2010年02月28日

私の小学校時代を思い出した3

 つづきです。小学校3年生の時、私は、団塊の世代の新任の先生のクラスに入りました。そして、その先生に3年間習うことになるのですが、この先生が変わり者でした。いわゆる団塊世代先生でした。驚愕の毎日が続きました。詳しくは、私の小学校時代を思い出した2を読んで貰うとして、この頃、私の家庭に異変がおきました。

 父親が、成績が悪い私にガリ勉を要求しだしたのです。
 テストの点が悪いと、遠慮無く私を殴りつけました。

 そのうえ小学校教師である母親が、私と同じ学年を担当することになり、家に帰ると、母親が私の勉強をみだしました。具体的にいうと、授業の予習をさせました。その結果、私は、とんでもないことになりました。

 学校が、つまらなくなってしまったのです。

 どんな授業も、すでに自宅で予習してあったために、教室の授業が、まるでつまらないのです。そのために、授業中に漫画を描いたり、悪戯をしたり、居眠りをしました。

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 団塊世代先生は、そんな私を注意し、何か質問などをするのですが、すでに予習してあるので答えられました。しかし、それで学校の成績が良かったかというと、全くダメでした。だいたい授業がつまらなくて、授業をサボっていますので、成績が良くなる訳がありません。だから私は、今でも、公立小学校においての授業の予習は、害毒そのものだと思っています。

 公立小学校では、授業は絶対に予習してはダメ。
 むしろ予習は禁止し、
 学校で先生から楽しく学ぶことに専念する。
 どうしても勉強させたいなら復習だけにする。


 これが公立小学校においての子供の正しい勉強だと思います。
 でないと、子供は授業嫌いになってしまいます。

 まあ、そんなことは、どうでも良いのですが、団塊世代先生は、新任であるために、それなりに教育熱心でした。そして私に対して不思議そうに首を捻っていました。どうして、授業をサボっているのに質問しても答えられるのだろう? なのに、どうしてテストの点が悪いのだろう?と。教育熱心な先生であればあるほど、そういう疑問が湧いたのだと思います。それを事あるごとく教室で言いましたし、家庭訪問でも言いました。私は、そんな団塊世代先生に漠然と

「何で、そんなに頭の悪いことを言うのだろう?」

と不思議に思っていましたが黙っていました。

 下手なことを言って、告げ口されて厳格な父親を怒らしたくなかったし、母親から余計に勉強をみさせられたらたまったものでなかったからです。だから黙っていました。


 そして小学校5年になると、
 大事件がおきました。
 父親が浜松に単身赴任で転勤してしまったのです。

 厳格な父親がいなくなりますと、これ幸いとばかりに、
 自宅で予習するのをやめてしまいました。
 もちろん復習なんかするわけがない。

 つまり、全く勉強しなくなったのです。

 かわりに毎日遊びまくりました。
 すると意外なことがおきました。
 成績がアップしました
 具体的に言うと通知表が4と5ばかりになりました。
 こんな事は、生まれて初めてでした。

(ちなみに中学になると父親が単身赴任から帰ってきて、また成績が下降した)

 世間の先生や親たちは、
「遊ぶだけで、成績がよくなるわけがない」
と思うでしょうが、事実は小説よりも奇なりです。
どうして成績がアップしたのか、ちょっと説明してみます。


 私は、遊びに熱中するあまり、
 オタク世界にまっしぐらに進んでいました。



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 まず切手。切手オタクに走るあまり、切手情報なら何でも知っていました。小学校5年生で国立公園と国定公園を全部言えましたし、どこにあるかも地図で知っていました。そういう切手のシリーズがあったからです。

 広重の五十三次名所図会にも調味をもち、五十三次ことなら何でも言えるようにもなりました。そういう切手のシリーズがあったからです。切手オタクの道を極めると、小学5年生の子供を、高校生並みの知識魔に成長させうるのです。当時はインターネットが無かったので、切手オタクたちは、図書館にいりびたりました。


 軍事オタク・兵器オタクの道にもすすみました。

 艦上戦闘機・翼面過重・馬力過重・機械式過給器・風洞実験といった難しい漢字が読めるだけでなく、意味まで理解したうえに、空気力学や機械工学や原子物理学まで調べるようになりました。

 おまけに第二次大戦の兵器なら何でも数字が言えるようになりました。例えば、零戦二十一型の乾燥自重、装備重量、全幅、全長、翼面積、発動機、速力、上昇力、航続距離などを全てピッタリ言い当てられるようになりました。兵器の種類なんて、何千もあるわけですから、何万という数値を暗記したことになります。

(ただし今は全部忘れてしまったが)

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 もちろん怪獣オタクの道にも進みました。怪獣の身長体重は、全部ピタリと言い当てられましたし、ついでに恐竜についても詳しくなり、最終的には肉食動物まで詳しくなり、動物博士になったものです。そして虎とライオンが戦うと、どっちが強いか?などと空想しました。


 さらにラジオオタクにもなりました。通信販売で部品を買い、自作ラジオを作って遊びました。金がなくなると、いろんな所からガラクタを集め、片っ端からハンダ付けにして、珍妙な機械を製作したりしました。ハンダ付けが面白くて面白くてしようがなかったんですね。さらに照度計を自作して、ありとあらゆる照度を調査したり、テスターでいろんなものの電流電圧を調べました。

 そのうち高性能の短波放送用のラジオを買って貰うことに成功し、世界各国の日本語放送を受信し、電波情況を放送局に手紙に書いてベリカードを貰うようになりました。ベリカードとは、聴取者が放送局に受信報告書を送付した際に、その証明として放送局が発行するカードのことで、当時、それを集めるのがブームになっていました。

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 時代劇オタク・歴史オタクにもなりました。
 テレビの大江戸捜査網の虜になり、隠密同心ごっこをやりました。
 それがこうじて図書館で夢中で捕物帖を読みました。
 それが最終的に岡本綺堂の半七捕物帖に向かうのですが、
 今思えば恐ろしい小学生だったかもしれません。
 なぜなら岡本綺堂の本は、大人でさえ難しい読み物だからです。

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 SFオタクにもなりました。小学5年生ともなりますと、ウルトラマンでは我慢できなくなります。そういう年頃になった頃、NHKの少年ドラマシリーズが始まり、タイムトラベラー(時をかける少女)に熱中しました。

 当時、どの図書館にも、SF小説専門のハヤカワ文庫がありましたから、それをかたっぱしから読みました。おかげで、小学生のうちから慣性の法則とか、相対性理論を独学で学び始めるようになりました。

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 話が大きくずれましたが、私が何を言いたかったかと言いますと、こういった遊びの結果、学校の成績が上がったということなんですね。別に真面目に勉強したわけでないし、塾にかよったわけでもない。自慢じゃありませんが、父親が単身赴任してから一度だって勉強したことがありません。それがかえって良い結果を出すようになったのは皮肉です。

 あと、どういうわけか団塊世代先生は、夏休みに宿題をだしませんでした。出さない理由も言いました。団塊世代先生は何やら難しい教育理論を述べたような気がするが覚えてません。
 おかげで思いっきりオタク道に走ることができました。
 その結果、小学5年生くらいで、かなり難しい事を調べるようになり、真面目に勉強しなくても成績が良くなったのです。だから私は、今でもオタク道に対して、否定的な感情をもっていません。むしろ肯定的な考えをもっています。

 逆に小学生のうちから子供たちに勉強させることに否定的な考えをもっています。小学生にとって大切なことは勉強ではなく、好奇心であると。一番大切なことは、健全な好奇心を育てることであって、それさえ育っていれば、あとは放っておいても子供たちが勝手に勉強し出すもだと思っています。

 私がユースホステル運動を行っている原点は、そういった私の過去が、私をつき動かしているからです。だからガラにもなく、リヒャルト・シルマンの伝記まで書いてしまった。




つづく。

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posted by マネージャー at 00:00| Comment(2) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月27日

私の小学校時代を思い出した2

私が小学校に入学したのは、1960年代の末でした。そして、入学早々、担任の先生は、夏休み前に入院してしまいました。癌でした。先生は、4年間にわたって闘病生活をおくることになりますが、ここから不思議なことがおきます。

 1年の2学期に別の先生が担任になり、2年になりますと、さらに3人の先生が入れ替わりに担任となり、合計4回入れ替わったのです。つまり、2年間に5人の先生に習ったのです。1学期ごとに4人の代用教員に教わったのですが、これに対して父兄は、不満を漏らしたと言います。私の父も怒っていました。

 しかし、子供たちには、少しも不満がなかった。むしろ、子供たちの嗅覚は、代用教員の方に軍配をあげていました。どの先生も、別れ際に涙があふれていましたし、お辞めになってから、小学校にジャングルジムや滑り台なんかを寄付してくれていました。そこには確実に二十四の瞳の世界があったと思います。

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 例えば、小学校2年生の3学期のことです。学芸会で何をやるかホームルームで相談した時のことです。だれか女の子が
「バレーを踊りたい」
と言い、先生が
「やりましょう」
と言いました。もちろんみんな、バレーなんか踊れるはずがありませんし、先生だって踊れません。で、どうしたかと言うと教科書を閉まって朝から晩までバレーの稽古をして、ついに学芸会で、『くるみ割り人形』を踊ってしまいました。


 そして、小学校3年生になりました。
 クラス替えが行われました。


 癌で入院した先生に、学校が見切りをつけ、代用教員ではなく、正規の先生を雇うことにしたのです。そして、その正規の先生というのは、大学を出たばかりの新任の先生でした。いわゆる団塊の世代の先生であり、しかも男の先生でした。そのためにクラス編成まで変えてしまいました。

 私は、団塊の世代の新任の先生のクラスに入りました。

 そして、その先生に3年間習うことになるのですが、この先生が変わり者でした。いわゆる典型的な団塊世代の先生でした。そのために驚きの毎日が続きました。

 今までの代用教員の先生の世界は、二十四の瞳の世界でした。どの先生も母親のような優しさがあり、いつも易しい言葉を使って、優しい言葉をかけてくれました。

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 しかし、団塊世代先生は、容赦なく難しい言葉を使いました。今まで聞いたことのない単語が耳に入ってきました。「ジミントウ」とか、「アンポ」とか、小学生には理解しがたい単語がポンポンでてきました。でも、授業は面白かった。なにしろ脱線が多かった。いつの時代だって、子供にとって脱線は大歓迎です。だから子供たちの人気者でした。

 ただし、「★★先生」とは誰も言わなくなりました。
 かわりに「★★」と呼び捨てにしました。

 その先生は、当時佐渡島の金井町に1軒しかない、パチンコ屋によく出入りしていました。台は十台しかない小さなパチンコ屋でしたが、そこにいくと必ず、その先生が居ました。日曜日には、かならずいますので、用があるとパチンコ屋に駆けつけたものでした。そういう小学校の先生は、今まで見たことがありませんでしたので、そういう理由でも、その先生は人気者になりました。ただし、みんなに呼び捨てにされていました。


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 その先生は、豆が嫌いでした。
 給食に豆が出てきますと、露骨にムッとしていました。
 とくにヒジキに入っている大豆にムッとしました。

「おい★★の機嫌悪いぞ、どうしてだろう」
「うーん、どうしてだろう?」
「あ、豆だよ豆。ヒジキに豆が入ってる!」
「あー、そうだったのか」

 子供たちは、ムッとしている先生のために、せっせと、先生の給食から豆を一つ一つ取り除いてだしました。すると先生は、ニコッと笑い顔を見せました。そんな先生は、今まで見たことがありませんでしたので、そういう理由でも、その先生は大人気者になりました。ただし、みんなも、嫌いなものを遠慮無く残飯にしました。


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 ある日、ホームルーム(当時は、学級活動といった)で、
 先生は、こんなことを私たちに問い始めました。

「君たち! 今、百万円あったら、何が食べたい?」
「・・・・」

 質問の意図が分からなかったので、
 私は黙っていましたが、同級生たちは

「スイカが食べたい」
「一番高いチョコを食べたい」
「十段のケーキを食べたい」

と、めいめい答えていました。
そして、最後に先生が答える番になりました。
私たちは、わくわくドキドキ先生の回答を期待して待ちました。

 どんな立派な答えがでるのだろうか?
 どういうオチがあるのだろうか?
「百万円で飢えた難民のたちに、余っている米を買って、海外に送れ」
 なんていうオチを想像しながら、
 先生の回答を
 わくわくドキドキ期待して待ちました。
 きっと、いい話にまとめてくれるんだろうなと。
 しかし、先生の回答は、意外なものでした。

「先生は、百万円あったら、中華料理のフルコースを食べたい
「・・・・」

 沈黙が教室に流れました。
 沈黙には2通りありました。
 どこがオチなのか?という沈黙と
 フルコースという単語の意味がわからないという沈黙でした。

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つづく。

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posted by マネージャー at 01:37| Comment(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月26日

私の小学校時代を思い出した1

アドベンチャー集団doがお泊まりになりました

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 先日、アドベンチャー集団doがお泊まりになりました。アドベンチャー集団doとは、小学生の自然体験を主に行っている団体です。なのでユースホステルにちびっこが登場。いいですねえ。ユースホステルぽくて良いですね。で、子供たちを見ていると、私が子供だった頃の事を思い出してしまいました。

 実は私は、いや、私の同級生は、かなり変わった小学生時代をおくっています。事のはじまりは、小学校1年生の時のことです。担任になった女性の先生が、1年の1学期で入院してしまったのです。

 私は、この先生が大好きでした。
 そして、この先生は、とても面白い先生で、
 とにかく子供たちを笑わせる天才でした。

 たとえば「雀(すずめ)」の絵を見せて、スズメという文字を書かせます。私たちは、覚たての文字を使って「すず目」とか、鈴木君などは「鈴め」とか書いたりします。すると先生は、「すず目」とか「鈴め」の文字を見て、
「目玉に羽根が生えて空をとぶのか?」
「鈴に目がはえるのか?」
と、オーバージェスチャーで笑わせてくれます。

 あと、私語をしたり、迷惑行為をする子供たちがいたら、全員に、こう叫ばせました。

「あかちゃん、あかちゃん、べろべろばー!」

 こういう指導は、今だったら問題になったかもしれませんが、私の記憶に間違えなければ、これによって、誰もが行儀良くなりました。みんな「あかちゃん」呼ばわりされたくなかったんです。

 あと、小学校1年生だと、早生まれと、遅生まれに差が出てきます。どうしても早熟な子がいるんです。そして、早熟の子は、みんなに知ったかぶりをする。すると、先生がやってきて例のオーバージェスチャーで

「頭でっかちカブンスウ!」

と頭を大きくみせて、みんなを笑わせました。これは、志村けんのアイーンや、ダッフンダみたいなものなのですが、そういう一発ギャグをいっぱいもってて、みんなを笑わせたのです。ちなみにカブンスウの意味は、3年生の時に入院している先生をお見舞いに行き、御本人から聞き出しました。よーするに過分数のことですね。分母より分子が大きい数字。だから「頭でっかちカブンスウ!」だったのです。

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 まあ、そんなこと、どうでも良いのですが、この大好きだった担任の先生が、夏休み前に入院してしまった。病名は、あとで知らされたのでしたが癌でした。当時は不治の病でした。ところが、先生は、4年間にわたって生きながらえた。

 ここから不思議なことがおきます。
 1年の2学期に別の先生が担任になり、
 2年になると、さらに3人の先生が担任となり
 合計4回入れ替わったのです。
 つまり、2年間に5人の先生に習ったのです。

 1学期ごとに、よーするに4人の代用教員に教わったのですが、こういう経験は、ちょっと珍しいのではないでしょうか? これに対して父兄は、不満を漏らしたと言います。私の父も怒っていました。しかし、子供たちには、少しも不満がなかった。子供にしてみれば、正教員も代用教員も、先生は先生です。

 むしろ、子供たちの嗅覚は、代用教員の方に軍配をあげていました。どの先生も、別れ際に涙があふれていましたし、お辞めになってから、小学校にジャングルジムや滑り台なんかを寄付してくれていました。そこには確実に二十四の瞳の世界があったと思います。

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 例えば、小学校2年生の3学期のことです。学芸会で何をやるかホームルームで相談した時のことです。だれか女の子が
「バレーを踊りたい」
と言い、先生が
「やりましょう」
と言った。

 もちろんみんな、バレーなんか踊れるはずがないし、先生だって踊れない。で、どうしたかと言うと教科書を閉まって朝から晩までバレーの稽古をして、ついに学芸会で、『くるみ割り人形』を踊ってしまった。佐渡島という田舎の小学校の、小学校2年生が。今だったら絶対に問題がおきていたでしょうが、当時は、おおらかだった。

しかも、これは、1969年のことだった。


つづく。

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posted by マネージャー at 22:03| Comment(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする