2021年07月28日

漢検と採点基準

 息子が漢字検定8級を受けたいと言ってきたので、Amazonで一番ページ数の少ない問題集を注文してやらせたのですが、これが大失敗でした。小学校3年生に入ったばかりでは難しすぎたのです。難しいのは熟語です。『夜』という字も、『光』という字も、『虫』という字も難しくはありませんが、この3つの漢字の組み合わせである『夜光虫』は、子供には難しすぎる。市販されている漢字検定の問題集には、たいてい難しい熟語が入ってましたが、そのために勉強が少しも進まなかった。漢字の前に難しい語彙を5倍くらい教える必要があったからです。

「そんなバカな?」

と思った私は、漢字検定の過去問題を
https://kanken.crayonsite.com/
からダウンロードしてみたら、そういう難しい熟語は出題されてないことに気が付きました。けれど、どういうわけか、市販されている漢字検定の問題集には、『夜光虫』のような難しい熟語がドッサリはいっている。つまり必要の無い勉強をやらされることになり、能率が悪いのです。
「こりゃダメだ」
と思った私は、大きな本屋に行って、かたっぱしから漢字検定の過去問題を探したのですが、どれもこれも似たようなものばかりで使えるものは無かった。





 仕方が無いので、過去問題を10枚ばかりコピーして、それを徹底的にやらせ、間違えたところだけを、5回書かせて、もう一回テストする。これを、たったの2週間やるだけで8割の正解率になり、3週間目に9割になり、4週間目に、ほぼ満点をとるようになりました。これが5月末の頃です。試験まで、あと1ヶ月あるので余裕で合格だなと思いつつ、念のために
『2021年度版 頻出度順 漢字検定7・8級 合格!問題集』
に採点基準が書いてあると聞いたので、それを買って読んでみたら、確かに書いてあって、読んだ私は青ざめました。

 それによると、乱暴な書き方や、きちんと消しゴムで消してない場合は、×になると書いてある。字が小さいだけでも×になるとある。かすれ字も×になるとある。これが、もし本当だとしたら息子の字の汚さを考えたら、0点になってもおかしくない。息子の書く平仮名は字がとても汚いので、得点源であるはずの漢字の読みからして0点になってしまう。漢字だって下手くそ以前に消しゴムの使い方が雑で、採点基準からしたら、消しゴムを使った息子の解答は全て0点ということになる。

 特に困ったのは字が小さいと×になる。かすれ字も×になるという採点基準。これだと息子は1点もとれないことになる。仕方が無いので私は、息子に平仮名の練習をさせることになった。漢字検定なのに、平仮名の練習をさせたり、消しゴムの使い方を練習することになるとは、思いもしなかった。おまけに試験で使用できる鉛筆が2本だけということもあって、我が家にある100円ショップで買った数ダースの鉛筆が、折れやすいこともあって全て使えないことにも気づき、慌てて公文の鉛筆を注文し直しました。


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 というわけで、漢字の練習に1ヶ月しかかかってないのに、正しい解答を書く練習に1ヶ月かかってしまい、合計2ヶ月の準備が必要だったことになる。ということは、最初から綺麗な字で漢字を書く癖がついていたら、あるいは美しい平仮名を書くことができていれば、試験準備は1ヶ月ですんだことになります。そのうえ息子は変な問題集に1ヶ月も無駄にしていたので、それがなければ、もっと楽に勉強できたはずなのに、ちょっと悪いことをしてしまった。最初から過去問題集を徹底的にやるか、『2021年度版 頻出度順 漢字検定7・8級 合格!問題集』をやらせていれば、もっと簡単に合格できたのに。

 とにかく、これから漢字検定8級を受けようとする人は、変な問題集を買わないことです。過去問題集か、頻出度順の問題集で充分です。難しい熟語は出てきませんし、問題も教科書レベルより簡単です。だから市販の問題集だと余計な勉強をしてしまうことになる。あと漢字検定には、一種の傾向というか癖があるので、過去問題で慣れておくことは絶対に必要。採点基準も知っておくべきです。


つづく。

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2021年07月27日

漢字検定合格証の凄さ

 息子に漢字検定の合格証が届きました。それをみてみてびっくり。合格証が凄いのです。全国平均点から、正解解答。そして間違えた問題に対する指摘。そして各種のチャート。今後の勉強方法などなど・・・・。いたれりつくせりなので、びっくりしました。そのうえ漢字検定のメリットまで書いてあった。高校・大学入試で加点される学校が何校有るとか、入学選考の基準になる学校が何校有るとか、いろいろ書いてある。英検とはえらいちがいである。それとも、昔と違って、今の英検も漢字検定と同じように、いたれりつくせりになっているのだろうか?


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 それはともかく、息子は150点満点で147点。かなり高得点だと思うのだが、自分が満点だと信じて疑ってなかった息子は、少々怒り気味だった。私は、130点とれればいいほうだと思っていた。もちろん満点とる実力はあるのだが、字が汚いので、そこで20点は減点されると思っていた。漢字検定の採点基準によると、乱暴な書き方や、きちんと消しゴムで消してない場合は、✕になると書いてある。字が小さいだけでも✕になるとある。かすれ字も✕になるとある。だから息子の字の汚さに満点は無理だと思っていたのだが、147点とれたということは、採点者は、かなり甘く点数をつけてくれたのかもしれない。


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 それはともかくとして、5月から6月まで8級の漢字検定の勉強(小学3年生の漢字)をしたおかげで、息子には大きなメリットがありました。6月までに3年生の漢字を全てマスターしたために、その後の勉強がかなりはかどったからです。あと漢字を先取りすることで、読書量が増えましたし、試験を面白いと感じるようになったみたいです。

 そして、いたれりつくせりの合格証にも感動して、今から7級の勉強をするとはりきっています。英語検定も受けたがっていますが、さすがにそれだけは止めました。英語なんぞは、中学に入ってからで充分。そんなものより漢字を覚えた方がいいし、それでものたりないなら論語の素読をした方がいい。意味が分からなくても、読んでるうちに、なんとなく人格がそなわってくるし、漢文の調子には、品がありますから。


つづく。

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2021年07月26日

通知表と教科書

 夏休みに入って4連休も終わって一息ついたとき、息子が怒り気味で「通知表は見ないの?」と言ってきたので「ああ、忘れてた、すまん、すまん」と通知表を見せてもらいました。息子にしてみたら、テストは見せないと怒るくせに、通知表は全く見ようとしないので不思議におもってたようです。

「あのな、テストと違って通知表には、間違えた所が書いてないだろ? テストには間違えたところが書いてある。だから100点をとってないテストは宝物なんだよ」

と、何度も言うのですが、どうも息子は理解できないでいる。100点をとると100円のこづかいをあげるためかもしれないけれど、80点のテストの方が、宝物であることが、どうしても分からないでいる。もちろん80点をとってきたら、間違えたところを徹底的に学習させるので、それを嫌がる息子は、できるだけ間違わないように勉強するわけだが、そのために80点より、100点の方が良いと信じ込んでいる。しかし、その100点は、たまたま知ってる問題が出ただけで、本当の実力は60点かもしれないのだ。

 これは、6月に漢字検定8級の試験を受けさせてみて気が付いた。漢字検定8級というのは、小学3年生の漢字全部が試験対象なのですが、試験1ヶ月前(5月)の模擬試験で、ほぼ満点をとれるようになり安心していたら、2週間後にやった模擬試験で正解率8割の不合格レベルまで落ちてしまっていた。やはり試験は水物。ヤマが当たったり、外れたりするし、継続した勉強をしてなければ、すぐに漢字を忘れてしまう。

 これは算数にしても同じ事で、息子は小学1年生の時に100マス計算を3分くらいでやってのけ、指を使わずに足し算・引き算ができたのだが、小学3年になって、100マス計算をやらせてみたら10分もかかっていた。指を使わないと計算できなくなっていた。
「あれ? 変だな?」
と思って息子の教科書をじっくりと見てみたら、私が子供の頃の算数の教科書と違っていた。練習問題が、ほとんど無い。言っておくが、教科書のレベルは、私が子供の頃(昭和40年代)より難しくなっている。今の方が難しい。4年生で式の計算をさせるぐらいだから、今の方が圧倒的に難しい。難しいけれど、練習問題が教科書から激減している。そのせいか、うっかりしていると、計算力がガックリと落ちてしまう。いくら難しいことを覚えても、肝心な計算能力がダメになっては意味が無い。

 だから3年生にもなって、もう一回、100マス計算をさせました。で、毎日1回づつ100マス計算をさせて、30日くらいすると、やっと3分を切るようになり、小学校1年当時の計算能力に戻ったわけですが、昭和時代の算数のつもりで息子の勉強をみていたら、とんでもない失敗をやらかしてしまいました。令和時代の算数は、昭和のスタイルとちょっと違うようです。
「昔より難しいことは教えるけれど、計算は各自でやってね」
というわけです。

 話がそれました。
 通知表のことです。

 群馬県の通知表は、3段階評定で、そのうえ絶対評価になっている。偏差値(相対評価)で通知表をつけなくなっている。それなら、わざわざ通知表を見なくても、親の私が一番息子の学力は分かっている。偏差値(相対評価)で評価されてないなら、見る意味もすくないと思っていた。少なくとも3段階評価よりは、息子の学力を把握しているつもりだったので、通知表のことは、すっかり忘れていたのだが、息子が怒り気味で「通知表は見ないの?」と言ってきたので、あらためて見てみたら、ちょっと面白かった。

 息子は、社会が好きなようで、授業中に興味をもって勉強しているのは、社会だけだった。他の科目は全て、勉強はできるが、「興味をもって取り組んでいる」というところが、〇になっている。他は、ぜんぶ◎なのだが、これって授業態度が悪いということなのだろうか? きっと真面目に授業をうけてないのだと思う。まあ、△がないだけマシなのだが、今の通知表は昔と違って相対評価(偏差値)では無く、絶対評価(得点)なので油断できない。嬬恋村の子供たちは学力が高いからだ。

 8年前に息子が生まれたとき、今まで私とろくに会話しなかった観光協会メンバーが、とつぜん近寄ってきた。みんなお子さんのいる観光関係者で、子供が生まれたということで、急に近づいてきて仲良くなり、子供の教育に関する会話をするようになった。そういう話はありがたいので、いろいろ教えてもらったりするうちに、とんでもないことに気が付いた。みんなお子さんが、とんでもない超有校に入学しているのである。

 寮に入っている子もいれば、前橋にアパートを借りて、兄弟姉妹で越境入学している人もいた。で、奥さんは前橋に住んでいて子供たちの世話をやき、ペンションが忙しい週末だけ嬬恋村に帰ってくるという人もいた。車で1時間かかる佐久まで毎日送迎している親御さんもいた。長野県で一番偏差値の高い中高一貫の私立学校に毎日送迎しているのだ。たかだか40人しかいないのに、そのうち二人が長野県でもっとも偏差値の高い高校に入学したこともあったし、そのうちの一人はトップ合格だった。

 残念ながら、うちには、そんなことしてやれるゆとりは無い。親としては、自転車で通える距離の、一番近くにある嬬恋高校に入ってもらいたいので、それまで嬬恋高校が廃校にならずに存続していることを祈るばかりです。

 その嬬恋高校だが、情報発信がすごい。YouTube・Facebookなどで、どんどん情報発信いている。みんな顔出しで、生徒自らガンガン画像を拡散している。素晴らしい試みだと思うし、学校側のやる気も伝わってくる。だから積極的に『いいねボタン』を押している。


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 話は変わりますが、今日は親子3人で軽井沢に行って離山に登山してきました。私は、夏の離山が大好きで軽井沢に買い物にいくときは、たいてい離山に登っています。今日は、頂上で子供たちの遠足の下見をしにきた先生たちとバッタリ会って、熊やカモシカについて情報交換しました。きっと近いうちに軽井沢の子供たちが離山で遊ぶ姿が見えることでしょう。

 話を戻します。

 嬬恋村から離山に行く途中に軽井沢中学があります。子供たちの多い軽井沢らしい豪華な建物の中学校です。グランドも豪華で、その充実した施設が羨ましいかぎりなのですが、その前を通るたびに見かけるのは、いくつもある「撮影禁止」の巨大看板です。建物さえも撮影禁止している、あの看板をみるたびに思い出すのが、生徒数が少ない嬬恋高校の赤裸々な情報発信。浅間山の北側と南側で、こんなにも違うところが何とも面白い。軽井沢には少子化の問題はないんだろうな。


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 そして、嬬恋村と長野原町。やんば天明泥流ミュージアムとか、丸岩とか、八ッ場ふるさと公園なんかを見学して思ったことは、『金かかってるなあ』という感想。長野原町は裕福だなあと思ってしまう。ダムの固定資産税のおかげか、いろいろ余裕を感じます。町の一部を水没させたわけですから、その代償として得たものも少なくなかったと思いました。町に余裕を感じてしまう。


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 逆に嬬恋村は、ちょっと必死な感じがする。観光資源に恵まれているし、農地にも恵まれていることは確かなんだけれど、それを100パーセント生かし切ろうと、観光資源を骨の髄までしゃぶり尽くそうとしている必死さを感じてしまう。新型コロナウイルスで、みんな余裕が無くなっていている気がする。みんな生き残りに必死なんでしょうね。軽井沢・嬬恋村・長野原町。みんなそれぞれ違う道をすすんでますね。


つづく。

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2021年06月21日

生まれて初めてのローラースケートを体験した息子

 息子が、試合が終わったボクサーのように目を腫らして帰ってきたのに驚いた。喧嘩したらしく病院で治療して帰ってきた。昔は喧嘩どころかいじめっ子に怯えて女の子に庇ってもらっていたから変われば変わるものです。それはともかく日頃から教えていた頭に対するガードをとっさにとれてなかったので、いずれキチンとガードの練習をする必要がある。特に目を守ることは重要なので、きちんとガードできるような反射神経をもつ必要があると痛感しました。

 つまごいスポカルの空手教室の大島先生が、口を酸っぱくしてガードを教えていたのは、こういう事だったのかと考えさせられました。大島先生は、キックボクシングの出身なので攻撃よりガードを徹底的に教えるのかな?と思っていたのですが、どうもそれだけではなかったようです。攻撃できなくてもガードさえ完璧なら、ある程度の事故は防げますから。

 それはともかくとして、群馬県と長野県の新型コロナウイルスの新規感染が、ほぼゼロに推移してきたので、軽井沢の風越公園スポーツセンターに息子を連れて行って、生まれて初めてのローラースケートを体験させてみました。慣れるまで1時間くらいかかるかなと思ったんですが、スピードスケート部で滑っていたせいか、5分くらいでスイスイ滑れるようになったのには驚きました。しかし、調子にのった息子は、10分後に転倒し、激痛に悲鳴をあげる。アイススケートの転倒とは、比べものにならないくらいに痛いらしい。
「やはりアイススケートの方がいいや」
ということになり、息子はローラースケートに興味を失ってしまった。


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 で、しまった!と思ったのは、転び方を教えてなかった・・・というか受け身の仕方を教えてなかった。ローラースケートに限らず、どんなスポーツにしても受け身は必要なので、いつかはキチンと教える必要があるのですが、どうやって教えればよいのだろうか? やはり柔道教室を探すべきか? それとも芝生のあるところで私が教えるしかないのか?

 考えてみたら今の子供たちは、相撲をやりませんよね。私が子供の頃は、遊びと言えば相撲だったから、相撲をとるうちに自然と受け身を会得したけれど、今はそういう機会が無いから転び方がわからないよなあ。だからマット運動も下手だし、上手に転がれないし、自己流の受け身のとりかたも知らない。これって、密かに大問題ではないかと思っています。早急に倒れ方や受け身を教えなければ・・・・・。それにしても昔なら自然に体得できていた転がり方を今では、あらかじめ練習しなければならないなんて、面倒くさい世の中になったものです。



つづく。

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2021年06月20日

息子の漢字検定試験につきあってみての感想

 今日、漢字検定試験がありました。
 小学3年生の息子が受けるのは8級です。
 実際に受けてみての感想を書きます。

 まず驚いたことは、受験票が届いたのが7日前であること。
 で、はじめて会場を知らされます。
 そこへの行き先などを調べてて準備していたら、
 2日前に、会場変更の手紙が届きました。
 いったい何があったのでしょうか?

 群馬県における新型コロナウイルスの感染は、ゼロに近い数字が続いてます。ほぼ終息しつつありますから、新型コロナウイルスが原因ではないようです。2日まえに会場変更の手紙が速達で送られてくるというのは、普通ではありませんよね。いったい何があったんでしょうかね?

 まあ、そんなことは、どうでもいいとして、驚いたのは会場での新型コロナウイルス対策です。係の人は、神経をすり減らしていました。というのもビルの10階が会場であるために、試験終了直後にエレベーター前に御両親たちが大勢待っていて、かなり密になっていたからです。

 しかし、係の人が、御両親たちに「どけ!」とは言えない。なにしろ小学校の低学年が試験をうけているから。もし、御両親たちが、そこで待てなかったら、子供たちが迷子になる可能性になる。なので、係の人たちは大変そうで、試験が終わっても子供たちを一斉に試験会場から出せない。少しずつ子供たちを解放するので、子供を回収するのに時間がかかりました。

 あと、試験について。これは体験して初めてわかったことですが、受験票に受験番号やマークシートを書く作業が無かった。すでに自分の受験番号とマークシートを記入してあって、何も書かなくてよかった。



 それから問題について。私も息子も拍子抜けしたのですが、かなり問題が簡単だった。私は、漢字能力検定協会が発行している問題集を買って息子にやらせていたのですが、本番の試験は、それよりはるかに簡単なものしか出なかった。まあ、これは直前に腕試しに買った過去問題集をやらせてみて、事前にわかっていたことですが、実際の試験問題は、漢字能力検定協会の問題集より、かなり簡単なものになっている。つまり、簡単な過去問題集を徹底して勉強すればなんとかなるレベルで、むしろ小学校の国語のテストの方が難しいかもしれない。

 これが分かっていたら難しい熟語を勉強させなかった。この1ヶ月のあいだ、息子にずいぶんと無駄な勉強をさせてしまった。無駄じゃ無いけれど、試験対策として無駄な勉強をさせてしまったと後悔してしまった。漢字検定試験には、丁重、様子、和音、礼服、放火、面持ち、有用、表明、福音といった難しい熟語は出てこない。漢字能力検定協会とか、他の出版社が出している問題集の難しい問題は出てこない。ごくごく簡単な教科書レベルの問題しか出てこない。それを知っていたら教科書の漢字しか勉強させなかったのになあ・・・と悔やみましたね。息子は、次の試験で、7級をうける気満々なので、7級に挑戦するときは、難しい熟語は一切手をつけず、教科書レベルの漢字だけを教えるつもりです。

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 あと、息子に漢字を教えてて、苦労したことは、息子のプライドの高さです。息子の奴のプライドの高さに、本当に手を焼きました。これは私の子育てが悪かったので、原因は全て私にあるのですが、私は幼児の頃に息子を褒めまくって、ヨイショしまくってしまった。ゲームをすればわざと負けたし、相撲やサッカーや駈けっこでも、ギリギリのところでわざと負けて息子に花をもたせつづけていた。

 嫁さんは、逆で息子に対して容赦なかった。上毛カルタでも何でも本気で戦って、いつも息子を泣かしていた。それをみて私は
「息子のやる気を削ぐなよ」
と夫婦げんかしたものだが、今では私が間違っていたと思っている。

 あまりに私が息子をヨイショしまくったので、息子のプライドは増大してしまった。そのプライドと実力が一致してないためにトラブルがおきてしまっている。例えば、上毛カルタをやる場合、札の配置の関係で最初の1〜2枚が相手側にあって、それをとられると号泣し涙で札が見えなくなってボロ負けしてしまう。

 これは漢字検定の勉強のときもそうで、直前に過去問題集をやらせ、1問でも間違うと号泣してしまう。それだけならまだ良いのだが、分からない漢字がでてくると、それを思い出すまで号泣しながら、思い出そうとし、そこで筆が止まって、先に進めずに時間切れとなる。私が
「わからないのは飛ばせ」
と言っても頑固なために言うことをきかない。この性格をなんとかしないと合格しないので、この一週間に性格の改善に手間取ってしまった。漢字の勉強よりも、こっちのほうが大変だった。息子はテストに向いてない性格なのだ。

 よく褒めて育てることが、絶対に正しいことを言う人がいますが、あれは間違ってますね。教育に正解はなしですよ。その人の個性にあわせた育てかたがあるわけで、100人いたら100通りの正解があるはず。一般論とかブームの教育論を盲信したら痛い目にあう。ちなみに制限時間を設けずに過去問題をやらせると、満点近い成績をとるのだが、テストには制限時間がある。
「分からない問題を飛ばして後でやる」
という、ただそれだけのことを行わせるのに、どれだけ労力がかかったことか。たった1〜2問間違うだけで、自分の頭を殴る息子に、どれだけ苦労したことか。いくら

「間違えた問題の束は、宝物なんだよ」

と言っても全く理解しない。その意味を理解したのは、昨日のことで、テストの前日になって、やっと息子は理解した。これはテスト前日の会話です。

「お父さん、今日は、なんのテストをやるの?」
「テストはやらない」
「じゃ、勉強は?」
「今まで貯めた宝物をやるのさ」
「宝物?」
「今まで間違えたところを復習するんだよ」
「?」
「今までのテストの結果、お前が、よく間違える文字は、3つしかない。これだけ覚えれば、100点だ」

 ここでやっと息子は「間違えた問題集の束は、宝物なんだよ」という私の言葉を理解して大喜びしました。

「それだけで終わり?」
「いいや、それだけじゃない」
「じゃあ、他は何をやるの?」
「ひらがなの練習」
「なんでだよー」
「おまえの書く平仮名は、採点者に読めない。漢字検定試験では、読めない平仮名・下手くそな漢字は×になってしまう。だから今日は、美しい平仮名を書く練習をする」

 というわけで、テスト前日に、ひたすら平仮名を書く練習をしました。
 これには息子も文句たらたら。
 しかし、息子の書く「や」は「か」にしか見えない。
 そういう文字がいっぱいあった。
 これを矯正しないと、得点源である「読みの問題」で大量失点になる。
 まさか漢字検定試験の前日に平仮名の練習になるとは思ってなかった。
 もっと早く過去問題集をやるべきだった。
 本当に疲れた。



つづく。

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2021年06月13日

あと一週間で漢字検定試験!

 先日、息子の奴が100点のテストを持って帰ってきたので、御褒美にアイスを買ってあげたら、何を勘違いしたのか大量のテストを持ってきました。100点もあれば、80点もある。「今度の先生はテストをしない先生だなあ」と思っていたら、そうではなかった。息子が見せなかっただけだった。で、たまたま100点のテストを私が見つけて、御褒美をあげたものだから、
「親にテストを見せると、御褒美がもらえる」
と勘違いしたらしく、いままでカバンの奥か何かに、グシャグシャに突っ込んでいた大量のテストの束を取り出して、私に見せたわけです。御褒美がもらえると、ワクテカしながらです。

 もちろん、そんなわけはない。親としては、間違えた問題をもう一回やらせて、復習させるだけです。それが不満だったらしく「100点の御褒美は?」と言ってくる。図々しい奴だな・・・とは思ったけれど、まあいいかと、今後モチベーションをあげるために御褒美を渡しました。で、気が付いたのですが、今時の小学校では、全国共通テストをやってるんですね。教研式NRTという共通てすとで、国語が全国平均より12点ほど良い程度だったのに対して、算数は全国平均より30点もよかった。息子は国語より算数の方を得意としているようです。

 で、国語のどこがダメだったかというと、漢字がダメだったようです。無理も無い。息子は予習復習をやってないから。そのかわりに6月20日の漢字検定試験にむけて、ラストスパートをかけている。教科書とは別のスタイルの漢字勉強をしている。しかも、あと一週間しか勉強時間が無い。あと一週間で息子は小学三年生の漢字を全てマスターしたうえで、それ以上に難しい熟語を理解しなければならない。


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 正直言って私は、漢字検定試験をなめていました。小学三年生の漢字を覚えさせるのは、そんなに難しくないと思っていた。だから日本漢字能力検定協会が出版している問題集を一冊買って、それをマスターさせればいいんだろうと思っていたけれど、甘かった。小学三年生の漢字と、漢字検定試験8級では、方向性が違っていた。

 例えば、小学三年生の漢字では「有(ある)」という字を習うし、「様(さま)」という漢字も習う。2つとも難しい字ではないのですが、日本漢字能力検定協会が出版している問題集には「有り様」という問題で出てくる。これは小学校3年生には荷が重すぎる。ここまでくると漢字の試験では無く『語彙』の試験になってくる。学校の教科書では漢字の試験でも、漢字検定試験では語彙の試験になっている。漢字の組み合わせによる難しい熟語が問題にでてくるからだ。

 日本漢字能力検定協会が出版している問題集には、丁重、様子、和音、礼服、放火、面持ち、有用、表明、福音、平時・・・と言った小学3年生には難しすぎる熟語がたくさんあって、その総数が1000もあった。つまり漢字検定試験というのは、200の漢字を単純に暗記するのではなく、1000以上の熟語を理解する必要があった。

 これに意外と時間がかかってしまった。

 例えば「有り様」とか「丁重」とか「神楽」といった言葉は、小学三年生にしてみれば今まで聞いたことがなかったろうし、覚えたとしても今後も使う予定も無い。こういう熟語を教えて覚えさすのは至難の業で、かといって丸暗記させる意味も薄いので、こういう問題は捨てるしかない。


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 漢字検定試験の9級の時は、ここまで難しい言葉は無くて、せいぜい「夜光虫」ぐらいだったけれど、8級になると難易度の高い熟語が、突然多くなってくる。寒暑とか、楽曲とか、陽光とか、子供たちの日常生活で使われない言葉がドンドンでてくる。ようするに漢字の勉強であるというより語彙の勉強なのだ。そして、漢字には同音異義語が多すぎる。前後の文脈が無いと、解答できない漢字が多すぎる。そのために息子の頭が混乱して、勉強すればするほど、知っていたはずの漢字をかけなくなってしまった。

 仕方が無いので、今回に限って、例外として合格するためのテクニックを教えてしまおうかと思っている。難しい熟語は全て捨てて、教科書で習う範囲の易しい熟語だけを覚えさせて、そのかわりに知ってる文字だけは、確実に書けるようにしようかと。でも、それって意味ないよなあ。

 


つづく。

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2021年05月13日

教育相談

 新型コロナウイルスで、家庭訪問がなくなり、代わりに親たちが学校に伺う教育相談になっています。で、今日は嫁さんが学校に教育相談に行ってきたのですが、想像どおり酷いものだったようです。あいかわらずワンテンポ遅れた行動しか出来ず、クラスの皆に迷惑をかけていて、それでいて整理整頓ができてなく、いじめっ子たちと口論の上、喧嘩ばかりしているらしい。もちろん相手は4月生まれだったり5月生まれだったりして、3月生まれの息子とは、大きく月齢差がある。ただ、月齢差以上に息子の発達が遅れていることは確かであって、それは幼稚園時代から分かっていたし、幼稚園の先生から言われ続けてきた。


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 だからこそ、勉強も運動も丁寧に教えてきた。勉強の方は、脳科学の先生の力を借りて、知能指数を上げることには成功している。五歳の時に測ったときの指数は平均値をはるかに上がっていて、数字だけ見れば天才クラスだったために発達心理学の先生が驚いたくらいだった。

 しかし、運動には苦戦した。走れば超絶に遅くて万年ビリだったし、縄跳びは一回も跳べなかった。それでも空手・キックボクシング・スピードスケートを習わせて、縄跳びの長時間競争でクラスで5番くらいにはなっている。軽井沢の体育館で1時間ほど縄跳び練習していたら、バカなアメリカ人が
「児童虐待だ」
と言ってきて通報されたこともあった。通報されると嬬恋村の役場の保健課の人が、学校に息子が登校しているか電話し、登校していることがわかると、私に連絡してきた。その時、私は息子の空手教室の付き添いで、空手着を着せていたりしていた。役場の保健課は、その空手教室の建物の中にあった。ついでにいうと、その建物には、役場の保健課が主催している『すくすく相談』があり、息子は、そこで何度も発達相談を受けていたし、定期的に作業療法士の先生に『運動神経の強化練習』をしていた。


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 つまり息子は、最も役場の保健課のお世話になっていた幼児でもある。運働にしても、勉強にしても、生活にしても、何をやらせてもダメで、1学年下の子供と遊んでも下っ端扱いされるくらいだった。だから幼稚園時代にはイジメられていたらしく、担任の先生から「この村では1クラスしかないので、もっと強くならないとダメです」と言われて、幼少の頃から空手・キックボクシングを習わせていた。

 さすがに縄跳び教室はないので、私が軽井沢の体育館で教えていたが、バカなアメリカ人が「児童虐待だ」と言って通報したために児童相談所がやってきて、とんちんかんな事を言ってきた。私は「それは逆ですよ」と事情を話して、1回も縄跳びが跳べなくて虐められて、それが原因で自殺したら、あなたたちが責任をとってくれるのですか? それなら私は縄跳びを教えませんから、今すぐ一筆書いてくださいと言ったら黙ってしまった。

 それに対して村の保健課の対応は、素晴らしかった。なにしろ『すくすく相談』をはじめ保健課の常連だったために、こっちの事情というか息子の事をよく知っていた。縄跳びを跳べるように専門の先生を手配してもらい、専門家による指導がはじまり、息子の縄跳びは少しずつ上達していった。それはもう映画ロッキーのようだった。息子は、ああみえて負けず嫌いで、跳べないと悔し涙を流す。いくら私が
「もう休め」
と言ってもきかない。出来ないことに我慢がならない性格なのだ。これが外国人に児童虐待に見えたりするのだろうが、この負けず嫌いのせいで、よく自滅した。例えば、上毛カルタ大会などで、相手にカルタを取られると直ぐに泣く。すると涙でカルタが見えなくなってボロ負けになる。これは母親と勝負してもそうなる。というか、嫁さんの奴は、手をぬかないから息子はワンワン泣く。トランプ・双六・将棋・オセロなんかでも負けたら泣く。御客さんのお子さんとゲームして負けたら泣きわめく。

「そんなことで泣いたら、相手の気分が悪くなるだろ! ただのゲームなんだから泣くのはやめなさい」
「勝ったり負けたりするのがいいんだよ!」

と言うのだがダメである。頑固も頑固! ウルトラ頑固の負けず嫌いである。そして負けず嫌いのくせに、人より成長が遅れているから始末におえない。プライドだけは高いのだ。そのプライドと、実際の能力が釣り合ってないのだ。

 どうして、こうなったのか?

 実は、私に心当たりがある。私に原因がある。私と嫁さんには、生まれた環境の違いか、決定的に違うところがある。私は、息子とゲームをする時に、適度に負けてあげてやる気をださせている。「おおお!すごいなあ!」とヨイショする。私自身が幼少の頃に、そうやって育てられたので、知らず知らずのうちに、そういう子育てをしていたことに気が付いた。嫁さんの子育てをみて、嫁さんが息子に容赦しないゲームの勝ち方をする子育てを見て、私の子育てが、そういう子育てであることに気が付いた。

 嫁さんは、絶対に手をぬかない。ゲームでも何でも叩きつぶす。相手が三歳でも四歳でも容赦しない。四歳児が泣いても容赦しない。これは食事においても同じで、息子が嫁さんの餃子を食べようとしても断固として断る。逆に私は、欲しがるものは何でも与えていた。この違いは何だろう?と考えてみたら、私自身が子供の頃に、親から親の食事を好きなだけもらっていたことを思い出した。

 それはともかく、息子のやる気をださせるためにゲームして、わざと負けて、その気にさせたために、息子のプライドは高くなっていったのかもしれなかった。しかし、そのプライドと実際の能力の釣り合いがとれてないことが、幼稚園で問題をおこす原因になっていることは、鈍感な私にも想像がついた。

 仕方が無いので、親としてできるだけの運動と知能の開発を行って、マラソン大会で三位となり、縄跳び大会で五位となり、学業もそれなりに良い成績をもらうようになり、読書も週に十冊以上読むようになったので、親としてホッとしていたのだが、それは成績という些細な分野だけの話であって、教育相談で先生の話をきくと、日常生活のだらしなさは、1年生以下であることに嫁さんは愕然としたらしい。

 確かにそうなのだ。自宅にいても、息子はだらしない。物忘れが酷く、ニワトリ頭か?と思ってしまう。片付けもできない。何度も注意してもなおらない。マルチタックスができない。2つのことを同時に出来ない。1つのことに全て集中してしまう傾向にある。これは発達心理学の先生にも言われていた。知能検査の結果がデコボコだというのだ。論理的思考の知能が140なのに対して、処理速度は100以下だった。40も差があることは、普通では考えられないことなのだ。このデコボコが、相手に誤解されて、嫌われる大元になりやすいという。知能には

 言語理解
 知覚推理
 ワーキングメモリ
 処理速度

という4つがあって、この4つが釣り合っていることが大切であって、どれかの数値だけが(上下にかかわらず)ぬきんでることは、非常に危険なことだと言われている。たとえ全てが低くても、4つが並んでいれば、日常生活に支障が無いらしいのだが、4つがデコボコだと、まわりから危ないやつだと思われるらしい。
「あいつなら、このくらい出来るはずだ!」
という期待を裏切るからである。普通人なら
「知覚推理が100点なら、処理速度も100点のはず」
という常識がなりたつが、実際には『ありえないくらいに処理速度が遅い』という結果になる。だから「なんで出来ないんだよ!」と言われてしまうのだ。


201128_26.JPG


 息子に足りないのは処理速度である。その対策のために「ホンマでっか」の澤口先生の『脳力道場』で鍛えることによって、かなり改善されてきてはいるのだが、それだけではダメらしい。澤口先生の『脳力道場』には限界があるのかもしれない。おまけに息子は言葉の発音がうまくない。早口が言えない。そのために脳の処理速度に、言葉のアウトプットが追いついてないのである。

 また、幼稚園時代に絶大な効果をみせた『幼児ポピー』も、『小学生ポピー』になったとたん、単なる通信教育学習になりさがってしまったので解約してしまった。『幼児ポピー』が、ワーキングメモリをアップさせるのに絶大な威力をだしたのに、『小学生ポピー』には、そういう脳の開発プログラムが全くなかった。

 本当なら親が、息子の生活習慣をきっちり見守ればいいんだろうが、宿屋という仕事だと、そうもいかない。特に地獄のように忙しい夏休みには、放置するしかない状態が続いている。もうこうなると、御客さんを減らしてでも息子との時間をとらざるをえない。まだ八歳なので、いまなら間に合うかもしれない。


つづく。

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2021年01月16日

半世紀前に存在した、とんでも授業【10】

 昭和時代に普通にやって、現在では滅びてしまったものに体罰があります。今から考えたら信じられないことですが、昔は体罰が日常茶飯事でした。もちろん体罰をする先生と、口だけで怒る先生の二種類がいたのですが、どっちが嫌われていたかと言うと、信じられないことですが、どの先生も生徒に嫌われている人はいなかったと思います。

 これから十年後の嫁さんの世代になると、校内暴力が多発して多くの先生方が、子供たちの暴力の犠牲者になるわけですから、たった十年間で、どうしてこんなに変わってしまったのかが分かりません。

 私が小学校一年生から二年生までに担任の先生が五回も変わったことは以前述べました。五人の先生は全員女性の先生だったこともあって、このあいだに体罰を見たことは一度もありません。映画「二十四の瞳」のような日常風景画が基本であり、子供たちは担任の先生にとても可愛がられていたと思います。成績が少しでも良くなると、ひとりひとり呼び出されてとても褒められましたし、成績が悪くなれば、親切に特別に勉強を教えてくれました。それぞれキャラクターは違いますが、聖職者であるという姿勢は五人全てに共通していたと思います。

 ところが、小学校三年生になり二十二歳の男性新任教師が、遠方から赴任してくると、初めて体罰を体験して衝撃を受けます。その体罰とは、プロレス技でした。コブラツイストとか卍固めだった。と言っても、子供たちとじゃれあうように、ふざけてコブラツイストをやっていた。だから体罰と言えるかどうか、ちょっと分かりません。

 昔、「夕陽丘の総理大臣」という学園ドラマがありましたが、あの主人公にそっくりな先生でした。要するに子供たちに異常に馴れ馴れしい先生だったわけです。それまでの先生は、仰ぎ見る存在だったので、子供たちが衝撃を受けたのです。





 その時代というのは、70年安保が終わって就職できなかった人たちが大量に教員になった時代で、今までとは毛色の変わった教師が全国の小中学校に入ったのかなと思われます。こういう先生の存在によって、子供たちの中に存在していた偶像がガラガラと崩れていったことは確かです。

 映画「二十四の瞳」のような日常だった小学校が、学園ドラマの「夕陽丘の総理大臣」のような日常になってしまうわけですから、子供たちに混乱が起きないはずがありません。当時、こういう体験をした子供たちは、当時かなり存在していたのではないでしょうか?

 結局この先生は三年で島を出て行って、島の小学校は「二十四の瞳」のような昔の小学校に戻ったわけですが、その代わりに現れた五十代ぐらいの男の先生によって初めて体罰らしい体罰をする先生に出会いました。





 体罰といっても悪いことしたら頭にげんこつをくれるくらいです。それも痛いわけではなかった。でも、しょっちゅうポカポカ殴られました。その先生は、私とは別のクラスの担任の先生だったので、私はあまり殴られたことはないんですが、そのクラスにいた子供たちの話を聞いたら、宿題を忘れた人を一列に並ばせて、教科書でポンポンポンポン一斉に殴るのが日常だったという話です。

 まあ体罰といえば体罰なんでしょうけれど、それによってその先生を嫌いになったことはありませんし、その先生を嫌う子供たちがいたという話も聞いたことがありません。殴られても大して痛くないし、殴られた後は、普通に日常生活が行われていたので、さらりとしたものでした。むしろ、女性の先生によって、ねちねちと長時間にわたって怒られることの方が、よほど苦痛だったと思います。少しも痛くないげんこつの方が、楽でよかったわけで、その先生は皆に嫌われては無かった。

 むしろ自分たちの父親の体罰の方が痛かったと思います。現に私も父親の体罰によって何度も怪我をしています。コンセントを鞭代わりに叩かれて、背中の肉が削げたこともありますし、裸足で砂利道を走らされて足の裏がどす黒くなったことさえありましたから、学校の先生の体罰なんか、蚊に刺されたくらいにしか思ってなかった気がします。これは私が小学校六年の時の話で、昭和四十八年頃のことです。うちの嫁さんが、生まれた頃の話です。

 そして中学校に入ると、本格的な体罰を体験しました。私が中学校一年生の時の担任の先生は、物理の先生だったんですが、柔道を本格的にやっていたらしくて、悪さをした生徒に対して、大外刈りとか、釣り込み腰とか、払い腰とか、柔道技をかけるという体罰を行っていました。不思議なことに顔を殴るということはしませんでした。

 今まで大した体罰を受けてなかった私たちは、この先生に衝撃を受けました。給食を食べてる時に、友達とふざけあって、私が頭を打って倒れたのですが、それに対して怒って、私の友人に対して柔道技で懲らしめたわけです。

 で、その先生による体罰は、それっきりで、それ以降、卒業するまでの三年間、一度も見ることはありませんでした。みんな恐れて、その先生の前では、ふざけたことをしなくなったからです。そして、その先生の噂は瞬く間に広まって、その体罰の現場を見たことのない、他のクラスでも、その先生の前ではふざけたことがなくなりました。逆に言うと、その先生の授業中は、いつもシーンとしていて、その先生が
「この問題が分かる人?」
と問いかけても、手を上げて答える人は、ほとんどいませんでした。ほとんどいないので、私が大抵手を挙げて答えました。誰も手を挙げないと、先生がいつ怒り出すかという恐怖があったので、私が積極的に授業に参加しました。

 そのせいか、その先生は私のことを気に入ってしまったらしく、放課後に雑談するようになり、その先生の趣味が、私と同じで漫才や落語が趣味だったので、その話で盛り上がりました。

 結局その先生は、たったの一回きりの体罰で、みんなを恐怖させたわけですが、仲良くなってみると、そんなに怖い先生ではなかったことに気が付きましたが、それを私が友達に話しても、三年間の間、誰も信じなかったことが衝撃です。一回ついてしまったイメージは、何年たってもとれないものなんですね。

 結局、体罰はあっても日常的に体罰を行う先生は、私の時代でも、そんなに多くはなかったと思いますが、一人だけ、やたらと体罰を行う先生がいました。





 陸上競技の大会に出続ける体育の先生です。教師になりたての陸上選手だったと思います。大会が近づくと、放課後に何時間も何時間もガンガン走っていた先生で、大会の翌日には新聞紙面にもインタビュー記事などが掲載されていたと思います。そういう有名な先生が、典型的な体罰教師でした。

 と言っても、殴る蹴るは一度もしたことがありません。別に竹刀を持っていったわけでもありません。生徒がふざけると、ヘソを出せと言って、お腹を出させます。そしてお腹をツネります。

 それもあっさりしたもので、それが終わるとすぐに日常に戻りますので、誰もこの先生を嫌ったりしませんでした。むしろ正座して長時間説教されることの方がよほど苦痛でした。ちょっとお腹をツネられるくらいなら、そっちの方がよほどマシだったわけです。

 例えば、女子更衣室を覗いたとか、修学旅行の時に女子部屋に潜り込んだとか、そういうことが発覚した時、他の先生だったら、体罰を行わない代わりに、みんなが見ている前で、何時間も怒鳴られながら正座させられます。それからしたら体育の先生の体罰なんか屁でもなかったと思います。むしろ誰も見てないところでこっそりお腹をツネられる方が、よほど良かったというのが、当時の悪ガキの発想だったと思います。

 その昔、清水次郎長親分が、どうして、大勢の子分に慕われたかと言うと、子分を叱る時に人前で叱ったことがなかったという。たったそれだけのことで、東海道で一番慕われるヤクザの親分になったわけですから、大勢の前で正座させられることの方が、体罰なんかよりも、きついことなのです。

 それはともかくとして、その体育の先生くらい体罰を日常的に行っていた先生はいませんでしたが、不思議なくらいに人望がありました。おまけに悪いことをしたと生徒が納得した後に体罰を行っていました。体罰を行う前にも必ず生徒に
「悪いと思ってるか?」
と確認した上で行っていた。そして、ヘソをツネった後に、その後に全く引きずらなかった。子供たちにしてみたら、お腹を一秒ツネられる方が、十分も正座させられて怒られ続けるより楽だった。だから非常に人望があった。

 その人望に他の先生が快く思ってなかったくらいです。そういうのは生徒にすぐに分かってしまいますから、生徒の方でも、そのうちその先生を陰でサポートしていました。中には、先生を庇って身代わりになる奴が出てきました。例えば、体育の授業が熱心なあまり、次の授業にさしつかえるくらいに授業が延長することがあるのですが、それに他の先生が激怒すると、生徒の方が、体育の先生を庇って、
「先生は関係ありません。私が先生に勝手にしつこく質問してて、そのために次の授業に遅れました。悪いのは私です」
と身代わりになって怒られていました。

 それから、自分で罪を申告して、体育の先生の前で自分で自分のお腹をツネるやつも出てきました。後でバレるくらいなら、さっさと自白して自分で自分を罰する方が、その後の害が少ないからです。これは生徒の悪知恵でした。人の良い体育の先生は、このような悪知恵にコロッと騙されて
「潔い」
と感心していました。生徒にとっては、自分のお腹をツネるのは、たいしたことではありません。怖いのは、この先生を本格的に怒らせて、グランドを十周させられたり、腕立て伏せやスクワットを百回やらされることです。それを防ぐために、子供たちが悪知恵を働かせて、すすんで自白して自ら先生の前で自分を罰したわけです。





 まあいい時代だったと思います。この十年後に、全国の中学校に校内暴力の嵐が始まって学校の窓ガラスが片っ端から割られるなど、ひどい状況になるんですが、十年間で一体何があったのか、私にはさっぱり分かりません。校内暴力世代だった嫁さんの中学校時代の話を聞くたびに、別の星の話なのかな?と思ったくらいです。


つづく。

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2021年01月15日

半世紀前に存在した、とんでも授業【9】

 私が中学生の時には、三年B組とか、一年A組とかいうクラス名ではなくて、斉藤学級とか、本多学級と言う名前でした。担任の先生の名前が、クラス名だったのです。それが、三年B組とかに変わったのは、私が中学三年生の時です。それまでは、斉藤学級とか、本多学級と言うクラス名だった。つまり担任の先生の名前がクラス名だったわけです。それだけに、担任の先生の影響が大きかった。

 それは給食の時間にわかりました。私が通っていた中学校には、一学年に三クラスあったんですが、他クラスへの留学制度というか、生徒の他クラスへの一時的なトレード制度がありました。例えば、A組から三人・B組から三人・C組から三人。各クラスから三人ずつを給食の時間だけ他のクラスにトレードする制度です。給食を通して三クラスで交流を持とうと言うことをやっていました。

 例えば、A組から三人・B組から三人・C組から三人。各クラスから三人ずつを給食の時間だけ他のクラスにトレードする制度です。給食を通して三クラスで交流を持とうと言うことをやっていました。外部の人間を一時的に入れるという、この制度によって集団イジメなどの抑止力が働いていたので、これはこれで素晴らしい制度だったと思います。

 私はC組だったんですが、A組に行って彼らと一緒に昼食を食べてみたら、私のいたクラスと、あまりにも違っていて驚いた。そのクラスでは、みんなでじゃんけんをして、負けた一人が、全員の分の食器を片付けることになっていました。
「それはひどい」
と抗議したんですが、「負けるのが怖いのか」と言ってきたので、カーッとなって勝負を受けて勝っています。そして勝利した上で、負けて一人で全員のぶんの食器を片付けているの手伝ったのですが、手伝うのは私一人で、誰一人手伝おうとしない。負けた人に対する同情が全くない。それに義憤を感じた私ですが、気が付いたら私が悪者になっていた。シャレのわかんないやつだと周りから非難されていた。これに衝撃を受けた私は、クラスが変わるとこんなにも雰囲気が変わるんだと驚きました。





 私がいたクラスは、誰もがみんながお互いに助け合う雰囲気を持っていたので、じゃんけんで勝負して、負けたら食器を全部片付けるとか、負けたら一人で全部掃除するという文化がどうしてもわからなかった。そういう文化の違いが、給食時間におけるトレード制度で否応なく体験できたのは、今から考えたらすごく良かったと思います。

 あと、こういうじゃんけん勝負を許していたのも昭和時代の特色かもしれません。今だったらちょっと考えにくいですよね。

 このようなトレード制度は、いわゆる昭和時代の文化だと思います。クラスによってあまりにも雰囲気が違いすぎるので、その雰囲気の違いを体験しようというトレード制度ができたんだと思います。けれど平成時代になってからこういう文化があったと言う話を聞いたことがありません。つまりどのクラスに言っても大して違わないようになっていたんだと思います。どのクラスも均一化されていったんだと思います。

 あと、このようなトレード制度は、学校の先生が考えたものではなくて、生徒会か何かが企画立案したものだと記憶しています。そういう生徒の意見が学校の先生に通用したのが昭和時代だった気がします。これは生徒の意見を取り入れた先生も偉いと思いますが、こういう意見を先生に申し出る発想が生徒にあったということも 今から考えたらすごいことなのかもしれません。

 また、毎日ではありませんが、給食の時間に、担任の先生でない先生と一緒に給食を食べていました。これは生徒会の意見でこうなったのか、教職員の考え方で、そのような制度ができたのか、よく分かりません。ちょっと覚えてないです。

 それはともかく他の先生と一緒に食事をすると、その先生の色々な部分が見えてきて非常に楽しかったことを思い出します。

 授業では分からなかった先生の過去とか、先生の家族構成とか、先生の出身地なんかが聞けるからです。授業中にそういう脱線を嫌う先生も、給食の時間に限っては、無礼講だった気がします。

 特に、国体で現役でバリバリ走っていた陸上を専門とする体育の先生なんかと一緒に食事をした時が面白かったです。まだ24歳ぐらいだったかと思いますが、自分のことをおじいちゃんとか、年寄りと言っていました。当時は「年寄りじゃないじゃん」と思っていましたが、陸上の競技会の選手の中では、老人扱いされていたのかもしれません。

 その先生は、陸上部の顧問の先生だったんですが、放課後になるとガンガン走っていました。特に大会が近づいている時には、日が暮れるまでグランドを一人黙々と走っていて、それを見て部活動に身が入らなかった生徒はいなかったと思います。そういう先生と、一緒に給食を食べる機会は、今思えば非常に貴重な時間だったと思います。





 給食と言えば思い出すのが、脱脂粉乳です。私が小学校二年生の時まで、給食に脱脂粉乳が出ていました。大きなやかんに脱脂粉乳を沸かして、それを六年生のお兄さんが各児童のアルミか何かのコップに入れて配ったものです。そして昼食を食べる時間が始まると、脱脂粉乳の入ったアルミのコップに湯葉がってきていて、それを先割れスプーンで食べてから脱脂粉乳をのみました。温められた脱脂粉乳は、時間が経つと表面に湯葉のような薄い膜ができていましたから、これをスプーンで最初にすくって食べないと、薄い膜が唇から垂れ下がることになります。

 この脱脂粉乳の話をすると、体験者のほとんどの人たちが
「まずかった」
と言いますが、みんな肝心なことを忘れている気がします。どんなに不味くても脱脂粉乳を残していた児童はいなかったという事実です。

 私が小学校三年生の時から、脱脂粉乳が廃止されて牛乳になったわけですが、これを残す子供たちが続出しました。特に冬になると冷たくて牛乳が飲めないと言う子供たちが多かった。私は牛乳が大好きだったので、そういう子どもたちからたくさんもらって、一日に五本も六本も飲んだ記憶があります。そして、瓶牛乳の早飲み男として有名でした。キャップをあけるところからスタートして3秒で飲み干し、5本を15秒で飲みきっていました。紙キャップをどうやって開けたかというと、前歯であけて飲んでいます。

 そんなことは、どうでもいいとして、どうして脱脂粉乳を残さなかった子供たちが牛乳を残したかと言うと、冷たかったからです。あと、当時の食文化のためか、胃袋が牛乳やチーズを受け付けない子供たちがいて、温かい脱脂粉乳を飲めても冷たい牛乳は飲めないと言う子供が少なからずいたのです。なので給食の時間になると、私は牛乳やチーズをいろんな友達からもらっていました。多い時には牛乳五個とチーズ十個くらいもらったこともあります。

 ちなみに牛乳が給食に出始めた頃、牛乳瓶ではなくて三角の容器に入っていました。その三角容器の牛乳の飲み方を先生から教わった記憶があります。その三角容器も、いつのまにかなくなって、牛乳瓶に変わっていきました。そうすると、牛乳を残す子供たちが少しずつ減ってきました。

 理由は、単純明快で、学校のストーブの上に置いてあるお湯の入った大きなタライに牛乳を入れて温める人が出てきたからです。真冬に冷たい牛乳が飲めなかった子供も、牛乳瓶を温めることによって飲めるようになったわけです。けれど、ここで事故が続発します。長時間牛乳を温めすぎると瓶の底が割れてしまうのです。なので学校のストーブの上のタライは、午後になるといつも真っ白になっていました。そして教室中に授乳の香りが漂っていたのです。

 話は令和時代に戻ります。息子が入学した時に驚いたのは、一年生なのに給食当番があるということです。私が子供の頃は、給食当番は三年生になるまでありませんでした。一年生の給食の配膳は六年生が行っていましたし、二年生の給食の配膳も五年生が行っていました。なので、五・六年生はお昼になると下級生の給食の配膳のために非常に忙しかった。

 なぜなら、下級生の配膳の後には片付けが待っていたからです。ところが、どの時代にも食べるのが遅い下級生がいました。食べられないおかずがあったりすると、さらに遅くなります。そういう低学年の子供たちがいると、片付けをしなければいけない上級生のの昼休みがなくなってしまうので、イライラしながら待ったものです。ひどいやつになると、
「食べられないんなら残しちゃえ」
と悪魔のささやきをつぶやくやからも少なからずいました。早く片付けてお昼休みに遊びたいからです。特に気の小さな女の子をそそのかして、こっそり残飯を捨てさせたりしたのですが、それが女の子の担任の先生に見つかって、女の子だけが怒られるということがよくありました。


つづく。

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2021年01月14日

半世紀前に存在した、とんでも授業【8】

 私が中学生の時の担任の先生は、教員免許もないのに25年間、隣の村の教員をやっていたことをホームルームで話していた。

 その先生は、神奈川県の人で、いわゆる高専か何かを出ていて、当時の一流企業に務める予定だったんですが、体が弱くて肺か何かが悪かったために、病気療養のために佐渡島に一時的に滞在することになった。

 その時に暇だったので、教員のアルバイトをしたそうです。アルバイトですから、ずっと同じ中学校に勤めています。それが25年間ぐらい続いて、社会が落ち着いてきて、面倒なことが起きたので、正式な先生になったらしく、私のいる中学校に転勤になったと言っていました。だからその先生は、25年以上教職をやっていながら、二つの中学校しか赴任してなかったことになります。

 このような例は、他にもあって、中学3年生の時の学年主任の先生も、長年のアルバイトから教員になった口でした。それも私の住んでいた街の隣の村のことです。なので、その隣の村では、そういうことをよくやっていたのかもしれません。

 ちなみに、その先生は特攻隊の生き残りで、終戦時に陸軍少尉だったようで、あと何日か戦争が続いていたら死んでいたらしい。つまりパイロットだった。この先生の授業が面白かった。爆弾を川に投げ込んで魚を取った話とか、 陸軍時代の青春物語がとてつもなく面白かった。そういう青春時代を送ったせいか、やたら青春もののドラマが好きで、特に太陽にほえろが大好きだった。太陽にほえろというのは刑事ものの青春ドラマで、若い刑事がやたらと走りまくることで有名なドラマです。

 その話を他のクラスの友人にしたことがあったんですが、そのクラスではそういう話はしないとのことだった。どういうわけか、私のいるクラスでしか戦争の話をしなかった。





 こういうことは、当時よくあって、近所のおもちゃ屋さんの親父さんなんかもそうで、その人は戦争中に空母瑞鶴に乗って戦ったことがある人なんですが、その話は気に入った子供がいる時だけにしか話してくれなかった。その親父さんの奥さんにも話してなかった。なぜ知ってるかと言うと、親父さんから聞いたことを奥さんに話すと、初めて聞いたと言ったからです。私は、 その店で戦闘機とか戦車のプラモデルをよく買ったので、その親父さんにとても可愛がられて、 いろんな戦争の話を来てくれたものです。

 その話が、体験者にしか分からない話なんです。例えば空母瑞鶴のプラモデルがあってそれをしげしげと眺めていると、その親父さんは、本当の瑞鶴は、このプラモデルのように綺麗な形をしてなかったんだよと言います。戦艦大和でも何でもそうだったらしくて、工作の具合によってゴツゴツしていたらしかった。魚雷が当たった時の振動がすごくて、あれに比べれば新潟大地震なんて大したことはないと言っていました。こういう話は、私が大きくなるにつれて話さなくなり最終的には店に出なくなった。

 そんなことは、どうでもいいとして、この特攻隊あがり先生とは個人的に仲が良かったので、どうして先生になったのか?と聞いたことがあったんですが、失業して実家でぼーっとしていたら、村から教師になってくれと頼んできたので、教員になったと言っていました。軍人上がりなので教員免許を持っていたかどうかは、非常に怪しいですが、教員をやりながら免許を取ったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれません。


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 男たちの旅路(NHK)より借用


 他に面白かったのは、中学1年生の時に習った数学の先生です。この先生は非常勤の爺さん先生でしたが、専門は地理と言ってました。地理の先生がどうして数学を教えてるのかよく分かりませんが、かなりお年を召した先生で、教務室に机があったかどうかもう怪しいくらいの先生ですが、授業は飛びぬけて面白かった記憶があります。おそらく学校で一番面白かった。

 どういう風に面白かったかと言うと、
「1メートルの長さというものは、実際には存在しないんだ」
というのです。どういうことかと言うと、世界基準を決める1メートルの物差しがフランスにあるらしいのですが、そのものさしは金属でできているので、温度によって膨張したり収縮したりするらしいので、正確な1メートルというのは存在しないというのです。子供心に
「そんなことは知ってるよ。それを言っちゃおしまいだろう」
と思っていましたが、その先生の意図は、そこではなくて、数学というのは、全て仮定で出来ている。つまり1メートルという単位が、存在すると仮定の上で、ロジックを求める行為であるという。つまり数学とは、計算では無く、ロジックを証明する学問だというわけです。論理学であり哲学なんだということです。

 これは中学1年生の時に教えられるわけですから、良い意味でも悪い意味でも、とんでもない先生だったと思います。なので、授業そのものは、すごく面白かった。大学の授業を聞いているような感じだった。

 ただし、私はこの先生に習ってる間に、数学の学力を落としました。授業が面白くて大好きだったのに学力を落としてしまった。ロジックを大切にするあまり計算を求める先生ではなかったからです。なのでテストの点数が、よくなる先生というわけではありません。数学に興味を持たせてくれる先生ではありましたけれど、それで成績が良くなるわけではないところが面白いところです。

 そして中学2年生になって、別の先生になってから成績が格段にアップした。ではその別の先生の授業が面白かったかと言うと、全く面白くなかった。面白くないのにどうして成績がアップしたかと言うと、担任の先生であり、この先生の人間性が好きだったからです。どうしてか授業がつまんなくても、先生の人間性を好きになると、成績はアップするらしく、この先生の時に限って私は何回か百点をとっている。

 ちなみにこの先生は、学生時代に宝くじを当てて、高額の賞金をもらい、そのお金で、内定が決まっていた一流企業に就職する前に1年ほど佐渡島で療養する予定が、暇だったので佐渡で教師のアルバイトをしているうちに、25年間教員生活を続けてしまったと言う先生だった。

 私はこの先生のもとで、数学のテストが良くなりました。授業は面白くなかったんですが、成績が上がったことは間違いありません。この先生の数学に対する考え方は、
「数学は暗記科目である」
という考えです。この考えに現在の私も賛同してます。やはり数学は暗記科目です。私たちは、1+1=2をわざわざ計算していません。九九を暗記するように暗記しています。だから指を使って計算をしません。でも算数を習いたての子供は、指を使って計算します。暗記してないからです。

 そういう意味で、数学の公式も暗記しないと話にならないし、数学の問題もある程度問題を解いて、問題のパターンを暗記しないと成績が良くならない。それを教えてくれたのが、あまり授業の面白くない担任の先生でした。そういう意味で私は非常に感謝しています。

 では、授業がとても面白かった数学の先生に対しては感謝してないかと言うと、そういうわけではありません。この先生のおかげで、知的好奇心がものすごくアップしたからです。その先生の教え方では、数学の成績が良くならなかったけれど、逆に数学に興味を持つことができました。ギリシャ哲学に興味を持ったし、インド哲学にも興味を持つようになった。そもそもその先生は、数学が哲学であること教えてくれたわけですから、受験勉強に必要な問題集なんかに興味が持てるわけがない。もっと根本的なものに興味の方向が入ってしまって、中学校の勉強に身が入らなくなってしまった。

 そういう意味では、こういう面白い数学の先生というのは、中学生や小学生には毒かもしれません。人によっては薬になるかもしれないけれど、人によっては劇薬になる可能性があると思います。

 ただし、こういう専門外の非常勤講師というのは、人間の幅を広げてくれるかもしれません。文部科学省の教育指導要領からの呪縛がないわけですから、こういう先生の指導のもとから天才がどんどん生まれてくるのかもしれません。テレビで有名な、でんじろう先生なんかも、そういう先生だと思います。






つづく。

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2021年01月13日

半世紀前に存在した、とんでも授業【7】2年間に担任教師が五回も変わった事件

 息子が小学校に入学して最初に驚いたのは、補助教員の先生がいたことです。補助教員というのは、担任の先生の他にもう一人先生がいて、勉強ができない子供や、注意力散漫になってる子供をサポートする役目のようです。

 ・・・ようですと言ったのは、そういう風に見えたというわけで、実際にそういう役割なのかどうかはよく分かりません。ただ授業参観に出た限りは、担任の先生の手の届かないところをサポートをしてるように見えます。息子のクラスは全部で29人なのですが、その29人を二人の先生が、見ている勘定になります。私の子供の頃に比べれば、至れり尽くせりです。

 実は、嬬恋村の小学校には、転校生がいっぱいやってきます。理由は新型コロナウイルスのせいです。都会に働きに出て行ったお父さんお母さんが、新型コロナウイルスで仕事を失って、Uターンして戻ってくるために、それに付属して転校生がやってくるわけです。そういう転校生は、友人関係はもちろんのこと、勉強面でも運動面でも不安を抱えていますので、そういう転校生を陰ながらサポートできる補助教員の制度は、かなり良い制度のように思えます。これが昔だったら、そういうことができなかったですから。

 では、50年以上前の私の子供の頃はどうだったかと言うと、とんでもない状態でした。一クラスが40人から45人ぐらいいて、それを一人の担任の先生が面倒を見ていたと思います。もちろん補助教員なんか存在しません。存在しないどころか、担任の先生が病気になっても、代わりの先生がいませんでした。


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 どういうことかと言うと、私が小学校一年生の6月頃に、担任の先生が肺の病気で入院したんですが、非常勤(正教員ではない)の先生が、臨時に雇われ担任の先生となりました。現在からすると、臨時の非常勤の先生が、担任を受け持つことも常識外れですが、それが二年も続いて、二年間に五人も担任の先生が代わったことも常識外れです。昭和四十年代の教員の給料は、とても安くて先生のなり手がいなかった時代です。デモシカ先生といわれた時代でした。

 私が小学校一年から二年にかけて、二年間に五人も担任の先生が代わった。つまり代理の先生が臨時に就任するわけですが、臨時の担任教師が、四人もいたわけです。つまり、私が小学校入学後の二年間に五人も担任の先生が代わったことになります。平均して、一学期ごとに担任の先生が代わったわけですが、二年間に五回も担任の先生が変わるという体験をすると、先生が変わるとクラスが全く別物になることに気づきます。ある先生の時は乱暴な状態になるし、ある先生の時は静かなクラスになる。担任が替わるだけでクラスの雰囲気が全く違ってくる。

 ある先生は、「人間に成績をつけるが嫌いなのでテストに点数をつけません」と言って○×だけの答案用紙を返したりしました。当然のことながら通知表にもそれが現れますので、教育熱心な家庭の子供たちは自分の通知表に青ざめます。成績の良い子ほど両親に怒られていたと思います。みんな同じような平均値の成績をつけられていましたから。

 こういうことをしたら今なら大問題になるところでしょうが、昔は、こういう個性派教師がいても何の問題もなかったまでしょうか?ただし、この先生は、点数はつけなかったけれど、成績が良くなった子供に対しては、一人一人呼び出して、すごく褒めていました。点数はつけなかったけれど褒め上手。そして親にもわざわざ言っていた。ただし点数になってないので親の方は「?」と首をかしげていたと思います。

 別の先生は、運動バカと言ってもいいくらいのスポーツウーマンで、体操ばかりやらせていました。この先生も変わり者で、生徒が「・・・をしたい」と言うと、本当にさせてしまう恐ろしい先生でした。例えば、「学芸会の出し物で何をやりたいですか?」と聞いてきた時に、よせばいいのにクラスの女の子が「バレエ」をやりたいと言う。バレーボールではなく、バレリーナのバレエです。当時、少女漫画でバレエがはやっていた。そんなもの佐渡島の田舎の小学校二年生ができるわけがない。しかし、その先生は
「じゃあ、やろう」
と言ったから大変です。授業をつぶしてバレエの特訓です。基礎もできてない小学校二年生ができるわけがないのに、勉強そっちのけでバレエの特訓。そして、アホらしいことに何とか「くるみ割り人形」のバレエを上演してしまう。


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 というわけで、教師が替わるとガラリと教室の雰囲気が変わることを体験したことは、非常に貴重な体験でした。そのうえ、どういうわけか校長先生は、全校集会で毎週、二ヶ月で入院してしまった元担任の先生の病状報告を詳しく教えてくれました。ひょっとしたら元担任の先生は、元ではなくて、正式な担任の先生であって、現在の担任の先生は、仮の担任なのかな?と思わせるような口ぶりでした。この報告が無かったら、二ヶ月しか習ってない私たちは、とっくに忘れてしまっているのに、何度もしつこく報告するので、記憶が消えることは全くなかった。

 で、代わりに担任になった先生は、やはり仮だったのか、突然に辞めていきます。そして新しい担任の先生が就任する。そして忘れた頃にジャングルジムか何かが、辞めた担任の先生から寄贈されている。ジャングルジムは、当時も現在も決して安いものでは無いです。車が買えるくらいの値段です。それを寄付した安月給の元担任の先生は、隣村の小学校で正式な先生になったという。

 で、手紙が送られてきて、「みんなと出会って本当に良かった。これから隣町で正式な先生になって頑張ります・・・・」みたいなことが書いてある。今から思えば、私たちが踏み台になっていたような気もしますが、その先生は、別れ際に涙を流しながら去って行ったわけですし、私も別れ際でギュッと抱きしめられたので、本当に去りがたかったのかなあと思います。もちろん小学校の低学年ですから、勘違いの記憶であった可能性もあります。

 このように昔の小学校では、かなり大雑把な人事が行われていたようです。これは私が体験した佐渡島の小学校だけではなくて、他の小学校でも行われていたようです。それが証拠に昔に出版された本に書いてあったりします。


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 例えば朝日新聞記者だった秋吉茂氏が書いた『美女とネズミと神々の島々』では、トカラ列島の悪食島を取材するために、島で滞在させてもらう条件として小学校の補助教員を申し出て、それに採用されています。昭和36年の話ですが、新聞記者が一時的に小学校の教員をやっていたわけです。それが『美女とネズミと神々の島々』に書いてある。そしてこの本は、その当時大ベストセラーになっているけれど、その辺を突っ込んだ人は、当時、誰もいなかったことを考えてみても、昔は教員資格に対してかなりおおらかになっていたような気がします。



つづく。

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2021年01月12日

半世紀前に存在した、とんでも授業【6】班活動

 群馬県に引っ越してきて、そして息子が生まれて、その子が小学校に入るにあたって、驚いたことが何度かあります。一番驚いたのは『団活動』です。浅間団とか白根団とか赤城団とか榛名団とか、いろんな団があって、運動会のチームになったり、道路清掃ボランティアのチームになったりして活動するのが、群馬県独特の団活動です。群馬県民は、この団活動が、全国どこでも行われていると思っていますが、そんなことはない。群馬県にしかないのが団活動。これには非常に面食らいました。


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 運動会・浅間団・白根団・赤城団・榛名団


 前置きはこのくらいにして、今から50年ぐらい前の話です。私が小学生の頃に、盛んに行われていたのが班活動というものです。

 例えば授業中に6人ぐらいの班を作って共同で勉強する。先生が問題をだして、班の仲間で考えて答えを出す。また班で共同研究をする。共同で発表会を行う。 班ノートというものを作って、同じ班同士で順番で日記をつけたりする。このようにやたらと班活動によって何かをさせようとする。そういうことがかなり多かった気がします。特に授業参観で、そのような活動が多かった。

 で、息子の授業参観に出かけてみたら、そういうことは行われていませんでした。
 今の小学校では、 班活動というのは下火になっているのでしょうか?

  この班活動というものに、疑問を抱いたのは、高校生になってからです。高校生以上になると、班活動がガクッと減ってきます。専門学校や大学生になると、ほぼ皆無になります。どうしてだろうと不思議に思っていたのですが、20年前に宿業を始めて、日本ユースホステル協会と契約し、北軽井沢ブルーベリーYGHというユースホステルになってから、班活動の謎について、分かるようになり、長年の疑問が氷解しました。

 ユースホステル始めてから、 ユースホステルの歴史を調べてみたのですが、日本におけるユースホステルの歴史は、日本青年団と切っても切れない関係にありました。この日本青年団・日本青年館が、戦後の義務教育に大きな影響を及ぼしていたのです。

 終戦当時、日本青年館に横山祐吉(日本ユースホステル協会を創設した人です)という人間がいたのですが、彼には、終戦直後に日本青年団を立て直そうとします。というのも日本青年団は、戦争末期に軍部によって解散させられていたからです。

 で、横山がどうやって立て直そうとしたかと言うと、GHQ(占領軍)に、 アメリカへ日本の青年を派遣して、アメリカの教育システムを吸収したい。だから日本の青年を派遣したいと要請しました。そして、アメリカ式の教育を日本に導入しようとしたのです。

 最初は日本青年館が、どうして日本の教育について、でしゃばったことをするんだろうと思っていましたが、よくよく調べてみると、戦前には、義務教育の小学校高等小学校以外、青年学校というものがあったんです。青年学校というのは、働きながら勉強する学校だったりします。そして、 青年学校の教師と、小学校の教師は行ったり来たりしていたわけです。その青年学校は、戦後に廃止されるわけですが、その結果青年学校の教師が、失業したわけではなくて、新制中学校の教師に移動したと言われています。

 まあそんなことはどうでもいいとして、青年団の親玉である日本青年館は、青年学校の親玉でもありますから、勤労青年の社会教育問題を真剣に考えていたわけです。そして、日本が戦争に負けることによって、 戦前の教育システムが、アメリカの教育システムに劣っていたから戦争に負けたと言う風潮もあったので、アメリカから教育システムを学ぶ必要性があると考えたわけです。


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 日本青年館


 GHQ(占領軍)の方は、最初の頃は、横山祐吉が再建しようとしてる青年団を危険視したのですが、よくよく調べてみると、元々は、かなりリベラルな団体であると見られていたことがわかり、しかも、横山祐吉ひきいる日本青年館そのものが、アメリカから積極的に学ぼうという意欲があったことが分かって、これを利用しようとしました。

 その後押しをしたのが、ラッセル・L・ダーギンです。彼は、大正8年から昭和17年までYMCA主事として日本に滞在して青少年活動を指導した親日家でありながら、昭和20年にGHQ民間情報教育局青年部長となって再来日した人です。もちろん日本語がペラペラで、日本の事情を全て知ってます。日本青年館のことも、横山祐吉も知ってます。だから日本青年館の横山祐吉を後押しして、青年の社会教育のために動きました。このラッセル・L・ダーギンが横山祐吉を大いにバックアップした。

 で、横山祐吉が手がけたのが『共同学習の手引き』と『公民館』です。
 YMCAでも『グループワーク』というものを作りましたが、
 最初に狼煙をげたのは、横山祐吉の『共同学習の手引き』です。
 そして文部省は、これをもとに、共同学習と公民館行政をすすめていきます。
 GHQ(占領軍)も、大いにバックアップしていきます。
 そして国会の予算会議で公民館の予算を通すときに、
 横山祐吉を参考人として証言させています。

 GHQ(占領軍)は、神風特攻隊に代表される戦時中の行動を封建的な縦割り社会からきていると思ってました。この縦割り社会を撲滅して、日本人を骨抜きにして、民主主義を根付かせるためには、一方的に上から教えると言う教育を廃絶しなければいけないと考えたわけです。教師が一方的に生徒を教えるというのを嫌ったわけです。そこで推奨されたのが横山祐吉が制作した『共同学習の手引き』です。 勉強は先生から一方的に教わるのではなくて、仲間を誘って共同で勉強しなさいということを推奨しました。これを協同学習とか、グループワークと呼んだわけです。 そしてこの考え方を当時の文部省が推奨した。その具体的な方法として、学校教育における班活動だった。

 そして、もう一つが公民館です。青年学校が廃止され、公民館ができた。上から教える学校というものをGHQ(占領軍)は危険視した。そうではなくて、共同学習するための場所を用意する。これが公民館です。そして、公民館側は、利用者のやることには介入できないとした。そして、この公民館の思想は、青年団活動の過去の歴史(つまり若連中・若者宿・郷中宿)とも一致してて、都合良かったわけです。もともと日本の伝統からして、若者に老人が上から下に教えるという制度は無かったし、あっても武士の世界だけで、主流では無かった。日本の伝統では、若者は若者が教える。そこには大人が介入しないというスタイルだった。だから公民館も共同学習も、すんなり日本社会に受け入れられた。

 ところが、これか各県に一斉に伝わったかと言うと、どうもそういうわけではないらしいというのは、私が群馬県に引っ越してきてからわかったことです。

 群馬県と新潟県では隣同士ですが、新潟県ではかなり積極的に班活動が行われたのにかかわらず、群馬県の同世代の人に聞いても、そういう話はあまりに耳にしません。どちらかと言うと、群馬県では班活動よりも団活動に力が入っていたような気がします。 班活動と団活動では、ベクトルの向きが全く違うので、この辺はすごく驚いています。私の個人的な感想をいうと、群馬県の団活動には、感心しています。行きすぎた班活動より良いと思う。上級生の下級生の思いやりが、良く伝わってくるし、下級生は上級生を尊敬している。空手教室にいくと、1年から4年生まで一緒になって仲良く鬼ごっこしている。私が子供の頃(新潟県)は、学年が違うと、ほぼ他人だった。

 まあそんなことはどうでもいいとして、どうして群馬県で、これほどまでに団活動が活発なのか、ちょっと分かりませんでした。そして群馬県くらい GHQ の意向に反抗した県はないと思う。あるとすれば佐賀県ぐらいでしょうか。この GHQ に対する反抗心は、どこから来てるんだろうかというのが、ずっと分からなかったんですが、息子が小学校に入学して6ヶ月ぐらい経ったところに、なんとなくわかりかけてきた。 ヒントは、上毛かるたにありました。


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 ただ今回も、文章が長くなったので、ひとまずここで筆置きます。どうして上毛カルタによって、群馬県民が、GHQ(占領軍)の意向を退けるようになったのか? どうして群馬が保守王国なのか? それを書くと、話がとてつもなく長くなるので・・・・。機会があったら書きたいと思ってますが、私が書かなくても群馬県民は、皆知ってることなので、そこは野暮というものですよね。



つづく。

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2021年01月10日

半世紀前に存在した、とんでも授業【5】ここに泉あり

 全国のユースホステルのマネージャーならほとんど体験してると思いますが、ユースホステルを開業すると、人形劇団が泊まりに来ます。




 人形劇団というのは、全国の幼稚園や保育園を回って歩く劇団のことで、いくつもの団体があります。それらの団体の泊まる宿がユースホステルです。他の宿は値段が高くて泊まれない。最も最近は、ユースホステルより格安のゲストハウスに泊まっているようです。うちの宿にも、ここ数年間は泊まりに来ることはなくなりましたが、昔は、よく泊まりに来て
「よかったら公演を見学しませんか?」
と誘われて、一緒に見に行ったりしました。

 こういうドサ回り劇団が、宿泊費を節約するためにユースホステルに泊まりに来る。彼らは、全国の保育園児・幼稚園児に娯楽を提供している。それを知るにつけ、私の子供の頃を思い出しました。私も、保育園時代・小学校時代・中学校時代に、ありとあらゆる劇団の芝居・音楽・公演をみてきたからです。


 前置きはこのくらいにして本題に入ります。

 私は佐渡島という離島の小学校と中学校を卒業していますが、 どういうわけか小学校中学校に、いろんな劇団がやってきた。音楽家もやってきた。 それはもう不思議なくらい、いろんな人たちが学校にやってきた。

 その人たちは、決まって、母校出身だった。故郷に錦を飾るではありませんが、母校で公演を行うという形式だった。ある時はフルートの演奏だったり、ある時はオーケストラだったり、ある時は演劇だったり、ミュージカルだったり、古典芸能だったり、落語だったり、腹話術師だったり、それはもう様様です。共通しているのは、その小学校・中学校の卒業生ということです。故郷に錦を飾るというのでしょうか?


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 映画『ここに泉あり』より借用


 面白かったのは、五十人くらいの大きな劇団の人たちが来たことがあって『ビバ・ブラジル』というミュージカルを見たときです。劇団の中に、中学の先輩いて、その人が母校出身という触れ込みだったけれど、けっこう下っ端だった。下っ端だけど、ステージでスポットライトを浴びて挨拶した。

 スポットライトというか、舞台の照明は大量に装備されてて、アンペアが足りないのか、電源ドラムか、いくつもあって、それが遠くのコンセントに繋がれていたことを昨日のように思い出します。

 今考えてみたら、劇団やオーケストラの事務所の人達の営業があったのかもしれない。それを学校や教育委員会が受けたのかもしれない。そう考えるようになったのは『ここに泉あり』(昭和30年公開)という日本映画を見てからです。

 今井正監督の作品で、群馬県高崎の市民オーケストラが、群馬交響楽団へと成長する草創期の実話を舞台とした映画なんですが、市民オーケストラが生き残りのために、学校にさかんに営業をかけて、すごい僻地の学校に演奏に行くエピソードが、とても印象に残ったからです。すごい僻地の学校に演奏に行くわけですから、嬬恋村の吾妻鉱山にも行ってるし、小串鉱山にも行ってて、ロケ地になっている。浅間山が、デーンと写っている。


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 映画『ここに泉あり』より借用


 で、うちの息子が通っている小学校に、映画『ここに泉あり』のような団体がやってくるかというと、やってこない。卒業生が故郷に錦をかざるように、音楽家が学校で演奏したとか、劇団が公演したとか、そういう話は、全くない。で、うちの御客さんに尋ねてみたのですが、他の小学校でも無さそうな感じです。

 ということは、平成時代・令和時代に、小学校に、劇団やオーケストラがやってくることは無いということになります。

 しかし、私が子供の頃は、年に2〜3件くらい、演奏会や劇団の公演があった。それこそ『ここに泉あり』のような感じで、プロの音楽家による生演奏を聞かせてもらったし、すごい舞台装置の演劇をみさせてもらった。何十という照明の煌びやかに圧倒されもした。その光景を一言で言うと、サーカスですね。


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 映画『ここに泉あり』より借用


 新型コロナウイルスが蔓延する現在・未来、学校にサーカスがやってくることは無いでしょうね。



つづく。

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2021年01月09日

半世紀前に存在した、とんでも授業【4】映画鑑賞

 昔の小中学校にあったけれど今の小中学校にないものに映画鑑賞というのがあります。昔は、僻地の学校で、映画の上映会をよくやりました。私が子供の頃は、毎月学校の授業で映画を見ました。

 佐渡島には、映画館というものが、あまり無かった。なので学校で何度も映画が上映されました。と言っても、最新作ではありません。古い名作です。例えば『路傍の石』とか『風の又三郎』とか『次郎物語』とかです。みんな戦前の作品だった気がします。洋画もありました。『野バラ』とか『菩提樹』とかいうドイツ映画を見た記憶があります。『路傍の石』は、文部省推薦の第一号映画だと聞かされました。『次郎物語』も戦前の文部省推薦映画です。このチョイスからして、戦前の文部省は、かなりリベラルだったと思います。天皇の人間宣言は、戦後(マッカーサー)が初めてでは無く、戦前である昭和12年に、文部省通達で行われていますので、それをみても、当時の文部省の雰囲気が分かるというものです。




 それはともかくとして、どうして古い名作を学校で上映したかと言うと、図書館が16mmフィルムを購入するためです。

 私が生まれた佐渡島の金井町というところでは、たったの人口5000人の小さな町でしたが、かなり大きな図書館を持っていました。それこそ軽井沢の図書館よりも大きい図書館がありました。

 その図書館には、大量の16mmフィルムと16mmプロジェクター(映写機)を置いてあって、16mm映画がずらりと置いてあったのです。アニメもあったし、外国映画もあった。佐渡島のドキュメンタリー映画もたくさん置いてありました。16mmフィルムとして販売されているものなら大抵置いてありました。

 離島の上に、小さな小さな町村ですから、図書館に大した予算はありません。なので、その図書館は小学校の中にテナントとして入ってました。第一次ベビーブームが終わって、子供たちの人数が減ったことによって、教室が余ってしまったのを有効利用したわけです。

 貧乏で予算が無い町が、精一杯考えた図書館行政で、建物は借り物でしたが、蔵書は多かった。蔵書が多いだけでなく、16mmのプロジェクターが何台もあったし、16mm映画も大量にあり、その多くは貴重なものばかりでした。もちろん、そんなものを買う予算は、小さな町にはありません。

 予算がないから小学校や中学校で、一人何百円か支払って上映会を開いたわけです。その収益で新しい16mmフィルムをジャンジャン買ったわけです。これで格安で映画は見れるし、資金なしで16mmフィルムは増える。言うこと無しです。それに一度買った映画は、何度も無料で見られます。だから、無料で見られた映画と、有料だった映画の上映会がありました。なんだかんだと言って、毎月一回は学校で映画を見ていたと思います。だから親は、子供を映画に連れて行かなくてもすむ。学校が、かわりにやってくれているから言うこと無しの全員がハッピーになる展開です。

 今から考えてみたらすごいことだなと思うんですが、離島のために映画館が無かったことや、民法テレビ局も一つしかなかったこと、ビデオテープというものがなかった時代という3つの環境が、こういうシステムを作り出したんだと思います。

 また、離島ゆえに、身分不相応に巨大な図書館をかかえていたと思います。小学校の空き教室を使って、テナントみたいに存在していたので、予算がかからなかった。だから小学校に大人たちが入り放題だったし、当時の小学生たちも、学校の図書館に行かずに、町の図書館に行った。大人仕様の町の図書館なら、最高の暖房が入っていたし、そこにはマンガ日本史全集みたいなものもあった。学校の図書館にないものがあった。その結果、子供たちが集まる場所となって、みんな本好きになっていった。

 これが現代の嬬恋村の場合、図書館がなくても何の問題もない。本が読みたければ、中之条に行けば大きな図書館があるし、軽井沢にも大きな図書館がある。さすがに映画館はないですが、昔は、嬬恋村にも映画館があったと聞きます。無くても電車で簡単に映画館に行けたことでしょうが、日本海という障壁に囲まれた佐渡島では、そこで完結しなければならない。

 嬬恋村が、群馬県のチベットと言われるところであるのは事実にしても、なんだかんだ言って陸続きです。船に乗らないと本州に上陸できない佐渡島とは全く条件が違う。波が荒れて船が出航できないなんてことはないからです。だから大きな図書館を充実させたし、16mmフィルムの貸し出しも行って、子供会や、町内会で上映会が盛んだった。今ならスカイパーフェクトTVもあれば、BSテレビでいくらでも映画が見られる。わざわざ16mmプロジェクターを用意することもないし、16mmフィルムで映画の上映をすることだって必要ない。しかし、当時は、映画が娯楽の王様だった。

 なので学校でも盛んに映画の上映会を行った。もちろん授業の一環ですから、普通の映画館と違った上映になったこともあった。16mm映画というのは、大抵、前編・後編の2巻に別れているのですが、先生が間違えて後編を先に上映することが良くあった。それを見ていた小学生の私たちは、
「何か変だな?」
と思いつつ、感動のエンディングシーンを見て、中途半端に感動してしまったりする。そして、ラストシーンを見終わった後に先生が
「これから前編を上映します」
と言って、前編を上映し始めるのです。当然のことながら、子供たちからブイブイ文句が出ますが、間違えた先生は
「映画館で映画を見たと思えば、いいんだよ。映画館に入れば、これと同じことが起きるんだから」
と屁理屈を言っていました。

 要するに、映画が始まってる映画館に途中入場て、途中から映画をみたと思って、見ればいいんだよという屁理屈なんですが、そもそもみんな映画館に入ったことがないので、
「途中入場?何それ美味しいの?」
という状態で、意味がさっぱり分からなかった。金をとって上映会をひらいていたわけですから、今から考えると、とんでもないことなんですが、昭和時代の小学校では、よくある日常の一コマだった。要するに今より大らかだった。



ドイツ映画『野バラ』 後編をみてから前編を見させられたのは、良い思い出




つづく。

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posted by マネージャー at 16:30| Comment(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月08日

半世紀前に存在した、とんでも授業【3】計算尺

  前回、息子が小学校に入学する時に、用意しなければいけない入学式セットに画板がなかったことを書きましたが、もう一つ、無かったものに十玉算盤があります。十玉算盤が、息子の入学セットに無かった。十玉算盤が無かったかわりに、算数セットというものが増えていた。


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 この算数セットというやつが、くせもので、ちいさなおはじきみたいなものが大量に入っていて、それに一々名前をつけなければならない。そんな面倒くさいことできるかと思っていたら、世の中には、それを商売のタネにしている業者もあって、算数セットのおはじきやコインなどにつける名前シールを販売する業者がいたので、名前シールを注文しました。


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 昔は、こういった算数セットはなくて、かわりに十玉算盤があった。
 というか、十玉算盤で全て事足りるのに、
 どうして算数セットまような面倒くさいものが必要なのか、わけがわからない。


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 実は、うちの息子は、最初、算数が苦手で計算ができなかった。足し算の原理も、なかなか理解できなかった。理解した後も、いつも指を数えていて、計算が遅かった。なので、ネットで買った十玉算盤を与えて渡したら
「すごい! 魔法の道具だ!」
と驚いて、どんどん計算が出来るようになった。

 息子にしてみたら電卓を手にした気分だったと思います。
 そして、どんどん算数ができるようになった。
 暗算ができるようになった。
 頭の中に十玉算盤がイメージできたんだと思います。

 そして、そのうちに2桁までの足し算を暗記するようになり、指を数える必要がなくなり、暗算で答えが出るようになった。その結果、学校の授業が苦痛になってしまった。暗算でできるのに、めんどくさい「さくらんぼ計算」をしないといけないので、それが苦痛でならなかった。

 さくらんぼ計算というのは繰り上がりのある足し算を10のまとまりを作って「10といくつ」で答えを求めていく計算方法です。説明するのも馬鹿馬鹿しいので詳しくは下記のサイトをみてください。

https://js-mama-onayamikaiketsu.com/1833.html

 これは、うちの息子だけでなく、幼児から算盤をやっている子供は、全員が「さくらんぼ計算」や算数セットを苦痛に思っていると思う。へんな道具より十玉算盤の方が、具体的で分かりやすいし、位(くらい)の考え方も、いっぺんで頭にはいってくる。そのうえ何桁の計算でも、一瞬のうちに理解できてしまう。

 極論すれば、十玉算盤さえあれば、2年間で習う算数を1ヶ月でマスターできる。自然と足し算を暗記するようになれる。掛け算の理論まで、簡単に理解できるようになる。

 それに対して算数セットでは、位の考え方を、あとで習うので、わかりにくいし、位取りのところで、落ちこぼれる子供も多いと思う。現に、うちの息子も十玉算盤に出会う前まで、位取りをなかなか理解できないでいました。なので「さくらんぼ計算」や算数セットより、十玉算盤の方が、圧倒的に優れた商品だと思うのですが、いかがでしょうか?

 関係ないですが、いまはやりのインド式計算方法というのがありますが、あれは計算が速いですね。めちゃくちゃ早い。一度、息子に教えたんですが、すごく計算が速くなった。足し算の筆算を前から(つまり位の大きい方から)計算する方法なんですが、これだと計算が速くなる。とんでもなく早くなる。しかし、途中で、これを息子に教えてはダメだと気がついた。この計算方法は、ある程度、知能が高いひとでないと、混乱する原因になるし、学校の授業で習う位取り計算方法と真逆なので、息子の頭が混乱してしまう。なので、これを教えてはダメだと思いました。やはり、十玉算盤が、日本の風土に一番あうように出来ている。

 これは余談になりますが、私が子供の頃には、機械式計算機というものがあって、それのオモチャバージョンがありました。それが学研の『科学』と『学習』という雑誌の付録についてきたことがあった。

 その機械式計算機は、ダイヤル式黒電話(といっても分からないでしょうけれど)のようなダイヤルを回して、数値をいれると、計算結果がでてくるものです。昔の黒電話をかける要領で、ダイヤルを回すと、答えが出てくる。もちろん十玉算盤の方が、圧倒的に便利なのですが、子供の頃に、機械式計算機のオモチャに出会った私は、すごい機械だと大興奮した。そこに父親が
「もっとスゴイものがある」
と見せてくれたのが計算尺です。


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 まあ、そんなことは、どうでもいいとして、大昔にあった授業で、今は存在しない授業に『計算尺』というものがあります。『計算尺』というのは、いわゆる物差しみたいなものを使って、かけ算・割り算・三角関数・対数・平方根・立方根などの計算をする道具ですが、電卓が無かった頃は、みんな、これで計算していました。

 リチャード・ギア主演映画「愛と青春の旅だち」に、ヘンミの計算尺が登場しているし、映画「アポロ13」でも軌道計算を検算する場面でヘンミの計算尺が登場している。映画の『風立ちぬ』でも航空機の設計の場面で登場しています。ちなみに世界の計算尺の8割は日本製(ヘンミの計算尺)で、竹でつくられていたために気温による膨張がなかったために、世界中の一流科学技術者が、日本製計算尺を使っていました。金属製の計算尺だと、夏に熱膨張で狂いが生じるからで、どうしても日本製(ヘンミの計算尺)でないといけなかった。

 当然のことながら私も学校で計算尺を習っています。
 習っていますが、私の世代だと、使い方を説明されて、
 さらっと流しただけで、電卓の授業がメインでした。

 で、電卓の授業で何をやったかというとメモリー計算です。
 電卓にある 「M+」「M-」「MRC」 のキーの使い方を勉強したわけです。


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 使い方としては、例えば、100円のチョコ2個、50円の飴玉を5つ買ったとします。
 さて、全部でいくらになるでしょうか?
 という問題の解答を出すときに使います。

100円のチョコを2個→ [100][×][2][M+]→200
50円の飴玉を5個→ [50][×][5][M+]→250
合計 →[MRC]を1回 →450

 という具合です。
 こういう授業をやったわけです。
 電卓で複雑な計算をやったわけです。

 だから私の世代だけは、「M+」「M-」「MRC」 のキーの使い方を義務教育で習っていて、この使い方を知っています。

 なので、これを嫁さんの前で披露したら、嫁さんの奴は、いたく驚いていた。ということは、昭和四十七年生まれの嫁さん世代は、義務教育で習ってなかったということになる。もっとも嫁さんは、算盤塾に通っていたので、電卓のメモリー計算など知らなくても何の問題もなかったと思いますが。



つづく。

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2021年01月07日

半世紀前に存在した、とんでも授業【2】画板

 息子が小学校に入学する時に、用意しなければいけない入学式セットに画板(がばん)がなかった。画板といっても今の人にはわからないかもしれませんが、写生大会の時に使う木のボードのことです。私が小学校に入学する時には、その画板を買わされて、学校に持って行ったものです。図工の時間や理科の時間に画板を持って校庭に出て写生を行ったことが何度もありました。授業中によく写生を行った。また、年に二回ぐらい写生大会というものがあった。

 今では考えられないことですが、勝手にどこかに行って写生を行っていた。昼食に給食が出たかどうか覚えてない。弁当だったような気もするし、給食を食べに帰ってきもする。勝手にどっかに行って、一日中、何かの写生して学校に帰ってきた気がする。

 もちろん小学校に入学して間もない頃。小学一年生が、散り散りバラバラになって絵を描いていたわけですが、それでよく事故が起こらなかったと感心します。今じゃ考えられない。というか、息子が通う小学校では写生大会というのは存在してない。少なくとも小学二年生までは、そういうイベントはなかった。おそらく今後もないかもしれない。学校の道具に画板がないからです。


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 そういえば、昔は習字の授業が盛んでした。年明けになるとコンクールがあって、表彰された作品が廊下や体育館に次々と貼られたものです。子供会でも表彰していましたし、地域の自治体でも表彰してました。と言うか佐渡島という辺鄙な田舎の小さな市町村に、何人ものの書道家がいて、みんなそこに習字を習いに行ってた。昔は塾といえば、習字の塾であり、そろばんの塾であって、くもんのような学習塾というものはなかった。

 息子が通ってる小学校では、習字そのものがない。ひょっとしたら三年生になったらあるのかもしれませんが、一年生二年生の間はなかった。その代わり書写という授業がありました。書き初めの文化は、少しずつなくなっているのかもしれません。

 私が中学生だったとき、習字の時間には、学校の先生ではなくて、地域の書道家の先生が教えに来ていました。離島の、人口五千人程度の町村に、何人もの書道家がいて、それぞれ多くの弟子を抱えていたわけですから、今にして思えば驚異的なことかもしれません。そして、生徒一人一人に、別々の課題を与えて教えていました。全員一斉に同じ文字を書くということはなく、別々の課題が与えられた。その先生は私に対して「温故知新」という文字を書くように言われ、散々書かされた挙句、
「この意味を知ってるか?」
と聞かれたので
「知りません」
と答えると、初めて意味を詳しく教えてくれる。習字と言うより、国語の授業みたいだった。

 こういう習字の授業があるにも関わらず、さらに国語の授業で習字をやらされた。国語の先生も天才的に習字が上手い人で、赤い墨汁で次々と手本を書いてくれる。その先生は
「何を書きたいんだ?」
と聞いてくれて
「・・・が書きたいです」
と言うと
「・・・」
という手本を書いてくれる。つまり各自で何を書いてもよかった。先生に「◇◇を書きたいので手本を書いてください」と言うと、ものの2秒くらいで美しい手本を書いてくれる。それをサッと飛ばすものだから、手本が床に落ちる。それを慌てて拾って、その手本をもとに練習をしていた。でどうなったかと言うと、男子生徒の大半が
「天地真理」
と書いていた。歌手の天地真里(あまちまり)が全盛の頃でした。中には「レットイットビー」とか「神田川」とか「なごり雪」とか書いてる人もいたけれど、圧倒的に「天地真理」が多かった。

 そしてその書き初めを教室の後ろにでかでかと貼るわけですが、それを見た他の先生方が「どうしてみんな天地真里(あまちまり)ばかり書いてるんだ?」と聞いてきて、生徒たちが反論します。

「天地真里(あまちまり)じゃありません、天地真理(てんちしんり)です」






 そういえば、私が中学校二年生の時、一年で廃止になった授業があります。電卓という授業です。以前は算盤の授業だったらしいのですが、私が中学二年生の時だけ、電卓という授業になり、1年で廃止になってしまった。昭和五十年頃に、電卓戦争というものがありました。今でこそ百円ショップで買える電卓ですが、当時は高価なもので、カシオとかシャープでした。

 恐ろしいのは、電卓の下請けに、今をときめくインテル社があったことです。インテル社は、日本の電卓会社の下請けだったことがあった。国内の半導体メーカーはこの電卓用 LSI の開発を引き受けてくれなかったので、日本が開発した電卓用 LSI をインテル社に生産してもらった。しかし開発したマイクロプロセッサは、電卓以外の用途にも広く使えることから、インテルは日本の電卓会社から独占販売権を放棄してもらって、世界のインテルになった。日本の電卓会社にもう少し先見の明があれば、世界のCPU市場を日本が独占したかもしれなかった。実に惜しいことをしました。





 まあそんなことはどうでもいいとして、電卓の授業は一年でなくなってしまい、代わりにそろばんの授業が復活したかと言うと、そうではなかったらしい。電卓が普及したためか、そろばんを学ぶ必要がないと思ったのか、学校でそろばんをやる話を今では聞いたことがない。だとすると、あの電卓の授業こそは、諸悪の根源だと思います。プログラミングの授業なんかやめて、そろばんの授業を復活させるべきだと思うんですがどうでしょうか?


つづく。

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2021年01月06日

半世紀前に存在した、とんでも授業【1】話し方授業

半世紀前に存在した、とんでも授業【1】

 早いもので、息子の冬休みも残すところあと一日になりました。あっという間に三学期です。その三学期が終われば、小学三年生です。そして小学校三年生になると、英語の授業とプログラミングの授業があるらしい。そういえば、だいぶ前にダンスが学校の授業で行われるようになったという話でした。

 私の弟に、中学校の先生と高校の先生がいます。二人ともプログラミングの授業に賛成のようでしたが、私は、疑問に思っています。小学校で大切なのは、日本語であって、漢字の読み書きと、算数、体育が一番大切だと思っています。プログラミングなんかやらせるぐらいだったらそろばんをやらせた方がいいと思ってます。余計な授業を増やしてほしくないんですが、それについては、ここでは触れません。

 今回は、昭和三十六年生まれの私が、昔あって今はもうなくなってしまった、とんでも授業を紹介したいと思います。

 これは私が体験したことではないんですが、昔の佐渡島の中学校では、バイクに乗る授業があったそうです。昔は、技術・家庭という授業があって、男は技術を学び、女子は家庭科を学んだのですが、男子が学ぶ「技術」と言う授業で、バイク運転の授業があったらしい。

 これは私が中学生の時に、技術の先生が面白おかしく話してくれたんですが、昔はバイクに年齢制限もなければ、免許証もなかったらしい。届ければ誰でもバイクに乗れたらしくて、そういう時代に中学校でバイクに乗る授業を行ったらしいのです。

 とはいうものの、当時バイクは貴重品でしたから、どの家にもあるというものではなくて、見るのも触るのも初めてと言う生徒が多かったらしくて、そのためにバイクに乗る授業は、事故寸前で散々だったらしい。まあそうですよね。そのせいか、この授業はすぐに廃止になったとのこと。

 どうしてそんな授業とかあったかと言うと、終戦間もない当時の日本では、航空機とか車を生産することが制限されていて、自転車かバイクを生産して東南アジアあたりに輸出するしかないという危機感が日本に充満していたらしい。嬬恋村で行われた浅間火山レース(バイクの公道レース)は、そういう時代背景の中で行われた可能性が高いですわけですが、そういう雰囲気の中で、こういうトンデモ授業があったそうです。戦後間もない頃の学習指導要領には、GHQの影響で上から教わるのではなく、自ら体験して学ばせることを重視すべしと書いてあったらしく、その延長上で、バイク運転体験があったのかもしれません。戦後まもない頃は、上から教わるのは悪で、自分で体験するのが善だった時代でした。

 この話を、中学校の先生に伺った時に、昔は免許証を発行するのが緩かったんですねと言ったら、その先生は
「ゆるいも何も、免許証をそのものがなかった時代が長い間続いていたのだよ」
と言いました。車検証があれば免許証がいらなかった。排気量750 cc以下であれば、二輪、三輪、四輪を問わず免許証はいらなく、十四歳以上なら運転しても違法ではなかったらしい。十五歳から軍隊に入れるので、軍隊に入ったら車の運転がありえるので、その年齢まで引き下げられたらしいのです。それを聞いた私たちは驚いたのなんの。

 ただし、この話は、昔の恩師から聞いた話なので、私の記憶違いがあるかもしれないので、都市伝説ぐらいに思っていただいて結構です。ここから先は私が経験した「とんでも授業」です。



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https://global.yamaha-motor.com/jp/design_technology/technology/daysgoneby/003/より借用



 私の子供の頃には「話し方授業」というものがありました。これはどういう授業かと言うと、みんなの前で立って話をするという授業です。これは毎日順番に全員に強制されました。毎日行われて、朝の学活で二名と、夕方の学活で二名。一日に二回、合計四名がクラス全員の前で、何か話さなければならない。しかも必ず十日以内に自分の順番がまわって来る。

 十日に一回は、四十人ぐらいいるみんなの前で必ず何か喋らなければいけない。今思えばすごい授業だったと思います。この授業は、私が中学校に上がる時になくなってしまいましたが、中学生時代に、恩師の先生たちが、
「昔は話し方の授業というのがあったんだよ」
と言っていましたから、話し方の授業というのは、小学校だけでなくて中学校でもあったようです。

 それで面白かったのは、廃止になってしまった話し方授業が、中学校の先生たちには、とても良い授業であったという感触があったらしくて、いろんな先生たちが、時々それを自分の授業で復活させました。教育指導要領では廃止になってたと思うんですが、話し方授業は必ず生徒のためになると思っていた先生がいたわけです。そして国語の授業や、社会の授業や、ホームルームの授業などで、多くの先生たちが、話し方授業の続編をやらせました。

 この話し方授業は、私の最も得意だった授業で、私には楽しみな授業だった。ほとんどの同級生が、話すことがなくて、歌を歌ったり、特技のケン玉なんかを見せていた中で、私だけがみんなの前で歴史講談なんかを語っていた。

 特に得意としてたのが、川中島の決戦・ゼロ戦の話・航空エンジンの構造といった話で、それを面白おかしく解説するので、そのつど国語の先生が喜んでいました。そのせいか、何かと国語の先生に目をつけられて、感想文をみんなの前で読まされたり、私の文章を先生が笑いをこらえながら読んだりもしました。そして、それでクラスは爆笑の渦になり、国語の先生に、お前は文章の才能があるからそっち方面に進んだ方が良いと言われたものです。



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 ただし、その国語の先生の目利きは外れたようで、読書感想文のコンクールなんかには一度だって入選したことがありません。私の書く文章は、どっちかと言うとギャグありきの講談調で書いてありましたから、読む人が読んだら不真面目な感想文だと思われたに違いありません。

 こんな私ですから、よく演劇なんかにスカウトさせられて劇に出演させられました。三年生を送別する演劇で、志村けんばりのコントを行いました。当時、こういう馬鹿な子供たちは私だけでなく、他にも多かったのは、「話し方授業」の成果だったかもしれません。ある世代の人間は、大勢の前で演説をする事を苦手に思わないのは、「話し方授業」のせいだと思います。長くなったので今日はここの辺で筆を置きます。退屈で無ければ明日、トンデモ授業の続編を書きます。



つづく。

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2020年12月28日

漢字検定試験で、息子に悪いことをしてしまった。

 息子が漢字検定試験の9級を受けたいと言っていたので、2ヶ月前から特訓し、最近は、過去問題の正解率が95〜98パーセントとなっていて、合格間違いなしというところに来ていたのですが、忙しさにかまけて、願書を出す期限が過ぎていたことに、ついさっき、気がついてしまった。息子に悪いことをしてしまった。

 漢字検定試験は、150問の問題が出され、8割の正解率で合格できます。漢字検定試験の9級は、小学校2年生で習う漢字が出題されるわけですが、小学校2年生で習う漢字は、たったの160字。つまり、160字中、150字が出題されるわけで、そのうち正解率8割で合格というゆるい試験です。試験内容も、よみが50問、書き順などが50問、書きが50問というもので、全ての文字を正確に書けなくてもよく、読めさえすれば、三分の一は得点できます。だから決して難しい内容では無く、2ヶ月くらい漢字の練習をさせれば、小学2年生なら、かならず合格できる試験です。

 ただし、小学校の勉強より難しい問題も出てくる。
 小学校では、「夜」は「よる」と学びますし、
 「光」は「ひかり」と学び、
 「虫」は「むし」と学びます。
 ところが、漢字検定試験では、
「夜光虫(やこうちゅう)」
という問題が出たりする。

 これを小学校2年生が解答するのは難しい。普通の小学2年生に「夜光虫」が読めるわけも無く、意味だってわからないと思います。小学校の国語の授業では、そこまで深く勉強することはありません。

 だからこそ正解率8割で合格という低い設定になっているのでしょうが、漢字検定試験では、単に漢字を覚えればいいわけではなく、単語の意味なども覚えてないと満点が取れないシステムになっている。


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 仕方が無いので、学校の勉強より、漢字検定試験の特訓ばかりやらせていました。最初の1ヶ月間は、とりあえず漢字を使った単語・慣用語句を理解させることを中心に勉強させ、「夜光虫」といった難しいワードの意味を教え、その後の1ヶ月は、過去問題ばかりやらせました。で、満点を連発するようになったので、願書を出そうかと思ったら、3日前に願書提出期限が過ぎてしまっていた。本当に悪いことをしてしまった。

 ちなみに漢字検定試験は、年に3回しか試験がありません。2月・6月・10月の3回です。なので、次の試験は、6月までありません。6月に、9級の試験なんて今更なので、飛び越えて8級の試験を受けさそうかな?と思っています。8級は3年生の漢字が試験範囲で、たったの200字しかありませんから、それほど難しい試験ではありません。正解率8割で合格ですからね。

 しかし、まいったなあ・・・息子に怒られる。
 何と言って謝ろうかなあ。
 シュークリームかケーキで許してくれるだろうか?
 不安だ。


つづく。

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2020年09月06日

七歳の息子に勉強を教えてみた感想 その6(おわり)

七歳の息子に勉強を教えてみた感想 その6

 前回の続きです。小学校2年生には英語という科目はありません。もちろん小学校2年生でも英語の塾に通っている人たちがいると思います。けれど私は息子に英語を学ばせるつもりはありません。

 小学校3年生からは、英語の授業があるらしいので、その時は、仕方がないので勉強させますが、本音を言うと早いうちから息子に英語を勉強させたくありません。英語学の世界的な大家であった上智大学・ミュンスター大学の渡部昇一教授も、小学生に英語を学ばせるのに否定的な意見ですし、シングルマザー高校英語教師の『学力を呼び覚ます!子育て法』の黒田紫さんも否定的です。むしろ国語の勉強の方が大切であると。国語力が英語力になると言っている。なので、英語の勉強だけは一切、手をつけないようにしてきました。

 ところが、そうはいかなかった。いくら英語教育を拒否しても、英語教育の魔の手は、我が家に侵入してきた。おぞましくも侵入してきた。進研ゼミでも、ポピーでも、学研でも、その他の教材も、隙あらば英語教育の無料教材を押しつけてきた。チャレンジタッチにも、たのんでも無い英語教材が入っていた。


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 チャレンジタッチのタブレットには、いつのまにかマイクが装着されており、息子の頭には大きなヘッドフォンがセットされていた。そういう付録が、いつままにか送られてきていたのだ。英語教材は、頼みもしないのに、我が家に侵入してきていた。そして、それの虜になった息子は、親の見てないところで勉強を始めてしまっていた。もちろん私は、制限をかけた。「英語の勉強はするな」と言った。

 目が悪くなるからです。
 ブルーライトが、子供の目を悪くしてしまう。

 うちでは、1日30分以上のタブレットの使用を許可していません。そもそもベネッセの方でも30分以上タブレットを使うなと言っている。なので、どんなに子供が勉強したがっても、30分たったら取り上げてやめさせていますし、タブレット本体も、30分たったら「目を休めようね」警告文が出てきて、タブレットが動かなくなる。

 しかし、息子のやつはリセットボタンを押して30分延長してしまう。
 どんどん延長してしまう。

 いくらタブレットが警告しても、息子のやつがリセットボタンを押してしまったら、どうにもならない。だからタブレット取り上げて、息子の手に届かないところにしまうのですが、息子のやつは、それを探し当てて、こっそり勉強をしてしまう。それも英語の勉強をしてしまう。本当に困ったもんです。

 英語さえなければ、こういうことは無かった。国語とか算数だと、全ての問題を解いてしまえば、もうやることがないんですが、英語の場合は、いくらでも会話練習ができてしまううえに、たのんでもないのに中学3年生レベルまで先に進むことが出来るので、やろうと思えば何時間でも勉強ができてしまう。ベネッセは、タブレットに恐ろしいソフトウエアを入れてしまったのである!


 これには本当に困った。

 Eテレにしても、一番、番組数の多いのが英語です。
 タブレットもそうですが、一般的に言ってEテレの番組は、中毒性があります。
 アニメのドラえもんよりも中毒性がある。うまく作られている。

 私たちが子供の頃に見たEテレは、人形が出てきて理科の実験をしたりして、教科書に沿った番組になっていました。学校の授業と何一つ変わりはなかったし、番組の時間が長かった。30分ぐらいの見応えのある番組が普通だった。


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 ところが今のEテレの番組は、全く違っている。
 どの番組も5分から10分で終わります。
 ドラえもんの1話の半分くらいと圧倒的に短い。
 教科書で3時間ぐらいかけてやる勉強を5分とか10分という短時間で教えている。

 そのうえコントや漫才で笑わせながら勉強させたり、
 刑事ドラマの推理で勉強させてるので息子にとって、
 非常に中毒性がある番組になっている。
 タブレットと同じぐらいに中毒性がある。

 と言っても、算数国語理科社会だけだったら、大した時間にはなりません。全部合わせても1日に30分ぐらいです。算数の番組は、2週間に1回しかないし、その番組も10分で終わります。国語だって社会だって同じようなもんです。だから、英語以外のEテレを全て見せても20分から30分で終わってしまう。

 ところが英語に限っては、毎日ある。
 それもたくさんの番組がずらりと並んでいる。

 幼児のための番組から、小学校低学年の英語、おもてなし英会話・・・。というように、いろんなタイプの英語番組がずらりと並んでいて、厚切りジェイソンといった芸人が、番組を面白くしていて中毒性の番組を提供しているが、それらを全部見たら極度に目に負担がかかる。


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 目が悪くならないように、30分でテレビを切っても、息子のやつは、2階に忍び込んで、どこかの客室のテレビで、こっそりEテレの番組を見ている。それも英語を見ている。またはお客さん用に買ってある教育用英語DVDをこっそり視聴している。これには本当に困ってしまった。

 息子が英語に興味を持たなければ、Eテレやタブレットに接する時間は、それほど多くなかったんですが、英語というものがあると、ものすごく長時間になってしまう。なので英語番組に対して多少恨めしい気持ちがある。どうしてこんなものを小学生に学ばさなければいけないのだろうか? とにかく英語の番組が多すぎる。猫も杓子も英語なんかする必要はないと思うし、英語の前にやることがあるはずだけれど、世の中は、英語・英語に夢中になりすぎてないだろうか?

 あとプログラミング。
 この番組にも息子は熱中してしまった。
 タブレットの方も、いつのまにかプログラミングの科目がはいっていて、
 悪いことに、この科目も中毒性がある。
 そのために余計な時間が、タブレットとEテレにとられてしまっている。
 息子の目が心配でした。

 そもそも、こんなもの習う必要があるんだろうか?
 英語もプログラミングも、発達途中の子供が
 目を悪くしてまで勉強する価値があるのだろうか?
 いい加減にしてもらいたいものです。

 仕方がないので登山に連れて行って極力、息子の目が悪くならないようにしたのですが、新学期が始まって健康診断を受けて見たら、案の定、視力がかなり低下してしまっていました。


つづく。

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2020年09月05日

七歳の息子に勉強を教えてみた感想 その5

 もう時効だと思うので、9月入学が話題になっていた時のことを書いてみます。

 新型コロナウイルスが猛威をふるい、非常事態宣言がだされ、学校の休校が続いていたとき、衝撃的なニュースが飛び込んできました。とある知事が、学校の9月入学を推奨し、内閣も乗り気になり、文部省が検討をはじめたというのです。私は瞬間に
「やばい!」
と思い、あちこちの自民党議員にmailと手紙をおくり、文部科学大臣のFacebookにも反対論を述べ、多くの識者に反対の文を送りました。宿屋をやってる関係から、知り合いが多かったので、あちこちに声をかけました。

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 私の反対は、9月入学に反対してるのではなく、早急に9月入学に変更することに反対であり、9月入学そのものに絶対反対というわけではありません。混乱期に「思いつき」で、安易に変更するなと言ってるだけです。

 話はかわりますが、私の友人に東京大学付属高校出身の人がいます。東大の附属高校です。厳密に言うと、東京大学教育学部附属中等教育学校と言うらしいのですが、昔は、東大附属高校と言ってました。

 東大の附属高校なので、超エリートの学生さんがいるというわけではなく、バカもいなければ、天才もいないという、偏差値50から55くらいの普通の学生ばかりがいる学校です。もちろん勉強ができない子供は入れませんが、とびきり頭の良い子も落とされます。そして、一次試験に合格し、二次試験にも受かると、最終試験ですが、その最終試験が、クジ引きなのです。福引きスタイルのクジ引き。合否も、そこで直ぐにわかってしまう本物の福引き。クジ引きだから、受かるように入試問題の得点を小細工しても、クジ引きで落とされてしまったりする。

 また、生徒にやたらと双子が多かったりする。今でこそ双子は珍しくないのですが、私が学生の頃は、本当に珍しくて、全校生徒に一組あるかないかというくらいに珍しかった。それが東大の附属高校には、ゴロゴロいた。ゴロゴロいたけれど、みんな別々のクラスに分けられていた。で、双子が自宅に帰って宿題なんかやっていると、全く違う勉強をやらされていることに気がついたりする。それで

「俺たちは、東大の教育学部の教授たちの『実験材料』なのではないか?」

と言うことに気がつくわけです。で、一般の公立高校とちょっと違う教育を受けさせられていることに気がつくわけです。昔なら、気がつかなかったのですが、パソコン通信やメーリングリストなんかで情報交換しているうちに、そういう大学の付属学校は、東大の附属高校だけでなく、全国にいっぱいあって、それらの高校の連中と情報交換するようになると、
「どうやら俺たちは、ちょっと違う教育を受けているらしい」
と気がついてしまうらしい。

 結局、その友人は、教育関係の世界に足を突っ込んで、真実を知るわけですが、やはり教育の実験校だったわけです。で、その実験で一番有名なのが『ゆとり教育』だったらしい。『ゆとり教育』は、皆さんも御存知のとおり大失敗だったわけですが、誰かの単なる思いつきで始めたわけではありません。著名な教育研究者が、いろいろな学校で、いろいろな角度で、膨大なデーター収集を行い、慎重に検証に検証を重ねて『ゆとり教育』の素晴らしさを発見していった結果、はじめて『ゆとり教育』を政策としてゴーサインになっている。

 それほど慎重に検証して政策にうつしても大失敗する。教育というのは、試行錯誤の連続です。非常に難しい。だから単なる思いつきで9月入学にされたら、たまったものではない。あの戦争中だって、そんな無茶はしてない。空襲で焼け野原になり、教科書もろくにない時代でも、今まで通り4月入学だったし、その時代の子供たちは立派に大人になって日本経済を牽引している。だから新型コロナウイルスを理由に教育改革されたらたまったもんじゃない。

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 9月入学にしたいなら、まず、そういう学校を東大あたりが作って、しばらく研究するべきなんです。各国立大学が、9月入学の学校と、4月入学の学校の両方を作って生徒を募集し、両者を比較研究すべきであり、9月入学の問題点を洗いだすべきでしょう。そして、その問題点を一ずつ解消していってはじめて、全国一斉に9月入学にしてもいいし、4月と9月の両方を認可してもいい。でないと現場が大混乱する。現にGotoキャンペーンも、持続化給付金も、現場は大混乱になっている。

 でも、Gotoキャンペーンの混乱くらいなら、宿屋が、文句の一つ二つを言うだけですみますよ。しかし教育の混乱は、それじゃあすまされない。子供たちの人生がかかっている。Gotoキャンペーンという、たかだか旅行ごときの小さな問題でさえ、これだけ混乱して批判を浴びているのに、もし9月入学を強行したら、どうなっていたか? 確実に政権は倒れていたと思います。

 何度も言いますが、一部の学校で9月入学を試験的に始めて見るのは良いと思っています。そういうシステムがあったら便利だとも思うし、浪人生にとっても朗報だし、多様性の観点からも好ましいと思う。しかし、何の検証も無く安易に、全国強制で9月入学にしたら恐ろしいことになる。そのように当時の私は思った。Gotoキャンペーン以上に、強烈なほころびが出ると考えた。

 だから、このブログでも、Facebookでも、検証に検証を重ねた『ゆとり教育』でさえ失敗してるのに、安易に9月入学にすべきではないと訴え続けました。もちろん、いろんな政治家・教育評論家のFacebookに書き込みまくりました。

 で、ある日、下村元文部大臣のFacebookで、秘書が「明日、テレビで9月入学を国民に訴える」と書いた。私は、文部大臣のFacebookの「友だち」にあたるので、厳重に抗議した。「はやまるな」と諫めたけれど、下村文部大臣のフォロワーたちは、脳天気に擁護論ばかり言う。「改革は今しか無い」とか、脳天気な発言ばかり言う。私は、憤慨したけれど、その3日後に政府は「9月入学は見送り」の宣言した。

 いったい何がおきたんだろう?驚いた私は、ネットで調べたらいくつかのサイトが検索に引っかかりました。


◆9月入学案はなぜ消えたのか?
https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00599/

◆9月入学、なぜ見送り?
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/39141.html

 これらのサイトに、どうして「9月入学」が見送りになったのか書いてあります。やはり、私のような人間が、必死になって地元議員に反対メールを送り続けていたのが大きかったらしい。その民意を酌んだ自民党の若手議員たちが、一斉に反対しだしたとのこと。


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 そして市区町村長の8割以上が「9月入学」に反対意見を表明。地方自治体では、感染対策でそれどころではなく、9月入学の議論をしている状況ではないとのこと。まあ、当たり前ですね。

 保護者からは、9月になった場合、小学校に入学するまでの間、保育園が預かってくれるのか?という疑問もあったらしい。なるほど保育園が3月で終わって、小学校が9月というわけにはいかない。

 そもそも移行期には1学年の児童・生徒の数が1.4倍になる。その年度だけ受験戦争が激化し、就職にも不利になる可能性がある。保護者が不安に思うのも無理はない。自民党議員に大量の反対のメールが届くわけです。それが作業部会で、若手議員による反対の大合唱になって、9月入学を引っ込めたらしい。

 文部科学省の官僚たちは、ホッとしたことでしょう。9月入学にすれば、家庭の追加負担の総額は2.5兆円にも上るとの試算がでている。保育所や幼稚園に通う期間も長くなり、待機児童がいっそう増えるし、予算の増額も必要になるし、保育士・幼稚園教諭の雇用も問題となる。増税の話もでてくるだろうけれど、その前に日本経済が沈没しかかってるのに、どうして9月入学うんぬん言えるのか。脳科学の視点から言っても、入学時期が遅れるのは、あまり良いことでは無い。むしろ入学を早めた方が良いくらいです。そういう意味では、最初から慎重姿勢だった萩生田文科相は、堅実な人だったと思いました。



つづく。

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2020年09月04日

七歳の息子に勉強を教えてみた感想 その4

 前回の続きです。

 今から振り返ればなんてことないことなんですが、今から半年ぐらい前、子をもつ親御さんたちに想像を絶する不安感が蔓延していました。

 新型コロナウイルスがで、2月頃に学校が休校になり、そのまま6月まで延々と休みが続き、6年生の卒業式にも出ることもなく、新1年生の入学式にも出ることもなく、学校からの宿題が出ることもなく、ただひたすらに新型コロナに怯える毎日が続く。そのうちマスコミで、9月入学式になるとかなんとか言い出して、何が何だかわからなくなり、学校に問い合わせても、教育委員会に問い合わせても、さっぱり要領の得ない返事しかもらえない。

 子を持つ親たちは、不安でしょうがなかったと思います。 現に、家に泊まりに来た親御さんたちも、この先どうなるんだろうかと、色々こぼしていました。そういう私も、一体どうなるんだろうかとお客さんと愚痴を言い合ってました。

 スーパーなどに食材を買いに行った時も、普段は挨拶程度でお別れする知り合いに、この先一体どうなるんだろうかと、込み入った話をするようになりました。子供達の勉強をどうすればいいんだろうかとか、教科書をもらってないけれど、2年生の勉強をどうやって始めればいいんだろうかとか、チャレンジタッチがいいらしいよとか、 z会がいいらしいよとか、学研がいいらしいとか、どこそこのタブレットは、 通信が混み合ってて使えないとか、そんな話で盛り上がっていました。

「で、佐藤さんのところはどうしてるの?」
「家は昔からチャレンジタッチなんだけれど、最近調子が悪い」
「やはり繋がらない?」
「うん。新型コロナで、みんなチャレンジに入っちゃってるのか、混雑してて通信に入れない。回線がパンクしてるんだと思う。だから諦めている。赤ペン先生に変えようかな」

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「ダメダメ。赤ペン先生は、採点が1ヶ月遅れになるって聞いたよ」
「新型コロナの影響かね?」
「そうだろうね。採点によってクラスター感染がおきないともかぎらないから」
「でも、かと言って、普通の問題集をやらせても、30分しかもたないしね」
「だよね。うちのも30分もすると気が散ってダメ」
「そうだよね。だから E テレを見せている」
「 E テレ ?」
「あれは使えるよ」
「本当?」

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  昔は、完璧に暗記するとか、完璧にマスターすることが良いとされていましたが、最近の脳科学の発達によって、 必ずしもそうではないということがいわれています。記憶に短期記憶と長期記憶というのがあって、短期間に集中的に勉強しても、それが短期記憶で終わってしまうのでは、かなり非能率な勉強だというのです。

 よく中間テストや期末テストで高得点を取れるのに、全国統一模試で今ひとつ伸びないと言う子供がいます。その逆もあって、中間テストや期末テストで良い点が取れないのに、全国統一テストで高得点を取れる人たちがいるわけです。そういう人たちの多くは、学校の勉強を真面目にコツコツやると言うタイトではなくて、教科書よりも読書や趣味に熱中する子供達だったりする。

 読書に熱中するということは、教科書よりも先の勉強する事なので、期末テストでは高得点は取れませんが、テスト範囲がない全国統一テストなんかでは、意外に健闘するわけです。これはつまり、趣味や読書で得た知識が長期記憶に残ってるからです。そういう子供は範囲のある試験には弱いけれど、試験範囲の無い統一模試には強かったりする。

 長期記憶というのは、短期間に詰め込んでも得られるものではなくて、何度も何度も繰り返し記憶することによって得られるものです。例えば、小学1年生が、小学6年生の教育テレビの番組を見たとします。もちろん完全に理解してるわけではない。でも薄ぼんやりと頭の中に入っていく。記憶のどこかに何かが残ってる可能性がある。もちろん全部忘れてもらっても構わない。忘れてもいいわけです。1年後の小学2年生になった時に、にたような番組を見た時に
「あれ、これはどこかで見たことがある気がする」
というぐらいで構わない。これを繰り返す事によって着実に長期記憶に変換していく。これの積み重ねが、あとで大きく響いていく。これが現在の脳科学者が良しとする勉強スタイルです。

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 ただし、これにはコツがあって、寝る前に楽しそうなEテレを見せるのが一番いい。記憶が定着しやすいからです。記憶系統の勉強は、就寝前にやるのがコツ。逆に謎解きなどじっくり思考する勉強は早朝にやると脳に良いと言われてます。なので学校でも数学を早い時間に、国語を遅い時間にしている私立学校もあると聞いてます。なので、 E テレの番組を見る場合は、寝る前がいい。昼間は登山なんかをさせ、新型コロナウイルスに対して抵抗力をつけさせる。そのうえで、そろそろ眠ろうかと言う時に、録画番組を見せて寝かせると効果があるという。

  このブログを読んでる人は分かると思いますが、うちの家族は、息子の小学校が休校中にスキーと登山ばっかりやっていました。本当なら勉強をさせるべきなんだろうけど、30分以上やらせても能率が上がらないので、2月末から毎日スキーです。スキー場が閑古鳥になっているせいか、地元のスーパーに格安になるバーコードのポスターが貼られて、それを使ってガンガン滑りに行きました。ヤフオクでは、新型コロナウイルスのせいで、スキーチケットが投げ売りされてましたから、それをかたっぱしから買いあさって、スキーに出かけました。

 そのために息子の上達が早すぎて、嫁さんは追いつけなくなり、慌てた嫁さんが転倒してしまい、むち打ち状態で滑れなくなってしまったくらいです。で、買いあさったチケットを、また投げ売りするはめになってしまった。

 仕方が無いので、スノーシューです。

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 このブログの3月から4月の記事を見れば分かりますが、スノーシュー三昧です。
 毎日毎日スノーショー。
 あまりにやり過ぎて、これじゃ読者も飽きるだろうと思って、
 記事にするのを控えました。
 けれど、実際には毎日のように、湯の丸山・烏帽子岳を登っていました。

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 その後、雪が溶け出したら登山。それも記事にするのは控え、登山以外のブログの記事にの冒頭に、4月・5月と毎日のように浅間山に登山してることを、ブログの冒頭でさらっとふれています。それも浅間山。小浅間山ではありません。浅間山です。残雪がありますから、最初は八合目まで。 それが九合目となり、そろそろ頂上かなという頃には、入り口がふさがれて別の山に変更。

 ところが各地の登山道の駐車場が、全て閉鎖されている。駐車できない。仕方が無いので、地元民しか知らない道を使って登山。そしてなぜか軽井沢の離山は、閉鎖されてなかったので、離山にも遠征に行くと、軽井沢地元民の親子に出会います。それも決まって同じ親子たちに出会う。どやら考えることは、みんな同じらしい。家族で免疫力のアップを狙っている。

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 その結果、これだけ鍛えれば、新型コロナで死ぬこともないだろう・・・となった頃に、学校から連絡がありました。
「通常の授業を始めます」
と。これは軽井沢でも同じだったらしく、軽井沢空手教室のご父兄や、ドッグラン仲間の親子達も喜んでいました。いつも離山(軽井沢)の登山道で、すれ違う親子たちも
「いよいよ軽井沢も学校が始まるね。よかったですね」
と嬉しそうに挨拶してきました。

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つづく。

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2020年09月03日

七歳の息子に勉強を教えてみた感想 その3

 前回の続きです。理科と社会について。

 小学校2年生では、理科と社会は学びません。生活という科目が、理科と社会の代わりになります。ではどうして、息子が3年生から勉強するべき理解と社会を勉強し始めたかと言うと、新型コロナウイルスと深い関わりがあります。

 今年の2月頃、新型コロナウイルスが深刻な問題になり 、学校が休校になってしまい、自宅学習をすることになりました。宿屋の方も、さっぱりお客さんが来なくなったので、暇を持て余してもしょうがないので、息子の勉強に付き合うことになります。

 ところが、息子の勉強に対する集中力がどうしても続きません。30分ぐらいしか続かない。もちろん強制的に2時間でも3時間でも勉強させようと思えば、させられますが、能率が極端に落ちる。3時間勉強させても、集中して30分勉強させるのと、同じくらいしか勉強が進まない。 なので、勉強は30分で切り上げることにしまし、その代わり集中して勉強させることにしました。問題はその後です 。本来、学校に行っていれば、1日6時間の勉強しているわけです。その6時間を家庭で、何もさせないというわけにもいかないと思い、教育テレビを見せることにしました。

 実は私は、子供の頃体が弱かったために、よく学校を休みました。自宅で寝ているとどうしても暇でしょうがないので、テレビをつけるわけですが、昼間テレビをつけたとしても、子供が見るような番組はやっていません。唯一子供向けに作られている番組が、 NHK の教育テレビです。私は小学校の1年生の時に、肺炎になって一か月近く自宅で寝込んでいたことがあったんですが、その時に好んで見た番組が、教育テレビの番組でした。1年生でしたが、3年理科とか、4年社会とか、上級生の番組をとても面白く見ていました 。


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ベーシックサイエンス・中学高校の物理ですが、小学校2年生でも分かる番組


 その時の体験から、息子が生まれた時に、将来、息子が長期入院でもすることがあった場合に、必ず必要になると思っていたので、6年間にわたって、教育テレビの番組を大量に録画していました。

 教育テレビ。いわゆる E テレですが、実は大変面白い番組がたくさんあります。小学生や中学生向きの番組でも、大人が見ても問題なく面白いものが大量にあるのです。そういう意味で、 E テレは、総合放送なんかよりも10倍面白い番組です。

 ところが、 E テレの番組は 、3年か4年おきに全面的に改正されます。良い方に改正されることもありますが、改悪されることもあります。その時代その時代に売れていた歌手や役者を使うので、はずれ番組が出来上がることもあるし、頭のおかしい番組制作スタッフが担当することもあるので、とんでもない番組が出来上がることもあります。なので油断ができません。それで7年も前から、つまり息子が生まれた直後から、大量の E テレの番組を録画してきました。それが新型コロナウイルスという大事件によって、長期間学校が休校になってしまって、大変役に立つことになったのですね。

 息子が生まれた直後から、こんな準備をしていた親も珍しいでしょう。けれど、私が子供の頃に病弱だったからこそ思いついたことです。実際私は、6歳の時に1ヶ月以上にわたって自宅で寝込んでいた体験があります。その時の体験を思うと、教育番組は子供にとって最大の娯楽なのです。


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言葉ドリル・コントや漫才で国語の勉強をさせる番組


 もう一つ言うと、勉強もある意味、娯楽の部分がありますから、それを絶たれると、非常に苦しい。これは経験者じゃないと分かりにくいかもしれませんが、本来子供というものは 、勉強が楽しい。6歳から10歳ぐらいまでは、知識欲の塊で、それを長期間絶たれると苦しくなるのです。ソースは私です。私の体験から言わせて頂いています。

 長期間学校に行くということを断たれてしまうと、やることがないために苦しくなって自宅にある本を読んだりするわけですが、小学校に入学して3ヶ月ぐらいしか経ってないために、難しい漢字ばかりで読めなかったりする。かといって 、子供の読むようなものがあるわけでもないし、昼間やってるテレビを見ても、6歳児には何が何だかさっぱりわからない。唯一分かるのが、教育テレビの番組だったわけです。これに私は大いに救われたのです。

 なので、新型コロナウイルスによって学校が休校になって、長期間休みになったので、今まで大量に録画してあった E テレの番組を片っ端から息子に見せました。案の定、息子はどはまりして、 E テレの虜になりました。 E テレは、E テレで、コロナ対策用にフライデーモーニングスクールと言う特別番組を放送していましたので、これも大いに利用させてもらいました。

 国語だと『お伝と伝じろう』『ことばドリル』『ひょうたんから言葉』『わかる国語』が名作でしたね。特に『お伝と伝じろう』は、嫁さんの方もはまってしまい、エンディングのテーマ曲を歌いながら一緒に踊るくらいです。 『ことばドリル』にとっては、教育番組なのか、漫才番組なのか分からないような作りになっていますから、息子の声がテレビの前でゲラゲラゲラゲラと笑い声が絶えませんでした。


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 お伝と伝じろう・1話からみたら病み付きになる
 嫁さんが、登場する役者(レ・ロマネスク)のファンになってしまった(←なんちゅう趣味してるんだ ↓ )




  算数にも面白い番組があります。『さんすう犬ワン』『さんすう刑事0』という番組が面白いですが、『マイテカ2』『お悩み解決ベーシック数学』も面白く、息子も楽しそうに見ていました。『お悩み解決ベーシック数学』は、高校生が対象なんですが、小学生がみても楽しめるようになっています。


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 刑事ドラマ。算数で解決するシリーズ。
 にたような番組に『ベーシック数学』があり、こちらは探偵が数学を使って事件を解決。


 そして理科ですが、理科になると E テレの本領発揮です。いくらでも番組があります。一番の名作は『考えるカラス』『ベーシックサイエンス』『スイエンサー』です。両方とも中学高校 を対象とした番組ですが、むしろ小学生の方が楽しめる番組かもしれません。逆に小学生を対象とした『ふしぎエンドレス』 『ふしぎがいっぱい』は、息子には不評でした。 他にも『大科学実験』といった番組などがたくさんあるのですが、結局、それらの番組で行われている数々の実験の画像が同じ実験映像の使い回しなので、番組の形が変わっていても中身が一緒で、その辺は息子に見破られてしまい飽きられていました。


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 考えるカラス・名作中の名作。
 ある程度、物理を知ってる人間の意表を突くところが凄い。


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 スイエンサー・東大生や京大生を高校生モデルがぶちのめす爽快さが面白かった。
 初期の頃は、モデルでは無くAKBが主役だったが、AKBに人気がでて高校生モデルと交代になっている。


 そして社会。 E テレの社会の番組は、一番トチ狂っています。 その最たるものが、昔話裁判です。昔話裁判というのは、三匹の子豚の子豚たちが、 被告となって狼に裁判所に訴えられるという話で、非常に楽しい番組になっています。 この番組を見て、私が50年以上前に、病気で寝込みながら見ていた NHK 教育テレビの番組を思い出しました。やはり裁判の番組で、自然数という主人公と、分数という主人公が、現れて、お互いに、どちらの数が多いかと言うことを主張しあって、裁判をするという番組です。まるで宮沢賢治の『どんぐりと山猫』を思い出すようなシュールな裁判劇でした。他にも『こどものための哲学』『時々迷迷』なども秀作で、息子がドはまりしました。


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 昔話裁判・裁判形式の教育テレビは、私の子供の頃(50年前)も多かった。


 これらのE テレの番組が大量にあったので、新型コロナで学校の休みが続いても全く困りませんでした。と言うか、学校のお休みが終わるまでに、全てを見ることができなかったくらいです。

 そして学校が再開した時に、恐ろしい現実が訪れます。再開してすぐに行われたのが、健康診断だったんですが、その診断の結果、息子の視力が大幅に低下していたのです。息子はテレビを見ることによって、貪欲に知識を吸収することによって、大人が読むような科学雑誌をむさぼるように読むようになったんですが、その代償に視力低下がおこり、眼鏡が必要になるほどになってしまったのは皮肉なことです。

 それはともかくとして、理科と社会に非常に興味を持った息子は、自分から進んで理科と社会の勉強するようになりました。そして学んだ成果は、宿に泊まりに来るお客さんのお子さんに対して発揮されています。

 3年生になってから習うはずの社会を勉強した結果、やたらと自作の地図(近所)を作るようになったんですが、地図作り面白くなったのか、そのうち宝の地図を作るようになり、お客さんのお子さんに渡して、宝物を探させるようになりました。宝物と言っても、キャンディーとかチョコレートの類なんですが、社会を習ってもない小さなお子さんに地図が読めるわけもなく、宝物はあちこちに放置されたままになり、それを回収するの手間が増えてしまい、親としては複雑な気持ちです。また、いろんな実験をされてしまって、台所がぐちゃぐちゃになったり、いろんなものがなくなったりして、今は酷い目に遭っています。



つづく。

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2020年09月01日

七歳の息子に勉強を教えてみた感想 その2

 前回の続きです。算数について。

 受験勉強をしたことがある人なら分かるかと思いますが、数学は暗記問題です。問題の解き方のパターンをたくさん覚えてるほうが高得点を取れる。だから、息子が頭を抱えていたら、どんどん解き方を教えました。ヒントもたくさん教えたし、場合によっては、回答を教えてから問題を解かせたりした。数学が苦手なうちの嫁さんは不思議そうに眺めていました。
「算数は暗記問題だから」
と言ってもピンとこないみたいです。

 例えば、25+15という問題があったばあい、5+5=10になることを暗記している場合と、そこの計算から指をおって数える場合とでは、大きな差になります。どんな計算も問題も、ある程度の暗記が無かったら不利です。中学生になれば、この差は圧倒的です。だから問題を解いた数だけ有利になる。
「この問題は、どこかで見たことがある」

「初めて見る問題だ」
では、大きな差が出来てしまう。数学が暗記問題だというのは、そういうことです。実際、私たち大人は、5+5をいちいち計算しません。計算しなくても答えを知っている。暗記しているからです。だから息子に算数を教える場合、率先して答えを教えて問題を解かせ、かわりに問題数を多くやらせました。

 そして、ここが国語と違う所なんですが、算数の場合、解き方のコツがある。

 例えば、7+2の問題が出たとします。その答えを書いた後に、他の問題をズラリと眺めて、2+7の問題が無いか調べます。もしあったらラッキー。7+2も2+7も答えは同じだからです。その次に、7+3の問題があるかどうか調べさせたりする。その次は、7+4を調べさせる。こういう解き方を教えることによって、アッというまに問題を終わらせることを教えたりする。

 算数(数学)は、解き方によって短時間に問題を大量に解ける。そういう技術があることを息子に教えます。短時間で解ければ、同じ時間内に、多くの問題がやれるので、足し算を暗記できるようになる。暗算能力が上がる。これは他の計算でも同じで、中学時代に私は数学の先生から、多くのコツを叩き込まれていましたから、息子にも同じように教えていたわけです。

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 話は変わりますが、息子は、毎週木曜日に空手教室に通ってます。嬬恋村の改善センターで16時から18時まで2時間、空手を習っています。そして、18時から19時までは、同じ場所でキックボクシングを習っています。家に帰るのは、19時30分。それから夕食をとって風呂に入ったら21時ちかくなるので宿題が出来なくなる。学校が終わるのが15時30分。なので、空手教室が始まる前の30分間に宿題をやらせるしかありません。

 そこで、私が学校まで迎えに行って、空手教室に直行し、大急ぎで宿題をやらせました。何しろ30分しかないので、 宿題が早く終わるように、どんどん答えを教えたし、 早く終わらせるコツどんどん伝授しました。

 そんなことを続けていると、 空手教室に通っている他の子供達も真似して一緒に宿題をやるようになります。その子達は、17時には 空手が終わって自宅に帰るので、あえて空手教室の場所で宿題をやる必要はないんですが、うちの息子がやっているのを見ると、なんとなくやりたくなってしまうようで、今では上級生も含めてほぼ全員が、空手教室の前の体育館で熱心に宿題をやっています。空手教室には、車がないと行くことができないので、他のお子さんの、お父さんやお母さんもそばで見ている。今では、そんな光景が当たり前になっています。

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 この場面で面白いことが起こりました。私が息子に対して解き方のコツをどんどん教えていると、他の子供達が「ずるい」とか 、「そんなことしていいの?」と言ってくるのです。 そういう子どもたちのご両親は、自分の子供に絶対に回答をしていませんし、解き方も教えません。自分で考えさせます。どんなに遅くなっても、どんなに非能率でも、自分で考えるようにさせています。

 よくよく考えてみたら、これが自然の姿なのかもしれません。それが勉強の自然な姿に思えてきました。 この方が、思考力が向上するかもしれない。たとえ遠回りでも、大人になってから応用の利く人間になるかもしれない。

 逆にいうと私が息子に教えている算数こそ邪道にみえてきた。本来、勉強は、そうあるべきなんじゃないかと。 なので私もちょっと考えがぐらついたりもしたんですが、その時に思い出したのは、25年前にあったアマチュア無線の免許合格事件です。

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 実は私は、『風のたより』という旅の団体のようなものを作ったことがありまして、多い時には、全国に1000人ぐらいの仲間がいたのですが、その人たちと、全国の山々を登山ばかりしていました。それで登山が、だんだん過激になったのと、所帯が大きくなったこともあって、万が一のために、みんなでアマチュア無線の免許を取ろうと、一斉に試験を受けたことがあります。便利なスマホがまだなかった時代のことです。

 その時に、一発でアマチュア無線の免許を取れた人と、全く取れなかった人の差がありました。一発でアマチュア免許とった人は、全員が、事前に過去問題集を2・3回やって、過去問題を暗記した人達です。逆に、免許が取れなかった人たちは、参考書で内容を深く理解しようとした人達です。

 試験を受けた人たちは、みんな知能指数が高くて頭のいい人達であり、高学歴でもあり、一流企業に勤めていた人たちなので、明らかに合格不合格の差は、勉強方法の差でした。参考書を理解しようとした人たちがみんな落っこちて、無理に理解しようとせずに、一夜漬けで過去問題をやった人達は全員合格していた。

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 実は、アマチュア無線というのは、中学生ぐらいでも取れる免許です。しかし、そういう免許も、過去問題をやらずに、ひたすら参考書ばかりやっていたら、受かるものも受からない。

 もっと分かりやすく言うと、自動車免許のペーパーテストを思い出すといいかもしれません。あれも、過去問題をやってなければ、合格は難しいけれど、過去問題さえやっていれば、誰もが一発合格します。参考書だけでは合格は難しい。

 それを考えると、小学2年生の息子に、自分で考えさせる勉強がいいのか、数多くの問題パターンを体験させてやるのがいいのか、非常に迷うところでもあります。私は悩みに悩んだわけですが、息子に理科と社会を教えるうちに、ある結論がでてきた・・・。

 長くなったので、ここらで終わりにします。この続きは、後日に。


つづく。

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2020年08月31日

七歳の息子に勉強を教えてみた感想 その1

 息子が小学校に入学してから一年六ヶ月になった。ただし、そのうち五ヶ月は、新型コロナウイルスのために、ほとんど登校してない。もちろん宿も閑古鳥が鳴いているので、暇をもてあましているので結果として息子の勉強をみることになる。小学校二年生の勉強を教えることになる。で、小学校二年生の勉強を教えてみた感想を述べてみたい。

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 まず国語について。

1.漢字に対する誤解

 教科書で、1年生は80の漢字。二年生は、160の漢字を習うことになっている。あわせて240なので、これは簡単なことだと思っていた。実際、240の漢字を覚えるのは、そう難しくは無い。しかし、勉強を教えていくうちに、それではダメだということに気がついた。当たり前と言えば、当たり前のことだが、漢字には組み合わせがあり、組み合わせによって熟語になりうる。つまり、覚える数は240ではなく、500にも1000にもなりうるのだ。外国人が、日本語に苦戦するのは、あたりまえである。「通」と「行」だと2つ覚えるだけだけれど、この二つを習うと「通行」と言う文字も覚えなければならない。

 あと「人」という漢字はすぐに覚えるし、「間」という漢字も簡単だけれど、これを合わせると「人間」になる。では、「人」と「人間」の違いは何か?と息子に問われると、一瞬、ぐっと詰まってしまう。

 実は、この質問は、私も50年以上前に、私が小学生2年生の時に、学校の先生に同じ質問をしている。で、その時の先生の答えは、
「間(ま)が抜けているのが『人』なんだよ」
というものだった。

 禅問答のような珍妙奇妙な回答だったので、今でもハッキリ覚えている。もちろん私は、息子にそんな珍妙な回答を息子にはしてない。かといって「人間」という文字が仏教用語で、「世間」とか「人の世」という意味からきていると7歳の息子に説明しても分からないので、こういう難しい解説もしてない。

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 「原」という字についても質問されて答えに詰まったことがある。「野原」と「高原」で、どうして野原の原は「はら」とよぶのに、高原の原は「げん」なの? と聞かれ、音読みと訓読みの違いと歴史的背景を説明する気にはなれない。息子の理解の範疇を超えてしまうからだ。

 その点、嫁さんは偉いと思う。どんな難しい用語を使ってでも息子に説明してしまうからだ。私と違って嫁さんは、息子を対等に扱っているのだが、息子が嫁さんの言葉を理解しているかどうかは、はなはだ怪しい。

 嫁さんは、息子に音読み言葉を使って説明し、私は息子に大和言葉(訓読み言葉)で説明しているのだが、大和言葉(訓読み言葉)で説明するのは、本当に難しい。途中で投げ出したくなることが何度もあった。

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2.漢字に対する理解の仕方の違い

 そう言えば、団塊の第2世代の嫁さん(オイルショック生まれ)と、昭和36年生まれの私では、漢字に対する理解の仕方が違っていた。10歳年下の嫁さんは、機械的に漢字を覚えていた。それが私には衝撃だった。つい最近まで、うちの嫁は、天然のおバカだと思っていたが、実は、とんでもなく頭が良いことに気がついた。

 息子に漢字を教えていると、背後から嫁さんが非常に感心している。息子よりも私の講義を一生懸命に聴いているのだ。最初は
「なんだ?こいつ?」
「変な奴だなあ」
と思って、最初はウザいと感じていた。

 例えば、息子に「時」という字を教える場合には
「大昔は、時計がなかったんだ。それだと不便だから、お寺の人が、お日さま(太陽)の角度から時間を推定して、鐘をならして皆に時間を教えていたんだ。だから『時(とき)』という字は、『日』と『寺』からできてるんだよ」
と、大昔に私が国語教師から教わったように、息子に説明すると、嫁さんが盛んに感心して感嘆の声をあげる。

 変だなと思った私が、嫁さんに「お前は、時という字をどうやって覚えたの?」と聞くと、機械的に何度もノートに書いて覚えたという。それには驚愕した。そんな芸当は、私にはとても無理である。機械的に漢字を覚えるなんて絶対に無理だ。十歳の年齢差で、こうも教わり方が違っているのだろうか?と驚いてしまった。

 嫁さんは団塊の第二世代なので、私の時代(昭和36年生まれ)の丁寧な教わり方とは、だいぶ違っているみたいなのだ。聞けば、嫁さんの小学校は11クラスもあったらしく、それでも子供の人数が増えすぎて困ったために、新しく学校を作って、生徒を2分割したという。逆に私の場合は、団塊世代と第二団塊世代の中間にあたり、子供が減っていた丙午(ひのえうま)世代に近いために、丁寧な教育を受けられる土壌があったと思う。そのうえ旧漢字表記世代の先生が少なからずいた。

 なので私が子供の頃は、漢字を機械的に教わってない。かならず意味づけで覚えた。だから月偏と肉月偏は、かなり厳格に習っている。漢字テストで「胃」「脈」「腹」「脳」といった漢字が出たら、神経質になって「とめはね」に気をつかったものだ。でも、令和時代では、両方とも「月」にしか見えないフォントになっている。かろうじて肉月偏の面影を残しているのは「胃」ぐらいしかない。「脈」「腹」「脳」も、普通の月偏にしか見えない。肉の簡略文字に見えない。いつから、こんなフォントになったのか? 私が、小学校時代に、さんざん苦杯を味わった「とめはね」の間違いは、いったい何だったのか?

 午前とか午後という漢字にしても、まず「午の刻(12時)」から習った。

「午(うま)」には、角が無いだろう? だから「午(うま)」なんだ。牛には角があるだろ?だから「牛(うし)」と書くんだよ・・・と教えられた。もちろん牛の刻(午前2時)も習っているし、丑の時参り(うしのこくまいり)とか、落語にでてくる
「草木も眠る丑三つ時(うしみつどき・2時半のこと)」
という言葉なんかも習っています。

 ここまで習った上で、午前・午後の漢字を教わっている。だから漢字を機械的に覚えるという発想がなかった。そもそも機械的に覚えられるものなんだろうか?と思うのだが、嫁さんは機械的にしか習ってない。ノートに何度も何度も書いて覚えたという。これが本当なら、うちの嫁さんの頭脳は凄い。

 どうりで英語が得意なわけだ。あの分厚い「指輪物語」の原書を英語でスラスラと読んで楽しむことができるのは、こういう背景があったからできるようになったのかもしれない。団塊の第二世代の嫁さんは、小さい頃から漢字を機械的に暗記することによって、脳が鍛えられ、その結果、語学の才能が開花したのかもしれない。逆に言うと私は、ズルして楽に漢字を学んだから、それが後々まで響いて語学が苦手になったのかもしれない。とにかく私の覚え方が、嫁さんの覚え方と、根本的に違っていた。

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3.昭和の頃の国語の授業スタイル

 おまけに私に教えた昭和時代の先生たちときたら、授業の大半が漢字練習だった。テストも漢字さえできていれば、70点は確保できた。漢字が一番の得点源だった。そして教師は、漢字を覚えさせるために「漢字」を使った対戦ゲームをさせていた。

 大相撲の番付表をつけて、毎日行われる5分程度の早朝の小テストによって対戦させ、その勝率によって、前頭何枚目とか、関脇とか、大関とかに昇格するシステムをつくって、みんなを一喜一憂させ、子供たちに漢字練習に熱中させた。成績下位の人間は、下位どうしで戦って、前頭の順位を争った。

 頭の良い奴も、頭の良い奴と戦うので、黒星をもらって、横綱から関脇によく落ちた。それを15日にわたって行い、3週間後に「勝ち越し・負け越し」の表を貼りだして、新しい番付表を教室に貼りだした。今と違って当時の子供たちは相撲に熱中していた。そういう時代ならではの国語教育だったと思う。令和時代に、こんな授業をやったら確実に問題になっただろう。思えば、昭和時代はノンビリしていた。

 長くなったので、ここらで終わりにします。この続きは、後日に。


つづく。

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2020年08月26日

つまごいスポカルの空手教室・キックボクシング教室

 息子のクラスには、幼稚園時代から乱暴な子供たちが大勢いました。運動会では男の子たちが乱闘してたし、年長組の時の担任の先生は、こんなに乱暴なクラスを見たことがないと言ってました。キレやすい男の子が多すぎるというのです。

 それを憂いて、幼稚園の担任の先生は、「息子さんはもっと強くならなければ駄目だ」とアドバイスできました。反撃できる力がないと駄目だと言う。人口の少ない嬬恋村では、小中学校卒業するまでクラス替えがなくて続いてしまう。

 それはもっともだと思った私は、息子を強くするために、相撲かレスリングか柔道をやらそうと思って、あちこち探したんですが、見つかりませんでした。幼稚園の先生に聞いてもわからないと言います。手っ取り早く強くなるには、相撲が一番なんですが、相撲を教える教室は、近くにはなかった。レスリングも柔道も見つからなかった。かろうじて見つかったのが、空手教室で、軽井沢の風越体育館の主催事業として「空手と礼儀教室」というのがあり、そこに応募しました。

 その教室は、東真会という極真会系列のフルコンタクト空手だったんですが、そこの先生は、子供のうちは、体作りを一番とするために、空手を教えるというより、ドッジボールやっサッカーゲームであそばせることをメインとしていて、空手を基礎からじっくり学ぶというスタイルではありません。どちらかと言うと、スポーツを通して体を鍛え上げるのがメインです。

 これは、これで素晴らしいことなので、1年間にわたって皆勤賞で練習参加させましたけれど、これではなかなか強くならないなぁと思った私は、他の空手教室を探し、嬬恋村にも空手教室があることに気がつき、そこにも入門させました。その空手教室は、つまごいスポカル所属の峯心会という組織なのですが、その大島先生の教え方が、東真会の鈴木先生の教え方と全く違っているので、非常に面白く思いました。

 東真会では、基本を詳しく教えることはありません。
 ところが大島先生は、非常に詳しく教えます。
 子供達に分かるかどうかは別として、理論もきっちりと教えます。
 それから 柔軟運動を非常に重視します。

 この違いは何だろう?と、インターネットで調べてみたら、大島先生は過去にキックボクサーとして全日本フライ級4位まで勝ち上がり、もう少しでチャンピオン戦に挑戦するはずだったのですが、怪我で断念。その後に、指導者として活躍し、ムエタイ(キックボクシング)の女子世界チャンピオンまで育て上げ、自分の息子をムエタイ(キックボクシング)の世界大会で銀メダルをとらすなど、色々活躍していたことがわかりました。 そして「武道教育の実践」という本をみつけ、何人もの空手家たちが文章を書いており、そこに大島先生の著述があることを発見し、それを拝読したのですが、これがとても面白かった。

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 大島先生の著述は、実体験を淡々と語ることからはじまります。それらは失敗の連続と、無知から来る怪我に悩まされた体験が、淡々と述べられています。『空手バカ一代』のような武勇伝を自慢する話は、一ミリも無く、無知から来る練習による怪我の怖さを淡々と述べている。

 小学生の頃にきちんとした指導員がいないにも関わらず、非常に危険なボクシングの練習をして、医者にかかるはめになったことや、空手で複雑骨折して1年間練習できなかったことや、チャンピオン戦目前に2回階級上の大きな選手と練習した結果、椎間板ヘルニアになって、現役を引退せざるを得なかったことなど・・・。これらの体験から、怪我に対するリスクをかなり重要視して練習にとりいれたと書いてあります。なので基本練習や柔軟運動をみっちりやるようになったようです。

 こういう先生ですから、小さな子供。それも幼児が空手を習うなら大島先生が一番の適任に思えてきました。確かに大島先生は子供に優しい。優しすぎるくらいに優しい。そのへんが不満に思えるほどです。ただし顔はいかつい。顔はいかついんですが、 非常に優しい。私が知っている空手の先生の中で1番優しい先生かもしれません。

 その上、月謝が1ヶ月で2000円と非常に安い。軽井沢近辺の空手教室は、どの道場でも月謝が安いんですが、その中でも大島先生の所が一番安い。今から30年前、私は東京でカラテ道場に通ったことがあるんですが、その頃東京では、どの道場でも1万円近くかかりましたから、かなり安い。ムエタイ(キックボクシング)の世界チャンピオンを育てたことのある先生の値段ではありません。これが嬬恋村の住民たちに、それが伝わってるかどうかわかりません。

 まあそんなことどうでもいいとして、その大島先生のところで、2年ばかり空手の練習をさせたわけですが、それで息子が強くなったかと言うと、いまいちです。練習の割には強くなってない気がします。そこで、 大島先生の空手教室ではなくて、キックボクシング教室に入れてみましたら、これが非常によかった。息子の体力がどんどんついていくのが目に見えて分かったからです。考えてみたら大島先生は、ムエタイと言うか、キックボクシングの先生が本業だったわけで、世界チャンピオンを育てているわけですから、キックボクシングの教え方の方が、上手くて当たり前なわけです。

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 で、その大島先生が本を出したというので、買って読んだのですが、「武道教育の実践」と同じようなことが書いてあった。武勇伝とか、世界チャンピオンを育てた話とか、ベトナムで空手のタネを蒔いた話とか、キックボクシング界のことを書いてあっても良さそうなのに、全く書いてない。勇ましいことや、過去の栄光は何も書いてない。イジメ相談室もやっていたのに何もふれてない。自分の生い立ちと、失敗体験と、怪我について書いてある。格闘家らしくないというか、健康と怪我について淡々と書いてあるところが、大島先生らしい。こういう先生だと安心して子供を任せられると思った私は、今では、全部先生にまかせっきりにしています。


つづく。

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2020年08月25日

東信会の軽井沢空手教室

 今日も涼しい一日。朝晩は寒いくらいです。ちなみに息子は、今日からスケート部の陸上練習に参加するようになりました。去年は、全く参加できませんでしたが、今年は火曜日にやっていた軽井沢の空手教室に参加できなくなったために 、代わりに嬬恋東部小学校のスケート部の陸上練習に参加するようになったのです。

 軽井沢の空手教室(東信会)は、フルコンタクト系空手(元極真会)で、毎年のように極真空手の大会にエントリーして、それなりの実績を出す硬派な空手組織ですが、なのに小学生の空手教室では、空手よりもサッカーやドッジボールといったゲームばかりやっています。東信会の鈴木先生の考えは「子供は、まず体をつくるべき」というもので、空手より運動神経の向上をメインに変則サッカーゲームをさせています。変則サッカーゲームで、いつのまにか夢中になって走らされるのです。

 空手もあまり基礎練習をしません。専らパンチングミットを叩くなど、キックボクシング系統の練習が多く、いきなり本気で殴る蹴るの打撃の組み手を行います。もちろん先輩は、さばいてばかりですが、同輩どうしは本気でやりあいます。正座も体に悪いからと、最小限しかやりません。とにかく動かされる。そういう空手教室なので、息子は、この教室が大好きでした。

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 息子はこの空手教室がいたく気に入って、毎週火曜日が待ち遠しいぐらいに喜んで通っていました。なので、ずっと休みなく練習に参加して皆勤賞をとっていたぐらいです。ところが新型コロナウイルスによって、 空手教室が3ヶ月ほど中止になったのです。それでも6月には再開され、うちもそろそろ参加しようかなーと思っていたら、軽井沢で新型コロナウイルスの患者が次々と出たことによって、空手教室への参加を控えました。うちの息子を感染のリスクから守る必要があったからです。で、今日まで空手教室復帰が延び延びになってしまいました。

 しかし、これでは息子の体が鈍って仕方がないので、しばらくの間、軽井沢の空手教室はお休みにして、同じ火曜日にやっている小学校のスケート部の陸上練習に参加することにしました。その第1日目が、今日だったわけです。

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  で、息子が陸上練習から帰ってくるなり、嬉しそうに
「1000 Mマラソンで2位だったよ」
と言ってきました。2年生の中で、二番目に早かったそうです。1位は、去年のマラソン大会で大会新記録を作った女の子だったそうで、その子には勝てなかったようですが、 2位なら立派なものです。なぜならば、幼稚園時代はビリが定位置だったからです。

 息子は3月26日生まれなので、 どうしても運動能力に劣ります。幼稚園の年少組の時の3月生まれのハンデは大きかったと思います。それは年中組の時でも同じで、年長組になるとさらに差が大きく開いたような感じがしました。 息子お風呂の中で、私に
「足が速くなる薬はないの?」
と聞いてきたり、他の子供達とかけっこをするのを露骨に嫌がったりしました。

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  申し訳ないと思った私は、最低でも週に1回は息子に走る練習をさせ、東信会の軽井沢空手教室に参加したんですが、その成果が、 1年後の今になって、少しずつ出てきたようです。少なくともビリから脱出できた。一緒に走った仲間たちは、幼稚園時代から空手教室などで一緒に練習してきた子供達で、幼稚園時代では、一度だって勝てない相手だったんですよね。

 と言うか、勝つ以前に、勝負にならない相手だった。息子は一緒に走るのを嫌がって、走ろうとしなかった。なので、私は息子以外の子供たちの駈けっこの審判ばかりやっていた。息子は、それを一人でポツンと眺めていた。その頃を思えば、大きく成長したと思います。努力は自分を裏切らないというのは本当です。

 

つづく。

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2020年08月12日

息子の速読体験

 お盆真っ最中ですが、息子の夏休みは、もう終わりになります。お盆明けが新学期だからです。相変わらず自由研究はなにもできていません。勝手に研究して、つまりEテレの番組を真似して再現実験をして、勝手に自己満足しているだけです。困ったものです。ちなみに、今年は読書の宿題が出なかったので、マンガばかり読んでいます。ドラえもんをはじめとして、最近はマンガ日本史にはまりました。

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 あまり熱心に読むので、ヤフオクで、朝日ジュニアシリーズの『かがくる』を100冊。朝日ジュニアシリーズの『週刊なぞとき』を100冊。『週刊名将の決断』を100冊。『週刊 そーなんだ!』を100冊。これらの科学マンガ雑誌・社会科マンガ雑誌などを格安(1冊あたり20円くらい)で落札し、息子に与えると、息子の奴は、これを貪るように読みはじめました。マンガですから、読むのが早いこと早いこと。

 文字より絵の方が圧倒的に情報入力が早いです。
 ガンガン読んでいる。

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 これはアルファベットより、漢字の入った仮名交じり文の方が、情報インプットが早いのと同じで、文字だけの児童文学より絵本の方が、情報のインプットが早い。絵があった方が本を早く読み終わることを、息子の幼稚園時代に実験して知っていたので、絵本をヤフオクで大量に買ったこともありました。大量購入なので1冊10円くらいで買えてしまう。それらを息子に与えると、すごい勢いで読んでいく。情報のインプットが、文字ばかりの本より早いからです。

 もちろんマンガの方が、情報インプットがもっと早い。
 文字だけの情報よりも10倍は速い。
 ただし、理解できているかというと、そういうわけではない。
 インプットが早すぎると、理解する前に、情報が頭の中を通り過ぎていくようです。

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 でも、今は、それで良いと思っています。理解できなくても、将来、勉強でぶち当たったときに
「あれ? これは何処かで聞いたことがあるな?」
という思い出しがあれば、そのときに問題に対して『なめてかかれる力』を得られるからです。

 それにしても子供というやつは、ほんとにマンガが好きですね。マンガであれば、何でも読んでしまいますから。



つづく。

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2020年08月10日

Eテレにはまっている息子

 蓋を開けてみたら今年のお盆は、リピーターさんばかりでしたね。そうでない場合でも、非常事態宣言でゴールデンウィークの宿泊をキャンセルしてもらった御客様が、代わりにお盆に泊まりに来てくれたケースが多かったです。みんな子連れのファミリー客です。これには息子も大喜び。一緒に愛犬コロの散歩にでかけたり、ゲームして遊んだりです。

 で、ふと気がついたら、小学校2年生の息子の奴は、夏休みの宿題をやってないことに気がつき、大急ぎでやらせました。で、調べてみたら今年の夏休みの宿題は、たったの2つ。問題集一冊と、自由研究のみです。問題集は、1日で終わらせましたが、問題は自由研究です。息子は好奇心が強いので、いろんな自由研究をするのですが、記録にとらない。自分で納得して終わってしまう。つまり宿題が完成しない。



 実は、息子は大のEテレ好きで、『考えるカラス』とか『大科学実験』とか『ベーシックサイエンス』が大好きで、特に『ベーシックサイエンス』にはまっています。なので、その番組を参考に実験したりするのですが、番組自体が中学生・高校生向きなので、基礎知識が無いために、せっかく実験しても、記録におこせない。というか、記録をとるという発想が無い。『考えるカラス』の実験を再現しても、基礎知識が無いために、なぜ、そうなるかという発想が出てこない。再現実験して終わりになります。

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 私が手伝って助言してやれば、いいんですが、それじゃ宿題にならないし、そもそも忙しくて、それどころではない。せいぜい実験道具を買ってあげるくらいしかできない。これでは、いつまでたっても宿題が終わらないので、最近は、「ミニトマトの観察日記なしたら」とか「模型工作にしたら」と勧めていますが、あまり興味なさそうなので困ってます。

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 いくら再現実験しても、その先(記録と結論)が無かったら意味は無いのだけれど、好奇心には勝てないみたいですね。


つづく。

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2020年08月04日

7歳の息子からもらった手紙

 私の誕生日は7月28日です。7月28日といえば、避暑地の宿で一番忙しい時期です。なので、誕生日を祝ってもらうようなことが、全くと言っていいほどありませんでした。それどころではないからです。ところが新型コロナウイルスで、お客さんが来なくなってしまいました。

 宿は閑古鳥が鳴いてしまっているし、愛郷群馬キャンペーンで、群馬県民なら5000円のキャッシュバックで宿に泊まれるということになっているので、ちょうど私の誕生日でもあるし、勉強も兼ねて草津温泉でも泊まりに行こうかという話になりました。

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 で、草津の温泉ホテルに二泊して、息子は草津温泉ホテルから学校に通うことになったんですが、 まず最初にコンビニに立ち寄りました。 こういう時に我が家では、息子に300円の小遣いを与えます。昔から、と言うか、昭和時代の遠足の時から、おやつは300円以内と、相場が決まっているので、どこかに出かける時には、息子に300円のおやつ代を与えています。300円で好きなものを買っていいことになっています。

 なので、 息子はそのお金でおやつを買って、ハイキングや登山の休憩時間に、おやつを食べているわけです。今回は、温泉旅行でしたが、やはり300円を渡して、 おやつを買いに行かせました。 自分で おやつを買うことによって、金銭の勉強させるためです。また、計画的にお金を使うことを覚えさせるためでもあります。300円を全額使わずに、100円だけ使って、残りを貯金してもいいわけです。

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 まあそんなことはどうでもいいとして、息子のやつは、旅行中に全くおやつを食べようとしません。 今回は貯金でもしてるのかなーと、大して気にもせずにいましたが、旅行中に私の誕生日の夜になると、息子のやつは、300円の小遣いで買ったプレゼントと、手紙を私に渡してきました。プレゼントは私の大好きだ羊羹でした。手紙には「いつもありがとう」と書いてありました。

 いやーまいった。
 そういうことだったのかと、少し嬉しかったです。

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 私は息子を誘って、一緒にホテルのゲームセンターに行って、二人で楽しく遊ぶことにしました。その後、息子とは裸のつきあいで、草津温泉を堪能し、学校のことや、人間関係のことなど、いろいろな話をしました。夜はアッという間に過ぎていきました。


つづく。

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posted by マネージャー at 18:00| Comment(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月03日

通知表が無いことに気がついた!

 うちの息子も、8月1日から夏休みに入りました。夏休みの期間は、たったの2週間です。おそらく全国の小中学校も一緒だと思います。新型コロナウイルスで、 長期間にわたって学校が休みだったために、夏休みが削られたわけです。もちろん宿題もほとんどありません。問題集が一冊と、 いくつかの宿題があるだけです。1日か2日で終わる量です。去年の夏休み・冬休みでは、読書の宿題もあったんですが、 今回は無しです。読書の宿題が、あったら図書館が三密になってしまうからだと思われます。

 8月1日から8月3日にかけては、そこそこお客さんがいたので、息子の事を全く構ってやりませんでした。明日からお盆に入るまでは閑古鳥が鳴いているので、先ほど息子に宿題をやらせていたんですが、途中で通知表を見てないことに気がついて、息子に聞いてみたら今回は通知表がないとのこと。

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 そうでしょうね。1学期は終わったと言っても、ほとんど休校してばかりで、1ヶ月ちょっとぐらいしか 学校に行ってないんですから。先生も成績の付けようがなかったのでしょう。通知表をつけないというのは、これはこれで良い判断だと思います。

 とにかく新型コロナウイルスによって、何から何まで非常事態でしたが、 うちの息子にとっては、良い体験だった。学校が休校の間に、さんざん登山をする機会に恵まれてましたし、学校で学ぶこと以外の、いろいろな勉強をすることもできました。ゆっくり読書する機会もありましたし、Eテレを見ることによって、科学に興味ももったようです。最近のEテレは、すごく面白くて、小学2年生が見ても分かるように面白可笑しく高校生の番組をつくってありますから、息子は夢中で高校講座を見ています。

 貧しいながらも家族旅行を何回もすることができました。おかげで色々勉強させてもらいました。宿屋をやってる身としては、以前なら考えられないことで、こういう機会は絶対にありませんので良かったです。

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 人生には、こういった休息が必要なこともあります。 私も小学校1年生の時に、肺炎になって1ヶ月にわたって学校を休んだことがありますが、あの経験が非常に良かったと思っています。時としては回り道も必要なことがあるものです。人間、常に緊張してばかりはいられませんので、1ヶ月や2ヶ月、体を休めるのもいいでしょう。




つづく。

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