立の趣旨を読み上げました。数百名の同志は感激の極に達し、万雷の拍手と歓呼はいつまでもつづきました。

 この修養団の蓮沼門三が、田澤義鋪と出会い、戦前の社会教育において輝かしい成果を上げ、一世を風摩するのです。青年団の多くは、修養団の団員でもありました。渋沢栄一をはじめとして、松下幸之助(松下電器相談役)、土光敏夫(東芝相談役)なども修養団の関係者であったことは知ることぞしる話です。


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 さて、ここで、面白い話があります。修養団と逆の流れを造った男がいるのです。平凡社の社長、下中弥三郎です。日本最初の教員組合を作り、第1回メーデーを盛り上げた無政府主義者(アナーキスト)の重鎮でもあります。この男が、日本ユースホステル協会の初代会長に就任するわけですが、日本ユースホステル協会には、2つの流れがあったのです。

 修養団(蓮沼門三)と青年団(田澤義鋪)の流れ。
 下中弥三郎(教員組合)の流れです。

 2つの流れは、思想的に相反する流れなのですが、この相反する流れが、彼らの弟子の時代に合流して、日本ユースホステル協会となるのです。日本ユースホステル協会を創設したのは、中山正男と横山祐吉なのですが、中山正男は、下中弥三郎の流れの人でした。そして、横山祐吉は、修養団(蓮沼門三)と青年団(田澤義鋪)の流れでした。この相反する2つの激流が、一本の川となって、日本ユースホステル協会という大河に生まれ変わるのですが、それは後の話です。

 としあえず、蓮沼門三について、もうすこし述べてみましょう。
 蓮沼門三が田澤義鋪と出会って、
 日本が、どのように変化したか?
 という話をしてみたいと思います。


つづく。

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2010年02月08日

日本ユースホステル史の源流16

日本ユースホステル史の源流16

 ちょっと昔話をします。私が、リヒャルト・シルマンの伝記を出版しようかどうか迷っていた時の話です。本を出そうとして、各社に見積もりをとったら、最低100万から300万かかることがわかった。
 それで、ちょっと迷ったのです。
 そんな金はないぞと。
 そんな金があったら、屋根の修理をしたいと。
 原稿はできつつあったけれど、出版には躊躇したのです。

 でも、車のオイル交換で、何気なく入ったイエローハットで、棍棒で殴られたような衝撃をうけて、やはり『本を出そう』という気になりました。

 実は私、車のオイル交換は、最初は、オートアールズでやっていたのですが、別に不満はなかったのです。値段は安いし、サービスもいい。イエローハットに店替えする必然性は、何もなかったのですが、ある事でイエローハットに店替えしてしまった。その理由は、イエローハットの待合室にあった『日々清掃』を読んでしまったためです。

 イエローハットの創業者は、鍵山秀三郎という人なのですが、この人の講演を小冊子にしたものが、イエローハットの待合室に十冊くらい置いてある。私は、時間つぶしのために、何の気なしに読み始めたのですが、読むうちに、ぐいぐい引き込まれてしまった。

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 特に感動した小冊子は、『日々清掃』でした。
 どういう内容かと言いますと、こんな内容なんです。

 鍵山秀三郎氏が、昭和三十六年にイエローハットを創業した時に、千代田区三番町九番地という場所にあったアパートに住んだのですが、住んでる間、毎日アパートの周辺を道路を含めて掃いていたのです。付近は樹の多いところですから、秋には凄い量の落葉が落ちて、ごみも大変だったそうです。それでもできる限り、ずっと広く掃いていました。ところが、ある日、大家さんが、この「土地を買いなさい」という事を言ってきた。

 もちろん辞退しました。
 買えるわけがない。
 すると
「幾らなら出せるのか? 言ってみなさい」
「怒らないからとにかく言うだけ言ってみなさい」
という。それで
「時価の六分の一程度の金しか出せないので御辞退させてください」
と断るのですが、大家さんは
「それでいいです」
と、常識外れの価格で鍵山秀三郎氏に譲ってくれたのです。

 実はその土地は誰でもが欲しい場所で、日本の有名な企業が買いたいという、あるいは貸してほしいという事を申し出ておられたのですけれど、そのいずれをも断ってですね、イエローハットに非常識な金額で売ってくれたのです。でも、鍵山秀三郎氏は、そうやって手に入れた土地を自分の利益に使わずに、ヨーロッパ共同体の日本支部に無料同然の値段で貸しています。


 また、『日々清掃』には、こんな事も書いてあります。


 イエローハット創業十二年の頃、騙されて昭和四十八年当時に十億円近い債務を背負った時に、ジタバタするのをやめて、ひたすら掃除だけを一生懸命にやったんです。それが奇跡の大発展を築く根源になったことが書いてある。

 これを読んだときに、私の身体に稲妻が走ったのです。
 で、途中で読むのをやめて、店内をチェックしだした。
 そして
「店内が綺麗!」
「トイレが綺麗!」
という点を発見し、また鍵山秀三郎の小冊子を読みあさったのです。

 会社が傾く。倒産の危機にあう。そんな時に掃除をしたからといって、難問が一度に解決するわけがない。でも、掃除をしたのです。他の事をやるより、この事が一番いいのではないかという風に鍵山秀三郎は思ったわけです。

 これが他の会社であれば、幹部を集めて会議を開いて対策を練るわけですが、たいていは上手くいかない。頭で考えることには限界があるのですね。それを鍵山秀三郎氏は、体験的に知っていたのです。

 で、一生懸命に掃除をしたのです。
 無心の境地で掃除をはじめた。
 すると、無心の心の中から光が見えてくる。
 こういう事はどうだろうか、
 こういう方法もあるのではないか、
 フッと気づき、
 今まで思いもつかなかった事を、
 手を使って掃除をしている間に思いついてくる
 という事があるのです。

 当時、イエローハットは、カー用品の問屋さんでした。全国のカー用品の小売店に、品物を卸していたんです。イエローハットの会社が傾いた時、社長みずから全国のカー用品の小売店に掃除をしにいったんです。お得意先である小売店の駐車場の草とりから始まって、周辺のドブ掃除、店内の掃除、トイレ掃除を行った。

 で、お得意先の小売店の掃除をお手伝いしているときに、店舗の過剰在庫が、小売店の経営を圧迫していることに気がついたわけです。商品にホコリが積もっている。

 問屋という業種は、一つの品種を大量に売るのが商売です。
 薄利多売が問屋の商いでした。
 だから沢山注文してくれれば、値段を下げますよと言って、
 小売店に沢山買わせていたのです。
 しかし、そのために在庫にホコリが溜まる結果となり、
 商品の新鮮さを失ってしまうことに気がついたのです。

 それで、少品種多量売りの路線から、一八〇度転換して多品種少量に、仕事の方針を変えました。小売店に「過剰在庫は諸悪の根源」という標語をつくってお配りして、問屋業のくせに
「できるだけまとめて買っていただきたい」
ではなく
「まとめ買いをしてはいけません」
という事を鍵山秀三郎社長みずから、お願いして歩きました。

 イエローハットの躍進は、
 この時から始まったのですね。


 鍵山秀三郎氏の小冊子を読むようになってからの私は、2ヶ月に1度の愛車のオイル交換が待ち遠しくなりました。イエローハットで小冊子を読むのが、とても楽しみになったのです。ただ、イエローハットの商品は、決して安くはない。オートアールズやオートバックスの方が安かったりする。でも、あえてイエローハットで物を買うようになりました。値段を買うのではなく、イエローハットの創業者の思想を心意気を買いに行ったのですね。銭金の問題じゃない。精神の問題です。心意気の問題です。

 もちろん小冊子も売って貰った。

 売って貰えば、イエローハットに行かなくても自分の家で読めばいいもんですが、自分の家で読むより、イエローハットで読む方が、なんだかしっくりくる。そして、イエローハットのトイレを使わせて貰う。で、
「今日も綺麗に掃除してあるなあ」
と感心したりする。
ウインドーショッピングもします。
そして
「商品にホコリが無いなあ」
と感心したりする。

 そういう毎日をすごしているうちに、ユースホステルの世界にも、イエローハットの社長鍵山秀三郎氏の小冊子のようなものが、あっても良いのではないか? という事に気がつきました。ユースホステルの理念と原点が書いてある小冊子が、日本中のユースホステルにあってもよいではないかと思ったのです。それがあれば、私がイエローハットを贔屓にしたように、ユースホステルを贔屓にする御客様が増えるかもしれないと。

 しかし、そういう小冊子は無いのです。

 だから今、私が造ろうとしているわけであり、その第一冊目が、リヒャルト・シルマン伝であったわけですが、日本ユースホステル協会の創設者横山祐吉氏は、わざと、そういうものを造らせなかった。そういう思想性をわざと排除してしまったきらいがあった。それについては、おいおい述べることにして、それはともかく、これが日本ユースホステル運動の衰退の原因になっていると。


 ところで、話は変わりますが、イエローハットの鍵山秀三郎氏の思想は、彼のオリジナルではありません。彼自身が、YouTubeの動画で言っているように、これには原点があった。鍵山秀三郎氏は、それを日本の文化と言っていますが、実は、少し違っています。文化などではなかった。その理由は、後で述べます。





 それは、ともかく、その原点は、日本ユースホステル協会の原点でもあった。鍵山秀三郎氏は、その原点については、何も知らなかったかもしれませんが、あきらかに原点があって、鍵山秀三郎氏は、その原点を知らず知らずのうちに実行していたのです。

 そして、その原点こそが日本ユースホステル協会および、日本青年団の原点でもあった。それだけではありません。日本財界の原点でもあり、その原点には、渋沢栄一が深く関わっていたのです。

 では、その原点とは、なにかというと田澤義鋪氏が、ある出会いによって、一生涯師事することになった、ある男にあります。田澤義鋪が三保の松原で天幕講習を開いたとき、ある男と出会った。

 その男の名前は、蓮沼門三と言いました。

蓮沼門三

 この蓮沼門三と田澤義鋪が、日本ユースホステル協会および日本青年団の原点を造るのです。そして全ての日本人をイエローハットの鍵山秀三郎氏のような人間に改造し、日本を内部から変えていこうとしたのです。ちなみに早朝のラジオ体操の原点も、蓮沼門三氏が原点であったことも、知る人ぞ知る話です。


つづく。

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posted by マネージャー at 13:43| Comment(9) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月29日

日本ユースホステル史の源流14

日本ユースホステル史の源流14

つづきです。

 明治神宮造営は、第一次世界大戦勃発の翌年大正四年からはじまりました。当時、第一次大戦の影響をうけて物価や労賃が急騰し、人夫が思うように集まりませんでした。明治神宮造営局総務課長田澤義鋪は、青年団の労力奉仕を建議しましたが、この案は一蹴されました。

 田澤は試験的に数団体を奉仕させることを再提案。かつて郡長時代に指導した静岡県安倍郡有度村の青年団員五十人を呼んで奉仕に当たらせました。結果は、十日間で人夫の数倍の能率をあげました。

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 驚いた政府は、田澤に全面的に許可を与え、全国各地からぞくぞくと青年たちが上京しました。一団体はほぼ五、六十名。毛布と米を各自持参し、十日間の労力奉仕。朝夕はバラックの宿舎で講義と懇談会(ミーティング)がもたれました。バラックは北海道村、鹿児島村と呼ばれ、そこで村長や議員の選挙が行われました。これがそのまま青年の政治教育でした。

 こうして大正九年十一月一日、明治神宮鎮座祭が行われました。そして内務・文部両省の主催で、全国青年団神宮代参者大会が開催。その大会の二日目、大正九年十一月二十二日に、皇太子殿下(昭和天皇)は、青年団の代表たちに、お言葉をだしました。空前の光栄でした。

 代表者たちは、感激のあまり、大正時代の青年の意気を後世に残したいと提案し、みんなで相談し合いました。その結果、青年の修養道場としての日本青年館建設を行いたいと考えました。青年たちの修養所を明治神宮のそばに造りたいと。

 しかし、そこに横槍がでました。

「日本青年館建設は、内務省が発起者となって行うべきだ」

しかし、内務大臣床次竹二郎は、その横槍をはねのけました。

「この事業は、青年自身の努力によって完成させることが大切である。あくまで青年の自発的発意にもとづくべきものである」

 英断でした。
 床次竹二郎は、青年たちの自発的意志を大切にしました。

 これに奮い立った全国各地の青年団で青年館建設の件を団員にはかり、財団法人日本青年館の設立を、内務、文部両大臣に委嘱することが決議されました。そして全国一万一五六六の青年団は、建設資金を拠出することを申し出ました。

 委任を受けた床次内務大臣、中橋文部大臣は、内務省から社会局長田子一民、文部省から普通学務局長赤司鷹一郎、民間から公爵近衛文磨、田澤義鋪を選び、財団設立者として推挙、法人化の準備に入りました。

 こうして大正十年九月二日、財団法人日本青年館が設立されました。のちの日本のユースホステル1号になります。そして財団法人日本青年館の事務局長の横山祐吉が、日本ユースホステル協会を設立することになります。

 一方、青年団は建設資金を得るため、植林作業や土木作業、縄ない、炭俵編みなどから、映画、芝居、相撲などのレクリェーションにまで手をのばし、さらには、節酒、節煙などの励行で、青年団員一人一円の資金を生みだしました。

 一円は当時の労賃で三日分に相当します。今の金額にすれば、2万円くらいのものでしょうか? 募金額の合計は約二百万円。二百万人の貧しい青年たちが1円を寄付したことになります。その寄付金をもって、政府の補助も、財界の寄付も受けることなく、大正十四年十月、日本青年館が完成しました。

 といっても青年団の中には、日本青年館建設に反対する者もあり、長野の青年団は反対の急先鋒でした。大正十年七月二十七日付の朝日新聞は、「趣旨不徹底から各地青年団中に反対気勢挙げる」の見出しで反対運動の事例を紹介しています。日本青年館建設の雲行きは険悪で、楽観をゆるさないものがあったと、創立理事田子一民が後に語っています。

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 大正十一年十二月日本青年館の建設工事開始。十四年十月に、総工費百六十二万円をかけて、地上四階、地下一階の日本青年館が完成しました。最新設計による耐震性に備えた鉄筋コンクリートの豪華な施設でした。

 最大収容二千人の講堂、定員六百人の中講堂、談話室(定員三十〜百人)、図書室、四百ベットの宿泊施設。食堂は宴会用(定員三百五十人)と宿泊者用(定員二百人)が完備。大浴場、売店などが付設されました。

 当時としてはかなり豪華な建物でしたが、ここには田澤義鋪の知恵が入っていました。最大収容二千人の講堂や、レストランの売り上げで収益をあげ、その資金をもって地方の青年たちに格安の宿と研修所を提供する。つまり、豪華な施設は、金のなる樹で、その樹をもって地方の青年たちに便宜をはかるというシステムなのです。

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 この発想が、後の日本ユースホステル協会にはありませんでした。逆に言うと、この発想によって財力が得られたために、日本青年館の寿命が日本ユースホステル協会よりも寿命が伸びることになります。田澤義鋪の先見性には、おどろくべきものがあります。日本ユースホステル協会にも、そういう先見性があれば、歴史は変わっていたかもしれません。

 さて、日本青年館が完成した後の田澤義鋪は、どうなったのか?
 日本青年館の関係で働いたのか?
 それとも内務省で出世階段を上がっていったのか?

 どちらもノーです。

 田澤義鋪は、この後、どうなったのでしょうか?
 実は、田澤義鋪は、日本の歴史を変える仕事をはじめるのです。

 マルクス主義の嵐が吹き荒れる時代でした。
 日本ユースホステル協会初代会長下中弥三郎が、
 日本初教員組合を結成し、メーデーの行進を行っていました。

 日本ユースホステル協会理事であった大宅壮一氏は、
 社会主義者として、さかんに反政府運動をおこなっていました。

 そういう時代に、社会を大きく変えたのが田澤義鋪でした。
 どうやって社会をかえていったのか?

つづく。

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2010年01月22日

日本ユースホステル史の源流13

日本ユースホステル史の源流13

つづきです。

 天幕講習が終わった頃、大豪雨となりました。
 安倍川の堤防が至るところで決壊し、市内の大半が水没しました。
 田澤義鋪は、安倍川水害予防組合の青年たちをひきいて奮闘しました。
 郡長みずから、胸まで水につかって陣頭指揮をしました。
 水が引いたあとは、堤防の復旧、罹災者の援護等に走り回りました。
 それは若き日の鍋島直彬の姿、そのままでした。

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 その時、静岡県理事官に任ずという転任の辞令が田澤義鋪のもとに届きました。
 栄転でした。
 しかし田澤義鋪は激怒し辞表を持って、県庁にのりこみました。
 知事は後年内大臣として活躍した湯浅倉平でした。

「閣下、田沢ではこの水害の善後策はできない、とお考えでしようか。私は、県の課長として使っていただくよりも、安倍郡長として、治水事業を完成させていただきたいのです。どうしてもそれがお許しいただけなければ、辞表を提出いたします」

 この態度に湯浅知事は、怒るでもなく、むしろ感動の気持ちをもって聞き届け、そのうえで組織の人事計画について語り、田澤義鋪を説得しました。田澤義鋪は、辞表を引っ込め、知事の説得を受け入れました。後年、この知事の引き立てによって、田澤義鋪は国会議員になることになります。

 明治四十五年七月三十日。
 明治天皇がお亡くなりになりました。

 それを偲ぶために神宮造営局の官制が公布され、大正四年四月から、総面積約二十二万坪、六ヶ年にわたる工事がスタートしました。この国民的な大事業の中枢、造営局総務課長に田澤義鋪が就任したのが、大正四年四月のことです。

 しかし、この工事は、物価高と人手不足のために難航しました。第一次大戦の勃発による史上空前の好景気におされて、労動力不足のために工事が全く進まなかったのです。担当者たちは、青ざめました。そこに田澤義鋪が解決案をだしたのです。

「この難局を地方青年団の労力奉仕でのりきりたい」

 しかし、この案を技術陣たちは鼻先で笑いました。

「素人に何が出来るんだ?」
「足手まといになるだけだろう」

 田澤義鋪は笑いものにされました。
 確かに素人は、足手まといになるかもしれない。
「しかし、青年団の実情を知っていれば、そうとも言えまい」
 というのが田澤義鋪の目算でした。

 明治維新前の青年たちには、仕事がありました。警備、消防、災害救助、神事、祭、公共事業、社会教育などの仕事です。彼らは、子供を卒業すると、自宅には寝泊まりせず、若者宿(若衆宿・郷中宿)で寝泊まりしました。そして、そこから仕事に出て行きました。結婚すると、自動的に若者宿(若衆宿・郷中宿)を出て行き、今度は大人(オトナ)と呼ばれる世界に仲間入りしました。明治維新がおきるまでの日本では、大人(オトナ)の世界と、若者組の世界の二重構造になっており、警察や祭礼や公共事業は、若者組の役割であり、家を守るのは大人組の役割でした。

 若者組は、治安維持や道路、橋梁の修繕、堤防の築造などのいろいろな仕事に対し、一人前として責務を果たさなければなりませんでした。しかし、子どもと大人の間の人生の多感な頃を同世代の者達と寝食を共に楽しく過ごしました。そして大人への仲間入りをするためのしきたりなどを学びました。

 彼らは、決して素人ではなかったのです。

「では、実験をしてみませんか?」
「実験?」
「ごく少数の青年団を上京させ、試験的に使ってみるのです。そして運用成績が良ければ、徐々に人数を拡大していくのです」
「実験?ですか?」
「ダメもとです。うまくいったら儲けものですよ。やってみましょう」
「そんな実験、やらなくても結果は見えてると思いますがねえ」

 こうして田澤義鋪は、なんとか会議をのりきり、かって安倍郡役所で苦労をともにした青年たちに連絡をとり、安倍郡の青年五十名をかき集めました。やがて青年たちは、田澤義鋪のもとにやってきました。みんな田澤義鋪を懐かしそうに「郡長」と呼びました。

「郡長、やって来ました!」
「郡長、お久しぶりです!」
「郡長、また一緒に働けますね!」

 青年たちは、その日から十日間、千駄ヶ谷の寺院に分宿して、作業に従事しました。
 ただし、作業だけではありませんでした。
 作業が終わると、寺院の宿舎で懇談会(ミーティング)を行いました。
 これが青年たちの一番の楽しみでした。
 この楽しみのために、上京したようなものです。

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 懇談会(ミーティング)には、田澤義鋪の他に高木兼寛、吉田茂など、当代一流の名士が代る代るやって来て、青年と膝を交えて語ってくれました。これには青年たちも感激しました。この伝統は、後に日本ユースホステル協会が設立されたときにも受け継がれ、下中弥三郎や賀川豊彦や大宅壮一などの各界の名士たちが、日本ユースホステル協会の懇談会(ミーティング)に参加しています。

 そして、試験期間の十日が終わって、青年たちが静岡県安部郡に帰っていったあと、「素人に何が出来るんだ?」と言っていた造営局の技術陣たちは、その成績に驚愕しました。専門土工より、四倍から五倍のノルマを達成していたからです。

 有度村の奉仕団が引きあげると、
 つづいて安倍郡全体から別の二隊がやって来ました。
 もちろん成績は変りはありません。
 専門家の四倍から五倍のノルマを達成して帰って行きました。
 技術陣たちの見方が一変しました。
「土工は青年団に限る」
という声さえでてきました。

 こうして本格的に青年奉仕団の募集が発表。
 たちまち全国各地から申込みが殺到し、
 その受入の設備に悲鳴をあげました。
 二百八十余団体一万五千人、
 延日数十五万日の奉仕団が集まったのです。

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 そして各地から送られた青年たちが、仮設住宅に寝泊まりし、
 昼は勤労奉仕。夜は、懇談会(ミーティング)。
 そして修養的諸行事を行いました。

 この後、日本初のユースホステルが誕生することになります。

つづく。

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2010年01月15日

日本ユースホステル史の源流12

日本ユースホステル史の源流12

つづきです。


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 蓮永寺の講習から五ヵ月後、三保の松原に天幕(テント)が張られました。日本初の天幕講習会でした。共に語り、共に楽しみつつ、懇談会(ミーティング)を行いました。中でも懇談会(ミーティング)を重視しました。人格をたかめあい、心のふれあいを行うためには、講習よりも、懇談会(ミーティング)が適していたからです。


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 ドイツでユースホステル運動をはじめたリヒャルト・シルマンは、野外教室で子供たちに勉強を教えました。時に得意のバイオリンをひき、歌を歌いました。賛美歌も歌い、聖歌も歌いました。それはさながらサウンドオブミュージカルのようでもありました。これが、ドイツのユースホステル運動の根源となりました。

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 ほぼ同じ頃、日本でも、同じようなことを発想した人がいた。
 田澤義鋪でした。

 しかし、田澤義鋪とリヒャルト・シルマンでは、少しばかり違っていました。リヒャルト・シルマンは、小学生を相手にしていたのにたいし、田澤義鋪は青年を相手にしていたところです。

 なぜ青年であったか?

 明治維新は、大量の失業者を出しました。
 版籍奉還、廃藩置県、失禄処分。
 まず武士たちが失業しました。
 ものすごい数の士族が職を失い、路頭に迷いました。
 突然のことでした。

 一方で、武士たちよりも遙かに巨大な数の失業者たちもいました。
 青年たちです。

 明治維新前の青年たちには、仕事がありました。警備、消防、災害救助、神事、祭、公共事業、社会教育などの仕事です。彼らは、子供を卒業すると、自宅には寝泊まりせず、若者宿(若衆宿・郷中宿)で寝泊まりしました。そして、そこから仕事に出て行きました。結婚すると、自動的に若者宿(若衆宿・郷中宿)を出て行き、今度は大人(オトナ)と呼ばれる世界に仲間入りしました。

 明治維新がおきるまでの日本では、大人(オトナ)の世界と、若者組の世界の二重構造になっており、警察や祭礼や公共事業は、若者組の役割であり、家を守るのは大人組の役割でした。

 若者組は、治安維持や道路、橋梁の修繕、堤防の築造などのいろいろな仕事に対し、一人前として責務を果たさなければなりませんでした。しかし、子どもと大人の間の人生の多感な頃を同世代の者達と寝食を共に楽しく過ごしました。そして大人への仲間入りをするためのしきたりなどを学びました。これらの日本の風習が分からないと、明治維新を行った維新の志士たちが、みんな二十歳代であったことが分かりにくいのです。


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 しかし、明治維新によってヨーロッパの風習が導入され、警察や公共事業が公務員によってなされるようになると、若者組は用無しとなり、失業してしまいました。その失業者の数は、路頭に迷った武士たちの数倍にもなったことでしょう。

 失業した若者組の人々は、やることを失って、イタズラや夜這いといった悪弊がはびこり、いつのまにか、社会から糾弾される立場にまで転落しました。また、西南戦争により、若者組の延長から構成された西郷隆盛軍が、近代的な政府軍に全滅させられることによって、若者組という江戸時代の遺物は消滅したかに見えました。

 田澤義鋪は、そんな青年たちに希望を託したのです。
 かって鍋島直彬が、青年田澤義鋪に希望を託したように。

 しかも田澤義鋪は、青年たちに勉強を教えることよりも「自分で考え自分で解決する」ことを重視しました。多くの青年たちが、田澤義鋪のところに悩み事を相談しに行きましたが、田澤義鋪は決して自分から答えをださず、かならず相談してきた者自身に考えさせました。あくまでも自分で考え自分で解決させたのです。そして自主独立の気風を青年たちに植え付けたのです。

 これは、上の命令でロボットのように動く青年を育てる世界と正反対の世界でしたから、日本が軍国主義化していくと、徐々に国家社会主義者たちの弾圧を受けるようになります。そして田澤義鋪は、大政翼賛会と反発するようになり、第二次大戦中に「日本は負ける」と公言するようになりますが、それは後の話です。

つづく。

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2010年01月13日

日本ユースホステル史の源流11

日本ユースホステル史の源流11

つづきです。

 大正三年(一九一四)三月十五日。静岡市外千代田村にある日蓮宗の名利、蓮永寺で、壮大な実験が行われました。田澤義鋪が、安部郡の郡長になって3年後のことです。


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 田澤義鋪は、この三年間、懸命に青年指導をやってきました。しかし、何か物足りなかった。自分が恩師、鍋島直彬ほどの力を発揮できてないことに不満がありました。そこで考えたことは、自ら青年と寝食を共にしながら、おたがいの人格を磨き合うしかないと考えました。そして、当時としては全く破天荒な、郡長と青年との一過間の共同宿泊講習を蓮永寺で行うことにしたのです。

 今でこそ指導者と受講者とが寝食を共にする宿泊講習は、目新しいことではありませんが、当時においては、革新的なことであり、郡のトップが、青年と寝食を共にする宿泊講習は、日本で初めてであり、世界的にも珍しいケースであったかもしれません。ドイツのユースホステル運動を除けばですが。

 講習生は、二十五名。いずれも各町村から撰ばれた青年たちで、米や夜具を車につんで、集ってきた若者たちでした。年令は最年長は二十六歳、最年少は十九歳。学歴もまちまち。旧制中学卒業の者あり、小学校四年修了の者あり、妻ある者十三名、子女ある者六名。しかも、彼らのうち、誰一人として、これから何が始まるか、知っているものがない。ただ割当てられた部屋に、見知らぬ者どうしが、ボーゼンと、かしこまって坐っているという状態でした。

 やがて昼食になりました。
 袴田視学が、青年たちの席を案内しました。
 正面には田澤義鋪、隣には寺の丹沢住職が坐っていました。
 食事は、いたって粗末なもので、一汁一菜。真黒な麦飯でした。
「こんな麦飯が食えるものか」
と思った青年たちでしたが、郡長も住職も、うまそうに食べている。

「郡長さまさえ食べていなさる。自分に食べられぬではバチがあたる」

と、目をつぶって押しこみました。給仕は、高級官師が行いました。これにも青年たちは、まごつきました。恐れおおくて、お代りを出しにくかった。こうして、1週間の合宿が始まったのですが、郡のトップである田澤義鋪みずから、身分をこえて青年たちと気さくな雑談をはじめました。

 第一回の講義は、夕食後に始めました。田澤義鋪が、憲法について分かりやすく解説しました。講義のあとは、ミーティング(懇談会)を行いました。青年たちは、きかれるままに、村の現状などについて語りました。田澤義鋪は、彼らの話をききおわると、宿題をだしました。

「諸君のめいめいの村についての問題は、今後十分に時間をかけ、実際についておたがいに研究もし、対策も立てたいと思うが、取りあえず、この講習期間中に、ぜひとも諸君に研究してもらいたい問題がある。それは金の使い方だ」
「・・・」
「七十円。この七十円を、わが安倍郡のために、これ以上有効な使い方はないというほどまでに生かして使いたいと思っているが、それを一つ諸君に考えてもらいたい。共同の研究も面白いが、今度は一人一人で考えた結果をめいめい答案にして、出してもらうことにしよう。私は、この金の提供者と相談して、その中から最優秀のものを一つだけ選んで、その案の通りに、この金を使って見たいと思っているんだ」
「郡長さん、いったいその金の提供者はどなたですか。また何のために提供されたんです?」
「不二見村の江川昌平翁だ。翁は御承知のように、長い間村長や県会議員をつとめられたが、先般老齢の故をもって辞任されるにあたり、県の支会から記念品代として、この金がおくられたわけだ。ところが、翁は、その金を持って私を訪ねて来られ、郡の基本財産にでもしてもらいたい、といって寄付を申し出られた」
「・・・」
「七十円の金額は郡の財政から見ると大したものではないが、その意義は実に大きい。だから、もっと光る使い方があるのではあるまいか思った。そこで私は江川さんにお願して、宿題として諸君の前に提供して、講習会の一過間のあいだ真剣に考えてもらうことにしたわけだ」
「・・・」

 第二日目から本格的な講習会がはじまりました。
 昼間の講義は午前と午後で六時間です。
 あとは広い寺内の掃除、入浴後の自由時間。
 夕食後はみんな一緒に附近を散歩しました。
 夜は課外講話が一時間ほど、それが終ると質疑応答。
 つづいてミーティング。
 お茶に駄菓子をたべながらの談話です。
 寝る前は、静坐して黙想です。

 講師は田澤義鋪が中心ですが、彼は郡長です。役所を休むわけにはいきませんから、朝の講義を九時までにすまし、急いで自転車にとび乗って役所に駆けつけ、牛後は、早目に帰ってきて寝食を共にしました。その留守中は、袴田視学と稲垣技手が、講師の送迎や青年の指導に当りました。
 講習は講義のほかに、実地見学。県庁に出かけて、内務部長の案内と説明で、県政の実際や議事堂なども見学しました。

 青年たちは、しだいに田澤義鋪に親しみをおぼえました。平素そばにもよれないように思っていた郡長と寝食を共にするばかりでなく、一緒に草をむしったり、落葉をはいたりしながら、村の話、わが家の暮し、心の悩みをきいてもらうことは、まるで夢みる心地でした。

 しかし、田澤義鋪にしてみれば、かって鍋島直彬が自分にしていただいたことを、安部郡の青年たちにお返ししているだけであって、別に特別なことをしたとは思っていないのです。それがまた青年たちの心を揺り動かしました。


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 また、田澤義鋪は、誰よりも早く起き、すすんで掃除・洗濯・食事の準備を行いました。誰もが嫌がるトイレ掃除などは、真っ先に行いました。それは、恐れおおいと青年たちは、後に続きました。そして、一緒に掃除などをするわけですが、田澤義鋪と一緒にする掃除は、本当に楽しそうでした。

 なぜならば、田澤義鋪は、実に人の話を良く聞いてくれるし、そのうえ素晴らしいアイデアをだしてくれる。しかし、決して田澤義鋪から回答は出さない。回答は、本人が自分で見つけられるようにする。こういう具合でした。もし、名教師というものが、この世にいるとすれば、田澤義鋪こそ名教師かもしれません。この田澤義鋪の名教師ぶりを、弟子である安積得也氏が、こんな詩にしています。


名教師

あなたについていると
自然に勉強したくなる
研究が面白くて止められない

あなたの手にかかると
ふしぎと自信が湧いて
突き当った壁から光明がさしでくる

あなたのものさしを見ると
恥かしくていい気になれない
世界水準が私の眼を油断から救う

あなたの周囲にいる人は
めいめいの景色を許されながら
正直な持ち味で胸いっぱいの呼吸をする

あなたの下では
苦しみをも楽しみながら
誰も誰も優等生だ

<安積得也詩集「一人のために」より>


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 講習の終りに近く江川翁提供の七十円の有効使用法の答案が、二十五人の講習生から集まりました。いずれも捨てるには惜しいものばかりでしたが、特に二つは、すぐ実行に移して見たい名案でした。

 その一つは養鶏改良案で、まず白色レグホンとかミノルカとか、品種のよいニワトリのヒナを買って、雄一羽・雌三羽を一組とし、各町村毎に経験ある青年をえらび、これに委托飼育させる。その期間は二年を一期として、大きくなった親どりは飼育者にやり、初めの数だけのヒナを返させ、今度はつぎの青年を選抜委託する。これを順次くりかえして行けば、安倍郡の養鶏改良は、期せずしてできるというのである。

 もう一つの案は、巡廻文庫の増設であった。七十円で文庫をふやし、江川翁の寄付の由来を書き、その中の本は他の文庫のように雑多な本ではなく、江川翁が一生魂をうちこんだ、町村自治と産業組合関係の本のみを集めるというのである。こうすれば、郡下の青年は永く江川翁の功をしのびながら、しぜん研究も進むであろう。

「江川さん、どうですか、この案は?」
「名案です。青年諸君を見直しました。わしはあのとき、この七十円を自分の財布に入れないでよかった。入れればそれきりで、こんなすばらしい使い方はできなかったはずじゃ。わしは諸君にお礼を申すとともに、攻めて田澤郡長に心から感謝したい」

 こうして一週間にわたった講習会は終りました。
 だれもが、別れがたい思いを残して。

 閉会式。

 田沢は、別れをつげに来る一人一人の手を、
 かたく握って、短かいはげましの言葉をのべました。
 みんな涙をためていました。

 この一週間の宿泊講習の体験に味をしめた田澤義鋪は、これを拡大したいと思った。選ばれた青年たちのためだけでなく、広く一般の青年たちのために作ってやる必要を感じたのです。

 しかし、それには一週間という期間は長すぎる。
 家庭の事情や費用などのことを考えると、無理がある。
 もっと手軽にやる方法はないものだろうか?
 たとえ1日でもよい。
 一般の貧しい大勢の青年たちと寝食を共にする機会が欲しい。

 そう考えた田澤義鋪は、静岡の歩兵連隊を訪ねた時に、たまたま行われていたテント作業を見て、ひらめきました。

「これだ! これを使えば大勢の青年たちを宿泊講習によべる」

 こうして、日本初の天幕(テント)講習が、三保の松原で行われることになるのです。そして、そこに参加したのが田澤義鋪の友人であり、成蹊大学の開祖でもある中村春二でした。

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つづく。

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2010年01月11日

日本ユースホステル史の源流10

日本ユースホステル史の源流10

つづきです。

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 話が、脱線しすぎました。
 田澤義鋪の話です。
 田澤義鋪が、日本のユースホステル運動の基礎を造った話です。

 田澤義鋪は、熊本の第五高等学校を卒業し、東大法学部に入学します。専攻は政治学でした。明治三十八年(一九一五)九月、二十歳の時です。この頃の法学部は四年制(現在でいう五年制と同じ)だったので、明治四十二年七月に卒業しています。超エリートコースを進んでます。
 そして、旧藩主鍋島直彬庇護の下に佐賀県全体の在京学生会幹事となり、維新の元勲大隈重信をはじめ、郷土出身の諸先輩の家に出入し、将来が約束された出世コースの王道をすすみました。そして卒業旅行に、日露戦後の満州・朝鮮地方を視察。横暴な日本人をみかけて衝撃を受けます。

「海外発展? それが何だ。もし日本民族の情感と道義とが永久にこのままであるとするならば、それは発展どころか、恥辱の拡大であり、民族的怨恨の種をまきちらすに過ぎないのではないか。それでは、地図の上ではどんなに発展しようとも、遠からず国の基礎がゆらぐであろう。道義なくして何の国家だ。日本は東洋のならず者になってはならない・・・・・・」

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 明治四十二年七月、東大法学部の政治学科を卒業した田沢は、その年の十一月に、高等文官行政科を受験して合格。辞令をもらって、明治四十三年四月の末から静岡県庁に勤めます。そして四ヵ月ばかり、地方官の見習いをし、八月、二十五歳で静岡県安倍郡長に任命されます。

 当時は「県」のしたに「郡」という行政単位があったのです。
 そして「郡」の下に市町村がありました。
 その郡長に任命されたわけです。

 安倍郡は、静岡市の周辺にある二町二十二ヵ村から成っています。そこのトップに任命されたわけですが、田澤義鋪は、自らを鍋島直彬のイメージで律しました。町村視察のたびに、士地の青年たちと胸襟をひらいて語りあいました。鍋島直彬のようにです。日曜は草鞋がけで遠い山村をたずねました。そして懇談会をひらきました。しかし土地の青年たちは、必ずしも大人しくはありませんでした。

「議長!」
「なんでしょう」
「今度の懇談会の通知状をみると、洋服または袴着用と書いてあります。郡当局は、我々青年がみな袴をもっていると思っていられるのですか。いや、それよりもおかしなことは、洋服ならばつめ襟でも背広でもよく、日本服ならなぜ袴をつけなければならないのですか。西洋崇拝もはなはだしいではありませんか」

 幹事役の視学が、青ざめました。
 役所の面目丸つぶれだと。

「いや、べつに西洋崇拝しているわけではありませんが、町村幹部の方々だから、たいていお持ちのことと思いまして」
「私の申しているのは、根本の精神です。農装のまま野良からとんで来てくれ、と呼びかけてもらいたいのです」

 青年たちの席から、共鳴の拍手。
 役人たちは、冷や汗をかきました。
 しかし田澤義鋪は笑顔で答えました。

「いや、これは一言もない。この次から、真面目な服装でさえあれば、なんでもいいということにしよう。こういう有益な意見をどしどし聞かしてもらうのがこの会合の一つの目的だが、今日は、それが大いに成功した証拠を見せてもらって有りがたい」

 田沢の言葉に、拍手がわきました。

 また田澤義鋪は、補習教育に力をいれました。青年の教育と出席を奨助することに着意し、自彊旗という優勝旗をつくりました。月桂冠の中に「自彊」という文字を染めぬいたもので、明治天皇が当時の国民の精神のよりどころとして示された「戊申詔書」中の「自彊やまざるべし」というお言葉にちなんだものであった。この優勝旗は、出席歩合の優秀な町村に与えるもので、三年つづけて獲得すれば、永久に貰い切りになるというきまりでした。このために補習教育熱が高まり、青年の気風が改まるいとぐちとなりました。

 田澤義鋪も、夜間の補習学校の講義を受け持ちました。郡長みずから教師をするために、安部郡を走り回りました。そして移動時間を節約するために、当時、まだ高価であった自転車を購入し、役所が終わった後に、彼は近所の空地で、自転車乗りの稽古をはじめました。何度も田畑の突っこんで泥だらけになったといいます。

 そして乗り廻せるようになると村々をめぐりました。
 電灯のない夜道。
 提灯を片手に自転車を走らせました。

 補習教育の改革も行いました。普通教育の他に、実学(農業)・公民教育もすすめました。県立農学校から優秀な卒業生をおくってもらい、郡費の補助により町村に配置しました。田澤義鋪は月一回、これらの人と懇談会をひらき、時には彼らを自宅に招いて、野菜持ちよりの夕食会をひらき、農村の実情を調査しました。

 また田澤義鋪は、農村生活の問題点をあげ、それに対する解決の研究を、補修学校の生徒たちに研究させました。この方法は、日本青年団に受け継がれましたが、日本ユースホステル協会にも受け継がれています。ただ、日本ユースホステル協会の関係者は、どうして、こんなことをするのか?不思議がっている人もいますし、私も、その一人でした。研修会・分科会があるたびに、どうして、こんなことを話し合うのだろう?と不思議に思っていました。こんなことより、偉い人の話でも聞きたいと思っていました。

 しかし、そうではないのですね。

 田澤義鋪は、自分のことは自分で解決しなければならないと考えていたのです。学ぶだけではなく実践しなければならない。そのためには、自ら問題点をさがし、自らその解決方法をみつけだし、自ら実践しなければならない。そういう思想が、日本ユースホステル協会をたちあげた横山祐吉まで繋がっていっているのです。だから横山祐吉氏は、イデオロギーや運動論を極端に嫌っていたわけです。

 さらに田澤義鋪は「農業に農事試験場があり、工業に工業試験場があるならば、地方自治の振興に自治試験場なかるべからず」と考え、村治研究会を通して、よいと思う案をどしどし実行してみるという実験まで行いました。このような田澤義鋪の政策によって、安部郡は、日に日に活気づいていきました。

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 そして、静岡市外千代田村の蓮永寺において、日本のユースホステルの元祖ともいえる講習会が開かれるのです。大正三年(一九一四)三月十五日のことです。ドイツのアルテナに世界最初のユースホステルが誕生してから2年後のことです。日本にも革命的な事件がおきるのです。

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つづく。

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2010年01月08日

日本ユースホステル史の源流9

日本ユースホステル史の源流9

つづきです。

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 田澤義鋪は、旧藩主の鍋島直彬から奨学金をもらって、鹿島中学に入りました。鹿島中学は新設であったので、図書館も本もありませんでした。そこで田澤義鋪は、自らの力で図書館をつくりはじめました。倒産寸前の鹿島藩を救った鍋島直彬を手本に動き始めたのです。

「図書館がないなら、自分たちで造ろう!」

 仲間を集め、手分けして郡内を廻り、各村からいくらかずつの寄附金を集め、それで本を買い集め、小さな家を借りて小図書館を作り、その管理を学生たちが当番制で受持ちました。また、夏休みになると仲間たちを集めて組織を作り、集団的な勉強会を開き、それがすむと野球その他のいろいろの運動をやりました。運動にあきると、海岸まで走って行って、波に向って吠えたてる競争などをしました。

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 中学四年の夏休みには、四人の友達と学生会のボートに乗り、島原半島一周の大遠征を試み、ボートを大破させたりもしました。しかし、夏休みがあけて九月になると、このボートのことが大問題になりました。外海へ乗り出すさえ無謀であるのに、その上破壊までするとは何事かと大騒ぎになったのです。

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 そこで田澤義鋪は、一行を代表して、謝罪大会を開きました。しかし、謝罪のはずが、いつの間にか血肉わきおどる大冒険の体験談になってしまっていました。そして、批難をあびせていた連中までが、その体験談に感心し、大拍手をおくっていました。しかし、この時の田澤義鋪は、2年の飛び級をしているのです。みんなより2歳若い。なのに大勢の同級生を感心させる弁舌をふるっていました。これは、厳格な父の漢学教育のたまものであったのかもしれません。漢学によって純粋培養されていたために、その人徳と語彙の豊富さによって、いつのまにか、みんなを魅了していたのです。

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 明治三十四年七月。熊本の第五高等学校の入学試験に合格。九月に田澤義鋪は入学しました。もちろん鍋島直彬の援助によってです。しかし、この第五高等学校で、禁酒の誓いを破ったということで退学になります。ボート部の先輩に無理矢理飲まされて、それがバレて退学になったのですが、同級生たちは、一人残らず田沢に同情し、その処分に憤慨しました。そして学校当局に向って、処分取消の陳情をすることに決し、クラスを牛耳っていた後藤文夫をその先頭に立て、退学を取り消してもらいました。これいらい後藤文夫と田澤義鋪は、終生の親友になります。


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 この後藤文夫は、後に政治家となって、日本の改革をすすめた人で、2.26事件の時に二日にわたって内閣総理大臣臨時代理を務めています。息子さんは、後に法務大臣を務めた後藤正夫ですね。田澤義鋪は、この後藤文夫とペアとなって、後藤は政府側から、田澤義鋪は民間側から日本を大改造するわけですが、それは後の話です。

 ともかく、田澤義鋪は、熊本の第五高等学校で
 後藤文夫という終生の親友を得ました。
 これは田澤義鋪の人生において大きかった事件でした。

 それから田澤義鋪は、もう一人の親友を得ます。
 次郎物語の著者である下村湖人です。

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 下村湖人。

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 彼も佐賀県人であり、旧佐賀藩の人間ですが、この下村湖人が、田澤義鋪と意気投合し、終生の友となるのです。そして田澤義鋪と下村湖人は、ほぼ同一な思想と信念をもつ同志になるのです。

 これは余談になりますが、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉氏は、この田澤義鋪と下村湖人の二人に大きく影響を受けました。しかし、この二人の影響を受けたことが、横山祐吉という人間を分かりにくくしているのです。

 特に下村湖人の影響を受けたことが、本当に分かりにくくしてしまった。というのも、下村湖人という男は、文章にしにくい人で、分かりにくいところがあります。彼を分かるためには、次郎物語を5部まで全部読まないとわかりにくい。というのも、下村湖人には、漢学の素養の他に、「葉隠」の思想が混じっているからです。

 田澤義鋪は、四書五経の世界で純粋培養されて育ったのに対して、下村湖人は、ちょっと違っていました。下村湖人の思想の中には、葉隠の精神が混じっていました。

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 ここで誤解されると不味いので、はっきり書いておきますが、「葉隠」と書くと「武士道とは死ぬことと見つけたり」の名文句だけが一人歩きして、下村湖人をそういう色眼鏡で見てしまいがちなのですが、それは違います。

 「葉隠」は、そういう殺伐としたものではなく、もっと通俗的なものであり「恋」を一番重視しています。それも「忍ぶ恋」です。よーするに永遠の片思いですね。たとえ夫婦であっても片思い。それが胸に秘められることが、武士の道であると言っているのです。分かりやすく意訳すると「それとは気づかせない思いやり」になるでしょうか。

 この葉隠精神を基に下村湖人は、「煙仲間」という運動をはじめるのですが、この「忍ぶ恋」の精神を静かな国民運動までに昇華しようとしましたが、残念なことに軍部に乗っ取られます。このあたりの雰囲気は、次郎物語の5部に、よく描かれています。

 世の中に、この「忍ぶ恋」の精神を浸透させることによって、世界を変えようとしたのが、下村湖人であり、彼の代表作である次郎物語は、そのテーマで一貫しています。葉隠の原文と次郎物語の5部まで読めば、私の言いたいことは、分かっていただけると思います。

 横山祐吉氏は、この下村湖人の弟子であったのです。
 しかし、横山祐吉氏は、それを生前に口にしていません。
 口にせずにお亡くなりになってしまった。

 田澤義鋪の事は、たびたび口にしているのに、下村湖人のことは口にしてない。その理由は、下村湖人という人間を解明していくと、徐々に分かってくるのですが、横山祐吉の中には、思想的には田澤義鋪の影響が、人格的には下村湖人の影響が、かなり濃厚に残されていて、それが横山祐吉氏を余計に分かりにくいものにしてしまったのですね。だから横山祐吉氏と話をしたことがある人間は、彼の禅問答のような回答に困惑してしまう。分かりにくいのです。そして、そのわかりにくさが今日の日本ユースホステル協会の性格を造ってしまった。しかし、私たちユースホステル関係者たちは、それらの背後関係を知らされてないのです。そこに悲劇と誤解があった気がしてなりません。

 話が、脱線しすぎました。
 本題に入りましょう。
 田澤義鋪の話です。
 田澤義鋪が、日本のユースホステル運動の基礎を造ったはなしです。
 どうやって基礎を造ったか....。

つづく。

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2010年01月06日

日本ユースホステル史の源流8

日本ユースホステル史の源流8

つづきです。

 明治十八年七月二十日。
 鹿島城の裏にある武家屋敷に男の子が生まれました。
 田澤義鋪(たざわよしはる)と名付けられました。

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 父である義陳(のぶよし)は厳格でした。家の裏に四坪ばかりの池がありましたが、義鋪は毎朝そこで泳がないと朝飯をたべさせてもらえませんでした。また寒中でも毎朝、その池のはたで、水をかぶることになっていました。それも十三杯。時には十杯ぐらいですまそうとすることもありましたが、父が数えていて十三杯を強制しました。

 厳寒の頃は、氷が張りました。義鋪にとっては、その氷を割るのが一苦労。で、彼は寝床を出る前に、女中にたのんで、その氷を割っておいてもらうことにしました。
「ねえや、もう起きるから氷を割っておいて」
という彼のいじらしい頼みは、近所の語り草になっていました。

 ところで明治二年の版籍奉還により、特権階級であった武士はみな失業しました。父・田澤義陳も、その一人でした。父は小学校の近くで文房具店をひらいて生計を立てていました。そのころ田澤義鋪家には、親戚の幸尾隆太郎があずけられ、兄弟のようにして育てられていました。幸尾は田澤義鋪より四つ年上でしたが、姉ふみよりは四つ下でした。

 ふみと隆太郎と義鋪は、毎朝父の前に坐らされて、四書五経や日本外史を教えこまれました。義鋪は、三歳ぐらいでしたが、その勉強風景をそばで見ていて、知らず知らずのうちに、四書五経や日本外史を覚えてしまうようになりました。中身を理解していたかどうかは分かりません。しかし、年上の隆太郎が舌をまくほど、四書五経や日本外史の完璧に暗記してしまった。姉や、親戚の幸尾隆太郎よりも覚えが良かった。

 その姉や、幸尾隆太郎は、小学校に向かう。
 三歳の田澤義鋪は、小学校に行けない。

 田澤義鋪は、父親に「小学校に行きたい」とせがみました。父は、それに根負けし、特別の取扱いを校長にたのみこみ、四歳の義鋪を一年に入学させたのです。頭がよいですので、学習において、彼は決して級友にひけを取りませんでしたが、何しろ満四年にも足らぬ幼児です。入学したての頃は、休み時間になりますと、母親の乳をのみによく帰ったものだそうです。

 ところで昔の小学校では、厳重な進級試験があり、合格者の名を成績順に書いて貼り出すことになっていました。ここで田澤義鋪は落第しました。成績が悪くて落第したのではなく、校長と父親との相談の結果の落第でした。早熟の弊害を避けるために下した父親の判断でした。

 田澤義鋪の父、義陳は、
 藩主鍋島直彬に仕えて維新の労苦を共にした人でした。

 鍋島直彬は勤王家でしたが、当時の佐賀本藩は、公武合体主義で佐幕に近かった。しかし勤王の鍋島直彬は、佐賀城内での最後の大評定において「もし自説が容れられなければ、切腹しますす」とまで言い切って反対論者を屈服させました。維新の志士であり、後に明治政府の元勲となった副島種臣や大隈重信が、脱藩してその罪を問われていた頃、彼らを庇護して生命を救ったのも鍋島直彬でした。

 この旧藩主が、維新後に行ったのは、人材養成でした。彼は私財を投じ、経済的に恵まれない子弟の育成に力を注ぎました。この鍋島直彬が、田澤義鋪に目をつけ、息子であり世子でもある直繩の学友に撰びました。

 その結果、田澤義鋪は、鍋島直彬に接する機会も多くなり、その感化も大きくなりました。また、父・義陳は「直彬公こそは、志士にして君子、君子にして志士と云うべき方である」と田澤義鋪に教えていましたからなおさらでした。

 この鍋島直彬は、ただの藩主ではありませんでした。良いと思ったら猪のように突っ走り、すぐに対処を行いました。鍬も持てば、剣も持ちました。剣をとったら日本有数の腕であり、若き日の田澤義鋪を相手に剣の稽古をつけました。鍋島直彬は
「小手先だけでやるのは剣道ではない」
と剣の道を説き、若者たちと城の草むしりをしながら人の道を説きました。

 この藩主の行為が、田澤義鋪の人間を変え、
 そして田澤義鋪が、日本を変えていくのです。

 田澤義鋪によって治安維持法を有名無実化させることに成功し、あと一歩で日本を大きく変えるところまでいったことは、知る人ぞ知るところです。田澤義鋪によって日本企業に日本的経営スタイルが定着したのも知る人ぞしります。この田澤義鋪が、日本のリヒャルト・シルマンとして、日本のユースホステル運動の基礎を造っていくのですが、それは、どういう方法によって造られたのでしょうか?

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 実は、これが奇想天外な方法によって日本ユースホステル運動の基礎が造られたのです。それを知ると、日本のユースホステル運動は、根っこの部分で、ドイツのものと、まるで違っていることに驚愕させられます。なぜ世界のユースホステルに、ミーティングが無くて、日本のユースホステルだけにミーティングが自然発生したかがわかるのです。それは......。


つづく。

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2009年12月25日

日本ユースホステル史の源流7

日本ユースホステル史の源流7

つづきです。

 佐賀藩は、抹殺された藩です。明治7年におきた佐賀の乱で見事に抹殺されてしまった。しかし、その前までは、薩長土肥の中で、最強の藩であったし、明治政府の中心的存在でした。

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 明治政府がスタートしたときに太政官が復活するわけですが、一番上位が左大臣と右大臣。左が上ですが、左大臣は適当な人物が見当たらないということで欠員。そして右大臣が三条実美。天皇の権威によって国家を作るわけですから、身分が高い公家をトップに置くのは当然です。ただし、これはお飾り。ですから問題はその次位の大納言ですね。

 大納言に岩倉具視鍋島閑叟が就任している。
 つまり、この二人が事実上のトップなのです。
 つまり明治新政府は岩倉・鍋島連立政権だったわけです。
 薩長土は、その下なのです。

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 おまけに岩倉と鍋島は大変親しかった。実は明治元年、戊辰戦争中に岩倉具視が長男具定と次男具経を、佐賀藩に留学させている。いかに岩倉が鍋島を信頼し、佐賀藩の学問を高く評価していたかが分かります。それ程までに岩倉と閑叟は親密な仲で、その二人が大納言になって、手を携えて発足早々の明治新政府を切り回していたわけです。ところが、閑叟は病気に倒れ、明治四年正月に五十八歳で亡くなりました。岩倉は、何度も病床の閑叟を見舞いましたが、死の床にあった閑叟が岩倉に、「どうか明治天皇に種痘をしてさしあげるように」と遺言したのは有名な逸話です。

 どうして、ここまで佐賀藩が皇室から信頼されたかと言いますと、
 2つの原因がある。
 1つは、佐賀藩は、長崎から外国勢力を追っ払った過去があった。

 幕府は、ペリーの来航に降伏にもひとしい屈辱をうけたのですが、
 ちょうど同じ頃、佐賀藩は、長崎から露西亜のプチャーチンを追っ払った。

 露西亜のプチャーチンと直接交渉したのは、川路聖謨でしたが、佐賀藩が鉄製の大砲を長崎港にズラリと並べて、露西亜を威嚇した。そのために有利に交渉が進められたのです。

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 それを川路聖謨は幕府に報告し、幕府は、佐賀藩に鉄製の大砲を200門注文し、お台場を造って再びペリーの来航を待ち構えるわけです。幕府は、残念ながら鉄製の大砲を造る能力が無かったんですね。つまり、幕府より佐賀藩のほうが強国であったことは、幕府の方が認めている。このへんは、薩摩も長州も良く知っていて、佐賀藩を敵に回したら絶対に勝てないと思っていました。

 もう一つは、佐賀藩の民度が異常に高かったことがあります。
 佐賀藩は、単に近代文明に優れていただけでなかった。
 武士・藩主・町民までもが優れていた。

 日本で初めての義務教育を開始したのが佐賀藩であったし、
 自治会議や庄屋公選、
 殖産興業、
 社会福祉まで、
 明治政府が始める前にやっていました。

 明治政府は、これらを外国から学んだのではなく、まず佐賀藩から学んだのです。この歴史が、抹殺されている。ここが分からないと、日本ユースホステルの源流が、どうしても見えてこないのです。

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つづく。

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2009年12月23日

日本ユースホステル史の源流6

日本ユースホステル史の源流6

日がたちましたが、つづきです。

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 倒産寸前の鹿島藩を救ったのは、確かに鍋島直彬でしたが、直彬が藩主になったのは、わずか六歳。六歳の少年には藩は救えません。藩を救ったのは、六歳の少年に与えた教育です。少年藩主に対する教育が藩の運命を変えたとも言えます。これは、直彬自身が一番よく知っていたし、鹿島藩の藩士たちにも痛いほどわかりました。六歳の少年に与えた教育がなければ、藩が潰れていた恐れがあったのですから。

 そのせいか鹿島藩の藩士たちは、みな少年たちへの教育を重視しました。そして、それが伝統となりました。そして明治十八年七月二十日、田澤義鋪が生まれます。鹿島藩鹿島城の隣にある武家屋敷に住む田澤義陳、母みすの長男として。

 田澤義陳は、今で言う教育パパでしたが、知育・体育・徳育のうち、体育を重視しました。まず、朝起きて井戸水を汲み、十三杯の冷水を全身にに浴びました。それが終わらないと飯を食べさせてもらえないのです。庭に大きな池も造りました。夏は、そこで朝から息子を泳がせました。一泳ぎおわるまで朝食をだしませんでした。

 食事が終わると朝よみです。

 論語などを小一時間ほど声を出して読みます。
 幼い田澤義鋪は、まだ四歳だというのに、
 難しい漢文を次々と読みこなしました。

 詳しく意味が分かっていたかどうかは疑問ではありますが、声を出して読む漢文は、今も昔も、とてもかっこいいものです。こういう風景は、明治大正の頃にはよく見られた光景ですが、これなどは知育ではなく、徳育の部類です。体育をして体を鍛え、朝の徳育。田澤義鋪の幼児期は、こういう風景の中にいました。

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 田澤義鋪。

 実は、彼こそが日本最初の青少年宿泊施設を造った男です。世界最初のユースホステルは、リヒャルト・シルマンが1912年アルテナ城を改築して造られたものです。しかし、その13年後に日本にも青少年宿泊施設ができていたのです。それを作った男が田澤義鋪であったのです。

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 しかし、日本青年館とユースホステルの間には、
 何一つ関連性はありませんでした。
 日本青年館は、主に青年の施設であったし、
 ユースホステルは、主に小学生の施設であったからです。

 ところが、この2つが合体する事件がおきるのですが、その合体の立役者が日本のリヒャルト・シルマンこと横山祐吉氏でありました。そして、この横山祐吉氏が、全く持って謎の男であったわけですが、その謎は、田澤義鋪というキーワードを説くことによって解明できるものだったのです。

 では、田澤義鋪とは、どんな男か?
 少し探ってみましょう。

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つづく。

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2009年12月18日

日本ユースホステル史の源流5

日本ユースホステル史の源流5

つづきです。

 こういう藩主がでてくると、凄い支援者がでてきます。
 能古見の元源昌寺の住職僧祥誉(しょうよ)師です。

 この僧侶は、悟りを開き、心を見通してしまう超能力を体得。米の相場、花札、博打を打ったらほとんど百発百中で勝ち、座の金を全部持って帰る事もありました。もちろん寺の金には一切手をつけず、住職個人の金だけで大儲け。この人が、新藩主直彬の徳に感心し、鹿島藩に大金を貸し与え、さらに自分の姉の孫である松尾弥四郎を直彬公の財政係に推薦しました。

 この松尾弥四郎は、直彬公の信頼を受け、極秘に船を購入し、『豊国丸』と名付け伊万里港を拠点として、伊万里焼や肥前刀などの密輸活動を開始しました。その活動範囲は、全国各地から遠くはインドネシアまで広げたといいます。そして儲けた資金で借金を次々と返済してゆき、新型の銃砲の購入し、莫大な食料と生活雑貨を鹿島藩に多くをもたらしました。まさに奇跡。倒産寸前の藩が、たった十年で日本一裕福な藩に変化し、その資金をもって新兵器を購入し、最強の軍隊を設置。さらに明治政府に鹿島藩の財産を現金八万両をも引き渡しています。

 廃藩置県後は、直彬は松尾弥四郎に密貿易の功労船『豊国丸』を格安で払い下げ、その『豊国丸』をもって松尾弥四郎は、わずか八年間で巨万の富を築き大富豪となります。このまま行けば、三井三菱を凌ぐ巨大財閥になろうというところまで行きますが、明治十二年に直彬が沖縄県知事に就任するとともに、直彬を慕って臣下にもどって同行し、沖縄統治のために私財を投じるわけですが、それは後の話になります。

 とにかく、直彬の周りには、僧祥誉や松尾弥四郎のような人材が続々と集まり、鹿島藩の財政難をアッという間に解決してしまい、国を豊かにし、学問をおこし、軍備を増強し、いつの間にか佐賀本藩をもしのぐ国力をつけていきました。そして直彬は、密かに佐賀本藩の勤王志士たちを応援するまでになりました。佐賀藩の志士たちの多くは、陰で鹿島藩直彬のバックアップを受けていたのです。しかも隠密に。

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 しかし、佐賀本藩の鍋島閑叟は、勤王から距離をとっており、脱藩志士たちに斬首を命じていました。それらを庇護しかくまい、資金まで与えたのが鹿島藩の直彬でした。もちろん資金源は松尾弥四郎による密貿易によるものです。そして、志士たちが鍋島閑叟に殺されかかるたびに、佐賀城まで走り、鍋島閑叟に天下の形勢を進言し、佐幕に傾きかけようとする藩論を勤王に戻したのです。

 そしてもし、直彬がいなければ、佐賀藩は佐幕であった可能性があり、佐賀藩の強力な軍事力は、薩長に向けられた可能性があります。もしそうなったら薩長に勝ち目はなかったでしょう。

なにしろ佐賀藩の兵器は、
世界最先端のアームストロング砲
まで備えていたのですから。


 アームストロング砲。

 これは当時の最強砲で、開発国のイギリスでさえ正式装備してなかった砲です。正式装備をしなかった理由は、戦闘中に尾栓が吹き飛んで砲員のすべてが死傷するという事故が度々発生したからです。そのためにイギリス本国で廃棄されることになってしまう呪われた砲です。しかし、威力は絶大で幕末の戊辰戦争で大活躍しました。

 このアームストロング砲を製造可能だった佐賀藩の工業力は恐ろしいものがありますが、ドイツ・フランス・アメリカでも不可能だったアームストロング砲を製造できた理由に、佐野常民の活躍があります。

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 彼は、京都で活躍していた、からくり儀衛門をスカウトします。
 この、からくり儀衛門こと田中久重(後の東芝の創始者)は、
 伊万里焼の技術をもって完璧な反射炉を造りました。

 これによって耐火煉瓦の反射によって製鉄することによって不純物をのぞいた純度の高い鉄ができあがります。もう鉄をカンカン叩いて炭素を逃がさなくてもよくなります。

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 この田中久重(からくり儀衛門)は、天才でした。
 エジソンを上回る最強の天才でした。

 というのも、彼の造った工作機械は、
 ヨーロッパから文献で導入したものでなかったからです。
 彼のオリジナルであり、
 日本の技術(からくり)によって造られていたからです。






 彼の造った工作機械の動力は水力です。

 いくつもの水車を使って、
 歯車を組み合わせ、
 精密な工作機械をつくりあげました。
 そして、蒸気船や蒸気機関車を製造し、造船までやってのけます。

 どうりで日本だけが明治維新に成功できたはすです。

 日本には、すでにヨーロッパを上回る基礎技術が、
 民間に存在していたからです。
 それを佐野常民がスカウトしてきた。

 そしてアームストロング砲を製造する工作機械を造らせたのです。
 しかも戦闘中に尾栓が吹き飛ぶ欠陥を改良させていました。
 砲身を長めに造り、
 鉄の純度の低い前後を長めに切断し
 純度の高い鉄の丸太を造る。
 そして水車を使って二十四時間砲内をくりぬく作業をさせたのです。


それも無人の機械(からくり)、
つまり今で言うロボットを使って
アームストロング砲を大量生産させていました。
しかも水車が動力なので、
二酸化炭素は出していません。



 田中久重(からくり儀衛門)が、どれほど凄い人なのかは、次の動画をみればわかります。








 この田中久重(からくり儀衛門)によって造られた世界最強の砲であるアームストロング砲が、もう少しで佐幕側に使われることろでしたが、それをストップさせたのが直彬の活動でした。そして、鳥羽伏見の戦いの後でも、まだ徳川幕府に義理立てしている佐賀本藩に対して、直彬は激昂し、

「鹿島藩のみで薩長に加わる。失敗したら、あれは鹿島藩の独断だと切れ捨てよ、もし倒幕に成功したら、全て本藩の手柄とせよ。全ての罪は、直彬個人が背負う!」

と叫び、これに鍋島閑叟は動かされたのです。こうして薩長土肥の連合軍が成立し、ぎりぎりのところでアームストロング砲は、明治維新のために使われることになりました。そして、アームストロング砲の活躍がなければ、戊辰戦争であれだけの勝利をおさめることは不可能だったのです。

つづく。

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2009年12月16日

日本ユースホステル史の源流4

日本ユースホステル史の源流4

つづきです。

 日本ユースホステル協会の源流。
 それは、第13代鹿島藩藩主、鍋島直彬にはじまります。
 そして、この鍋島直彬こそが、
 薩長土肥の連合軍を造った幕末の英雄でした。
 しかし、これが歴史に出てこないのです。

 薩長土肥の中の一つ。肥前鍋島藩の鍋島藩主・鍋島閑叟は、討幕派ではなかった。幕府、朝廷、公武合体派のいずれとも距離を置いていました。むしろ幕府に近かったきらいがありました。それを勤王倒幕に動かしたのが、支藩である鹿島藩藩主である、鍋島直彬でした。

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 鹿島藩とは、肥前鍋島藩、つまり佐賀藩の支藩です。
 佐賀藩には、蓮池藩・小城藩・鹿島藩の三つの支藩がありました。

 蓮池藩は、5万2000石。
 小城藩は、7万3000石。
 鹿島藩は、2万石。

 一番小さい支藩が、鹿島藩です。しかし、この2万石は嘘で、本当は八千石。表高を水増しして2万石にして、やっと大名にしてもらったような藩でした。

 表高を水増ししたらどうなるか?
 赤字になります。
 八千石の予算に、2万石の経費を使えば赤字になります。
 財政は逼迫し、参勤交代の予算もない。佐賀本藩からの援助でやっと参勤交代をする。佐賀本藩に援助を断られると、幕府に藩主病気を理由に参勤交代を五年間猶予願いを出して許してもらうことが何度もあった。そのくらい情けない状態でした。

 その結果、佐賀本藩から、鹿島藩取り潰しの案が何回も出されました。そして幕府に廃藩の願いが提出されていました。それを受けて老中牧野備前の守は、密かに内情を探らせました。そして出た結論は、十代鹿島藩主・直永の子、直彬(六歳)を十三代鹿島藩主にして、藩主が大人になるまでの間に、鹿島藩の行政改革をするよう、佐賀本藩が助けるようにということでした。

 佐賀本藩は、直彬(六歳)を十三代鹿島藩主にして、役人を派遣して壮絶な倹約を命令しました。進駐軍みたいなものです。しかし、倹約だけでは、どうしようもない状態に鹿島藩は追い込まれていました。まさに今の日本国政府みたいです。鹿島藩は青息吐息。

 そして、十三代鹿島藩主・直彬(六歳)に対しては、
 将来の名君になるべく文武両道のスパルタ教育をはじめました。
 これが良かった。
 すごい人間ができあがった。

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 直彬への教育は、質実剛健そのものでした。
 しかも文武両道。両方を学んだ。
 徳のかたまりのような青年をつくりあげ、
 そして行動のすばやい人格を形成してしまった。

 十二歳の時におきた安政の大地震の時は、自ら飯を炊き救援活動を行いまとた。十四歳になった時は、初穂米を売却した資金百三十九両を低利で貧民に貸し与え、その利息で図書館の蔵書費としました。

 そして、十七歳になるまでの間に、中村敬宇安積艮斎をはじめとする多くの名儒から教えを受けました。そして、長州藩邸に出入りし、小倉健作や高杉晋作とも交遊し、昌平坂学問所では、勤王として名高い松本奎堂・松林飯山・水本樹堂らとも一緒に学びました。

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 そして直彬が十七歳となった時、佐賀本藩は、鹿島藩への役人の派遣をやめました。進駐軍を引き上げさせたのです。英邁な直彬ならば、鹿島藩の窮状をうまく処理するであろうという判断が働いたからだと思われます。それほど直彬は素晴らしい青年に育っていました。そして十七歳にして、初めて直彬は、江戸から鹿島藩に入国するのです。

(江戸時代、大名の子供は江戸で育てられ成人するまで故国に帰れませんでした)

 十七歳にして佐賀の鹿島城に入った直彬は、驚天動地の活動を行います。干潟のガタリンピックで有名な鹿島は、洪水の本家みたいなところですが、洪水が起きると藩主みずから舟を出して糧食を配給しました。

 災害地には、かならず自ら馬を飛ばして巡視し、
 仮設住宅を造って罹災者を収容し、
 城内の米を出して焚きだしをしました。

 火災にも藩主が先頭になって真っ先に火事装束で飛び出しました。
 藩主が飛び出したのに家臣が寝ていることはできませんから、
 城から一斉に家臣たちが火災現場に向かうことになり、
 火災はアッという間に消し止められることになります。

 そのうえ、さらに病気が流行したときは、
 薬の配給までやってのけたから驚きます。

 こういう藩主がでてくると、部下にも凄いのがでてきます。
 松尾弥四郎です。

(しかし、この人も、インターネットで検索しても出てきません。つい最近まで歴史から抹殺されていたからです)

 この松尾弥四郎と直彬が、
 世界史を変えるほどのことをやってのけた。


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つづく。

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2009年12月15日

日本ユースホステル史の源流3+α

日本ユースホステル史の源流3+α

おあきさん

≫1986年に「戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田実行委員会」を作り
≫供養したのですが
≫その際、管理人様もお書きになられた通り
≫どうしても佐賀県の資料が見つからず
≫ご遺族の方が分からずご遺族探しに非常に
≫苦労されたことが新聞に載っていたことを思いだしました。

 ああ、これは非常に面白い現象ですね。

 というのも私も、今回の佐賀調査で、そういう経験を何度もしているからです。

 具体的に、一つ例をあげてみましょう。実は、私の今回の佐賀行きの目的の一つに、日本赤十字を設立した佐野常民の息子、佐野常羽のことを調べに行ったのですが、これまた資料が無いのですね。佐野常民記念館に行っても資料が無い。世界遺産申請しているほどの重要地に資料が無い。いや、資料が無いどころか、かすってもない。佐野常民の息子、佐野常羽は、ボーイスカウト設立の功労者であり超有名人であるのに、一言もふれていないのです。もう、それは徹底している。仕方がないので、土地のボランティアガイドをたのんで
「どうしてなの?」
と聞いてみたら、驚くべき回答が帰ってきました。

「ここでは佐野常羽さんの話はしないとです」
「どうして?」
「佐野常羽さんは、駒子(妻)さんの実子ではなかです」
「はあ?」
「おめかけさんに生ませた子供です。だから、こういう所では、あまり話題にしません」
「・・・」

 これには驚きました。私には、現在の倫理をもって過去を判断する思考回路が無かったので、死ぬほど驚きました。あまりにも驚いたので、どうしてだろう?と、いろいろ質問をしてみたら、みなさん、佐野常民のことを、とても尊敬してらっしゃる。言い方を悪くすると崇拝している。

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 これは、佐野常民に限ったことではありませんでした。鍋島閑叟にしても、江藤新平にしても、大隈重信にしても、他の偉人たちの記念館においても、多くの郷土史家たちにおいても、尊敬・傾倒・崇拝といった、人物への惚れ込みがあり、それらは共通しておったような気がしました。

 まあ、それは、それは素晴らしいことなのですが、あまりそれが強いと、正確な歴史が残されなくなります。肝心なものが見えなくなるのですよね。日本ユースホステル協会の源流も、見えにくくなってしまう。

 日本ユースホステル協会の源流。
 それは、第11代鹿島藩藩主、鍋島直彬にはじまります。
 そして、この鍋島直彬こそが、
 薩長土肥の連合軍を造った幕末の英雄でした。

 しかし、これが歴史に出てこないのです。

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つづく

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2009年12月14日

日本ユースホステル史の源流3

日本ユースホステル史の源流3

つづきです。

 開国以来、日本人は驚くべき能力で西洋文明を吸収していきました。黒船来航からわずか三年後に宇和島藩は日本人だけで蒸気船を造っています。他にも、製鉄、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、医術などの研究開発を行い、アッという間にヨーロッパ並みのものを作り上げることに成功したのですが、どうしても真似ができない部分がありました。

 量産技術です。

 職人技でもって、大砲や鉄砲は造れました。しかし、それを低コストで供給できなかったのです。造る能力があってもコストが高ければ、輸入するしか在りません。しかし、コストを下げるには、幅拾い産業技術の蓄積がないとダメなのです。つまり産業革命によって、あるていど社会が成熟してないとダメなんですよ。

 例えば製鉄。

 ペリー来航以来、日本の諸藩は、次々と反射炉、つまり製鉄所を建設し、製鉄を行いました。文献を手に入れ、ヨーロッパから技術者を招けば、同じような反射炉は完成しました。

しかし、数年ほど鉄を生産していくうちに、反射炉はボロボロに溶けてしまい使い物にならなくなってしまう。反射炉を構成している耐火煉瓦が、鉄を溶かす熱に負けてボロボロになっていくのです。そのために、アッという間に、生産設備を償却してしまって、コストの高い鉄になってしまう。薩摩でも長州でも幕府でも、反射炉を造ることは造ったのですが、その反射炉は、すぐに使えなくなってしまう代物だったのです。

 図面をもらって、見よう見まねで文明の利器を造るということと、それを低コストで量産するということは、全く別のことなんですね。例えば、ロケットで月面に人間を輸送することは、今の日本の技術力なら不可能ではありません。しかし、それで利益を上げられるかどうかは、別の問題になります。幕末の開国で、製鉄、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関を造るのは、わりと簡単に達成したのですが、それをコストにみあうレベルで量産するのは、非常に難しかった。

 しかし、例外があった。
 佐賀藩でした。

 どういうわけか佐賀藩には、ヨーロッパなみの幅拾い産業技術の蓄積がありました。理由は伊万里焼。伊万里焼は、有田焼と違って商売を目的に焼かれたものではありません。

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皇室・将軍・他藩へのプレゼントとして、世界最高級の焼き物を生産する佐賀藩の秘密結社なのです。人間国宝クラスの職人を山奥に閉じ込め、外部の人間を一切遮断して、究極の磁器を造らせた。それが伊万里焼なのです。そして、この磁器は、きわめて高温で焼くために、耐火煉瓦の技術にすぐれたものがあり、その技術によって、完璧な反射炉を製造することができたのです。

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そうなると、銃砲火器から造船土木に至るまで、波及効果がでてきます。産業の米たる製鉄のレベルがあがり、それを安価に量産できるとなると、日本もヨーロッパ並みの工業国になれるということになります。そして、この伊万里焼は、もう一つの効果を生み出します。赤字財政で潰れる寸前だった佐賀藩に大金をもたらします。

 いわゆる密貿易です。

 歴史文献に、佐賀藩のことが詳しく出てこないのは、この密貿易の存在のためです。伊万里焼の密貿易で、大金をかせぎ、その費用をもって西洋文明を輸入する。そして近代国家を作りつつあった。それが佐賀藩の正体でした。これは最近まで明らかにされてなかったことです。これを発表したのは、平成10年頃に、冥土の土産に書き残した郷土史家(医師)がいたから分かったことです。しかし、それを今まで公表できなかった。佐賀の郷土史家たちは、不名誉なことは全て口をつぐんできたからです。

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 また佐賀藩は、もっと恐ろしいことをやってのけています。佐野常民の登用です。佐野常民の登用のどこが恐ろしいかと言いますと、この男は、とんでもない人間だったからです。ネットで調べると、佐野常民は、日本赤十字を造った男として、かなり美化されて書かれてありますが、この男の正体は、そんなものではなかった。もっと凄みのある人間だった。この人間が、全く恐ろしいことをやってしまった。しかし、それを歴史の表に出す人は少ないのです。みんな黙っている。だから歴史書やネットで調べても、なかなか出てこない。

つづく。

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posted by マネージャー at 03:21| Comment(3) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月13日

日本ユースホステル史の源流2

実は、日本ユースホステル史の本を書いています。
そのために佐賀に行ってきました。

schirrmann-004.jpg

 なぜ、佐賀くんだりまでいったのかと言いますと、リヒャルト・シルマン伝を書いたときの苦い失敗があったからです。リヒャルト・シルマン伝のどこに失敗があったかと言いますと、

現地を見ずに書いたことです。
文献だけで書いてしまった。


 これが失敗だった。たとえば、リヒャルト・シルマンが教師として働いていたアルテナ。どの文献を読んでも、インターネットで検索しても美しい渓谷の自然豊かな場所としか書いてありません。だから、その文言を信じて、それを前提にリヒャルト・シルマン伝を書いたのです。

 だから私自身の歴史検証作業に重大な過失があったわけではなかった。

 現に、リヒャルト・シルマンも、同じように発言しているし、ウィルヘルム・ミュンカーも同様のことを言っています。アルテナ城を見学したという日本のユースホステル関係者も、同じ事を言っています。美しい渓谷の自然豊かな場所だと。たしかに、それは間違いではなかった。


 しかし、アルテナに行って、アルテナ城周辺を散策して
 驚愕しました。
 アルテナは、大工業地帯だったからです。


 アルテナどころか、ウィルヘルム・ミュンカーの生地であるヒルヘンバッハさえも工業地帯だった。だいたいヒルヘンバッハなんて、日本で言えば嬬恋村か六合村クラスの田舎町なのに工業地帯だった。これが、どの文献にも抜けていた。かわりに自然豊かな場所だと書いてあった。これを最初から知っていたら、私のリヒャルト・シルマン伝は、もっと別の文章になっていた可能性がある。こういう失敗に反省した私は、きちんと現地取材をしようと決意しました。

schi-2.jpg

 で、日本ユースホステル史の本を書くために、2008年は、関東地方と静岡県を調査したのですが、2009年は、佐賀に的を絞って調査することにしたのですが、困ったことに佐賀の本がないのです。るるぶにも、マップルにも、ブルーガイドにも、JTBガイドにも佐賀県だけ資料がないのです。

 福岡や長崎はあっても、佐賀はない。
 唐津・吉野ヶ里は、福岡のガイドブック。
 伊万里・有田は、長崎のガイドブック。
 佐賀県の主な名所旧跡が、他県のガイドブックに載っている。orz

その結果、佐賀県のガイドブックが無いのですね

 さらに佐賀県の郷土資料が無い。
 インターネットでも、国会図書館にも不思議なくらいにない。
「そんな馬鹿な?」
と思うのですが無いのです。

 歴史書を調べてみても、佐賀鍋島藩のことは書いてあっても、鹿島藩については書いてありません。重要な部分がスポッと抜けているのです。伊万里焼についても同じです。肝心なことが抜けている。下のサイトをみてください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%B8%87%E9%87%8C%E7%84%BC

ウィキペディアにして、こんなものです。伊万里焼が世界史を変えたことを考えると、このあつかいは、無いんじゃないかという気がします。では、どうして伊万里焼が世界史を変えたかと言いますと、2つの意味で世界史を変えているのです。

 一つは、その技術が、ある事に使われて世界史を変えたこと。もう一つは、伊万里焼が明治維新において、決定的な役割をはたしたことです。そして、その結果、ユースホステル運動の源流が生まれるタネとなった

 今回は、それをさぐりに佐賀に調査に行ったわけです。

DSCF2665.JPG

つづく。

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posted by マネージャー at 13:45| Comment(1) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月12日

日本ユースホステル史の源流1

日本ユースホステル史の源流1

佐賀県に取材に行ってきました。佐賀県には、日本ユースホステル史の源流があるからです。ユースホステルだけではありません、日本の近代化の源流もあり、日本赤十字の源流もあります。

yh.jpg

では、どこに日本ユースホステル史の源流があるかと言いますと、佐賀藩の支藩にあたる、鹿島藩にあるのです。2万石にすぎない鹿島藩が、明治維新を成功させるキャスティングボートを握っており、のちに日本ユースホステル協会を設立させうる遠因となったことは、意外に知られていません。

さらに、佐賀の伊万里焼が、
日本の近代化の原動力となったことなど、
いったい誰が知りうるでしょうか?


これらは、かくされた歴史の一つなのです。

では、佐賀には、佐賀の鹿島には何があったのでしょうか?
何が隠されているのでしょうか?

気の早い人は、この文章を読んだあと、
検索エンジンで検索をはじめるかもしれませんが、
おそらく何もでてきますまい。


リヒャルト・シルマンについて、私が書く前に、ホームページをいくら検索しても出てこなかったのと一緒で、佐賀とユースホステル史についても、いくら検索しても何もでてこないと思います。

どうして出てこないか?
それは、ユースホステル運動の原点を
全国のユースホステル関係者たちが、
全て、すっぱり忘れてしまったためです。

だから、誰一人、何も分からない。そのためにホームページの検索にひっかからない。だから、これからこのブログに書くことが、佐賀と日本ユースホステル協会の関係史について、日本ではじめてのことになるはずです。

つづく。

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posted by マネージャー at 23:59| Comment(4) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする