2020年12月09日

『ふふはり亭』とC.W.ニコル【6】最終回

 令和の時代になっても子供たちに人気のあるドラえもんは、私が小学校二年生の時に小学館の漫画雑誌で連載されています。1969年のことです。そして私が中学一年生だった1974年3月に、最終回で一度は連載が終わっています。

 私の子供の頃のドラえもんは、今のドラえもんとちょっと違っていました。東京が舞台だったにも関わらず、ドジなのび太が何度も肥溜めに落っこちていたのです。そうです、1969年頃の東京郊外には、田畑がいっぱいあって、それに伴いたくさんの肥溜めがありました。今は高級住宅街になっている世田谷区には牧場までありました。藤子不二雄が住んでいた練馬区にも、見渡す限りの畑がありました。その畑のそばには、人糞と藁などをかき混ぜて発酵させていた『肥だめ』というものがあったのです。


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 実は、その数年前に、一人の北極探検隊が、空手と柔道を学ぶ目的で、日本に訪れていました。cwニコルさんです。彼は礼儀正しい日本人をいたく気に入りました。というのも、彼の母国であるイギリスでは同級生に苛烈ないじめを受け、教師から理不尽な体罰を繰り返して受けていたし、イングランド国教会の牧師にも理不尽なことでよく殴られていました。

 ところが日本人は、武道を身につけて強いにもかかわらず、暴力的なことをせず礼儀正しく思いやりがあった。だから日本が大好きになったんですが、一つだけ気に入らないことがありました。東京が大都会すぎることです。

 大都会すぎて、鬱になりかかった頃に、空手の先生が心配して、弟子にたのんでニコルさんを冬の北アルプスに連れて行くよう言いました。

「先生、冬の北アルプスなんかに連れて行って大丈夫ですかね」
「何を言うか、この人は3回も北極探検に行った人だぞ」

 こうして彼は北アルプスに連れて行かれたわけですが、あまりの雪の大さと森の深さに愕然としました。冬の北アルプスは、北極なんかよりもずっと厳しかった。しかしそれが楽しかった。以来、森と山のとりこになった。


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 それからのニコルさんは、日本の自然に魅了されて、当時はまだあった東京郊外の森にどんどん入ってきました。現在でも東村山市には森がありますけれど、1960年代の東村山市の森は、鬱蒼としていました。

 けれど一旦森に入ってみると、落ち葉を拾い人たちがたくさんいました。落ち葉を何に使うのかなと思って聞いてみたら、肥溜めに使うそうです。そして肥溜めに驚きます。当時の東京郊外には、今では全国どこにも存在しない肥溜めがたくさんあって、それがドラえもんにも登場して、のび太が何度も落っこちるシーンが書いてあります。

 それはともかく、ニコルさんは森の中で、たくさんの子供たちに出会います。子供たちも当時は珍しかった外人に興味深々で近づいてきました。両者はすぐ仲良くなって、ニコルさんは子供たちに自然のことをいっぱい学びます。ヨーロッパには存在しないセミのこととか、色々な木のこととか、食べられる木の実とか、野草とか色々なことを子供たちから学びました。


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 話を変えます。

 私がcwニコルさんを知ったのは、二十歳の頃です。当時私は、シナリオを書く勉強をしていて、シナリオコンクールに作品を応募していました。残念ながら私の作品は、二次選考止まりだったんですが、その時のシナリオコンクールで入選したのが、cwニコルさんです。彼のシナリオを読んで
「手強いライバルが登場したな」
と思ったんですが、彼はそれから二度とシナリオを書かなかった。あれ?どうしたんだろうと思っていたら、その5年後ぐらいに、黒姫山の麓の里山を買い取って
「アファンの森」
という森を作ったと聞きました。どういう意味だろうと調べてみたら、ケルト語で「風の谷」という名前だと知りました。当時、風の谷のナウシカというアニメが大ヒットしていたので、なんとなく納得したことを覚えています。


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 それをきっかけにcwニコルさんの本を何冊か読んでみたんですが、本を読んでみると非常に面白いユーモアのある人であることがわかりました。中でも一番面白かったのが

「この数十年間の間に、日本の森で絶滅した生物がいる」

という問いかけです。
「昔は日本の森にいて、今は存在しない生物といったら何だろう」
と私は首をかしげました。すると驚くべき答えが返ってきました。

「それは日本の子供たちです」

 なるほど、それはそうです。
 昔は森に行けば、そこは子供たちの遊び場でした。
 今では森に入る子供たちなんかいません。

 だから私は息子が産まれたら毎日のように北軽井沢の森の中に連れて行きました。森が無理なら浅間牧場に連れて行きました。小学校に入る前の、うちの息子ほど北軽井沢の森に出入りした子供はいないと思います。ほぼ毎日、森の中を散策していましたから。新型コロナウイルスで非常事態宣言がでて、5ヶ月にわたって学校が休校になったときも、毎日、山に入っていました。けれど、息子以外に森で子供を見かけたことはありません。森で遊ぶ子供たちが、激減しているのは確かです。


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 それはともかく、ニコルさんは1960年代の日本の森で日本人の子供たちと出会い、彼らから自然のことを教わったと言います。ニコルさんの師匠は、60年代の日本の子供たちだった。彼らは何でも知っていて、森の中の恵みを食べては、腹ぺこをいやしていたし、虫たちや魚たち相手に遊んでいて、ニコルさんの良き師匠でもあった。けれど、そういう子供たちは、平成時代になると森から消えてしまった。つまり絶滅したというわけです。

 長い前置きはここで終わります。

 私の友人である土屋達郎氏が、南極探検から帰ってきて「宿をやりたい」と言ってきました。私は、色々サポートしてあげて、最終候補地として、北軽井沢か黒姫のどちらかに絞られてきました。私としては北軽井沢を推奨したんですが、彼が選んだのは黒姫山の麓でした。

 彼には黙っていましたが、確実にcwニコルさんからアポがあるなと確信しました。北極探検家が、南極帰りの男をほっておくわけがないからです。絶対にアファンの森の事業に引きずり込むだろうと思っていました。ところが、営業がスタートしても、そういう話は出てこなかった。

 おかしいな変だなと思っていたら、彼は癌で入院していたそうです。そして、新型コロナが猛威を振るっている2020年4月3日に長野市の病院で亡くなったそうです。どおりで、土屋達郎氏に接触してこないわけだと思いました。ちょっと残念でもあります。アファンの森の事業については、機会があったら、このブログで解説したいと思っています。


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 ちなみに、黒姫童話館の別館では、今年の11月末まで、C.W.ニコルさんの企画展をやっていました。私は、ぎりぎり、その企画展を見ることが出来ましたが、写真撮影が禁止されていたので、画像をアップできなかったのは残念です。


つづく。

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2020年12月07日

『ふふはり亭』から野尻湖ナウマン象博物館【5】

 ふふはり亭から、車で十分ほどいくと野尻湖があります。野尻湖ナウマン象博物館がありますが、この博物館は知る人ぞ知る博物館。考古学・人類学に興味ある人なら避けて通れない博物館です。今から四十年以上前、私が高校生だった頃に日本史の先生が、
「野尻湖の発掘によって世界史が書き変わる」
と言ってました。どういう風に書き変わるのか、当時高校生だった私にはさっぱりわかりませんでしたが、あれから四十年経って、どういう風に世界史が書き換わったか興味がありました。


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 実際、この四十年間に日本史に関しては確実に書き換わっています。稲作に関して言えば、四十年前には、中国大陸から入ってきたと言われていましたが、今では完全に否定されています。日本では今から六七〇〇年前から陸稲の稲作栽培が行われていたことが分かっていますし、水稲栽培は三七〇〇年前から始まっています。そして朝鮮半島の稲作は、日本から輸入されたものであることも中国の研究家による裏付け調査で、歴史として確定しています。日本最古の土器は一万六五〇〇年前までさかのぼる事になりました。農業の起源地とされた中近東やアフリカには一万年をさかのぼる遺跡がありませんので縄文時代人は土器製作における世界先端技術を持っていたということがわかってきました。また北海道の縄文遺跡から布が発見されており、三内丸山遺跡では巨大建築物と、加工された全国各地の翡翠・黒曜石が発見されています。

 しかしこれらの歴史の書き換えは、あくまでも縄文時代の話です。
 野尻湖のナウマン象の生きてた時代は、今から四万年以上前です。
 その四万年前の遺跡に石器がじゃんじゃん出てきている。
 これが問題だったりする。

 ホモサピエンスは、今から三万八千年前に、中国と日本に同時多発的に広がっています。三万八千年以上前の遺跡は存在してない。つまり、三万八千年以上の前にホモサピエンスはアジアに来てないことになっている。けれど、野尻湖には大量の旧石器がある。何らかの人類がいたことは間違いない。ところが人骨が出てこない。これは仕方ないことで、日本の土壌はほとんど酸性土質なので、人骨が残りにくい。唯一の例外は沖縄地方だけ。沖縄の土壌はアルカリ性なので人骨が残っている。

 まあそれはいいとして、もし、野尻湖に人骨が残っていたとしたら大発見になる。
 その人骨がホモサピエンスのものか、ネアンデルタール人のものか、
 その他の人類のものなのか特定できたら、すごいことになる。
 世界史が書き変わることになる。


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 ところで日本には一万箇所の旧石器時代の遺跡があります。
 この一万箇所という数字は、世界最大クラス。
 すごい数で驚かされますが日本列島にそれだけ人口が密集していたことになる。
 ところがどういうわけか、その一万箇所にものぼる遺跡は、
 今から三万八千年以降のものです。
 それ以前の遺跡はほとんどありません。


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 これが何を物語るかと言うと、今から三万八千年ぐらい前に突然ホモサピエンスが日本列島にやってきたということになります。これは根拠のない話ではなくて、中国でも朝鮮でも三万八千年以前にホモサピエンスの遺跡がないことを考えれば、三万八千年を境にしてホモサピエンスが東アジアに殺到したと考えるのが自然です。

 ちょっと脱線しますが、東南アジアとオーストラリアには、四万五千年前にホモサピエンスが到達しています。そしてこのホモサピエンスと、東アジアのホモサピエンスは、骨格から何からしてほとんど共通点がありません。むしろメラネシアやアボリジニの骨格の特徴と共通しています。しかも現在の東南アジア人の骨格とも共通点がないことから、東南アジア人の祖先とも違うとも言われています。

 話を戻します。
 東アジアにおける旧石器時代の遺跡の調査により、
 今から三万八千年前に東アジア全体にホモサピエンスが殺到したと推定されている。
 ここまでが前提です。


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 ここから野尻湖の話になりますが、野尻湖には、ナウマン象の骨と共に大量の旧石器の遺跡が発掘されています。問題はその年代です。その旧石器の遺跡は、四万年以上前のものが多い。もしこれが本当だとすると、日本には四万年以上前にホモサピエンスがいたか、それとも別のホモサピエンスがいたのか、それともネアンデルタール人がいたのか、ホモエレクトロス(北京原人またはジャワ原人)がいたのか、興味が尽きないのです。

 残念ながら野尻湖に人骨を発見されてない。と言うか沖縄を除いて日本列島には旧石器時代の人骨がほとんど発見されてない。これは日本列島の土壌が酸性土質でやるために骨が残りにくいという土壌であることが原因だといわれています。だから野反湖の遺跡がホモサピエンスのものなのか、それ以前の人類のものなのか今ひとつわかっていません。


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 ちなみに野尻湖の旧石器時代の遺跡は、新しいもので三万八千年前のもので、古いものになると六万年前のものになります。石器も多いですが、骨製品も多い。骨製のクリーパーや骨製のナイフ骨製のスクレーバーが出てきます。これらは狩りで捕まえたナウマン象を解体するときに使われたと思われます。

 その他にも骨製の尖頭器も出ている。尖頭器というのは、先端が鋭く尖った骨器で、投げ槍の槍先として使われてます。この尖頭器が、六万年前の地質から出てきている。野尻湖とは、いったい何なんでしょうか?


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 この博物館に来て印象深かったのは、旅館のご主人が湖を散歩してる時に象の化石らしきものを発見して、それを専門家にみてもらった。しかしよくわからなかった。そこでとりあえず掘ってみようと、素人が手弁当で掘ってみたらナウマン象の骨がザクザクと出てきたと言うエピソードです。そして、その後、大量の素人たちが、専門家と協力して発掘作業をしてると言うエピソードに驚かされます。

 このエピソードを伺うと思い出すのが、明石原人のエピソードと、相澤中庸のエピソードです。

 まず明石原人について。アマチュア考古学者の直良信夫が、明石で明石原人を発見したけれど、彼は素人だったので誰にも相手にされなかった。人骨を旧石器時代のものとする直良の主張は学界では認められなかった。旧石器時代の日本には人類は存在しないと言われて相手にされなかった。昭和二十四年以前は、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられていた。

 ところが戦後、縄文時代以前に人類が日本列島に存在した可能性がでてきて、明石原人の存在が浮かびあがり発掘調査が行なわれた。その時、発見者の奈良信夫に対して学者たちは「オブサーバーとしてなら参加を許す」と高圧的な態度をとり、直良は激怒して参加拒否したため、調査団は化石発見地点から約八十m西寄りの場所を調査してしまい何の化石も発見できなかった。野尻湖発掘とは大違いである。


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 ここで群馬県の話になります。

 昭和二十一年、相沢忠洋は、岩宿の切り通し関東ローム層から細石器を発見した。その後も発掘を続け、昭和二十四年に黒曜石の尖頭器を発見した。しかし、まともに取り合う学者はいなかった。その中で、明治大学の院生だった芹沢長介氏だけが、黒曜石の尖頭器が、赤土の中から出土するという重大性に気づいて、岩宿で発掘を行い、旧石器を発見して主要新聞に発表し、それがきっかけで本格的な発掘が始まっています。院生が取り扱ってくれたので、明石原人のときよりマシですが、当時の学者たちの頑迷ぶりに驚かされます。

 ちなみに野尻湖で地民がナウマン象の臼歯を発見したのは、昭和二十三年のことです。そこから学者たちに知られるまで八年かかっています。その間に日本の地質学会や考古学学会が大きく変化しています。アマチュアを含め、地元の教員たちや、郷土史家たちが一緒になって、共同研究をする。それが専門家をしのぐ大きな発見に繋がっていた。

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 そういう雰囲気の中で野尻湖を発掘しようとなって、野尻湖友の会というものを作って、それこそ小学生から大人まで発掘をするようになったわけです。で、発掘してみたらナウマン象だけでなくて、旧石器時代の石器などが続々と出てきた。それも四万年以上前の地層から出てきた。信じられない大発見が、素人たちの発掘から続々と出てきたわけです。アマチュアを含めた共同研究が、専門家をしのぐ業績を次々と残していったのです。


つづく。

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2020年12月05日

『ふふはり亭』から黒姫童話館へ【4】

 ふふはり亭から、車で5分の黒姫高原に黒姫童話館(信濃町立)があります。
 世界の童話をテーマとする文学館で、
 ここには、ドイツ人作家ミヒャエル・エンデの2000点を超える作品資料が、あります。
 本人からの寄贈だそうです。


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 ミヒャエル・エンデというば、なんといっても『モモ』です。
 ある世代ならみんなモモを読んでると思います。
 また映画『ネバーエンディングストーリー』の原作者と言ったらもっと分かるでしょうか?


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 特に『モモ』は面白い。私は、中学生か高校生の時に読んでいるけれど、ぐんぐん引き込まれていったことを覚えている。不思議な少女モモと、時間泥棒の灰色の男たちとの対決は、愉快で面白かった。こういう作品を書く人は、どういう人なのかと思って黒姫童話館にいってみたら、作者は、ナチスを嫌ってイエズス会神父のところで反ナチス運動の伝令としてミュンヘンを自転車で駆け回ったとのこと。ようするに作者が、アウトサイダーだったわけです。

 逆に言うと、ミヒャエル・エンデの資料がドイツではなく、信州の黒姫にある意味もなんとなく納得できました。
 奥さんも日本人ですからね。


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 それからこの童話館に来て初めて合点のいくことがありました。 映画のネバーエンディングストーリーを見たときのことです。この映画を映画館で見たんですが、途中までは、夢中になってみていたんですが、ラストシーンになってちょっと違和感を覚えた。 違和感を覚えたけれど、ヨーロッパ人の感覚というのはこういうもんなんだろうなぁと自分で納得して映画館を出たのです。あのラストシーンさえなければ、名作だったのになあと思ったんですが、人の感性は様々なんだろうなと当時は自分を納得させていました。この辺のところを嫁さんに聞いてみたことがあるんですが 、嫁さんには全く違和感はなかったらしい。

 で、今回黒姫童話館に行ってみたら、ラストシーンは原作者の意図と反して映画会社が勝手に付け足したものらしい事が分かって、やっと納得できるようになりました。と同時に、当時感じていた自分の違和感が、あながち間違いでなかったことに今更ながら嬉しくなった。 どうして嫁さんに違和感がなかったか? この辺が不思議だったので、モモを読んだことがあるかと聞いてみたら、読んだことはないと言います。 この違いが、違和感の有無なのかもしれません。調べてみたらネバーエンディングストーリーは、1から10までミヒャエルエンデの希望が通らなかったので裁判にもなったと言うことらしい。


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 童話作家である松谷みよ子の常設展示室もありました。彼女は、戦時中に黒姫に疎開しており、その時に黒姫の坪田譲治に弟子入りして、それもあってか黒姫に別荘をもっていたようです。


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 松谷みよ子は、全国各地の太郎伝説(ちから太郎・三年寝太郎・食っちゃ寝の太郎など)をかき集めて、それらを一つの物語に結集して『龍の子太郎』を作ったことで有名ですが、この物語のパターンは、信長の伝記に似ていますね。


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 私は、高校生の時に、この松谷みよ子の手法を真似て、佐渡島から山形・秋田にまで広がる団三郎伝説を収集して、『龍の子太郎』のような絵本を作ろうとしたことがあったのですが、製作途中に転校することになってあきらめたことがあります。それほど民話の収集と統合は難しい。



 私が、吾妻郡に住んでいて興味があるのは、吾妻郡の大柏木付近に点在する『大場三郎(だいばさぶろう)伝説』です。それは、こんな伝説です。

 昔、京の美しい姫が東に下り大柏木で三郎を生みました。三郎は剣術の達人となって村人を助け、剛勇の名をとどろかせるエピソードが沢山ある。それらを龍の子太郎のようにつなぎ合わせると吾妻郡版『龍の子太郎』になる可能性がある。ただし、龍の子太郎と違っているのは、ラストシーンです。ラストシーンとなるエピソード。それは、こんな話です。

「ある夜のこと、大きな地響きと雷鳴とともに山伏姿の天狗が現れ、
 さすがの三郎も太刀打ちできずにいると
 天狗はこう言いました。
『私は、この里に禍をもたらしにきたのではない、おまえに天狗道を教えに来たのだ』
 すると三郎の背中に羽が生えており、
『これから天狗道に赴いて生まれ育ったこの村の守りになる』
 と村人に叫びながら天狗に導かれて姿を消しました。
 それ以来、大柏木の里では穏やかで平和の日々が続いているということです」

その伝説の7ヶ所の地名を総称して「大場七景」と言います。

1.三郎の産湯の水を汲んだ井戸「かじか京」
2.武術の稽古に使ったと言われる「蒔田の松」
3.三郎の母が独経しながら亡くなったと言われる「上臈が平」
4.三郎の乳母を葬ったと伝えられる「お乳が窪」
5.三郎のために衣食足りて礼節を知る運んだと伝えられる
  ツバメに似た岩「つばくろ岩」 
6.どんな干ばつにも涸れず三郎の暮らしを支えたという
  「独りのみの井戸」
7.三郎が倒した盲人の亡霊を祀った石がある「盲目神」

では、大場三郎とは、何者でしょうか? 源平盛衰記によると源頼朝が伊豆を小船で脱出したときに追っ手として出てきたのが東入道50余騎、その後には大場三郎景親1000余騎が続いたとされています。その後、石橋山の戦いで頼朝を撃破。しかし、安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、処刑されています。この大場三郎と、大柏木の大場三郎の関連は、まだ明らかにされていません。

 しかし、これらの話を統合して絵本をつくれば、群馬に『龍の子太郎』以上のスケールの大きな童話が出来るはずです。地元の皆さん誰か作ってみませんか? 誰もやらないなら私がやりますけれど。



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  ここには、いわさきちひろがアトリエとして使用していた黒姫山荘もありました。


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 今でこそいわさきちひろは有名人ですが、私が子供の頃は、幼児用図書の新人挿絵作家として、いろんな学習図書・雑誌などでバリバリ働いている頃でした。当時の子供向けの本には必ず掲載されている。当時としてはポピユラーな絵柄で、多作作家として、あらゆる幼児用学習図書にいわさきちひろの絵が使われていました。

 つまり昭和30年代生まれの子供達にとっては非常に馴染みのある絵だった。
 どこにもでも、いわさきちひろがあった。
 小学館のマンガ雑誌にもあった。
 その昭和30年代生まれの子供達が大人になるにつれて、
 いわさきちひろの絵がどんどんと人気になっていた気がします。
 そして、いわさきちひろを安易に見かけることがなくなっていった。


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 いま、いわさきちひろを見るには、美術館に行かなければならない。


つづく。

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2020年12月03日

元南極探検隊員の『ふふはり亭』に泊まってきた【4】

 土屋達郎氏は、環境省の仕事で忙しいようで、宿は奥さんが取り仕切っているみたいです。


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  土屋達郎氏も北軽井沢ブルーベリーYGHで、1年以上宿を手伝ったことがあるので、それなりの知識があるんですが、 とりあえず宿のことは奥さんに任せた感じです。月曜日から土曜日までは、朝早くから環境省の方で働くので、もし南極教室を目的に泊まられるなら、前もって連絡したほうがいいかもしれません。土屋達郎氏の仕事の関係で、南極教室が開催できない日程があるかもしれないからです。

 翌朝、ふふはり亭の朝食を食べました。
 画像見て分かるとおり、手の込んだ朝食です。


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 その後、北軽井沢ブルーベリーYGHから持ってきたブロワーで枯葉を飛ばしたり、木の伐採についてや、ボイラーなどの メンテナンス機器についてのアドバイスをしてお別れすることになりました。そして私たちは、土屋達郎氏のアドバイスをもとに
『黒姫童話館』
『ナウマンゾウ博物館』
に向かうことになります。


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 他にも色々な名所や、面白い博物館がいっぱいあるんですが、とりあえずこの二つに絞ってしまいました。黒姫童話館には、 松谷みよ子・ いわさきちひろの資料がたくさんあるので、それが目的でもありますが、なんといってもミヒャエルエンデの莫大な資料が揃っている童話館ということで世界的に有名です。ミヒャエルエンデと聞いて『はてな』 と首を傾げる人に説明すると、何十年間も前に世界的なヒットとなった
「ネバーエンディングストーリー」
の原作を書いた人と言えば分かるでしょうか ? 童話に詳しい人ならば「モモ」の作者であると言えば分かるでしょうか? 大の親日家で、奥さんが日本人で、日本をとても愛した童話作家といえば、ミヒャエルエンデの他はありません。そして、黒姫童話館には、もう一人、日本を凄く愛して国籍まで取ってしまったウェールズ人を紹介するコーナーがあります。 そうです。 cwニコルさんです。


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 それから『ナウマンゾウ博物館』ですが、考古学・人類学に興味ある人なら避けて通れない博物館です。 今から40年以上前、私が高校生だった頃に日本史の先生が、
「野尻湖の発掘によって世界史が書き変わる」
と言ってました。どういう風に書き変わるのか、当時高校生だった私にはさっぱりわかりませんでしたが、あれから40年経っているわけですから 、どういう風に世界史が書き換わったか 興味がありました。

 実際、この40年間に日本史に関しては確実に書き換わっています。稲作に関して言えば、中国大陸から入ってきたと言われていましたが、今では完全に否定されています。日本では今から6700年前から陸稲の稲作栽培が行われていたことが分かっていますし、水稲栽培は3700年前から始まっています。そして朝鮮半島の稲作は、日本から輸入されたものであることも中国の研究家による裏付け調査で、歴史として確定しています。日本最古の土器は16500年前までさかのぼる事になりました。農業の起源地とされた 中近東やアフリカには1万年をさかのぼる遺跡がありませんので縄文時代人は土器製作における世界先端技術を持っていたということがわかってきました。また北海道の縄文遺跡から布が発見されており、三内丸山遺跡では巨大建築物と、加工された全国各地の翡翠・黒曜石が発見されています。

 しかしこれらの歴史の書き換えは、あくまでも縄文時代の話です。野尻湖のナウマンゾウの生きてた時代は、 今から4万年前です。その4万年前の遺跡に石器がじゃんじゃん出てきている。ここが問題なんです。

  ホモサピエンスは、今から38000年前に、中国と日本に同時多発的に広がっています。 38000年以上前の遺跡は存在してない。つまり、38000年以上の前にホモサピエンスはアジアに来てないことになっている。けれど、野尻湖には大量の旧石器がある。何らかの人類がいたことは間違いない。ところが人骨が出てこない。 これは仕方ないことで、日本の土壌はほとんど酸性土質なので、人骨が残りにくい。唯一の例外は沖縄地方だけ。沖縄の土壌はアルカリ性なので人骨が残っている。まあそれはいいとして、もし、野尻湖に人骨が残っていたとしたら大発見になる。その人骨がホモサピエンスのものか、ネアンデルタール人のものか、その他の人類のものなのか特定できたら、すごいことになる。世界史が書き変わることになる。


つづく。

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2020年12月02日

元南極探検隊員の『ふふはり亭』に泊まってきた【3】

前回の続きです。土屋達郎氏の南極教室は、小学2年生の息子にとっても非常にわかりやすい講義だったようで、非常に興奮していました。約2時間。夜の10時まで講義は続いたんですが、真剣なまなざしで聞いていました。最後には、特別に南極の氷まで見せてもらい、それを食べてみました。炭酸のように空気がプチプチとはじける音がしました。
「何万年前の空気だ・・・」
南極の氷は、何万年も前の空気を閉じ込めています。それを噛みしめている私たち親子がいる。不思議な空間が、そこにはありました。


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(南極の氷と息子。氷には数万年前の空気が入っている)


 本当なら深夜まで話していたかったんですが、夜の10時。
 7歳の息子は、もう寝る時間だったので、
 途中でストップさせて息子を寝かせたんですが、
 その日の夜は、興奮していて寝付かれなかったようです。

 息子は、この時の事を宿題の絵日記に書いたんですが、1ページでは書ききれなくて、5ページぐらい必要だといいます。仕方がないので絵日記のフォーマットをコピーして2ページに抑えるように言いました。なんとか2ページで宿題の絵日記終わらせたようですが、本当は5ページぐらい書きたかったようです。それほど息子の心をくすぐった。

 どおりで講演の要請があるはずです。内容が面白い。小学2年生が聞いて面白いらしい。何しろ土屋達郎氏は、あまり難しいことを言わない。そういうキャラでもなく、どちらかと言うと幼稚園生でも分かる言葉を使って南極での体験を語る。もちろん、写真や動画を使っての解説です。なので
「もし嬬恋村から講演の要請があったら、いくらぐらいで引き受ける?」
と聞いたら、
「いつも謝金(交通費程度)で引き受けてます」
と言ってきたので、機会があったら、嬬恋村や教育委員会に推薦してみたいと思います。というのも、嬬恋村は、南極と繋がりがあるからです。


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(第1次南極越冬隊の隊長の西堀栄三郎)


 第1次南極越冬隊の隊長である西堀栄三郎さんは、11歳のとき、白瀬矗中尉の南極探検報告会に行って「いつかは自分も南極へ行きたい」と思い、中学時代から登山をはじめ、南極の厳しい自然に対応できる技術や知識を蓄えました。そして京都大学に入り、昭和2年1月に京都大学山岳部の仲間たちと群馬県吾妻郡嬬恋村の鹿沢温泉で合宿しました。


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(アインシュタインと学生時代の西堀栄三郎)


 合宿が終わってから後に第1回南極越冬隊長をされた西堀栄三郎氏、京大カラコルム遠征隊長となった四手井綱彦氏、アフガニスタン遠征隊を勤めた酒戸弥二郎氏、並びに東大スキ−部OBで後にチャチャヌプリ遠征隊長をされた渡辺漸の4名でスキ−で新鹿沢(おそらく鹿沢館)へ下って宿泊しましたが、翌日天候が崩れ宿に閉じこめられた。その時に「山岳部の歌を作ろう」と詩を書いた。それが雪山讃歌です。ちなみに歌詞は、
「町には住めないからに」
でわかるとおり、京都弁まるだしです。


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 嬬恋村の鹿沢温泉紅葉館に雪山讃歌の碑があります。鹿沢温泉にメロディーラインがあるんですが、それも雪山賛歌の曲です。嬬恋村の防災無線でお昼に流れる音楽も雪山賛歌だった。そのせいかどうかは分かりませんが、2019年の越冬隊の訓練は鹿沢温泉ちかくの湯の丸山で行われました。ちなみに、この曲が世に出た時は、作詞者不詳とされましたが、桑原武夫(京都大学人文科学研究所教授)が西堀榮三郎を作詞者として著作権登録の手続きを行い、この著作権印税に拠って京都大学山岳部の財政が潤ったという逸話もあります。


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 (西堀さんの直筆をレリーフにしている)


 1955年(昭和30)の秋。日本が1957年(昭和32)の「国際地球観測年」に参加することになり、そこで西堀は、長年蓄積してきた知識を披露し、その翌年には南極観測隊副隊長就任を打診されました。

 地球観測年は1957年を予備観測、翌1958年を本観測と定められており、文部省の計画では、予備観測年に越冬するという計画はなかった。日本に割りふられた観測地域の偵察を行い、基地を設置する場所を決めるだけとなっていました。

 ちなみに日本に割りふられた観測地域は、絶対に上陸できない地域と言われ、どの国も上陸できないでいた。そんな地域を嫌がらせのように割り寝当てられていた。だから初年度は、偵察だけの予定だったが、西堀は偵察だけで無く越冬を強く主張しました。予備年での越冬経験のない状態では、本観測年での越冬は危険であるというのが西堀の主張だった。その結果、越冬が決定されることになりました。

 もし、この時、越冬してなかったら、その後の南極越冬隊は無かったかもしれない。というのも、本観測年に当たる1年後(1958年)に南極へとやってきた第2次観測隊は、予想をはるかに上回る悪天候の氷海を前に、南極大陸に接岸することもままならず、本観測隊の越冬を断念するしかなかったからです。一次越冬隊をヘリコプターで収容するだけで精一杯で、タロ・ジロといった犬たちは置き去りにされてしまったからです。

 もし第1次での越冬がなかったら、本観測年での越冬断念と併せて、日本の南極事業は、それで終わっていたかもしれない。なので西堀栄三郎は、日本の南極観測事業を切り開いた人と言っても過言ではありません。

 それはともかくとして、私の中で南極教室といえば、オーロラとか、ペンギンとか、 アザラシとか、そういったものイメージしていて、そういう話がいっぱい聞けるんだろうなぁと思っていたんですが、 意外なことに、そういう話より現地での体験談みたいなのが多かった。

 例えば、アザラシの生態調査をする観測班がいたので、それを土屋達郎氏がサポートすることが多かったのでアザラシの話がありました。アザラシを捕まえる時のエピソードとか、おとなしいアザラシの横で添い寝する時の画像とか、アザラシがどこから出てくるとか、アザラシに噛まれるとどうなるかとか、そんな話が多かった。


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(氷河が、海に落ちようとしている光景がよくわかる写真)

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 話を戻します。土屋達郎氏の南極教室で印象的だったのは、
『南極は地球を覗く窓』
という視点です。


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 南極を調べることによって、地球が見えてくるんです。これに私が食いつきました。色々質問してくると、その答えに対するヒントが土屋達郎氏の口から色々と出てきて、菅沼悠介先生の
『地磁気逆転と「チバニアン」』
を読むといいと言われ、本を貸してもらいました。この本はブルーバックスなので専門的な難しいことがいっぱい書いてあるのかなと思ってたんですが、その先入観に反して書いてある内容は分かりやすかった。


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 著者の菅沼悠介先生というのは、土屋達郎氏がよく知っている国立極地研究所の人で、第四紀地質学、古地磁気学、岩石磁気学などが専門らしいのですが、その人が書いた『地磁気逆転と「チバニアン」』 に感動。そこにはハリウッドで映画化されてもいいくらいのすごいエピソードが書いてある。

 チバニアンとは地球の歴史上の一つの時代(これを「地質年代」という)についた新しい名称で、チバニアンの認定を巡っては、次々に立ちはだかった障害がありましたが、それをはねのけて、正式に認定され、国際学会が発表する最新の地質年代表にも「Chibanian(チバニアン)」の名前が追加された。その時のエピソードが『地磁気逆転と「チバニアン」』に書いてありました。

 その本を読んでいる間、眠れませんでした。最後にはベッドの上で正座して読んでいました。最後の1ページを読み終えると久しぶりに腕がガクガクと震えた。ふつうブルーバックス(新書)と言う科学的な本を読んでこれほど感動することはあまりない。しかし、今回は感動した。

 どうして火星には空気がないのかとか、どうして金星には生物が住めないのかとか?という疑問がいっぺんで分かってしまった。そして、それを調べるためになぜ南極を調べなければいけないかとか、 いろんなところがつながってくる。おまけに 地学の教科書を書き換えるような大事件に発展してしまう感動的なエピソードがラストにある。

 本の中身を少しだけ紹介すると、 地球には磁場があります。この磁場のおかげで、太陽から吹き荒れる太陽風をブロックしているわけですが、火星や金星には磁場がありません。そのためにモロに太陽風の影響を受けて、空気や水を宇宙空間に放出しまうわけです。

 幸運なことに地球には磁場があった。どうして地球に磁場ができたかと言うと、地球の核に鉄を含む金属が固体または液体状となって対流している。その対流によって、磁場が起きるんですが、火星にはそれがない。だから大昔の火星には水もあったし空気もあったし氷や川もあった。それが太陽風によってなくなってしまったわけです。

 逆に言うと地球は、対流があったために磁場ができて水も空気も保存された。その代わりに大陸が移動したりした。プレートテクトニクスの現象が起きた。そして磁場の関係で太陽風がブロックされて南極や北極に集まってくる。それが地球の大気とぶつかり合ってオーロラもできたりする。こういうことを研究するために、南極で調査してる人たちもいる。つまり土屋達郎氏 のいう
『南極は地球を覗く窓』
というのは、こういうことを言うわけです。

つづく。

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posted by マネージャー at 08:47| Comment(3) | 長野県&長野市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月01日

元南極探検隊員の『ふふはり亭』に泊まってきた【2】

 実は嬬恋村は、南極と深い関わりのある場所なんです。南極の第1次越冬隊の隊長である西堀さんは、鹿沢温泉の紅葉館に泊まって雪山賛歌を作詞しました。その雪山賛歌は、鹿沢温泉にメロディーラインとして残っています。そのせいか、最近は湯の丸山で南極越冬隊の訓練が行われてたりします。

 まあそんなことはどうでもいいとして、私は、南極から帰ってきた土屋達郎氏のペンション『ふふはり亭』に泊まったわけですが、その続きを述べたいと思います。

 食事が終わってから、一緒に泊まっているお客さんとも仲良くなって、お酒も程よく回っていい感じになってきた時に、宿のマネージャーから
「南極教室はいかがですか?」
と言ってきました。私は待ってましたとリクエストしました。好奇心の強い、うちの息子も興味津々です。というのも去年のクリスマスプレゼントでもらった「しゃべる地球儀」で南極のことを色々と調べていたからです。コンピュータ入りの地球儀のやつは、 南極の人口や気象などいろいろ教えてくれます。

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  というわけでスクリーンが登場し、パソコンの画面を白いスクリーンに映写して南極教室が始まりました。どんな講義が聴けるんだろうかとワクワクして見ていたんですが、最初は難しい話を全くせずに、南極の昭和基地の内部の写真を次々と見せてくれました。キッチンとか、食料倉庫とか、床屋さんとか、娯楽室とか、仕事部屋とか、ボイラー室とか、発電装置のある部屋とか、物置とか、プライベートルームとか、昭和基地の中のあらゆる場所の写真を見せてくれました。非常に興味深かったです。

 面白かったのは、隊員たちの大半がスキンヘッドであることです。おしゃれすることもないし、めんどくさいからといって、最終的にみんなスキンヘッドになってしまうらしいです。もちろん女性隊員もいるんですが、圧倒的に数が少ない。

 あと、当然のことながら、南極に床屋さんはいません。皆さんがお互いに髪の毛をカットし合うんですが、 素人が髪の毛を切るわけですから、どういう風な感じになるか、おおよそ見当がつきますね。 それやこれやで、スキンヘッドになってしまう人が続出しているみたいです。


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 そうそう、南極に行く人たちには、2種類の人たちがいます。夏の間だけ南極に滞在する人たちと、冬も含めて1年間にわたって南極に住みつく人たちです。土屋達郎氏は、1年以上南極に滞在するグループの一人で、この人たちを越冬隊と言います。

 この越冬隊には、観測部門と設営部門の二つの部門があります。越冬隊の使命は、南極の自然を観察することなんですが、その観測隊を支援するために存在してるのが設営部門です。で、観測部門のメンバーが14人。この14人の生存を確保するメンバーが18人になります。

 つまり18人いなければ、観測隊員の生命を維持することができない。例えば、医者がいないと1年間にわたって南極で健康を維持することができませんし、 料理を作る人がいなくても同じことです。もちろんゴミ処理をする人がいなければ、ゴミも出してません。暖房を維持する人も必要ですし、建物が壊れた時に修繕する人も必要です。電気を継続的に作り出す人も必要ですし、暖房装置などのメンテナンスをする人も必要です。 この他に雪上車とか、様々の車両をメンテナンスする必要もあります。そうなると莫大な数の設営部門が必要ですが、そうも言ってられないので、絞りに絞って18名の設営部隊が選抜されているわけです。

 その中の一人が土屋達郎氏で、彼は野外観測支援と言う設営部門です。これは、野外観測をする人たちの生命を保護するための役目で、要するに自然ガイドです。彼がいなければ、南極で自然観測をする有名な科学者たちの命が危険にさらされるわけです。


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 まあそんなことはどうでもいいとして、面白かったのは、この設営部隊のお話です。設営部隊にはいろんな人たちがいるんですが、その中でも一番面白いのが、調理部隊の人たちの話です。調理部隊の人達は、二人います。二人で交代交代で仕事をするわけですが、この二人のペアが仲が悪かったら仕事にならない。なので非常に気を使うわけです。だから二人のシェフは、大抵同じタイプの料理家にするそうです。

 例えばイタリアンのシェフが二人とか、フレンチのシェフが二人とか、和食のシェフが二人とか。もちろんイタリアンのシェフが一人とフレンチのシェフが一人ということもありますが、和食のシェフと洋食のシェフが一緒になることはないそうです。包丁の使い方とか、まな板の使い方とか、盛り付けの方法なんかで、喧嘩になるからだそうです。料理に対する哲学が違うので、両者は相容れないそうで、一年間の間に喧嘩が絶えずにギスギスするそうです。

 何か面白いですね。こういう話は、実際に南極で1年間暮らした人 からでないと聞くことができないエピソードです。それだけに、 リアルで迫力のある話です。私も宿屋を始める前にいろんなところの飲食店で働いたことがありますが、その経験からしても、さもありなんと思いました。

 もう一つ言うと、飲食店に働いたことのある人間と、全く未経験の人間が一緒にペンションの仕事をするとやはりトラブルが起きます。ソースは私と、北軽井沢のペンション『すこやか』のオーナー夫妻です。うちの嫁さんは、厨房で働いたことが無いので、そのしきたりが分からない。料理界のことがわからないので、経験者である私とトラブルになったりもしました。ようするに料理の世界には、独特のルールがあって、ひとつの世界を構成しているのです。これがトラブルを招く原因になったりする。


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 もっと面白い話があります。調理部門に唯一、和食でもなくフレンチでもなく中華でもなくイタリアンでもない調理人がいました。 なんと家庭の主婦(40歳代の人)が調理師として参戦した事があった。その人は、 南極から戻った後に『かあちゃん調理隊員になる』という本を出してベストセラーになっている。

 この本が非常にも白い。 飲食店に働いたことのある人間と、全く未経験の人間が一緒にペンションの仕事をしてトラブルが起きたペンションオーナー夫妻にとっては非常に面白い。

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で、 それが評判となって、それに目を付けたコンビニのローソンが、
『悪魔のおにぎり』
として販売を始めました。いつか北軽井沢のローソンに行って、悪魔のおにぎりを食べてみたいと思っています。いや、もうすでに食べているのかも? そんないわれのある御握りとも知らずして・・・。



つづく。

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2020年11月29日

元南極探検隊員の『ふふはり亭』に泊まってきた【1】

 宿を休館して、友人がやっているペンションに遊びに行きました。


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 ふふはり亭というペンションなのですが、そこのオーナーは、 昔うちの宿を手伝っていたこともある人で、元嬬恋村住民です。元々は気象庁に勤めていたんですが、ヘリコプターのパイロットになりたいという夢があったために、潜水夫になってお金を貯めたり、佐川急便で働いてお金を貯めたりして、アメリカでヘリのパイロットの免許を取りました。

 その後、福島県の航空関係の会社で働いたりしたんですが、その会社が潰れてしまって、一時期北軽井沢ブルーベリーYGHを手伝っていたこともありました。嬬恋村のシャクナゲ園に大量のシャクナゲを寄付した酒井さんの所でも働いたこともあります。

 その後は、北軽井沢のスイートグラスで働いたり、ヘリコプターのパイロットとして草津温泉にある航空会社に勤めていたこともあったんですが、その会社も倒産してしまって、いくつかの自然ガイド会社で働いたりしました。東北大震災では、ボランティアに駆けつけて今の奥さんと出会っています。

 それはともかくとして、彼の夢は、エベレスト山に登ることだったんですが、資金面とかで断念。南極探検なら給料をもらえて、南極の大自然を堪能できるということで、1年ちょっと南極の昭和基地で自然ガイドとして働いていました。


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  その彼が南極から帰国した時に、宿をやりたいと相談に来たので、銀行からのお金の借り方や、保健所とか消防とか設備関係の諸々のことをなど、いろいろなノウハウを伝授したりして、いろいろ支援してきたのですが、なんとか宿が立ち上がって、今、多くのお客さんを集客しているとのことなので、ちょっと遊びに行ってきました。

 もちろんユースホステルへの申請の仕方も伝授したのですが、ユースホステル協会本部の◆◆さんが 、見学に来るという話だったんですが、なしのつぶてで、 放置されたままになっています。なんかもったいない話ですね。 今時新規のユースホステルになってくれる宿があるというのは、珍しいんですけれどね。しかも南極探検隊がオープンした宿ということで、その業界の関係者(各界の有名人やエリートたち)が押し寄せるディープな宿なんですけれどね。もったいないなあ。今のところペンションとして活動しています。そのペンションの名前は『ふふはり亭』です。

 ふふはり亭。

 外観こそは古い感じがしますが、この宿は、バイオリニストの高嶋ちさ子さんや、 cwニコルさんなどが訪れていた知る人ぞ知るペンションで、それを受け継いだのが、南極探検隊帰りの土屋達郎氏です。

 彼は持ち前の器用さによって、由緒ある(つまり古い建物)ペンションを、見事にリフォームしてしまいました。内装は、かなりいい感じです。外観に関しては、これから少しずつ手直ししていくそうなんですが、 近いうちに素晴らしい建物として蘇ることでしょう。

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 とりあえず写真を見てください。
 非常にいい感じの内装です。
 まるで新築!

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  部屋は六つあるんですが、現在は二部屋しか解放してないようです。土屋達郎氏は、環境省で週5日勤務で働いていたりするので、奥さん一人で食事を作る関係上、二部屋以上のお客さんを入れることができないのだそうです。 食事は、奥さんの愛情ある手料理で、手まのかかる丹念な料理。うちの息子もペロリと平らげました。

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 その後は、お茶会。
 そして本番の南極の話がはじまります。
 これが面白かった。
 これについては、明日、書きます。

 しばらくは、ペンション『ふふはり亭』のことと、南極の話をブログに書きたいと思います。南極・オーロラ・地場・地球物理学・千葉・地球・野尻湖・人類学・cwニコルさんの話。いろいろ話したいことがいっぱいあるので、数回にわたって面白い話を紹介します。嬬恋村の人にも参考になることがたくさんあると思います。



つづく。

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posted by マネージャー at 23:18| Comment(0) | 長野県&長野市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月20日

茶臼山動物園 その2

 シマウマは、馬ではなくロバです。

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 カモシカは鹿ではありません。牛の仲間です。
 コンドルは、ワシ・タカの仲間ではなくコウノトリの仲間。
 さらに言うと蜘蛛は、昆虫ではなくて動物です。
 だから動物園にいても不思議はないんですが、どこの動物園にもいません。

 そんなことは、どうでもいいとして、シマウマは、ヌーたちと一緒に暮らし青い草を求めて移動します。見かけとちがって凶暴で、ライオンを蹴り殺すこともあります。もちろん人間にも慣れず、ペットや家畜にもなりません。子どもの頃から大切に育てても、年をとるにつれて気性が荒くなり、手がつけられなくなってしまい、まったくもって言うことを聞かない。 この動物園では、おとなしそうに草を食べていますが、全く大人しくない。絶対に人間の言うことを聞かないので有名な動物です。人間の指示など絶対にきかない。



 むしろロディオに向いている。
 そのくせ、本気を出したら足が速く時速60kmで走る。
 競馬馬なみに早い。地上最速のロバです。

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 上の写真は、シロオリックスです。野生では絶滅した動物です。まあ、朱鷺みたいなものです。オリックスバファローズという球団がありますが、あれはオリックスとバッファローという意味ではなくて、オリックスという会社が、近鉄バファローズという球団を買い取ってできたので、この動物とは何の関係もありません。あくまでもバファローズです。そもそもオリックスという会社の社名の由来も、その動物とは何の関係もありません。

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 これは、カモシカの行動展示。単なる崖にネットを貼って、カモシカを放し飼いにしているだけなんですが、これは良いアイデア。カモシカに檻は必要ありません。それより建物が建たないような崖に放し飼いする方が、カモシカにとって住みやすいからです。空き地の有効利用ですね。

 ちなみにニホンカモシカは、特別天然記念物。パンダに負けないくらい珍しい動物でしたが、戦前においては、繁殖も成功例はなく、動物園もサジをなげている状態でした。しかし、第二次大戦のために全国各地の動物園は、動物たちを失ってしまい、もう一度、動物を収集することになると、にわかにニホンカモシカが注目されました。ニホンカモシカは欧米の動物園ではとても珍重される動物で、入手を希望する国が多いことから、多くの貴重な動物を手に入れる可能性がでてきたからです。そういう意味でカモシカは、日本の動物園を救ってくれた救世主みたいなものです。


 これはタンチョウ鶴。

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 江戸時代の日本人は、野鳥を日常的に食べていたんですが、その中でも最も高価だったのがタンチョウヅルの味噌漬けです。これが1番高くて、かなりの大金持ちでないと食べられなかったそうです。逆に1番安かったのが朱鷺だったようで、肉が真っ赤なためにだれも食べるものがいなくて、どうしても食べるときは夜中でないと、食べられなかったそうです。私は子供の頃は、朱鷺の肉を食べたことがある老人が、まだ佐渡島にも生きていました。

 それはともかくとして、このタンチョウ鶴を捕まえるのにはかなり苦労したはずです。
 というのも、タンチョウ鶴は強いんです。
 オジロワシと戦えば圧倒的にタンチョウヅルの方が強い。
 オジロワシが殺されてしまう。

 釧路の鶴おばさんから聞いた話では、タンチョウヅルとどたかった人が何人か釧路にいるんですが、みんな肋骨を5〜6本折られているとのこと。鶴がパニックになって、人間に対して攻撃してきたら、死を恐れなければいけないらしいのです。

 そう考えると、鶴の恩返しの話は、妥当性があります。もし鶴を捕まえようとするならば、罠でなければ捕まりませんよね。逆に言うと、罠にはまった鶴を助けるのも命がけだったかもしれません。


 これはオランウータン。

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 腕力の強いことで有名で、チンパンジーやゴリラのように群れを作りません。
 逆に言えば、喧嘩をしない猿でもあります。

 昔、猿の惑星という映画があって、その映画ではゴリラが1番野蛮で暴力的に描かれており、オランウータンが知的な学者風に描かれており、チンパンジーが心優しく平和主義的にはイメージで描かれていましたが、実は1番凶暴なのがチンパンジー。仲間同士殺しあったりもするし、狩りもするので、ほぼ猛獣と言っていいです。人間の遺伝子と最も近いのが、このチンパンジー。 1番凶暴な類人猿が、いちばん人間に近い。

 猿の惑星の原作者は、1943年に日本軍の捕虜となる。翌1944年に捕虜収容所を脱走し、イギリス軍の水上機で脱出。その時の体験をヒントに、猿の惑星を描いたらしい。それを前提にあの映画を見ると、彼ら(差別的な白人)の感情がよくわかります。



 第二次大戦前までは、彼らは私たちを猿だと思ってたわけです。で、そんな彼らはチンパンジーにシンパシーを感じている。ゴリラを野蛮。オランウータンをずる賢いと思っている。もういちどリメイク版でない『猿の惑星』を見ると、彼らの差別意識がみえてきます。


アフリカタテガミヤマアラシ。
アニメ『けものフレンズ』で大人気となりましたね。

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アニメ『けものフレンズ』で、どこの動物園でも大人気の動物ですが、
動物園によっては擬人化を嫌う人たちがいます。
ピッキオなどの自然ガイド団体などは、擬人化を非常に嫌う。

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私は擬人化はありだと思っています。
いくら理想論を言ってみたところで、まず動物に子供たちが
「ふれあいたい」
という気持ちが起きない限り、始まらないからです。
だからアニメ『けものフレンズ』は大歓迎です。
しかし茶臼山動物園では、擬人化を否定的に捉えているようで、
ここには『けものフレンズ』がありませんでした。

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この動物園の最大の見物は、このレッサーパンダ。行動展示が素晴らしくて、目の前をちょろちょろとレッサーパンダたちが歩いています。このように至近距離で写真が撮れるのが嬉しいですね。これぞ行動展示の見本と言う感じです。

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 ここレッサーパンダはイタチの仲間で、ジャイアントパンダと同じようにタケを食べます。もちろん小鳥などの小動物も食べることがあります。このレッサーパンダは、全世界で飼育されているレッサーパンダの約1/3が日本にいます。つまりカモシカと同じように、日本の動物にとって有力な武器となり得る動物です。息子が1番喜んでいたのが、このレッサーパンダの行動展示でした。

 1時間という短い時間でしたが、息子による解説してあげたら、どうやら動物に興味を持ったらしく、図書館に行ったら動物図鑑ばかり借りてくるようになりました。それまでは、すぐに終わるような絵本の読み聞かせを寝る前にしてあげてなのですが、動物図鑑では、簡単に読み聞かせは終わらないために、しばらくのあいだ間は大変でした。毎晩動物ネタを語らなければいけなかったからです。


つづく。

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posted by マネージャー at 16:04| Comment(0) | 長野県&長野市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月19日

茶臼山動物園 その1

 少子化とは、兄弟の少ない家庭のことだと思っていました。しかし息子が産まれて、こども園に入園させてみると、そうではなかったことに気がつきます。若いお父さんお母さんの所では、 3人兄弟4人兄弟が当たり前のように存在しています。従って、以前に PTA会長をやってた人が、再び就任してしまうということがよくあります。 PTAとか、子供会とか、その他の地域の役員とか、連絡網の班長とか、スクールバスの係員とか、親になるといろんな仕事が出てくるんですが、以前やっていようが、そうでなかろうが、いろんな仕事が押し寄せてきます。その点、ありがたいことにうちの場合は、外部から移住してきた、よそ者なので、そういうめんどくさいことから逃げやすくなっています。とはいうものの、最小限の仕事はしてないと、他にどんな仕事が来るかわかったものではないので、保険の意味も兼ねてPTA役員だけしています。

 で、こども園の遠足をどこにするかPTAで決めたわけですが、昨年度と同じ場所に決まってしまいました。晴れなら茶臼山恐竜公園・雨なら群馬サファリパーク。で、青ざめたのが嫁さんです。同じ場所に行くなら行きたくないわけです。去年は雨だったので群馬サファリパークに遠足に行ったわけですが、嫁さんは、群馬サファリパークに何度も遊びに行っているので、あまり気が進まない。それならば、私が行ったことがないので、息子の遠足に父親の私がついて行こうということになりました。

 実は私は、子供の頃から動物博士でした。今風に言えば、動物オタクです。小さい頃、小学校にある動物関係の本は全部読破。動物図鑑も全て記憶し、300種類以上の動物の生態を解説することができてました。 東京にいた頃は、毎週上野動物園に通っていたこともありました。スカパーに加入し、アニマルプラネット、ナショナル ジオグラフィック、ディスカバリーチャンネルなどをかたっぱしから録画して見まくるのはもちろんのこと、動物系テレビ番組の大半は録画保存し、それを見るのを楽しみというか、生きがいにしています。なので宿オープンしたときは、この特技を生かして、自然ガイドやネーチャーウォッチングをおこない、大勢のお客さんを集客しています。息子が生まれた時は犬を飼うことにより両者を比較して、その成長記録と比較をこのブログにアップし続けたりもしました。

 なので、雨になって群馬サファリパークにならないかなあ・・・とたのしみにしていたものです。で、結果は晴天。晴れなら茶臼山恐竜公園。一挙にテンションが落ちたんですが、ネットで茶臼山恐竜公園を調べてみたら、茶臼山恐竜公園のそばには、茶臼山動物園があって、それも見学できるというではないですか。
「こいつはいい」
思い直した私は、大急ぎで弁当作って息子と一緒に出発。

 幼稚園から観光バスに乗って 2時間ほどかけて茶臼山恐竜公園に到着。動物園を見学する時間は、たったの1時間しかありません。本当ならば、 6時間ぐらいじっくり見ながら、息子に動物に関する解説をしたかったのですが、団体行動の遠足なのでそこは仕方ありません。まず到着すると、最初にライオンに向かいました。

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 雄ライオンの『キュウゾウ』が眠っていました。ここで動物園の解説を息子に行います。実は動物園で動物を見るポイントがあります。動物の檻です。写真をみてわかるように、ライオンの檻は、たいして頑丈に作られていません。これはラインの握力が弱いからです。それに対してオランウータンの檻を見てみると、ものすごい頑丈に作られています。

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 このぐらい頑丈でないと、オランウータンは、やすやすと檻を破って逃げ出してしまいます。チンパンジーの檻もそうです。非常に頑丈な鉄格子でできています。しかもよく見ると鉄格子のペンキが剥げていますが、これはチンパンジーがオランウータンが強い圧力で握ったためにできた禿げあとなんですね。

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 トラの檻も、たいして頑丈ではありません。このように動物によって、展示環境が違っていますので、その違いによって動物の生態を知ることができるのが、動物園の面白いところです。

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 逆に言うと、動物たちの展示の仕方によって、動物園の考え方があります。この茶臼山動物園は、旭山動物園の影響を受けているのか、行動展示で私たちをたのしませてくれます。行動展示とは、動物の生態や能力を自然に誘発させて見せるように工夫した展示のことで、その代表例が、ジェフロイクモザルであり、レッサーパンダの展示です。

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 ジェフロイクモザルの長いしっぽで有名ですが、このサルのシッポは、物を持ったり、木にぶらさがったりすることのでき、ほとんど手を使うのと同じように器用にシッポをつかえます。これをジェフロイクモザルの「第五の手」というのですが、行動展示にぴったりの動物なんですね。で、器用にシッポを使ってくれるんです。この動物園では。なにしろ頭がいいサルなので、声をかけると芸をみせてくれたりします。逆に言うと大人になるまで時間のかかるサルです。

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 このジェフロイクモザルの檻にきたとき、旭山動物園のカピバラ・クモザル事故を思い出しました。旭山動物園では、カピバラとクモザルを一緒に飼っていたというか、これを異種動物の混合展示と言います。

 カピバラは、水辺に生息する動物で、クモザルは木の上で生息し滅多に降りてこないサルです。同一の檻で共存できるはずだったのですが、 頭のいいクモザルが、ロープにぶら下がりカピバラにちょっかいを出したりするようになり、カピバラの餌(牧草)を横取りするようになり、それがカピバラにストレスを与えてクモザルを攻撃して死なせるという事件が、旭山動物園でおこり、当時大ニュースになりました。

 旭山動物園が偉かったのは、このような事件を全く隠さず、全て公表した上で、その後もカピバラ・クモザルの異種動物の混合展示を続けたことです。もともとカピバラは、大人しい動物で、クモザルがどんなにチョッカイだしても、じーっとしているか、静かに移動するかのどちらかで、よほど不運な出会い頭があったのでしょう。当時は、客の投げ与えた食物をカピバラとクモザルが奪い合って起きた事故ではないかとも言われていました。残念ながら茶臼山動物園では、カピバラ・クモザルの異種動物の混合展示をしてませんでした。この動物園は、少し攻めが足りないと思いましたね。

 次にキリン舎。
 ここも行動展示。
 隣にシマウマがいたりします。

 この動物園のすごいところは、キリンの運動場が大きいことです。写真を見ればありますがキリンの家も素晴らしい。屋根近くに風通しの良い窓があり、そこが開いていますね。キリンのことをよく考えて作られています。寝るときは、立ったまま寝るので、キリンの家は背丈が高いだけで横幅はありません。これだけ首が長いのに首の骨は人間と同じ七つであることは有名です。

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 また、らくだのように何ヶ月も水を飲まなくても生きていられるために、キリン舎には派手な水飲み場もありません。また、牛のように長時間反芻活動を行います。鳴き声もウシと同じように「モー」と鳴くらしいのですが、私は聞いたことがありません。ちなみにキリンはエサ代がかかる動物です。ライオンなんかの方が、かかりそうな気もしますが、ライオンだと猟友会が害獣駆除でしとめた鹿が寄贈されたりするので、そういうルートがある動物園だと案外かかってないのですね。

 そう言えば、キリンは、小鳥なんかの小動物を食べるらしい。自然界ではウサギやネズミなどの小型草食動物を捕食するそうです。『キリン ぼくはおちゃめなちびっ子キリン(徳江和代)』によると、多摩動物公園のキリンたちがトンカツや鳩を食べるので、高タンパクの飼料に切り替えると、めったに肉食しなくなったという。同書には、当時話題をまいた鳩をくわえた写真や、鳩の背後で舌を伸ばす写真が掲載されているらしい。 学研の動物図鑑の古い版には鳩を食べるキリンの写真が掲載されています。



 では、キリンは何を食べるかというと、これがよく分かってないのですね。アフリカではアカシアなどのマメ科植物の木の葉を食べているんですが、トゲだらけで指に刺さると、とても痛いのに、それをペロリとたべてしまう。しかも大量のタンニンが含まれていて、苦くて食べられたものじゃないのに美味しそうに食べてしまう。他の食べやすそうな木をそばにおいても食べに行く。驚くべきは、松ヤニだらけのアカマツで、これもキリンの大好物。これを食べられる動物は、キリンぐらいしかないかもしれません。とにかく悪舌なのがキリン。不思議なくらい悪舌なんですよ。もっと驚くのがサボテンです。あのトゲトゲだらけのサボテンをキリンは大好物にしている。私は、そんなキリンが大好きで、一日中みていても厭きないです。しかし、今日は団体行動の遠足の日。一時間で動物園を見終わらないといけない。



つづく。

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2015年08月14日

山田温泉と雷滝ハイキング

にわか雨はあったらしても、今年の夏は、連続1ヶ月くらいの晴天続きでしたが、間が悪いことに13日になって、はじめて1日中雨になりました。とうぜんのことながらハイキングツアーは中止、かわって温泉ツアーに変更。どうせ雨なので、滝しぶきの凄い、スペシャルな巨大滝を見に行くことになりました。

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雷滝です。

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そして山田温泉。

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つづく。

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2014年08月17日

松川渓谷温泉滝の湯

松川渓谷温泉滝の湯

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〒 382-0815 長野県上高井郡高山村奥山田3681-377
電話 026-242-2212
営業時間 10:00〜17:30 定休日 不定休


つづく。

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2014年08月16日

松川渓谷ハイキング

松川渓谷ハイキングです。
滝が凄いですね。

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2014年01月12日

霊泉寺温泉ツアー

私は、北アルプスの山をよく縦走しますが、その理由は近いからです。近道をつかえば、順調なら北軽井沢から松本まで90分で到着します。で、その近道の途中に霊泉寺温泉の看板があります。一度、行ってみたいとおもいつつ、まだ行ったことがありません。今回は、そこに土井君がツアーをだしたわけです。

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渋いですね。
超ひなびていますね。
まあ、看板の状態からして鄙びているとはおもっていましたけれど。

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これが共同浴場。
200円という安さ。

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この渋さには、ちょっと惹かれるものがありますね。





つづく。

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2013年09月26日

松代温泉ツアー

台風の中のツアー

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すごい。
千曲川が決壊寸前。

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そして松代温泉。

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2012年09月23日

今週は、雨だったので栗を食べに行きました

今週は、雨だったのでハイキングは中止。
御客さんの大半が女性だったこともあり、
グルメツアーに変更。
とりあえず栗を食べに行きました。

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2011年11月15日

竹風堂 松代店

竹風堂 松代店

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ええええええええええええええ?
松代に竹風堂があったの?
知らなかった。
どうせなら軽井沢にも出店すればいいのに。
しかし、軽井沢なんぞに出店したら、小布施まで食べに行かなくなるよな。
せめて海野宿とまりだな。

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なんか良いですねえ。
こういう時の酒がうまいんだな、これが。

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まあ、私らは夫婦2人で、いつでも出かけてられるんだけれど、
こうして大勢で飲む酒の方が美味かったりするだよね。
ある意味、うらやましい。

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さて、竹風堂のメニューを紹介!

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2011年11月14日

松代散策

シルマンウォーク松代散策の続きです。
この街は、佐久間象山を売ってますねえ

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なんとも素敵な街です

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ラベル:松代散策
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松代大本営跡(象山地下壕)

 第ニ次世界大戦末期、軍部が本土決戦最後の拠点として極秘の内に大本営、政府機関等を松代に移すという計画の内に舞鶴山、皆神山、象山の地下に地下壕を掘削しました。その一つが松代大本営跡(象山地下壕)です。今回のシルマンウォークは、ここを散策。


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 象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。
 皆神山地下壕に備蓄庫。
 舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転することになりました。
 3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。

 1944年11月11日に工事が開始。
 1945年8月15日のときは、75%が完成していました。

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 それにしても、無駄なものを作ったものです。
 万里の長城クラスの無駄な事業ですね。


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 なぜ、こんなもの(松代大本営)を作ったのか?
 そもそも昭和天皇は、はなっから疎開する気は無かったのに。

 こういうものを作る労力があったら、マリアナ諸島に地下要塞を作るべきであった。そこで米軍の死傷率が5倍くらいに上がっていたら、そこで終戦も不可能でなかった。多くの軍艦と陸軍を残しての敗戦なら、講和条件も過酷ではなかったはず。もっとも、それでは軍部が黙ってなかったかもしれませんが。

 戦艦大和の沖縄特攻にしても、どうしてあんな無駄なことをしたのか? 他の戦艦・空母・その他の軍艦も、どうして北海道や朝鮮に疎開させなかったのか? そこに疎開させていれば、ソ連の参戦の抑止力になったし、退避運動で貴重な重油を失わなかったし、米軍に撃沈されることもなく、米艦隊の日本本土への艦砲射撃をうけることもなかった。

 まあ、そんなことはいい。
 硫黄島の栗林中将は、掘削機を50台要求したけれど、
 大本営は、送り届けなかった。
 松代大本営を作るくらいなら、どうして硫黄島に掘削機を50台やくらなかったのか?

 ポツダム宣言の要求が、やわらかい内容になった理由は、栗林中将の硫黄島の善戦にあったといわれています。松代大本営を作る資材を硫黄島に送っていたら、沖縄決戦は無かったかもしれない。現にミニッツもマッカーサーも、真珠湾攻撃が無かったら、太平洋戦争は硫黄島の戦いで終わっていたと言っています。


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 敗戦直後のことです。
 満州国の高級官僚は、こう言って嘆いたと言います。

「日本軍は、最後まで戦争というものを知らなかった。そもそも戦争というものは、談判の手助けにすぎない。ところが日本軍は、決闘だと思いこんでいた。だから決闘なら世界一強かったけれど、戦争はからっきし下手くそだった。あの軍隊が無くなるとは、実に惜しいことだ」

 満州国の高級官僚(中国人)は、日本軍が戦争に弱いと言っているわけですが、戦闘には強かったと言っている。そして日本軍が消滅することを嘆き悲しんでいる。そして、その満州国の高級官僚(中国人)たちは、こうも言っています。

「日清戦争の時、日本軍は農家に宿営しても、自分たちは庭にテントをはり農家に迷惑をかけなかった。出て行くときは、庭を箒ではいて出て行った。清国軍とは大違いであった。日露戦争の時も立派であった。戦争をわかってなかったために敗戦となったことは実に残念だ・・・」

 この満州国の高級官僚(中国人)の嘆きが分かる場所があります。松代大本営跡(象山地下壕)です。そもそも、こんなものを作る意味がなかった。戦略論を書いたクラウゼッツは、
「戦争とは政治の延長である」
と言ってますが、これは満州国の高級官僚(中国人)の
「そもそも戦争というものは、談判の手助けにすぎない」
と同じです。


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2011年11月13日

松代の城下町散策

松代の城下町散策です。

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・松代藩文武学校

 松代藩が設けた文武併習の学校として1855年・安政2年に開講。
 藩校を完全な形で現在に伝えています。

 ここでは、文学や武術のほか、西洋の軍学なども教えられており、極めて先進的な教育が行われていました。また、儒教を廃しており、そのため、多くの藩校にみられるような孔子廟を設けていないのも特徴です。儒教色が少なく、実利一本なのが真田らしいですね。

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関山仙太夫邸

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 真田藩士でありながら、囲碁の本因坊烈元に入門し、18歳で初段を許されました。しかし藩中の者から「碁才餘りあるも武道に疎し。是れ武士の本旨にあらず」言われ、一念発起して文武に励み、念流免許皆伝を受けて、再度本因坊家にて囲碁の修行に戻ったと言われます。

 文政時代に江戸在住となり、天保2年(1831年)に江戸詰めを解かれて帰郷するに際して、名人となったばかりの本因坊丈和に二子局を願い、これに1目勝ちします。この時に関山仙太夫は、本因坊家に五段の免許を願い出ましたが、初段から一挙に五段まで飛び越えるのは無理な話だ―と名人碁所本因坊丈和に断わられました。とは言うものの実力はあるので三段免許をあたえ折りを見ながら昇段させようと仙太夫を説得しました。
 けれど仙太夫は「三段免許ならばいらぬ」と断わりました。以来、仙太夫は生涯初段で通しましたが、本因坊家では五段格で打つことを黙って許しました。これは史実であったらしく、天保10年(1839年)の囲碁番付『囲碁勝劣競』では、仙太夫は、丈策の次に初段で五番目にランクされています。仙太夫のあとは、四段加藤正徹、同伊藤徳兵衛、同中川順節、同河北耕之助、同穂田熈と続きます。この番付表によると仙太夫は六段の次で、四段の前の位置に初段として記入してあります。しかも番付行事後に名人本因坊丈和、準名人井上因碩の名があり、仙太夫の五段格は本因坊家も井上家も認めており「黙許五段」は事実であったことになります。


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 嘉永4年(1851年)68歳の時、本因坊家跡目となっていた秀策との対局を望む手紙を本因坊秀和に送ります。秀和はこれを認めて秀策を松代に赴かせ、20日間で仙太夫先番での二十番碁を打ち、仙太夫7勝13敗。秀策は仙太夫の力量を賞賛し「妙碁と称すべきもの二局あり」と述べています。安政3年(1856年)には、本因坊秀甫と十番碁を打ち、1勝8敗1ジゴ。藩では祐筆を勤め、囲碁に関する著作も多く、『聖賢囲碁妙手集』『竹林修行用魂集』『囲碁方位初心階』『囲碁初心調練階』などを遺しており、貴重な文献となっています。


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2011年11月12日

松代城散策

今回のシルマンウオークは松代散策でした。

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狂い咲き

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今回のメンバー

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松代城といってもピンとこない人に説明すると、ここは真田藩の居城。
そして、ここから佐久間象山がでています。
ちなみに、その弟子が、嬬恋村の中居屋重兵衛。
硝石無しで火薬の製造に成功し、
生糸の貿易で億万の富をきずき、
井伊大老を陰で暗殺した男です。


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ちなみに松代藩は、ペリーの浦賀来航時に横浜警備を命じられています。
ただし、この時の幕府は、ペリーを見事に追い返しています。
開国もしていません。
長崎と同じモノを、下田と函館に作っただけで、貿易も開始していません。
本物の開国は、日米修好通商条約からスタートします。


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歴史の教科書では、井伊大老が日米修好通商条約を結んだことになっていますが、そもそも日米修好通商条約を進めていたのは、前政権の堀田正睦でした。
堀田正睦が岩瀬忠震(いわせただなり)を使って条約を結ばせています。
それに激怒した井伊大老は、安政の大獄をスタートさせ、嬬恋村の中居屋重兵衛が黒幕となって、桜田門外の変がおきるわけですが、中居屋重兵衛のバックに真田藩の陰があったのかもしれません。

ちなみに、どうして日米修好通商条約を結んだことに井伊大老が激怒したかと言いますと、日米修好通商条約そのものには、井伊大老も異存はなかったのです。
条約も、決して「不平等」ではなかった。
関税率は、20パーセントであったし、治外法権も横浜という狭い租界の中でのことだけであった。
幕府の関税収入は年貢収入に匹敵したとの説もあるくらいで、これによって幕府は大いに潤っています。
井伊直弼が激怒した理由は、その後に、同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだことにあり、
さらにドイツと締結しようとして、井伊直弼が激怒したことにあります。

実は、このころのドイツは、統一されて無く、百カ国の連邦国家だった。
つまり、ドイツと通商条約を結ぶと言うことは、百カ国と開国することであり、
その数に井伊大老が卒倒したというのが実情です。
かくして安政の大獄がスタートします。

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松代城と書くと、戦国時代ファンは萌えませんね。
やはり海津城(松代城)と書きたい。
そうです。
有名な川中島の決戦の舞台です。
武田信玄は、ここにたてこもり、
上杉謙信は、妻女山にたてこもりました。
おそらく、これではないでしょうか?

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まず、武田信玄が、平和の協定を破って、密かに海津城(松代城)を築きます。
怒った上杉謙信は、出陣し、妻女山に8000の兵力を置く。
武田信玄は、2万の兵力をかかえて海津城(松代城)に入場。
そして、1万2000の兵力で夜襲して、逃げてきた上杉軍を8000の本隊が襲いかかる予定でしたが、
上杉軍は裏をかいて、武田本隊を攻撃。
武田軍は、副将武田信繁・諸角虎定が戦死。
上杉軍の大将クラスには戦死者がいませんでした。


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2011年10月23日

豆腐カフェ(おとうふかふぇ五六亭)

善光寺に行ったら必ず寄りたいのが豆腐カフェ(おとうふかふぇ五六亭)
場所は、蔵の街、ぱていお大門にあります

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今は工事中

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これが店

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ランチがおすすめ

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ランチをたのむと食べ放題の手作り豆腐

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豆腐きぬごしレアチーズ

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豆乳ティラミス

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豆腐白玉パフェ

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所在地 〒380-0841長野市大門町55−3ぱてぃお大門内
営業時間 11時〜20時 (19時30分ラストオーダー)
定休日 毎月第3金曜日
お問い合わせ先 TEL : 026-233-0356 FAX : 026-233-0356

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善光寺で新蕎麦を食べてきました

雨が降ったので、浅間山はやめて、善光寺で新蕎麦を食べてきました

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善光寺で天候の厄払い?

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そば処元屋
有名な店なので知ってますよね。
大門のすぐそばにあります。

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〒380-0841 長野県長野市大字長野大門町587−3
026-232-0668

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新蕎麦、いいねえ!

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2010年06月15日

若穂太郎山ツアー

若穂太郎山 (996.9m)

 長野市街地から南東方面に見えます。地図では太郎山となっているが上田市街地にある太郎山と紛らわしいため地元では若穂太郎山とよびます。山頂の展望は北西方面だけが素晴らしく、北信五岳や千曲川、善光寺平の眺望が素晴らしいです。

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2009年04月28日

善光寺御開帳ツアー

善光寺御開帳ツアー。
なぜ、こんなツアーをやったかと言いますと、
ツアーリーダーの土井君が、前厄だからです。

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ここが善光寺。浄土宗の大本山で、浄土宗の宗祖法然上人と二祖聖光上人とが善光寺如来の夢告により、法縁を結ばれたり、浄土宗西山派の祖証空上人、三祖良忠上人、その他数多くの浄土宗系の高僧たちにより信濃に念仏の教えが広められました。


偉い人に、あたまをナデナデしてもらいました。

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後ろの棒みたいなものが、ひもで繋がってて、
これを触ることによって、御利益があるとか。
回向柱(えこうばしら)と言います。

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御開帳期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が五色の紐で結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に触れたのと同じ利益があり、来世の幸せが約束されるとされています。

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お守りの自動販売機?
古い歴史と近代文明の融合なのか....orz。

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【牛に引かれて善光寺参りの説話】

 昔、心が貧しい老婆がいました。
 ある日、軒下に布を干していると、
 どこからか牛が一頭やってきて、
 その角に布を引っかけて走り去ってしまいました。
「こら! 布を返せ!」
と怒りながら牛を追いかけていきました。
 ところが牛の逃げ足は早く、
 善光寺の金堂前まで来てしまいました。
 牛は、観音菩薩様の化身でありました。


さすがは「牛に引かれて善光寺参り」の善光寺。
善光寺境内に牛の像がある.....。

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でも、なぜ和牛でない?
どうしてホルンスタイン?
誰か説明してくれ....orz





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ちなみに、ご本尊の善光寺如来は、
日本に渡来した最初の仏さまといわれています。

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2009年04月17日

限定のコンビニシュークリーム

コンビニのシュークリームの中では、
最高に美味しかった。
でも、これは、長野県のセブンイレブンにしか売ってないとか。

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もちろん、専門店に比べれば、
あれですけれど・・・コンビニのものでは、かなり美味しい。

特にジャージー牛の
生クリームが最高!


長野県にくる人は、ちょっと食べてみてください。

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2008年04月30日

松代ツアー2

松代といえば、真田幸村で有名な真田藩の場所です。1622年(元和8年)に信濃国上田藩より真田信之が10万石で入封した後、幕末までこの地は真田家の所領でした。

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この藩はユニークな藩で、1744年(延享元年)足軽によるストライキという全国的にも極めて稀な事態となったことでも有名です。

また、幕末の奇才佐久間象山も、この藩の人間で、門下に吉田松陰などがいます。

明治維新の際は、早くから倒幕で藩論が一致し、戊辰戦争には新政府軍に参加しました。

その功績から、1871年(明治4年)廃藩置県により、松代県となり、その後、長野県に編入されました。

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松代の蕎麦



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2008年04月29日

松代ツアー

松代ツアーに行ってきました。

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2008年04月14日

湯田中温泉

湯田中温泉のある『野猿公苑』は、猿が温泉に入るところです。
ツアーが潰れたのでスタッフが見学に行ってきました。

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2008年01月22日

豆腐カフェ(おとうふかふぇ五六亭)

豆腐カフェ(おとうふかふぇ五六亭)

豆腐カフェ紹介、すげー美味かった!

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ランチ(豆腐ねぎとろ丼定食)

ねぎとろと、豆腐ソースのハーモニー。
御飯の量は少ないが、ランチをたのむと
食べ放題の手作り豆腐(極旨)がついている。

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ランチをたのむと食べ放題の手作り豆腐(極旨)

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豆腐きぬごしレアチーズ (美味)

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豆乳ティラミス400円(美味)

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豆腐白玉パフェ500円(美味)

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所在地 〒380-0841長野市大門町55−3ぱてぃお大門内
営業時間 11時〜20時 (19時30分ラストオーダー)
定休日 毎月第3金曜日
お問い合わせ先 TEL : 026-233-0356 FAX : 026-233-0356


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2008年01月21日

善光寺参りに行ってきました

善光寺参りに行ってきました

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善光寺

天台宗と浄土宗の別格本山ともなっている(日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている)。天台宗の大勧進と25院、浄土宗の大本願と14坊により運営されている。大本願はこの手の大寺院には珍しい尼寺で、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている。


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本尊は善光寺式阿弥陀三尊の元となった阿弥陀三尊像で、絶対の秘仏であり、その姿は寺の住職ですら目にすることはできない。善光寺本堂は1953年(昭和28年)3月、国宝に指定された。また、山門(三門)と経堂は重要文化財である。本堂では床下の真っ暗な通路を通り、本尊の真下にあるとされる「極楽浄土への錠前」に触れる「戒壇巡り」が体験できる。

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いったい、どんな願いが?


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